双葉社web文芸マガジン[カラフル]

探偵になんて向いてない(桜井鈴茂)

イラスト:竹田匡志

第10回

第五話

 リサコが電話してきたのは、母親の葬儀の翌日の午後だった。
「昨日はお葬式に来てくれてありがとうございました」
「とんでもない」こういう時にどんなふうに返せばいいのか、友人としてどんなことを言えばいいのか、おれにはわからない――ほんとうはわからないで済まされる年齢ではないのだが……しかし、さしあたってはわからないので「おつかれさまでした」とだけ言い添えた。
「ねえ、ところで、ゴンちゃん」とリサコは声音と口調をがらりと変えて、というか、おおよそいつものリサコに戻って言った。「権藤探偵事務所に、従業員割引ってのはないのかしら?」
「従業員割引?」
「わたしは……権藤探偵事務所の従業員よね?」
「もちろん。非常勤のセクシー辣腕探偵だ」とおれはこたえた。「辣腕」は揶揄でもお世辞でもない。「セクシー」には多様な意味があるはずだ。「えっと……つまり?」
「捜してほしいの」
「……誰を?」直感的にわかったが、ちゃんと尋ねるのが作法である気がしておれは尋ねた。
「お父さんを」リサコはきっぱりと言った。のようなものが感じられる口ぶりだった。「わたしのお父さんを」
「ふむ」
「お願いします」リサコは言った。「割引料金で」
「わかった」おれはこたえた。「詳しい話を聞かせてくれ」

 おれとリサコはその晩、代々木上原のヴィーガン・レストランで会食した。ちなみに、カゲヤマは新潟出張で不在だった(昨日はカゲヤマとともに葬儀に参列したのだった)。
「なにから話せばいいかしら?」リサコはなかなかに値の張るカリフォルニア州産ピノ・ノワール種の赤ワインを飲みながら、切り出した。
「そうだな……」おれは、リサコとの電話を切ってからこの数時間の間に、派手に公私を混合しつつ、あれやこれやと考えを巡らせていた。「父親についてはどこまで知ってるんだ?」
「ほんの少し――最後の最後にお母さんが教えてくれたの」
 おれは小さくうなずき、赤ワインを口に運び、一口すすって続きを待った。
「名前と、かつてお母さんの患者だったこと、それに、職業」
 おれとカゲヤマは、昨日の葬儀で、リサコの母親がすでに引退してはいるものの眼科医だったことを、さらに言えば、萩原家が何代も続く医者の家系だったことを、遅ればせながら知ったのだった。「お母さんは勤務医だったんだよな?」
「そう。都立の総合病院と個人のクリニックで働いてた。わたしのお父さんはクリニックのほうの患者だったみたい」
「結婚はしていない?」
「結婚どころか、付き合ってもいなかったって。お母さんが欲しかったのは子どもだけなの。伴侶は不要だった」
「ふむ」
「自分の母親のことをこんなふうに言うのもどうかと思うけど」とリサコは前置きしてから評した。「お母さんってめちゃくちゃな人なのよ」
「めちゃくちゃ?」
「名誉のために言っておくと、医者としてはまっとうだったし、それなりに優秀でもあったと思う……でも、男関係はめちゃくちゃなの。なんて言ったらいいのかな……あばずれ? ビッチ? ニンフォマニア?」
「ニンフォマニア……いや、でも、ちゃんとパートナーもいたじゃないか」おれたちは葬儀の席で母親のパートナー――つまり、内縁の夫――を紹介されていた。
「それはここ十年くらいのこと」リサコは言い、軽く肩をすくめた。「たぶん……閉経してからの話じゃない」
 まあ、いいだろう、そのことについては。「ちょっといいかな」とおれは言った。「父親捜しには直接関係ないのかもしれないが」
「なんでも訊いて」とリサコは言った。「訊いてもらったほうが話しやすい」
「リサコはどんなふうに聞かされてきたんだ?」おれはリサコに会う前から尋ねようと思っていたことを尋ねた。「父親について。幼い頃から今に至るまで。さっき、最後の最後にお母さんがやっと話してくれた……そう言ったよな?」
「お母さんはわたしの十歳の誕生日にこんなふうに言ったの――『生物学上の父親はもちろんいる。でも、その人とはもう連絡がつかない。今さら連絡をつけようとも思わない。だから、父親と会うのはあきらめて。もういっそ、死んだってことにしましょう。それならあきらめがつくでしょ? あなたには母親しかいない。我が家では母親が父親も兼ねるの』……」
