双葉社web文芸マガジン[カラフル]

探偵になんて向いてない(桜井鈴茂)

イラスト:竹田匡志

第2回

第一話

 浅沼の元妻である真理子まりこは、再婚して矢吹やぶきという姓になっていた。二通送ったメールには返信がなく、携帯電話へも都合三度電話を入れたが、三度ともこちらが諦めて切るまで着信音が鳴り続けた。留守電のオプション契約は結んでいないようだ。
 ならば、仕方ない。アポなしで押し掛けるしかない。
 矢吹真理子は横浜市青葉区に住んでいた。彼女の暮らしぶりについては淵野典からざっと聞いていたが、彼女が暮らすまちの雰囲気と、土地を贅沢に使った六階建ての瀟洒なマンションからは、たとえ何も聞いていなくとも、家族とともに安寧に……少なくとも経済的な不安とは無縁に暮らしているのが容易にイメージできた。
 訪れたのは午前十時半。在宅しているにしてもオートロックのエントランスを通してくれるかどうか懸念していたのだが、カメラ付きのインターフォン越しに「権藤探偵事務所の権藤と申します」と告げて頭を下げると、「あ……はい」という戸惑い気味の返答とともにロックが解錠された。メールを読んではいた、ということだ。
 おそろしくゆっくりとした動きのエレベーターで最上階まで上がり、共有廊下を端まで歩いて601号室の玄関ドアのインターフォンを押すと「開いてます」という声が聞こえたので、ドアを引き開けて中に入った。玄関正面の壁には、A2サイズほどの水彩画がシンプルな木製の額縁に入れられて掛けてあった。森の中を縫うように流れる小川とその畔で遊ぶ二人の少女。右下に作者の署名があるが判読できない。おれの目にはごく平凡な絵にしか見えなかったが、あえて玄関に飾るのだから何らかの意味かそれなりの価値があるのだろう。と、その絵の脇の廊下から小柄な女が現れ、すぐ後ろから二歳くらいの女児も現れて、母親の太腿付近にまとわりついた。ぼってりしていると思ったのはほんの一瞬で、すぐに妊婦なのだと悟った。まずは突然の訪問を丁重に詫びると、矢吹真理子は、こちらこそなんの返信もせずにすみませんでした、と応じた。
「ここんとこ、バタバタしていまして」矢吹真理子はそのように弁明した。妊娠六か月といったところだろうか。「こんな恰好で、お恥ずかしい」
 ちっとも恥ずかしくない恰好だった。淡いベージュのゆったりとしたワンピースに、グレーのロングカーディガンを羽織った姿は、ナチュラル系アラフォー女性をターゲットにしたファッション誌の「部屋着」特集から抜け出てきたかのようだった。少々腫れぼったい目蓋やじゃっかん下膨れな輪郭……目鼻立ちは十人並みなのだが、思春期を過ぎてからは身につけられそうにない品位がオーラのように漂っていた。
 中に入るようには言われなかったので、その場で名刺を差し出した。そうして、単刀直入に切り出した。「メールにも書きましたが、浅沼裕嗣さんを捜しているのです。ご存知ですよね? 彼が行方をくらましているのは」
「ええ」と矢吹真理子はうなずき、落ちついた口調でこたえた。「先月でしたか、淵野くんからメールがきました。でも、今のわたしにはどうすることもできないので」
「ま、そうですよね」と相槌を打った上で、どんな些細なことでもいいから浅沼捜しの手がかりになるようなことはないかと尋ねた。
「いいえ」彼女は申し訳なさそうに首を振った。「なにも」それから逆に訊いてきた。「浅沼の実家には連絡されました?」
「いいえ、これからです」
「お母さまが何か知ってるんじゃないでしょうか……そんな気がしますけど」
「……というのは?」
 矢吹は慌てて右手を振りつつ否定した。「いいえ、根拠があって言ってるわけじゃないんです。ただ、とても母親思いの人だったので……お母さまとも完全に連絡を絶つっていうのはちょっと考えにくくて」
 おれはうなずいた。
 矢吹もうなずいた。
 沈黙。女児がおれの顔を睨むように見上げていた。おれが敵側の人間だと本能的に感じ取っているのだろう。リヴィングルームからはボサノヴァのリズムに乗った女性シンガーの歌声がかすかに聞こえてくる。
「あの……」と思いきって尋ねた。「お答えになりにくいとは思いますが……離婚された原因はなんだったんでしょうか?」
 矢吹真理子はおれをじっと見てから目を伏せ、一拍置いてからまた目をあげておれを見た。そうして、ほとんど言い淀むことなくこたえた。こちらの質問をあらかじめ想定していたかのように。「三十五にもなると、女って急に現実的になるんですよ。少なくとも私はそうでした。子どもが欲しかった。それに、お金のことを常に気にかけながら暮らすのにも疲れました。刺激的じゃなくていいから、安定した生活を送りたくなった。簡単に言うと、そういうことです」
「それが……離婚の原因のすべてですか?」
「つまり……」そう言いながら彼女はわずかに目つきを険しくした。「彼の不倫のことを言ってるんですね?」
 小さくうなずいた。
「浅沼を捜しているのはその女なんですか? 名前は忘れましたけど」
「いいえ」きっぱりと否定した――もしかしたら、きっぱりし過ぎていたかもしれない。「違います」
「じゃあ、誰なんですか?」
「……バンド関係の人間です」咄嗟に思いついたことを言った。「これ以上は言えないんです。ぼくにも守秘義務ってものがあって」
 少し間を取ってから矢吹は「わかりました」と言った――そんなことは些末なことだ、とでも言いたげな口調で。そして続けた。「彼の不倫は、わたしが将来を考えるきっかけにはなりました。でも、直接の原因ではありません。考えるきっかけになったという意味では、その事実を知って良かったと思っているくらいです。あのことがなければ、今の幸せはなかったでしょうから」
「なるほど……」おれの頭の中を二人の女の顔がよぎった。
「申し訳ないんですけど」矢吹真理子は本当に申し訳なさそうに言った。「もう少しで来客があるんです。まだお掃除が終わってなくて」
「……そうなんですか」大急ぎで頭を働かせた。出直すと言えばいいのか? というか、そもそも他に何を訊けばいいのだ? 
 迷っているうちに矢吹真理子が口を開いた。今度は懇願するような調子で。「わたし、本当に何も知らないんです。彼とは離婚したきり一度も会ってませんし、メールでやりとりをしたのも、わたしが再婚の報告をした時だけです。彼が行方知れずになっていることをまったく気に留めていないと言ったら、それは噓になります。でも、そのことに関わっている時間も労力も今のわたしにはないんです。わかってください」そこで言葉を切ると、下唇を嚙んで、頭を下げた。「ごめんなさい。何のお役にも立てなくて」
 おれも釣られるようにして頭を下げた。ただでさえ相手は妊婦なのだ。立ち去るしかなかった。

