双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第14回
 

最終章 あなたに会えてよかった

2019年7月22日
 ついに迎えた、作戦決行の日。
 スーさんは朝から、表稼業の警備員のバイトに出かけていった。それから約二時間後、俺も支度を調ととのえ、作業服を着て、もう二度と戻らないかもしれないアパートの部屋を出発した。
 電車を乗り継ぎ、目的地の綾瀬北野病院に到着する。患者や見舞客らが行き交う敷地内を、何かしらの業者に見えるように自然な態度で歩き、病棟の裏手に回る。そこで人目がないのを確認してから、外階段を上った。
 一段ずつ上りながら、改めてポケットの中の硬い感触を確認する。そして、この作戦について思いを巡らせる。
 俺は、マリアに対して、一つ重大な嘘をついている。
 三日前、最後に電話で話した時から、マリアのことを欺き続けている。
 本当は、飛び降り自殺に見せかけるなんて、無理なのだ――。
 まず、マリアには外階段の手すりが低いと説明したが、実際はそこまで低くはない。俺の胸ぐらいの高さがある。それに、高校時代のバンド仲間のぐっさんに、レスリングの下半身タックルを教わったのは事実だが、相手を持ち上げるような技術もパワーも俺には備わっていない。人を軽々と肩車できたのはぐっさんだけだった。また、マリアには「俺は今も体を鍛えてる」なんて言ったが、本当は全然鍛えていない。後ろから不意を突いたとしても、体重が倍もあるような相手を持ち上げて、手すりを越えさせて地面まで落とすなんて絶対に無理だ。
 できるとしたら、ただ体当たりをして、十三段下の踊り場まで突き落とすことぐらいだ。でも当然ながら、その方法では懸念がある。――死んでくれるかどうか分からないのだ。
 死んでくれれば、転落事故に見せかけられる可能性も十分あるだろう。医師の長時間労働は社会問題になっているほどだから、過労によってふらついて階段から落ちて死んだという結論で片付けてもらえるかもしれない。ただ、七階から地面に落ちるのとはわけが違う。十三段の階段を落ちるだけだ。頭を強打すれば死ぬかもしれないが、足から落ちればせいぜい骨折程度だろう。――そういえば、ちょうど処刑台の階段が十三段だという話を聞いたことがある。でも、俺が今日これから執行しようとしている処刑は、失敗の可能性が多分にあると言わざるをえない。
 十三段の階段の上から突き落として、事故死に見せかける。――この手口を正直にマリアに話したら、本当に成功するのかと心配されてしまっただろう。いくら素人でも、殺害方法として穴が大きいことぐらいは分かる。だから俺は、正直に伝えることはできなかったのだ。もっとも、手すりを越えさせて地面に転落させるという手口を説明した時も「そんなこと本当にできる?」とマリアに言われてしまったのだが、手すりが低いしレスリングの技を習得しているから大丈夫、などと言いくるめた。何より、「七階からアスファルトに叩きつけられて死なない人間なんていないんだから、あいつを殺すこと自体は間違いなく成功する」と最後に言い添えたから、説得力としては十分だったはずだ。
 マリアの手を一切汚させず、事故に見せかけて殺人を遂行する方法は、これぐらいしか思いつかなかった。もちろん、十三段の階段で奴を突き落として殺せるのが理想だ。ただ、殺すことに成功したとしても、さらなる懸念がある。――俺が逃げ切れるかどうかだ。
 重さ百キロほどの巨体が転げ落ちれば、鉄筋コンクリート製の階段でも、かなりの音と振動が発生するはずだ。それを聞いて、七階だけでなく下の六階からも、外階段の様子を見に人が出てきてしまうかもしれない。そこで鉢合わせしてはいけないから、俺は犯行後すみやかに、五階までは下りておきたいところだ。そこから足音を立てないように、かつ地上の通行人からも見えないように階段を下りるしかないだろう。幸い外階段の手すりは、柵ではなく壁のタイプだ。疲れるけど、かがんで下りれば地上の通行人から見られることはないはずだ。
 しかし、地面に下りてからは、遮る物は何もない。走ったりすればかえって怪しいので、むしろ堂々と歩いて逃げるしかないだろう。ただ、俺がこの階段まで歩いてきた様子も、歩いて逃げる様子も、付近の防犯カメラには写ってしまうはずだ。やはり、階段での転落死が事故だと警察に判断されない限り、捜査の網から逃げ切るのは無理だろう。
 そして最も恐れるべきは、階段を転げ落ちただけでは死んでくれなかった場合だ。明らかに意識があるようだったら、そのまま逃げるわけにはいかない。マリアを自由にするためには、とどめを刺すしかないのだ。
 その最終手段のための道具が、作業服のポケットに入っている。俺はまた、スーさんの部屋の引き出しの奥から拝借した、硬い感触を右手で確かめた。
 飛び出しナイフ――スーさんが駆け出しの空き巣の頃に使っていたが、もう何十年も使っていないと言っていた道具だ。そのため、俺が昨日こっそり盗み出しても、まったく気付かれることはなかった。