「なるほど。で、その話をおとなしく受け入れたんだ?」
 リサコはおれの問いは愚問だと言わんばかりに何度も首を振った。「あの手この手を使って、事あるごとに尋ねたわ。どんなに小さな手がかりでもいいから聞き出そうとして。誕生日プレゼントなんか要らないから教えてほしいって言ったこともある。でも、お母さんは断固として口を割らなかった。それで……いつしか……そうね、高校二年くらいの時かな……わたしもあきらめた。お母さんは子どもだけが欲しいヘンタイ女で、精子バンクみたいなところに登録していて、写真の見た目だけで安直に選んだ男の人に精子を提供してもらった――そんなふうに思い込もうとした……というか、自分に思い込ませた」
「……」
「ほかには?」
 半ば呆気にとられているせいで、頭はいつにもましてスムーズに回転しなかったが、おれは、接待飲食店のホステスと客というポジションを超えてリサコと仲良くなり始めた頃に、彼女が言ったことを思い出していた。もし死期を悟ったとして、そんな時にどうしても会っておきたい人はいるか、というおれの問いに彼女はこうこたえたのだ――会ったことのないお父さん、と。おれは改めて尋ねてみた。「今、このタイミングで、どうしても会いたいんだな?」
「うん、今しかないと思うの」とリサコは即答した。「お母さんがいなくなった今、このタイミングを逃したら、もう一生会えない気がするんだ」
 うむ。おれはうなずいた。
「わたしね」とリサコは続けた。「今の自分がいるのは親のおかげ、とかそんなことを思うような健気な女じゃないのよ。遺伝とか血筋とかだってあんまり信じていない。それでも、やっぱり胸のずっと奥で引っかかっているの。父親のことが。そして、母親と父親がどんなふうに、たとえ瞬間的にでも、愛し合ったのか」
 うむ。おれはもう一度うなずいた。
「お母さんが勤めていたクリニックを教えるから」おれからはもう何も言うことがないとみるや、リサコは言った。「わたしからもお願いしておく。カルテが残ってるといいんだけど……」
「わかった」
 リサコはちょっとだけ声を低くして言い加えた。「わたし、明日からしばらく東京を離れるの」
「ん? どこに行くんだ?」
「おじさん夫婦のところに」
「おじさん夫婦?」
「うん、お母さんの弟が宮古島で整形外科医をやってるの。別荘があるから、そこにしばらく滞在したらどうだって言ってくれて」とリサコは言った。「不思議よね。わたし、これまで親戚付き合いなんてまったくしてなかったのに。お母さんの死をきっかけに、親戚付き合いが始まるなんて」そうしてリサコはやおら表情を引き締めた。「……わたし、いくらお支払いすればいい?」
 おれにはわからなかった。人捜しをする場合の目安は設けていたが、それをこの案件に当てはめていいのかどうか。当てはめるとして従業員が依頼人となる場合は何割引が妥当なのか。なので「カゲヤマと相談して決めるよ」とおれは言った。「さしあたっては要らない」
 うん、とうなずき、リサコは再び神妙な口調で言いながら、頭を下げた。「どうか、お願いします。見つかったら、すぐに東京に戻ってくる。東京じゃないなら、そこに向かう」
 翌日の昼すぎ、おれは、リサコの亡き母親、萩原知果子ちかこが九年前まで勤めていた江古田眼科クリニックに赴いた。リサコが朝のうちに院長に連絡しておいてくれたおかげで、電子データ化以前のカルテがしまわれた半地下の資料室に入ることを許された。
 しかし、資料室とは名ばかりで、ようするに物置きだった。おれは、使わなくなった医療器具やら古い医学書やらをかき分けながら、午後いっぱい奮闘して(その間に指を二箇所切った)、リサコの「生物学上の父親」である(と母親が往生際に伝えた)久米くめ満夫みつお氏のカルテを見つけ出した。
 初診時に本人が記入した問診票も保存されていた。日付は1984年3月12日。久米満夫の生年月日は1955年7月14日、つまり、当時28 歳。職業欄には「役者」と書かれている。会社名の欄には「劇団第四星雲」。右の瞼が腫れ、強いかゆみが出て、クリニックを訪れたようだ。当時の住所は東京都練馬区旭丘1丁目×番×号 月光荘202号室。クリニックの住所も旭丘1丁目だから、ごく近所だろう。リサコが生まれたのが1985年2月13日……つまり、その約十一か月前に、リサコの母親と父親は(担当医師と外来患者という立場で)初めて会った、ということになる。
 
