双葉社web文芸マガジン[カラフル]

探偵になんて向いてない(桜井鈴茂)

イラスト:竹田匡志

第11回

第五話

 翌日の午後、宮古島に滞在中のリサコに、おれにわかったことをすべて教えた。すなわち――リサコの母親の表現を借りれば、リサコの「生物学上」の父親である久米満夫氏は、東京都国分寺市の出身で現在六十四歳であること。日本大学芸術学部演劇学科を卒業し、その後は長らく、〈第四星雲〉というアングラ劇団に属して役者をしていたこと(もっとも、それだけで食えていたわけではないだろうが)。理由は不明だが、二十五年前に劇団をやめて単身で北海道の十勝地方に移住し、そこで家族を作り、今に至るまで生活していること。地元の畑作農家出身の妻=久米暁美あけみが、帯広市に隣接した音更町おとふけちようで〈カフェ・ロールベール〉という店を営んでいること。数年前に全国発売のカルチャー誌が〈ヒュッゲ〉特集を組んだ際にカフェと妻が写真付きで紹介されていること。ウェブサイトの写真やグーグルで検索する限り、カフェの上階が一家の住居になっている(と予想される)こと。夫妻には二十一歳の娘(名前は不明)が一人おり、獣医師を目指して帯広畜産大学に通っていること。満夫は暁美の実家の農作業、さらに冬季は除雪車の運転手などを副業としながら、陶器の創作/制作に勤しんでおり、陶芸家として地元では知る人ぞ知る存在であること。名前で検索すれば、地元の情報誌や北海道新聞などの記事がいくつかヒットすること。それらの記事によると、カフェ(および住居)の離れに工房を持っていること、カフェで作品が販売されていること――などを。
「もう一度、訊くけど……」おれが報告し終えると、リサコはリサコらしくない遠慮がちな口ぶりで尋ねてきた。「ゴンちゃん……その人……お父さんに会ったのよね?」
「ああ」おれは短くこたえた。「羽田空港で。北海道に戻る前に」
「どんな話をしたの?」
「どんな話……彼が搭乗口に姿を見せたのは出発時刻ぎりぎりだったんだ……じっくり話すような時間はなかった」
「でも……伝えてくれたのよね?」そう言うリサコの口ぶりには油性インクみたいな濃度の高い不安が潜んでいた。「あたしが会いたがってること」
「ああ」とおれはこたえ、次に続ける言葉を探したが、それはまるで、だだっ広い荒れ地で五十円玉を探すような気分だった。
 何秒かの気まずい沈黙のあと、リサコはこれまたリサコらしくない歯切れの悪い口調で言った。「あたしには……会いたくない……要するに、そういうこと?」
「いや……会いたくない、ってわけじゃないんだろうが……」おれはどうにか言葉を濁した。このようなデリケートなやり取りになるのが目に見えていたので、おれは事実のみを簡潔に伝えるべくLINEで切り出したのだった。しかし、おれが「ヘイ、マイ・ダーリン」というスタンプを送るなり、リサコはすぐに電話してきたのだ。
「ねえ」奥歯にものが挟まっているおれに焦れたようにリサコは言った。「繕わなくていいから、本当のことを言って。あたしが今知りたいのは、混じり気なしの事実なの」
 うむ。おれはうなずき、一度大きく息を吸ってから、口を開いた。「娘がいると聞いて、驚いてた。まったくの寝耳に水だったようだ」
「もしや……お母さんのことも覚えてないとか?」
「いいや、覚えてる」
「でも、お母さんが妊娠した事実は知らなかった」
「そのようだ」
「それで……あたしには会いたくないって言ったのね?」
「いや、そうはっきりと言ったわけではない……しかし、繰り返すが、ひどく困惑していたのは事実だ」とおれは言った。その事実がリサコの細胞の隅々に行き渡るのを待ってから続けた。「ま、彼の気持ちもわからないでもない……なんといっても、三十五年の月日が流れてるんだ。そして、彼には家族も――」
「あたしのこと、どんなふうに話したの?」リサコはいささか強すぎる調子でおれを遮った。
「ほとんどなにも」とおれはこたえた。「性別と年齢……それくらいだ」
「……どんな人だった?」
「どんな人、って訊かれてもなあ……」
「どんな外見?」
「大柄な男だよ」
「大柄……お相撲さんみたいな?」
「いや、相撲取りタイプじゃなくて、ラグビーのフォワードタイプだ」
「ふうん……それから?」
「それから……」
「雰囲気とか性格とか」
「うーん……なんといえばいいのか……ま、早い話、おれやカゲヤマみたいな、タイプじゃないな。マッチョ、というわけじゃないけど……タフな雰囲気ではある。きっと普段は頼りがいのある人物なんだと思う。自分の人生や生き方にも誇りを持っているんじゃないかな……あくまでも印象だけど」
 リサコは自分の口には大きすぎるのど飴を舌で転がしているかのような、奇妙な音を発した。
「なあ、リサコ」おれはこの種の不毛なやり取りを打ち切るべく言った。「今のはあくまでもおれが受けた印象だ。本当のところは自分で確かめろよ。さっきも言ったけど、住所はググればすぐに出てくる。もしかしたら普段はカフェで奥さんの手伝いをしているのかもしれない。なんなら、観光客のふりをして様子を窺うことだってできる。あるいは……まあ、奥さんが先に読むことになるのだろうが、ウェブサイトに記されてるアドレスにメールを送ってもいい。手紙をしたためて郵送することだってできる。直筆の手紙ってのは、あんがいと心に――」
「ううん」リサコはおれが言い終わらないうちに言った。「会いに行くよ」
「うん……それがいい」おれは同意した。それがいい。カゲヤマに言いくるめられたからではなく、一晩経過しておれもそう思うようになっていた。生きている以上は誰しもが越えなくちゃいけないドブ川がある。リサコにとっては実の父親と対面を果たすことがそのドブ川なのだ。「会ってこいよ」
「そんな……他人行儀にならないで」リサコは、またしてもリサコらしくなく、すがるような口ぶりで言った。「ゴンちゃんもいっしょに来て」
「この先はおれがいなくたって大丈夫だ」おれは、久米満夫の刺々しい態度を苦々しく思い返していた。「いや、むしろ、おれはいないほうがベターだと思う」
「いないほうがベター?」眉間にしわを刻んだリサコが目に浮かぶようだ。「どうしてそう思うの?」
「どうしてって……だよ」なんとなく、のわりには、きっぱりした口調でおれは言った。
「そんなことないってば」おそらくリサコは激しく首を振っている。「ゴンちゃんもいっしょに来て」
「いいか、リサコ。おれは車の運転だってできないんだ」飲酒運転で取り消しになった運転免許の欠格期間が終わるのは三月の末だ。欠格期間が終わったところで、そもそも運転免許を再取得するべきかどうかも決めていない。「そんなやつは十勝じゃ役立たずに決まってる」
「そういうことを言ってるんじゃないでしょ? わかってるくせに」
「……」
「なにが問題なのよ?」
「おれ……ほんとに必要か?」
「とっても必要」とリサコは間髪入れずに言った。「友達として」
「友達として」おれはリサコの言葉を自分でも口にしながら考えた。リサコに「友達」と認識されていることに、いわく言い難い気持ちになった。ほんの数か月前まで、ただの客とホステスの関係だったことを思えば、嬉しい。しかし、なんだかさみしい気もする。「友達」――ずいぶんとありきたりの言葉じゃないか。
「そうよ」とリサコは言う。「あたしたち、友達でしょ?」
「ああ……うん……友達だ」
「でも、なにより」リサコはおれの声音やリズムになにかを感じたのか、言い直した。「探偵として必要」
「探偵の仕事は終わった気がするが……」
「終わってない」リサコははっきりと言った。
「……」
「ねえ、ゴンちゃん、忘れないでくれる?」リサコはおれの反応を待たずに続けた。「あたし、この件では依頼人なのよ。従業員割引を使わせてもらってるけど、それでも依頼人なの……そうでしょ? その依頼人が仕事は終わってない、同行してくれる探偵が必要だって言ってるんだから」
 おれは無言のまま考えた。友達としてであれ探偵としてであれ、リサコに必要とされるのは誇らしかった。しかし、あの男――久米満夫にまた会わなくちゃいけないことを考えると、たちまち心は重くなった。
「お願いします。心優しき探偵さん」数秒後、リサコはなにを思ったのか、戦術を変更したのだろう、妙に色っぽい口調になって、続けた。「か弱き依頼人が父親の元を訪ねるのに、どうか付き添ってください」
 北海道・十勝への出立は火曜の午後になった。リサコはいったん東京に戻り、スーツケースの中身を入れ替えて――なんといっても、沖縄から北海道なのだ、しかも二月なのだ、まるで気候が違う――十勝へ向かうことになる。おれたちは羽田空港の搭乗口で落ち合う段取りをつけた。