 ただ、これを使えば当然、死体に刺し傷が残るので、即座に殺人だとばれることになる。しかも俺は、返り血を浴びた状態で外階段を下り、その先も歩いて逃げなくてはならない。それで警察から逃げ切れるか……。考えるまでもない。絶対に無理だ。
 ナイフで殺すことになった場合は、すなわち自首とセットだ。むしろ重要なのは自首した後だ。説得力のある殺害動機を供述しなければならない。また、俺が被害者の妻であるマリアと何度も会ったり、電話やメールをしていたことも隠し通せないだろう。変に隠そうとすれば、かえってマリアも怪しまれてしまう。俺の取り調べでの演技が重要になるはずだ。
 そこで、マリアに電話で言い含めたシナリオを遂行するのだ。――出所後、懲りもせずまた空き巣を働こうとしていた俺は、下見に訪れた街で偶然、初恋相手のマリアに出くわした。その際に電話番号とメールアドレスを交換し、何度か会ったのだが、マリアの方は単に幼なじみとしての懐かしさから、夫の了解を取った上で俺と会っていたのに対し、俺は一方的に昔の恋心を再燃させてしまった。そして、邪魔者がいなくなればマリアと一緒になれると思い込み、ストーカー的な精神状態に陥って、凶行に及んでしまった。――このシナリオで通すために、俺はマリアと電話で約束したのだ。いざとなったら俺を捨て石にするように、と。
 もちろん俺は、殺人を転落事故に偽装することを目標にしている。ただ、成功する可能性は決して高くはないだろう。はっきり言って、失敗する可能性の方が高いことも自覚している。
 だが、それでもいいのだ。
 また刑務所に行くことになっても、後悔はないのだ――。
 どうせこれからの俺は、何のあてもなく、ただ生きるために空き巣を繰り返し、前科を増やしていくだけの人生だったのだ。ちまちました犯罪を重ねて堕落しきった生活を続けるぐらいなら、殺人という大罪を一回犯して、マリアを暴力から解放してやった方がよっぽど実のある人生だ。それなら刑期が何十年になろうと構わない。マリアは被害者の遺族として悲しむふりをしながら、ひっそりと人生の再スタートを切れるのだ。加害者の俺は刑務所の中で、人知れずそれを祝福することだろう。
 今の俺は、かつて俺自身が、ああはなりたくないと思っていた大人になってしまったのだ。空き巣で前科二犯というのは言うまでもないが、楽しそうに喋りながら歩く中学生の列に後ろからぶつかって「邪魔なんだよ!」と怒鳴ったり、大人なのにエロ本をゴミ置き場で拾ったのは、どちらもつい最近の出来事だ。ああ、忘れたわけじゃない。あれこそ少年時代に、「ああなっちゃったら人間終わりだよな」とあざ笑っていた大人の姿そのものだ。俺はもう人として終わっているのだ。人間のクズ、社会のクズだ。野垂れ死にしたって誰も困らない存在なのだ。
 ところが神様は、粋な計らいをしてくれた。クズ中のクズの俺に、愛する人を救うチャンスを与えてくれたのだ。俺の失敗した人生と引き替えに、初恋相手を救うことができるのなら、それで万々歳だ。
 マリアは、美しい花だ。俺が今まで見た中で、最も美しい花だ。でも、害虫がついてしまっているせいで、今にも枯れそうになっているのだ。
 俺は、世間ではその害虫以上に嫌われている醜悪な虫だ。でも今日、命をかけてその害虫を退治するのだ。結果的には、その害虫と相討ちになるのかもしれない。でも、マリアの根元で朽ち果てることができるのなら本望だ。マリアが俺を養分にして、再び元気に花を咲かせられるのなら、喜んで土に還ってやる。もちろん、俺が害虫を退治して、元気なままマリアと共生できるのが一番いいんだけど――。
 そんなことを思いながら、外階段を上っていく。手すりの陰に身をかがめ、十三段、踊り場でターンしてまた十三段……と歩を進める。曇り空で日差しはないが、高湿度の中かがんで百段以上の階段を上れば、汗が噴き出してくる。処刑台の階段を上り、間もなく処刑されるのは俺自身なのかもしれない。もうすぐこの頂上で、人生をおじゃんにする可能性が高いのだから。
 そしていよいよ、灰皿が置かれた最上階に着いた。一応ドアを引いてみるが、やはり外からは開かない。まあ、今日に限って開いてしまっても、こっちは待ち伏せする作戦しか用意していないから、かえって困るのだが。
 ドアが開いた時に隠れる位置で、手すりの陰にしゃがむ。そこで携帯電話を取り出し、時刻を確認する。午前十一時二十七分。病院内の食堂のランチタイムの営業は十一時半から二時までだ。あと二時間半ほど待っていれば、どこかのタイミングで必ず、武史が食後の煙草を吸いに出てくるはずだ。
 ポケットからビルの図面を出す。マンションや雑居ビルに盗みに入る時のカムフラージュ用だ。スーさんの部屋に十枚以上あったのを一枚もらってきた。もし、無関係の誰かが外階段に出てきた場合、振り向かずにそのまま階段を下りてくれれば問題ないが、開けたドアを閉めようと振り向いたりして、俺の存在に気付いてしまう可能性もある。そんな時に備え、この図面を持ってきたのだ。作業服姿でこれを手に「すいません、今、外壁工事の確認をしてまして」なんて言えば、ビルメンテナンス的な業者だと思わせて、怪しまれずにやり過ごせるはずだ。
