双葉社web文芸マガジン[カラフル]

探偵になんて向いてない(桜井鈴茂)

イラスト:竹田匡志

第5回

第三話

「年明け早々に、お呼び立てしちゃって、すみません」
 新年の挨拶のあとで、岩澤めぐみはそう言って、ぺこんと頭を下げた。
 彼女がメールをくれたのは年の瀬だった。おれはすぐにでも訪問するつもりだったが、年末年始は外泊許可をとって山梨の実家で過ごすことになったので年明けに、と言われたのだった。
 岩澤めぐみに会うのは三度目だ。場所はいずれもK大学医学部付属病院の婦人科病棟のデイルーム。初めて訪れた時にはデイルームの窓から見えるプラタナスに黄色の葉っぱがついていた。今はもう完全な裸木だ。季節は確実に移ろい、時は刻々と流れている。時の流れの速さを、最近はそら恐ろしくさえ感じるようになった。
「いいえ、とんでもない」とこたえた。おれはむしろ岩澤めぐみに会える口実ができて嬉しかった。そのことをそれとなく伝えたかったが、遠慮やら面映さやらがあってぐずぐずしているうちに彼女はさっそく本題に入った。
「先日のメールにも書きましたが、唐突に思い出したんです」
「ええ」とうなずき、おれも気持ちを入れ替えた。うらぶれた中年男から駆け出しの探偵に。経験はめっぽう浅く、腕っ節にも才知にも情報処理能力にもまるで自信はないが、せめて、しぶとさと相手への共感力だけでもワールドクラスの探偵に。「浅沼裕嗣の高校時代のバンド仲間のことを――」
「そうなんです、一度お会いしたことがあったんです」この日の岩澤めぐみは濃いグレーの千鳥格子のパジャマの上に薄いグレーのパーカを羽織っていた。顔色は……可もなく不可もなく、といったところだろうか。「その男性が、権藤さんが先日おっしゃっていた連絡のとれない方じゃないかと」
「その男の名前は覚えてる?」
「たしか……タクミ――浅沼から、そう紹介されたはずです。ただ、苗字が記憶になくて……もしかしたら、苗字はもとより聞かされてなかったのかもしれません」
 おれは浅沼捜しのための諸々の情報を入力したiPad miniを持ってきていた(前回の仕事で得た利益で年の暮れに購入したばかり――権藤探偵事務所も着実に進化しているのだ)。守屋拓巳もりやたくみ、浅沼の高校時代の同期生かつバンド仲間、ヴォーカルとギター、卒業後は札幌にある北海学園大学へ、現在は連絡先不明、家族もすでに函館にはいない――そのように記してある。「守屋拓巳。間違いないですね。会ったというのは、いつのこと?」
「東日本大震災の少し前だったはずです。浅沼のバンドのライヴが終わったあと、お客さんがいなくなった後のフロアで紹介されました。下北沢のライヴハウスだったと記憶しています」
「ふむ。震災の少し前、というと、2011年のはじめ、もしくは早春」
「ええ。いずれにせよ、寒い時期だったのは間違いないです……服装をなんとなく覚えているので」
「なるほど。どんな服装?」
「ベージュのコーデュロイのズボンに黒か濃紺の厚手のジャケット、というような恰好でした。首に巻いたマフラーが色鉛筆のセットみたいなカラフルな柄物で、黒縁の眼鏡をかけていました――バディ・ホリーとかエルヴィス・コステロとかがかけているような。お洒落な人だなあ、と思いました。場慣れしてる雰囲気もありました。でも、眼鏡の奥の目がそんな場慣れ感とはうらはらに少年っぽい、というか、シャイな感じだったのが印象に残っています。うろ覚えですけど……たしか、広告プランナーの仕事をしているって言ってた気がするんです」
「広告プランナー」おれは自分に言い聞かせるように言った。その単語にかすかな異物感を覚えた。「会ったのはその一度だけ?」
「ええ、一度だけです」
「その、拓巳っていう人物は、東京在住なのかな? ――当時は、ってことだけど」
「東京だと思うんですけど、そういう話をした覚えがなくて。私がそう思い込んでるだけなのかもしれない。印象で……つまり、なんていえばいいんでしょう?」
「地方在住な雰囲気はなかった」
「そうそう。もしかしたら、広告プランナーという職業とセットになってるのかもしれません」
「ああ、なるほどね。広告プランナーと東京暮らしは容易に結びつく」
「でしょう」と岩澤めぐみは言い、少し間を置いてから、申し訳なさそうに首を傾げた。「でも、これだけなんです。わたしが思い出したことは。わざわざ、権藤さんをお呼び立てするほどのことではなかったかもしれません」