 出発前日の未明、悪夢と尿意と喉の渇きで目覚めたついでに、枕元のスマートフォンを手に取って、なんの気なしにメールをチェックすると、岩澤めぐみの姉だと名乗る女性・藤崎ふじさきなつみからメールが届いていた。発信時間は午後十一時二十三分。そこには岩澤めぐみの病状が「芳しくない」――婉曲表現に違いないだろう――と書いてあった。面会時間は限られているが、近々病院にお越しいただけないか。数行の短いメールにはそんなふうに記されていた。
 おれはすぐに返信した。明日から少しのあいだ東京を離れるもので、できれば本日中にお伺いさせていただきたく。何時でもかまいません。ご都合の良い時間をお教えください。
 そして、再び眠りにつくべく布団のなかに潜り込んだが、目が冴えてしまった。
 眠りたいのに眠れない未明ほど、思考がネガティヴになってしまう時間はない。過去の過ちや未来への不安やおのが人生に対する漠然とした悲観が夥しい数のミミズとなっておれの体の内側を這い回った。
 悶々としているうちに晩冬の空が白んだ。
 藤崎なつみからは午前八時半すぎに返信が届いた。すみやかなお返事に感謝いたします。それでは、急で恐縮ですが、本日の午後、二時から三時までの間にお越しいただけないでしょうか? お待ちしております。

 岩澤めぐみの病室を訪れる前に、藤崎なつみとデイルームで手短に話した。
 藤崎なつみは「仕事ができる女性」とか「キャリアに生きる女性」とかいうリードコピーをあてがいたくなるような、きりりとした顔つきのショートカットの女性で、現在名古屋で暮らしているという。有給休暇を取って、数日前から妹の看病にあたっているのだそうだ。夫の話はまったく出なかったが、左の薬指に指輪をしていたし、だいいち名前が「藤崎」なのだ、既婚者なのは間違いない……いや、というのも、結婚とか所帯とかをまるで感じさせない雰囲気なのだ。
 姉によると、岩澤めぐみの病状は十二月の中旬以降、しばらく安定していたのだという。年の暮れから一月の終わりにかけてはおおむね、山梨の実家で過ごしていた。しかし、十日ほど前の夜に浴室で倒れ、近くに住む兄の車でこの三鷹の大学病院に運ばれた。以後は病床に臥した状態が続いており、数日前に、担当医師から「あと、ひと月だと思ってください」と告げられたらしい。