 東京にいながらにしてできる調査はひとまず終わったようだった。やはり、函館を訪れるしかない――真っ先にそうすべきだったのかもしれないが。工藤俊作ならどうしただろう? あるいは……誰でもいいけど……フィリップ・マーロウなら? 
 その晩、二週間ぶりに高円寺の〈シオン〉に行った。由実香が働いてるはずの曜日だったが、由実香は何らかの事情で店に出ていなかった。その代わり……というわけではないのだが、一度カゲヤマや由実香を含めてアフターで飲みに行ったことのあるリサコというホステスを相手に小一時間ばかり飲んだ。
「リサコちゃん、あの――」
「リサコでいいってさっきも言ったでしょ」
「おう、そうだった、リサコ」と呼び直してから、尋ねた。「もしもの話だけどさ、死期を悟ったとして、どうしても会っておきたい人ってすぐに浮かぶ?」
「……お父さん。会ったことのないお父さん」
「ほう」
 その先を促したつもりだったが、リサコの話は予想外の方向に進んだ。
「あと……高校ん時の国語の先生」
「それはなんで?」
「高校やめてから一時期、付き合ってたの、先生と」
「ふむむ」
「会って謝りたい」
「なにをしたんだ」
「あたし、三人の男の人と同時に関係をもってたの。先生以外は遊びだけど」
「先生のほうだって」一瞬ためらったものの、思ったことをそのまま口にした。「遊びだったんじゃないの?」
「遊びじゃない」リサコはきっぱりと言った。「あたしは先生が大好きだったし、先生だって絶対あたしのことが好きだった。でも仕事は忙しいし家庭もある人だったからなかなかかまってくれなくて。どんな形でもいいからかまってもらいたくて、あたし、わざと他の男の子と遊んだの。しかもね、他の男の子とセックスしてるところを動画に撮って、先生に見せた」
「……」
「もう一度、先生とエッチしたいなあ。先生って舐めるのがすっごく上手くって。入れてからもめちゃくちゃ長いし。ホテルはほとんど毎回延長。あたしをこんなエッチな女にしたのは先生だもん」
「……」
「あ」リサコはおれの顔を検分するように見つめながら言った。「ゴンちゃん、ひょっとして……」
「な……なんだ?」
んでしょ?」
「まあ……少し」
「少し?」
「いや……たくさん」
「ふふふ」
「店終わったら、どうだ?」
「残念でした~」リサコは蠱惑的な笑みを浮かべながら言った。「今夜は先約があるの」
 
 負け惜しみみたいに聞こえるだろうし、自分でもそうなのかもしれないと思わないでもないが、リサコには断られて良かった。なぜって早朝の新幹線を予約していたから。函館には昼前に着いた。
 東京は晩秋と呼ぶのがぴったりの季節だったが、函館はすでに初冬を迎えていた。空はどんよりと曇っていて、今にも雪が降り出しそうなほどに空気は冷え冷えとしていた。
 駅前のラーメン屋で塩ラーメンを食べ、市電に乗ってホテルに向かった。予約を入れておいたホテルに着いたのはチェックイン時間の二時間以上前だったが、難なく部屋に通してもらえた。
 ざっと荷解きをし、時計が午後一時をまわったのを確認してから、浅沼の実家に電話を入れた。留守電に切り替わった。少しためらった後に、あとでまた電話をさせていただきますが、と伝言を残した。探偵事務所という響きは、余計な警戒心を生じさせかねないので、裕嗣くんの友人の権藤と申します、と告げておいた。
 アポなしで訪問してみることも考えたが、いては事を仕損じる、というベタなことわざを思い出した。一方で、善は急げ、というのもあるが、今おれがしているのは「善」という言葉では括れないだろう。日が暮れるのを待ってもう一度電話を入れた。今度は応答があった。
 浅沼の母親は愛想こそ悪くはなかったが、怪訝に思っているのは言葉の端々から窺い知れた。おれは「学生時代の友人」で押し通すことにした。
「裕嗣を捜すためにわざわざ東京から来られたの?」
「いえ、出張で札幌まで来たもので」
「札幌からだってけっこう遠いじゃない?」
「いや、でも、休みも取れましたし――」
「お話しできることなんか何にもないのよ。裕嗣が姿を消したのは一昨年の十月の末。それきり連絡はありません」
 一度ご自宅へ伺わせてほしい、と頼んだ。
「明日でもいいかしら」母親はしぶしぶではあったが承諾してくれた。「今日はもう疲れてしまって」
 午前十時に訪問する約束を取り付けて、電話を切った。