 次に、おれはグーグルに「第四星雲」と入れて検索してみた。
 少なくも見積もってもこの十五年間は作り替えられていないと思われる、IT世界における骨董品のようなウェブサイトが存在していた。骨董品のようではあったが、しかし、二週間ほど前にニュースが更新されていた。それによると、2月25日から高円寺の劇場での定期公演を控えているようだ。チケットは前売3,200円。「問い合わせフォーム、もしくはeメールにてお申し込みください」と記されている。
 ご丁寧にも、稽古予定や場所が記された劇団のスケジュール表も公開されていた。今夜も稽古だ。おれはさっそく稽古場所に向かった。
 下北沢の雑居ビルの三階。ドアから稽古中らしい物音や声が洩れ聞こえてきたので、廊下の奥に設置された喫煙コーナーのベンチに腰を下ろして待った。これまでの観劇体験をぼんやりと思い返しながら――といっても、両手で数えられるほどだが。尿意を覚えながらも客席が狭すぎて席から立ち上がることができず、終盤は粗相しないでいるのが精一杯で観劇どころではなかった拷問のような体験を思い出した。いずれにせよ、感銘した芝居よりも閉口した芝居のほうが多いのはどうしてだろう。おれと演劇というアートとの相性の悪さなのか。どのみち、おれには演劇を鑑賞するのに必要な素養が欠けている気がする。
 十五分後、ふいにドアが開き、老若男女がどやどやと出てきた。荷物の類いを持たずに出てくるところをみると休憩時間のようだ。ドア口ですれ違いざまに目が合った四十代半ばのひげ面の男に「すみません」と声をかけた。簡潔に来訪の理由を告げると男は「昔の話ならコンノさんに訊きな」と言って、部屋の奥に手を差し向けた。その手の先では、ボンボン付きのニット帽をかぶった男がひとりパイプ椅子に座って、脚本らしき冊子を読んでいる。
「ああ、満夫ね……懐かしい名前だ」今度の公演に関わるキャストやスタッフの中ではいちばんの古株らしい、コンノという役者は言った。ちなみに、おれはまだ一度も身分を明かしていなかった――端から明かさないつもりでいたわけではないのだが、なんとなく名乗り損ね、相手からも尋ねられなかった。「ずいぶん前に北海道に移住したよ」
「北海道? そうなんですか」いささか驚きつつおれは言った。「ずいぶん前というのは?」
「そうだなあ……もう二十五年くらい経つかな……地下鉄サリン事件って何年だ?」
「えっと……1995年ですかね」
「その年だった思う」
「なるほど。サリン事件となにか関係が?」
「いやいや、関係ないとは思うけど」コンノ氏は苦笑のようにも見える微笑を浮かべながら首を振った。「おれがそういうふうに記憶しているだけだ。あの年は個人的にもいろいろあったから。阪神淡路大震災もあの年だろ」
「ああ、そうでしたね」おれは同調しつつ、話題を元に戻した。「久米満夫さん……北海道のどちらに?」
「うーん……帯広のほうじゃなかったかな……おれはよく知らないんだよな……そんなに親しかったわけじゃないから」
「親しかった方を教えていただけませんか?」
 コンノ氏はどことなく群れからはじかれたボノボを連想させる悲しげな目をあちこちにさまよわせながら考えた。「ああ、そうだ。キョウコさんなら何かしら知ってるはずだ。アジアの片隅のキョウコさん。クラハシキョウコ」
「アジアの片隅?」
「新宿ゴールデン街のバーだよ……おれは何年も行ってないが、閉めたって話は聞いてないから今もやってるはずだ」
 おれは店名と人名を脳に刻み付けると言った。「ありがとうございます」
「ところで」自分が対面しているのが見ず知らずの人間であることに遅ればせながら気づいたのか、コンノ氏はふいに尋ねてきた。「あんた誰?」
「いえ、わざわざ名乗るほどの者では」おれは咄嗟に言った。どうしてそんなふうに言ってしまったのか自分でもよくわからないのだが。
「あ、そう」
 しかし、コンノ氏はあっけなくそう言い、ふいに立ち上がると、おれなど端から存在していないかのごとく、するすると部屋を横切ってドアから出ていってしまった。その時部屋に残っていたのは、床の上に仰向けに寝転がって天井、あるいは天井の向こうの夜空ないし宇宙を凝視する髪の長い女だけだった。声をかけるのは憚られたので、何も言わずに部屋を出た。喫煙コーナーでは男女八人ほどの役者ないしスタッフたちがタバコを吸いながら談笑していた。ビルの出入り口ではコンビニでの買い物から戻ってきたらしい男女六人ほどの役者ないしスタッフとすれ違った。誰ひとりおれに注意を払わなかった。透明人間になったような気分だったが、それはそれでなかなかどうして悪くはない。