「いやいや」とおれは彼女の言を否定した。「大切な情報です。現在は行方がわからない男が、九年ほど前には浅沼さんのバンドのライヴに来ていたってことだから。浅沼さんは、ほかの友人たちが知らない守屋拓巳さんの連絡先を、少なくとも当時は知っていたということになる。今も連絡を取り合っている可能性だってなくはない」
 もしや、浅沼と守屋は今もいっしょにいるのでは? ふとおれはそんなふうに思ったが、まったく根拠のない思いつきなので、口にはしなかった。おしゃべりな口を閉じて耳を澄ませろ――このあいだ読んだバードボイルド小説にもそう書いてあった。探偵が自分自身に向かって言う言葉だ。
 その後、しばし雑談したあとに、おれは暇を告げた。
 岩澤めぐみが別れ際に微笑しながら言った「寒いですから、お体にはくれぐれもお気をつけて」という、なんてことのない言葉が、胸に染みた。痛いくらいに。まるでおれの胸には癒えていない切り傷があって、そこに冷たい海水が流れ込んだみたいだった。
 昼過ぎには荒木町の住み処に戻った。
 今さらこんな話をするのもどうかと思うが、ついでだから話しておこう。そこは、おれの部屋、とは言い難い。なぜなら、家賃は我がボスのカゲヤマが会社の経費で全額を払ってくれているし、家賃のことは抜きにしても2DK=約44平米のうちの、およそ12平米くらいはカゲヤマの私物――古本、古雑誌、CD、レコード、古着、テントや折りたたみ式テーブルなどのアウトドア用品など――で占められているからだ。また、名刺に記された(というか、登記上の)権藤探偵事務所の住所もここなのだが、実際には、オフィス、とは言い難い。応接間もなければ、応接セットもなく、家具と言えば、イケアで買ったデカいだけが取り柄のデスクと、座り心地のあまり良くないチェアと、しょっちゅう抽斗が外れるキャビネット、そして無印良品の在庫品一掃セールで買った三人掛けのソファとユニットシェルフ、アマゾンで買った物入れを兼ねたローテーブルと本棚とオーディオボード、だけなのだから。テレビはない。その代わり、オーディオはすべてバラ売りで、どれも高級品とまではいかないが安物でもない。テクニクスのターンテーブルが二台ある。ミキサーもあるがクロスフェーダーが故障していて……いや、話が逸れた。つまり、探偵事務所のオフィスとは言い難い、ということがおれは言いたい。
 エレベーターが四階で止まって扉が開くと、そこには、あずき色の婦人帽子で頭部を、白い大きなマスクで鼻から下を覆った老女がいた。おれは驚いた。まあ、四階でほかの住人に会うことは少ないから、誰であればったり会うといつも少々驚いてしまうのだが、この時はかなり驚いた。
 峯ビル、と名付けられたこの雑居ビルは七階建てで、三階まではクリーニング店や歯科クリニックやデザイン会社などが入り、四階から上が住居になっている。四階にはおれのほかにあと二部屋ある。その二部屋ともに三十がらみの女性が一人で住んでいる。三十歳で十二万五千円の家賃が払えるということは、けっこうな高給取りなのだろう。もしくはワケありなのか。独身女性だけの割引家賃というのが存在するとか……そういえば、大家は八十くらいの、かくしゃくとした爺さんで、むっつりスケベに見えなくもない。しかしまあ、そんなことはいい。おれはその二人の女性の顔を知っている。片方はその恋人の顔まで知っている。何度かいっしょにいるのを見かけた。深夜に声が聞こえたこともある。声というのは、つまり、あの時の声だ。勘弁してくれよ。そう思ったが、おれは耐えた。いずれ、お互いさま、という時が来るかもしれないし……また話が逸れてる。おれが言いたいのは、四階でエレベーターの扉が開いた時、目の前にいた老女は、この雑居ビルを寝床として以来、一度たりとも見かけたことがない人間だった、ということだ。彼女らの母親が訪ねてきたとか? しかし、三十がらみの女性の母親にしては、ちょっと歳が行き過ぎている気がする。それに、こう言っちゃ悪いが……みすぼらしい。四階に住む二人は……なんといえばいいのだろう、まあ、早い話、育ちの良さげな女性で、この老女とはちょっと結びつけにくい。誰、この婆さん? 
 以上が、ほんの二秒くらいの間におれが考えたことだ。繰り返すが、かなり驚いた。
 老女も相当に驚いていた――おれに見えるのは彼女の目と目の周囲だけだが。なぜ、驚いたのかはわからない。おれの驚きに釣られて驚いたのか? それとも単に、誰も乗っていないと思い込んでいたエレベーターから人が降りてきたからか?
 おれは相手の驚きが自分の驚きよりもいくぶん上回っていることをさとって、咄嗟に笑みを浮かべた。ホテルのエレベーターだとか国際列車のラウンジだとかで見知らぬ人と目が合った時に笑みを浮かべるジェントルな欧米人よろしく。「わたしはけっして怪しいものではありませんし、敵意などこれっぽっちもありませんよ」という意味をさりげなく込めた社交的な笑みだ。
 そうして老女の脇を通り過ぎた。通り過ぎてしまうと、彼女のことはおれの意識から消えた。おれはその直前まで考えていた岩澤めぐみと浅沼裕嗣の案件に頭を戻しつつ、廊下をてくてく歩いて自室のドアの前に立ち、ズボンのポケットから鍵を引っぱり出して、鍵穴に差し込んだ。そこで「あのう、すみません」というくぐもった声が背後から聞こえた……気がした。おれはビクッとしつつ、鍵を差し込んだまま、振り向いた。とっくにエレベーターに乗りこんで階下に降りたと思っていた老女が、おれの後方、五メートルくらいの場所に立っていた。おれは……ちびりそうになった。この老女は幽霊なのか。足音はまったく聞こえなかった。気配すらなかった。幽霊、もしくは足音や気配を完全に消すことのできる老女は、マスクを右の指先で摘んで顎の位置に下ろすと、か細い声で言った。「もしや……権藤さん……でしょうか?」
 文節ごとに息継ぎしているかのような話し方だが、発音はちゃんとしている。たぶん幽霊じゃない。おれはたまった唾を飲み込んでから「はい、そうです、権藤です」とこたえた。
「探偵の……権藤さん?」老女はさらに尋ねた。
「ええ、探偵の権藤です」とおれは、はったりをきかせるかのように、言った。はったりじゃないので、変な比喩だが、自分が探偵だと明かすのは、はったりをきかせるような心境なのだ、いまだに。
「じつは、あの……ご相談が、ありまして」と老女は言った。色のほとんどない唇の奥で銀歯が鈍く光った。
「なるほど」とおれは応じた。おれの保険適用の銀歯もあんなふうに安っぽく光っているのかもしれない。「どなたかのご紹介で?」
「いいえ……この名刺を」そう言って、老女は上着のポケットに入れていたらしい権藤探偵事務所の名刺を印籠のように右手に持っておれのほうに突き出した。5メートルほどの距離が空いていても、それが我が名刺だとすぐにわかったのは、老女は(故意ではないと思うが)名刺の裏面をこちらに向けており、その裏面にはクレイジーなイラストが描かれているからだ。まさか、こんな時のためにイラストを描いたわけじゃないだろうが……わからない……今度、カゲヤマに尋ねてみよう。「娘の旦那が、どこかでもらってきたようです」
「そうですか」とおれは言った。どこか……たぶん、中央線沿線の接待飲食店だろう。高円寺の〈シオン〉かもしれない。
 おれはドアの鍵を回した。カッタン、という解錠される音がいつになく周囲に響きわたった。さっきも言ったように、その内部は、オフィス、とは口が裂けても言えない空間なのだが、今さらじたばたしても仕方がない。おもむろにドアを開け、おれは老女に向き直って言った。「どうぞ、中へ」
 老女は通された部屋が探偵事務所のオフィスらしくないことには別段驚いた様子は見せなかった。探偵事務所のオフィスらしかろうと、そうでなかろうと、そんなことには端から関心がないのかもしれない。差し迫った問題で頭がいっぱいなのかもしれない。
 おれはひとまず老女に無印良品のソファに座るように言い、それからキッチンに行って、ガスコンロでお湯を沸かした。キッチンの脇の窓からは下の通りが見下ろせるようになっている。双子用のベビーカーを押した同じような背恰好の男女の姿が見えた。
 お湯が沸くのを待つ間に、トイレに入って用を済ませ、洗面所に行ってうがい薬を使ってうがいをした。喉が少々いがらっぽかったので、戻ったらすぐにうがいをしようと電車に乗っている時から思っていたのだ。岩澤めぐみにかけられた「お体にはくれぐれも……」という言葉が胸に染みていたせいもあるだろう。うがいが済むと、鏡に自分の顔――かつてはそれなりにイケメンだったはずだが、今ではすっかり衰えたと言わざるをえない顔――を映しつつ、思案した。老女が名刺に記された住所を頼りに事前連絡なしにいきなり探偵事務所を訪問する――その事実からわかるのは何だ? 三十秒ほど考えてわかったのは、1、電話で会話するのが苦手、あるいは電話嫌い、2、おそらく地図を見ながら――老女がグーグルのナビ等を使ったとは思えなかった――目的地を訪ねられる、つまり方向音痴ではない――その二つだけだった。おれはやっぱり才知に欠けている。致命的かもしれない。
 二つのマグカップにティーバッグを入れ、やかんから熱湯を注いだ。トレイはないので、右手にマグカップを二つ持ち、左手には取り出したティーバッグを置くための小皿を持ち、部屋に戻った。
 老女の前のローテーブルにマグカップと小皿を置き、「砂糖を切らしているもので。豆乳で良ければありますけど?」と言った。老女は「すみません。このままで。どうかお気を使わずに」とこたえた。
 それから、おれはイケアのチェアに腰掛け、デスクの上のPCの横に自分のマグカップを置いた。おれはいつもティーバッグをマグカップに入れたまま紅茶を飲む。徐々に味が濃くなっていくのを楽しむとかではなく、単に不精なのだ。
 iPadとペンシルを用意するフリをしながら、さりげなく老女を観察した。すでに婦人帽子とハーフコートを脱ぎ、自分の隣にひとまとめにしてあった(おれは、来客用のコートハンガーを買わなければ、と思った。もう少し、客をもてなす作法を身につけなければ、とも思った)。こしの弱くなった銀髪は中途半端に伸びていた。少なくとも二か月は美容室に行ってないだろう。薄灰色のズボンとえび茶色のハイネックのセーターは、スーパーマーケットの二階の衣料品売り場とかに売っていそうだ。靴下の白さがいやに目立った。焦燥と不安と疲弊とが顔に、そして全体の佇まいにも影を落としている。八十には届いていないが七十はゆうに超えている――おれは老女の年齢をそのように推測した。ふいに我が母親を思い浮かべた。この正月は母に会わなかった。いま母が住んでいるのは母の地元であっておれが生まれ育った街ではなく、暮らしているのも再婚相手となので、つい足が遠のいてしまうのだが……しかし、母は母だ。たまには会いに行くべきだ。わかってる。春がきて暖かくなったら会いに行こう。春がくれば。おれのところにも。
「さて」とおれは切り出し、ヴォイスレコーダーの録音ボタンを押した。相手に許可を取る必要はないだろう。ここはいくらそう見えなくとも探偵事務所のオフィスなのだ。「どういったご相談でしょうか?」
「息子が心配で心配で」と老女はそれを言うのを長いこと待ちかねていたかのように言った。「それはもうたまらないのです」
 おれはゆっくりとうなずいた。息子か。ふつうに考えれば、そいつとおれは同世代だろう。プラスマイナス5ってところか。「どういう心配なんです?」
 老女は最初は訥々と、だんだんと勢いを増しながら、語った。
 理路整然とした話し振りではなかった。おまけに気持ちばかりが先走り、老女がどう感じているかはよくわかるが、その元になっている肝心の事実がわからなかったりした。何度となく聞き返さねばならなかった。追加で質問もしなければならなかった。まとめると、おおよそこんな具合だ。
 ――息子は四十歳。しばらく一人暮らしをしていたが、二年ほど前に実家に戻ってきた。大学を出たあとは大手のアパレルメーカーに就職し、生産管理の仕事をしていた。直属の上司との間にトラブルがあり、最終的にはその上司に暴力をふるってしまい、自ら退社した。その後、中途採用で二度就職したが、一度目は何度か抑うつ状態になって休職したあげくに退職、二度目は三か月も続かなかった。今は無職。求職活動はしていないようだ。そもそもほとんど口をきいてくれない。最近は目すらめったに合わない。食事も二階の自室に持っていって一人で食べている。その他トイレや入浴の際に降りてくる以外はほぼ二階の自室にこもっている。部屋から息子の話し声が聞こえたことはない。映画やドラマを観ているらしい音はよく洩れ聞こえてくる。外出することはあるものの行き先は教えてくれない。一週間連続で家にこもっていることもあれば、外出して三、四日戻らないこともある。このひと月ほどは早朝に出かけることが多くなった。あまりに不規則すぎて、行動が把握できない。自殺をするのではないかと心配でならない。あるいは、取り返しのつかないことをやらかすのではないかと心配でならない。取り返しのつかない、というのは、世間を恐怖でおののかせる無差別殺人の類いだ。それらが心配で心配で夜もおちおち寝ていられない。なんとか息子を助けてくれないか、お願いします――そう言って、老女はついに嗚咽を漏らし始めた。
「ややや……」おれはうろたえながら、ティッシュペーパーを箱ごと差し出した。
「お願いします……権藤さん」老女は涙をティッシュで拭いながら懇願してきた。「どうか、どうか。ほかに頼れる人はいないのです」
「あの……お母さん」まだ名前を聞いていなかったので、おれは老女をそう呼んだ。「お気持ちはわかりますが、ぼくはこう見えても、探偵なんです」
「もちろん、知っています」