 久しぶりに会う、岩澤めぐみはひどくやつれていた――いや、やつれていた、なんて表現は甘ったるい。なんと言えばいいのか。あちら側に片足を突っ込んでるとでも言えばいいのか。おれをみとめると小さく笑ったが、それは誰かを喜ばせるというよりは、悲しませるタイプの笑顔だった。
 おれは浅沼捜しにほとんど進展がないことを詫びた。じつのところ、安岡丈博や淵野典といった浅沼の大学時代の旧友たちとのメールのやり取りもいつしか途絶えていた。今朝の九時すぎと部屋を出る前の午後一時前に、浅沼の実家に電話を入れてみたが、留守電応答だった。その後、母親の携帯にも電話をしてみたが、こちらは電源が切られているようだった。おそらく勤務中なのだろう。
「わたしにはもう時間がありません」岩澤めぐみはベッドに体を横たえたまま、感情を抑制した口調で言った。
 おれは頭を下げるので精一杯だった。
「権藤さんを責めているんじゃないです。どうか誤解しないで」
「いいえ、忸怩たる思いです」おれはようやく口を開いた。「お力になれなくて、本当に申し訳ない」
「謝らないでください」岩澤めぐみは、今の彼女に許される、おそらく精一杯の笑みを浮かべて言った。
 おれはこたえた。「全力を尽くします」――そう言うなり、噓をついてしまったかのようで、やましさを覚えた。そして、自分に腹が立った。
 岩澤めぐみは心の中を整理するかのように天井を見つめた。「いずれ」そう言ってやつれた顔を今一度おれの方に向けた。「裕嗣くんが見つかって、その時にわたしがいなかったら……」
 おれは黙って続きを待った。胸が苦しかったが、おれの胸の苦しさなど、この際どうでもいい。
「裕嗣くんに伝えてください」と岩澤めぐみは続けた。「ごめんなさいって」
「ごめんなさい……ですか?」
「ええ、ごめんなさい、と」
 得心したわけではなかったが、相手の容態や心境を思えば、今ここで根掘り葉掘り尋ねるわけにはいかない。おれは、承知したことを示すためにゆっくりとうなずいてから、言い添えた。「とにかく、全力を尽くします」
 機上から見下ろす十勝平野は見渡す限り白い雪に覆われていた。それもそのはず、ここ数日チェックしていた天気情報によると、一昨日の深夜から今朝の未明にかけて(十勝では珍しいほどの)大雪が降ったらしい。しかしながら、とかち帯広空港から外に出て、空を仰ぐと、大地が雪に覆われているのが噓みたいに十勝の広大な空はどこまでも晴れ渡っていた。
 いくら運転の得意なリサコでも雪道では思うままにならないようだ。レンタカー営業所を出発して最初のT字路で派手に横滑りし、以後は石橋を叩いて渡るような、慎重な運転に切り替わった。帯広市街地までは通常なら三十分ほどで行けるらしいが、この時は一時間強かかった。
 リサコが予約を入れてくれていたのは、帯広の繁華街にありながら天然温泉の大浴場が設けられたシティホテルだった。もちろん、リサコとは別室……おれはどちらでもかまわなかったのだが……いや、同室をひそかに期待していたような気もする。
 ウェブサイトによると、〈カフェ・ロールベール〉の営業日は火曜から土曜までの十時から十七時(日曜と月曜が定休日)、ということだ。木曜と金曜のみ、バータイムとして夜――十九時から二十二時まで――も店を開けている。本日は火曜。カフェの開店時間に間に合うかどうかは微妙だが、視察を兼ねて現地へ行ってみることを予めおれは考えていた。しかし、それとなくリサコの意向を伺うに、彼女にはまったくそのつもりはないみたいなので、おれもはっきりとは提案しなかった。
 そうして、レセプションの女性スタッフが「わたしの個人的な好みなんですが」とわざわざ断った上で教えてくれた、炉端焼きのお店で(おれたちにしては、かなり早めの)夕食を食べ、その後はそこの若女将に教えてもらったカクテル・バーで軽く飲んだ。
 リサコの不思議なところは、高円寺の猥雑な接待飲食店にも代々木上原の小洒落たヴィーガン・レストランにも高速道路のサービスエリアにある没個性的なカフェテリアにも帯広の(腐すつもりは毛頭ないが、いかにも地方の小都市にありがちな)いまいち垢抜けないバーにも見事に溶け込んでしまうことだ。環境に合わせて体色を素早く変化させるカメレオンのごとく。どこにいても、浮く、ということがないのだろう。これは明らかに利点だと思う。探偵として、そしてもちろん、人間としても。
「ゴンちゃんってさ、」リサコは十勝ワインをベースにしたミモザを飲みながら言ってきた。「おしゃべりなようで、自分のことはあまりしゃべらないよね」
「そうか?」おれはスプレンダーX・Oという十勝ブランデーをオンザロックで飲んでいた。「自分ではけっこうしゃべってるつもりだけど」
「肝心なことはしゃべらないよ」
「そうか?」おれは繰り返した。「肝心なことって例えば?」
「両親のこととか」
「別に隠してるつもりはない。話す機会がなかっただけだ」とおれは言った。中年ともなると親のことを話す機会など滅多にないし、訊かれもしないのに自発的に親のことをしゃべっていたら、そいつの頭はネジがいくつか外れてる。そうじゃないか?「おれの両親のどんなことが知りたいんだ?」
「ゴンちゃんのお父さんのことを教えて」リサコは、はじめからそのつもりだったのだろう、即座に言った。「もう亡くなっているってことは前にちらっと聞いたけど」
「そうだ。おれが小学六年の秋に事故って死んだ」
「……交通事故だっけ?」
「ああ。長距離トラックの運転手だったんだ。九州に向かう途中の高速道路で、居眠り運転の車を避けようとして横転した。即死だったらしい」
「そうだったんだ……」リサコは、その気になれば湾曲させられるような、しなやかな視線をおれに向けていた。「どんな人だった?」
「ま、とっぽい男だったんじゃないかな。当時の写真を見ると、やけにキザな恰好してるよ。髪の毛はたいていリーゼントだし。ロカビリーが大好きで、エルヴィス・プレスリーとかカール・パーキンスとかのレコードをたくさん持ってた……そのうちの何枚かは今もおれの部屋にある。おれが生まれる前は関内のバーでバーテンダーをやってた。そこで、客としてやって来たおふくろと出会ったんだ。先に惚れたのはおふくろのほうらしいけど」
 リサコは先を促すようにうなずいた。
「親父のことを思い出す時に鮮やかに蘇るのは、近所の公園で暗くなるまでキャッチボールしたことだな。おれのコントロールが悪いとだんだんと不機嫌になっていくんだよな。おれはどうにか親父に機嫌を直してもらおうと、へんに気負って、さらにコントロールが悪くなるという」
「小学生の男の子にとって父親って、ものすごく大きな存在よね」
「ていうか、それは、小学生の男子に限ったことじゃないだろ」
「そうか……そうね」
「その年の誕生日にローリングスのキャッチャーミットを買ってくれる約束だったんだけどな……誕生日のちょうど一週間前に死んじまった。それが関係あるのかないのか……たぶんあるんだろうな……おれは中学ではサッカー部に入るんだ。以後は高校卒業までサッカー部」
「お父さんがいたら、野球をやってた?」
「う〜ん……ま、少なくとも中学では野球部に入ってたんじゃないかな。べつに、野球をやれって親父から言われた覚えはないけどね。体育会系のノリでもなかったし」
「ふうん」
「ま、でも、子どもってのは立ち直るのも早いんだよな。親父が死んで一年も経たないうちに、おれは慣れちゃってたよ、父親がいないことに。おふくろが立ち直るにはもっと時間が必要だったけど」
「お母さま……今は再婚されてるのよね?」
「ああ。親父の死から十年を経て、再婚した」
「その時はどう思った?」
「どう思うもなにも……おれももう大学を卒業する間際だから。良かったなあ、くらいの感想しかないよ。ほら、息子としても……しかも、おれ、いちおう長男だしさ……おふくろがひとりもんだとなにかと心配だろ」
「そうね……あたしもちょっと安心した……お母さんがパートナーと暮らし始めたときは」
「だろ」
「ゴンちゃん、きょうだいは?」
「四つ下の妹がひとり」
「妹さんか……今、なにしてるの?」
「美容師。母親も美容師だった」
「へえ、そうなんだ。どこで美容師をしてるの?」
「新潟。長岡」
「え……新潟?」きっとリサコは東京の、あるいは、少なくとも首都圏のどこで美容師をしているのかを尋ねたつもりだったのだろう。「どうして新潟に?」
「そうか……その話もしてなかったか」
「あたしが知ってるのは……ゴンちゃんが横浜のはずれで生まれ育ったってこと」
「そうだ。横浜市泉区で生まれ育った。けど、おれが大学に進学するタイミングで、おふくろは自分の生まれ故郷である長岡に帰ったんだ。中学生の妹を連れて。妹は長岡での生活にすっかり馴染んで……こっちには戻らなかった」
「ふうん」
「つーか、いつからか、妹は東京を嫌っているんだよな……いや、もしかしたら、東京というよりも、猫も杓子も一様に抱く東京への憧れに、げんなりしてるのかもしれない」
「なんとなく、わかる気がする」
「わかる気がする? リサコは東京生まれ東京育ちじゃないか」
「でも、わかる気がする。東京東京、ってバッカみたいってわたし思ってる、高校生の頃から」
「それ……田舎もんがなに言ってるの、ってことだろ?」
「ちょっと違う」リサコは言葉を探して上目使いになった。「うまく説明できないけど……東京が特別な街だなんて、あたしぜんぜん思ってないし。東京生まれをひけらかす人も苦手。きっかけさえあれば、べつの街に住んじゃうと思う」
「ふむ」おれはうなずき、リサコの話題に切り替えようかと一瞬思ったが、今はまだその時じゃないと思い直して、先を続けた。「まあ、妹の場合は、あまのじゃくなんだよ。みんなが右を向くと、あいつは左を向く」
「ふふふふ」リサコは笑った。「ゴンちゃんもそういうところあるでしょ」
「……まあ」認めざるを得なかった。「親父の血かな」
「お父さんもあまのじゃくだったの?」
「いや、そういうふうに記憶してるわけじゃないんだけど……ルーツとかを聞くとね」
 おれは親父のルーツをかいつまんで話した。権藤というのはもともと福岡にルーツを持つ苗字であること、親父の親父、つまり、おれの祖父は福岡で生まれたが、地元のしがらみに辟易して、北海道に単身で渡った人間であること、親父もまた札幌の高校を卒業後、家出同然で東京に出てきたこと。あまのじゃく、というよりは、流浪の血を引いているのかもしれないこと。
「遺伝とか血筋のことって考える?」
「普段は考えないけど」おれは言った。「時にはね。だって無視するわけにはいかないだろ?」
「そうよね」リサコはうなずいた。「あたしもそこがずっと引っかかってる……引っかかってるからこそ、普段は反発しちゃうの……血筋なんて関係ないって。そういうことを持ち出すのってナンセンスだって」
「ふむ」
「いずれにしても」とリサコは続けた。「あたしの真ん中には、ぽっかりと穴が空いてる」
「……穴?」
「そう。大きな穴。空洞。その空洞を埋めたくて無茶した時期もあった」
 おれは、リサコが十代の後半から二十代の終わりにかけて送っていたらしい、派手な、というか、荒んだ、というか、少なくとも地味ではない、生活のことを聞かされたことがあった……まあ、酒の席でのトークだし、おれ以外に聴衆もいたから、少しは盛っているのだろうが。
「父親をまったく知らずに育ったってのは、そういうことなんだと思う」リサコは淡々と言った。「ゴンちゃんにはわからないかもしれないけど」
「ああ、そうだな」おれは正直に言った。「おれにはわからないよ。想像することしかできない」
「それでいいの」そう言ってリサコは微笑んだ。「想像してみてくれるだけで」
 翌朝は最上階のカフェテラスで、広大な十勝平野と、西に日高山脈や北に大雪山を眺めながらゆったりとビュッフェスタイルの朝食をとり、午前十一時近くになってから、ホテルを出て、デミオに乗り込み、〈カフェ・ロールベール〉を目指した。
 前日同様、十勝の巨大な空には澄んだ冬の青が広がっていた。しかし、今朝の最低気温は氷点下十四度、午前十一時の時点でも氷点下五度だった。予想最高気温ですら氷点下三度。尖った寒気はまるで肌を切りつけるかのようだ。
 帯広市街地を抜け、十勝川を渡り、だだっ広い駐車場を設えた大型電気量販店やホームセンターやスーパーマーケットが林立する郊外を通り過ぎると、一気に田園風景が広がった——もっとも、田園とはいえ、見渡す限り白い雪に覆われているのだが。
 音更町の市街地の外れに位置する〈カフェ・ロールベール〉には、小一時間ほどで着いた。外壁のレンガ調とレモンイエローのツートンカラーが周囲の白い雪と背後の松林に映えている。建物の脇には店舗とは別の玄関もあった。正面に広めのテラスがあったが、テーブルやチェアの類いは出ていなかった。そりゃそうだろう。なんといっても氷点下なのだ。
 六台ほどが止められる駐車場のいちばん端にデミオをとめた。駐車場にはほかに深緑のトヨタのSUV車が停まっている。二重窓を通して、店内の様子がうっすらと見えた。窓側のテーブルに初老の男女が向かい合わせに座っていて、髪を後ろで結わえた二十歳くらいの女子が注文をとっているのがかろうじて見えた。若い女子は、もしや久米満夫の娘――つまり、リサコの腹違いの妹――だろうか?
 エンジンを止めたものの、リサコは運転席から動こうとしなかった。
「ん? どうしたんだ?」おれはシートベルトを外し、助手席のドアの取っ手に手をかけながら言った。
「……」リサコはステアリングに腕をかけたまま首を振った。
 道すがらのリサコはいつになく無口だった。おれは、慣れない冬道の運転に意識を集中しているせいだと思い込んでいたのだが……。「なあ、リサコ?」
「……なんだか」リサコはおれには顔を向けずこたえた。「調子が出ないの」
「調子が出ない?」
「今日はダメね」リサコは首を振りながら続けた。「きっと、まだ馴染んでないの……この土地に身も心も」
「身も心もこの土地に馴染んでない」おれはリサコの言葉を順序を変えて口にした。口にすることで理解できるかもしれないと期待しながら。
「そう。馴染んでないから調子が出ない」
「どうすればいいんだ?」
「もう少し時間が必要」
 赤いスズキの軽自動車が駐車場に入ってきて、デミオから一台置いて停車した。ほどなく、不動産会社か建設会社の事務職といった感じのグレーの制服の上にネイビーとブラウンのハーフコートのダウンを羽織った三十がらみの女性が二人出てきて、店に入っていった。昼食休憩にやってきたのだろう。
「つまり……」おれは話を再開した。「それまでは父親に会えないってことか?」
「そう」リサコはこたえた。「万全の状態で、とは言わないけど……今よりはもうちょっとましな状態で会いたい」そこでようやくリサコはおれに顔を向けた。「わかってくれる?」
 わかるもなにも本人がそう言うなら仕方ないじゃないか。おれはうなずいた。
「ねえ、ゴンちゃん」リサコは声音を変えて……普段のリサコに近い、弾むような口ぶりになって言った。「せっかく十勝までやって来たんだから、観光しようよ」
「観光? 外は氷点下だぞ?」
「ゴンちゃん、寒いの得意じゃん?」
「ま、これまではそのつもりだったが……いくらなんでもこれは寒すぎる……」
「でも、こんなに」リサコはフロントウィンドウから空を仰いだ。「晴れ渡ってるよ」
「まあ」おれはサイドウィンドウから空を仰いだ。目に染みるほどの青い空に刷毛でひと擦りしたような白い雲。「たしかに」
「なにも冬山に登ろうって言ってるんじゃない。冬ならではの観光をしようよ。そうこうするうちに、あたし、馴染んでくるはずだから」
「わかった」
「ホテルも変えよう」
「ホテルも?」
「そう。だって、こんな大自然に囲まれた土地にやって来たのに、市街地のホテルで過ごすなんて、なんだか損した気分。いちおう、温泉はついてるけど、露天風呂はないし……あたしが露天風呂好きなの知ってるでしょ」
「オーケー」とおれは言った。どうせ、今回の宿泊費はリサコ持ちなのだ。それに、いずれにしろ、こんなことを言い出したリサコを止められるはずもない。「リサコの思うままにしてくれ。おれは地の果てまでついていくよ」
10
 おれたちは帯広市街地のホテルに戻ると、荷物をまとめ、キャンセル料……すなわち、その日の宿泊費の80%を払って、チェックアウトした。それから、再び国道241号線を北進し(途中〈カフェ・ロールベール〉の近隣を通過し)、ふいに出くわしたシャレた造りの道の駅でのランチ休憩を挟みつつ、途中からは国道273号線に進路を取って、山間部に進入し、ほどなく大雪山国立公園区域に入った。そうして、トータルで三時間強の道のりを経て、日暮れの少し前に、ぬかびら温泉郷にたどり着いた。
 リサコがスマートフォンのアプリで予約を入れていたのは、外観こそかなり古びているが、内装はリフォームが施されて、今時のセンスで生まれ変わった温泉旅館だった。
 今度は同部屋だった。もっとも、スイート、というか続き部屋であり、リサコが奥の洋室、おれは手前の和室で就寝することを、あらかじめ――予約を入れる際に――約束させられたが。
 さっそく、露天風呂に入ったり、広々とした眺めの良い部屋で無為に過ごしているうちに、夕食の時間になった。地元の食材をふんだんに使ったディナーをボルドー産の赤ワインとともに食し、その後はまた風呂に入り、それからオーディオルームのような別部屋で見逃していた映画のDVDを観て過ごすうちに、午後十一時半をまわった。おれは、思うところはあった、というか、正直な話、じゃっかん体が疼いていたが、けしかけたところで上手くいかないのは見え見えだったので、おとなしく寝床に入った。その日は助手席に座っていただけで、たいしたことはなにもしていないのだが、それでもここのところの疲れが温泉につかったことで一気に噴き出したのか、眠りはいつになく深く、普段のおれにありがちな悪夢や尿意や喉の渇きで中途で目覚めることもなく、朝の七時を迎えた。

