双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第9回

第4章 あなたとの涙のわけと、没落の記憶

2019年7月15日
 マリアとカラオケに行った二日後。スーさんが、地中海クルーズ旅行から帰ってきた。
「いや〜、やっぱり本場イタリアのパスタはうまかったぞ〜」
 そう言ってスーさんは、スーツケースからビニール袋を取り出した。
「ほら、お土産だ。これでいつでも本場のパスタが味わえるからな」
「どれどれ……」と袋を開けた俺は、すかさず叫んだ。「いや、これのどこが本場のパスタなんだよ!」
 袋の中身は、『日清スパ王』の詰め合わせだった。明らかに帰国後に買ったやつだ。
「ハッハッハ、まあいいじゃねえか。どうせお前に本場の味なんて分かんねえだろ」
 スーさんは悪びれることなく言うと、思い出したように尋ねてきた。
「あ、そういえば、例の現場、いくら儲かった?」
「ああ、えっと……」ちょっと迷ったけど、俺は正直に申告した。「現金が十万あって、あと腕時計が三十二万で売れて、合計四十二万だった」
 結局、ここで少なめに嘘をつくような度胸がないのが、俺の小悪党たるゆえんなのだ。
「おお、上出来じゃねえか」スーさんはスマホを取り出し、電卓機能で計算した。「じゃ、俺の取り分は四割だから……十六万八千円か」
 俺が取っておいた札の束から、きっちり分け前を徴収したところで、スーさんが言った。
「さてと、明日からまた仕事しないとな」
「ああ、こっち?」
 俺が人差し指をかぎ形に曲げてみせたが、スーさんは首を振った。
「いや、本職じゃない。長い休みをもらったから、当分はバイトに出なきゃいけねえんだ」
 スーさんにとっては、空き巣が「本職」で、堅気の仕事が「バイト」だ。
 その後、スーさんが旅行の片付けを始めたところで、俺のポケットの携帯電話が振動した。画面を見ると、マリアからの着信だった。
 俺は、少し緊張しながら「もしもし」と電話に出た。
「ねえ善人君、突然なんだけど、うちに来ない?」
 マリアが開口一番言った。俺は「えっ」と驚く。
「明日の夕方六時でどう? あ、家の場所覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ」
「じゃあ、晩ご飯作って待ってるね。……あ、もちろん主人は、明日は帰ってこないからね」
 マリアの声は、カラオケ中に突然泣き出した二日前とは打って変わって、妙にうきうきしていた。それがかえって心配になったが、俺は意を決して答えた。
「うん、分かった、ごちそうになります」
 やはり、今のマリアの申し出を断るという選択肢は考えられなかった。
 するとマリアが、つぶやくように言った。
「やっと気付いたんだ。これが一番いい方法だって」
「……えっ?」
「ああ、ごめん、何でもない。じゃあ明日の六時に待ってるね。バイバ〜イ、またね〜」
 電話が切れた。
 俺の頭の中で、マリアの言葉が反響していた。
 ――やっと気付いたんだ。これが一番いい方法だって。
 いったいどういう意味だろう、としばらく考えたところで、俺ははっとした。
 まさか、すでに殺人を済ませてしまったなんてことはないだろうか。明日家に行ってみたら、血まみれのマリアが笑いながら立っていて、その足下に武史の惨殺体が転がっていて、「これが一番いい方法だったんだよね。さあ善人君、初恋をやり直そう」とか言われたらどうしよう。マリアは「主人は明日は帰ってこないから」とも言っていたけど、もうこの世に帰ってこないという意味だったりして……と、俺の頭の中に、瞬時にホラー映画のような情景が浮かんだ。
 でも、すぐに打ち消す。いかんいかん、さすがに妄想が過ぎる。
 とにかく、明日の夕方六時、約束通り家に行ってみるしかないだろう。どんなに夫婦関係がうまくいっていなくても、倦怠期を迎えていたとしても、夫を殺すなんて言い出すのは看過できない。マリアの話をしっかり聞いてこよう。それが、ろくな別れ方ができなかった初恋相手に対して、今の俺ができる、せめてもの罪滅ぼしかもしれない――。
 と、俺がじっと佇んで考えていたところに、スーさんから声がかかった。
「どうした? 深刻な顔して」
「あ……いや、何でもないよ」俺は慌てて首を振る。
「ていうか、今の電話の相手、女だったよな?」
 どうやら、携帯電話から漏れたマリアの声が、スーさんにも聞こえていたらしい。
「あ、うん、そうだけど……」
