双葉社web文芸マガジン[カラフル]

渋谷川ヴェイン / 長沢樹・著

© Minoru

41 浄化浄化浄化! ――十月二十二日 火曜

 飛鳥井美晴――
 適合者に憑依した〝悪意〟が、欲求を満たす行動を開始するまでには、潜伏期間がある。潜伏期間は、その〝悪意〟が持つ欲求の強さや、置かれている状況により左右される――と香砂は説明してくれた。周囲に〝悪意〟が多いほど、影響し合い、潜伏期間は短くなり、起こす行動も大きくなる。
『だから大きな街はやばいのです。今のここは凄く危険』
 ヘリの爆音、人々の罵声の中でも、香砂の言葉が耳に残っている。
 視界の大部分を遮っているものは、人の渦であり、壁だ。その壁は意思を持ち、或いは理性を失い、蠢き、行く手を阻んでいた。
 美晴の傍らには、やきもきしたような表情の香砂。
『佐藤さんが抱きついて止めてる』
 美晴のスマホには、如月由宇の静かな声。『今のところ正当な理由がないから、早く来いと言ってる』
 混乱の中、如月は佐藤と合流し、岩波楓から剥がれた〝悪意〟が憑依した人物を発見し、捕らえたのだ。問題は、法的根拠がないため、長く押さえておけないこと。
 如月が正確な位置情報を送ってきた。竹下通りからフォンテーヌ通りに向かう路地の一角だ。
「ついてきて」
 美晴は香砂に声をかけ、人の渦へ飛びこみ、目的地へと向かう。直線距離で百メートルほどだが、幾度となく揉まれ、ぶつかり、時に罵声を浴びる。菊池がついてきているかなど、とうに気にしなくなっていた。そして、移動の最中にも、昴から着信が入る。
『俺とタイロンでやべーヤツを二体足止めしてる。早く来やがれ』
 美晴は走ったまま「一体処理してから行く」とだけ言い、通話を切る。
「見つけた。前に出る」
 香砂が美晴を追い越し、スピードを上げた。
 何度繰り返しただろう、何度繰り返さなければならないのだろう――そう考えた瞬間、息苦しくなった。呼吸を深くし、無意識に視線を振り回し、人の壁に囲まれていることに、圧迫感を覚える。パニックになりかけてる――と自己分析するだけの理性をまだ保てていることを、美晴は確認する。わたしはまだ大丈夫と。
 スマホを動画モードにして、香砂の背中を追う。
 路地を曲がり、人の壁の隙間から佐藤が見えた。
 躊躇せず突進する香砂。佐藤に抱えられた金髪の男が暴れ始める。そこへ香砂が重なり、数秒後には金髪が呆然と地面にくずおれる。しっかり撮ることができた。これで何体目? 四体? 五体? サーモグラフィ・カメラによる撮影は最初の二体か三体でやめていた。
「もう大丈夫」と香砂が金髪に声をかけ、美晴へ視線を向ける。「次は?」
「昴のとこ」
「もう感じてる。案内はいい」
 香砂は休むことなく、迷うことなく、人の渦へ身を躍らせる。それは紛れもなく、正義の味方の姿だった。