 その足で新宿に向かった。少々手こずったものの〈アジアの片隅〉をゴールデン街の片隅に見つけた。
 客が七人も入れば必要な空気を巡って争いが起こりそうな狭い店内には、まだ九時半を過ぎたばかりだというのに、明らかに酩酊しているとわかる男が二人いた。どちらの男も還暦を少し過ぎたくらいか。店主は、深い諦念に浸されながらもどこか闊達なムードを漂わせる、やや浅黒い肌の大柄な女性だった。アジアの片隅ではなくカリブ海の片隅とかに生まれていたらもっと幸せだったかもしれない……いやいや、今だってじゅうぶん幸せなのかもしれないが。若作りの七十五歳にも老けた五十五歳にも見えなくない年齢不詳の女だが、二人の酔客とのやりとりから察するに、彼らよりはいくつか年上と思われる。
 結果的に匿名で首尾よくいったコンノ氏とのやり取りが念頭にあったので、おれは一見客のふりをして、山崎のオンザロックを注文した。そうして、氷山の体積が三分の二くらいになったところで、女店主にさりげなく久米満夫氏の近況を尋ねてみた。
「あら、不思議」女店主は驚き、それから、まるでしなを作るような表情になって、言った。「年明けに、久しぶりに来てくれたのよ、満夫くん」
「そうなんですか」
「数えたら十年ぶりだった……参っちゃうわね、時の流れは速くて」
「ぼくの聞いたところによると、久米さんは北海道に移住したとか」
「そう、十勝に」
「十勝……今も向こうにいらっしゃるんですよね?」
「というより……」そこで、女主人――クラハシキョウコは、やんわりとながら部外者を見るような目つきになって言った。「あなた、どちらの関係の方?」
「いえ……どちらの関係でもないんですが……うちの母親が芝居好きなもので」おれは口からでまかせに言った。よくも咄嗟に思いついたものだと我ながら感心しながら。「最近、若い頃に熱中していたアングラ演劇の話をしてくれたんですけど……そこに久米満夫さんの名前が」
「へえ」クラハシキョウコはなにか別のことを言いたげにうなずいた。「……お母さま、おいくつ?」
 おれはこたえた。年齢については噓は言わなかった。実際のおふくろはアングラ演劇などただの一度だって観たことはないだろうし、そのような……まあ、言ってみればハイブロウな文化とは無縁の人生を送ってきた人間だが。
「てことは、あたしの二つ上か」と女店主は言った。「いずれにせよ、奇特な方ね。満夫くんのことを覚えてるなんて」
「最近のことはすぐに忘れてしまいますが」
「老いてくると、みんなそうなるの」まるで自分のことを遠回しに非難されたかのように女店主は言った。「あなただって今にそうなるわよ」
「ええまあ、そうなんでしょうね」とおれは同意し、トピックを軌道に戻した。「久米さんは十勝でなにをされていらっしゃるんですか?」
「農業に陶芸に運転手に……なんだかいろいろとやってるみたいだけど……最近はちょくちょく国分寺に帰ってきてるって」クラハシキョウコはじゃっかん軌道から逸れながら言った。「お父様お母様がご高齢で……満夫くん、ひとりっ子だし」
「ご実家……国分寺なんですか?」
「そうよ。ああ見えても、元は国分寺の御坊ちゃま」そうして、ふふふふ、と揶揄からかうように笑った。
「連絡先……教えてもらえませんか?」そのように言ってるそばから、愚直すぎた、とさっそく反省した。
「……どうして?」
「母が……手紙を書きたいと」
「手紙?」
「好きだった人に手紙を書くのが母の生き甲斐になってまして」
 そこでクラハシキョウコはおれの目をじっと見た。その、射るような目力に耐えかねて、おれは視線を脇にスライドさせた。
「デタラメ言ってるわね」クラハシキョウコはあげつらうように言った。「デタラメはダメよ」
「いやいや」
「お母さんの話なんて、ぜんぶ噓でしょ」
「いえ……噓ってことは――」
「噓をつくなら、もう少し上手につきなさいな」
 バツが悪かった。そのへんに穴があったらさっそく逃げ込んでいただろう。
「あんたさ……」そうして、やおらクラハシキョウコはカウンター越しに身を乗り出し、おれの耳にだけ届くように言った。「探偵なんでしょ?」