 俺は正直に認めざるをえなかった。するとスーさんは、にやっと笑った。
「おいおい、隅に置けねえな。俺の携帯で女と連絡取ってるのか? しかも、さっきちらっと聞こえたけど、『ごちそうになります』なんてことも言ってたよな」
「いや、でも、そういう関係じゃないよ。……相手は、女っていっても、おばちゃんだし」
 俺は適当な嘘をついた。だが、スーさんはなおも尋ねてきた。
「おばちゃんって、いくつぐらいだ?」
「えっと……五十代ぐらいかな」
「どうやって知り合ったんだ」
「ん、ああ、それは……」
 スーさんが不在の間に、五十代のおばちゃんと電話番号を交換したものの、色恋とは無縁の関係で、だけど今度ご飯をごちそうになる。――どんな出会い方をすればそういう状況になるか、俺は頭をフル回転させて考えながら、即興の作り話をした。
「いや、この前、道端にスマホが落ちてて、俺が拾ったら、すぐそのスマホに電話がかかってきたんだよ。それの落とし主なんですけど、今どこにいますかって。で、東中野の駅前だって答えたら、すぐ取りに行くんで待っててもらえますかって言われて、俺がスマホを持って待ってあげたんだよ。そしたら落とし主のおばちゃんが来て、何かお礼をしたいって言われて、俺は別にいいですよって断ったんだけど、それじゃこっちの気が収まりません、みたいな感じで、結局メシをおごってもらうことになって、その時にケータイの番号も教えてさ……」
 と、我ながら上手く、諸条件を満たす作り話をすることができた。
 ところが、スーさんはそれを聞いて、ますます食いついてきた。
「なるほど。で、そのおばちゃんってのは、美人か?」
「いや、別に……」
「紹介してもらえねえか?」スーさんはすっかり前のめりになっていた。「やっぱりホステスなんて、ずるい女ばっかりだよ。一緒に旅行に行ったアケミったらよお、夜は結局、最後まで指一本触れさせてくれなかったんだぞ。『そういうことはまた明日ね』とか言って何日も断ったあげく、後半は『ごめん、女の子の日になっちゃった』なんて見え透いた嘘つきやがって。なのに土産だけは山ほど買い込みやがってよお。あの恩知らずめ」
 スーさんは一本欠けた歯を噛みしめて愚痴った後、目を輝かせて言った。
「でも、それに比べて、お前が知り合ったその女は義理堅いじゃねえか。ちゃんと恩を返そうっていうんだからよお。やっぱり女は中身だよ。五十過ぎてようが関係ねえよ。ていうか俺より年下だしな。――なあ、今度メシに行くんなら、俺も連れてってくれよ」
「いや、でも……」
 まさかマリアの家にスーさんを連れて行けるわけもないので、俺はとどめの作り話をした。
「そのおばちゃん、旦那がいるんだ。で、旦那も同伴で、明日俺にごちそうしてくれるんだ」
 するとスーさんは、すっかり失望した表情に変わった。
「なんだよ〜、それ最初に言えよお〜」
 スーさんは、そのまま不機嫌そうに旅行の後片付けを再開した。
2019年7月16日
 スーさんが、昨日の不機嫌をまだ少し引きずったまま、遅番の警備員のバイトに出かけた数時間後。俺は綾瀬駅で降り、夕方六時ちょうどにマリアの家のドアチャイムを押した。そういえば三度目の訪問にして、ドアチャイムを鳴らしたのは初めてだった。
「は〜い、いらっしゃい」
 玄関のドアを開けたマリアは、エプロン姿で出迎えてくれた。
「いや〜、七月なのに今年は梅雨寒で涼しいね。まあ暑いよりはいいけど……」
 なんて笑顔で言いかけたマリアだったが、俺の顔を見て、すぐ怪訝そうな表情になった。
「あれ、どうしたの? 怖い顔して」
「えっ……」
 警戒しているのが顔に出てしまったようだ。俺は慌てて笑顔を作る。
「いや、そうだった? そんなつもりはなかったけど」
「そっか……まあ、どうぞ上がってください」
 マリアはすぐ笑顔に戻った。俺も「お邪魔しま〜す」と明るい声を出して家に上がる。とりあえず、スタートは和やかな空気にしておきたかった。
「ごめんね、六時にばっちり料理が完成するようにしたかったんだけど、ちょっと時間かかっちゃった。でも、もうすぐだからね」
 そう言ってマリアはキッチンに向かった。屈託のない笑顔に、やけにうきうきした声。それがかえって俺を不安にさせた。
 やっと気付いたんだ。これが一番いい方法だって。――あの言葉の真意は何だったのか。目の前のマリアに聞いてしまえば一発なのだが、聞く勇気が出なかった。
 リビングに入った後も、つい観察してしまう。部屋に何か変わった様子はないか。