 寒いのがとくべつ苦手、というわけではないが……いや、むしろ得意なほうだが、十一月末の函館はふらり気ままに外出するのに適したシーズンではない。ホテル近くの回転寿司店で軽い晩飯をとると、タクシーを拾って五稜郭近くの繁華街へ向かった。元来の酒好き……いや、がそうさせるのだが、ひょっとしたら何か手がかりが、と期待する気持ちもないではなかった。
 二軒目のパブだかクラブだかで、浅沼と同学年のホステスには会えた。しかし、通っていた高校も違うし、中学校までは近隣の町に住んでいたらしく、浅沼の名前も〈The Night Shift〉というバンド名も聞いたことがないと言われた。インディ・レーベルの所属とはいえ、地元ではそれなりに知られているんじゃないかと踏んでいたのだが、どうやら甘かったようだ。六十がらみのママが、その高校出身のお客さんはたくさんいる、先生の何人かも常連だから、金曜の夜にもう一度いらっしゃい、と言ってくれたが……ようするに、その晩の収穫はその程度だったということだ。
 夜が更けてからホテルに女……つまり、その……デリバリーヘルス嬢を呼んだ。ネットで検索した限りでは、函館には人妻・熟女専門と銘打たれた店が二軒あり、その中から浅沼と同い年の女を見つけ出して指名した。もっとも、ウェブサイトに表記されている年齢などあてにならないだろうが、かといって端から鯖を読んでいると見込むのもどうなんだ? そうすると、どうせ鯖を読んでいるのだからと年齢など気にかけなくなり、知らず知らずのうちに自分好みの女を探すようになって、しまいには仕事とはまったく無関係に……いやいや、おれは見苦しい言い訳をしてるのかもしれない。こんなのは仕事とは言い難い。しかし……しかし、だ。瓢簞から駒が出る――なんてことわざもあるじゃないか。
 非公式の追加料金とかなりの空想力を要する交わりが終わったあとで、おれは自分の身分を明かし、単刀直入に尋ねてみた(ちなみに、女は二つほど鯖を読んでいた……本人が言うには、ごまかすつもりなんてないのに店がプロフィールを更新してくれない、のだそうだ)。モモエという女は、〈The Night Shift〉というバンド名はどこかで耳に挟んだことがある気がするが、そのメンバーのひとりが函館出身だとは知らなかったし、浅沼裕嗣という名前は聞いたことがない、とこたえた。
「でも、旦那がその人と同じ高校の出身だったわ。年は一コ上になるのかな」
「……?」なにげに強調された過去形が耳に引っかかった。
「いなくなったの。仕事に出かけたふりして、そのまんま」
「それ……いつの話?」
「もうずいぶん経つよ。三年半くらい」
「今も行方知れず?」
「うん。あたしはもう死んだものと思ってるけど」
「そっか。さっき、子どもがいるって言ってなかった?」
「いるよ。高一の息子と中一の娘」
「そっか」
「……どうしたの?」
「いや……」
 モモエは上半身を起こしておれの顔を珍しいものでも見るように眺めた。「どうしたのよ、神妙な顔になって」
「いや……その」神妙になっているという認識のなかったおれは、はっとなりながら言った。「人ってどうしていなくなったりするんだろうなと思ってさ」
「あんた、探偵のくせに、バカなのね」とモモエは半笑いしながら言った。「十人いたら十個の理由がある。そうでしょ?」
 