「え、あ……」
「駆け出し?」皮肉な笑いを浮かべながら。
「……」
「じゃなきゃ、へっぽこね」
「駆け出しです」おれは仕方なく認めた。「……わかります?」
「あたしを誰だと思ってんの?」クラハシキョウコはおふざけ半分まじめ半分といった顔つきになって言った。「何年、ここで商売してると思ってんの?」
「す、すみません」おれは頭を下げるしかなかった。そして、財布から名刺を取り出し、恭しく女店主に差し出した。
 女店主は片手で受け取ると、住民税の督促状でも読むような目つきで、印刷されている文字を読み、それから裏返して例のイラストを目にすると、つまらないジョークを聞いてしまったかのように、ふんっ、と鼻を鳴らした。
「まあいいわ……許してあげる」とクラハシキョウコは言った。気を取り直した、というよりも、増幅する好奇心に押し切られた、という感じだ。「それで、駆け出し探偵が、満夫くんのなにを調べてるの?」
「調べているのではなく」おれはバカ正直な新米探偵に大変身してこたえた。「単に連絡を取りたいのです」
「どんな用?」
「それはちょっと……ここでは」
「ふーん」
「ご本人のプライバシーに関わることなので」
「そうはいっても、このあたしが取り持たなくちゃ、埒が明かないんでしょ?」
「ええ。そうです。はい」おれは再び頭を下げた。さっきよりも深々と。テーブルに額が触れるほどに。「久米さんの連絡先を教えていただけませんか?」
 女店主は意味ありげに天井を見上げた。すっとぼけるような仕草。どこかで見たことがある、とおれは思った。現実じゃなくて、おそらくテレビドラマや映画の中で。……ああ、そうか、そういうことか。おれはもう一度財布をポケットから取り出すと、そこから一万円札を抜き出して、女店主に差し出した。
 クラハシキョウコはおれの手から一万円札を素早く抜き取り、カウンターの下の、客席からは見えないところに収めてから、言った。「電話するわ」

 倉橋恭子が使ったのは携帯ではなく、店の固定電話だった。
「こんばんは、満夫くん………先日はありがとね……こちらこそ楽しかったわ……今どっち?……国分寺なのね……へえ……うん、うん……あら、それは大変……うん、あのね、今、お店に、探偵が見えてて……探偵……満夫くんと連絡を取りたいんだって……ううん、あやしいとかあぶないとか、そういう雰囲気じゃないわね……ちゃらい、ていうか姑息、ていうか……はははは……もちろん訊いたわよ……本人じゃないと話せないって……プライバシーだとかなんとか……うん、ちょっと待って……代わるわ」
 倉橋恭子がカウンター越しに差し出したコードレスの受話器を受け取り、耳に当てるとおれは切り出した。
「はじめまして、権藤と申します」
「探偵だって?」よく通るバリトンヴォイスが聞こえてきた。
「ええ、権藤探偵事務所の権藤と申します。久米満夫さんですね?」
「おれに何の用だ?」声そのものは福音書などを音読するのに向いていそうだが、口調は病床に臥すマフィアの右腕兼代理人のようだ。
「えっと……念のため確認させていただきますが、1955年7月14日生まれの久米満夫さんで間違いないですね?」
「だから、何の用だと言ってるんだ」
「久米さんと連絡を取りたがっている方がいまして」
「誰だ?」
「えっと……」顔こそ背けているものの女店主が聞き耳を立てているのがはっきりと感じ取れた。「それはここでは……」
「言えないのか?」
 おれはそれにはこたえずに話を先に進めた。「一度、お目にかかれないでしょうか?」
「どうして、おれが探偵なんかに会わなくちゃいけない?」
「会ってお話しさせていただければ、事情を理解していただけるかと」
「事情? かいつまんで話せ」
「ですから、それを、お会いして――」
「なあ、おい。おれがなにかしたっていうのか?」
「誤解なきよう。わたしは警察ではありません」
「そんなことはわかってる」
「こちらからお伺いいたしますので」
「そういう問題じゃない」
「ほんの五分でいいんですよ」対面することに拘泥したのは、今度の依頼人に先んじて会っておかなくては、という気持ちがあったからだ。
 数秒の沈黙の後で久米満夫はきっぱりと言った。「いや、断る」
「そこをなんとか――」
「代われ」
「……」
「キョウコさんに代われ」久米満夫は、雑輩を蹴散らすかのように言った。「あんたとはもう話さない」

 倉橋恭子はおれから返された受話器を持って、カウンターの奥に引っ込み、少しのあいだ久米満夫と雑談した。おれは鼓膜に全神経を集中させたが、酔っ払いの二人が口角泡を飛ばすような調子で政治談義をしていたせいもあり、内容はほとんど聞き取れなかった。女店主の横顔から察するに、とくに重要な話をしているわけではなさそうだったが。
 電話を終えると倉橋恭子は再びおれの正面に戻ってきて、おもむろに切り出した。「知りたいんでしょ?」
 おれは黙っていた。とんちんかんなことを口走らないためには黙っているしかない。
「それとも尻尾を巻いて帰る?」
 黙り続けた。とんちんかんなことを口走って、へっぽこ探偵だと舐められないためには黙っているしかない。
「どうしたのよ、急に?」
 なお黙り続けた。とんちんかんなことを口走って、へっぽこ探偵だと舐められて、後で自信喪失に陥らないためには、黙っているしかない。
「もう一枚」
「え?」心の中に浮かび上がった思いをつい音声にして漏らしてしまった。
「なにが、え?よ。ったくもう」倉橋恭子は、おれを憐れんでいるのか、半笑いになりながら言った。「もう一枚出して。教えてあげるから」
 しかたない。財布の中をあらためた。しかし、その「もう一枚」が入っていなかった。おれは白状した。「さっきのが最後の一枚でした」
 ちっ、と倉橋ママは舌を打った。「ったく、へっぽこめ。探偵が現金を持たずにどうやって仕事するのよ?」
 言い返せなかった。ほんとそうだよな、とあっさり認めてしまう自分がなんとも情けなかった。情けなくなりながらおれは言った。「おろしてきます」
「バカ」
「は?」
「そんな話……聞いたことないわよ。袖の下をコンビニでおろしてくるなんて」
「いや、でも、手持ちがない以上――」
「バカ」女主人は繰り返した。「今いくら持ってるのよ?」
「……八千円」
「じゃあ、それでいいわ」倉橋恭子はサント・ドミンゴに大きな縄張りを持つ女プッシャーよろしく、片目をぎゅっと瞑ってから言った。「かわいそうだから、山崎は奢ってあげる」
 倉橋恭子からアジアの片隅で買ったブツを小脇に抱えて、翌日、羽田空港へ向かった。
 久米満夫が搭乗する(はずな)のは、十六時五十五分発帯広行きの全日空便だ。
 おれは昨晩のうちに全日空の公式サイトで帯広行きの片道チケットを買ってあった。出発時刻までに申請すれば、数百円の手数料のみで払い戻してもらえる正規料金のチケットだ。
 余裕を持って出発の二時間前には羽田に着き、さっさとチェックインを済ませ、保安検査場を抜けて、一時間四十五分前には搭乗ゲート付近の、もっとも視界の開けた長椅子に陣取った。そうして、倉橋恭子から入手したひと月前の写真をスマートフォンで幾度もチェックしながら久米満夫が現れるのを待った。
 ひたすらに待つこと約一時間半、出発時刻の十六分前に、ようやく久米満夫の姿が見えた。搭乗ゲートに向かって大股で歩いてくる。もしゃもしゃの灰色の頭髪に、コンビフレームのブロウ型眼鏡、頭髪の灰色よりもじゃっかん薄い色の無精髭。上背は一八〇センチを、体重は一〇〇キロをゆうに超えているだろう。グレーとブルーのダウンジャケットに色落ちしたブルージーンズ、ベージュを基調にしたごっついトレッキングシューズ。もし、誰かに彼にはヒグマの血が流れているのだと教えられれば、おれは鵜呑みにしたかもしれない。
 と、まもなく搭乗の案内ができる旨のアナウンスが流れた。ゲート前にはすでにせっかちな客の列ができていたが、長椅子に座っていた乗客もぞろぞろと立ち上がり、あたりは一気に騒がしくなった。
 話せるのは、せいぜい四、五分か。躊躇ってはいられない。列の最後尾につこうとする久米満夫におれは近づいていった。
「久米満夫さんですね?」おれは当人を見上げながら言った。遠目から目測したよりもさらに大柄だ。一九〇センチ近くありそうだ。
「……?」ふいを食らって眉を釣り上げた顔つきに、おれはリサコの面影を認めた。いや、事実を知っているからそんなふうに感じるのだろうか。
「権藤です」おれは言いながら、軽く頭を下げた。
「権藤?」久米満夫の目には驚きを押し退けて疑いと腹立ちがせめぎあいながらせり出してきた。「どこの?」
「ゆうべ、お電話でお話ししました」
 久米満夫は思い当たり、嘆息を漏らした。「恭子さんから聞いたのか」
