双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第7回
 
回想・1998年4月~1999年4月(承前)
 俺たちはポケモンゲットに飽きることなく、何ヶ月も続けていた。最初はエロ本を見つけると、みんなで林に入って鑑賞して、置きっ放しで帰っていたけど、そのうちに「いいエロ本でも雨が降ったら見られなくなるのはもったいない」ということで、タケシが家からゴミ袋を持参し、特に内容が充実したエロ本はゴミ袋の中に入れて、林の奥に隠して保存しておくことにした。保存することになったエロ本は「殿堂入り」と呼ばれた。その後は、新たなポケモンがゲットできなかった日でも、俺たちは殿堂入りしたポケモンを鑑賞できるようになった。
 そんな、一年生の終わり頃のことだった。
 いつものように俺たち四人が、トキワの森でポケモンゲットをしていた時だった。
「あ、車来た。隠れようか」
 見張り役のガイルが、道路の先を指差した。見ると、遠くから車が近付いていた。
 だが、そこでタケシは言った。
「大丈夫だろ。そのまま通り過ぎるよ」
 たしかに、車が来るたびにいちいち身を隠すのは面倒だった。その時タケシ自身は、隠れるのに最適な細い脇道の入り口に立っていたけど、隠れなくても大丈夫だという判断を下した。エロ本拾いを最初に始めたのも、「ポケモンゲット」という隠語をつけたのもタケシだったし、なんとなくタケシがリーダーのような雰囲気があったので、俺たちはその判断に従った。
 ところが、その車は、俺たちの手前で減速して停まってしまった。そして運転席の窓が開いて、中年のおばさんが顔を出した。
「君たち、何やってんの?」
 今でも、あの時の緊張感は、はっきりと思い出せる。俺たちは一斉に息を呑んだ。
 同時に、俺は見てしまった。タケシが、自分だけさっと脇道に身を隠したところを――。
 ガイルもツヨシも何も言わない。ここは俺が矢面に立つしかない。数秒の間にそう判断して、俺は答えた。
「ゴミ拾いです」
「ゴミ拾い?」
 おばさんは怪訝な顔で聞き返してきた。俺は口から出まかせで説明を続けた。
「あの~、この辺、空き缶とかが結構落ちてて、僕たち今度、清掃委員の活動でこの辺のゴミを拾おうかっていうことになったんです。それで、下見みたいな感じで、ゴミを見てました」
 実際は、学校の委員会活動の中に「清掃委員」なんてものは存在しなかった。でも、放課後に制服姿で、自転車を離れたところに停めて、道端に目を落として挙動不審に歩いているのを見つかった時の言い訳として、とっさにひねり出したにしては絶妙なフレーズだった。
 すると、おばさんは感心したようにうなずいた。
「あらそう、立派ねえ。たしかにこの辺、ゴミが多いからねえ」
 おばさんは笑顔で「頑張ってね」と言い残して、車で去っていった。
「おお、ナイスだよヨッシー」
 ガイルが心底ほっとした様子で言った。だが俺は、安堵感よりも怒りが先に立っていた。
「ていうかタケシ、自分だけ逃げてずるいぞ!」
 俺は、脇道に逃げたタケシを非難した。ところがタケシは、脇道からひょっこり顔を出して、のんきに言った。
「いや、逃げてないよ。奥の方に落ちてないかと思って見に行ったら、お前らがおばちゃんに話しかけられてて、助けようかと思ったらヨッシーがうまく切り抜けてくれたから、まあホッとしたけどさ……。でも、お前らもこっちについて来れば、話しかけられなくて済んだだろ」
「嘘つけ、さっき完全に逃げただろ。俺見てたんだからな!」
 俺は頭にきて問い詰めた。だが、ガイルとツヨシが仲裁に入った。
「まあまあ、いいじゃねえか、助かったんだからさ」
「うん、喧嘩両成敗だよ」
「え、喧嘩両成敗って、意味違うだろ」タケシが笑った。「ツヨシ、お前今、覚えたての言葉使いたかったんだろ」
「え、あ……意味違った?」
「まったく、ツヨシしっかりしろよ」
