双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第12回
 

第4章

2019年7月16日
「俺はあの日、何もかも捨て去ったんだ。それで何も考えずに東京に出て……今はこの通りだ。十六年経って、こんなざまだって分かってたら、あの時の俺も、もうちょっと考えたのかな。そしたら、俺の運命も変わったのかな」
「でも……立派だと思うよ」マリアは顔を上げて言った。「今こうやってちゃんと、手に職をつけて生活してるんだから。私なんか、あの年で一人で上京して生きていけって言われても、絶対無理だったもん」
「ああ……」
 実際は、手に職をつけて生活しているわけではなく、人の物に手をつけて生活しているのだが、マリアはそんなことは知る由もない。
「色々、苦労もあったんだよね」マリアが俺を見つめて言った。
「まあな……」
 山ほどあった。語り尽くしていたら夜が明けてしまうほどあった。
「電気も水道も何回止められたか分からないし、それどころかホームレス生活をしてたこともあるし……でも、貧乏そのものよりも、人に裏切られた時が本当につらかったな。必死に貧乏暮らししてた時期に、親友だと思ってた奴にだまされて金を持ち逃げされた時は、マジで死にたくなったよ」
「大変だったんだね……」
 マリアは潤んだ目でうなずいた。俺はそれを見て、さらに悲惨な話をしたくなってしまった。なぜだろう。マリアには、俺に全てをさらけ出させるような力があるのかもしれない。
「あとは、人が刺し殺されるところも見たことがあるよ。さっき言った、ホームレス生活をしてた時に、ホームレス同士の喧嘩があってさ。片方がもう片方の腹を刺して殺しちゃったんだ。俺はそれを十メートルぐらいの距離で見てたんだけど、何もできなかったよ。被害者は別のホームレスが介抱して、ナイフを持って逃げた犯人は、巡回中の警官に見つかってすぐ捕まったらしい。犯人は元ヤクザだったって、後で聞いたよ」
 俺はいつしか、口に任せるように語っていた。
「本気で人を刺し殺す時って、体ごとぶつかるんだよな。ドラマとかみたいに、ただナイフを振り回すだけだったら、刃が当たっても案外死なないらしい。両手でナイフを持って、体重を乗せて体当たりするのが、ヤクザみたいな玄人のやり方らしいな。あの時も、口喧嘩がうるさいなあと思って、俺がベンチに寝ながら見てたら、犯人が相手に急にどんっと体当たりして、二人ともしばらく動かなかったんだ。それで、ぱっと離れた瞬間、当たられた方が血だらけになってて、そのままばたっと倒れて……」
 と、そこまで話して、俺はようやく気付いた。
「あっ……ごめん。どう考えても、せっかくのごちそうを前にする話じゃなかったな」
「ううん、大丈夫」
 マリアは首を振ったが、その表情にはさすがに困惑が交じっていた。
「悪い悪い。……いやあ、唐揚げもサラダも、すごくおいしいよ」
 俺は、取って付けたような感想を言った。マリアの手料理は、どれも本当においしかった。ただ、やはり生々しい刺殺事件の目撃談の後では、会話が盛り上がるはずもなかった。
 そもそも俺は今日、マリアの話をじっくり聞くつもりで来たのだ。なのに、あんな話をしてしまった後では、「それはさておき、夫婦仲に悩んでるのか?」なんて切り出すのも無理そうだった。結局、しんみりとした雰囲気のまま、自分の話の拙さを悔やみながら十分ほど食べたところで、そろそろ満腹になってきてしまった。
「もうごちそうさま?」マリアが尋ねてきた。
「ああ、ごめん……」俺は箸を置いた。
「口に合わなかった?」
「いや、とんでもない、すごくおいしかったよ」
「でも、もっと食べるかと思ったのに」
「年取って痩せて、胃が小っちゃくなっちゃったのかな」
 俺は苦笑して腹を押さえた。実際、胃はここ二年で刑務所サイズになっていた。
「そっか、じゃあしょうがないね」
 マリアは、少し寂しそうな笑顔を見せた後、小学校の給食の時間のように、両手を合わせて大きな声で言った。
「それじゃ、ごちそ〜さまでした!」
「ごちそ〜さまでした!」
 俺も真似して、二人で笑い合った。食事が終わる頃になって、今さらながら雰囲気が和んだ。
 その後、マリアは後片付けを始めた。皿を流し台に運び、料理の残りはラップをかけて冷蔵庫に入れていく。
「ああ、手伝うよ」俺も立ち上がった。
「ううん、いいよ」
「いやいや、せめて皿洗いぐらいさせてくれ」
「大丈夫? 割らないでよ」
「任してくれ。昔バイトで皿洗いやってたこともあるし、むし……」
 ムショの中でも最近まで皿洗いやってたし、とうっかり言おうとして口をつぐんだ。
「むし……何?」
 マリアが尋ねてきた。俺は慌てて答える。
「むし……蒸し暑い季節は、水仕事するのも気持ちがいいしな」
「本当? じゃあお願い。スポンジそれだから」
 マリアが、キッチンの蛇口の脇のスポンジを指差した。
 俺は、スポンジに洗剤をつけたところで、水垢もほとんどないシンクを見渡して言った。
「しかし、きれいなキッチンだな」
「本当? ありがとう」マリアは笑顔を見せた。
「もしかして、家政婦さんとか雇ってる?」
「ううん、雇ってないよ」
「プロの手が入ってるみたいだよ」
「ありがとう。……家事のこと褒めてくれるのなんて、善人君ぐらいだよ」
「なんだ、あいつは褒めないのか、だめだよな、日頃から妻への感謝の言葉がないと……なんて、結婚したこともない俺が言うことでもないか」
 俺がおどけて言うと、マリアは少し寂しそうに笑ってから、ぽつりとつぶやいた。
「やっぱり、善人君と結婚すればよかった」
「……よせよ」
 俺は照れて目をそらしたが、数秒してからマリアを見ると、潤んだ目でじっとこちらを見つめていた。二、三秒見つめ合って、微笑みを返してから食器洗いを始めたところで、抑えていた感情がむくむくとわき上がってきた。
 ――やっぱり、マリアを抱きたい。
 もはや夫婦仲がうまくいっていないのは疑いようがない。人妻のマリアは、初恋相手の俺と再会して、再び愛情がよみがえっているのだ。前会った時に、「主人のこと、殺してくれない?」なんて涙ながらに言われてしまったから、マリアの精神状態が心配で、関係を再燃させるのも尻込みしていたけど、今夜はあそこまで物騒なことも言われなかった。やっぱりマリアのこの前の物騒な発言は、ちょっと言葉が行き過ぎただけだったんじゃないか。
 そして何より、数十分前のマリアの言葉が、俺の背中を強力に押してくる。
「今日は絶対大丈夫なの。だって主人、当直だもん。月に一、二回あるんだけどね、当直の日だけは、途中で帰ってくるなんてことは、マジで百パーセントないから」
 つまり、今夜はこのまま、マリアをどうとでもできるということだ。
 とりあえず、キスぐらいは間違いなくできるんじゃないか。そして、時間をかければ、かつて夢見たものの実現できなかった、その先の行為まで進めるんじゃないか……。
 なんて、考えていた時だった。
 外から、ブオーンと車のエンジン音が聞こえた。
 音源は、かなり近い位置のように感じられた。いや、近いというより、壁を隔ててすぐの、この家の敷地内から聞こえたようだった。
「うそ!?」
 マリアが目を見開き、茫然とした様子で固まった。
「えっ、もしかして……」
 俺が食器洗いの手を止め、おそるおそる言いかけると、マリアは震えながらうなずいた。
「主人が帰ってきちゃった。……うそ、なんで? だって今日、当直のはずなのに……」
 マリアはうろたえながら、声を震わせて俺に言った。
「えっと……ごめん、とりあえず隠れて」
「いや、でも、幼なじみなわけだし、こうなったら『よっ、久しぶり』とか挨拶すれば……」
「無理なの!」マリアは強く首を振った。「この状況じゃ、あの人にそんなのは通じない」
 ただならぬ様子に、事態の深刻さが伝わってきた。
「あ、靴!」
 マリアが急いで玄関に走り、しばらくしてまた戻ってきた。
「靴は隠したから、あとは善人君が隠れれば……えっと、どこがいいかな……一番安全なのは二階か……」マリアが右往左往しながらつぶやいた。
「分かった、じゃあ俺が二階に……」
 と、廊下に向けて一歩足を踏み出した時だった。
 ガチャッと、玄関の鍵が差し込まれる音がした。
「うそっ、早い……」
 マリアが小声で驚いた。階段は玄関のすぐ手前なので、もう二階には行けそうにない。
「そこ、そこ」
 慌てたマリアがささやきながら指差したのは、壁際のクローゼットだった。嫌な予感がした。たしか、こんな状況でクローゼットに隠れて失敗した芸能人がいなかったっけか。
「いや、窓から逃げれば……」
 俺は言いかけたが、窓を見たところで、外側のシャッターが閉まっているのに気付いた。あれを開ければ大きな音が出るのは避けられない。しかもマリアは、首を振って小声で言った。
「外、ライトあるの。人来たら光るやつ」
 それだけで、空き巣経験者の俺には伝わった。人が近付くと光る、人感センサー付きのライトが外に設置されているのだ。つまり、今から窓のシャッターを開けて外に逃げれば、大きな音が出る上に、俺は外でライトに照らされてしまうことだろう。おまけに、俺の靴はマリアがどこかに隠してしまったので、逃げ足は格段に遅くなる。ああ、さっき俺がすぐ「窓から逃げるから靴を持ってきて」とマリアに言っておけば、まだなんとかなったかもしれないのに――と、後悔している時間もない。とにかく、ばれずに乗り切れる可能性がある選択肢は、もはやクローゼットに隠れることしかなさそうだった。
 マリアはクローゼットに駆け寄り、折り戸式の扉を開いた。スーツにワンピース、夫婦のよそ行きの服が入っている。そういえば最初に空き巣に入った時もこの中を見たのだと思い出しながら、俺は服の間に体を滑り込ませた。すぐにマリアが外から扉を閉める。
 中は真っ暗になるかと思いきや、一筋の光が見えた。閉じた折り戸のわずかな隙間から、部屋の明かりが入っているのだ。その隙間に目を近付けると、縦に細長く切り取られた、部屋のほんの一部の範囲だけが見えた。そこから、マリアが玄関へと走って行く後ろ姿が確認できた。廊下に出た後は姿が見えなくなったが、「おかえりなさ〜い」という声が聞こえた。
 夫婦仲は冷え切っているのだと思っていたが、その割にマリアの声は明るかった。少しだけ嫉妬した。
「あれ、今日って、当直だったんじゃ……」
 と言いかけたマリアの声は、途中で遮られた。
「……いるのか?」
 高校時代の記憶より暗く沈んだ、低い声が聞こえたが、玄関から距離がある上にクローゼットの中にいるので、きちんと聞き取れたわけではなかった。
「え、どうして? 誰もいないよ」
 そう答えたマリアの声は、比較的よく聞こえた。――その返答内容から察して、どうやらさっき「誰かいるのか?」と尋ねられたようだ。人の気配があることに気づかれてしまったのかもしれない。俺は緊張に身を硬くした。
「気のせいか……」
 という低い声が聞こえた、次の瞬間。
「……と思ったか、この馬鹿!」
 バチン、という音と、マリアの「あっ」という声が聞こえた。俺は耳を疑った。
「本当に、いないよ、信じてよ……」とマリアの声。
「それでだませると思ったか、馬鹿たれ!」
 怒鳴り声も、再び響いたバチンという音も、クローゼットの中までしっかり届いた。
「痛い……」
 マリアはたしかにそう言ったように聞こえた。俺はクローゼットの中で凍り付く。
 もっとも、二人の姿は見えなかった。声もはっきり聞こえるわけではなかった。どうか嘘であってくれ、勘違いであってくれと、俺は願っていた。
「……ピーエス切って……行ったらばれると思って……家に上げたってわけか」
 マリアがGPSを切って外出していたことについて言っているのだと、少し考えてから分かった。つまり、マリアに浮気相手がいることにも勘付かれているということか――。
 一方、反論するマリアの泣き声が聞こえる。
「本当に違うの、信じて」
「本当か? じゃあこっち……来ても……ないんだな」
「何もないよ、本当だよ」
 二人の声が近付いてきた。廊下からこちらの部屋に入ってきたようだ。
「おい、なんでこんなに食器がたまってんだ。誰か家に上げたんだろ!」
 ようやく声が鮮明に聞こえるようになり、二人の姿も見えた。キッチンの洗い場の辺りは、ちょうどクローゼットの扉の隙間の正面だった。
 結婚式の写真は前に見ていたが、夫婦としての二人の姿を生で見るのは初めてだった。ただ、今の二人は、もはやあの写真とはかけ離れた様子だった。写真の中で緊張して汗ばんでいた新郎は、脂肪の塊のような顔を怒りで紅潮させて眼鏡を曇らせ、幸せそうに微笑んでいた新婦は、恐怖に震えながら涙を流している。
「この食器は……お昼に、高橋さんと山下さんが来たの」
 マリアが、少し言葉に詰まりながらも取り繕った。俺は固唾を呑んで、懸命に嘘をつくマリアを見守るしかなかった。
「なんでそれを今になって洗ってるんだ?」
「ごめんなさい、お昼、洗い物サボっちゃって……」
 ――次の瞬間、俺ははっきりと見てしまった。
 丸々太った武史の重い拳が、マリアの顔面に振り下ろされた。「ぐっ」と呻くような声を上げたマリアが、洗い場の陰に倒れ込み、すぐに二人とも姿が見えなくなった。
「いた……い……やめて……」
 マリアが、息も絶え絶えにすすり泣く声が聞こえた。
「だとしても駄目じゃねえか。何のために家にいるんだ! こっちは過労死寸前で必死に働いてんだよ! それに比べて、お前はなに手抜きしてんだよ! ざけんじゃねえよ!」
 常軌を逸した叫びとともに、バチッ、ゴツッ、ビシッ……と、何発も音が聞こえた。キッチンの床で馬乗りになって殴打していることは、見えなくてもはっきり分かった。
「ごめんなさい……ごめん……なさい……」
 殴打の音の隙間に、マリアが泣きながら謝る声が聞こえた。
「あの野郎……」
 俺はクローゼットの扉を押した。もう状況がどうなろうと構わない。というか、これ以上ひどい状況はないのだ。なんとしても暴力を止めなくてはいけない。
 ところが、クローゼットの扉は、中からは開かなかった。押しても引いても、力のかけ方が間違っているのか、いっこうに開かない。そんな中、キッチンではさらに状況が悪化していた。
「でも、これが単なる言い訳か、それとも捨て身の嘘か、まだ判断できねえな」
 そんな低い声の後、キン、と金属質の音が聞こえた。俺がまた扉の隙間から様子を見ると、マリアがゆっくりと立ち上がるのが見えた。その鼻から、おびただしい量の血が流れている。俺はその惨状を見て歯を食いしばった。
 だが、さらに恐ろしいことが起きていた。マリアの首元に、包丁が突きつけられているのだ。
 立てこもり事件の犯人が人質を取った時の、あの典型的な体勢。夫が妻に対してこんな行為をするなんて、狂気の沙汰としか言いようがなかった。
「おい、隠れてる浮気相手よ。いるんだろ? いたらこれが見えてるか?」
 せせら笑うような声に、俺は身を硬くした。
「ねえ、やめて……冗談でも、危ないから」
「冗談なんかじゃねえよ」
 その体勢で二人は歩き出した。というより、マリアが後ろから押されて歩かされているのだ。
「浮気相手さんよお、これ以上俺を怒らせたら、マリアは死ぬことになるぞお!」
 狂った叫び声とともに、二人は俺の視界の左側へと消えてしまった。クローゼットの扉の隙間からは、リビングとその奥のキッチンの、幅一、二メートルほどの範囲しか見えない。
「どこの誰だか知らねえが、お前に盗られるぐらいなら、こいつを殺して俺も死ぬ。俺はそんなの、少しも怖くねえんだからな!」
 常軌を逸した声の後、シャッという音が聞こえた。カーテンが開く音だ。マリアに包丁を突きつけながら、隠れている浮気相手――すなわち俺のことを探しているのだ。
「おい浮気相手、今すぐ出てこい。……いや、本当に出てきたら頭にきて、マリアを殺しちまうな。じゃあ出てくるな。……いや、それはそれで腹立つな。じゃあ、今すぐ、その隠れてる場所で、舌を噛み切って死ね。それがマリアを助ける唯一の方法だ」
 無茶苦茶な要求が聞こえてきた。当然実行することなどできないが、かといってクローゼットから出て行くのも、もう絶対に無理だ。俺はただじっと固まるしかなかった。
「お前が死体になってれば、マリアに正解発表されてお前を見つけたところで、それほど腹が立たない気がするな。ハハハ、それでいいや。おい浮気相手よ、今すぐ舌を噛み切って死ね。一気に噛み切れよ。舌ってのは筋肉だから、筋繊維が切れて急激に収縮して気道を塞いで、窒息死するらしいからな。まあ、実際にそんな患者を診たことはないから、本当にそうなるのか分かんないけどな」
 ヘラヘラと笑いながら、恐ろしく残酷な指令が下されていた。一方、マリアのなだめるような声も聞こえた。
「ねえ、本当に誰もいないから、もうやめよう。こんな馬鹿なこと……」
 その直後だった。
「馬鹿だと!? 誰が馬鹿だ!」
 激高したような絶叫の後、またバチンという音がした。
「どっちが馬鹿だ! ああ? 俺とお前の、どっちの方が馬鹿だ!」
 ガタンと体が床に倒れる音の後、さらにバチッ、ビシッという殴打の音が、何発も繰り返された。助けてやれない無力感で、涙が出そうになる。暗いクローゼットの中で、俺はただ歯を食いしばって目をつぶるしかなかった。
「ごめんなさい……馬鹿は私です」
「そうだろうが! 医者とナースだぞ。俺の方が圧倒的に上なんだ。立場をわきまえろ!」
 その後、カツン、と金属質の音が聞こえた。包丁が床に落ちた音のようだった。
 それから、不気味なほど穏やかな声が聞こえた。
「なあ、頼むから俺を怒らせないでくれよ。お前がちゃんとしてれば、俺は優しい夫でいられるんだよ」
「はい、ごめんなさい。……私が馬鹿なせいで、あなたを怒らせてしまいました」
「ちゃんと反省しろ。今日は何がいけなかったんだ?」
「えっと……食器洗いをサボって、まるでさっきまで人がいたみたいに、あなたに誤解させてしまったことです」
「俺が誤解したのには、ちゃんと理由があるんだぞ」
「ああ……今日の前に何回も、約束を守らずに、スマホのGPSを切ったまま外出してしまったことです。それが、今日のことにつながりました」
「そうだな。あと今日に関しては、俺が当直だって聞いてたのに、家事をサボってたのも不愉快だったぞ。夫が過酷な長時間労働をする日は、妻ももっと自分に厳しくあるべきだろ」
「はい、その通りです。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 めまいがしそうになった。このようしてマリアは、暴力によって支配されていたのだ。まさに奴隷だ。いや、奴隷制があった時代ですら、もう少しましな雇い主はいただろう。
「浮気してたわけじゃ、ないんだな?」
「はい、してません。私が愛してるのは、あなただけです」
「疑って悪かった。……俺も、当直だって嘘をついてまで確かめたのは、やり過ぎだったな」
「いえ、とんでもありません。悪いのは私です。今までの私の行いのせいで、あなたを心配させてしまったんですから」
 ついさっきまでとは一転して、穏やかなトーンの会話だった。でも、やはりその内容は異常だ。これこそがDV夫の典型的なパターンだと聞いたことがある。暴力の後は優しくなるのだ。そして被害者である妻は、自分が悪いのだと思い込んでしまうのだ。
 その時、ピリリリリ、と着信音が響いた。
「はいもしもし……え、田中さんが?……うん、うん……ああ、それはもう緊急オペだ。準備を頼む。……ああ、今家に着いたところだけど、すぐ出れる。……はい、じゃまた後で」
 聞こえてきたのは、ついさっきの狂った暴力夫と同一人物とは思えないような、頼れるドクターそのものの声だった。その後、ピッという電子音の後、「呼び出しだ。今夜は先に寝てろ」という声が聞こえた。
 廊下に出る二人の後ろ姿が、クローゼットの扉の隙間から一瞬だけ見えた。すぐに見えなくなったが、しばらくしてから「行ってらっしゃいませ」というマリアの声が聞こえた。その後、玄関のドアが閉まる音、少し経って車のエンジン音が聞こえた。その音が遠ざかって聞こえなくなってから、マリアがリビングに戻ってきた。
 マリアの足取りはふらついていて、クローゼットの手前で扉に倒れ込んでしまった。だが、どうにか起き上がり、外から扉を開けてくれた。俺はやっとクローゼットから出た。
「ばれなくてよかった。……ごめんね」
 マリアは、謝ることなんて何もないのに、俺に向かって謝った。大量の鼻血で、顔の下半分が真っ赤に染まり、血なまぐささが漂ってくるほどだった。
「いや、俺の方こそすまない。……何度も殴られてた時、出て行こうとしたんだけど、中からはうまく開かなくて」
「ううん、出てこない方がよかったから、それで大丈夫だったよ」
 どう見ても大丈夫ではないのに、マリアは笑顔を見せた。だが、すぐに泣き顔に変わる。
「ビックリしたでしょ?」
 固まりかけた血が、涙とともに顎まで流れ落ちる。俺は小走りでテーブルまで行って、ティッシュの箱を取ってやった。そんなことしかできない自分が情けなかった。
「ありがとう。……ちょっと、顔洗ってくる。あと、服も血が付いちゃったから着替えるね」
 マリアはふらついた足取りながらも、床に落ちていた包丁をキッチンに戻してから、ティッシュの箱を持って廊下に出た。しばらくして、顔を洗って服を着替え、鼻にティッシュを詰めて戻ってきた。
「ずっとああだったわけじゃないんだよ。あれでも、大学で付き合ってた頃とかは、本当に優しかったから……」
 マリアは、悲しげにうつむいて語り出した。
「本格的な暴力が始まったのは、私が子宮を取って、その治療のためにナースを辞めた頃からだったかな。お酒の量が増えて、もう跡継ぎが産めないんだから役立たずだ、なんて言われて殴られるようになって、今ではお酒が入ってなくても、あんな風に……」
 そこまで言って、マリアは声を詰まらせた。俺は怒りで胸が張り裂けそうになった。
「くそ、そんなにひどいことを……」
 結局、あいつは憎たらしい親父の思考回路を受け継いでしまったのだろう。少年時代はそれを嫌っていたはずなのに、大人になったら同じような人間になってしまったのだ。実に悲しく、情けないことだが、むろん同情の余地はない。
 マリアは、目元を拭ってからまた語った。
「そもそも、この前入院したのも、ああやって殴られたからだったんだ。善人君には心配かけないように、明るい感じのメールを送って、お見舞いに来てもらおうと思ったんだけどさ……。お腹殴られて、腸から少し出血してたみたい。でも主人は消化器外科だから、DVが他の人にばれるはずもないよね。自分の監視下で入院させられるんだから」
「そういうことだったのか……」俺は愕然とした。
「あと、その前に私、耳を殴られて、鼓膜が破れたこともあってね。そのせいで、今も左耳が聞こえづらくて……レストランでも、善人君の言葉がよく聞こえなかったんだけどね」
 そういえば高円寺のレストランで、マリアが「便通」を「電通」と聞き間違えて、最終的に俺が大きめの声でウンコと言ってしまって、近くの席のおばちゃんに睨まれたことがあった。
「あれも、そういうことだったのか……」
 俺は、さっきと同じ言葉を発することしかできなかった。
「で、あのレストランで会った時も、GPS切ってるのがばれてさ。慌てて帰ったんだけど、主人の方が先に帰ってて『どこほっつき歩いてたんだ』って、また暴力振るわれたんだ。さすがに退院した直後だったから、ちょっと手加減してたけど……でも、手加減してもそれかよって思うぐらい痛かった」
 マリアはそう言って、また涙をこぼした。――こんな悲しい形で、マリアと再会してからの出来事の伏線が、次々に回収されてしまうとは思わなかった。マリアがどこか情緒不安定に感じられたのも、カラオケ中に突然泣き出して「主人のこと、殺してくれない?」なんて言い出したのも、すべては過酷なDV被害が原因だったのだ。
 もう、俺の決意は固まっていた。
「マリア、落ち着いて聞いてくれ」
 俺は、一呼吸置いた後、はっきりと告げた。
「俺が、あいつを殺す」
「そんな、駄目だよ」マリアは首を横に振った。「善人君に罪を背負わせるなんてできないよ。もしやるんだったら……私がやらないと」
「いや、マリアが直接手を下せば、真っ先に疑われる。でも、十六年間会ってない俺がやれば、ずっとばれにくくなるはずだ。殺しを実行するのは、俺一人じゃなきゃだめだ」
 俺は、マリアをまっすぐ見つめて告げた。
「それに……マリアは知らないだろうけど、俺たちは約束してるんだ。もし、愛する女に暴力を振るうような男になったら、お互いを殺しに行くって」
「本当に?」マリアが、目を丸くして聞き返した。
「ああ、そうだ。『男同士のお約束』ってやつだ」
「あ、それって……」
 マリアが子供時代を思い出したようだったので、俺が「男同士のお約束!」と、クレヨンしんちゃんのポーズをとってみせた。するとマリアは、少しだけ笑ってくれた。今は少しだけで十分だった。その笑顔を取り戻すために、俺は全てを犠牲にできると思った。
 俺は真剣な顔に戻って、決意を込めて言った。
「男同士の約束は、絶対に守らなきゃいけないんだ」
(第13回へつづく)

藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

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