 レースのカーテン、壁際にクローゼット、その脇にダンベル。まさかダンベルに血痕でも付いてないか、と一瞬思ってよく見たけど、そんなことはなかった。壁掛け時計、部屋干し中のタオル、ソファ、その右に本棚、その中には大野中学校と竜ケ崎西高校の卒業アルバム。そして大型テレビとDVDプレーヤー……と、観察しているうちに気付いた。そもそも二回入っただけの家の中なんて、そんなに覚えているものではない。いや、一流の空き巣だったら記憶に焼き付いているのかもしれないけど、三流の空き巣の俺にはそんな記憶力も備わっていない。
「あ、そうだ、善人君って煙草吸う?」
 マリアがいったんキッチンから出てきて、尋ねてきた。
「いや、吸わない」俺は首を振る。
「そっか、じゃあ灰皿いらないね。私も吸わないし」
 ダイニングテーブルの上の灰皿を片付けた後、マリアはこちらを振り向いた。
「この前、変なこと言ってごめんね。引いたでしょ?」
「いやいや……」
 主人のこと、殺してくれない?――などという言葉が、変なことだという自覚はあるようだ。
「電話でも言ったけど、ようやく気付いたんだよね。これが一番いい方法だって」
「ああ……それ、気になってたんだけど、どういうこと?」
 俺は緊張しながら尋ねた。まさか本気で殺人計画を打ち明けられたらどうしよう、いや、それどころかキッチンの床下から死体が出てきたりして――なんて妄想が未だに拭い去れない。
 だが、その後のマリアの言葉は、まったく予想外のものだった。
「覚えてるかな。高円寺のレストランと、東中野のカラオケ。二回連続で主人から連絡入ったじゃん。何かおかしいと思わなかった?」
「何かおかしい……?」
 俺が首を傾げると、マリアは少し間を空けてから言った。
「実は私、主人からGPSで監視されてるんだよね」
「えっ……」俺は絶句した。
「スマホのGPSで、常にどこにいるか分かるようになってるの。でも最近、うっかりGPSをオフにしちゃってたことにすれば、外出しても意外とばれないこともあるって気付いたんだ。まあ、主人だって忙しく働いてるのに、二十四時間私を監視し続けるなんて無理だからね――。ただ、善人君と会ってた時は、思ったより早く気付かれちゃったの。二回とも、私のGPSが反応しなくなってることに主人が気付いて、すぐLINEが来ちゃってさ」
「そうだったのか……」俺は驚きながらも、言葉を選んで返した。「なんというか、その……なかなかあいつも、束縛が激しいんだな」
「なかなか、なんてもんじゃないよ」マリアが首を横に振る。
「でもまあ、それは、愛情の裏返しっていうか……」
 あまり悪く言うのもどうかと思って、少しばかり擁護してみたが、マリアは言い返してきた。
「愛情の裏返し? 本当にそう思う? じゃあ善人君も、好きな人に対して同じことする?」
「いや、俺はしないけど……」
「私もしない。それに、そういうことしない人が好き」
 マリアはきっぱり言い切ってから、話を戻した。
「で、それでも出かけるにはどうしたらいいか考えて、スマホを家に置きっぱなしにして出かけようかとも思ったんだけど、それだと善人君とも主人とも連絡つかなくなっちゃうもんね。もしばれたら、もっと怒られるかもしれないし――。でも、そこで私ひらめいたんだ。移動しなければ、怪しまれることはないんだって。だから善人君を家に呼んじゃえばいいんだって。なんで今まで思い付かなかったんだろうね。馬鹿だよね私。一応これでも筑波大つくばだい卒なのにね」
「ああ……」
 俺は、自分を卑下するマリアに同意するわけにもいかず、苦笑してあいづちを打った。同時に、筑波大志望だった時期が俺にもあったことを思い出した。今となっては苦い思い出だが。
 一方、マリアは自信満々の口ぶりで言った。
「で、今日は絶対大丈夫なの。だって主人、当直だもん。月に一、二回あるんだけどね、当直の日だけは、途中で帰ってくるなんてことは、マジで百パーセントないから。――だからうちで晩ご飯どうかなって思って、善人君を誘ったんだ」
 マリアははしゃぐような笑顔を見せた後、「ああ、そこ座っててね」とダイニングテーブルを指し示した。俺は「ありがとう」と言って椅子に座る。
 マリアはキッチンへ行く。すでに香ばしい匂いが漂っている。
「唐揚げか?」
 俺が尋ねると、マリアはにっこり笑って「当たり!」と答えた。
「善人君、好きだったよね」
「うん、大好物だ」俺も笑った。