 赤井昴――
「香砂おせーよ」
 昴は人であふれた路地の中央に佇む、長い黒髪の女性を視界にとらえたまま叫ぶ。「いつ来んだよ!」
 竹下通りから北側に一本入った路地の一角だった。
「男は忍耐ね!」
 身長一八○センチ以上はあろうかという、マッチョ白人に組み付いて押さえているタイロンが応えた。
 女からは男性に対する嫌悪感が強く感じられたが、それは彼女に巣くった〝悪意〟が発しているものだ。今はサンダとガイラが、女性の周囲を牽制するように回っていて、動けないでいる。満員電車のような人混みで、女は通行の妨げになっていた。対して白人マッチョ男は、Tシャツ一枚で陽気に歌っているが、女性に対する強烈な欲情と暴力欲求が感じられた。絶対に放してはならない〝悪意〟だった。ただ、本体が泥酔状態であることが幸いしているのか、巣くった〝悪意〟の欲求はまだ発動していない。
「てゆーか、おっさんも手伝えよ!」
 昴はスマホでの動画撮影に余念がない後藤に言う。「鉢巻きが泣くぞ」
「取材が私の仕事だ! 誠心誠意君たちの活躍を記録しているのだ!」
 後藤はスマホを昴に向けた。「ほら、君の活躍も。これをリアルタイムに編集部に送り、世界に発信するという崇高な……」
「偉そうな言葉で誤魔化そうとするな……待った、三体目が来た!」
 昴は黒髪女性の後方に視線を向けた。次の瞬間、生物への強烈な殺害欲求を持った〝悪意〟が、竹下通りを横切っていった。
 猫背気味で仄暗い目をした若い男――まだ欲求の爆発的覚醒はないが、この状況ではいつ暴れ始めてもおかしくなかった。
「一番やばそうなやつじゃねーか?」
 昴は口の中で呻く。
「おっさん、今横切ってった黒いニット帽でリュックの男、写メ撮って女刑事に送ってくれ。明治通りに向かってるって!」
「写真撮って送るだけでいいんだな?」
 後藤は笑顔を引き攣らせ、へっぴり腰のまま竹下通りに向かって走った。
 入れ替わるように、香砂が人の間を走り抜けてきた。
「お待たせ!」
 香砂はスピードを弛めることも臆することもなく、まずマッチョ白人に飛びかかった。 