 とはいえ、今日はそんな弁解が必要になる可能性は低いと考えている。建物の中にエレベーターもあるのに、好きこのんで外階段を使う人間はいないだろう。俺は深呼吸をして緊張をほぐしてから、図面をポケットにしまった。
 頭の中で入念にシミュレーションする。――まずドアが開く。出てきた人間の姿を確認する。武史だと確認でき次第、体勢を低くしてタックルする。勢い余って俺も一緒に階段から落ちるかもしれない。でも、あの丸々太った肉の塊がクッションになれば、俺はそれほど大きな怪我はしないんじゃないかと思っている。
 そして、階段の下で奴が息絶えたようだったら、そのまま逃げる。体勢を低くして手すりの陰に隠れ、足音を忍ばせながらも、できるだけ速く階段を下りることが重要だ。
 一方、もし息があるようだったら、ナイフで胸を突き刺す。分厚い脂肪を貫くには、全体重を乗せて刺さなければいけないだろう。でも大丈夫。俺は一度、刺殺の成功例を見学しているのだ。目の前で見たホームレス同士の刺殺事件は、今も脳裏に焼き付いている。あの犯人と同じように、両手でしっかりナイフを持ち、体当たりするように刺せば、きっと成功するはずだ。あとは逃げ隠れする必要はない。駅前の交番にでも堂々と出頭すればいいだけだ。
 ――そんなことを考えていた時だった。運命の時は、突然訪れた。
 カチャン、とドアの鍵が内側から開く音がした。そしてすぐにドアが開く。
 緊張で息が止まる。俺は開いたドアの陰でしゃがみながら、出てくる人影に目を凝らす。
 さあ、出てくるのは武史か、それとも違う人物か。十中八九、武史のはずだ。わざわざ外階段に出てくるのは、この病院で唯一の喫煙者のはずだ――。 
 ところが、現れたその人物は、武史ではなかった。
 ただ、その青い制服の姿には、見覚えがあった。
 三日前に偵察に来た時に見た、体格のいい筋肉質のナースの男だ。しかも彼は、出てきてすぐ、こちらを振り向いてしまった。俺の気配に気付いてしまったようだ。
「ああ、すいません。ちょっと、あの、今、外壁工事の……」
 俺は慌てて、作業服のポケットから右手で図面を取り出そうとした。だが、慌てていた上に、汗で指先が滑ってしまって、うまく図面を取り出せない。
 と、その右手を、彼につかまれてしまった。
「えっ、いや、ちょっと、怪しい者ではないんですけど……」
 本当は怪しい者の最たるものなんだけど、俺は必死に弁解する。だが彼は、俺の右手に続いて、左の襟の奥をつかんだ。柔道の組み手の姿勢だ。
「いや、ちょっと、ほんとに違うんです……」
 俺の言葉も聞かず、彼はその体勢のまま、俺を建物の中へと押し込んだ。強烈な圧力に俺はなすすべもなく、後ずさりする格好で病院内に入ってしまう。
「いや、あの、だから……」
 くそっ、こんなところで不審者として捕まるわけにはいかないのに――。俺は慌てる。
 一方、中に入ったところに、白い半袖シャツの、おそらく理学療法士的な、長身で肩幅の広い男がいた。男二人はうなずき合うと、「せえの」と声を合わせ、俺の体を持ち上げた。体重が軽い俺は簡単に担ぎ上げられてしまう。二人はそのまま、猛然と廊下を歩き出した。
「ええっ!? いやいや、ちょっと……」
 おかしい、これはただの不審者の扱いではないぞ――。俺が混乱する中、男たちは俺を担いだまま廊下の角を曲がり、病室に入った。そこで俺はすとんと床に下ろされた。
 応接セットや大型テレビが備え付けられた、広大な病室。ここがVIPルームなのだろう。
 と、その奥を見て、俺は目を見張った。
 壁際の、機械につながれたベッドの上に、痩せこけた老人が横たわっている。
 だが、それよりも俺が目を奪われたのは、ベッドの手前に立つ人物だった。
 そこには、丸々と太った体格の、白衣を着て眼鏡をかけた男の姿があった。
 武史だ――。
 俺が今日、殺意を持って待ち伏せていた男だ。
「なんでだよ……。これは、どういうことだよ」
 俺は、目の前に立つ、憎むべき太った男――吉井武史よしいたけふみに向かって言った。
「おい、どういうことなんだよ、ヨッシー」
 なぜだろう。憎しみを募らせ、殺意を抱いている相手なのに、いざ本人を目の前にすると、つい昔の呼び方に戻ってしまった。
 すると相手も、俺を見つめて、こう言った。
「こうするしかなかったんだ、タケシ」
 タケシ――久しぶりに呼ばれたあだ名だった。
 北野善人きたのよしとというフルネームの俺が、そのあだ名で呼ばれたのは、学業を捨て、牛久北野病院の後継ぎという立場も捨て、音楽だけで生きていこうと決意して高校を中退し上京した、あの日が最後だっただろう。

 さらに、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「だって善人君、私のお見舞いにも来てくれなかったでしょ。だから、ここに来てもらうには、こうするしかなかったの」
 振り向くと、背後の壁際に立っていたのは、マリアだった。
「マリア……どうして、ヨッシーと……」
 俺はすっかり混乱しながらも、なんとかこの不可解な状況について質問した。
 するとマリアは、夫の方へとゆっくり歩きながら、笑顔で言った。
「ヨッシーって呼び方、懐かしいね。ていうか、大野小に転校してきた時を思い出すわ、このややこしさ。――だって、善人君がタケシって呼ばれてて、一見タケシって読める武史たけふみ君が、ヨッシーって呼ばれてたんだもん。夏休みに公園で初めて会った時は、二人ともあだ名しか知らなかったけど、学校が始まって最初にクラスの名簿を見た時は混乱したよ。あれ、この二人のあだ名って逆にした方がいいんじゃないの、って」
「ああ、前もマリアはそんなこと言ってたね。でも、俺はピンとこないんだよな」
 ヨッシーは、歩み寄ってきた妻を微笑んで見つめながら、俺を指し示して言った。
「だって、こいつは苗字が北野だから、小学校入学以来ずっとタケシって呼ばれてたんだよ。まあ、当時から日本一有名な北野といえば北野武だから、それにちなんであだ名が付いたんだろうな。で、俺は三年生の時に転校してきたんだけど、俺の名前は『武史たけふみ』って読むわけだし、みんながスーパーマリオのゲームで遊んでた時期に、吉井って苗字の奴が転校してきたわけだから、そりゃヨッシーってあだ名がつくよ」
「ああ……それもそっか」マリアはいったん納得したようにうなずいたが、すぐに言った。「でも、やっぱり初見だと、だいたいの人はあなたの名前を『たけふみ』じゃなくて『たけし』って読んじゃうでしょ。結婚式のフォトフレームも、業者さんに間違われたし」
「ああ、まあたしかに、漢字で書いちゃうとややこしいけどね」
 二人のやりとりを聞いて、俺は最初にマリアに家に招かれた時のことを思い出した。マリアは「これ、ひどいよね」と、武史の名が「TAKESHI」と間違えて刻まれた結婚式のフォトフレームを指して、苦笑していたのだった。――というか、この二人の様子は、DVが行われていた先週とはまるで違っていた。普通の仲良し夫婦のようにしか見えなかった。
 だが、混乱する俺にはお構いなしに、ヨッシーは懐かしそうに話を続けた。
「まあ、俺が転校してちょっと経った頃にブレイクした、イエモンのボーカルも吉井だったから、転校がもう少し遅かったら、俺はイエモンってあだ名になってたのかもな。そういえば、イエモンファンのタケシは時々、俺をいじってたよな。公園で『お前の大好きなイエモンだぞ』とか言って、イエモンのCDをウォークマンと一緒によく持ってきたし、あと中学の修学旅行のバスのカラオケで『JAM』を歌った時、イントロで画面に『作詞作曲 吉井和哉』って出たのを見て、『この曲を彼に捧げます』って俺を指差して笑いを取ったよな。で、その次にマリアが『あなたに会えてよかった』を歌った時、イントロで『作曲 小林武史』って出たから、タケシはまた画面と俺を交互に指して、ちょっと笑いが起きたんだよ。吉井和哉の吉井と、小林武史の武史で、二つ合わせて偶然にも俺のフルネームになってたからな」
「そんな細かいことまで、よく覚えてるな。……俺は全然覚えてねえよ」
 俺は、ヨッシーの異常な記憶力に驚きながらつぶやいた。するとヨッシーは笑顔で応じた。
「ああ、俺は昔のことばっかり覚えてるんだ。ここ最近も、昔の思い出を長々と回想しちゃう機会が何度もあったよ。人間は年を取るにつれ、昔のことの方がよく思い出せる人と、最近のことの方が思い出せる人に別れるらしいね。タケシは後者のタイプなのかな」
 たしかにその通りだった。俺は思い出を振り返って感傷に浸ったりはしない。以前マリアにも言ったが、過去は振り返らず、前だけを見て生きていくのを信条としているのだ。だから、学生時代の細かいことなんてろくに覚えていないし、ヨッシーが今言ったような、昔の思い出を長々と回想するなんてことは、俺はまずしないのだ。
ヨッシーは、笑顔で話を続けた。
「でもさ、さっきのマリアの話じゃないけど、もし子供の頃の俺たちがタイムマシンに乗って、ここにやって来たら、俺とタケシが逆だって思うかもな。昔は痩せてた俺が、今じゃこんなに太っちゃってるし、あと眼鏡もかけてるし。逆にタケシは、昔太ってたのに今はすっかり痩せたし、眼鏡もかけてないし。何より、俺が医者になってるわけだしな」
 たしかに、目の前のヨッシーの激太り具合はすさまじい。一方で俺も、バンド時代の貧乏生活から刑務所生活を経たせいで、かつて肥満児だったのが嘘のように痩せている。また、俺は視力は〇・五ぐらいあるから日常生活は送れるし、ロックをやる以上はモテたかったので、上京してからはずっと裸眼で生きている――なんて、そんなことは今どうでもいいのだ。
「いやいや……あのさあ、ちょっと待ってくれよ」
 俺は声を上げた。さすがに、この謎だらけの状況について尋ねないわけにはいかない。
「そんな話をほのぼのされても困るんだよ。いったいどういうことか、説明してくれよ」
「ああごめん、話がそれちゃったね」ヨッシーが頭をかいて謝る。