「高校の文化祭で、一年生の時、うちらのF組が唐揚げのお店やったの覚えてる? 文化祭といえば焼きそばとかたこ焼きなのに、唐揚げって何だよってみんなに言われたけど、ずいぶん後になって唐揚げブームが来たじゃん。今考えたら私たち、流行を先取りしてたよね」
 マリアはキッチンから、うきうきした口調で語った。
「で、唐揚げ屋さんの忙しい合間を縫って、善人君のバンドのライブに行ったんだよ」
「ああ……あれか」俺は苦笑した。
「あの時、何の曲演奏したか覚えてる?」
「いや、全然覚えてない」俺は首を振った。
「本当は覚えてるくせに〜」
「本当に覚えてないってば!」俺は照れ隠しに、さらに強く首を振った。
「思い出すなあ、色々」マリアは遠い目をした後で言った。「あ、あとこれ揚げたら完成だからね。そこ座って、思い出に浸ってていいからね」
「だから浸らないっての」
 俺はむきになって言った。マリアは「うふふ」と笑った。
 その後すぐに、食欲をそそる香りとともに、ジュワアアアッと油の音が響いた。
回想・2001年4月~2002年12月
 唐揚げの揚がる音を聞きながら、俺はマリアが言った通り、思い出に浸っていた――。
 大野中学校から竜ケ崎西高校に進学したのは、俺とタケシとマリアの三人だった。もっともタケシは、中学受験の時と同じ私立の難関校、利根川学院の高等部が第一志望で、そこは父親の出身校でもあったらしいんだけど、結局また落ちてしまって、高校も俺と同じになった。
 とはいえ、竜ケ崎西高校は、学区内の県立高校の中では偏差値で上位に入る進学校だった。早稲田大や慶応大、東北大や筑波大などに毎年何人も合格者を出し、数年に一人ぐらい東大合格者が出るような高校だった。
 そして、何の因果か、俺とタケシは同じ一年B組になった。
 タケシは「ヨッシーとクラスまで一緒かよ、腐れ縁だな」なんて言っていたけど、田舎すぎて実質小中一貫状態だった俺たちにとって、進学に伴って他校出身の生徒と同級生になるのは初めての経験だった。そんな状況で、クラスに幼なじみが一人いるのは心強かった。また、俺はタケシ以外の同級生は全員初対面だったけど、タケシは同じ塾に通っていた男子が二人いた。俺がタケシ以外で最初に会話をした同級生は、たしかその二人だった。
「こいつ、ヨッシーのモノマネうまいんだぜ」
 タケシにいきなりモノマネを振られて、少し慌てたけど、思い切って「ヨッシー!」とやってみたら「すげえ、似てる!」と新しいクラスメイトにもウケた。
 知り合いばかりの中学校では、しばらくやる機会もなかったけど、そういえば俺には十八番のモノマネがあったのだ。芸は身を助けるということわざの意味を身をもって知った。そして俺が「いやあ、モノマネがウケてよかったですよ、ビートたけしさん」と言うと、タケシはすぐに「ダンカン、バカヤロー」と、自分でもモノマネを披露した。しかも、明らかに以前よりうまくなっていた。さては入学前に密かに練習してきたな、と俺には分かった。
「ヨッシーとタケシ、モノマネ名人が二人もいるよ」
 入学早々、クラスメイトたちからも好評で、俺たちの高校生活は順調なスタートを切った。

 ほどなくして、タケシが医者の息子で、病院の御曹司だということも知れ渡った。
「なんか最近、都内の病院をうちで買い取ろうか、みたいな話もしてるわ」
 タケシが披露した話は、俺も初耳だった。そのスケールの大きさにみんな驚いていた。
「すげえな、病院買い取るなんて……。うちの父親なんて、普通のサラリーマンだよ」
「うちも、普通の公務員」
 話の流れで、知り合ったばかりのクラスメイト同士で父親の職業を明かしていく展開になった。そして、クラスメイトの一人が「ヨッシーんちは?」と尋ねてきた。
「ああ、うちは……」
 その時タケシが、半笑いで俺をじっと見ていたのを覚えている。どうするんだ、母子家庭だって言うのか、母親がホステスだって言うのか、と観察するような目だった。
 でも、俺は堂々と答えた。
「うちは一応、父親が社長やってるんだ」
「え、社長? すげえじゃん」
「どんな会社?」
 クラスメイトたちが食いついてきた。俺は説明する。
「食品関係の、まあ小っちゃい会社らしいんだけどね」
「へえ、そうなんだ〜」
 ――と、その話題がひと通り終わった後、タケシが俺にこっそり寄ってきた。
「ヨッシー、あの設定で行くのか?」
「あの設定?」
「ほら、父親が社長って……あれ、嘘だろ」
 心配しているような、でもどこか小馬鹿にしているような顔で、タケシはささやいてきた。
 それに対して、俺は答えた。