 水瀬優子――
 岩波楓が逮捕された場所を中心に、半径三十メートルほどから人が遠ざけられた。
 明治通り、表参道が完全に封鎖されたほか、青山通りも一部交通が規制されていた。JRと地下鉄も止まった。JR原宿駅、地下鉄の北参道、明治神宮前駅も封鎖され、人の流れは完全に止まった。
 正直、水瀬も、警視庁がここまで徹底するとは思っていなかった。
 NBC=テロ専門部隊の対策車が人垣を割り、ゆっくりと近づいてくる。本来『化学防護車』と書かれている部分にステッカーを貼り、隠していた。パニック対策だ。降車してきた隊員も、防護服ではなく口周りをマスクで隠すだけの最低限の装備だ。
 上層部は、毒物の拡散と、封鎖地域内のパニックを両天秤にかけたようだ。最悪、被害者は出張ってきた警官たちも含め、封鎖地域内だけに留めるという、ギリギリの選択か。
 岩波と石崎は、対テロ部隊の別車輌に乗せられた。様子見と、細菌などに感染していた場合の受け入れ先の検討が始まっている。
 岩波楓を巡る茶番は――自分以外には、深刻で細心の緊張を孕む実戦だった。〝液体〟の中身は、化学班が封印し、分析のため持ち去ったが、いずれただの除菌消臭剤とわかるだろう。
 ――どうなんだよ、毒なのかよ! いつまでここを封鎖すればいいんだ!
 捜査員が、NBCの隊員に叫んでいる。
 ――女が霧を撒いた範囲は把握できてるのか!
 対テロ部隊の指揮官が聞き返す。
《狩りにかかる》
 美晴のメールが届いてから四十分が経っていた。水瀬は明治通りと原宿通りの交差点付近に戻り、〝悪意〟に憑依された者が来れば、足止めする役目を負っていた。
 警察官としての一線を越えたという罪の意識も、胸に重くのし掛かっていた。
 作戦の発案者は菊池だ。
 多少は切れる記者と評価していたが、とんでもない山師だった。
 今から二時間ほど前、美晴に呼び出され、建物の狭隘にある空き地に行くと、岩村と石崎がいた。
 そこで、作戦を聞かされた――岩波楓が抱える全ての〝悪意〟を放ち、〝悪意〟を察知する能力がある赤井昴、如月由宇が憑依された者を発見、追尾し、可能ならば足止めし、香砂の到着を待つ。憑依された者が原宿を離れないよう、警察が周囲を封鎖し、人々を足止めするような状況を作る。
 その答えが〝液体〟の噴霧であり、石崎の拉致という非常手段だった。作戦と言うより、実質その場で考えた対処療法だった。
『〝浄化〟できても、すぐにほかの〝悪意〟が入り込んでくるなら、無駄な作業にならない?』
 水瀬は注意喚起のつもりで菊池に言った。『〝浄化〟も今日全て行う必要はない。一体一体時間をかけてやればいい』
 正直、最初に菊池の計画を聞いたとき、冗談だと思った。或いは、常軌を逸した精神状態が作り出した妄想とも。だが、菊池は真剣だった。
『これを見ていなかったら、こんなこと思いつきませんよ。まずは見てください』
 菊池がタブレット端末を手渡してきた。『石崎さんのものです。本人に了承を得て中を見ました』
 石崎はどう考えても、茫然自失としていた。「見ていい?」と聞くと、石崎は力なくうなずいた。
 ディスプレイをタップする。
 岩波の写真と――彼女の罪状と、殺害を促すアジテーションが記されていた。さらにタップすると、藪下麻巳子、比留間敬太、有田悠一の殺害アジテーションのページが出て来た。しかも、《殺害完了》のマーク付きだ。
『岩波さん自身が石崎にメールを送り、自分を殺すよう殺人者に依頼したそうです』
 だが、石崎は実行犯ではなかったという。
『石崎さんが実行犯でなかった以上、ほかに実行犯がいて、これを見ている可能性が高い。かなり』
 菊池は言った。『それに、いずれも最終アップ時間から一時間以内に殺人が実行されています』
 メモ帳を取り出し、アップの時間と照らし合わせた。言葉が出なかった。ほぼ、リアルタイムで標的の動向が画像付きでアップされていた。
『ならば実行犯は、今岩波さんがここにいることを知っていて、近くに来ている可能性が極めて高いと考えられますよね』
 封鎖の目的は、第一に岩波の抱えている〝悪意〟を憑依させる適合者をなるべく一箇所に集めることと理解していた。
『若い人ほど、心に迷いや隙も多く、〝悪意〟が入り込む余地がある』
 香砂は言った。だから原宿なのだ。『楓ちゃんの中にいる十二体は、もう覚えた』
 そこで、第二の目的があることに思い至った。
『封鎖すれば、実行犯はここから離れることはできない……そう考えて?』
 香砂が十二体の特徴を覚えて、全て〝浄化〟する。そして、改めて別の〝憑依者〟を探す。十二体以外にどれだけの〝悪意〟が、今ここにいることはわからない。だが、ここ数日香砂が〝浄化〟して回り、確実に数は少なくなっている。
『香砂ちゃん、この近辺の〝悪意〟のことは把握してる? 数とか種類とか』
 非現実的なこと口にする違和感を、まだぬぐい去ることはできなかった。
『だいたいはわかってるです。記者さんと同じ事を聞くのね』
 やはり――『実行者も何らかの〝悪意〟に憑依されている可能性が高いと考えたのね』
『機械のように殺人を繰り返すから、という根拠しかないが、城丸さんも否定はしなかったんで』
 菊池は応えた。『それに警察官が大量に出張って、なおかつ岩波さんを囲んでいれば、実行犯は彼女を殺すことはできない、たぶん』
 岩波は菊池の作戦に同意した。それは自分が犯罪者になるという選択だった。
『もともと死ぬつもりだったから。石崎さんの……たくさんの人の人生を壊してきて、人の命まで奪ったんですもの。もう犯罪者です』
 現段階で、岩波楓は犯罪者ではない。石崎に、自分を殺すようメールを送っただけだ。或いは――
『久島さんが誰かに襲われたんだけど……』
 岩波に聞くと、美晴が『えっ』と声を上げたが、岩波は首を小さく傾げた。
『知らない?』
 水瀬が聞くと同時に菊池がスマホを、岩波の前に掲げた。久島の写真が表示されていた。
『彼のことだ』と菊池。
『わたしです』
 岩波は俯き、応えた。名を知らなかったような反応だ。或いは偽名を使っていたのか。
『石崎さんのアドレスも久島さんから?』
 視線が泳いだ。久島から入手したようだ。二人の関係について捜査が必要か。
『十二人の凶悪犯が新たに誕生する可能性と、三人を殺した実行犯がここにいる。一網打尽のチャンスだと思うんだが』
 菊池が追い打ちをかけてきて、決断に揺さぶりをかけてきた。
 夜叉使いや〝悪意〟の存在を認めている捜査員は、ごくわずかだった。
 道を踏み外す決断をした。