 ガイルが笑いながらツヨシを小突いて、ツヨシも「えへへ」と笑った。結局、タケシが判断ミスをした件と、自分だけちゃっかり逃げようとした件は、こんな感じでうやむやになってしまった。
 ――だが、このちょっとした事件は、思わぬ余波を生んだ。
 数日後。朝の全校集会の、校長先生の話で、突然こんな話題になったのだ。
「ええ、実は先日、一年生の中に、下校中に道端のゴミを拾って帰る、大変立派な男子生徒たちがいるという連絡を、保護者の方からいただきました。なんでも、通学路から一本入った、ゴミのポイ捨てが多い道を、三、四人の一年生の男子生徒がきれいにしていたそうなんですね。私はそのお話を聞いて、とても感心しました。みなさんも、地域の美化のために貢献しようという気持ちを、ぜひ持ってくださいね」
 どうやらあのおばさんは、大野中の生徒の親だったらしく、学年ごとに違う通学用ヘルメットのシールの色から、俺たちが一年生だということを見抜いたらしい。俺たちの名前までは明かされなかったけど、二クラスしかないので、「ゴミ拾いしてたのって誰?」「部活終わってからだと暗くて無理だから、帰宅部だろ」「え、じゃあタケシとかヨッシーとか?」という感じで、あっという間に俺たちだということがばれてしまった。
 ただ、校内ではポケモンにちなんだ隠語を使っていたため、俺たちが本当はエロ本を拾っていたということは同級生からは見抜かれず、意外に素直に「お前らゴミ拾いなんかして偉いな」なんて褒められてしまった。中学一年生は、まだ全員が性に目覚めているわけでもない。エロ本を拾うという発想にたどり着く生徒は、思いのほかいなかったのだ。――いや、実際はいたのかもしれないけど、「お前らさてはエロ本拾ってたんじゃないか?」なんて指摘しても俺たちに否定されれば終わりだし、逆に「そんなことを考えるってことは、お前こそエロ本を拾ったことがあるんじゃないか?」と俺たちから逆襲を食らう恐れもあったわけで、薄々勘づいてはいたけど言い出せなかった同級生は何人かいたのかもしれない。いずれにせよ、俺たちの善行が実はエロ本拾いだったという事実は、生徒に広まることはなかった。
 ――ところが、石田先生だけは別だった。
 校長先生の話があった数日後の休み時間、俺とタケシとガイルが廊下にいたところにそっと近付いてきた石田先生は、他の生徒には聞こえないように、こうささやいた。
「お前たち、ゴミ拾いご苦労だったな。……まあ俺はてっきり、エロ本でも拾ってたんじゃないかと思ったけど」
 俺たちはぎくっと硬直した。石田先生は、そんな俺たちの表情を見渡すと、にやりと笑った。
「もう八年も大野中に勤めてるからな、あの辺でエロ本を拾ってた生徒の情報は、何度も耳に入ってるんだ。最初に拾ってたって報告された奴は、この前めでたく成人式を迎えたよ」
「いや、俺たちは、本当にゴミを拾ってたんですけど……」
 タケシがぎこちない笑みを浮かべて言い返した。すると石田先生は、タケシをじっと見つめた。怒られるんじゃないかと俺は固唾を呑んだが、石田先生は、またにやっと笑った。
「そうかそうか。そうだよなあ、疑っちゃいけないよなあ。真実はお前らにしか分からないもんなあ」石田先生は何度もうなずいてから続けた。「ただ、あの辺はエロ本がよく落ちてるぐらいだから、不審者の情報も多いんだよ。もしかすると今後、お前らが不審者に襲われる可能性もあるし、あの辺で痴漢事件でも起きた時に、お前らが犯人だと疑われてしまう可能性だってある。ゴミ拾いだろうとエロ本拾いだろうと、あんまり続けない方がいいと思うぞ」
「……はい」
 石田先生のその言葉で、もう十分だった。それ以来、下校中のポケモンゲットは行われなくなった。
 ただ、それは同時に、帰り道の新たな楽しみの始まりだった。
 ほどなく、俺たちは二年生に進級した。すると、俺とタケシとマリアは、また三人ともクラスが一緒になった。そしてマリアは、一緒に帰っていた女子が、別の友達の誘いでバレー部に入ってしまって、一人で帰るようになった。