「いや、あれ本当なんだよ。母親が再婚したんだ」
「えっ、マジで?」タケシは目を丸くした。「それは、おめでとう……でいいのか?」
「まあ、一応、ありがとうって言っとくわ」俺は笑った。
 実は我が家では、正式には二度目、内縁を含めると三度目の母の結婚が、俺の高校入学前の春休みに成立していたのだ。
 相手は、川崎さんという、髪が薄くて眼鏡をかけた、小太りの中年男性だった。前回のタクおじさんのように見た目が格好いいわけではなかったけど、食品関係の会社を経営していて、「小さい会社だけど、家族二人を養っていくのには十分な収入があるからね」と頼もしいことを言ってくれていた。それに川崎さんは、タクおじさんのように下ネタなんて言わなかったし、俺がいる時に母といちゃついたりなんて絶対にしなかったし、大人としてタクおじさんよりもちゃんとしていることは、十五歳の俺にもはっきりと分かった。
 俺は、高校生になったら家計を助けるためにアルバイトをしなければならないだろうと考えていたけど、川崎さんは、「勉強や部活は今しかできないんだから、バイトなんてしなくていいぞ」と言ってくれた。だから俺は、タケシに誘われて部活動見学に行って、「先輩と後輩がタメ口で会話していて一番楽そうだった」という理由で軽音楽部に入り、他にやりたがる人がいなかったのでドラムを選んだ。すると川崎さんは、練習用の電子ドラムセットまで買ってくれた。連れ子のために羽振りよく金をかけてくれる川崎さんのことを、俺はすぐに「父さん」と呼ぶようになった。俺の心は、いとも簡単に金で釣られたのだった。
 ほどなく俺とタケシは、一緒に軽音楽部に入った一年生の、ミッキーとぐっさんとともに、四人組のバンドを結成した。二人の本名はたしか三木と山口だったと思うけど、正確に思い出せないほど、ミッキーとぐっさんとしか呼んでいなかった。バンド名は、その前年に解散した人気バンドのLUNA SEAをもじった、FUGA SEA。「ルナシーじゃなくて麩菓子フガシーってマジウケるよな!」と、名付けた当初は仲間内で盛り上がっていたけど、残念ながら字面を見てLUNA SEAをもじっていることに気付く人は少なく、麩菓子とかけていることに気付く人はさらに少なく、「フーガ」という音楽用語もあるだけに、「フーガ・シー」という、ちゃんと真面目に考えた名前だと思われてしまって、全然ウケなかったのを覚えている。
 それぞれの担当は、タケシがギター&ボーカル、ミッキーがギター、ぐっさんがベース、俺がドラムだった。ミッキーは眼鏡をかけた優男やさおとこで、中学時代からバンドの経験もあって音楽に詳しかったので、おのずとリーダーになった。ただ、タケシも最初こそミッキーにギターを教わっていたけど、元々ギターには興味があったらしく、自主練習でどんどん腕を上げていった。六月に行われる文化祭のステージで、軽音楽部のライブも予定されていたので、俺たちFUGA SEAは、毎日それに向けて練習に励んだ。
 ちなみに、ベースのぐっさんは、がっしりした体型で、中学時代までレスリングをやっていた。ある時、バンドの練習の合間に、ぐっさんにタックルのやり方を教わったこともあった。
「膝の力を一瞬抜くと、体が倒れないように地面に反発する力が生まれるんだ。それを生かしてタックルすると、相手を下から持ち上げる、いい下半身タックルができるんだよ」
 ――なんて説明を、なぜかぐっさんから軽音楽部の部室で聞いて、なぜかみんなで「よし、やってみようぜ」というノリになって、なぜかお互いにタックルをかけ合った。
「おおすげえ、タケシの体も浮き上がったぞ」
 俺は、体重が自分より重いタケシにタックルをかけて、興奮して叫んだのを覚えている。
「馬鹿ヨッシー、手加減しろよ。ケツでギターつぶしそうになっちゃっただろ」
 壁際のスタンドに立てかけてあったギターを振り返って、タケシは慌てていた。
「うん、ヨッシーはなかなか筋がいいぞ。よし、ミッキーも俺に向かってこい!」
「行くぞ、えいっ」
「だめだだめだ、そんなタックルじゃ試合では勝てないぞ!」
「いや、試合出ないし……」
 ――なんて感じで、四人でじゃれ合っていた。高校に入って、ようやく緊張感も抜けて友達と打ち解けてきたあの頃は、今思えばみんな意味不明なハイテンションに支配されていた。

 一方、マリアは、俺とタケシのB組からは離れたF組だった。また、マリアは部活には入らず、アルバイトを始めていた。