「わけ分かんねえよ。なんで俺はここに連れてこられたのか。あと、俺を連れてきたこいつらは、なんでそこでずっと俺を監視してるのか……」
 病室に入ってすぐの所に立っている大柄な男二人を、俺は指差した。
「ああ……ごめん、二人とも、どうもありがとう」ヨッシーは彼らに頭を下げた。
「いえいえ」二人が揃って、笑顔で首を振る。
「特に宮本君、危険な役をさせてしまって申し訳ない」
「本当ですよ。下手すりゃ階段から突き落とされるかもしれないって分かってて出て行くのは、さすがに怖かったですよ」
 宮本と呼ばれた、青い服の筋肉質の男性ナースが、笑いながら俺をちらっと見た。
「今度絶対おごってくださいよ」
「回らない方の寿司でお願いしま~す」
 二人はヨッシーに向かって言うと、笑顔で一礼して病室を出て行った。
 病室に残されたのは、俺とヨッシーとマリアと、ベッドに横たわる痩せこけた老人だけだ。
「……いや、あいつらが出て行ったからって、まだ全然分かんねえよ」
 俺はヨッシーに言った。今がどういう状況なのか、疑問はまったく解消されていなかった。
「ていうか、俺たちも出て行かなくていいのかよ。こんな知らないお爺さんの病室で話し込んで。……ん、お爺さんで合ってるよな? あれ、お婆さんか?」
 痩せこけた老人は、ぱっと見ただけでは性別も分からなかった。俺はベッドの上で医療機器につながれて眠る老人の顔を、まじまじと見る。
 ――そこで、俺は息を呑んだ。
「そんな、嘘だろ……」
 なんとか声を絞り出した俺に、ヨッシーが語りかけた。
「ああ、知らないお爺さんって、とぼけて言ってたわけじゃなかったんだな」
「気付かなかった……こんなに、痩せてたから」
「すべては、このためだったんだ。……間に合ってよかった」
 ヨッシーは、太った頬を細かく震わせながら、涙声になっていた。
 タケシはベッドを見て、真相に気付いてくれたようだった。その様子を目の当たりにして、俺は思わず涙声になってしまった。
「タケシ……だまして連れてきて、すまなかった。でも俺には、このままで終わらせるなんて、どうしてもできなかったんだ」
 俺は涙をこらえながら、少年時代と比べてすっかり痩せたタケシを見つめて語った。
「全てはあの日だった。俺たちの運命は、何もかも変わってしまった。今でも、高校三年の夏休みの、あの日のことは忘れないよ……」
 俺はそう言いながら、過去を回想する。この作戦を進める中で、梅酒を飲みながら、あるいはマリアとタケシの会話をイヤホンで聞きながら、何度もしてきたように――。
回想・2003年8月~2019年6月
 高校三年の夏休みのあの日。母と川崎に、夜逃げをすることと、大学進学をあきらめざるをえないことを告げられた俺は、二人を殴って家を飛び出した。その後、団地の公園でマリアに一方的に別れを告げ、さらに自転車で牛久駅前まで行ってタケシと殴り合いになった末に喧嘩別れして、破れかぶれになって衝動的に東京に出ようと決心した――。 
 ところが、駅の切符売り場の前まで来たところで気付いた。俺は財布を持っていなかった。気まずいけど、いったん家に財布を取りに戻らなければいけない
 その時、携帯電話が振動した。母からの着信だった。話す気にはならなかったから無視したけど、着信の後で留守番電話が録音されたのが分かった。母からの不在着信はすでに三件もあった。留守電なら聞いてもいいかと思って、俺は録音を再生してみた。
「もしもし武史たけふみ、お願いだから聞いて。すぐ戻ってきてください。……ああ、うちじゃなくて、北野さんの家にね。ついさっき、北野さんから電話があって、あんたを助けてくれるって。ただ、その、善人君が……まあ、とにかく、すぐ北野さんの家に行って。そうすれば、あなたは大学に行けるの」
 母は動揺しているようで、何を言っているのかよく分からなかったが、タケシの家に行くように言っているのは分かった。そして何より「大学に行ける」という内容は聞き捨てならなかった。俺は留守電の続きを集中して聞いた。
「私は親失格です。ごめんなさい。自力では何もしてあげられなかった。……でも、こんなチャンス絶対にもうないから。お願いだから、この留守電聞いたら、北野さんちに行って。北野さんにお世話になれば、大学に行けるから。善人君のことは、その、申し訳ないけど……でも、それよりも、あなたには自分のことを考えてほしい。とにかく……こんな母親でごめんね」
 やっぱり内容はよく分からなかったが、行くことにした。
 もしかすると、タケシの家が借金を肩代わりしてくれるのかもしれない。うちの借金額がいくらなのか具体的には知らなかったけど、大金持ちならありえるかもしれないと思った。ただ、母が「善人君のことは、その、申し訳ないけど……」などと、タケシの名前を出した後で言葉を濁していたのが気になった。
 急いで自転車を漕ぐこと約二十分。牛久駅から大野団地に戻り、北野家に着いた。さっき殴り合いをしたタケシは、スタジオにギターを弾きに行くようなことを言って駅に向かったから、家にはいないはずだ。俺は北野家の玄関のドアチャイムを押す。
