双葉社web文芸マガジン[カラフル]

図書室のバシラドール(竹内真)

イラスト:中島梨絵

文化祭のビブリオバトル

 休み明けの火曜日、ブックポストの返却本の中に『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』が入っていた。
 あの銀髪さんが、休館中に返しに来たらしい――などと考えること自体、いけないことかもしれない。池田久美に知られたら小言を食らいそうだ。
 だけど、そう思った途端、本に染み込んでいた思いが伝わってきた。
 ――これは、なかなか難しい。
 詩織は確かに、『なぎさボーイ』からそう感じたのだが、どうにも不可解だった。『なぎさボーイ』という小説は、人に難しいと思わせるような文章で書かれてはいないのだ。
 男の子の一人称だし、氷室冴子特有の、リズミカルで読みやすい語りである。読者を自然と物語に引き込んでいく冒頭シーン、というのが詩織の記憶にある印象だ。あの銀髪さんは知的な雰囲気の人だったし、十代の読者向けに編集されているコバルト文庫を難しく感じるとも思えない。
 しかし詩織が返却手続きを進める『なぎさボーイ』からは、なんだか困惑気味の気配が伝わってくるのだった。
 ――だけど、喜んでもらいたい。
 ――なるべく淡々と。
 ――役者ではないのだから。
 そうやって感じる思いは断片的で捉えどころがない。役者というのも唐突に感じる。
 銀髪さんの、姿勢がよくて身だしなみの整った姿を思い出した。ひょっとしたら若い頃に俳優をやっていたとか、プロではないがアマチュア演劇をやっているとかなのかなあとも想像が広がる。
 もうちょっと集中してみれば他に感じ取れることもあるかもしれない。だけど、インターンで働く身としてはそればかり気にしてもいられなかった。返却手続きを済ませるべき本は他にもたくさんあるのだ。
 二冊の文庫本のバーコードを読み取り、手続き済みのワゴンに回した。それから他の本も手続きしたり、開館時間が迫って準備に追われたりといううちに、すっかり銀髪さんのことは頭から離れていた。白前図書館はいつものように開館し、『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』は他の図書館員の手でティーンズコーナーの文庫本の棚に配架されていく。
 そして翌日の朝、ブックポストには『クララ白書』が入っていた。今度は詩織も仕事に集中していて残留思念どころではなかったが、さらに翌日『クララ白書ぱーと2』が入っているのを見たら、さすがに銀髪さんのことを考えずにはいられなくなった。
 休館日明けに『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』、それから連日で『クララ白書』の一巻二巻ということは、毎日一冊のペースで読んでいるのだろうか。そうやって読み終えたものから、図書館の返却ポストに持ってきているようだ。開館中には返却ポストには入れられない仕組みだから、彼は朝の散歩か何かのついでに返却しているのかもしれない。
 朝からきっちり髪を整え、ループタイを締めて散歩する老紳士の姿が思い浮かんだ。なかなか絵になるけれど、その手に持っているのがコバルト文庫の『クララ白書』というのはやはりミスマッチだ――などと考えていると、後ろから声をかけられた。
「どうです、仕事の調子は?」
 館長の春日かすがさんだった。こちらも初老と呼べそうな人だが、オールバックではなく生え際の後退した男の人である。白髪が見当たらないのは染めているのだろうか。
 詩織は内心でほっとしていた。返却手続き中にぼんやり空想にふけっているのを、指導担当に見咎められたかと思ったのだ。春日館長だったら小言を言うタイプではない。
「はい、頑張ってます」
 適当に返事したら、館長は詩織の仕事を手伝ってくれた。どうやら詩織が一人で働いているのを見て手伝いに来てくれたらしい。
「例年、夏休み中でお盆明けのこの時期は本の貸出数も増えるんですよ。高良さんがインターンで入ってくれて助かってます」
「いえいえ、私こそ勉強させていただいて」
 ポストに返却された本は意外に多く、そのバーコード読み取りや中の確認などを一人でやると結構かかりそうだったが、二人がかりのおかげでどんどん捗る。館長はてきぱきと作業しながらのんびりと話しかけてきた。
「実はね、心配してたんです。高良さんは現役の学校司書ということで安心して受け入れられたんですが――指導担当が、少々厳しいようだから」
「はい……いえ、勉強になってます」
 指導担当の池田久美から、同級生だったことは伏せておくように言われていた。「馴れ合いの雰囲気を出さないように」ということなので、館長にも伝えていない。だから傍から見たら、詩織はやたらと口うるさい指導担当に当たったように見えるのかもしれなかった。
「高良さんの実習も、今日で六日目ですね」
 館長はカウンターに置かれた図書館カレンダーに目をやった。今月と来月のカレンダーに休館日や開館時間が記され、利用者への配布用に置かれているものだ。
「実は、うちの館の恒例で、インターンの皆さんに『サービスタイム』というのを用意してましてね。まあ大したことではないんですが、実習最終日は、この図書館の仕事の中で一番やりたい業務についてもらうことになってるんです」
「あら、楽しそうですね」
「ええ。必要以上に厳しくせずに、図書館の仕事を好きになってほしいという狙いで――もちろん選書だの廃棄の決定だのといった責任をともなうところは任せられませんし、それぞれの業務の担当職員の監督下で働いてもらう形ですが――どうです? 何か希望はありますか?」
 そう質問され、咄嗟に頭に浮かんだのは、やはり銀髪さんのことだった。どうして氷室冴子を読むことになったのか尋ねてみたいと思ったのだが、もちろんそんな業務などあるわけもない。
「いろいろあって迷っちゃいますね。いま決めないといけませんか?」
「今日中に教えてくれれば大丈夫ですよ」
 その言葉に甘えて、どんな業務を希望するかを考えながら働くことにした。選択の権利があるというだけで、いつもの業務がちょっと新鮮に思えてきた。