 その結果、俺は念願叶って、マリアと一緒に帰るようになったのだ――。
2019年7月13日
「お待たせ~」
 トイレからマリアが戻った。俺ははっと顔を上げる。
「どうしたの? 昔の思い出にでも浸ってた?」
「いやいや……ただぼおっとしてただけだよ」俺は苦笑して首を振った。
「そっか。じゃ、歌おっか」
「ああ、どうぞどうぞ」俺がカラオケのリモコンを差し出す。
 と、そのリモコンを両手で持って、マリアがふと言った。
「こんな重いので頭殴られたらさあ、いくらお相撲さんでも痛いよね」
「ん……?」
 急に何を言い出したのか、俺にはよく分からなかった。だが、なおもマリアは続けた。
「ほら、前にあったじゃん。お相撲さんがお相撲さんを、カラオケのリモコンで殴っちゃった事件。えっと、ハル……誰だっけ、あの、横綱の人が」
 そこで俺は悟った。――まずい。俺が全然知らない時期の話をしている。
 ついこの間まで俺が収容されていた刑務所では、夜七時から九時までの一日二時間、テレビを見ることができた。ただ、俺がいた雑居房は比較的若い受刑者が多かったこともあり、限られた視聴時間でニュースよりもバラエティ番組が選ばれることが多かったので、服役中に起きた時事問題に関しては疎くなってしまったのだ。
 そして、どうやらその約二年の間に、相撲界でいくつかの不祥事や、有名な力士の引退などがあったという噂は、なんとなく聞いていた。でも俺は、元々相撲に全然興味がなかったこともあり、相撲界の諸事情に関しては結局よく知らないまま出所を迎えていたのだ。
 どうやら、今まさにマリアは、その話をしているようだ。名前に「ハル」が付く横綱が、カラオケのリモコンで誰かを殴ったらしい。でも相撲に疎い俺は、近年の横綱の名前なんて白鵬ぐらいしか知らない。……ん、待てよ。さっきマリアは「ハル」と言ったように聞こえたけど、もしかすると白鵬の「ハク」だったんじゃないか?
「あの、殴っちゃった方の横綱の人って、引退してもうモンゴルに帰ってるのかな」
「ああ……そうなのかな」
 俺は適当なあいづちを打ちながら頭を働かせる。――引退してモンゴルに帰る横綱、ということは、やはり白鵬のことなのか。そうか、白鵬は誰かをカラオケのリモコンで殴って引退してしまったのか。それは知らなかった。
「あの、殴られた方の人も色々大変だったよね。えっと、タカノ、タカノ……ああ、あっちも名前出てこないや」
 タカノ? 貴乃花は俺が子供の頃に活躍してたけど、さすがにもう現役力士じゃないことぐらいは分かる。でも、他に「タカノ」が付く力士なんて思い付かない。今頭に浮かんでいる「タカノ」といえば、たかの友梨だけだ。しかし、いくらなんでもそれはありえないだろう。横綱白鵬が、ビューティクリニックの社長のおばちゃんの頭めがけて、カラオケのリモコンをガツーン……いやいや、死んじゃう死んじゃう。
「結局、あの殴られた方の人も、そのあと別の人を殴って引退しちゃったんだよね。でもさあ、白鵬も気の毒だったよね。あんな事件で、同じモンゴル人横綱のライバルが引退しちゃったんだもんね」
 えっ、ちょっと待ってくれ。なんか新情報が一気に出てきたけど、要するに、カラオケの件で引退したのは、やっぱり白鵬じゃないってことか? まずい、もう誰が誰を殴ったのか全然分からないぞ。――と、黙ってテンパっている俺の様子に、マリアも気付いたようだった。
「あ、ごめん……。この話、あんまり好きじゃなかった?」
「ああ……うん、まあ」
「どうでもいい話しちゃったね。そうだ、曲入れよう」
 マリアがリモコンを操作し始めた。ふう、どうにかボロを出さずに済んだ……と思いかけて気付いた。俺が急に黙り込んでしまったせいで、マリアがトイレに行くまで漂っていた、いい感じのムードがリセットされてしまったのだ。くそ、タカノなんとかを殴ったハルなんとか。お前のことは全然知らないけど、お前のせいでムードが台無しになったんだからな!