 ドアが開き、タケシの父親が顔を出した。「上がりなさい」とだけ言って、中に引っ込んだ。
「お邪魔します」
 俺は家に上がった。そこで、タケシの父親の鼻と頬に痣があるのに気付いた。そういえば、タケシが昨日親父と殴り合いをしたと言っていたことを思い出した。
 通されたのは応接間だった。タケシの家に上がったことは何度もあったけど、一度も入ったことがない部屋だ。「かけなさい」と言われて、高級そうな革張りのソファに座る。
 すると、タケシの父が切り出した。
「善人が家出をした。そして、高校に退学届を出した」
「ええっ!?」俺は思わず声を裏返した。
「東京で音楽で食っていくんだそうだ。もう止めるのも馬鹿馬鹿しくなった」
 それを聞いて、俺はもちろん驚いたけど、同時に数十分前のタケシの言葉を思い出していた。拳の傷について「ギターは弾けるから大丈夫だ」などと言っていたこと。また、柏のスタジオにギターを弾きに行くのかと俺が聞いたら、「今日はもうちょっと遠いんだけど、まあそんな感じだ」とか「しかも今回は、うんと長い時間取ってあるからな。ずっとギターに没頭できるよ」と言っていたこと。――あれは、家出して東京に出て、これから音楽だけで生きていくことを意味していたのだ。
 まだ俺が衝撃を受け止めきれない中、タケシの父は語り出した。
「一方で、君は知っているかどうか分からないが、先週から何度か、君のお母さんから電話があった。内容は借金の申し込みだった。悪いが断らせてもらった。近所に住んでいて息子が友人同士だからって、金を貸す義理などないからな。――君のお母さんは『このままじゃ息子が大学をあきらめて、高校も辞めなきゃいけないんです』なんて泣きついてきたが、私の知ったことではない。それどころか、君は善人と同じ筑波大の医専を目指していると聞いていたから、理論上は善人のライバルが減ることになる。むしろ好都合だとすら思っていたよ」
 タケシの父は薄情なことを淡々と言った後、ふうっとため息をついた。
「だが、この通り事情が変わった。もっとも、前から悩んではいたんだ。善人に病院を継ぐ意志が感じられないこと。いっこうに勉強を頑張らないこと。筑波の医専を目標にさせていたが、E判定以外取ったことがなかったこと」
「えっ……」
 B判定じゃないの、と思ったけど、そこではっと思い出した。そういえば、タケシの模試の結果を覗き見た時、判定欄のアルファベットの右側が隠されて、左半分が見えただけだった。タケシは俺より成績がいいんだろうと思い込んでいたけど、あれはBではなくEだったのだ。
「そして挙げ句の果てに、あいつは音楽で食っていくと言い出した。学歴なんていらない、高校も辞めてやると啖呵たんかを切って、私を殴って家を飛び出した。ハッタリかと思ったら、今日になって担任教師から電話がかかってきた。本当に退学届を出してしまったということだった。もう私にはお手上げだ」タケシの父は、言葉通りお手上げのポーズをしてみせた。「善人を医者にさせようなんて考えは完全に消えた。好きにさせることにした。というより、息子ではないと思うことにした。まあ、いわゆる勘当というやつだな」
 そしてタケシの父は、俺をまっすぐ見つめて言った。
「さて、そこで君だ。単刀直入に言おう。私の後継ぎになるなら進学費用を出す。要は、君の人生を買うということだ」
 人生を買う――他人の人生を何だと思っているのかと、俺は唖然とした。だが彼は平然と話を続けた。
「善人を捨てることにした以上、金が余った。それに、息子を医者として育てるつもりだったのに、それが叶わないことになって、心に隙間が空いてしまった。まあ一言で言えば、金持ちの気まぐれだ。どうだ、善人の代わりにならないか?」
 気まぐれどころの話じゃないだろう。――言葉を失う俺の前で、彼はさらに語った。
「今私の下で働いている者に、後を継がせる器は見当たらなくてね。そもそも、うちの病院はベテランが多くて、後継ぎにできる若さの人間は多くない。優秀な若者もいるにはいるんだが、そういう者に限って、生涯をうちの病院に捧げる気はないようだ。それに私も、後を継がせるとなったら、生育歴や人となりをできるだけ把握している人間がいい。もちろん善人が最適だったんだが、その可能性が閉ざされた以上、他を探すしかない。その点、君は適任だ。貧乏でガッツがあることは善人からも聞いていたし、医は仁術という言葉もある通り、医者たるもの貧しい患者の気持ちも分からなくてはいけない。私には少々不足している点なんだがね」
 タケシの父は少しだけ笑ってみせた。
「善人を想定していた以上、やはり年齢の近い人間を用意したい。また、病院経営は、普通の医者とは違う能力も求められる。そういったスキルも、若いうちから伝えていかねばならない。そんな状況の中で、進学したくてもできないのだと母親が泣きついてきた君の存在は、まさに渡りに船だった。――だから君の家に電話して、君を呼び出してもらったんだよ」
 この話を留守電に入れた母が、動揺していた理由が分かった。まさかこんなことを言い出す人間がいるとは思わなかった。ただ借金を肩代わりしてくれる優しいお金持ちの方が、まだ現実感がある。でも目の前の男は、十七年育ててきた息子を捨てると決めた直後、その幼なじみである俺の人生を買いたいのだと、顔色一つ変えずに言っているのだ。タケシが父親を悪く言うのを聞いてはいたけど、その気持ちがよく分かった。こいつは人として、親として、最低限備わっているべき愛情が欠如している。――俺は強く実感した。
 ただ、そうだとしても、この提案にすがるしかなかった。俺にとってもこの提案は、渡りに船以外の何物でもなかった。
 とはいえ、一つだけ心配があった。俺は質問した。
「もし僕がこの提案を受け入れたら、タ……善人君は、どうなるんですか」
 タケシ、と呼び慣れたあだ名で言いかけて、すぐ言い直した。すると彼は無表情で答えた。
「言ったろ。あいつのことはもう捨てたんだ」
「捨てたって言っても、大事な息子さんですよね」
「私にとっては、善人も君も、血のつながりはない。その点では条件は同じだ。……ああ、聞いてなかったか?」
「いや……聞いてました、善人君から」
 俺が継父である川崎と初めて殴り合いをした翌朝、タケシにその話をした時に、逆にタケシから「俺、親父と血はつながってないんだよ」と告白されたのだった。
「まあ、そういうことだ。私の遺伝子は入っていないのだから、大事な息子というほどの思い入れはない。むしろ、長年金と手間をかけて育てたのに、このに及んで音楽で生きていくなんて戯言たわごとをぬかし、私を殴って出て行った善人に対しては、今は憎しみの方が強いぐらいだ」
 タケシの父は、少しだけ眉間に皺を寄せたが、すぐにまた淡々と語った。
「君がこの提案を受けようと受けまいと、善人の今後は何一つ変わらない。私はあいつに、これから何一つしてやるつもりはない。君がこの提案を受けてあいつが損をすることも、君が提案を断ってあいつが得をすることもない。だから君自身の気持ちだけ考えて決めなさい――。心配することはない。あいつは自分の通帳を持って出ていった。千万単位の預金が入っているはずだ。あれだけの金があれば、着の身着のまま出て行っても当分は暮らせるだろう。逆に、あの金を使い果たしても夢が叶えられないようなぼんくらなど、もう顔も見たくない」
 そしてタケシの父は、まっすぐ俺を見つめて言った。
「さあ、どうする? 君にとって悪い話ではないはずだ」
 俺は、返事をしようとして、すっと息を吸った。だが、俺が言葉を発する直前に、彼は思い出したように付け加えた。
「ああ、ただし条件がある。現役合格することだ。筑波大で浪人するレベルの後継ぎなど願い下げだ」
 最後の最後に、ものすごく厳しい条件を付けられてしまった。
 でも、やっぱり、他に選択肢はなかった。
「……よろしくお願いします」俺は頭を下げていた。

 こうして俺は、タケシの父――北野和彰かずあきの援助を受けることになった。
 まず、家の借金を肩代わりしてもらった。もっともそれは、利息なしでちゃんと返済することが条件だったけど、俺が筑波大の医学専門学群医学類に現役合格すれば、受験費用や学費は本当に全部出してもらえることになった。
 夜逃げの必要はなくなったものの、母は夏休みが終わる前に川崎と別れた。我が家はまた母一人子一人になった。一度殴ってしまった手前、母との間にわだかまりはあったけど、親子関係のことを考える余裕もないほど、俺は受験勉強に集中せざるをえなかった。
 一方、マリアにはすぐに全てを打ち明けた。夜逃げすることになって、別れるためにひどい言葉を吐いたことを涙ながらに詫びた。マリアは「そんなことだろうと思った」と、笑いながらも目を潤ませて、許してくれた。
 しかし、タケシとの連絡はつかなくなった。タケシは電話番号もメールアドレスも変えてしまったようだった。夏休みが明けて、本当に中退したということを知らされ、タケシの同級生たちはざわついていた。あいつのことだから、いつも通りの笑顔でひょいと戻ってくるんじゃないかと、心の片隅で期待していたけど、とうとう戻ってくることはなかった。
 二学期以降は、ひたすら勉強の日々だった。ただ、それまでとは集中力が違っていたのだろう。成績は上がり、模試の成績もC判定、B判定と上がっていき、本番で無事、筑波大の医学類に現役合格することができた。マリアも看護・医療科学類に合格した。
 俺とマリアは、大学時代も引き続き交際を続けた。互いに実習などで忙しくてなかなか会えないような時期もあったけど、それぞれ看護師と医師の国家試験に合格し、仕事にも慣れてきた二十八歳で結婚した。俺たちの愛情は、高校時代から何も変わらなかった。大きく変わったのは、俺の視力と体型だ。もっとも、猛勉強で落ちた視力は眼鏡をかけて簡単に改善できたが、体型はそうもいかず、研修医時代からの多忙な仕事と不規則な食生活のせいで、かつて痩せ型だったのが嘘のように加速度的に太ってしまった。マリアには「いい加減痩せなきゃダメ!」なんてしょっちゅう怒られて今に至るけど、それでも結婚生活は幸せだ。
 一方で俺は、後期研修先に選んだ綾瀬北野病院で、消化器外科医としてのキャリアをスタートさせていた。綾瀬北野病院は、元々あった病院を北野和彰が買い取り、長年院長を務めた牛久北野病院の分院として立ち上げた病院だった。牛久北野病院の運営は部下に任せ、北野院長は綾瀬の方を中心に携わるようになっていた。
 欠落した人間だと思っていたが、北野院長は医師としては間違いなく一流だった。
 手術のスピードや正確性のみならず、患者への治療方針の説明の分かりやすさと的確さ、それに術後の患者の心身両面のケアまで行き届いていた。こんなに素晴らしい医師が、家庭では妻や息子に対して暴力を振るっていたなんて想像もつかないほどだった。
 普段はプライベートな話をすることはなかったが、俺がマリアと正式に結婚することになった頃、院長室で一度だけ打ち明けられたことがあった。
「私は結婚に失敗した」
 院長はそう前置きした後で、病院のスタッフや患者にはまず聞かせることのない、辛辣な言葉を交えて語った。
「仕事一辺倒で、気付けば四十を過ぎても独身で、さすがにそろそろ結婚しなければと焦って相談所で捕まえた女が、子持ちで玉の輿狙いで家事もろくにやらない女だった。しかも、善人が小さい頃は、私は忙しくてほとんど家に帰れなかった。そのせいで、善人が小学校に入る頃になって、相当甘やかされて育っていたことに遅まきながら気付いた。連れ子とはいえ後継ぎにしようと思っていたから、今からでも厳しく育てなければと思って、父親として努力したつもりだったんだが……それが裏目に出たんだろうな」
 父親として努力したつもりだった――それが息子の側から見れば、暴力に他ならなかったのだろう。もちろん俺の立場で、それを率直に指摘することはできなかったが。
 ただ院長は、「私が間違っていたのかな」と、ぽつりとつぶやいた後、俺に言った。
「とにかく、私のような失敗はしないことだ。まあ、君は彼女と長く付き合ってるんだから、私のようなことにはならないだろうが」
 ――その時が、現役だった頃の院長と私生活について話した、数少ない機会だった。やはり院長は、職場と家庭では見せる顔が違ったのだと分かった。そして残念ながら、父親としては間違いなく三流以下だったのだと言わざるをえなかった。
 とはいえ、院長が医師としては一流であることに間違いはなかった。それからも俺は、院長の医師としてのレベルに少しでも近付けるよう、研鑽けんさんを積んでいった。また、院長も俺を後継者として考えていたため、徐々に病院経営のノウハウも伝えようとしていた。
 しかし、そんな中、予想外の悲劇が二つ起こった。
 まず、おととし、マリアの子宮体癌が発覚した。残念ながら子宮と卵巣、卵管を全摘出せざるをえず、治療のために看護師の仕事も退職することになってしまった。
 マリアは落ち込んでいた。特に摘出手術の前後は、一生分の涙を流したのではないかと思えるほどだった。もちろん俺も、マリアとの間に子供を授かる可能性がなくなったのだから、悲しい思いはあった。でもそれ以上に、俺にとっては、マリア自身の命が無事であることの方がよっぽど大事だった。俺はそのことを、何度も繰り返しマリアに伝えた。
 不幸中の幸い、転移はみられず、マリアは時間をかけて肉体的にも精神的にも回復してくれた。将来は特別養子縁組で子供を育てようかという願望も、夫婦で抱くようになった。
 そんな矢先だった。もう一つの悲劇が起こった。
 突然、院長が倒れたのだ。
 そして、その診断結果を聞いて、俺だけでなく病院のスタッフ全員がショックを受けた。
 院長は膵臓すいぞう癌だった。それも、すでにステージ4の末期だった。
 膵臓癌は、最も発見が難しい癌の一つだ。見つかった時点で転移が進み、末期ということも多い。院長もまさにその状況だった。
 院長の将来設計は大きく崩れた。俺はまだ三十代前半の、医者としてはひよっ子にすぎない。病院経営に関しても、まだほとんど何も教わっていないのと同じような状況だった。さすがに院長の座を継ぐには無理があった。
 でも、結果的にはそれでよかった。元々出世欲は薄かったものの、人格者ゆえにそのポストを任されていた副院長が、覚悟を決めて院長職を引き継ぐことが決まったのだ。彼の下でなら、きっとスタッフはこれからもまとまっていけるだろう。院長もその人事には納得している。
 院長は、積極的な延命治療は拒み、特別個室のベッドの上で、まさに枯れていくように終末期を過ごしていった。俺は院長の担当医として直々に指名されていたが、もはや医学的にできることはほとんど何もなかった。
 そんな中、院長が俺に、驚くべきことを言ったのだ。
「善人に会いたい……会って、謝りたい」
(第15回へつづく)

藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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