双葉社web文芸マガジン[カラフル]

渋谷川ヴェイン / 長沢樹・著

© Minoru

0-1 浄化する

 その女性に最初に気づいたのは、先週。仕事の帰りだった。駅の改札を出たところで、正面の柱の前に立っていて、不意に目が合った。
 その時はたまたまだったと思い、気にしていなかった。後から、あれが最初だったと思い出したのだ。
 次に気がついたのは、月曜。商店街を抜ける帰り道。バス停に立っていた。
 おかしいと思ったのは、その翌日の夜、帰り道にあるコンビニで姿を見かけたときだ。ヨーグルトを買って帰ろうと思っていたのだが、彼女が棚をふたつ隔てて私を見ているのに気づいた。横目で観察する――高校か大学の運動クラブに属しているのか、赤いジャージ姿。童顔に見えるが、歳は二十歳前後だろう。髪はショートが少し伸びた感じ。ノーメイクだが、少しミステリアスな一重の目が、獲物を狙うかのように爛々と光っていた。
 にらみ返しても、驚きも怯みもしない。
 獲物を狩る目――恐らく、わたしを取り巻く“悪意”に導かれてやって来たのだろう。
 なら、彼女は“悪意”の浄化を生業とする者か――この現代に!
 ヨーグルトを二個とビタミンドリンクを買って、コンビニを出た。彼女はペットボトルの水を買って、私を尾けてきた。
 明るい通りから住宅街、その住宅街から雑木林の間を抜け、割岩橋に差し掛かった。
 この辺が適当か。橋の中央で、立ち止まり、振り返った。街灯は遠く、彼女の表情はよく見えないが、落ち着いた様子で、しかし殺気をちらつかせて歩み寄ってきた。
「こんばんは」と言ってみたら、彼女も「こんばんは」と返してきて、足を止めた。
 およそ三メートルの距離を置き、対峙する。
「どうする?」
 一応、聞いてみた。
「仕事をします」
「地面がないとだめ?」
 地夜叉使いなら、地面がなければ浄化はできない。そしてここは、入間川にかかった橋の上。
「いいえ?」
 ――チヤシャ……クチ。
 彼女がぼそりと呟いた途端、闇の中で剣呑な気配が蠢いた。同時に、彼女の唇がぼうっと青く光を帯びたような気がした。
「結構な使い手なんだ。でも仕事ってなによ」
 彼女は応えない。
「仕事のわけないよね。これでお金もらってるわけじゃないでしょ? どうして? 何日もわたしのこと尾けてたみたいだけど、仕事は? 生活費は? それとも学生の道楽? 就職するまで趣味でやってるとか?」
 少しだけ、彼女の殺気が威を失った。やはり、そこが弱みか。
「あなたは、自分が何者かわかってる。わたしも自分が何者かわかってる」
 彼女は言葉を噛み潰すように言った。
「あは、そういう家系だからやってる? 使命だから? それって思考停止してない?」
「あなたを浄化します」
「浄化するって、また思考停止。答えを出しなよ、一銭にもならないのに、どうしてこんなこと続けてるの? 道楽なら、この上なく悪趣味で悪質。それに……」
 わたしは、ひと呼吸置き――「いきなりわたしに襲いかかったら、傷害犯だよ、今の社会では」
「あなた自身を傷つけるわけじゃない」
 彼女は一歩、近づいた。意志は固いようだ。親か親族に洗脳されているのか、思い込みが強いのか。
「傷つけなくても、正当な理由なく襲った時点で犯罪なの」
「あなたは“悪意”に支配されている。いずれ、人を傷つける」
「そう警察に言う? 裁判で証言する?」
「別に……関係ない」
 彼女の中にも葛藤があることは感じ取れた。
「使命と運命に従うというのね。可哀想ね。自分で考えるという選択肢を与えられていないのね」
 言った途端、赤いジャージが弾丸のような速さで距離を詰めてた。しかし、悲しいかなわたし自身、運動神経はあまり良くない。脳の指令が全神経に伝達される前に両腕をロックされ、彼女の顔が至近に迫った。
 本能的に、それがなんであるのか理解した直後、心地いい周波数の歌が彼女の口から発せられ、その口が、わたしの口を塞いだ。
 浄化のキスだ。
 わたしも彼女も、目を開けたまま。十秒、十五秒と時が経つにつれ、彼女の目が集中から疑念、困惑へと移り変わっていった。そして、二十秒、彼女は飛び退くようにわたしから離れた。
「……いない?」
 一歩、二歩と下がり、また間合いを取る。「たくさんいるのに、中にいない?」
 彼女はわたしを凝視しながら、立ち尽くす。
「悪いけどわたしは犯罪者でもその予備軍でもないから」
 考えてみれば、この二十一世紀に、彼女は貴重な存在だ。ばか正直に、務めを果たそうとしている。社会に適応できなければ、のたれ死ぬ……というのは少し大袈裟だけど、同情はできない。
「わたしは“悪意”に支配されているわけじゃない」
「自覚はあるのですね」
 彼女の、困惑が怯みに変化した。
「たぶん、昔はあなたの家と同じことをしていたのかもしれないね。だけど、こんなやり方続けているんなら、いずれ身を滅ぼすか、死ぬよ」
「正義のためです。人を守るためです。仕事ではなく、生き方です」
「正義で家賃は払えないよ」
 わたしは踵を返し、帰途へつく。彼女は追ってこなかった。
 人のこと言えた義理か。わたしもこのクソみたいな能力のせいで、長く仕事を続けることができない。六畳一間。給料も安い。それでもわたしは普通に生きたい。それだけだ。使命や運命になど従うものか。
「また出直します」
 彼女の声が背中に響いた。
 