というか、よく考えたら俺だって、この話題についていけなかったら刑務所に入っていたことがマリアにばれるんじゃないか、なんて思いに駆られて焦ってたけど、「ごめん。俺、相撲は全然詳しくないんだ」とか言ってさっさと話題を変えて、数分前のキスできそうなムードに戻せばよかったんだよ。なんだ、結局俺が悪いんじゃん。ああもう、さっきの俺の馬鹿!
 ……なんて、俺が頭の中で勝手に騒いでいる間に、イントロが流れた。
 マリアが入れたのは、小泉今日子の『あなたに会えてよかった』だ。
 そうだ、この曲はマリアの十八番だった――。俺が感慨を覚える中、マリアは歌い出した。
回想・1999年4月~2000年5月
「♪サヨナラさえ……」
 俺がこの曲を初めて聴いたのは、小泉今日子の歌声ではなく、マリアの歌声だった。俺とマリアとタケシの三人で自転車で下校している時、マリアが口ずさんでいたのだ。
 たしかこの曲が発売されたのは、俺たちが小学校に入学した年だった。マリアは、当時としても少し昔のヒット曲を歌っていたのだ。でも中学生の頃、少し昔の曲を知っている友人というのは、なぜか格好よく見えたものだった。
「誰の歌?」
 俺が尋ねると、マリアは答えた。
「キョンキョン。お母さんがよく歌ってるから覚えちゃった。あと、お父さんもファンなの」
「へえ……ていうか、マリア歌うまいな」
 タケシが褒めた。そういうやり方でマリアの気を引くのはちょっとずるいんじゃないか、と俺は思ったけど、もちろんその場で言えるわけがなかった。
「ありがとう」
 マリアは笑顔を見せてから語った。
「うちのお父さんはこの曲の発売前、タイトルが『あなたに会えてよかった』で、作詞がキョンキョン本人って聞いて、明るいラブソングだと思ったんだって。でも、いざCDを買って聴いてみたら、ワンフレーズ目から『サヨナラさえ上手に言えなかった』っていう別れの歌だったから、衝撃を受けたって言ってた」
「へえ。今度CD貸してよ。MDに落とすわ」
 タケシが言うと、マリアは「うん、いいよ」とうなずいた。
「いいなあ、MD。うちにはそんな未来の機械ねえよ」
 俺は二人の会話を、そう言ってうらやんだのを覚えている。――本当の未来になった二十年後には、お前が「未来の機械」だと憧れたCDウォークマンもMDも、電気屋から跡形もなく消えてるんだぞ。逆に、もうすでに「過去の機械」感が漂ってるカセットテープが、意外としぶとく生き残ってるんだぞ――と教えてやったら、当時の俺はさぞ驚くことだろう。
 俺とタケシとマリアの、三角関係ともいえないような微妙な均衡は、その先もしばらく続くことになった。俺とタケシは、ほぼ毎日マリアと三人で下校し、道中で退屈させないように、競うようにいろんな話をしていた。今考えれば、少しでもマリアの知らないことを語って、物知りだと思われようとしていた気がする。
「イチロー、来年か再来年には大リーグに行くらしいな。この前テレビでやってた」
 俺がそんな話題を振れば、すぐにタケシが応じた。
「ただ、やっぱ大リーガーに比べるとパワーがないから、あんまり活躍できないんじゃないかって言われてるな。それよりも大リーグで活躍できそうなのは、松井稼頭央かずおらしいよ。あいつはイチロー以上にスピードがあるし、パワーも相当あるからな」
「松井って、ゴジラの人?」
 野球に詳しくないマリアが質問すると、俺はすぐに説明した。
「いや、それは松井秀喜。松井稼頭央っていうのは、西武の選手だよ」