「今日はタウシュベツ川橋梁まで歩いていこう。幻の橋とかって言われてるやつ……知ってる? 毎年、夏から冬にかけては湖の底に沈むんだよ。いつだったか、テレビの旅番組でも紹介されてた……まさか、その場所に来てるとは……昨日、ここに着いてから、その橋の近くまで来てることを知ったの」
 朝食の席でリサコは言った。本当に調子が出てないのか?と疑いたくなるくらいに楽しげな口調で。
 リサコはさらに続けた。「それから温泉にも行こ……この先の山ん中に秘湯があるみたい……もっとも、車で行ける程度の秘湯だけどね」
 おれは、オッケー、それいいね、などと口先ではこたえながら、頭の中では起き抜けに考えたことを引き続き考えていた。つまり、岩澤めぐみの案件だ。リサコはいいが、いいというか仕方ないが、おれは悠長にこの土地に心身を馴染ませている場合じゃない。そんなことよりも仕事をしなければ。山中の旅館にいてもできる仕事はいくらでもある。旅館に設置されたWi-Fiが快適な速度であることは――おれたちの他に、ほんの数組の宿泊客しかいないことも関係しているのだろうが――昨日のうちに確認済みだ。
「さっき、オッケーと言ったけど……やっぱ、ごめん」朝食を食べ終わってコーヒーを飲んでいる時におれはリサコに告げた。「タウシュベツ? 幻の橋? だかには、ひとりで行ってくれないか。おれが付き添わなきゃそこには行けないってわけじゃないだろ?」
「行けないわけじゃないけど……どうして?」
「おれは仕事をしなければ」
「仕事?」
「ああ」
「もしや……」おれの顔色を窺いながら、リサコは自分も従業員のひとりであることを思い出したのか、神妙な口調で言った。「岩澤めぐみさん?」
「そうだ」そうしておれは要点を話した。三日前に久しぶりに病院を訪れたこと。由々しき容態であること。「今一度、すべての関係者に連絡を取りたいんだ」
「わかった」とリサコは言った。「じゃあ、今日は別行動にしましょう。晩ご飯までには帰ってくるわ」
「おう。くれぐれも安全運転でな」