 しかし、この総力戦態勢、茶番だとわかったら泰司でも庇いきれない。
 最良の選択だとも思っていない。
 だが、決断した。封鎖が解かれるまでの時間は読めないが、岩波はギリギリまで粘り、今現在も香砂は、全ての〝悪意〟を全力で〝浄化〟している。
 岩波が捕まり、警官たちの喧騒が静まり、群衆も幾分か落ち着いたかのように見えるが、小さなイザコザはあちこちで起こっている。
 佐藤からも、昴からも連絡がないということは、連絡もできないほど〝仕事〟に集中せざるを得ない状況なのだと解釈した。
 ジリジリと時間が過ぎる中、相島が合流してきた。
「係長に現場預けてきました。こっちはどんな感じっすか」
 相島は、顔に疲労を浮かべていた。
「城丸香砂が狩りの最中」
「さすがにこれだけ人が集まると、獲物も多いってわけっすか」
 相島には、菊池の作戦を伝えていないが、水瀬が〝悪意〟の存在を前提に動いているのは知っていた。
「なるべく多く狩れば、こっちの仕事は減るぞ」
 無謀な〝作戦〟の責任を抱えるのは自分だけでいいと思っていた。
「ありがたいっすね。課長に頼んで妖怪専門部隊つくってもらいましょうか」
 二人で警戒を始めたところで、メールが届いた。美晴から教えられた、後藤という同僚記者の番号だ。
《怪しい者がそちらに向かいました。手が放せなくて追えません。お任せします》というコメントともに、画像が送られてきた。
 黒のニット帽に、チェックのカラーシャツ。デニムパンツにリュック。仄暗い表情。痩せ形。二十歳前後か。本職が撮っただけあって、被写体の特徴がよくわかるアングルだ。
 相島に、画像を見せる。
「こちらに向かっている。見つけて職質かけて」
「取り憑かれた凶悪犯候補ね」
 相島は対象者の顔を憶えると、「表参道側を張ります」と小走りで人混みに消えた。
 たった二人の網は、目が粗すぎるが、水瀬は自分の目に絶対の自信をもっていた。衆から個を見つけ出す力だ。ゆっくりと動きながら、視線を左右に走らせる。不安、怒り、焦燥、冷静、様々な顔が視界を過ぎてゆく。たとえ何千、何万の人がいようと、そこから〝異質〟を見つけることは彼女にとって容易いことだった。
「見つけた。捕らえるぞ」
 相島にだけ告げ、ニット帽の男を追う。
 男は背を丸めるように俯き、パンツのポケットに両手を入れている。原宿通りに入ろうとしているようだ。
 行く手を阻むように横入りし、男の足を止めた。水瀬には、普通の〝陰気〟な少年にしか見えないが、強力な〝悪意〟と欲求が一致し、憑依されているのだ。
「ちょっとごめんなさい、警察の者だけど」
 笑顔を意識した。「荷物見せてもらえないかな」
 男は不満を漏らすでもなく、水瀬の目を一瞥すると、リュックを下ろして、ファスナーを開けると、手を入れた――ところで不穏な気配を感じ取った……瞬間、男がリュックから手を引き抜き、体ごと水瀬に向けて突き出してきた。水瀬は咄嗟にのけぞり、刃物の切っ先が眼前を過ぎてゆく。体勢を立て直す間もなく、体当たりを浴びる。浮遊感を覚えつつ夜空が見え、背中と後頭部に硬質な衝撃。一瞬失われる視覚と聴覚。のし掛かる重み。闇雲に顔の上の空間を腕で払うと、手応えがあり、「ぐえ」と呻き声がした。
 視界が戻ると、十数センチの距離で男の顔。無表情。マウントポジションを取られていたが、体の動きや重心の取り方で、格闘技の心得がないことがわかった。視界の端に、男が右手に握るナイフが見えた。水瀬は動き始めた右手首を取ると、男の下で体勢を変え、三角絞めに入った。そこでようやく周囲が、異変に気づき始めた。
「なにやってる!」
 相島の声が聞こえ、直後に男の右腕がねじり上げられた。
「城丸が来るまで、助けは呼ぶな」
「やられそうになっててなに言ってんすか」
 相島は男を俯せにし、路面に組み伏せていた。「現逮でしょ、これ」
 ――また誰か切れてるし。
 ――いつまで待たせんだよ。
 声が聞こえてくる。男を組み伏せることが、その程度の反応になっていることで、香砂の行動も、特別印象に残るようになってはいないと想像できる。菊池がそこまで計算していたとは思えないが――
《ニット帽男捕らえた》
 水瀬は立ち上がりメッセージと位置情報を美晴に送った。
 相島が手首を極め、男の手からナイフを振り落とす。
 異変に気づいたのか、制服警官が二人、駆け寄ってきた。見知った顔だった。
「ナイフを持っていたから」
 水瀬は男に目を落とす。
「引き受けますが」
 年嵩の巡査長が言ったところで、人垣の中に美晴と香砂の姿を見つけた。逸る香砂を美晴が抑えているようだ。
「警戒を続けてください。ここはわたしたちが処理します」
「しかし……」
「対テロ班の動きをなるべく近くで見ておきたいの。こんな機会めったにないですし」
 水瀬が耳打ちするように言うと、巡査長は敬礼し、若い巡査を連れて警戒に戻った。方便だったが、信じてもらえたようだ。
 二人の姿が消えるのを待って、香砂が駆け寄ってきた。
「ありがと、刑事さん」
 香砂は相島を押し退けるように男にのし掛かり、首元に顔をうずめた。
 美晴が息を呑み、小型カメラで香砂の周囲を撮影する。背筋に冷気が走ったような気がした――と同時に男がのけぞった。耳の奥で断末魔が響くのを感じ、思わず周囲を見渡した。
 香砂がゆっくりと立ちあがった。肩で息をしていて、明らかに消耗していた。
「これで全部」
 あとは、殺人の実行犯か――
「封鎖が解かれないうちに、本命を探してくれないか」
 いつの間にか菊池が背後にいた。「如月さんは、まだ持ち場で待機してもらっている」
 