「ゴジラは大リーグには行かないだろ。日本でホームランバッターでも、あっちじゃ全然通用しないだろうから」タケシは専門家のように語った。「もし三人とも大リーグに行ったとしたら、活躍できる順に、松井稼頭央、松井秀喜、イチローってとこだろうな」
「へえ、そうなんだ。イチローってもっとすごいのかと思ってた」マリアは言った。
「イチローは日本ではすごくても、アメリカに行っちゃえば通用しないんだよ。たぶん三割も打てないんじゃないかな」
 タケシの言葉に、たいして野球に詳しくなかった俺も、したり顔でうなずいた記憶がある。まったくもって、俺たちの未来予想は、何もかもことごとく外れていた。

 多感なあの時期に、恋人でもない男女で下校するというのは珍しかったのだろう。俺たち三人組は、下校中に何度か、他の生徒から「ヒューヒュー」とからかわれたこともあった。
 ただ、俺たちの関係を邪魔してくるのは、中学生だけではなかった。一度、俺たちが自転車で並走していたところに、後ろから自転車でガシャンと突っ込んできた爺さんもいた。
「わっ」
 追突されて転びそうになった俺に、爺さんは捨て台詞を吐いた。
「アベックで並んで走って、邪魔だっぺよ!」
 爺さんはそのまま、マリアとタケシの間を強引に割り込んで、立ち漕ぎで走り去っていった。
「大丈夫? 怪我してない?」
 マリアが俺を振り向いて心配してくれた。
「ああ、全然大丈夫」
 幸い怪我はなかったけど、驚いたのは確かだった。でも、マリアの手前、怯んだ感じは出さずに言った。
「ていうか、何だよあの爺さん」
「ちょっとどいて、とか普通に言ってくれればよかったのにね」
 マリアの言葉に、タケシもうなずいた。
「本当だよな、チリンチリンって鳴らすだけでもよかったしな」
「いきなり後ろからぶつかってくるって何だよ。マジ変質者だよ」
「ああなっちゃったら人間終わりだよな」
 俺とタケシは、小さくなった爺さんの後ろ姿を見ながら、そう言って笑い合った。

 何度か、マリアと俺でタケシの家に行って、勉強を教わったこともあった。授業で分からないところがあって「今日習ったところ、ちょっと分からなかったんだけどさあ」と切り出すと、タケシは「しょうがねえ、教えてやろう」なんて言いながら教えてくれた。タケシはその頃、人に教えることで自分の理解力も深まるという理論を塾で聞いたらしく、俺やマリアに積極的に勉強を教えてくれた。
 もっとも、俺は相変わらず、タケシの家に行けば高級なお菓子が食べられることも楽しみにしていた。特にマリアと一緒の時は、必ずタケシは、その時家にある中で一番いいお菓子を出してくれた。
「これおいしい!」
 マリアがお菓子を食べて感嘆の声を出すと、タケシは「おお、そりゃよかった」とうなずいた後、俺たちに向かって問いかけた。
「最高ですか~?」
 するとマリアと俺は、声を揃えて答えた。
「最高で~す」
 この時期、「最高ですか?」「最高で~す」というコール&レスポンスが、俺たちの間で流行していた。今では名前も出てこないけど、深刻な詐欺被害が出ていた新興宗教のかけ声だったことは覚えている。思えば俺たちの少年時代は、オウム真理教を筆頭に、「最高ですか?」の団体やら、信者の頭をパンパン叩いて「それは定説です」という謎の言葉を記者会見で連発した髭もじゃの教祖の団体やら、怪しい新興宗教がいくつもニュースになっていた。そして俺たちは、新しいのが出るたびに嬉々としてネタにしていた。今考えたら、身近に被害者を抱える友達や先生が一人ぐらいいたかもしれないのに、ずいぶん無神経にいじっていたものだ。
 ――そうやって、タケシの家で勉強を教えてもらっていた、ある日のことだった。
