双葉社web文芸マガジン[カラフル]

あなたに会えて困った(藤崎 翔)

イラスト:岡野賢介

第11回
 

第4章

2019年7月16日(承前)
「お待たせ〜」
 キッチンから皿を持ってきたマリアの声を聞いて、俺ははっと顔を上げた。
「どうしたの、高校時代のバンドのこと思い出してた?」
「いや、違うよ。……ちょっと、うとうとしてただけだよ」俺は苦笑して言った。「ていうか、ごめんね。全然手伝いもしないで」
「ううん、大丈夫」
 マリアは料理をてきぱきと配膳していった。ご飯と味噌汁、鶏の唐揚げとトマトのサラダと焼き魚――テーブルに並んでいく料理を見て、俺は感激の声を上げた。
「おおっ、うまそうだ。俺の好物ばっかりだよ」
 刑務所の献立はもっと質素だったし、出所後は金を使わないように底値の食事で腹を満たしていた。好物ばかりをタダで食べられるなんて、今の俺にはたまらなくありがたかった。
「唐揚げとトマトとお魚と……善人君の好きな物、ちゃんと覚えてたもん」
「マジか? そこまで覚えててくれたのか」
 俺は感嘆した。そして、彩り豊かな食卓が出来上がったところで、二人でテーブルを挟んで「いただきま〜す」と声を揃えた。
 唐揚げを一口食べて、俺は心から言った。
「うん、おいしいよ!」
「高校の文化祭の時よりおいしい?」
 マリアが上目遣いで尋ねてきた。俺は笑って答える。
「そりゃ圧勝だよ」
「まあ、高校生相手だもんね。逆に負けたら大問題か」
「あと、今だから言うけど、あの唐揚げ冷めてたしな」
「マジで? じゃ、あの時、気を遣っておいしいって言ってくれてたんだ」
 マリアは笑った後、ふとしんみりした表情で言った。
「高校の時が、人生で一番楽しかったな……」
 ああ、マリアがまたこのテンションになっちゃったか――。俺は密かに思った。でも仕方ない。マリアが過去ばかりをいとおしく思っているからこそ、何度も俺を誘ってくれるのだろう。そうでなければ、商店街で会ったきり、もう会うこともなかったかもしれない。
「善人君も、人生で一番楽しかったのがいつかって聞かれたら、やっぱり高校時代って答えるでしょ?」マリアが尋ねてきた。
「う〜ん……俺は、卒業できてれば、そう思えてたかもな」
「あ、ごめん……」マリアが慌てた様子で謝る。「今のはひどかったね。無神経だったね」
「いや、大丈夫だよ。気にしないで」俺は笑顔を作る。
「でも……一緒に卒業できないとは思わなかったな」
 マリアが寂しそうに言って、しばらく沈黙が訪れたところで、俺は返した。
「前も言ったけどさ……あの頃だって、金持ちの家と貧乏な家の、教育格差はあったんだよな。今ほど目立ってなかったのをいいことに、みんなで見て見ぬふりしてただけなんだよ」
 マリアが、悲しいような戸惑ったような目で俺を見る。せっかくのムードは悪くなってしまうかもしれない。でも俺は、あの夏の日を振り返らずにはいられなかった。
「家が貧乏でも金持ちでも、みんなが本当に平等に、実力通りに大学に行けるような世の中だったら、俺だってあんなことにはならなかったはずなんだ……」
回想・2003年4月〜8月
 三年生に進級しても、俺は男子クラスだった。進級に伴って、タケシやマリアと同じ男女混成クラスに移る可能性はあったので、密かに期待していたけど、残念ながら叶わなかった。
 三年生になると、学校で模擬試験を受ける機会もぐっと増えた。俺は、第一志望の筑波大学医学専門学群の医学類で、E判定かD判定しか出したことがなかった。一方マリアは、同じ医学専門学群の看護・医療科学類で、いつもA判定かB判定だった。