 あれから三年経つが、彼女は一向に出直してこない。

0-2 氾濫する

 同じ空間にいるだけで、反吐がでそうな人間がいる。
 目の前の男がそうだ。
「お世話になりました」
 私はその男に頭をさげた。
 依願退職だったが、そうなるように仕組まれたのは承知していた。
 男の名は百瀬久志。この学習塾の塾長だ。中学受験、高校受験が受講対象だった。評判は、可もなく不可もなし。偏差値五十台後半の準進学校を目指す子供たちが主に集まっていた。
《普通の子を出来る子に》がモットーで、落合、中野、池袋に教室を持つ中規模学習塾だ。大手予備校グループの傘下で、給与はほかの同規模の学習塾より格段に良かった。ただ、職場としては最悪だ。
 気に入らない講師には嫌がらせをし、契約満了前に辞めさせ、違約金を毟り取るのが、ここ数年のパターンだ。無論、そうさせているのは百瀬とその取り巻きだ。仕事に誠実な人ほどストレスを、鬱屈した怒りを溜めていく職場だった。
 専横が正されない理由は、百瀬の兄が、親会社の経営者だからだ。
 思いつきで行動し、朝令暮改は当たり前で、それを創意工夫と信じ込める。身内が優れた存在なら、自分もそのカテゴリにいると思い込めるタイプだった。
『やっと辞める気になったか。醜く浅ましいよ、君は。典型的な給料泥棒だ』
 退職願を出した時、百瀬からもらった言葉だ。
 離職率が高い故、講師がすぐに替わり、保護者が戸惑うこともあった。
『講師の回転が速いほうが、生徒は常にフレッシュな気持ちで勉強に臨める。“普通の子”たちにはそのほうがいいんだ。君には新鮮味がない。ついでに言えば色気もない。男っ気が足りていないのは、明らかだな』
 百瀬に関係を迫られ、辞めていく若い女性講師も後を絶たなかった。告発しようとして潰される講師を何人も見た。
 そんな百瀬も塾生、保護者の前では温和な人格者だ。息をするように嘘が吐け、大安売りの笑顔で、美辞麗句を操る。
 私は辞めなかった。関係も拒否した。一番若かった私が、わずか数年で一番の古株になった。数ヶ月で講師が変わってはいけない。継続と信頼関係が教育の原資だと信じていた。感情は胸の中で圧殺した。
 徐々に授業のコマを減らされた。受験生の成果が上がらないことを理由に、塾生減少の元凶とされ、何度も人前で叱責された。私を支えてくれた人たちも全て塾を去った。
 ――前はこんなじゃなかったんだよ。
 ――そう、兄貴の教育方針に異を唱えて独立したんだ。大きくはない塾だけど一生懸命で評判も良かったし、落ちこぼれを作らない方針は評価されていたんだ。
 今は、教務主任は言うに及ばず、残った講師の多くが生活優先のイエスマンたちだ。
『女も三十を過ぎると、生徒たちはときめかないんだよ。学習意欲が湧かないんだよ。もう使い物にならないって事を自覚してくれよ』
 契約期間満了まで勤め上げたのが、私の最後の抵抗だった。
 塾長室をでたところで「岡先生」と呼び止められた。
 若い女性講師だった。名前は思い出せない。覚えることすら拒否していた。
 わたしはこの女が嫌いだ。綺麗で、礼儀正しく、如才なく、百瀬のお気に入りだから。
「もう少し休まれていったらどうですか。この雨ですし」
 一応心配しているような表情だが、上辺だけにしか見えない。言葉も必要以上に感情を込めているせいで、逆にリアリティを感じない。日頃から薄っぺらいきれい事しか言わず、それが百瀬と重なり、何度も不快感を覚えていた。
『百瀬塾長は、不器用なだけなんですよ、きっと』
『お互い話し合って、理解を深めればいいんだと思います』
 偽善者であることに無自覚な偽善者。それが私の評価だ。
「傘持ってるし、大丈夫」
 私は玄関を出て、張り出した軒下で傘を開いたが、尋常ではない雨脚だった。
「でも……岡先生がお辞めになるなんて……」
 首筋がむず痒くなるような声色と抑揚。振り返ると、目を潤ませていた。
「お疲れ」
 一歩足を踏み出した途端、女が私を追い越し、立ちはだかった。そして、傘を持っていない右手をつかまれた、というより両手で包まれた。握手のつもりか。
「岡先生、今までありがとうございました」
 口調は力強く、でも少し名残惜しそう――な演技だ。
「そういうのいいから」
 百瀬から、この学習塾から、この女から一刻も早く離れたかった。
 私はやんわりと手を振り払い、つい十分前まで勤務先だった建物を出た。
 駅までは三分の距離だったが、コンビニで三百八十円だったビニール傘は役に立たず、十メートルも進まぬうちにパンツが濡れ、肌に張りついた。女の視線を感じた。構わず通りを渡り、駅へと向かった。
 車が大量の水を撥ね上げてゆく。歩いている者はいない。足が重いのは、雨のせいだけだろうか。
 突然の突風に足が止まり、傘が裏返り、もぎ取られ、転がっていった。
 雨粒が顔に叩きつけられる。
 惨めだとは思わない。思ったら負けだ。ただ、雨粒と一緒に涙が頬を舐めていった。
 神田川か妙正寺川が溢れたのか、道路の端を小さな鉄砲水のように雨水の奔流が押し寄せてきて、私の足もとを呑み込んだ。流れは思いのほか強く、踏ん張らないと足を持っていかれそうだった。
 気がつくと、私は空に向かって両手を広げていた。黒い空と街明かりが滲んだ。
 自分が洗われている気がした。自分を覆う表層的な自尊心、迷い、打算、不安、劣等感、良識、悪意――全て流れてゆく。代わりに、これまでと違う熱く強靭な精神が宿ったような気がした。
 電車に乗る気がなくなった。
 濡れるがまま、洗われるがまま、徒歩で築三十年のアパートに帰宅した。
 ゆっくりとスチール製の階段を上り、玄関で服を脱ぎ捨て、シャワーを浴び、体を拭く。
 ひとり暮らしの部屋。小さな洋箪笥とテレビとベッドがあるだけ。配偶者も恋人もいない。不遇なのだろうか、不幸なのだろうか。結論を出すにはまだ私は若い。
 ただ、私は不遇や不幸を他人や社会に転嫁しない。現在の自分は、過去の行いの結果でしかないからだ。生徒たちにもそう教えてきた。不幸と不遇を脱する一番の武器は、教育だ。生きていく上で、無知と蒙昧は時として陥穽となる。
 決心できた。啓蒙するのは自分だと。
 ――何を啓蒙する? 我に返り、思う。今、自分は何を考えていた?
 雨音が消えているのに気づいた。