 その日は、マリアは一緒ではなく、俺一人でタケシの家に行っていた。たしか、数学の確率の問題を教わっていた。
 そこに、珍しくタケシの父親が帰ってきた。それまで、運動会や授業参観などで遠目に見たことはあったものの、間近で見たのは初めてだった。祖父だと言われても納得するぐらい年が離れていたけど、立派な体格で威厳と迫力が感じられた。
「あ、お邪魔してます」
 俺は頭を下げて挨拶したが、タケシの父親は無言でうなずいただけだった。無愛想な人だな、と思った。
 その後も俺はしばらくタケシに勉強を教わっていたが、タケシが「ちょっとトイレ行ってくる」と言って勉強部屋を出た後、なかなか戻ってこなかった。妙だと思って部屋を出てみたら、廊下の先から声が聞こえてきた。タケシの父親の声だった。
 聞き耳を立てると、断片的ではあったが、いくつかの言葉が聞き取れた。
「あんな貧乏人に……」
「ライバルを増やしてどうする……」
聞いてはいけない言葉を聞いてしまったと分かり、俺はすぐに勉強部屋に戻った。
 すると、しばらくしてタケシが戻ってきて、申し訳なさそうな顔で言った。
「悪い、ちょっと用事ができちゃった」
 俺はなんとか笑顔を作って「分かった、今日はありがとう」と礼を言って帰った。それが、タケシの家で勉強を教わった最後の機会だった。それにしても、息子が友達に勉強を教えているのを見て、その友達の家庭環境まで否定するようなことを言ってやめさせるなんて、本当にひどい親父だと思った。

 もちろん、そんなことがあってもタケシとの関係は悪くならなかったけど、それから俺は、勉強で分からないところがあったら石田先生に聞きに行くようになった。二年生の終盤、徐々に受験を意識するようになった頃から、何度か職員室で、石田先生に勉強を教わった。
 軟式テニス部顧問で、俺たちの善行とされたゴミ拾いがエロ本拾いだったことを唯一見抜いたベテラン数学教師の石田先生は、二年生の時の担任でもあった。数学の確率の問題で挫折しかけた俺の呑み込みの遅さを責めることなく、逆に「俺の授業での教え方が悪かったな。まだまだ教師としての修行が足りないや」なんて言って、丁寧に教えてくれた。俺もきちんと理解できた後は、数学の中でも確率の問題が一番得意になっていた。
 また、石田先生には、専門の数学だけでなく、英語の過去完了形についても教わった記憶がある。俺にとって中学時代の最大の恩師といえるのは、間違いなく石田先生だった。
 その石田先生は、俺たちが三年生に上がると、学年主任になった。そしてすぐ迎えたのが、五月に行われた修学旅行だ。
 行き先の奈良京都は、中学時代の俺には渋すぎて、ほとんど記憶に残っていない。というか、神社仏閣の趣や風情を感じられるだけの情緒は、三十を過ぎた今の俺にも備わっていない。
 ただ、移動のバスの中でのカラオケは、俺の記憶にはっきりと残っている。
 バスガイドさんに「カラオケありますからよかったらどうぞ」と言われ、クラスのにぎやかな女子たちが「誰か歌おうよ~」と声をかけながらも、自分で歌う勇気はないため、なかなか誰も先陣を切らない状況。それを打破したのは、俺の隣の席のタケシだった。
「よし、じゃあ俺歌います!」
 タケシが入れたのは、THE YELLOW MONKEYの『JAM』。そのバスのカラオケの歌本の中では、最新に近い曲だった。
 タケシが、モニターの画面を指差してから「この曲を彼に捧げます」と言って俺を指差したのは、たぶん照れ隠しだったのだろう。小さな笑いが起きたところで、タケシは歌い出した。
「♪暗い部屋で一人……」