 俺は焦っていた。このままだとマリアは合格できそうだけど、俺は浪人してしまう。怖くて母には聞けなかったけど、家の状況を考えると、浪人は無理なのではないかと思えた。
 そんなある日の放課後、模試の結果が出た後の廊下で、タケシに出くわした。
 この時期、俺とタケシは、あまり学校で話すことはなかった。理系クラスで教室は隣同士だったけど、タケシは軽音楽部の友人や後輩だけでなく、休日の音楽イベントなどを通じて校外の知り合いも多いようだった。今で言うところのリア充というやつだ。
 それに比べて、クラスに友達が一人もいなかった俺は、いつしかタケシに引け目を感じるようになっていた。こんな状況で、俺とタケシが幼なじみだということがタケシの友人に知られてしまうと、「あんな奴と友達なの?」なんてタケシがからかわれて、結局俺もタケシも嫌な思いをすることになるんじゃないか……そんなふうに勘ぐっていた部分もあった。
 ただ、その時のタケシは、珍しく一人だったので、俺は声をかけた。
「おっす、久しぶり」
 タケシも「おお」と軽く手を上げて挨拶を返した。タケシは廊下の壁にもたれて、模試の結果が載ったプリントを見ていた。俺は何の気なしに、そのプリントを覗き込もうとした。
「おい、見るなよ〜」
 タケシは笑いながら右手で隠した。でも判定欄の半分ほどしか隠せていなくて、「筑波大学医学専門学群医学類」という第一志望と、B判定という文字も読み取れてしまった。
「まあ、俺よりずっといいのは分かったわ……」
 俺は苦笑して言った。その模試で俺は、普段より出来がよかったとはいえ、D判定だった。
「このあと予備校だよ。あ〜ギター弾きてえ。最近弾いてねえな」タケシが愚痴った。
「予備校か……。医学部専門のところがあるんだっけ?」俺が尋ねる。
「うん。やっぱ医者の息子が多いよ。自分で言うのもなんだけど、みんな俺みたいなボンボンフェイスしてるもん」タケシは笑いながら、自分の太った頬を指した。
 医学部専門の予備校というものが存在して、高い授業料を払えば通えるということ、そしてタケシがそこに通っていることも聞いてはいた。でも、俺にとっては全く別世界の話だった。
 その時、タケシがだしぬけに尋ねてきた。
「そういえばヨッシー、マリアと別れたのか?」
「えっ……? いや、そんなことないけど」
 俺は、唐突かつショッキングな質問にまごつきながらも答えた。
「受験のために、マリアはバイト辞めて、あと一緒に出かけたりメールしたりするのもやめようって話し合って、今は距離を置いてるっていうか、まあそんな感じだよ」
「そうなのか。……いや、別れたっていう噂を聞いたから、ちょっと心配になってさ」
 タケシはうっすら笑みを浮かべて言った。本当に心配していたのか、ちょっと怪しいと思ったけど、タケシは「じゃ、またな」と言い残して、自分の教室に去っていった。
 俺の心はざわついた。人からそんなことを言われると、元々そんなつもりじゃなくても不安になってしまう。マリアはどう思っているのだろうか。別れたとかいう噂が広まっていること自体、知っているのだろうか――。
 ただ、休み時間などに直接マリアに確かめるのは気が引けた。というのも、三年生になってからマリアと同じ男女混成クラスに移った、元男子クラスの生徒が何人もいて、その中には、俺が男子クラスで孤立するきっかけを作った藤井も含まれていたのだ。
 と、そこで気付いた。もしかしてマリアは、そういう元男子クラスの生徒から俺の評判を聞いて、俺のことが嫌いになってしまったのではないか――。
 葛藤の末、その日の夜、マリアにメールを送った。
「なんか、俺たち、別れたっていう噂が流れてるらしいけど……大丈夫かな?
 もちろん俺はそういうつもりはないんだけど、マリアもだよね?