「いいえ」おれは首を振った。
「じゃあ、どうして……おれがここにいるのを知ってるんだ?」
「甘く見てもらっては困ります」今朝、鏡に向かって何度も練習した通り、おれは表情を変えずに言った。「わたしはプロの探偵です」
「まあ、いいだろ」久米は、自らを納得させるように言った。「それで?」
「ゆうべもお話ししたように、あなたに会いたがってる人がいます」
「誰だ?」
「娘さんです」
「はあ? 娘?」
「そうです、あなたの娘さんが」
「意味がわからん」久米満夫は、辟易したような口調で言った。「娘ならそろそろ家を出るところじゃないか。空港まで迎えにきてくれる約束だ」
「いいえ……そちらの娘さんではなくて」久米満夫の現在の暮らしについても倉橋恭子から聞いていた――彼女の知っている限りのことを。獣医を目指している大学生の娘がいる、奥さんは地元の人間でカフェだかレストランだかをやっている、満夫は奥さんの実家の畑作農業を手伝いつつ陶芸をやっている、冬季は除雪車の運転手もやっている、十勝では陶芸家としてそれなりに知られた人物らしい――そんな情報だ。「あなたが会ったことのない娘さんです」
「なんだと? おれが会ったことのない娘だと?」
「ええ」ジョーカーを懐に隠し持っているのはこちらだと言わんばかりに、おれは意味深にうなずいた。「萩原知果子……この名前に聞き覚えはありますか?」
「萩原……知果子?」
「ものもらいを治してくれた眼科医です。三十六年前の春に」
 久米満夫の目を肉食の野性動物のようにぎらつかせ、ひとかどの人物だと他人に思わせることに貢献していた光がみるみる輝度を失って、しまいには雨雲の裏側に隠れた。
「萩原知果子さんは亡くなりました」とおれは言った。「つい先だってのことです」
「……」
「往生際に、あなたの名前を娘さんに告げたそうです」
「……そんな……あり得ない」
「あり得ない?」
「どうして、今の今まで黙ってるんだ?」
「さあ……そのへんの事情はわたしにもわかりかねます」
「だいたい、おれは、その眼医者……」
「萩原知果子さん」
「女医」と久米は言い直した。名前など口にもしたくないかのように。「その女医と会ったのは全部で四回くらいのものだ。二回の診療を入れての四回だ」
「回数なんて関係ないのでは?」
「……いったいこれはなんなんだ?」
「と申しますと?」
「恐喝なのか?」
「恐喝? 滅相もないことを」
「新手の詐欺か?」
「いやいや」おれは笑顔さえ浮かべて言った。「ただ、娘さんが会いたがってるだけです。もうすぐ三十五歳になる娘さんが」
「……」
「動揺されるのは当然です。寝耳に水ですもんね」
「いや……動揺なんかしてない」久米満夫は動揺を隠すためか、目つきはともかく、口ぶりだけは元の剣呑なそれに戻って言った。「おれはそんな話には乗らない」
「乗らないもなにも――」
「知らん。帰ってくれ」
「会いたいと願ってる娘さんに会うことでなにか不都合なことがあるんですか?」
「おれには娘は一人しかいない」
「いや、だから、何度も言っているように――」
「たとえ、そんな人間が現れても、おれの娘だとは絶対に認めないからな」
「認知してほしいと言ってるわけではありません」
「じゃあなんなんだ?」
「ただ会いたいというのではダメなんですか」
「黙れ!」
 久米満夫はついに声を荒げた。そうして、おれを毛むくじゃらの大きな手ではねのけると、再び列の最後尾についた。その後は、おれが何を言っても、無視を貫き通した。あれだけ熱心に話しかければ、剥製のヒグマだって反応してくれただろう。
「なんとまあ」その晩遅く、カゲヤマは言った。場所は行きつけのスペイン・バル〈テルモ・サラ〉。ここ数日ろくに寝る暇もないほど忙しかったらしく、イグアナ系の顔にもイグアナ系の声にも疲弊が如実に現れていた。「連絡先もわからないまま?」
「いや、久米満夫の奥さんがやってるらしいカフェだかレストランだかの名前はアジアの片隅で聞き出したよ」とおれは言った。「そもそも、本人が十勝ではそこそこ知られた人物らしいから、むこうまで行っちゃえば、会うのはさほど難しくないだろうね」
「なるほど」
「しかし……」
「しかし?」
「久米満夫はリサコを自分の娘だとは認めないって――たとえ会いにきても」おれは言いながら、空港での久米満夫の、人を人とも思わない冷ややかな目を思い出していた。あの目がリサコにも向けられるのだろうか。