 飛鳥井美晴――
 香砂が最後の〝悪意〟を〝浄化〟してから、封鎖が解かれるまでのおよそ一時間、キャットストリートから竹下通りに至る原宿一帯を歩き回ったが、殺人を犯すような〝悪意〟は発見できなかった。
 美晴と菊池、香砂はキャットストリートと原宿通りの交差点に戻ってきた。
 溢れていた人も、今は半分ほどになっている。明治通り、表参道とも通行止めが解除され、JR、地下鉄ともに運転を再開していた。
「どういうことなんでしょう」
 美晴は菊池を見たが、思案に没頭していて無言だ。
「見逃したって可能性は?」
 こんどは香砂に聞いた。
「ないです」
 香砂は即答した。「何人も殺すようなのがいれば、距離があってもわかるです」
 しばらくして如月と昴も、タイロンと後藤を伴って戻ってきた。
「どうだった?」
 結果は連絡を受けていたが、美晴は改めて聞いた。
「この辺り、今はもの凄く清浄。この下も」
 如月が、足元を指さした。キャットストリートの下を流れる渋谷川もという意味だ。
「楓が根こそぎ集めて、香砂が全部狩ったんだからな」
 昴が訳知り顔で補足する。「ザコも香砂が暴れ回ったせいで、どっかいったし」
「だったら、混乱の初期で立ち去った可能性はない?」
 美晴にはこの結果が納得できなかった。菊池の推測は筋が通っていた。「まだ封鎖態勢が不十分だった間に、逃げた可能性よ」
「自信はないけどさ、何人も人殺すようなヤツが近くにいたんなら、気づくと思う。〝殺し屋〟の気配も楓が連れてた〝憑き物〟の気配も、初めて感じたときは、背筋が凍ったぜ。美晴もその場にいただろう」
 話についていけないのか、タイロンと後藤が顔を見合わせていた。
「岩波さんの十二体以外に強力な〝悪意〟はいなかったのね」
 美晴は念を押す。
「だからいなかった。ただ自信はない。言ったろ」
 昴が言うと、如月もうなずいた。
「わたしも標的の十二体以外の気配は感じてない」
「だとしたら」
 水瀬の口調が改まった。「最初からいなかったか」
「その可能性は低いと考える」
 菊池が口を開いた。
「なら、実行犯に〝悪意〟は憑依していないということね」
 水瀬が美晴と菊池に向きなおる。「退治するのは、わたしたちの仕事ね」
(第24回につづく)

バックナンバー

長沢樹Itsuki Nagasawa

新潟県生まれ。二〇一一年、第三一回横溝正史ミステリ大賞〈大賞〉を受賞し、『消失グラデーション』でデビュー。他の著書に『夏服パースペクティヴ』、『冬空トランス』、『リップステイン』、『St.ルーピーズ』など多数。

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