 いや、もちろん、マリアの気持ちを疑ってるわけじゃないけど、火のない所に煙は立たないなんていうし……」
 と、うだうだ打っているうちに、ずいぶん長文になってしまった。要は「俺たち別れてないよね?」という一点のみを確認したかったんだけど、それだけを簡潔に聞くと、むしろそれをきっかけに別れを意識させてしまうのではないか……なんて気を揉んだ結果、文中にあらゆるフォローを入れて、やたら冗長になってしまったのだ。
 ところが、そのメールを送っても、なかなか返信が来なかった。俺は、もしかすると届かなかったのかもしれないと思って、同じメールをもう一度送った。
 すると、しばらくして、マリアから電話がかかってきた。
「あのさあ、そういうのをやめようって約束したんじゃないの?」
 マリアは第一声から、明らかに苛立っていた。
「大学落ちたいの? 落ちたくないから、勉強に集中するために、電話とかメールをだらだらしないようにしようって約束したんだよね?」
 マリアは終始不機嫌だった。俺は「ああ、分かったよ、ごめん」と平謝りして電話を切ったが、なんだかその日を境に、本当に溝ができてしまったように感じられた。
 その後、俺は勉強に集中するどころか、かえって勉強中にもマリアのことを考えて、不安を募らせるようになってしまった。当然ながら、一学期が終わる頃になっても成績は上がらなかった。やがて、結果はどうあれ受験さえ終わればいいんだ、予備校に通わなくても自宅で浪人する人はいるんだから、俺も親に頼めば一浪ぐらいはできるんじゃないか――なんて、不合格だった場合の逃げ道を心の中で作るようになっていた。
 それでも、なんとか受験を乗り切ろうという気持ちはあった。こつこつ貯めたバイト代は、受験費用と入学金ぐらいなら賄えそうな額に達していたので、バイトも辞め、これからいよいよ勉強に専念しようという気持ちになっていた。高三の夏休みを前に、受験に向けたモチベーションは、一応はしっかり保っていたのだ。
 それだけに、絶望的な知らせは、あまりにも突然やってきたのだった――。

 あれは、夏休みに入ってすぐの、七月下旬のことだった。
 数日ぶりに家に帰ってきた川崎が、母と居間で話しているのは分かっていた。でも俺は特に気にも留めず、勉強部屋にこもっていた。勉強部屋といっても、元々は物置に使われていた、小さな窓が一つだけで風通しも日当たりも悪い、夏は暑くて冬は寒い部屋だ。俺はTシャツを水で濡らして扇風機の風を浴び、蒸発熱でなんとか涼をとりながら問題集を解いていた。
 母と川崎は、いつものように口喧嘩をしている感じではなかった。重いトーンで何かを話しているようだった。もしかして別れ話だろうか。場合によっては、借金の肩代わりから逃れることができるんじゃないか――なんて、俺は淡い期待すら抱いていた。
 そこで、勉強部屋のドアがノックされた。
 俺が中からドアを開けると、母と川崎が並んで廊下に立っていた。母は無表情で言った。
「あの……夜逃げすることになったから」
「……はあ?」
 夜逃げ――言葉自体は聞いたことがあったけど、さすがに縁遠いものだと思っていた。突然の宣告にぽかんとする俺に対して、川崎がさらに非情な言葉を発した。
「悪いけど、進学費用は出せない。大学はあきらめてくれ」
「え……そんな……」
 俺の心は一瞬、空っぽになった。数秒間、何も考えられなかった。
 でも、すぐにただならぬ事態だと悟って我に返り、抗議の声を上げた。
「いや、ちょっと待ってよ、話が違うじゃねえかよ!」
「でもね、高校は、引っ越した先で編入すれば、なんとか卒業はできるかもしれないから、とりあえずはそれで……」
 母がなだめるように言ったが、とても受け入れられる提案ではなかった。
「冗談じゃねえよ! 大学に行けねえんじゃ意味ねえだろ! だったら、俺一人でもこの家に残らせてくれよ。それで、俺一人でなんとか大学に……」
 と言いかけて、さすがに無理だよなと自覚してしまった。夜逃げするぐらいだから、たぶん俺だけ残るなんてこともできないのだ。俺一人がこの家に残ったりすれば、借金取りが来て、有り金を全部巻き上げられてしまうかもしれない。 