 いくら小中学校が一緒の幼なじみでも、クラスが離れてしまうとマリアに会う機会は少なかった。たまに廊下ですれ違った時などに、挨拶を交わす程度だった。俺は、軽音楽部が中心の学校生活を楽しんでいた一方で、密かに焦っていた。もしかしたらマリアに、クラスの中で、あるいはバイト先で彼氏ができてしまうのではないかと――。
 しかも、ある時、マリアとすれ違って「おっす」と挨拶したところ、同じクラスの男子から「ヨッシーって、マリア様と知り合いなの?」と小声で聞かれた。
「マリア様って……まあ、小中学校一緒だったけど」
「マジかよ、超うらやましい」
「うらやましいって、なんで?」
 俺が聞き返すと、彼は興奮気味に説明した。
「F組に可愛い子がいるって噂になってるんだよ。しかも名前がマリアだから、マリア様って呼ばれてるんだよ」
「え、そうなの? 知らなかった」
 俺は平静を装ったものの、いっそう焦りが募った。離れたB組にまで届くほど、男子の間で噂になっているのなら、同学年の男子にいつ告白されてもおかしくない。マリアがその告白を受け入れてしまったら一大事だ――。
 そんなことを思っていた頃、俺は携帯電話を買ってもらえた。軽音楽部で帰りが遅くなることがあったから、川崎さんが「持ってた方がいいだろう」と契約してくれたのだ。
 軽音楽部のライブがある六月の文化祭まで、あと一ヶ月を切っていた。俺は、諸々のタイミングにかこつけて、行動を起こしたのだった。
 ある日の放課後、俺は意を決してF組に行った。そして、ホームルームが終わって教室から出てきたマリアに声をかけた。
「おっす」
「あ、久しぶり〜」マリアは笑顔で手を振ってくれた。
「俺、携帯買ったんだ」
「へえ、そうなんだ。私も最近ようやく操作覚えたところ」
 俺とマリアは、互いに新品の携帯電話を見せ合った。――今や中学生も大半がスマホを持っている時代らしいが、あの頃は中学生で携帯電話を持っているのはごく少数で、たいていが高校入学後に親に買い与えられていた。もちろんスマホなんて存在しなかったからガラケーだ。
「そうだ、番号交換しない?」
 俺は、最初からその目的でF組まで来たのに、ふと思い付いたような感じで申し出た。
「うん、いいよ」
 マリアは快く応じてくれた。お互いの番号とアドレスを交換したところで、俺はもう一つの、重要な連絡をした。
「あと、俺とタケシ、バンド組んで、文化祭でライブやることになったんだ」
「へえ、すご〜い」マリアは笑顔を見せた。「ていうか、高校入っても相変わらず、二人とも超仲良しだね。まあ、クラス一緒だもんね」
「うん、まあね」俺はうなずいた後、さっき以上の勇気を出して言った。「それで……よかったら、俺たちのバンドのライブ、見に来ない?」
「うん、行く」マリアは即答した。「うちらの唐揚げ屋さんにも来てね」
「もちろん!」
 俺が大きくうなずいたところで、「一緒に帰ろ〜」とマリアに女友達から声がかかった。俺は「じゃ、また」とマリアと手を振り合って別れ、晴れやかな気分で軽音楽部の練習に行った。マリアと携帯番号を交換すること、そしてライブに来てもらう約束をすること。二つの目的を達成した俺は、その日から一気に練習に熱が入ったのを覚えている。

 そして、いよいよ迎えた文化祭。たしか一年B組の出し物はお化け屋敷だったと思うけど、驚くほど何も覚えていない。覚えているのは、視聴覚室の特設ステージで開催された軽音楽部のライブでの、俺たちFUGA SEAの演奏だけだ。
 四人中三人が初心者では、一曲マスターするだけで精一杯だった。俺たちが演奏した曲は、タケシが好きだったTHE YELLOW MONKEYの『バラ色の日々』。イエモンは、ボーカルとギターとベースとドラムの四人組という構成が俺たちと同じで、『バラ色の日々』が初心者にも比較的簡単そうだというミッキーの判断で、曲が決まった。そういえば、LUNASEAの曲は結局演奏しなかった。バンド名のウケ狙いに使った上に、その名前がウケてもいないという、もはやLUNA SEAに対して失礼でしかない俺たちのバンドだった。
 演奏は、たぶんうまくいったのだと思う。もちろん、各パートは本家よりかなり簡略化していたけど、俺はひたすら練習通り、リズムを乱さないようにドラムを叩き続けた。他のメンバーの演奏にまでは気が回らなかったけど、客席の生徒たちも結構ノッているのは分かった。
 演奏が終わり、俺たちは拍手に包まれながらステージ上に並んで、客席に向かって礼をした。
 その時突然、俺の脚が広げられ、股間が圧迫され、体がぐんと持ち上げられた。