 翌日はいくぶん暖かく、ミルク色の雲の隙間には青空ものぞいていた。
 浅沼の実家は、築年数四十年は下らないと思われる、こぢんまりとした二階建ての家屋だった。手入れが行き届いているとも言い難い。例えば、玄関のドアノブがぐらついていたし、廊下のフローリングは歩くたびにみしみしと軋んだ。しかしながら、玄関や居間にある家具や調度品やテレビなどの電化製品は、まるでそこに配置されるためにデザインされたかのように居心地良さげに収まっていた。
 おれが勝手に想像していた、そして昨日の電話でより強固になった浅沼裕嗣の母のイメージは、高齢と孤独と失意と何らかの持病に痛めつけられた老女、というものだった。しかし、実際の浅沼実代子は、“老”という漢字をあてるのを憚ってしまうほどに若々しく、かくしゃくとしていた。白髪をうまく生かしたショートヘアは卵形の輪郭に良く合っていたし、つぶらな黒い瞳には、加齢とともに深まっていく諦念に打ち勝とうとするかのような覇気が微かながらに感じられた。唇にはさりげなく紅もさしてあった。四半世紀前は相当にきれいな女性だったろう。一方で、実直さがその佇まいから滲み出ていた。美しさと実直さがひとりの人間の中に同居するのはあんがいと難しいことだと思う。美しさは実直さを汚しやすいし、実直さは美しさを損ないやすい。そんな母親に面と向かうと、友人だと言い張る気はたちまち失せてしまった。出された緑茶に口をつけてから「じつはこういうものなんです」と言い開きしつつ、名刺を差し出した。母親はそれを受け取ってテーブルの上に置くと、「近くがとんと見えなくなってしまって」と言って立ち上がった。キッチンに戻り、赤いセルフレームの老眼鏡を手に持って、再びリビングに出てきた。そうして、一人掛けソファに座り直すと、老眼鏡をかけた。探偵事務所、という文字が真っ先に目に入ったのだろう、母親は言った。「裕嗣……何かしでかしたのですか?」
「いいえ、そうじゃないです、ご心配なく」探偵イコール何らかの事件、と考える人もいるのだということに改めて気づかせられながらおれは言った。「裕嗣さんのご友人から捜すように依頼されました」
「えっと……」母親は眼鏡を外すと再びこちらを見た。「安岡くん?」
 いえ、と首を振った。
「いったいどなた? もしや真理子さん?」
 大急ぎで考えた。母親に伏せておく必要はあるだろうか? あるなしの問題ではないような気がしたが、浅沼実代子の、相手をまっすぐに見る濁りのない目が、おれにこんなふうにこたえさせた。「裕嗣さんとかつて懇意だった女性です。現在、がんの治療で入院中でして……どうしても裕嗣さんに会いたいと」
「……がん?」母親は何よりもその部分に反応した。
「ええ……つまり、覚悟されてるんだと思います」
「あら」そんな言葉を発しながら大きく見開いた目には、憐憫の情が浮かんでいた。「お若いんでしょ、その方……お気の毒に」母親は今度は目をふせ、目をふせたまま独りごとを言うようにつぶやいた。「そんな方がいらしたのね」
 小さくうなずいた。
 しばし沈黙が流れた。それぞれに言わずにいることがあるが、それを言ってしまうとさらに長い沈黙が後に続くことになる、とお互いが承知しているような沈黙。耐えかねて舌が勝手に動きだした。「それだけ……魅力的な男性ということです」
 母親は目を上げ、胸の前で両手を振って否定したが、その表情は沈黙の前よりもいくぶん明るくなっていた。
 母親の了承を得て、ヴォイスレコーダーの録音ボタンを押した。「まず……東京からこちらへ戻ってくる際にはどんなふうに言っていたんですか?」
「具体的なことは言いませんでしたけど……一言、疲れた、って。大変なんでしょ、音楽の世界でご飯を食べていくのって」
「まあ、そうですよね」どこの世界でもそうですが、と言うのは控えた。
「ですけど、吹っ切れたような明るさもありました。やるべきことをやりきった充足感っていうのかしら。それに、裕嗣は当時三十九でしたから……やり直すなら最後のチャンスだって思っていたんじゃないでしょうか」
「函館に戻ってきてからは、どんなお仕事をされていたんですか?」
「最初は、伯父の……というのは亡くなった主人の兄ですけど……口利きで、建設現場で働き始めました。でも、性には合わなかったようで……ひと月ほどでやめました。伯父にもちゃんと頭下げに行ってましたよ。それから……わたし、今も湯の川温泉のホテルで客室清掃の仕事をさせてもらってるんですけど、副支配人に相談したら、レセプションの遅番としてなら雇えるって言ってくださって。そうして、週に五日、午後十時から午前七時まで働くようになりました。時給いくらっていう雇用形態ですけども」
 ふむ、とうなずいて先を促した。
「三か月が過ぎたころでしたかね、副支配人からもレセプションの主任からも、褒めていただきました。よくやってくれてるって。社員ヘの登用も考えてるって言われました」
「そのことは本人も知ってたんですよね?」
「ええ。社員になると、昼間の勤務が中心になるようで、それも嬉しいようでした」
「結局、社員になられたんですか?」
「口頭ですけど、内定はいただいてました。翌春からってことで」
「しかし、その前に……」
 母親は唇を結んでうなずいた。
「どのくらいの間、ホテルで働いていたことになるんでしょうか?」
「四月の初旬からいなくなる前日まで……七か月ですね」
「姿を消す前に、それらしき兆候とかは?」
「いいえ、まったく。こっちで生きてゆく覚悟ができたんだって、わたしはそう思い込んでいました。幼なじみとの付き合いも少しずつ再開していたようですし……もっとも、函館に残っている人って意外に少ないんですけども」
「いなくなったのは――」
「わたしが昼間働いてるあいだに」
「何か伝言のようなものは?」
 母親は一拍ぶんだけ考えてから言った。「ご覧になりますか?」
 うなずくと、母親は居間に続く和室に入り(ドアは開けたままだった)、仏壇の下の抽斗を開けると、三つ折りにした便せんを持ってきた。横書き、二行だけの短い手紙だった。


 母さんへ

  ごめん。おれはここではやっていけない。ほかで一からやってみる。
 捜さないでくれ。いずれ、必ず連絡するから。健康にはじゅうぶん気をつけて。
 
裕嗣


 文章そのものは簡潔だが、なかなかの達筆だった。出かけ間際に慌てて書いたようには見えない。
 再び折り畳み、礼を言って母親に返した。
「警察には行かれました?」
「行くわけないじゃない」母親は一笑に付した。「ここに書いてあることをわたしは信じています。裕嗣がいずれ連絡するって言ってるんだから、いずれ連絡が来るんです」
「でも、もう二年以上も――」
「あのね、探偵さん」
 浅沼実代子はおれをそう呼んだ。面と向かってそう呼ばれたのは初めてだった。気恥ずかしかった。やましさも覚えた。それらをどうにか腹の底に押し込めて、続きを待った。
「わたしは裕嗣の母親です。裕嗣のことは誰よりもわかっているつもり」
「まあ……そうですよね」
「探偵さんはおいくつなの?」
 突然の質問にまごつきながらもおれはこたえた。
「あら。わりといってるのね」
 頭の中が幼いんでしょうね、と応じると、ふふふ、と母親は短く笑い、それから笑いを目と唇にかすかに残したまま続けた。「わたしは来春には六十五になるんです。酸いも甘いも嚙み分けてきたつもりです。これくらいのことでは動じません。それに――」
 そこで言葉を切り、母親はおれの目を見据えた。睨まれたわけではないが、その目の中に宿る、意思というのか覚悟というのか、いずれにせよ、強靱な何物かに、おれは怯んだ。「それに?」と先を促すのでせいいっぱいだった。
「それにね、探偵さん」母親は人の道を踏み外しかけている青年を諭すかのごとく静かに言った。「時にはじっと待つのが得策だってこともあるんじゃないかしら」
「……そうですね」と言った。言うほかなかった。「たしかに、そうかもしれないです」
 そこで、母親はおれが緑茶をほとんど飲み干しているのに気がついた。腰を上げた母親に「おかまいなく」と言ったのだが、母親は「私も飲むの」とこたえて、キッチンへ向かった。そうして、お湯が沸くまでのあいだ、ガスコンロの前から離れなかった。
 新たに入れてくれた緑茶をいただきながら、おれは浅沼の妹について尋ねた。函館の高校を卒業後、札幌にある医療事務の専門学校を出て、そのまま札幌市内の総合病院に就職し、診療放射線技師の男と結婚して退職、今は二児の母親だという。「連絡先はお教えしますが、わたしが知っている以上のことはあの子も知りませんよ」
 それから、母親は浅沼の中学時代と高校時代の卒業アルバムを引っぱり出してきてくれた。母親によると、浅沼裕嗣は「ひどく晩生おくて」で、小学校高学年までは体も小さく、決して目立つような男子ではなかったようだ。中学の時は「背が大きくなる」と一つ年長の幼なじみにそそのかされてバスケットボール部に入部したが、背こそ偶然なのか少しは効果があったのか最初の一年でかなり伸びたものの、肝心のバスケットにはさほど精を出しているようには見えなかった。両親揃って応援に行った中学時代の最後の試合でもほんの数分しか出場しなかった。進んだ高校はそこそこの進学校――母親いわく「函館ではってことですけどね」――だが、浅沼の成績は「下のほう」で、部活動にも所属しておらず、家に戻るなり部屋にこもって「大音量で」音楽を聴いていたのだとか。一年の夏休みに、伯父の建設会社でアルバイトをし、貯めたお金で――「いくらかは父親も足してやりましたけど」――ドラムセットを買ったという。それからは勉強はそっちのけでバンド活動に打ち込み、高校三年時には函館市内のライヴハウスで何度か演奏したことがあるらしい。
 浅沼といっしょにバンドをやっていた三人の男子と、高校時代に付き合っていた女子のことを母親は覚えていた。三人の男子はひとりも函館に残っていないはずだという。女子についてはその後どうしたのかまったく知らなかった。高校の卒業アルバムの巻末に、クラスごとの住所録が付いていたので、コピーを取るべくお借りすることにした。
 最後におれは、浅沼裕嗣の住民票がどうなっているか――つまり、転居届等が出ていないか――市役所に行って調べてもらえないかと頼んだ。他人には――警察でもない限り――どうにもできないことだから。
「わかりました。二、三日中に市役所に行ってきます」母親は腑に落ちない様子ながらも承諾してくれた。「探偵さんがそこまでおっしゃるなら」
 