「けど、リサコだって」カゲヤマはあくびをこらえるような表情で言う。「認知してほしいって言ってるわけじゃないでしょ」
「あれは、認知するとかしないとかじゃなくて、それ以前の問題だな」
「なるほどね。まあ、でもさあ――」
「そもそも」おれは何かを言い出そうとするカゲヤマを遮り、羽田空港をあとにしてからずっと考えていたことを口に出した。「リサコは父親に会うべきなんだろうか?」
「……え?」
「会う必要なんかないんじゃないか?」
 カゲヤマは、イグアナ系の目をぐるりと回し、あくびをうまく利用した溜め息のような、あるいは溜め息を利用したあくびのような音を咽頭から漏らすと、言った。「ゴンちゃんはどうしてそう思うの?」
「だってさ」おれは言った。「父親を知らずに三十五年も生きてきて……もちろん、辛い時期はあっただろうけど……今やリサコは独立した立派な大人の女じゃないか」
「だから?」
「今さら父親に会ってどうすんだよ? しかも、ただの生物学上の父親だぞ?」
「どうするとか……そういう問題じゃないんでしょ」
「そういう問題じゃないなら、どういう問題なんだよ?」
「ただただ、会いたいんだよ」
「つーか、カゲヤマは会うべきだって思うのか?」
「会うべきとか会うべきじゃないとか……そういうことじゃなくて」カゲヤマは焦れったそうに言った。「会いたいんだよ。どうしても会いたいんだ」
「いや、だからさ」論点が嚙み合わないことにおれも焦れったくなっていた。「会いたい気持ちはわかるよ、おれだって、そりゃ。でもね、傷ついてまで会う必要はないんじゃないかって言ってるんだ。あの調子じゃ、リサコが会いに行ったって冷たくあしらわれる。実の父親に冷たくあしらわれるなんて最悪じゃないか」
「うーん……」カゲヤマはおれの主張には納得できないらしい。「たとえ傷ついても――」
「おれはリサコを傷つけたくないんだって」
「最後まで聞いてよ、ゴンちゃん」カゲヤマは、カゲヤマにしては珍しく、人を諭すような口ぶりで言った。「人には、たとえ傷ついても、傷つくのがわかっていても、越えなきゃいけないラインがあるんじゃないかな?」
「ライン?」
「ラインでも壁でもドブ川でもなんでもいいけど、呼び名は」カゲヤマは言った。「リサコにとって、じつの父親に対面するっていうのは、その越えなくちゃいけないラインだと思うんだよね」
 カゲヤマの言うことについておれは考えた。考えたが、よくわからなかった。少し後になればわかるかもしれないが、その時はよくわからなかった。
「というより」しばらくすると、思うところがあったのだろう、カゲヤマはまた話し始めた。いっけん、柔和、ではあるが、底には電流が流れているような語り口だ。「会うべきとか、会わないほうがいいとか、そういうことはさ、探偵が判断することじゃないんだよ。依頼人が自分で判断することなんだ」
「……」
「入手できた事実を、依頼人に丸ごと受け渡すのが、探偵としてのまっとうなあり方……じゃない?」
「探偵としてのまっとうなあり方……ねえ」おれはぶつぶつ言った。言い終わってからも、ぶつぶつ、は頭の中で続いていた。まっとう――これまでの人生でも常に悩まされてきた単語なのだ。
「ゴンちゃんのリサコを傷つけたくないと思う気持ちはわかる。そういうところに思いを馳せてしまうゴンちゃんがぼくは好きだよ。でも、その前に」そこで一拍置くと、カゲヤマは疲弊を目に滲ませながらも、こちらが思わず姿勢を正すほどの真顔になって、先を続けた。「探偵としてまっとうに振る舞わなきゃ」
(第11回へつづく)

桜井 鈴茂Suzumo Sakurai

1968年生まれ。明治学院大学社会学部社会学科卒業。卒業後は音楽活動ほか職歴多数。同志社大学大学院商学研究科中退。2002年『アレルヤ』で第13回朝日文学新人賞を受賞。他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』『女たち』『冬の旅』『どうしてこんなところに』『できそこないの世界でおれたちは』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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