「探偵の仕事というのは……」おれは説明し始めた。「例えば……行方のわからなくなった人間を捜したりですね……あるいは、浮気の調査をしたりですね、あるいは……」
 おれの話が終わらないうちに老女はナイロン地の肩掛け鞄の中から二つ折りになった何枚かのA4の紙を取り出して、こちらに突き出した。
 それは権藤探偵事務所のウェブサイトをプリントアウトしたものだった。開業したとき以来見ていなかったそれを、おれは改めて、しかも初めて紙に印刷された状態で、見た。一か所に、赤のサインペンで下線が引いてあった。老女が自分で引いたのだろうか。ともかく、そこにはこう書かれていた。
〈さまざまなお困りごとに随時対応しています。諦める前にぜひ一度ご相談ください〉
 この文句を考えたのは、カゲヤマだ。そもそもおれはウェブサイト制作にまったく関与していない。
「そこに、書いてありますよね?」はなを擤み終わった老女は言った。「さまざまな困りごとに対応している、と。それから、諦める前に、と」
「たしかに、そのように書いてありますが」おれはばつが悪いのをどうにかごまかしながら言った。「しかし、息子さんを助けてほしいと言われてもですね……」
「助けていただけないのですか」
「息子さんを助けるのは、ぼくのような探偵よりも……例えば、区役所などに行けば、相談に乗ってくれる人間が――」
「市役所には何度か行きました。ソーシャルワーカーさんにもお会いしました」
「ソーシャルワーカーさんはなんと?」
「いくつか助言はいただきました。精神科の病院も紹介してもらいました」
「診察は受けられました?」
「いいえ」老女は言った。「行ってくれないのです。娘も――というのは、息子の妹ですが――言い聞かせてくれたのですが。こんな時に父親がいれば……」
「息子さんの父親……つまり……」
「主人は一昨年に他界しました。深夜にトイレに立ったと思ったら、そのまま……虚血性心疾患でした」
「そうでしたか」とおれはこたえた。こんなとき、何と言えばいいのか。「それはそれは……」
 おれは型通りのつまらぬ言葉を続ける代わりに頭を下げた。頭を下げながら、今一度考えた。おれに何ができる? 四十歳、無職、ある種のひきこもり――もしくはニートと呼ぶべきなのか――である息子の動向を、あるいは、今後の人生を、寡婦でもある老いた母親が案じている。とりわけ、自殺するのではないか、取り返しのつかない犯罪を犯すのではないか、と案じている。その気持ちはわからないでもない。しかし、気持ちはわかってもおれの力ではどうすることもできない。言うまでもなく、おれはスーパーマンでもマジシャンでもない。奇跡を起こすジーザスでもない。あるいは、弁護士でも精神科医でも宗教家でもない。ただのしがない探偵だ。おそらく探偵には向いてない探偵だ。
「心苦しいのですが」おれはきっぱりと言った。「ぼくにできることは何もありません」
 そうして今一度、深々と頭を下げた。
 その深々としたお辞儀で、老女は観念したようだった。というか、理解してくれたのだろう。ひきこもってしまった四十歳の息子を再生させるのは探偵の仕事ではない、ということを。
 老女は歩んできた人生そのものみたいに重い溜め息をつくとソファから腰を上げた。
 午後は部屋で音楽を聴きながらネットで調べ物をしたりメールを書いたり読書をしたりして過ごし、夜になってから食事をとりに出かけた。久々に下北沢へ足を伸ばすつもりだったのだが、地下鉄の駅まで歩くあいだに急に面倒になって、たまに行く定食屋で手短に済ませた。生姜焼き定食に単品でインゲンの胡麻和え、それにエビスの瓶ビール。いつになく寂しい土曜の夜だった。年明け早々だし、きっとカゲヤマも家族と過ごしているはずだ。リサコは昨日からウズベキスタン旅行に出かけていた。どうしてウズベキスタンなんかに行く気になったのかは帰国してからゆっくり聞くことになっている。一人旅だと言っていたが、おれは疑っている……まあ、いい、そんなことはいい。
 定食屋から戻ってきて峯ビルのエレベーターに乗り込む前にふと、集合郵便受けに目がいった。昼すぎに戻った時に郵便物やチラシを回収して、それきり。というか、そりゃそうだろう。よっぽどのことがない限り、一日に何度も郵便受けをチェックしたりはしない。しかし、その時はどういうわけか引っかかった。まるで郵便受けから見えない釣り糸が伸びていて、その先端の釣り針がおれの前頭葉に引っかっているかのような感覚。その感覚をどうにも無視できなかったので、403号室の郵便受けを、暗唱番号を左右にダイヤルして開けた。引っかかりは気のせいではなかった。こういうのを科学ではどういうふうに説明するのだろう。ともあれ、近所にオープンしたばかりのスポーツジムのチラシの下に白い封筒を見つけた。縦書きで、権藤様、と記してある。油性のサインペン。達筆とは言えないが、几帳面そうな字だ。住所は記されていない。つまり、郵便ではない。誰かが直接、郵便受けに入れたのだ。
 その場で開封した。三つ折りの便せんに包まれて、うっかりすると指を切ってしまいそうな一万円のピン札が三枚。便せんにはこうあった。

 権藤様
 しつこくて申し訳ありません。でも、本当に頼るところがないのです。今日、権藤さんを一目見た時に、この人ならなんとかしてくれるはずだ、そう思いました。どうか考え直していただけないでしょうか。心よりお願い申し上げます。

廣田寿子

西東京市***3-12-7
電話 080-***-5920



 こういう時はカゲヤマに助言を乞うのがいい。我がボスであり、顧問でもあるカゲヤマに。というか、カゲヤマが権藤探偵事務所をやりたい、などとアホなことを言い出さなかったら、おれはそこそこ優秀なライターでいられたのだ。部屋に戻るなり、すぐに電話した。予想に反して一つ目の呼び出し音で応答した。
「悪いな、家族との大切な時間に」新年の挨拶はしなかった。過去にもした記憶がない。
「いや、今日は出社してるんだ」とカゲヤマは言った。「年末にやり残しちゃった仕事があって」そして、やおら声音を変えた。「どうしたの?」
 おれは説明した。簡潔に。老女――廣田寿子ひろたとしこが取り乱したことについてはいささか誇張が過ぎたかもしれない。
「なにかできることはあるんじゃない?」カゲヤマは言った。気もそぞろな口調に聞こえた。真剣に考えているとは思えない。
「そりゃあ、なにかはあるだろうよ。でも、『息子を助けて』と言われてもな」とおれは言った。
「まずは、そいつの挙動を調べたら?」
「どうやって?」
「そうね……やっぱり、尾行するのが手っ取り早いんじゃない」
「いつ外出するのかもわからないのに、じっと外で待っているのか? こんな真冬に?」とおれは毎度のことではあるが、かすかに苛立ちながら言った。「リサコはいないんだ。つまり、車もないんだ」
「じゃあ、リサコが帰国してからにするとか? 一刻を争うっていう案件でもなさそうだし、依頼人にもそのへんの事情をうまく説明して」
「まあ、それはおれも考えたが……しかし」
「しかし……何?」
「これはやっぱ、探偵の仕事じゃないだろう」
「どこまでが探偵の仕事で、どこからはそうじゃないのかっていうのは――」
「なんでも引き受けていたら、しまいに、ただの便利屋になるぞ」とおれはボスを遮って言った。「探偵としての最低限のプライドは保たなければ」
「おお〜」とカゲヤマ。爬虫類系の笑みが目に浮かぶようだ。「言うねえ、ゴンちゃん。探偵のプライドねえ」
「しかも、そんなに儲かる仕事とも思えない」
「まあ……それはそうかもね」カゲヤマは切り替えが早い。「手付金が三万円だもんな」
「一日分にもならない。我が社の規定では」
「え? 規定なんかあったっけ?」
「作ったんだ、このあいだ。張り込み、尾行は一日五万円から」
「ほう。ずいぶんラグジュアリーな探偵社だな」とカゲヤマはいささか皮肉っぽい口調で言ったが、異議は唱えなかった。
「それに……」と口に出してから、おれは続けるのをためらった。
「それに……なに?」
「岩澤めぐみのほうに少しでも力を注ぎたい」
「なんか動きあったの?」
「動きというほどのものでもないけど」
「ふうん」とカゲヤマは素っ気なく言い、黙った。あまり感心していないのだろう。
「というわけで」しかし、おれはかまわず言った。「この案件は辞退させてもらうぞ」
「……ま、そうだね」カゲヤマは数秒考えてから言った。「しかたないね、今回は。りょうかい」
 このようなボスからのお墨付きが欲しかったのだ。おれは今さらながらにそう思った。
「お金は書留で返送すればいい」
「ああ。そうするよ」それからおれは、今度はボスとしてではなくマブダチとしてのカゲヤマに尋ねた。「正月は実家に帰ったのか?」
「一泊だけね」
「どうしてもっとゆっくりしない?」
「どうしてって……なんだかんだと忙しくて。それに実家ってなんか落ち着かないんだよな」
「おふくろさんを大切にしろ」
「つーか、どうしたの、ゴンちゃん、急に?」
 三万円を現金書留で返送するのはやめた。添える手紙を書くのが面倒だった――そもそも、おれは相手が誰であれ手紙を書くのが苦手だし、手紙も添えずに紙幣だけを返送するのはあまりに冷淡だと思った。それに、その日は見事な冬晴れだった。ここ数日の冷え込みもじゃっかん緩んでいた。まだ真冬には違いないが、すでに冬至は過ぎていることを世の人々に告げ知らせるかのような朗らかな陽射し。そう、ふらりと、見知らぬ街とかに出かけたくなるような。試しに、グーグルマップで検索してみると、新宿区の我がオフィス兼住み処から西東京市の廣田家まで、東京メトロと西武新宿線を乗り継ぎ、ドア・トゥー・ドアで59分だった。近すぎず、遠すぎず。ちょうどいい。
 西武柳沢駅で準急電車を降りたのは午前十一時すぎだった。グーグルに導かれるままに東京郊外の住宅街を歩いた。主に二階建ての一軒家と低層の集合住宅が乱杭歯のように建ち並んでいる。一軒家にしろ集合住宅にしろ、質素というか地味なものが多かった。芸能人やどこぞのIT長者や、あるいは何代も世襲で続く悪徳政治家が住んでいるような、これ見よがしの豪邸や瀟洒なマンションは見当たらない。初めて訪れた街だが、初めてという気はしない。ほんの一年ほど前まで暮らしていたのもこんな街だったし、その街に越してくる前に住んでいたのもこんな街だった。いや、何を隠そう、おれが生まれたのもこんな街だ。つまり、日本の大都市郊外にいくらでも存在していそうな街。
 廣田家には十分ほどで着いた。子猫の額ほどの狭い庭と小型車一台分の駐車スペースがついた二階建ての木造家屋は、少なく見積もっても築四十年はいっているだろう。もしかすると、五十年くらいいってるのかもしれない。老女……廣田寿子が懸念する息子は今日は在宅しているのだろうか、などと考えながら、二階を見上げた。二階にはどうやら二部屋あるようだが、どちらの窓にもカーテンが引かれていた。まだ寝ているのか、と思い、いや、そんなことはどうでもいい、と思い直した。おれは仕事を受けにきたのではない。勝手に置いていかれたお金を返しにきただけなのだ。アルミ製の門扉の脇についたインターフォンを押した。
「はーい」とインターフォンから聞こえた声は、明らかに昨日の老女の声ではなかった。もっと若い声だ。
「権藤と申します」おれは言った。「廣田寿子さんは、ご在宅でしょうか?」
「権藤さん……ですか?」と女は言った。若いといっても未成年ではないのは確実だが、おそらくまだ更年期には達していないだろう。
「そうです、権藤です」とおれは繰り返した。探偵の、とはあえて言わなかった。「昨日、廣田寿子さんが……事務所にお見えになりまして……」
「ああ……はい、はい」ようやくおれがあやしげな浄水器などを売りにきたセールスマンではないことがわかったのだろう、女は言った。「お待ちください」
 玄関ドアが開いて、中肉中背の女が出てきた。おれの胸までの高さもない門扉から玄関ドアまではたった二歩ほどの距離だ。いかにも普段着といった感じの履き古したチノパンに深緑の丸首セーター。踵のあるつっかけサンダルをひっかけている。靴下は白。三十代後半だろうか。メロンパンみたいな丸顔に団子鼻、切れ長の目……ぶっちゃけ、器量はあまり良くないが、感じはけっして悪くない。最初の微笑でそれがわかる。「寿子の娘です。母は今、外出してまして……」
「そうですか」とおれは言い、ウールジャケットの内ポケットから封筒を取り出し、それを門扉越しに差し出した。「これ、お母さまにお返しください。それでわたしの用件もわかるかと……」
 彼女は封筒とおれとを見比べるかのように視線を二往復させた。そして、封筒には手を伸ばさずに言った。「そろそろ母も戻るころですので、中でお待ちいただけませんか」  
 想定外の提案におれはまごついた。「いや、それは――」
「さあ、どうぞ」廣田寿子の娘はおれを遮って、再び微笑んだ。繰り返すが、不思議と感じのいい微笑みだ。人を疑うことを知らないかのような。おれを根っからの善人だと決めてかかっているかのような。彼女は門扉を引き開けながら言った。「掃除中だったので、ちょっと散らかってますけど……さあ、どうぞ」

 いったい、おれは何を考えているのだ。玄関先で封筒を返してすぐに帰るつもりだったのに、結局、居間のダイニングテーブルの前で、だされた緑茶をおめおめとすすっているとは。
「母はどんなふうに言っていたのですか?」向かいの椅子に座ると廣田寿子の娘――そして、権藤探偵事務所の名刺をどこかで入手してきた男の妻――は言った。
「えっと……息子さんのことなんですけどね」おれは声を潜めて言った。「もしや……二階にいらっしゃる?」
「いいえ」彼女は首を振って、また微笑した。「兄はさきほど出かけました。どうやら新宿に買い物があるらしくて」
 新宿に買い物? おれは腑に落ちなかった。「行き先は言わないということでしたが……お母さまの話だと」
「わたしが尋ねたんです。わたしだとこたえてくれることがあります。時と場合によりけりですが。今日はわたし、朝からこちらに来ていました」そして、自分は近所に住んでおり、夫と六歳の娘がいると教えてくれた。「申し遅れましたが、三好尚美みよしなおみといいます」
 そこで、おれは最初の質問――「母はどんなふうに言っていたのですか?」――にこたえた。老母が取り乱していたことを、またしても誇張してしまったかもしれない。
「わたしも同行すべきでした」と三好尚美は言い、詫びを入れるかのように軽く頭を下げた。「今日なら一緒に行けると母にも言ったのですが……母はひどく焦っていて……おわかりかと思いますが」
「なるほど、そうでしたか」
「それで」と彼女は口調を改めた。「引き受けていただけないのでしょうか?」
 おれは説明した。探偵の仕事とはどういうものであって、どういうものではないかを。昨日母親に話した時よりは的確に話せたはずだ。
「母の言い方が悪いんですよ」おれの説明――あるいは弁明――を聞き終わると彼女は言った。「ようは、兄がこの家を出たあと、いったいどこへ行って、何をしているのか、それを調べてほしいということなのです。素行調査、と今、おっしゃいましたよね? つまり、それです、母が権藤さんにお願いしているのは」
 おれは彼女から視線を逸らした。籐のバスケットの中には艶のないリンゴが三個とデコポンが二個が入っていた。壁にかかった、白地に黒の数字だけが記されたシックなカレンダーがごちゃごちゃした部屋全体の雰囲気から浮いていた――このカレンダーは彼女……三好尚美が買ってきて取りつけたのかもしれない。「申し上げにくいことなんですが」とおれは彼女に目を戻して言った。素行調査――探偵仕事の範疇どころか基本中の基本だ。それを依頼されたら、これはもう権藤探偵事務所の弱点を晒すしかないだろう。いくつもある弱点のうちの一つを。「じつは、ぼく、運転免許が欠格期間中でして、春にならないと再取得できないんです。うちにはぼく以外にもう一人スタッフがいて、そいつがいつもは車を運転するんですが、あいにく、長期休暇に入っていまして」
 尚美は、なにか考えるような目つきになって、うなずいた。
 おれは続けた。「今回のような素行調査には、どうしても車が必要になります。いつ外出するのかわからないわけですから、車で待機することに――」
「あの、権藤さん」と三好尚美はおれを遮った。「つかぬ事をお訊きしますけど……猫は大丈夫かしら?」
「……は?」おれは耳を疑った。「いま、猫、と言いました?」
「はい、猫。雑種が二匹なんですけど……大丈夫かしら?」 
「大丈夫というのは、つまり……」
「猫アレルギーなどはありませんか?」
「アレルギーは……というか、昔、飼ってました」
「あら」三好尚美の、細い目がぱっと輝いた。
「好きですよ、猫は」おれはその目の輝きに釣られるように吐露した。「犬よりも……人間よりも」
 ふふっ、と短く笑い、彼女は言葉を続けた。「じゃあ、権藤さん。もう一つ、お仕事をお願いするわ」
「……え?」
「猫シッターをやってくださらない?」
「ね……猫シッター?」
「ええ、朝晩餌をやるのとトイレの掃除を――」
「ちょ、ちょっと待ってください」おれはにわかに目眩を覚えつつ言った。「先ほどから言ってますように、ぼくは――」
 とその時、玄関ドアが開く音が聞こえた。尚美は「母と娘が帰ってきたようです」と言いながら立ち上がって、玄関に出ていった。
 じつは、猫は好きどころか、猫のいない生活は耐え難いほどで、峯ビルはペット禁止ということになってはいるもののこっそり飼ってしまおうかとここしばらく機会を窺っていたのだが、それはそれ、これはまた別の話、猫シッターの仕事など断じて引き受けてはならない、おれは探偵なのだ、曲がりなりにも探偵なのだ――そう心に言い聞かせながら、温くなった緑茶に口をつけた。
(第5回へつづく)

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桜井 鈴茂Suzumo Sakurai

1968年生まれ。明治学院大学社会学部社会学科卒業。卒業後は音楽活動ほか職歴多数。同志社大学大学院商学研究科中退。2002年『アレルヤ』で第13回朝日文学新人賞を受賞。他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』『女たち』『冬の旅』『どうしてこんなところに』『できそこないの世界でおれたちは』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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