10
 翌晩から、浅沼が働いていた、そして母親が今も働いている、湯の川温泉のホテルに宿を移した。湯の川温泉の中でも一二を争う高級ホテルのようだが、オフシーズンの最たる時期ということで、ビジネスホテルのような料金で泊まれた。
 一夜明けて、出勤してきた浅沼実代子がホテルの実質上のトップであるらしい副支配人とレセプション係の主任を紹介してくれた。主任からはとくに有益な情報は得られなかったが、副支配人が「特別に」とことわった上で、給与を振り込んでいた浅沼裕嗣の銀行口座番号を教えてくれた。出入金がどうなっているのかを調べるべく、さっそくおれはその銀行の当該支店――函館駅前支店に赴いた。
 二十代なかばの女子行員に事情を話すと、三十代なかばの男子行員が応対に出てきたので、彼にも最初から事情を話すと、ついで五十代なかばの副支店長が現れた。銀行の副支店長というよりは和菓子屋の二代目店主といった感じの……しいて言うなら、職人肌の頑固者だがじつは情に脆そうなM字ハゲのおっさんだった。
 これは脈がある。そう思ったおれは、三たび事情をいっそう気持ちを込めて話した。副支店長はおれの話を時にうなずきながら最後まで聞き届けると、しかし、予想に反してビジネスライクに告げた。「残念ですが、法律には背けません」
 そうして、個人情報保護法をざっと説明した。口座を所有する本人からの委任状、あるいは裁判所の命令がない限り、個人情報は開示できないのだという。
 そこでおれはふと思いつき、というか『探偵物語』の工藤俊作を思い出し、財布から一万円札を抜き取って素早く四つ折りにし、副支店長の手元に滑らせた。「そこをなんとか」
 逆効果だった。副支店長は万札を弾き返すと、がぜん語気を鋭くした。「そういう問題じゃないんだよ!」
 あとはこちらが何を言っても「お引き取りを」の一点張りだった。退くしかなかった。
 宿に戻り、銀行の個人情報にアクセスする方法が他にないだろうかと、インターネットでの検索はもちろん、その手のことにいくらか詳しそうな友人の何人かに電話やメールで尋ねてみたりもしたが、いっこうに埒は明かなかった。こんな時おそらく頼りになるだろう弁護士や警官の友人は、おれにはただのひとりもいなかった。ヤクザの知人もいなければ、ハッカーの親戚もいなかった。昔バイトしていた探偵社に電話してみることも考えたが、十年以上前に数か月バイトしただけの男を覚えている人間がいるとは思えなかった。いや、たとえ覚えていたとして、誰がそんな男に親切にする?
 その晩はベッドに入ったもののなかなか寝つけず、やがて寝るのをあきらめて有料放送でたいして面白くもない邦画を立て続けに二本観た。観ながら缶チューハイをついつい飲み過ぎてしまった。そのせいで翌朝は寝過ごし、朝食にも間に合わなかった。心も体もどんよりと重かったが、どうにか身支度を整えてホテルを出た。市電に乗って元町地区に向かった。小洒落たカフェレストランでブランチを食べ、腹ごなしを兼ねて二時間ほど周囲をそぞろ歩いた。それから、ロープウェイに乗りこんで、函館山にのぼった。べつに観光がしたかったわけではないが、視野が変われば、新しいアイデアが浮かぶかもしれないと思ったのだ。
 浅沼裕嗣はどこへ行ったのだろう? 今どこでなにをしているのだろう? どうして忽然と姿を消したのだろう? たしかに、母親の言うように、いずれしれっと連絡が入るのかもしれない。しかし、どうにも引っかかるのは、携帯電話を解約している――あるいは、契約自体は残っているにしても番号を変更している――点だ。フェイスブックやインスタグラムへのアクセスをやめる、一時期使っていたメールアドレスを使わなくなる――それらはさほど不思議ではない。おれだってフェイスブックやツイッターにはほとんど関わらなくなったし、昔使っていたヤフーのメールアドレスは長年チェックすらしていない。便利な一方、なんやかやとやたら時間を食ってしまう、そして他者とのコミュニケーションをおのずと煩雑にしてしまうスマートフォンをやめて、昔の、いわゆる、ガラケーに戻したくなる心情も理解できる。しかし、たとえガラケーに戻したとしても電話番号は変えないだろう。なぜだ? なぜそこまでして、過去の人間関係を断ち切りたかったのだ? ていうか、とおれは最後に思った。それを思いながら背筋に寒気が走った――浅沼裕嗣は生きているのか? 
 そんなこんなをとめどなく思案しながら函館山の頂上から初冬の午後の、さみしげな陽光に包まれた函館市街を見下ろしていると、電話が鳴った。浅沼実代子からだった。いま市役所に来ていて住民基本台帳を調べてもらったが転居届の類いは提出されていなかった、台帳上は今も実家に住んでいることになっている、という。
「そうですか……」消沈しながら言った。おおよそ予想はしていたものの、我知らず一縷の望みを残していたのだろう。「お手間を取らせました。ありがとうございます」
「……探偵さん」少しの沈黙のあと、浅沼実代子は声音を変えて切り出した。「先日、一つだけ言いそびれた……いえ、言わなかったことがあって」
「……なんです?」
「せっかく捜してくださっているのに、失礼しました」
「いいえ、そんなことはいいんです。話してください」
「たいしたことじゃないんですが……あの子、いなくなる時に、わたしのヘソクリを持っていったの」
「ヘソクリ……」
「ええ、ヘソクリをぜんぶ」
「それはどのくらいの金額なんでしょうか?」
「笑わないでね」母親は自分が今にも笑い出しそうな口調で言った。「わたし、亡くなった主人と結婚してから毎日欠かさず、百円玉を巾着袋に入れていたの」
「毎日欠かさずってことは……」
「ひと月で約三千円……」
「一年で三万六千五百円」
「ええ、そうです。それで……毎年、年末に銀行へ行って……そこに三千五百円を加えると、ちょうど四万円になるでしょ? それを和簞笥の抽斗に、こっそり貯めていた……わたしの言ってること、わかります?」
「はい……わかってると思います。一年で四万円、二年で八万。一万円札で。そういうことですよね?」
「そうそう。主人が亡くなってからもそれを続けてた。もはや、お金を貯めるっていう感覚じゃなくて、単なる習慣ね。朝起きて顔を洗う、というような」
「なるほど。ご結婚されて何年になるんでしたっけ?」
「裕嗣がいなくなった時で四十二年と数か月。それを機に百円貯金もやめたんだけど」
「つまり、四万かける四十二。……百七十万弱ですか?」
「そうね、そうなるわよね。それをぜんぶ、裕嗣に持っていかれました」そう言うと、浅沼実代子はついにこらえきれなくなったみたいにクツクツと声を立てて笑った。「裕嗣、知ってたのかしらね……わたしがこっそり百円貯金を続けてたこと。主人にさえ話したことなかったのに」
「それにしても、百七十万って、けっこうな大金ですよ」
「そうお? そうでもないじゃない? 月にだって行けやしない」
「まあ……そうですね。月には行けない」
「だから、探偵さん。そんなに心配は要らないってこと。わたしは裕嗣からの連絡を待ちます。もしも、先に探偵さんが裕嗣に会うようなことがあったら、伝えてもらえますか。お金のことなんて母さんちっとも気にしていないからって」
 おれは不覚にも感極まっていた。何に感極まったのだろう? 四十二年ものあいだ続けた百円貯金にか? 母親の、いずれ連絡は来る、という確信にか? 何があろうとぶれない息子への愛にか? わからない。わからないままにおれは言った、声がうわずりそうになるのをどうにか抑えながら。「わかりました。もしぼくが先に裕嗣さんに会うようなことになれば、必ずそう伝えます」
「ありがとう」浅沼実代子は艶すら感じさせる声で言った。「わたしが、ありがとう、だなんて、筋違いかもしれないけど。函館くんだりまで裕嗣を捜しに来てくれて感謝しています。その女性にもくれぐれもよろしくお伝えください。連絡が取れたらすぐにお知らせします」
 