 いったい何事かと一瞬パニックになったけど、ぐっさんがアドリブで、レスリングで鍛えた身体能力を生かして、俺を肩車していたのだった。客席からは「おおっ」と歓声が上がった。ぐっさんの肩の上で、客席のマリアと目が合った。マリアは笑顔で俺に手を振ってくれたけど、俺は肩車された状態で手を上げるのが怖かったのと、ぐっさんのうなじで股間が圧迫されて、少しでも動けば薄皮で包まれただけの男の最弱点が潰れかねないギリギリの体勢だったので、小さく手を振り返すことしかできなかった。
 その後、ぐっさんは俺を下ろして「うおおっ、ありがとおおっ!」と叫びながら、ミッキーとタケシのことも次々と肩車していった。レスリングをやるとみんなああなっちゃうわけではないだろうけど、初ライブで興奮したぐっさんは、娘の試合後に興奮しすぎて周囲もどうしていいか分からなくなっている時の、アニマル浜口のようなテンションになっていた。
 とはいえ、客席はそれを見て大盛り上がりで、特に太っているタケシを持ち上げた時には、最も大きな歓声が上がった。結局、客席が一番盛り上がったのは演奏とは関係ない部分だったけど、俺たちFUGA SEAのパフォーマンスが好評だったのは間違いなかった。
 出番を終えて、廊下に出たところで、ちょうど同時に出てきたマリアと顔を合わせた。
「あ、かっこよかったよ〜」
 マリアは笑顔で声をかけてくれた。
「ああ……どうもありがとう」
 好きな女子に「かっこよかった」と言われて、俺はただ照れることしかできなかった。
「はい、唐揚げどうぞ」
 マリアは、自分のクラスの模擬店の商品を持ってきていた。紙容器に「からあげサン」という、明らかにローソンのパクリのロゴが描かれていた。
「あ、お金払うよ。……お金っていうか、これだけど」
 俺はポケットから、文化祭の中で使える金券を出そうとしたけど、マリアはそれを制止した。
「いいの、差し入れだから。さあ、どうぞ」
「ああ、ありがとう」俺は一個つまんで食べた。「うん、うまいよ」
 本当は冷めていたし、大してうまくなかったけど、笑顔でそう言っておいた。
「お、唐揚げじゃん」
 他のメンバーと一緒に廊下に出てきたタケシも、後ろから手を伸ばしてきた。――たしか、ここまでは他のメンバーに気付かれず、マリアと俺の二人きりで会話できていたのだ。くそ、気付かれちゃったか、と心の中で残念がったのを覚えている。
 その後、マリアと俺たちは、「唐揚げは調理場が暑くて大変だよ」とか「お化け屋敷は他のクラスもやってるから、やる気しねえよな」なんて、幼なじみ同士の気兼ねない会話をして、しばらくしてマリアが「じゃ、そろそろ店に戻るね」と言って去って行った。
 その後ろ姿を見送った後、ミッキーがしみじみと言った。
「ていうか、マジうらやましいよ。マリア様と幼なじみで、あんな親しく喋れるなんて」
「俺とヨッシーとマリアは小学校から同じだからな。昔は毎日のように公園で遊んでたぞ」
 タケシが、自慢げな口調で返した。
「じゃあ、もしかして、マリア様のパンツとか見たことあるのか?」
 ぐっさんが興奮気味に言ったのに対して、俺とタケシが「ねえよ馬鹿!」と言い返した。声がぴったり揃ったことを、やけにはっきり覚えている。

 高校一年生の三学期までは、楽しかった思い出しかない。軽音楽部で、地元の夏祭りのステージに出たこともあった。
 その頃には俺たちのレパートリーも増えて、スピッツの『空も飛べるはず』や、GLAYの『SOUL LOVE』も演奏するようになっていた。いずれも、初心者でも演奏しやすい曲をミッキーが見つくろってくれた。それらの曲を演奏した夏祭りのステージは、子供からお年寄りまで百人以上の観客を大いに盛り上げ、ステージを下りた後も、共演した大学生のバンドに「演奏うまいね」と褒められたほどだった。俺は特に褒められることはなかったけど、タケシとミッキーのギターは、大学生からも一目置かれるレベルだったらしい。
「俺ら、マジでプロ行けんじゃねえ?」
 ステージ後の興奮冷めやらぬ中、タケシは言っていた。俺も、あながち調子に乗っているとは思えなかった。その頃にはタケシの歌唱力も演奏力もかなり向上していて、ギター&ボーカルは本当にさまになっていたのだ。
「まあ、プロになるんだったら、タケシがもうちょっと痩せた方がいいだろうな。ボーカルが眼鏡でデブじゃ、あんま流行んないだろ」
 ぐっさんが言った。――サンボマスターがブレイクするのは、もう何年か後のことだった。