 リサコがデミオに乗って出かけた後、おれはまず、浅沼裕嗣の母親に電話を入れた。じつは浅沼実代子とは、岩澤めぐみとの面会の後、つまり月曜の夕方にも電話で話していた。その時に、岩澤めぐみの余命が長くないことを知らせ、警察に捜索願を出すよう改めて頼んでおいたのだ。実代子は翌火曜の午後に最寄りの警察署に赴いて、捜索願を提出してきたという。これで、警察庁のデータベースには登録されたことになる。もっとも、浅沼裕嗣の場合は、自分の意思によって家を出た「一般家出人」というカテゴリーにあたり、積極的に捜索してくれるわけではないのだが。
 札幌で暮らす妹の山口美緒とも電話で話した。もともとおしゃべり好きな性質なようで、美緒は裕嗣にまつわる幼少の頃の思い出話を懇々と語ってくれたが、なんら有益な情報にはありつけなかった。
 それから、ミュージシャン時代の関係者や大学時代の友人、高校時代の友人や恋人、それに元妻にも、テキストやメールをしたためた。夕方までに返事があったのは、大学時代の友人である淵野典だけだったが。
 さらに、三年以上放置されたままの浅沼裕嗣のフェイスブックページを訪れ、失踪する二か月前の誕生日に祝いの言葉を寄せている三十四人全員に、簡潔なメッセージを書いた。お母さまが御体調を崩され、裕嗣さんと切に連絡を取りたがっております。どんな情報でもけっこうです。狡い手ではあったが、もはやなりふりなどかまっていられない。