「不満はあるだろうが、十七歳で親元を離れて一人で生きていくというのは、うちの状況では非常に難しい。これからも家族三人で生きていくしかないんだ。本当にすまないとは思っているが、ついてきてくれ」
 川崎は淡々と言った。その冷静さがかえってしやくに障った。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ……」俺は、涙で視界をにじませながらも訴えた。「じゃあ俺、バイトで貯めた金はあるから、あの金でなんとか、大学受験するところまでは……」
 と、言いかけたところで、母があっけらかんと返した。
「ごめん、あの貯金は、もう下ろしちゃった」
「……はあ?」俺は声を裏返した。
 だが、そこで気付いた。俺の名義の口座は、元々母が作ったものだし、暗証番号を設定して俺に教えたのも母だった。通帳とカードが勉強机に入っていることも知っていただろう。つまり母は、俺の金をいつでも引き出せる状態だったのだ。
「嘘だろ……マジでふざけんなよ」
 俺はへなへなと力が抜けて、思わず柱にもたれかかった。すると母が言った。
「でも、バイトでお金貯めといてくれたおかげで、逃げた先で当分は暮らせそうだから、感謝してるんだよ。本当にありがとう」
「いや、まずは、勝手に金を引き出してごめんなさい、だろ?」俺は母を睨みつけた。「それと、俺の将来を奪ってごめんなさい、だよな?」
「でも、大学に行かなくても、立派に生きてる人はたくさんいるから……」
「医者にはなれないだろ! 大学行かなきゃ!」
「でも、そもそも医学部なんて卒業まで時間がかかるし、お母さん前から反対だったんだよ。卒業したって、簡単に医者になれるわけじゃないだろうし……」
「医者になれば、将来的にはいっぱい稼げて、こんな貧乏から脱出できるんだぞ!」
「そういう動機で医者になろうっていうのもなあ」川崎も俺の言葉尻を責めてきた。
「はあ? お前が説教してんじゃねえよ」
「おい、お前って、誰に向かって言ってるんだ!」
 逆上して怒鳴った川崎を睨み返して、俺は言った。 
「誰って……母子家庭に居座って、見栄張って羽振りよく見せてたのは最初だけで、すぐ金がなくなって、しまいには嫁と連れ子に借金背負わせた、どうしようもねえクソ野郎だよ」
「何だとこの野郎!」
 川崎がつかみかかってきた。でも、俺が顔を一発殴っただけで「うあっ」と簡単に倒れた。
「やめて! 殴っちゃだめ、お父さんなんだから」
 目の前に立ちふさがった母を、俺は押しのける。
「こんな奴、父親じゃねえよ! ていうか、お前もお前だよ! こんなどうしようもない男とくっついて、息子の将来あきらめさせるって、母親失格だろ!」
 すると、母が俺を睨みつけた後、だしぬけにビンタしてきた。
 俺は、二秒ほど考えた後、母の頬に、思い切りビンタを返した。
「いっ」と短い悲鳴を上げて、母は床に倒れ込んだ。
「おい、母さんになんてことを……」
 そう言って立ち上がりかけた川崎の顔面を、すかさず俺は蹴った。川崎は「うあっ」と呻いて顔を押さえて転がった。鼻血が出たのが見えた。
「お前が母さんって言うな!」
 俺の中で、道徳心とか倫理観といったものが、がらがらと崩壊していくのが分かった。
「お前にとっては母さんじゃねえだろ。スナックで口説いた女だろ。いや、今は金づるか?」
 俺は低い声で言うと、さっきまで座っていた勉強用の椅子を持ち上げて、床に倒れた二人に向かって告げた。
「これでぶん殴って殺してやってもいいんだぞ、二人とも」
 母がひいっと息を呑んだ。川崎も、もう何も言い返さなかった。二人揃って床に伏せ、怯えた目で俺を見上げていた。――この何年か前に「キレる十七歳」なんて言葉が流行するほど、少年犯罪のニュースが盛んに報じられていた時代だった。まさに俺も十七歳。母も川崎も、俺に殺されることを本気で恐れていたのだろう。そして俺も、自分で発した言葉に突き動かされるように、本気で殺意を抱いたのを覚えている。この椅子を力一杯振り下ろせば、忌々しい親とおさらばできる……数秒の間に、母と川崎の血まみれの撲殺体まで、リアルに想像していた。