「眼鏡デブじゃなければ、ギター弾けて歌うまくて、タケシって結構モテると思うけどな」
 ミッキーにも言われて、タケシは「うるせえな」と笑っていたけど、ちょっと本気にした部分もあったようだ。その証拠に、タケシはそれから二学期の途中まで、眼鏡を外していたのだ。「俺、実は視力〇・五ぐらいあるから、かけなくても意外に平気なんだよね」なんて言っていたものの、結局は授業中に黒板の字が見えなかったりして苦労したらしく、コンタクトレンズも合わなかったようで、いつの間にかまた眼鏡をかけていた。
 学校が休みで、バンドの練習が校内でできない日は、JR常磐じようばん線で柏まで行って、音楽スタジオを借りて練習したこともあった。駅前に大きなビルが建ち並び、Jリーグのチームまである柏は、当時の俺たちにとって大都会だった。しかもその少し前に、テレビ番組『雷波らいは少年』の、合宿生活で作った曲がヒットしなかったら解散、みたいな企画で、結果的に解散どころか大ブレイクを果たしたサムシングエルスというバンドが、柏のストリートミュージシャン出身だったこともあってか、柏駅周辺では何組ものストリートミュージシャンが演奏していた。タケシは、スタジオまでの道中でそんなミュージシャンの前を通るたびに「俺らの方が上手いな」なんて小声で言っていて、バリバリ意識しているのが伝わってきた。
 日々の学校生活も、クラスメイトより軽音楽部の仲間とつるむことが多く、弁当も四人で部室に行って食べていた。毎日他愛もないことを喋っていたけど、音楽の知識や雑学も豊富だったミッキーが、音楽に関するクイズを出題するのが好きだったことは覚えている。
 特にこの一問は、今でも俺の記憶にはっきり残っている――。
「日本の男性アーティストで、ソロとグループの両方で、ミリオンセラーのシングルを出したことがある人が三人います。その三人というのは、ASKAと桑田佳祐……さて、もう一人は誰でしょう?」
「えっ、どういうこと?」
 俺たちが食いつくと、ミッキーは問題を詳しく解説した。
「ほら、ASKAは、CHAGE&ASKAで『SAY YES』とか『YAH YAH YAH』とかが百万枚以上売れて、ソロでも『はじまりはいつも雨』がミリオン行ってるんだよ。で、桑田佳祐は、サザンで『TSUNAMI』とか『エロティカ・セブン』とかが百万枚以上売れて、ソロでもこの前『波乗りジョニー』がミリオン行ったんだよ。そんな感じで、グループでもソロでも、シングルCDが百万枚以上売れたことがある日本の男性歌手がもう一人いるんだけど、それは誰でしょう?」
「ええっ……誰だろう」
 俺たちは「河村隆一?」とか「奥田民生?」とか「小室ファミリーの誰かかな?」なんて答えたけど、いっこうに当たらなかった。その後、ミッキーから「その人は三人の中では最年少です」とか「この記録の達成時期は、桑田佳祐よりもこの人の方が早いです」なんてヒントをもらったけど、とうとう正解は出せずにギブアップした。
 そこでミッキーは、俺たちの顔をニヤニヤしながら見渡すと、得意満面で正解発表をしたのだった。
「正解は……香取慎吾でした!」
「ええっ?」
「いや、SMAPでミリオンが出てるのは分かるけど、なんで慎吾ちゃんだけなの?」
 俺たちが尋ねると、ミッキーが解説した。
「香取慎吾は、SMAPで『夜空ノムコウ』とかが百万枚売れてて、ソロでは、『慎吾ママのおはロック』が百万枚売れてるんだよ」
「ああ、そっか〜、慎吾ママか!」
「なるほど、盲点だったわ〜」
 俺たちは舌を巻いた。――この問題は、のちに俺も、さも自分で発明したクイズかのように、何人かの知り合いに出した記憶がある。同世代で音楽好きな相手に出すと結構盛り上がるし、ノーヒントで正解できた人は一人もいない難問なのだ。
「まあ、三人とも、デビュー以来、時代を問わず安定した人気があるのが共通点だろうね」
 ミッキーは得意そうな顔で、自分で出したクイズを締めていた。――もっとも、ASKAと香取慎吾に関しては、あれから時代を経て、不安定なことも色々起きちゃったんだけど、高校生にそんな未来まで予想できるはずもなかった。
 このように俺は、軽音楽部の仲間たちと毎日つるんで、充実した高校生活を送っていた。
 ところが、二年生に進級する直前だった。そんな生活に暗雲が立ちこめたのは――。
(第10回へつづく)

バックナンバー

藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop