双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第2回

第1章 あなたとの再会と、たんこぶの記憶(承前)

2019年6月6日
 翌日の午後。俺は電車を乗り継いで、また犯行現場に向かってしまった。
 常識的に考えれば、こんなことは絶対にやるべきではない。まあ、出所翌日から空き巣を働いた、非常識にもほどがある人間が、「常識的に考えれば」なんていうのもおかしな話だけど、とにかく犯人が犯行現場に戻るなんてデメリットしかないのだ。
 でも俺は、服装を変えて周辺をうろつくだけだったら大丈夫だろうと最終的に判断し、作業服ではなくカジュアルな私服で出かけた。もし昨日の犯行が気付かれて通報されていたら、あの家の近くにパトカーや警官の姿が見えるはずだ。それが遠目に見えた段階で、不審に思われないようにそっと引き返し、そのまま駅に戻ればいいのだ。
 確かめたいだけだ。あの家に住んでいた女が、本当にマリアだったのかどうか。
 あの顔写真。そして大野中学校と竜ケ崎西高校の卒業アルバム。彼女がマリアだと思う根拠は多分にある。でも断定はできない。顔写真は他人の空似で、卒業アルバムはよく見たら学年が全然違った、なんて可能性も排除できない。
 俺は昨日と同じ道順を通り、昨日侵入した家の前を通った。近くにパトカーが停まっているようなこともなく、何も変わった様子はない。一方、隣のビルはもう足場の解体作業に入っていた。となると、家の前の道をうろついて、作業員の印象に残ってしまうのはよくない。昨日の俺の犯行が何日か経った後で発覚し、警察がこの作業員たちに聞き込みをして「そういえば、犯行当日かどうかは分からないけど、前の道をうろついてる怪しい男がいました」なんて証言をされてしまう恐れもゼロではないのだ。
 俺は家の前を通り過ぎ、角を曲がった。昨日の午後四時頃、マリアかもしれない住人の女が歩き去った方向だ。ちょうど今の時刻も、四時少し前だ。
 しばらく歩くと、商店街に入った。昨日、マリアかもしれないあの女は、この商店街で買い物をしていたのかもしれない。もしかすると今日もいるかもしれない。ただ、これだけ多くの人が行き交う商店街で、また彼女を見つけるのは難しいような気もする。彼女に会いたいなら、やはり家の前で張り込むのが最も確実だ。でも、そんなことをすれば当然、通行人にも隣のビルの作業員にも怪しまれてしまう。う~ん、どうすればいいか……なんて悩んでいた時だった。
 正面から歩いてくる、女の姿が目に入った。
 おおっ、間違いない。高校時代のマリアによく似た、あの女だ。
 他人の空似かもしれない。ただ、実物を見ると、やっぱりよく似ている。でも、俺だって年を取って、見た目も相当変わっているはずだし、マリアだってすっかり変わっているのかもしれないし……などと改めて考えながら、俺は女をじっと見つめて歩く。女もこちらに向かって歩いてくるので、距離はどんどん縮まっていく。そして、もう少しですれ違うという時だった。
 女がぱっとこちらを見た。視線に気付いたのだろう。
 俺はとっさに目をそらそうかと思ったが、その時すでに彼女は、こぼれそうなほど目を大きく開いて、俺を見つめていた。
「よしと、くん?」
 女が言った。――もう確定だった。
「嘘でしょ……善人君?」
「……マリア?」
 俺も、たった今気付いたような芝居をしながら、約十六年ぶりに彼女の名前を口にした。
「うそおおっ、こんなことってある?」
 マリアは目を見開き、口元を押さえて、泣き出しそうな顔になった。商店街を歩く通行人が、何事かと怪訝けげんな顔でマリアを見て通り過ぎていく。マリアはその視線に気付いて恥ずかしくなったのか、「すいません」と小声で言って周りに頭を下げながら、俺に近付いてきた。
 改めて近くで見ても、マリアは高校時代から変わっていなかった。もちろん大人になっていたが、老けた感じはなかった。むしろ大人になって、より美しくなっていた。
「あの……元気だった?」マリアは潤んだ目で俺に尋ねてきた。
「うん。元気だよ」
「でも……善人君、痩せたね」
「元々痩せてただろ、俺」
「ふふ、そうだったね」
 マリアは笑みを浮かべながらも、潤んだ目元を拭った。――そういえば、昨日スーさんともこんなやりとりを交わしたことを俺は思い出した。
「マリアは元気か?」
 俺の問いかけに、彼女は「うん」とうなずいてから、聞き返してきた。
「善人君、この辺に住んでるの?」
「いや、あの……」
 答えに窮した。無計画なことに、マリアと再会して会話まですることは想定していなかったので、自分のことをどう説明すべきか、何も準備せずにここまで来てしまっていた。
「俺は……仕事でこの近くまで寄った帰りなんだ」
 とっさに取り繕った後、本当は知っていることを尋ねた。
「マリアは、この辺に住んでるの?」
「近く。すぐ近く。うち、すぐ近く!」
 マリアは興奮気味に、俺が昨日侵入した家の方向を、繰り返し指差した。
「なんか、日本語が片言の人みたいだぞ」
「そうだね、アハハ」
 マリアは笑った。無邪気な笑い声も昔のままだった。
 と、そこでマリアが、俺の頭を指差して言った。
「ていうか、おでこにたんこぶできてない?」
「えっ……ああ、本当だ、どこかにぶつけちゃったのかな」
 俺は額を触り、さも今気付いたようなリアクションをした。昨日足場の鉄パイプにぶつけた額は、今日もまだ少し膨れていた。
「なんか、そのたんこぶ見て、最初に会った夏休みの日のこと思い出しちゃった。ほら善人君、あの日もおでこにたんこぶ作ってたじゃん」
「えっ……ああ、そうだったな」
 少し考えてから思い出した。――そういえば俺は、マリアと初めて出会った日にも、ある男のせいで額を強打して、たんこぶをこしらえてしまったのだ。
「ていうか、そんなこと思い出してたら、泣きそうになってきた……。やばい、超懐かしい」
 マリアが笑いながら、そっと目頭を押さえた。
「本当だな。こうやって会うのは、高三の時以来だもんな」
 昨日から分かっていたのに、俺はまた、さも今思い返したかのように言った。
「うれしい、マジでうれしい。まさか会えるなんて」マリアはそこまで笑顔で言ったところで、少しうつむいて笑顔を曇らせた。「だって……あんな別れ方しちゃったからさ」
「ごめん……あの時は、本当に」
 俺は頭を下げて謝った。だが、マリアは首を横に振った。
「ううん、善人君が謝ることじゃないよ。善人君は何も悪いことはしてないもん。後から聞いたけど、いろんな事情があったんだよね?」
「いや……俺が悪いんだよ」
 俺は、気まずくうつむくしかなかった。胸によみがえるのは、高校三年生の時の、たまらなく苦い思い出だった。
 だがマリアは、気まずい沈黙を振り払うように、また尋ねてきた。
「それで、善人君はどこ住んでるの?」
「ああ、今は……東中野に住んでる」
 少し迷ったけど、居候中のアパートの場所を正直に答えた。
「そうなんだ~。あ、結婚とかは?」
「してない。長いこと彼女もいないよ」
「へえ~」
 マリアは微笑んでうなずいた。――マリアはどうなんだ、結婚してるのか、と聞きたいのはやまやまだったけど、していると答えられた場合のショックを味わうのが怖くて、その勇気が出なかった。
 するとマリアが、思わぬ提案をしてきた。
「ねえ、すぐ近くだし、今からうち来ない?」
「えっ……いいの? お邪魔しちゃって」
 実は昨日もお邪魔してるんですけど、なんてことはもちろん言えない。
「うん。散らかってるけど、よかったら来て」
「ああ……」
 そんなことないよ、今まで百軒以上の家に入ったことがあるけど、結構きれいな方だったよ、なんてことは当然言えない。
「じゃあ……お言葉に甘えて」
 俺がうなずくと、マリアはうれしそうに、にっこり笑ってくれた。

「おお、すごい立派な家じゃん」
 マリアに案内された家の外観を見て、俺は初めて見たかのように感嘆した。
「ああ、うん……」
 マリアは謙遜し慣れていない様子で、伏し目がちに笑みを浮かべながら、玄関の鍵を開けて俺を招き入れてくれた。
「じゃ、どうぞ」
「お邪魔しま~す」
 昨日に続いて二度目の訪問だが、玄関から通常経路で入るのは初めてだ。昨日は靴カバーで入ったけど、今日は当然靴を脱いで、スリッパも履いた方がいいかな――なんて思っていた時だった。
「あれっ? ここにスリッパあるって、よく気付いたね」
 マリアが俺の様子を見て、不思議そうに言った。
「あっ……」
 俺はすでに、スリッパラックからスリッパを取っていた。昨日、帰宅したマリアと鉢合わせしそうになって逃げた際、ラックに脛をぶつけたから、場所を覚えていたのだ。だが、よく見るとそれは、シューズボックスの陰になって来客からは見えづらい場所にあった。
「……まあ、スリッパって、だいたいこの辺にあるでしょ」
 俺はとっさに取り繕ったが、マリアは首を傾げる。
「そうかな? 知り合いの家も、あと私の実家も、スリッパは靴箱に入れてあったけど」
「いや、あの……」
 俺は少し考えてから、その場しのぎの嘘をつく。
「実は俺、住宅関係の仕事をしててね、人の家によく入るんだ。やっぱり、何百軒と他人の家の中を見てるから、いろんな家のパターンがインプットされてるっていうか……。とにかく、ここら辺にスリッパが置いてある家って、結構多いんだよ」
「なるほど、そうなんだ~」
 とりあえずマリアは納得したようだった。だが、すぐに尋ねてきた。
「で、住宅関係のお仕事って、建築士さんとか?」
「いや、建築士ではないんだけど……」
「じゃあ、大工さんとか?」
「ん、いや、その……」
 ああ、まずい、その場しのぎの嘘に食いつかれてしまった。とっさについた嘘のために、さらなる嘘をつかなければいけなくなってきた。まるでどこかの国会の風景のようだ。
「えっと、大工でもないんだけどね……」
 迷ったが、住宅関係で、俺がもっともらしく語れる分野といったら一つしかない。
「一応、肩書きは……防犯診断士、みたいな感じかな」
「へえ、そういうお仕事なんだ~」マリアは笑顔でうなずいた。
「まあ、フリーでやってるんだけどね、今日も仕事の帰りだったんだ」
「なるほど。だからラフな服装なんだね」
 マリアは納得した様子だった。ちゃんと計算したわけじゃなかったけど、仕事帰りと言っておきながらカジュアルな服装だったことに対しても、「フリーの防犯診断士」という嘘の肩書きが説得力を与えてくれたようだ。
「あ、大丈夫かな、うちの防犯」
 マリアが廊下を歩きながら、ふと心配そうに周りを見回した。
「まあ、ここから見ただけじゃ分からないけどね……」俺は曖昧に答える。
「ああごめん、プロの人にタダで見てもらおうなんて図々しいよね」マリアが笑った。
「いやいや、そんなことはないけど……」
 金目の物がゴロゴロあって、隣のビルに泥棒が跳び移れそうな足場が組んであるのに、ベランダの窓を網戸にして出かけちゃダメ――と言ってやりたいけど、もちろんそうもいかない。
「まあ、これだけ立派な家だと、泥棒に狙われやすいっていうのは確かかな」
 俺は一応忠告してやった。するとマリアは言った。
「そっか~。まあ、今まで何もなかったからって、油断しちゃだめだよね」
 今まで何もなかった――マリアがそう言っている時点で、昨日の俺の犯行は気付かれていないのだと分かった。とりあえずホッとする。やはり現金も腕時計も、欲をかかずに気付かれない程度だけ盗んだのがよかったのだろう。前回の服役の原因は、このさじ加減を間違えて住人に通報されたことだったので、俺も少しは成長したようだ。
「あ、どうぞ座って」
 部屋に入り、マリアにダイニングテーブルの椅子をすすめられた。俺が座るとすぐ、マリアは冷蔵庫に入っていた麦茶をコップに注いで「どうぞ」と出してくれた。
「ああ、どうもありがとう」
 俺は麦茶を一口飲んでから、広いリビングを眺めながら言った。
「ていうか、こんな家を建てたってことは、マリアはずいぶん立派な仕事をしてるんだな」
「いや……私が建てたわけじゃないよ」マリアが首を横に振る。
「え、そうなの? なんかすごい儲かる仕事でもしてるのかと思ったけど」
「いや、私、今は主婦だから」
「主婦……」
 俺の心は、ゴツンと殴られたような衝撃を受けた。
 もちろん、このテーブルの椅子も二脚だし、明らかに男物の服や腕時計もあったし、覚悟はしていたことだ。でも、男と住んではいるけど弟もしくはルームメイトで、恋愛関係は一切ないということもありえるんじゃないか――なんて希望はあっけなくついえた。
「じゃあ、旦那さんがずいぶん成功してるんだな。そりゃよかった」
 俺は笑顔を作って、全然ショックなんて受けていない風を装った。
「それにしても、こんな立派な家を建てるなんて、旦那さんはどんな仕事をしてるんだ?」
 俺が尋ねると、マリアは困ったような顔をして、しばらく沈黙した後で言った。
「善人君……何も知らないんだよね」
「えっ?」
「地元に帰ったりとか、昔の友達に会ったりとか、あんまりしてないんだね」
「まあ、あんまりっていうか、もう全然してないな」
「そっか……」
 マリアは、しばしうつむいた後、言いづらそうに告白した。
「私、お医者さんと結婚したの」
「医者……」
 それを聞いて、俺の心がざわついた。
「そのお医者さんっていうのは、善人君の、よく知ってる人。……ちょっと待ってて」
 マリアは、いったん玄関の方に戻ると、両手で四角い物を抱えて戻ってきた。
 それは、結婚式のフォトフレームだった。
 ウエディングドレス姿のマリアと、タキシード姿の、でっぷり太った眼鏡の男が並んだ写真。そのフォトフレームには、こう刻まれていた。
「Happy Wedding TAKESHI♥MARIA」
 やっぱりそういうことか――。相手が医者と聞いた時から、予感はしていた。
 マリア以上に長い時間を共有してきた、幼なじみであり親友でありライバルでもあった男の顔は、十五年以上の月日で多少変化しようとも、忘れられるはずがなかった。思えば、マリアと初めて会った日に、俺の額にたんこぶができたのも、こいつのせいだったのだ。
 俺は、胸が詰まりそうになりながらも、祝福の言葉をかけた。
「ああ、そうだったのか。……小学校からの幼なじみ同士で結婚なんて、ロマンチックな話だな。おめでとう」
 すると、マリアがふと思い付いたように言った。
「そうだ、この後時間ある? もしよかったら、主人が仕事終わった後で、久々に会い……」
「いや、遠慮しとく」
 俺はマリアの言葉を遮って、きっぱりと言った。
「悪いけど……俺たちは、再会を喜び合えるような仲じゃないから」
 それを聞いて、マリアは悲しそうにうつむいた。でも、事実だからしょうがない。
「マリアが幸せそうでよかったよ。……じゃあ、達者でな」
 俺は、精一杯強がって立ち上がり、リビングを出ようとした。一刻も早く立ち去りたかった。
 だが、すぐマリアに呼び止められた。
「待って。携帯番号、交換しない?」
「ん、ああ……」
 俺が答えあぐねていると、マリアはすぐ付け足した。
「主人には教えないから」
 たしかに、それも気になる問題ではある。だが、それ以上に大きな問題がある。
「えっと……俺、未だにガラケーなんだよね」
「ああ、お仕事用の?」
「うん、まあ……」
 この携帯電話で番号を交換しちゃうと、マリアの電話番号を、前歯が欠けた還暦過ぎの泥棒のおじさんの携帯に登録しちゃうことになるんだけど、それでもいい?――なんて正直に言えるわけがない。
「でも善人君、自営業みたいな感じなんだよね。じゃ、そのケータイにメールしても、会社の人に怒られたりはしないよね?」マリアが尋ねてきた。
「ああ……うん」
 そうだった。ついさっき自分でついた嘘の設定を忘れていた。
「じゃ、番号とメールアドレス教えてよ。もしプライベート用の携帯があるんだったら、後でそっちの番号とアドレス送ってくれてもいいし」
「うん……分かった」
 結局、マリアの要請を拒めず、俺はスーさんからの借り物のガラケーを開いた。
 だが、そこで俺は、さっそくピンチに陥った。
「えっと……」
 どうすれば自分の番号とアドレスが出るのか、操作方法が分からないのだ。
 とりあえず、前に俺が持っていたガラケーと同じように、メニューボタンを押した後「0」を押してみた。すると、幸い一発で出た。
 ところが、さらにまずいことに気付く。番号とアドレスだけでなく「須藤法彦 スドウノリヒコ」と、スーさんの氏名も一緒に出てしまったのだ。スーさんってこんな本名なんだ、泥棒のくせに法律の法が名前に入っちゃってるんだ……と思いながらも、当然この画面をマリアに見せるわけにはいかないので、動揺を隠しながら言った。
「ああ、俺のアドレス長いから、マリアに番号とアドレスを教えてもらった方がいいな」
「あ、そう? じゃ、私の番号言うね。080……」
 俺はマリアの電話番号をボタンで打ち込む。そうすると「発信」と「登録」という選択肢が出るのは、どの機種でも共通だ。「登録」のボタンを押し、まずマリアの電話番号と名前を登録した後、その登録画面からメールアドレスの項目を選択して、マリアのスマホにアドレスを表示してもらってそれを打ち込めば、無事に登録が完了した。
「じゃあ、えっと……ワン切りと空メールするわ」
 たった今登録した番号とアドレスを表示させ、それを選択して、電話をかけてワンコールで切った後、空メールを送る。不慣れな携帯電話でも、どうにか無事に操作を終えることができた。とりあえず、自分の携帯電話じゃないことがばれなかったのでホッとした。
「善人君が最初にケータイ買った時も、こんな感じで交換したよね。たしか高一の時」
 マリアが懐かしそうに言った。
「あ、そうだったっけ? よく覚えてないな」
 俺は笑顔を作りながらも、これ以上思い出話を弾ませても惨めになるだけだと思って、会話を切り上げた。
「じゃあ……そろそろ、おいとまするわ」
「うん、また連絡するね」
 玄関に向かった俺に続いて、マリアが結婚式の写真を持ってくる。
「あ……わざわざ、それを持って見送ってくれるのか」
「あ、いや、ここに置いてあったから」
 マリアが玄関の脇の棚を指差した。――昨日は逃げようとして急いで通り過ぎ、今日はスリッパを早々と発見したことをマリアに指摘されて焦っていたから気付かなかったけど、冷静に見れば、来客から見える位置に結婚式の写真を飾っていたのだと分かった。
 俺は、靴を履いてから、自らの傷口に塩を塗り込むように、改めて写真を目に焼き付けた。これでマリアへの未練を断ち切るつもりだった。
「Happy Wedding TAKESHI♥MARIA」という文字が刻まれた、スレンダーで美しいウエディングドレス姿の新婦と、眼鏡をかけて醜く太ったタキシード姿の新郎のフォトフレーム。緊張のせいか、その眼鏡の奥に脂汗が流れているのが見て取れる。まさに美女と野獣のカップルだ。
「これ、ひどいよね」
 マリアが苦笑いしながら、そのフォトフレームを指差した。俺も「ああ」と苦笑を返した。とはいえ、この汗だく眼鏡デブに、俺は完膚なきまでに負けたんだ。――そう実感しながら、俺は「それじゃ」と、玄関のドアを開けて外に出た。
「善人君、また連絡するからね」
 マリアが背後で再び言ったが、きっと社交辞令だろう。俺は振り向かずにドアを閉め、早足で駅へと歩いた。
(第3回へつづく)

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藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

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