 でも、その想像を断ち切ったのは、母だった。
「いいよ、殺して」
 母は、笑みを浮かべながら立ち上がった。
「そうだよね、こんな母親、殺したいよね。男とっかえひっかえして、あげくに借金背負わされて、息子に大学あきらめろって言ってるんだもんね。母親失格だよね」
 母は笑ったまま、ぽろぽろと涙を流し始めた。俺はうろたえて、思わず椅子を床に下ろした。
「あんたができた頃はさあ……母親、もっとうまくできると思ってたんだ。でも難しいね、母親って。すごく難しかった。私は母親になんかなっちゃいけない、駄目人間だったんだよね」
 母は鼻水まで流しながら、俺に歩み寄ってきた。
「もういい。疲れた。殺して。……ああ、台所から包丁持ってくるね」
 そう言って、母はふらっと台所の方を振り向いた。でも俺は、その肩を後ろからつかんで、無言で川崎の方へ突き飛ばした。床にへたり込んでいた川崎は、倒れてきた母をうまく受け止められず、母の頭突きをもろに顔面に食らう形になって「あたっ」と間抜けに呻いていた。
「殺す価値もねえよ、お前らなんて!」
 俺は捨て台詞を吐いて、二人をまたいで玄関まで走り、家を飛び出した。靴を履いて玄関を出る時、「うわあああっ」という母の泣き声が背後から聞こえてきた。
 通学用の自転車を押して、表の道路に出たところで、お隣の村山さんが玄関から顔を出した。
「あの……大丈夫?」
 声をかけてきたのは分かっていたけど、俺は目をそらして無視して、自転車を漕ぎ出した。

 あてもなく自転車を漕いでいるうちに、俺は一つ、今日中にやらなければいけないことを見つけていた。
 マリアに、別れを告げなくてはいけない――。
 もう絶対に同じ大学には行けない。というか、夏休みが明けたら、俺はもう学校にはいないのだ。だからこそ、夏休みの序盤で俺への未練を断ち切らせないと、マリアの受験勉強に支障が出てしまうかもしれない。現時点でマリアはA判定かB判定とはいえ、油断したら危ない。
 ただ、不幸中の幸いというべきか、すでにマリアとの間には溝ができている。悲しいけど、未練を抱かせないように別れることは、そう難しくないように思えた。
 俺は、ポケットから携帯電話を出し、マリアに電話をかけた。留守電になったので、「大事な話があるから団地の公園にすぐ来てくれ」とメッセージを残し、公園へ向かった。
 夕方過ぎの児童公園に人影はなかった。マリアがいつ留守電を聞くかも分からない。何十分か待って来ないようだったら、いっそのこと留守電に「ごめん、別れよう」とでも伝言を残せば、それでいいかとも思えてきた。一年以上の交際を、たった一言の留守電で終わらせた彼氏。十分最低だ。マリアはそれなりに傷つくかもしれないが、ひどい男だと思わせれば、それだけマリアの心に未練を残さずに済むんじゃないかと思った。
 でも、数分後にマリアは来た。
 Tシャツにショートパンツという、急いで家を出てきた格好で、公園に着くなり「どうしたの?」と心配そうに聞いてきた。
 マリアに未練を残してはいけない。この場でしっかり嫌われなくてはいけない。別れて正解だったと思わせなくてはいけない。――俺は自分に言い聞かせながら、ぶっきらぼうに言った。
「俺と別れてくれ」
「えっ!?」マリアは目を丸くした。
「もう気持ちがなくなったんだ。俺のことは忘れてくれ。俺もマリアのことは忘れる。それだけ言いに来た」
 俺は淡々と告げると、マリアの顔もろくに見ずに「それじゃ」と言い残して自転車に乗ろうとした。
 でも、その腕をマリアにつかまれた。
「待ってよ」
 振り向くと、マリアの目はもう真っ赤だった。
「何がいけなかった? メールも電話も控えようっていうのが嫌だった? だったら、やっぱりやめよう。一日のうち、時間決めて、電話もメールも……」
「いいよ、もう終わったんだよ」
 俺はうつむきながら言った。でもマリアはすぐ言い返してきた。
「私は終わってない!」
 マリアの両目からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。――誤算だった。マリアは俺が思っていたよりもずっと、俺のことを好きでいてくれたのだ。溝ができているなんて、俺の勝手な思い込みだったのだ。