 若干モノマネも入っているような歌い方で、緊張のせいか時々声を震わせつつ、タケシは歌い上げていった。
 でも、だんだん厳しい雰囲気になっているのは、俺にも分かった。
 まず、この曲は長い。テンポがゆっくりな上に、演奏時間が五分以上もあるのだ。さらに、残念ながら当時のタケシは、さほど歌がうまくなかった。『JAM』は間違いなく名曲だけど、修学旅行のバスのカラオケで歌うのには適していなかった。
 徐々に私語が多くなっていくバスの中。あの切なさは、今でも鮮明に思い出せる。カラオケで歌っている最中に周りの人がどんどん自分に興味を失っていくあの雰囲気は、なかなか精神的にこたえるものだ。隣の席の俺でさえ、「よかれと思って歌ってるんだから、もうちょっと聞いてやってくれよ!」と叫び出したくなる気分だった。
 そして、タケシの『JAM』はいよいよ佳境を迎え、熱唱パートを迎えた。悪い予感は当たった。タケシがこの部分を全力で歌い上げた結果、女子を中心に、クスクスと笑いが起きてしまった。やっぱり、中学の修学旅行のバスで歌うべき曲ではなかった。名曲なんだけど。絶対に名曲なんだけど。
 歌い終わった時、申し訳程度にぱらぱらと拍手が起こった。タケシの顔は真っ赤だった。俺は「お疲れ」と声をかけたけど、タケシは引きつった笑顔をちらっと向けただけだった。
 そして、次に歌ったのがマリアだった。
 その時に選んだのが、小泉今日子の『あなたに会えてよかった』だったのだ――。
 前奏の時にまた、タケシが画面と俺を交互に指差して、少し笑いが起きた。でも、そんな内輪のノリはさておいて、すぐにマリアの歌声が響いた。
 マリアの歌声は、下校中に歌っていた時よりもいっそう仕上がっていた。もしかしたら密かに練習してきたのかもな、と思った。それにこの曲は、演奏時間も三分台と短く、キョンキョンが作った詞も小林武史が作ったメロディも、万人受けする良さがあって、中学校の修学旅行のバスで歌うカラオケにも向いていた。タケシの時とは打って変わって、クラスの全員が聴き惚れている雰囲気だった。
 ――と、そこで、ちょっとした事件が起きた。
「♪想い出が~」
 マリアが二番まで歌い終えて、短い間奏に入った時だった。
「ちょっと、先生泣いてるんだけど!」
 女子の声がした。みんなが一斉に前の席を見た。
 すると、俺たち三年一組の担任の片山先生が、目を真っ赤にして涙を流していたのだ。片山先生は三十代前半の爽やかな男性教師で、男女問わず生徒から人気があった。
「いや……昔の恋を思い出しちゃって」
 片山先生がそう言って涙を拭うと、バスの中に爆笑が起こった。そんな中で、マリアは最後のサビに入った。そして、歌い終わった時には大きな拍手が起こっていた。
 転校してきた当初は仲間外れにされたこともあったマリアが、その瞬間は完全に、クラスのスターになっていた。俺もなんだか、胸に熱いものがこみ上げたのを覚えている。
 ――そんな思い出の曲が『あなたに会えてよかった』なのだ。
 十九年の時を経て、同じ曲を歌うマリアの声を、俺は目を閉じて聴く。まるで過去と現在がシンクロしていくようだった。
 だが、その時。
 俺の耳に届いていたマリアの歌声が、急に途絶えたのだった。
(第8回へつづく)

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藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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