11
 函館には結局、八日間滞在した。そのあいだに月が変わって師走になった。雪が二回降った。二回目の雪はおれが函館を去る時にも降り続いていた。
 その間、浅沼裕嗣の幼なじみや高校時代のクラスメイト、そして職場の同僚にもできるだけ会って話を聞いた。彼らとたまに飲みに行っていたらしい、函館で唯一のロック・バーにも二度ほど足を運んだ――そこのマスターはさすがに浅沼がやっていたバンドを知っていて、CDや7インチシングルも持っていた。高校を訪ねて二年と三年時の担任教師――今では校長になっていた――にも会った。伯父にも会いに行って話を聞いた。結婚して夫とニセコでペンションを営んでいる高校時代のガールフレンドとはメールで何度かやり取りした。札幌で暮らす妹の美緒とは電話で話した。高校時代のバンドメンバーのうちの二人(ひとりは旭川、もうひとりは大阪で暮らしていた)とも電話で話した。手がかりとなるような情報は得られなかった。彼らのうちの誰かが何かを隠していたり噓をついているようにも思えなかった。郵便追跡サービスを活用して、リアルタイムで配達状況を追ってみたが、母親が暮らす実家に配達されただけだった。函館を離れる前の晩に、もしや新興宗教がらみでは?となかば自棄になって思いつき、何かあればいつでも電話を、と言ってくれていた浅沼美緒に再度電話をしてみた。しかしながら、美緒にはあっけなく否定された。「わたし、じつは、むかし付き合ってた人の影響で仏教系の宗教団体にはまりかけていたことがあるんです。その時に、どれだけ兄におちょくられたか。結果的に、その兄のおちょくりによって、宗教団体とも当時の彼氏とも距離を置くことができたんですけど。兄と宗教って、いくら想像を逞しくしても結びつきません。とりわけ、新興宗教なんかとは」
 
 帰路は青森まで津軽海峡フェリーを使った。フェリーを使った理由はいろいろだが、一番はおれのセンチメンタリズムだ。あるいは、しみったれた道程への偏愛。
 フェリーの遊歩甲板から粉雪の舞う北海道の陸地を眺めながら、おれは繰り返し考えていた。何か見落としがあるんじゃないか? じつは視界に入っているのにおれが間抜けなせいで見えていないものがあるんじゃないのか? 
 
12
 東京に戻った翌日の午後、スイセンの花束を携えて、再び岩澤めぐみを訪ねた。
 婦人科病棟のデイルームの窓からは先月と同じように澄んだ空の青が見えたが、プラタナスの樹にはもう葉っぱはついていなかった。その日の岩澤めぐみは、白い縁取りのあるグレーのパジャマにネイビーのケーブルニットのカーディガンを羽織っていた。前回に比べていくぶん顔色が良いような気がした。
 おれは先月と同じテーブルの同じ椅子に座り、それまでの調査の経緯と結果をすべて報告した。
「ひとりだけ」最後に言った。「連絡がつかないのがいて……高校時代のバンド仲間なんだけど。携帯番号を変えてしまったらしい。インスタグラムやフェイスブックでも見つからなかった。家族もとっくに函館を離れている」
「その方も……」と岩澤めぐみは首をかしげながら。「裕嗣くんみたいに失踪してるってことですか?」
「うーん……どうだろうね。メンバーだった他の二人が言うには、失踪とかそういうんじゃないだろうって。もともと連絡が取りにくい人間だったらしい。今、彼らが同級生たちにあたってくれている」
 岩澤めぐみは、そうですか、と声を落として言い、自分を納得させるように、ゆっくりとうなずいた。
「現時点では、そんな感じなんだ」岩澤めぐみの気丈な様子にいっそう心苦しさを覚えて、おれは姿勢を正してから頭を下げた。「申し訳ない」
「そんな。謝らないでください」
 デイルームの反対側に設置されたテレビモニターの前のいくつかの丸テーブルには女性の入院患者が数人とその家族が何人か座っていた。前回と違って、おれと同年代の男――患者の夫だろう――がいたのが、妙に心強かった。今日もいろんな場所でいろんな事件が起こっていた。一般人が失踪したくらいではニュースにならない。なるわけがない。
「函館はどんなところでした?」視線を戻すとそれを待っていたように岩澤めぐみは口を開いた。
「思っていたよりさびれてたね」と正直にこたえた。「それでも、新幹線が通ってからは観光客が増えたらしいけど」
「行ってみたいな」
「もし行く気があるのなら……付き添うよ」
「ほんとに?」
「もちろん」それから、慌てて言い添えた。「おれでよければ」
「裕嗣くんのお母様にも会ってみたい」
「お母さんもあなたのことを気にかけていた」
「……わたしのこと、話したんですか?」
「……まずかったかな?」
「いいえ」岩澤めぐみは首を振った。「まずくなんかないです」
「それとなくだけど」とおれは安堵しながら言った。「支障がない程度に」
 岩澤めぐみの淡い色の瞳に微笑みが宿った。しばらくのあいだ時間も止まっていた――少なくともおれの人生の時間は。「権藤さん」岩澤めぐみは微笑みを目に宿したまま言った。「ありがとうございます」
「いやいや、礼を言われるようなことはまだ何もやってないよ」
「でも……わたしの気持ちは少し変わったような気がします」
「どんなふうに?」
「お母様のように、信じて待とうという気持ちに」
「……そう」
「連絡を絶って一からやり直す……彼らしい気がする」
「妹さんもそんなことを言ってた」
 本音を言えば、おれもそんなふうに思いかけていた。おれを含めた大多数の人間にはそんなストイックな技はとうてい無理だろうが、その手のことをやってのける人間がこの世の中にはいる。浅沼裕嗣がそうじゃないとは言い切れない。浅沼実代子、矢吹真理子、岩澤めぐみ……浅沼裕嗣をかつて愛した、あるいは今も愛してる女たちに会って話を聞くにつれ、そのイメージはいっそう強くなっていた。
 いや、あるいは、おれはそう考えることで、自分の職務から逃れようとしているのかもしれない。自分の非力さから目を背けたいだけなのかもしれない。
「ただ、わたしの場合」岩澤めぐみはコーヒーにミルクを加えるようにぽそっと言い足した。「待つにしても限界があるんですけど」
「みんな、それぞれに、限界はあるよ」
 深く考えずに口にしてしまったのだが、言い終えるなり、まずいと思った。このおれに、がんを患って闘病している岩澤めぐみの気持ちがどれだけわかるというのだろう。そして、恥ずべき失言でもあった。一般論などどうでもいいのだ。依頼を受けた以上、一刻も早く捜すべきなのだ。尋ね人の意向がどうあれ、探偵は捜し出すべきなのだ。しかし、岩澤めぐみは笑ってくれた。素敵な八重歯がのぞいた。「そうね。そのとおりだと思う。みんな、それぞれに」
 
13
「おつかれさま」その晩の遅く、いつものスペイン・バル〈テルモ・サラ〉で経過を報告すると、カゲヤマはいやに満足げに言った。「権藤探偵事務所の初仕事としては、まずまずの出来なんじゃない?」
 師走に入っても東京は暖かい日が続いていた。とはいえ、深夜ともなれば、さすがに冷え込んだが、おれたちはお店が用意してくれたブランケットで下半身をくるみ、首にはマフラーを巻き、そのうえおれはニット帽まで被り、お気に入りのテラス席についていた。カゲヤマはホットティー、おれはホットワイン。それに、タパスを三皿ばかりシェアしていた。
「まずまず?」おれはカゲヤマの言いざまが不満だった。「ていうか、終わってないし」
「ぼくには収まりがついたように見えるけど」
「おいおい」カゲヤマという男は、時にこちらの予測のつかないことを事も無げに口にする。
「ま、いずれにせよ、いったん保留だね」
「おいおい」おれは繰り返した。
「今、動き回ってもどうしようもない」
「いったい浅沼はどこで何を?」
「どこかで何かをしてるよ」
 その物言いにあきれ、また苛立ちもし、おれは両手を広げた。「なんだよ、それ」
「ゴンちゃん、前に自分でも言ってたじゃん」カゲヤマはおれをなだめるような口調で言う。「テレビドラマと現実をごっちゃにしちゃいけないって。我々が生きるこの現実の世界では、ドラマみたいに何もかもがきれいに解決するとは限らない。でしょ?」
「まあ、それはそうだが」
「それに、経費だって、とっくに足が出てるし」
「まあ、それもそうだが」
「最初は儲けなしでいいとは言ったものの、大赤字ってのも困るんだよ」カゲヤマはポットからカップへと紅茶を注ぎながら言う。「リスクヘッジとしての探偵業だからね」
 なにがリスクヘッジだ、と今さらながらに思ったが、口には出さずにワインを飲んだ。ジンジャーがよくきいている。
「ともあれ」カゲヤマは話を切り上げようとするかのような語調で言った。「予期せぬ時に予期せぬところから新事実がぽろっと出てくることもあるから」
 おれはその言葉を頭の中で転がした――予期せぬ時、予期せぬところ。「いや、だとしても、何もしないで待ってるわけには――」
「ムキになってるねえ」カゲヤマはおれをからかいの目で見ながら言った。「やる気満々じゃん?」
「やめろよ、そうやって茶化すのは」おれは言った。「そもそもの言い出しっぺはカゲヤマなんだからな」
「いいねえ」カゲヤマはおれのコメントをスルーして続けた。「そんなにムキになってるゴンちゃんを見たのは久々だよ」
「中途で物事を投げ出すわけにはいかないってだけだ。おれはそういうタチなんだ」
「え?」カゲヤマはイグアナの目をぱちくりさせて言う。「……そうだっけ?」
「そうだよ」
「ゴンちゃん、なんか性格変わってきたんじゃない?」
「まあ、プロの探偵ともなると……」
 おれがそう言うと、カゲヤマが吹き出した。「いいね」と哄笑しながらカゲヤマ。「プロの探偵……最高だね、それ」
 そこで、着信音がけたたましく鳴りだした。カゲヤマは隣の椅子の上に放置してあったスマートフォンを引っ摑むと立ち上がって歩道に出、「どうもー、カゲヤマですー、おつかれさまですー」とかなんとか、それまでとは別人のような声音で応答しながら歩き出した。そのカゲヤマの後ろ姿を見ながら、おれは決意を新たにしていた。岩澤めぐみの願いだけは叶えてやらなければ、と。探偵業など自分に向いてるようにはとうてい思えないが、岩澤めぐみのことはもはや仕事だとか報酬だとかの問題ではなくなっていた。そして、この案件が未解決である限り、たとえ向いてなくとも探偵業をたたむわけにはいかない。
(第3回へつづく)

バックナンバー

桜井 鈴茂Suzumo Sakurai

1968年生まれ。明治学院大学社会学部社会学科卒業。卒業後は音楽活動ほか職歴多数。同志社大学大学院商学研究科中退。2002年『アレルヤ』で第13回朝日文学新人賞を受賞。他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』『女たち』『冬の旅』『どうしてこんなところに』『できそこないの世界でおれたちは』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop