双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第4回

第2章 あなたとの歓談と、ポケモンの記憶

2019年7月7日~10日
 また連絡する、というマリアの言葉は、社交辞令だと思っていた。また、そうであってほしかった。
 初恋相手に偶然を装って会いに行った結果、彼女は親友と結婚していた。しかも親友も医者として成功していた。――犯罪者に成り下がった自分との落差を、これでもかというほど見せつけられ、俺としてはすっぱり未練を断ち切ったつもりだった。
 ところが、再会からわずか二日後、マリアからメールが来た。しかもそれは、予想外の内容だった。
「入院しちゃった!」
 そんなタイトルの後、長めの本文がついていた。
「腹痛で入院しちゃいました。大したことはないみたいなんだけど、2、3日だけ入院しなきゃいけなくて、暇すぎて死にそうだからお見舞いに来て!
 あ、手土産はマジで無しでいいからね(笑)。場所は綾瀬北野病院っていうところで、近所に綾瀬北野神社っていうのがあるから、よかったら私の無事をお祈りしてから来てね。……なんて冗談はさておき、この前来てもらった我が家の近所です。調べればすぐ分かると思うけど、一応、地図のURLを送ります。(ガラケーで見られなかったらごめん。でも駅前の地図にも載ってるし、近くの交番で聞けば教えてもらえると思います。)
 病室は801号室です。801だけど7階だから注意してね。(病院だけに縁起が悪いってことで、部屋番号の4が抜いてあるんだけど、こういう時いちいち説明しなきゃいけないからかえって不便だよね。)平日休日問わず、面会時間は午前11時から午後8時までだそうです。どうか、暇な時でいいんで、ふるってお見舞いください!
 ああ、このメールを打ち終わったら、また暇になっちゃう。マジで会いに来て~!」
 ちょっとお見舞いに行くぐらいだったらいいかな、とも考えかけたが、結局思い直して、俺はマリアに返信した。
「悪いけど、仕事が忙しくて行けない。どうかお大事になさってください」
 ところが、その後もマリアから「本当に暇な時でいいから」とか「1時間、いや30分でいいから」などと三通ほどメールが来た。悪いとは思ったが、俺は無視してしまった。当然「仕事が忙しくて行けない」というのは嘘で、実際は暇を持て余し、かといってスーさんが帰るまで収穫の四十二万円をあまり多く使ってしまうわけにもいかず、スーさんの部屋の漫画や小説を読んだり、図書館で時間をつぶすような毎日だった。
 すると、最初のメールが来た三日後に、マリアから電話がかかってきた。俺が出ると、マリアは開口一番、すねたような口調で文句を言ってきた。
「善人君、なんでお見舞い来てくれなかったの? あと、メールもシカトだったしさ~」
「悪い、本当に忙しかったんだよ」俺は苦笑して返す。
「じゃあ今日は暇? この電話に出られてるってことは、超忙しいわけではないよね?」
「あ、いや……」
 どう返せばいいか迷った。すると、俺の心を見透かしたようにマリアが言った。
「もしかして、私が善人君を、主人に会わせようとしてるんじゃないかって警戒してない?」
「ん、いや……」
 俺は言葉に詰まった。まさに図星だったからだ。
「たしかに、入院中は主人が主治医だったけどさ……」
 マリアが言った。やっぱりそうだったのかと俺は思った。実は、お見舞いに行くのを躊躇した最大の理由はそこだったのだ。
「でも、マジでそういうつもりじゃなかったし、今後もそんなことしないから。ていうか、今後はしたくてもできないから」マリアは早口で言った。「だって、医者って超忙しいんだから。平日は絶対休めないし、土日だってほとんど休めないし」
 そしてマリアは、ふいに暗い声でつぶやいた。
「そんなに忙しいとさ……人って変わっちゃうんだよね」
「えっ……?」
 俺は聞き返したが、マリアは何事もなかったかのように、すぐ明るいトーンに戻った。
「善人君、東中野だったよね。実は私、今日近くまで行くんだ。何時頃なら空いてる?」
「え、ああ……夕方なら空いてるかな」俺は迷いながらも答えた。
「じゃあ、晩ご飯一緒に食べない? ちょうどね、高円寺こうえんじの方で、主人の上司の親の告別式があって、私が出なきゃいけないんだ。ただ、夕方までには終わるから」
「うん、いいけど……」
 本当にマリアが一人だけで来るなら、そう悪い話ではない。やはり心の底では、今も変わらず美しいままの初恋相手に、もう一度会いたかった。
「でも、大丈夫? 家で晩飯の用意したりしなくていいの?」俺は一応確認した。
「ああ、主人は今日、日付が変わる頃に帰れるかどうかって言ってたから大丈夫。そういう時はいつも、晩ご飯は済ませてあるから」マリアは余裕の口ぶりで返した。「で、実はもう、お店も目星を付けてあるの。六時に高円寺駅の北口で待ち合わせでいい?」
「あ、うん……」
 一方的に決められてしまった。でも、悪い気はしなかった。

「お待たせ~」
 改札から出てきたマリアは、告別式の後というだけあって、黒いワンピース姿だった。それがスレンダーな体型をいっそう際立たせていた。
 あと、少しだけ警戒していたが、やはり夫婦同伴ということはなかった。
「よかった、元気そうで」俺が声をかけた。
「うん、まあ……もう大丈夫」
 マリアの顔に一瞬だけ影が走ったように見えたが、すぐに笑顔に戻って、文句を言ってきた。
「ていうか善人君、なんでお見舞い来てくれなかったの~?」
「しょうがないだろ、仕事でどうしても行けなかったんだ」
「マジ退屈で死にそうだったんだから」
 マリアは頬を膨らませたが、本気で怒っているわけではなさそうだった。
「あ、お店こっちね。もうネットで予約して、コース料理も注文してあるから。……あっ、あそこに見える店だ」
 マリアがスマホを見ながら、駅近くの店まで案内してくれた。そこは、イタリアンの基準がサイゼリヤである俺が、進んで選ぶことはまずない、見るからに高級な店だった。
 店に入り、マリアが「あの、ネット予約を……」とスマホを見せただけで、有能な執事のような雰囲気のウエイターに「お待ちしておりました」とうやうやしく礼をされ、席へと案内された。俺は刑務所を出て以来、ラーメン屋や牛丼屋には何度か入ったが、店員に席へ案内される店はずいぶん久しぶりだったので、それだけで少し緊張してしまった。
 席につき、「ご予約のコース料理をお持ちいたします」と言い残してウエイターが去ったところで、マリアはまた入院中の話を始めた。
「ていうかさあ、主人が主治医ってのは、逃げ場がないんだよね。家にいる時以上に、主人と一対一で、主従関係っていうか、そういうのが強くなっちゃうから」
「ああ、そうなのか……」俺はあいづちを打った。
「それとね……まあ善人君も知ってる通り、お医者様のお父様がいるんだけど……」
 マリアが浮かない顔をして、重い口調で言いかけた。俺が察して尋ねる。
「あ、もしかして、嫁としゆうとの関係みたいなやつも、うまくいってないのか?」
「ん、ああ……」
 マリアは泣きそうな顔になって口ごもってしまった。俺はすかさず励ました。
「まあ、嫁の立場だと色々大変なんだろうな。なんて、結婚したこともない俺が言うことじゃないけど。――でも、実の親でもない人間のために、自分の人生を犠牲にすることはないよ」
 俺はきっぱりと言った。そして、一瞬だけ躊躇したものの、正直に打ち明けた。
「俺なんて、その実の親と、完全に絶縁状態だからな」
 マリアが顔を上げて見つめる中、俺は自虐的に笑いながら語る。
「嫌な親なんて捨てちまえばいいんだよ。俺が許可するよ……なんて言われても困るだろうけど、俺はもう親と会うことは絶対ないからな。次に会う時は葬式……いや、葬式にも行かねえな。次は地獄で会うか、もし現世でもう一度会うことがあるとすれば、俺が実家に親を殺しに行く時かな」
 一気に喋った後、ふとマリアを見ると、困惑した表情になっていた。
「ああ、ごめんごめん。急にこんなこと言われても、リアクションに困るよな」
「いや……大丈夫」
 マリアはぎこちない笑顔を見せたが、さすがにいらぬことまで言ってしまったと反省して、俺は話題を戻した。
「でもさあ、さっき、夫が主治医だから嫌だったとか言ってたけど、他の医者に診られるよりはよかったんじゃないか? だって、腹痛で入院したってことは……」
 俺はそこまで言いかけた後、レストランという場所柄、声を落として尋ねた。
「便通とかも、診られたわけだろ?」
 だがマリアは、怪訝な顔で聞き返した。
「え、電通?」
「いやいや、便通」俺が言い直す。
「電通でしょ? あの、広告の会社の」
「いや、違うよ。便通……お通じだよ」俺が言い換える。
「え、通知?」
「ウンコだよっ」
 俺は結局、もろの単語を言ってしまった。その結果、近くの席に座る中年女性客から、矢のような冷たい視線を浴びてしまった。
 俺は慌てて身を乗り出し、マリアに顔を近付けて声を落とした。
「ウンコが出たかどうかとか、そういうのも診られたわけだろ」
「ああ、さっき便通って言ってたのね。……ていうか、ちょっと音楽大きくない?」
 マリアが苦笑しながら周りを見回す。俺にはそれほど大きな音量とは思えなかったが、店内のBGMのせいでよく聞こえなかったらしい。
「お腹っていっても、そういう検査はなかったし、私お医者さんにどこ見られても平気だから。もっと大変なところも見られてるし……」
 マリアはそう言うと、少し間を空けてから、うつむき気味に続けた。
「実は私、おととし、子宮取ってるんだよね」
「えっ……」
 突然の告白に、俺は絶句した。
「そういうわけで、もう子供はできなくてね。それもあって私たちなおさら……」
 マリアは寂しそうな表情で言った後、「いや、何でもない」と小さく首を振った。
「ごめん、つらい話をさせちゃって……」俺は頭を下げて謝った。
「ううん、大丈夫。ていうか、私が自分から喋ったんだし」
「じゃあ、今回の腹痛っていうのも……」
 俺がおずおずと言いかけたが、マリアはすぐに否定した。
「いや、今回は子宮は関係ない。まあとにかく、治ったから心配しないで」
 マリアはぱっと笑顔になって、重くなった雰囲気を変えた。
「ていうか、マジで懐かしいよね。この前あんまり長くは話せなかったからさ。昔の思い出話とか、いっぱいしたいと思ってたんだ」
「思い出話か……俺はあんまり覚えてないよ」
「うそ~、私との思い出も忘れちゃったの? ショックなんだけど」
 マリアが両手で頬杖をついて、悪戯いたずらっぽい笑顔を見せた。その仕草は十代の頃のままの可愛らしさだった。俺も十代の頃のようなノリで、格好つけて返した。
「まあ俺は、過去は振り返らず、前だけを見て生きていくタイプの男だからな」
「ひゅ~、格好いい~」
「全然思ってないだろ」
「まあね」
 二人で笑い合った。本当に昔に戻ったようだ。
「でも、私にとっては、夏休みに大野団地に引っ越してきて、最初にできた友達が、善人君と武史君……ヨッシーとタケシだったからね」
「おお、急に昔のあだ名になったな」
「他にも、ツヨシとかガイルとかいたけど、いろんな遊びしたよね」
「ああ、ツヨシにガイル、懐かしいな」
 二人とも、公園でよく遊んだ友人だ。ツヨシは本名だけど、ガイルは、当時スーパーファミコンで発売されて大流行していた格闘ゲーム『ストリートファイターⅡ』の、ガイルというキャラクターに似た逆立ったような髪質だったことから、そのあだ名がついたと記憶している。
「公園で、サッカーとか缶蹴りとかやったし、あと意味もなく木に登ったよね」
「たしかに、上で何するわけでもないのに、ただ木に登ってたな」俺が笑ってうなずく。
「あとは、えっと……ゴルフンとかもやったよね」
「ああ、ゴルフンな。あれはひどい遊びだった」俺は笑いながらも顔をしかめた。
「それと、火遊びもやってたよね。今考えたら、超悪ガキだったよね、私たち」
「でも、ただ物を燃やしてたわけじゃなくて、土器も焼いてたからな。ちょっと考古学の勉強にもなってただろ」
「ああ、そうそう、土器焼いてたよね」マリアが大きくうなずいた。
「公園のブランコの裏だったよな。粘土層が地表に出てるところがあったんだよ。あそこから掘った粘土で、器とか人形とかを作って、ライターで枯れ葉に火をつけて焚き火をして、そこで土器を焼いたんだよな。でも、最初のうちは結構ひび割れちゃって、歴史の資料集を見たら、縄文人は粘土に砂を混ぜて土器を作ってたって書いてあったから、俺らも砂場の砂を混ぜてみたんだよ。そしたら……」
 気付けば俺は、夢中で語っていた。それを見て、マリアがにやっと笑って指摘した。
「ていうか善人君、さっきあんまり覚えてないとか言ってたのに、すごい覚えてるじゃん」
「いや……たまたまだよ。他の記憶は自信ないよ」俺は恥ずかしくなって首を振った。
「本当? 私よりも色々覚えてそうなんだけど」
 マリアは俺の顔を覗き込んで笑った後、なおも懐かしそうに語った。
「でも、本当にいろんな遊びしたよね~。公園の近くの空き家に勝手に入ったりもしてたし、あとは、けいどろもよくやったよね」
「ああ……そうだったっけな」
 もっとも今の俺は、空き家どころか空き巣に入って、リアルけいどろで最近まで捕まってたんだけど――なんてことは言えない。
 その後も俺たちは、昔話に花を咲かせつつ、イタリアンのコース料理を味わった。マリアは酒が飲めないらしく、ワインなどは出てこなかったが、海老のサラダやウニのパスタやローストビーフに舌鼓を打った。一応、二万円を財布に入れてきていたが、足りるどうか不安になるぐらいの高級感だった。ここまで高級だと、サラダにかかったソースやローストビーフの付け合わせが、もはや何の素材から作られているのか分からないほどだった。
「そういえば、弟は元気か?」
 正式名称は分からないけど間違いなく美味い、プリン的なデザートを食べながら俺が尋ねた。
「うん、今は沖縄にいる。私以外の家族は、今みんなあっちに住んでるんだ」
「へえ、そうなんだ」
「弟が沖縄で結婚して、しかも子供も生まれたから、うちの両親も思い切って移住して、あっちにつきっきりって感じ。まあ、両親は元々移住願望があったからね」
 マリアはそう言った後、うらめしげに俺を見た。
「そんなわけで、うちの家族は誰もお見舞いには来られなくて、完全アウェイですよ。だから、せめて善人君には、お見舞いに来てほしかったんだけどね~」
「またその話かよ。……ごめん、トイレ行ってくる」
 俺は席を立った。本当に尿意を覚えてもいたが、トイレに行ったのを機にお見舞いの件は忘れて、話題が変わってくれればいいな、とも思っていた。
 でも、俺がトイレから席に戻るやいなや、マリアは言った。
「本当につらかったんだからね~。孤独な病室」
 ――残念ながら、忘れてくれてはいなかった。
 と、そこで俺は、絶好の反論材料を思い出した。
「でも、お見舞いに来なかったといえば、マリアにも前科があるだろ」
「えっ?」
「覚えてないか? 小六の、ポケモン事件の時だよ」
 俺が言うと、「ああ……」とマリアはうつむいた。
「でも、私、実はあの時ね……」
 と言いかけたところで、マリアがバッグからスマホを取り出した。
 画面に目を落としたマリアの表情が、ふいに引きつった。
「あ……やばい」
「ん、どうしたの?」俺が尋ねる。
「主人が、帰りが早くなったって」
「えっ」俺は言葉に詰まった。
「この状況はまずいかも……。夫に内緒で、初恋の人と連絡取って、一緒にいるんだもんね」
 その言葉に俺はドキッとしたが、平静を装って返す。
「まあ、幼なじみとも言えるから、その辺はまあ、言い訳できるとは思うけど……」
「でも初恋の人だよ」マリアが悪戯っぽく笑った。「私は今でも、善人君と付き合ってた頃の気持ち、忘れてないよ」
 その妖艶な笑みに、俺はまたドキッとしてしまった。だが、マリアはすぐ焦った表情に切り替わった。
「なんて、そんなこと言ってる場合じゃないね。どうしよう、これは結構やばいな……」
 と、そこでマリアが「あ、そうだ」と、思い付いた様子で提案した。
「私が今日高円寺に行くことは、主人は知ってるのね。だって、主人の上司のお父さんの告別式だったから。――で、その帰りに偶然、善人君と十何年ぶりに会ったことにして、『ついさっき善人君とばったり再会したんだけど、よかったら来ない?』って主人にLINE送って、どこか適当な喫茶店にでも入って待ってれば、後ろめたい感じにはならないんじゃ……」
「いや、ちょっと待ってくれよ」俺はマリアの言葉を遮った。「それじゃ、今から俺とあいつが会うことになるんだろ?」
「あ……うん」マリアは気まずそうにうなずいた。「そっか、やっぱりダメかな?」
「何回も言ってると思うんだけど」
 俺は、さすがに少しいらついた。あいつとは会いたくないし、会うべきじゃない。向こうもそう思っているはずだ。――と、はっきり口に出すのはさすがにはばかられたけど、マリアはそのことをちゃんと理解していないのかもしれない。
「そうだよね、ごめん……」
 マリアはうつむいて、スマホの画面をしばらく見てから言った。
「まあ、急いで帰れば間に合うか。ごめんね、なんか尻切れとんぼになっちゃって……。じゃ、出よっか」
「ああ、うん」
 すでに二人ともデザートまで食べきったところだった。俺は伝票を取ろうとした。
 ところが、店員が伝票を置いたはずのところに、何もないことに気付いた。
「あれ……?」
「ああ、もう払ってきたよ」
 マリアがあっけらかんと言った。そこで俺は思い出した。
「あっ……もしかして、俺がトイレ行ってる間に?」
「うん。だって、今日は私が無理に誘ったんだもん」
「いや、こういう時は支払いは男が……」
 俺は言いかけたが、マリアは笑った。
「今はもうそんな時代じゃないでしょ」
「そっか……。悪い、ごちそうさまです」俺は素直に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ今日はありがとう。また機会があったらおごらせて。……なんて、私が稼いだお金じゃないんだけどさ」
 マリアが笑って、ちらっと赤い長財布を見せた。あれ、どこかで見たことがあるぞ、と一瞬思って、そりゃそうだと気付いた。俺がつい先日、十万円を抜いた財布だ。――というか、俺が支払ったとしても、マリアの財布から抜いた金で払うのだから、結果は同じことだったのだ。なんとも情けない話だ。
「じゃ、帰ろっか」
「ああ」
 俺たちは店を出て、高円寺駅の前まで歩いた。
「電車だよね?」マリアが尋ねてきた。
「ああ……うん」俺はうなずく。
「じゃ、途中まで一緒だね」マリアが微笑んだ。
 ただ、実は俺は、東中野から高円寺までの往路は歩いていた。たった二駅、約三キロの区間で電車に乗るという選択肢は、本来の俺にはない。でも、まだマリアと喋りたかったし、交通費をケチるところを見られたくなかったので、電車で帰ることにした。
 切符を買い、ホームまで歩く間に、マリアが思い出したように言った。
「あ、そうそう、さっきの話」
「何?」
「あの、ポケモン事件の後、私がお見舞いに行かなかったっていう話」
「ああ……そういえばそんなこと話してたな」
「実は私、お見舞い行ってたんだよ」
「えっ?」
「でも、二人の密談を聞いて引き返したの」
「密談?」
 俺はその単語を聞いて、嫌な予感を覚えた。
「実はね……」
 ――それから俺は、マリアから詳しく話を聞いた。やはり嫌な予感は当たっていた。小学生の頃の、はたからみれば些細なエピソードだろう。でも俺にとっては、今でも苦い思い出だった。
 電車がホームにやって来た頃には、俺はがっくりと肩を落としていた。
「ちょっと、テンション下がりすぎ~」
 マリアが笑った。しかし俺は、本気でショックを受けていた。
「まさか、あれを聞かれてたとは思わなかったんだよ……」
 俺は落ち込みながら、マリアとともに各駅停車の電車に乗り込んだ。本当ならあと二駅分、時間を惜しんで話したかったところだが、すっかり会話が途切れてしまった。
「なんか、ごめんね。そんなにつらい話だった?」
 マリアが、押し黙った俺を見て声をかけてきた。俺は小声で答える。
「いや、いいよ。マリアが謝ることじゃない」
 ほどなくして、電車は中野を経て、あっという間に東中野に到着してしまった。
「それじゃ、また」俺は小さく手を上げた。
「また機会があったら、誘っていい?」マリアが言った。
「ああ」
 俺はうなずいて電車を降りた。振り向くと、去って行く電車の中で、マリアは俺に向かって微笑んで、見えなくなるまで胸元で手を振ってくれていた。
 ただ、俺はなおもヘコんでいた。まさかポケモン事件の後の病室のあれを、マリアに聞かれていたなんて――。
 今となっては笑い話にできそうなものだけど、当事者の俺には無理だった。あの頃の、本当に情けなく恥ずかしい、それもまさかマリアには知られていないと思っていた出来事を、実は全部知っていたのだと聞かされて、もういい大人なのに落ち込んでしまったのだ。今の俺のぶざまな状況と、小学生時代の愚かな俺が、重なってしまったのも原因かもしれない。
 俺はため息をつきながら、東中野駅の改札を出て、とぼとぼとアパートまで歩いた。
(第5回へつづく)

バックナンバー

藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

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