 そうして、ひととおりのやるべきことを済ませた午後遅く、カゲヤマに電話した。
「え……部屋もいっしょなの!?」カゲヤマは腹をすかしたイグアナよろしく、その部分に食らいついてきた。おれが部屋がいっしょとはいえ、それは続き部屋で、寝る部屋は違うんだと繰り返すとカゲヤマは続けた。「だとしてもさ。いいなあ、いいなあ。それ、ほとんど、リサコとの観光旅行じゃん?」
「いや、さっきも言ったように、おれは宿に残って仕事をしてるんだ」
「でも、朝や夜はご飯を食べたり、露天風呂に入ったり……いいなあ……羨ましいなあ」
「しかし、気持ちはぜんぜん晴れない」とおれは言った。「いったいどうすればいいんだ?」
「どうすればいいってなんの話?」
「浅沼捜しだよ」
「あ……そっちね」と思い出したようにカゲヤマ。
「やっぱ、ちゃんとした探偵事務所に依頼すべきなんじゃないか?」
「ちゃんとした?」カゲヤマはまるで自分の子どもが非難されたかのような不服な口調で言った。「てことは、権藤探偵事務所はちゃんとしてない?」
「いや……ちゃんとしてないわけじゃないが……いかんせん……」
「なに?」
「常勤の探偵はおれ一人じゃないか」
「工藤探偵事務所だって、工藤俊作ひとりだよ」
「あのねえ……カゲヤマ社長」おれは呆れながら言った。「何度も言ってるけど、あれはテレビドラマでしょうが」
「じゃあ、逆に訊くけど、大きな……つまり、ちゃんとした探偵事務所だと……どうやって捜すの? この手の案件に、何人もの調査員を注ぎ込むの?」
「むむむ」
「あるいは、大きな探偵事務所は、天にまします神様だか創造主だかに通じるコネクションを持ってるわけ? それで、その偉人にひれ伏して、失踪した人間を捜してもらうの?」
「むむむ」
「ほらね」カゲヤマは勝ち誇ったように言った。「ようするに、大きい会社とて、やることはそんなに変わりないんだって」
「でも、いざとなれば、何人かは注ぎ込むよ……おれがバイトしてた探偵社が実際そうだった」
「わかったよ」カゲヤマは観念したかのような口調で言った。「ぼくにできることは?」
「お」おれは少なからず驚いた。こんなことを言い出すのは、創業以来、初めてのことじゃないか。「カゲヤマ、動けるのか?」
「じつは、ほんのさっき、大きな仕事に一段落ついたところなんだ」カゲヤマは少々バツが悪そうに言った。このワーカホリックのイグアナにとって、忙しくないと明かすのはバツが悪いことなのだろう。「この後、来週の水曜くらいまでは動けるよ」
「じゃあ」おれは言った。守屋拓巳という、浅沼裕嗣の高校時代のバンド仲間の足取りを調べてくれないか、と。「九年前には下北沢のライヴハウスに現れている。少なくともその頃は広告プランナーだった。おそらく東京に住んでいた。広告関係には知り合いが多いだろ?」
「まあ……それなりにね」
「その、それなりの数の人に片っ端から当たってみてくれよ」
「オーケー、やってみるよ」
「頼むぜ……とおれが言うのも、なんだかへんだけど」
「で、リサコのほうは」とカゲヤマはトピックを戻した。こっちの案件のほうが気がかりなのかもしれない。「何日もかかりそう?」
「どうなんだろう」こっちの案件はリサコ次第なのだ。さしあたっておれにできることはない。「おれの見立てでは、明日あたり、会いに行くって言いそうだけど」
「今はなにしてるんだっけ?」
「タウシュベツ川橋梁? 幻の橋? その上を国鉄時代の鉄道が走ってたとか。それを……そこまでは凍った湖の上を歩いていくらしいけど……見学に行って、それから、なんとかっていう秘湯に行くって言ってた。この先の山奥にとっておきの秘湯があるらしいんだ。あと、なんだっけな……とにかく、このへんは通好みの見所が多いらしいね。いずれにしろ、晩飯までには戻ってくるよ」

 しかし、その晩、リサコは戻らなかった。
11
 おれは、ひとりさみしく、かつ少々苛つきながらディナーを食べ、気がかりを抱えたままに風呂に入り、集中できぬままにYouTubeの動画を渡り歩き、日付が変わったところで、待ちくたびれて布団に潜り込んだものの、なかなか眠れず、たとえ眠りについてもその眠りは自分が眠っていることが意識されるほど浅い上に、細切れで、布団から抜け出しては部屋を出て旅館内をうろちょろしたりラウンジのソファでじりじりしたり、あげくに氷点下の表に出てみたりもした。もちろんリサコには何度もラインでメッセージを送った。メッセージはいっこうに既読にならず、しびれを切らして電話をかけてみると、電源が切られているか電波の届かないところにいるという旨のメッセージが流れた。
 午前二時半、心配が頂点に達して、警察に電話をかけた。しかし、管轄内および隣接する区域において、昨日の朝から現在に至るまで、被害者が身元不明であるような事故やなんらかの事件性のある出来事が起こったという記録や報告はないという。捜索願を提出するか、と問われた。少し考えてから、朝まで待ちます、とこたえた。それから、ようやく浅い眠りに落ちた。

 朝がやってきた。本日も美しい冬晴れだ。
 九時になったら、警察に再度電話して、警察署に行く足はないから警察官に旅館に来てもらおう、と思っていたのだが、八時五十五分にリサコは戻ってきた。
「ごめんね〜」続き部屋に入ってきたリサコは、まるで待ち合わせ時間に十五分ばかり遅れてきた女子高校生のような調子だった。「スマフォの充電がいつのまにか切れちゃってて……心配した?」
「あったりまえだろが」おれは安堵と怒りで声を震わせながら言った。「どういうことなんだ? 説明しろ」
「もちろん、します」とリサコは片目を瞑りながら。「でも、まずはお風呂に入って、それからチェックアウトしちゃおうよ」
「……チェックアウト?」
「東京に帰るの」
「……は?」
「用事は終わりました」
「お……終わった?」
「ごめんね、ゴンちゃんに相談もせずに勝手に行動して」
「……つまり?」
「うん……ぜんぶ車の中で説明するから」リサコは困惑するおれをよそに続けた。「午後いちの飛行機に乗らなきゃ」
「おいおい。どうして、そんなに急ぐんだ?」
「それも説明するから……とにかく、お風呂に入って、支度をしよう」

 得心はできないが、仕方ない。おれは、リサコに言われるままに、風呂に入り、それから荷造りと支度をした。そして、午前十時前には温泉旅館を後にして、リサコの運転するデミオの助手席に座って、とかち帯広空港を目指していた。
「昨日ね」リサコは、曲がりくねった山道を抜け、道路がほぼ直線になったところで、ようやく話し始めた。「凍った湖の上を歩いて幻の橋を見に行った後、秘湯の混浴に浸かっていたら、どういうわけかすっごくテンションが上がってきて――」
 リサコは〈カフェ・ロールベール〉に向かったらしい。木曜の夜はバータイム営業があり、久米満夫氏が店に出ていることは容易に予想がついた。
「観光客を装ってお店に入ったの」リサコは続けた。「こんな季節に観光客がふらりと入って来るのはすごく珍しいらしくて、地元のお客さんたちにチヤホヤされて……ふふふ……すごく楽しい時間だったわ」
「……それで」おれはじりじりしながら尋ねた。「父親には会えたのか?」
「会えたよ」リサコは淡々とすぎるくらい淡々とこたえた。「奥さんにも、娘さんにも」
「父親にはなんて言ったんだ?」
「なにも」リサコは首を振る。
「なにも?」
「うん。なにも言わないことにしたの」
「奥さんや娘さんがいたから?」
「ううん。そうじゃなくて」リサコは再び首を振った。「奥さんや娘さんがお店にいたのは最初のほうだけ。途中からは久米さんがひとりでバーを切り盛りしてた。お客さんがわたし以外に四人……牧場主とか食品会社の社長さんとか元ミュージシャンとか……あ、四人じゃなくて、閉店間際にひとり来たから……ぜんぶで五人ね」
「いや、客が何人とかはどうでもいい」おれは苛々しながら言った。「もう一度訊くが、父親になにも言わなかった?」
「うん。なにも言わなかった。最後まで観光客で通した」
「向こうは気づいてないのか? つまり、リサコの素性に」
「どうだろ……そこはなんとも言えない。もしかしたら、なにか感じるところはあったのかもしれない。だって、快く泊めてくれたんだし……あたし、思ってた以上に酔っぱらって」
「泊まったのは……住居のほうに?」
「お店の奥にちょっとした個室があって、そこにソファベッドが置いてあるの。休んでいきなさいって言われて、毛布や枕や部屋着を持ってきてくれた……そういうこと、たまにあるみたいね」
「たまにある?」
「うん。このへんは車社会じゃない? 車を運転してバーにやってくる人が多いの。だから、ノンアルコール飲料が充実してるんだけどね。でも、飲んでしまった人は車を駐車場に置いてタクシーで帰ったり、運転代行サービスを頼んだりするんだけど……週末だと二時間待ちとかになることもあるみたいで……そんな時に、気心知れたお客さんはその部屋に泊まっていくんだって。あたし、一見客なのに泊めてくれたんだよ」
「なるほどね」おれはうなずいた。「それにしても、なぜ久米さんになにも言わなかったんだ?」
「どうしてだろうね……自分でもよくわからないの」リサコは微笑みながら言った。「最初はもちろん言うつもりだったよ。だから機会を窺ってた。でも、楽しい時間を過ごすうちに、自分が誰であるかなんて知らせなくてもいいんじゃないかって思ったの。あたしのほうは、この人が父親だってわかってる。それでじゅうぶんなんじゃないかって……わかる?」
「ぜんぜんわかんない」おれは正直に言った。「なんだよ、それ?」
「なんだよそれ、って言われてもね」リサコは微笑みを崩さずにこたえた。「とにかく、あたしはすっきりしたの。今はとってもハッピー。そして、ポジティヴ。さあ、また、あたしの人生を生きなくちゃって思ってる」
「それは……素晴らしい……」
「ここんところ、あたしは自分の生きる道筋を見失ってた。見失ってるのを心のどこかで父親のせいにしてた。でも、違う。いや、違わないかもしれない。とにかく、念願の父親に会えたの。それでいいの。もう解決した。今日からあたしはあたしの人生を生きなくちゃ」
 それから、リサコは〈カフェ・ロールベール〉での数時間がどんなに楽しいものだったかをさらに話して聞かせた。リサコが描写する久米満夫氏は、おれが知っている久米満夫氏とはおよそ別人だった。鷹揚で、ユーモラスで、機転が利いて……。
 それから、急いで東京に帰らなくてはいけない理由をリサコは説明した。昨日の午後、高円寺〈シオン〉のムラタ店長から電話があったらしい。立て続けに何人かのフロアレディーが店を辞めてしまい、人手が足りなくて困っている、と。リサコは今年になってからほとんど店には出ていなかった。年明けはウズベキスタン旅行、その後は母親の看病、それから、宮古島の叔父宅に滞在、そして、北海道。「シオンには、あたし、ずいぶんとお世話になっているの。わがままをたくさん聞いてもらってるし。だから、お店が困ってる時は力にならないとね」

 とかち帯広空港にはお昼すぎに着いた。おみやげ店でおみやげを買い、ラーメン店でラーメンを食べると、まもなく搭乗時間になった。
 搭乗後、シートベルトを締めてからおれは、さきほどのリサコの話をぼんやり思い返していた。じつは、車の中で話を聞いている時に、妙な引っかかりを覚えていたのだが、その理由がわからなかったのだ。そうして、その理由に忽然と思い当たって、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
「おい、リサコ!」
「……どうしたの?」
「さっき……元ミュージシャンの男が客にいたって言わなかったか? 〈カフェ・ロールベール〉に」
「うん、いたよ。閉店間際にやってきた人……一杯だけ飲んで……しかもノンアルコールビールを飲んで……すぐに帰ったけど。それがどうかした?」
「その男は……」おれは自分のスマフォの写真アプリから、の写真を探し出し、それをリサコの顔につきつけた。「こいつじゃなかったか?」
 リサコは写真をじっと見つめた。「うーん……はっきりとは言えないけど……たしかにこんな雰囲気の人だったかも。ていうか、どうして、ゴンちゃん――」
 おれは、リサコの話を聞き終える前にシートベルトを外して立ち上がり、機内前方に向かって歩くフライトアテンダントの背中に向かって、叫んだ。というか、気がついたら叫んでいた。「すみません! ぼく降りますんで!」
(第12回へつづく)

桜井 鈴茂Suzumo Sakurai

1968年生まれ。明治学院大学社会学部社会学科卒業。卒業後は音楽活動ほか職歴多数。同志社大学大学院商学研究科中退。2002年『アレルヤ』で第13回朝日文学新人賞を受賞。他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』『女たち』『冬の旅』『どうしてこんなところに』『できそこないの世界でおれたちは』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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