 それでも俺は、心を鬼にして告げた。
「俺はもう……お前のことが好きじゃねえんだよ。ちっとも好きじゃねえんだよ」
「分かった。それでいいよ。でも、私は好きでいさせて。私は、本当に好きだから……」
 マリアはぼろぼろと泣きながら、たどたどしく言葉をつないだ。
「二人で筑波大受かって、ずっと一緒に……将来は、お医者さんと看護師で、病院まで一緒で、そのまま結婚できたらいいなとか、マジで、馬鹿な妄想だと思われるかもしれないけど、本気で思ってたから……」
 もうマリアの顔は見られなかった。俺はあらぬ方向を見ながら、涙声になるのを必死に抑えて言った。
「くだらねえ……。あと、俺もう医者になるのあきらめたから。無理だよ、E判定だし」
「だから、メールも電話もやめようって言ったの」マリアは嗚咽交じりに言った。「恋愛が受験の邪魔になることもあるって聞いたから、私はダーリンの邪魔したくないって、絶対に二人で現役で受かりたいって思って……私だって本当は、毎日会いたくて話したくて仕方なかったけど、ダーリンに頑張ってほしいから、我慢しようって言ったの。……でも、ダーリンの方がきつかったなら、やっぱりルール変えよう。電話もメールも、デートだってたまには……」
 だめだ、このままでは関係を修復する方向へ話が進んでしまう。――俺はそう思って、無理に嘘をひねり出した。
「いや、マジで俺の中では終わってるから。……ていうか俺、他に好きな人できたし」
 こう言えば、さすがにマリアもショックを受けるだろう、俺をひどい男だと思ってくれるだろうと思った。
 ところが、しばらく間が空いた後、マリアは冷静に言った。
「嘘だよね?」
 俺は絶句した。いとも簡単に見破られてしまった。
「何か隠してるよね? ていうか、わざと私に嫌われようとしてるよね?」
 マリアは、顔をそらしている俺の視界に入るように歩いてきた。
「嘘下手すぎるんですけど。ねえ、何これ、ドッキリか何か?」マリアは、涙を流しながらも笑みを浮かべていた。「やめてよ、そんなの。私が分からないとでも思った?」
 俺はまたマリアから顔をそらす。でもマリアは、俺の視界に入ろうとまた歩く。
「どういう意図か知らないけど、全部話してよ。つまらないドッキリだったらマジでビンタだけど……もし、何かの事情で私と別れなきゃいけないんだと思ったんなら、ちゃんとその事情を私にも聞かせて……」
「うるせえな! 何もねえっつってんだろ!」
 俺はマリアを睨んで怒鳴りつけた。マリアの表情から、また笑みが消えた。
「ドッキリでも何でもねえよ。本当に嫌いになったんだよ。だから別れたいんだよ、それだけだよ! だから俺のことを忘れろ。俺もお前のことを忘れるから。じゃあな!」
 一方的に言い連ねて、俺は駆け出し、自転車に飛び乗って逃げた。
「待ってよ!」
 マリアの叫ぶ声が後ろから聞こえたけど、振り返らなかった。
 俺は全力で自転車を漕いだ。涙で視界が霞んで、何度か危うく転びそうになったけど、どうにかこらえて漕ぎ続けた。
 団地を出て、川沿いの農道を走った。人けがないのを見計らって、俺は「うわあああっ」と大声で泣き叫んだ。

 結局、夜逃げをする親と一緒に、これからも暮らさなければいけないことは分かっていた。でも、まだ家に帰る気にはならなかった。かといって、どこにも行くあてはない。ただなんとなく、牛久駅の方向へ走っていた
 すると信号待ちで、携帯電話が振動したのに気付いた。ずっとマナーモードにしていると、自転車を漕いでいる間はなかなか気付かない。
 見ると、マリアからの不在着信が五件も入っていた。
 全て削除して、マリアからの電話もメールも、着信・受信拒否に設定した。
 ところが、その数分後、信号待ちをしていると、また携帯電話が振動した。
 タケシからの着信だった。俺は少し迷ったけど電話に出た。
「もしもし」
「おいヨッシー、今どこにいるんだ?」
「今……牛久駅の近く」
 メールだったら嘘をつくことも考えただろうけど、電話だったから、とっさに正直に答えてしまった。
「マジか? 俺もすぐ近くだよ。じゃ、駅の階段の前の広場で待ってるから、早く来いよ」
 タケシは一方的に言って、電話を切った。
 俺はまた少し迷ったけど、行くことにした。タケシにも一応、別れを告げなければいけないのだ。
 駅前に着くと、タケシはギターケースを背負い、スポーツバッグを持っていた。
「そこの楽器屋にいたんだよ」タケシは駅前の通りを指差してから言った。「で、さっきマリアから電話があって、俺も事情はよく分かってないんだけど……何かあったのか?」
 タケシは、心配というより好奇心で聞いているように見えた。俺はぶっきらぼうに答えた。
「マリアと別れた」
「マジか?」
 さすがにタケシも驚いた様子だった。俺が「ああ」とうなずくと、タケシは太った頬を緩ませて言った。
「じゃあ、もし俺がマリアに告ってOKしたら、付き合ってもいいのか?」
「ああ、好きにしろ」俺は投げやりに返した。「まあ、受験に集中したいとか言ってたから、今は無理だろうけどな」
「ハハハ、冗談だよ」
 タケシは笑った。その笑顔に俺は少しいらついた。
「喧嘩したのか? そこに傷がある」
 タケシは、俺の拳の傷をめざとく見つけた。川崎を殴った時にできたようだった。
「まさかヨッシー、マリアを殴ったわけじゃねえよな?」
「違うよ」俺は慌てて答えた。
「ああ、そうか、よかった。――もしマリアを殴ったんだったら、今ここでヨッシーを殺さなきゃいけないからな」
 タケシは安堵したように言った。そういえばタケシと俺は、冗談半分とはいえ、好きな女を殴るような男に成り下がったら殺しに行く、と約束を交わしていたのだった。
「誰を殴ったんだ?」
「父親……っていうか、母親の再婚相手。さっきまた喧嘩になったんだ。まあ今度は俺の圧勝だったけど」
「おお、またしても奇遇だな。俺もだよ。まあ、俺の場合は昨日だけど」
 タケシも自分の拳を見せてきた。たしかに小さなかさぶたがある。
「また親父と殴り合いの喧嘩しちゃった。ちょっと傷になっちゃったけど、ギターは弾けるから大丈夫だ」タケシはギターケースを掲げてみせた後、笑いながら言った。「まあ、しょうがねえよな。俺たち難しい時期だもんな。そりゃ、親父との口喧嘩から殴り合いに発展することだって、一回や二回あるよな。ハハハ」
 タケシはいつも以上にヘラヘラしていた。その様子に俺はいらついた。この調子で、俺が進学を断念せざるをえなくなったこと、そしてもう会えなくなることを告げたくなかった。
 と、そこでふいに、タケシが尋ねてきた。
「駅に来たってことは、電車乗るのか?」
「ああ、いや、別に……」
 この先どうするかは、何も考えていなかった。するとタケシが笑顔で言った。
「一緒に行くか? 俺も今から電車乗るんだよ」
「ああ、予備校に行くのか?」
「いや、違う」タケシは笑いながら首を振る。
 俺は、タケシの背中のギターケースを見て勘付いた。
「そっか……勉強の息抜きの、ギターの方か。スタジオ取ってあるのか、柏の」
「ああ、今日はもうちょっと遠いんだけど、まあそんな感じだ」タケシはにやっと笑った。「しかも今回は、うんと長い時間取ってあるからな。ずっとギターに没頭できるよ」
「いいよな、予備校で勉強できる上に、息抜きの趣味にも金使えて」
 俺は嫌味を込めて言った。するとタケシは二重顎を上げ、俺を見下ろすように返した。
「ああ、いいだろ。最高だぜ〜、金持ちのボンボンは」
 俺は、怒りをしずめるために深呼吸した。タケシがあえて、ボンボンとして生まれたことをある意味自虐的にとらえて、こんな言い方をしているのだということは分かっていた。しかしこの状況では、思わず手が出そうになるほど腹が立つ言い方だった。
「結局あの親父は、なんだかんだ言っても、いざとなったら俺のために金出すしかないんだよ。それであいつが満足なら、俺も好きなようにやってやるよ。ていうか、もう親父とか思わないことにしたわ。財布だよ、財布」
「……いい加減にしろよ」
 俺は思わずつぶやいていた。ほとんど反射的に言葉が出ていた。