 窓を開けると、雨がやんでいた。窓を閉じ、部屋を見渡す。栄養ドリンクの瓶が何本か、まとめて置いてある。それと、指先が破れ、穿けなくなった靴下。
 行動を促すように体が疼いた。奇妙な感覚だった。
 気がつくと、アパートから歩いて五分の家電雑貨量販店にいた。そこでストーブ用の手動給油ポンプを買い、ライターとオイルを買った。
 アパートに戻ると、部屋がある二階には行かず、入居者用のガレージに入った。
 そこに唯一の資産、スクーターが置いてある。
 空のペットボトルを用意して、ポンプを使ってタンクからペットボトルにガソリンを移し、部屋に戻った。
 栄養ドリンクの瓶と、靴下を使って小型の火炎瓶を作った。
 解放されて一週間が経っていた。
 蓄えは多くないが、すぐ尽きるほどでもない。次の仕事を探す気はあったが、私は街を満喫していた。毎日街に出た。自分が都市の小さな点に過ぎないことを実感した。
 日に日に街のデータが蓄積されていく。感じるのは、想いだ。人の夢が、不満が、諦めが、悲しみが、殺意が空間を介して、私に入り込んでくるような気がした。
 応えてあげたい――
 住宅街の細い路地の先に見える高層ビル。空を横切る電線。そもそも私は毎日何をしている? 『避難路』『逃走路』という単語が脳内に浮かび上がり、消えた。
 自動販売機で買った冷たいお茶を口に含む。首筋を汗がしたたり落ちた。一度帽子を取り、ハンカチで汗をふき、再び被る。周囲に人の気配はなかった。
 自分の思考の変化は、自覚していた。一度病院に行ったほうがいいだろうか、と考えた途端、その必要はないという強い否定が私の良識と常識に覆い被さった。相反する思いに迷い、惑わされる自分を客観視していた。狂う、というのはこういうことなのだろうか、と人事のように考えた。
 あとは映画かドラマを見ているようだった。
 歩いた。今日が記念日だ、と漠然と思った。すれ違う品の良さそうな老婆が「こんにちは」と声をかけて来て、私も「こんにちは、暑いですね」と応えた。
 端から見れば、散歩かウォーキングだ。
 住宅街の端にその邸宅はあった。塀と生け垣で囲まれた日本建築だ。
 五感で周囲に人がいないことがわかっていた。高揚すると同時に、高揚する自分を醒めた目で見ていた。
 教育は必要なのです。世界が優しくないことを教え、優しくない世界で生き抜く術を教えるのです。不幸がデフォルトなのです。平凡や平穏や幸福はそこにあるわけではなく、勝ち取るもなのです。
 リュックを降ろした。
 口をきつく結んで入れておいたコンビニの袋を引き千切った。
 袋の中の火炎瓶を取りだし、口に押し込んだタオルの切れ端に火を付けた。
 栄養ドリンクの瓶で作った試作品は威力が小さく、ビール瓶は私には重すぎた。
 行き着いたのは百円ショップ売っている一輪挿しだった。扱いやすさ、コスト、運びやすさ、適度な割れやすさの面で全ての瓶に勝っていた。
 火が大きくなり、頃合いだと思い、その邸宅に投げ込んだ。
 二本目に火を付け、別の方向に投げ込んだ。
 二階の屋根をめがけ、三本目を投げ、その場を離れた。
 胸を張り、一定のリズムで歩く。振り返らなかったが、百瀬の自宅が徐々に炎上してゆくのを背中で感じた。

1 BURST ――十月十一日 金曜

 ディスプレイに刻まれてゆく文字の波。指先の触覚だけ。キータッチの音は、イヤフォンから放出される激しいビートにかき消されている。ノートパソコンを囲む、資料と雑誌、書籍の“壁”。書いてはデリートし、少し考え、動画を見直し、再びキーボードをたたく。
 千二百字の記事を書き終え、最後の句点を打ち、ざっと見直す。誤字脱字はチェック済みで、内容も過不足なくまとまっていると思った。
 仮タイトルをつけ、仮レイアウトをし、動画を埋め込む場所を設定する。
 グリーンがベースの画面に『BURST・NEWS』のタイトル。
 スクロールしてみて、レイアウトのバランスを確かめる。 
 記事は、札幌にカンフー映画の動きを完全コピーする三歳の男の子がいるという内容で、動画では映画の殺陣シーンを完全再現していた。
 ダイキ君は、大型テレビの前で妙技を披露しているが、テレビ画面には映画の当該シーンが再生されていて、ダイキ君の動きと上手く対比できるよう撮ってあった。人に見せることを心得た、上手い撮り方だ。
『ジャッキー完コピ、《酔拳》《蛇鶴八拳》思いのまま! 脅威の三歳児現る!』
 ひねりはないが内容を優先したタイトルをつけた。
 ここで問題がひとつ。テレビ画面の中の映画だ。映画は著作物であり、メディアで扱う際には正式な使用手続きと著作権料が発生する。しかし、動画サイト隆盛の昨今、『再撮』=テレビ画面の中の映像をさらにカメラで撮影し発表することは、“グレーゾーン”となっていたが、テレビはダイキ君の後ろにあり、問題はないというのが、美晴の判断だ。
 父親の影響でカンフー映画を観始め、練習相手が空手道場に通っている十歳の兄であるという情報を母親から直接聞くことができた。
 イヤフォンを取ると、現実の音圧が押し寄せてきた。打ち合わせとプレゼンの声、忙しないキータッチ、独り言、唸り、イスの軋み――
 二十五平米ほどのフラットなフロアにデスクが六脚向かい合わせになり、壁際には補助デスク。その全てでスタッフ、ライターが作業に没頭している。壁には予定表や文具用の棚が設えられてあり、コスプレ撮影に使った衣装や小物が雑然と置かれていた。澱んだ空気と人体が発するあらゆる臭気を二台の空気清浄機が吸引、浄化している。
 インターネットニュースサイト、『BURST・NEWS』の編集部だ。
 飛鳥井美晴はイスの上で伸びをし、音に耳を、肌に空気を馴染ませると、今日三本目の記事をデスクに送信した。一拍おき、壁の向こうから着信音が聞こえてきた。
「記事送りました」
 美晴が声を上げる。
「もらったー」
 “壁”越しに、三沢萌衣の少し眠そうな声が返ってきた。何も“成す”ことなく三十路を迎えたと嘆いている編集デスク兼ライターで、美晴の直接の上司でもあった。
 上半身を少しスライドさせると、壁の隙間から、三沢の顔が見えた。頬杖をついて、右手一本でタッチパッドを使い、記事を開いたようだ。ピンで長い前髪を留め、黒いフレームのメガネが少し斜めになっていた。
「地名、名前に間違いないね」
「何度も確認しました」
「ダイキ君と家族の了承もOK?」
「大丈夫です」
 余程のことがない限り、編集長やデスクから細々とした記事の修正や書き直しを命じられることはない。ひとりひとりのライターが責任を持って記事を構成するのが、『BURST・NEWS』の方針だ。
「タイトルはまあいいでしょう、ここはひねるところじゃないですし。内容も面白いし、男の子も可愛いし、何よりも動きが素晴らしい」
 三沢の気だるそうな目が美晴に向けられた。「でも映り込みあるね」
 やはり、懸念していたテレビに映った映画にひっかかったようだ。
「このくらいは大丈夫だと思いますが。画面に占めるテレビの割合もかなり小さいですし」
「だめ。面積じゃなくて意図の問題」
 即答だった。「どんなに小さく映っていようが、この動画は後ろの映画と積極的に対比させようという意図で撮られているでしょ。著作権者への許諾が必要なケースだよ」
「では週明けに許諾をとって、改めて出し直します」
 面倒だ――という思いが表情に出てしまったのだろう、三沢が口を尖らせた。
「ねえ美晴ちゃん、この記事のプレゼン一昨日だったよね」
 平日は二十本の記事をアップするのが『BURST・NEWS』の決まりだった。ほぼ一時間に一本のペースだ。それを編集部ライター五名と、外部ライター十名で制作している。
 美晴が今日担当したのは、更新回数が少ない週末分の記事だった。
「十分許諾の時間あったじゃん。日本で発売されているソフトだから、そんなに手続きは難しくなかったはずよね。もしかしたら版元から、オリジナルの映像借りることができたかもしれないし」
 三沢は童顔で顔出しリポートも多い、自称『BURST・NEWS』のマスコットだが、時に厳しく仕事はキッチリしている。
「週明けには、もう拡散している可能性もあるよ」
 週末、SNSやまとめサイトがこの動画を見つければ、たちまち拡散し、消費され、忘れられてゆく。できることなら『BURST・NEWS』が拡散元になったほうがいい。
「いいわ、明日代わりの記事お願い。今日はもういいよ」
 午後八時二十九分。十時間半の勤務だった。
 ノートパソコンを閉じ、足もとのバッグに入れ、洗面所に立ち、少しほつれた髪とメイクを直す。最近はだが少し荒れてきたような気がする。就職してから時間の経過がこれまでの数倍早くなった。体感時間で劣化するなよ、わたしの肌よ……。
 中学生の頃から綺麗だ可愛いと言われ続けてきた。自覚もしていた。容姿は天が与えてくれた才能と割り切り、利用し、打算と計算と演技で生きてきた。それで、いつでも輪の中心にいることができた。
 就職して半年。研修が終わり、一人で現場に出るようになってから三ヶ月。
 しかし、学生時代のように、容姿が強力な武器になることはなかった。社会という場所、少なくともこの職場は、こちらの予想以上に“分別”がはっきりしていた。
 君は綺麗だけど、仕事は別。陳腐な表現だが、可愛いだけじゃだめな世界だ。給料をもらうということは、責任が生じるということ。ベテランだろうが新人だろうが、そこの差違はない。
 美晴は息を吐き、手を洗い、編集部に戻ると、ロッカーからカーディガンを出して羽織った。
 三沢はパソコンのディスプレイに視線を固定し、高速ブラインドタッチで記事の執筆に没入していた。普段は寒い冗談ばかり言っているおっさんや、腹の出たメガネの兄さん、似合っていないロングヘアの青年が、ばかを言い合いながら、自分より質も量も数段上の仕事をしていた。冗談を飛ばしながら、世界の面白エピソードや画像、動画の収集から、オリジナルの取材記事や、動画リポートを途切れることなく企画立案し、短時間かつシステマチックに形にしていた。海外への電話取材、交渉は当然英語だ。デスク以上のスタッフは、基本的に英会話ができ、三沢は中国語に堪能だった。
 オフィスを出て、エレベータで一階まで降り、エントランスを出る。
 容姿を除いたら、自分に何が残る? 明治通りに出て、北参道の駅に向かう途上、思う。
 自分が学生時代につくった“実績”を手に、この編集部に職を求めた。その実績で、内定を得たが、今になりその実績すら、取るに足らないものに思えてきていた。
『リップステイン』
 専門学校時代に製作した、渋谷で《正義の味方》と自称する女の子の生活に密着したドキュメンタリーだ。
 彼女――香砂は、犯罪を引き起こそうとする人間を事前に察知し、追跡し、犯行前に“浄化”することで犯罪を未然に防いでいるのだという。
 そして、彼女は、渋谷と新宿で発生した連続強盗致傷事件、連続傷害事件を一人で追い、彼女曰く、容疑者と何度も接触、戦い、その都度負けていたという。
 常識では考えられなかったが、彼女が事前に察知した人間を“浄化”させずに、泳がせたら、実際に犯罪を犯したケースが、複数回あった。偶然では済まされない確率だった。
 世には、怨念を、満たされない想いを抱いたまま亡くなった人の“悪意”が漂い、人の心の隙に入り込む。それが犯罪につながる。自分はその“悪意”を察知し、“浄化”することが使命なのだ、と彼女はカメラに向かい、真剣に語った。
 そして、連続事件は、彼女の“浄化”によって、終息した。表面的には、警察による、容疑者逮捕によってだったが、彼女は確かに、逮捕直前の容疑者を“浄化”した。
 作品の評価は高かった。
 映画の製作会社から、商業作品を前提としたリメイクを打診された。
 断ったが、誇りだった。
 作品としてまとめ上げたのは、相棒の夏目行人だ。
 夏目と撮影班は――サーモグラフィ・カメラを使い、超常現象と思われる異変を撮影、映像に収めた。
 夜の渋谷。“地夜叉”と呼ばれる妖精だか神様だかの化身を呼び寄せて、浄化をするという彼女。その彼女のもとに集まる謎の発光体を、サーモグラフィ・カメラがとらえた。
 美晴はその映像を使うように、夏目に強く意見したが、受け入れられなかった。その映像を使わずに、あくまでも現実に即したドキュメンタリーとして仕立て上げた。
 作品自体の主導権は、構成と監督を務めた夏目にあった。
 立ち止まり、スマホを取りだし、動画を再生した。
 サーモグラフィ・カメラがとらえた、“異変”の瞬間の動画だった。作品の一部になり損ねた動画を保存し、この一年間何度も観ている。
 アスファルトの上を、周囲より温度の高いことを示す赤色の球体数十体が、彼女の周囲に集まる異様な動画だった。どう考えても、科学的に説明できない――夏目自身はできると苦しいこじつけをしたが。
 今は、このドキュメンタリーの続編を製作し、『BURST・NEWS』で公開することが目標だ。
 だから――美晴はカバンから小型のカメラを取りだした。サーモグラフィ・カメラだ。
 初めての給料で買い、以来いつも持ち歩いていた。バッテリーは常に満タン状態にしてある。異変があれば、すぐに回せるように。
 歩道に人の姿は少ない。レンズカバーを外し、電源を入れた。液晶ファインダに、道路が、建造物が、空が、人が、温度分布によって色分けされ、映しだされた。
 撮影も編集も下手だという自覚があった。
 だから何度も、カメラに電源を入れ、練習も兼ねて、あの夜に見た超常現象を自分の手で撮ろうと、カメラを回していた。
 冷える日が多くなってきて、ビル群の壁は青から緑、窓は黄色く表示される。明治通りも温度が低く、青だ。そこに少し温度が高い車が、行き交う。歩道も、青。いつものように、変化なし。収穫なし。ただ、少しだけ撮影が上手くなるはず。
 ゆっくり歩きながら、路面を映し続け、地下鉄北参道駅の入口が見えてきたところで、録画スイッチを切ろうとした――指が止まった。
 青い路面を、オレンジ色の球体が高速で移動していった――ように見えた。犬か猫かと思い、反射的に顔を上げ、通りを見たが、何も見えなかった。肉眼で見る街にはなんの変化もない。しかし、再び液晶ファインダに視線を戻すと、オレンジ色の球体が幾つも幾つも、明治通りを南下してゆく。車を追い越していく速さだった。
 来た。ついに来た――錯覚でも幻覚でもなかった。この先には原宿があり、以前球体が現れた渋谷がある。
 速歩になった。北参道駅の入口は通り過ぎた。
 美晴はカメラを回したまま、球体を追った。

(第2回につづく)

バックナンバー

長沢樹Itsuki Nagasawa

新潟県生まれ。二〇一一年、第三一回横溝正史ミステリ大賞〈大賞〉を受賞し、『消失グラデーション』でデビュー。他の著書に『夏服パースペクティヴ』、『冬空トランス』、『リップステイン』、『St.ルーピーズ』など多数。

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