「その財布がない人間が、どんだけ苦労してると思ってんだよ。甘ったれてんじゃねえよ」
「はあ?」
 タケシが俺を睨みつけた。その脂肪だらけの憎たらしい顔に、また腹が立った。
「いいよな。タケシは、受験にしても、それ以外のことにしても、目の前のしんどそうなことからいつでも逃げられる。ちょこっと逃げて、また戻ってきて、適当にやって、その繰り返しだもんな。それでも結局金の力でなんとかなるんだもんな――。でもこっちは、金が無いせいで逃げなきゃいけないんだよ」
 これから夜逃げをしなければいけないことを言ったつもりだったけど、そんな遠回しな言い方では、タケシに伝わるはずもなかった。
「何だその言い方?」
 さすがにタケシも頭にきた様子だった。でも、破れかぶれだった俺は、長年抑え続けてきた感情を爆発させて、過去の恨み辛みまでぶつけてしまった。
「小六の時ポケモンのビデオ見て俺が倒れた時も、中一の時エロ本探してるのを通りすがりのおばちゃんに見つかった時も、いつもお前だけ逃げたよな。なんでお前だけ逃げるのが許されんだよ。こっちは最悪の家庭環境から、どんなに逃げたくても逃げらんねえんだよ!」
「はあ? なんでヨッシーに説教されなきゃいけねんだよ。関係ねえだろ馬鹿」
「てめえはずるいんだよ! 前からずっと思ってたよ!」
 俺はとうとう殴りかかってしまった。拳骨がタケシの太った頬に当たった。
「なんだこの野郎!」
 タケシが殴り返してきた。拳が顎に当たり、頭が一瞬くらっとした。でも俺もすぐに蹴りを返し、タケシの左脛に当てた。タケシは「痛えっ」と脛を押さえながら、まるでゴキブリでも見るような目で俺を見た。
「ふざけんなよ! せっかく心配して来たのに、マリアと別れた八つ当たりかよ! 二度と俺の前に現れんなよ馬鹿!」
 タケシは捨て台詞を残して、小走りで駅の方へ去って行った。
 その後ろ姿を見送りながら、気付けば俺はまた涙を流していた。駅前を通る人に好奇の目で見られているのは分かっていたけど、涙を拭きもせずに立ち尽くしていた。携帯電話が振動しても、もうポケットから出そうともせず、ただ涙が流れるまま、魂が抜けたようにじっと立ち続けていた。
 こうして俺は、小学生の時から培ってきた愛情と友情を、たった一時間足らずで、両方ともあっけなく捨ててしまったのだ。
 その時、ふと思った。
 いっそのこと、このまま全てを捨てて、知らない土地で一人で生きていこうか。
 上り電車に乗れば、上野うえの日暮里につぽりまで行ける。東京なら、きっと俺と同じように、故郷を捨ててきた孤独な人間が大勢いるはずだ。それに、ホームレスだってたくさんいる。何のあてもなく東京に出れば、きっと最初はホームレス生活を送るしかないだろう。でも上等じゃないか、やってやろうじゃないかとすら思った。夏だから野宿したって死ぬことはないはずだ。
 家という生活の拠点にしがみつくために、俺の将来を破壊した母や川崎と一緒に暮らすぐらいなら、東京に出てホームレスになった方がよっぽどましだ。大学に行けないのなら、今から別の高校に編入してなんとか卒業しても、このまま中退しても、たいして変わらないだろう。よし、東京に行こう。――俺は衝動的に、そう決心した。
 過去は全て断ち切り、今日から東京で一人で生きていくんだ。――絶望を通り越して、その時は希望すら抱いていた。
(第12回へつづく)

藤崎 翔Sho Fujisaki

1985年、茨城県生まれ。高校卒業後、お笑い芸人として6年間活動。2014年、『神様のもう一つの顔』(のちに「神様の裏の顔」に改題)で第34回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、小説家デビュー。この作品が25万部を超える大ヒットとなる。著書に『殺意の対談』『こんにちは刑事ちゃん』『おしい刑事』『お隣さんが殺し屋さん』『指名手配作家』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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