 結局、最終日には本の装備や補修の業務を希望した。
 これまで直原高校の図書館でもやってきた仕事だけれど、先輩の永田さんの残してくれた手引書を読んだり、直原市主催の研修会で習ったりというくらいで、それほど詳しいわけではない。マンツーマンでプロの図書館員の技術を学びたいと考えたのだ。
 それに、池田久美は補修作業が得意じゃないらしい、というのも大きな理由となった。最終日くらいお目付役のいない状況でのんびり働きたかったのだ。
 白前市立図書館では、正規の図書館員たちはそれぞれに担当業務を持っていた。全員が一通りの仕事をこなせるよう、一年ごとにローテーションする仕組みだそうだが、それでも得意不得意というのはあるそうで、詩織の最終日には、補修が一番上手だといわれている丸山まるやまさんという若い男性スタッフが指導についてくれた。
 頬のあたりがぽっちゃりとした童顔の青年だった。たぶん二十代前半だろうけど、学生服を着ていたら十代といっても通用しそうだ。直原高校では丸山さんより年嵩に見える男子生徒も見かけるくらいだ。
「まあ装備や補修が得意っていっても……」丸山さんは照れたように言った。「私の場合、昔からプラモ作りが好きだっただけです」
 その、「私」という一人称に、あまり使いなれていない響きがある。職場では「私」を使うべきだという意識なのだろうが、きっと普段は「僕」か「俺」だろう。プラモデル作りみたいな少年っぽい趣味はたしかに似合いそうだ。
 その丸山さんはロッカーから道具類の入った箱を出して補修の準備にかかった。それを手伝う詩織に、不思議そうに尋ねてきた。
「高良さんって、学校司書をされてるって話でしたよね? 今さら教わらなくても補修くらい慣れてるんじゃないですか?」
「ある程度はやってますけど」詩織は彼を持ち上げておくことにした。「せっかくの機会ですから、名人の技を学んでいきたいなーと思いまして」
「名人ってほどじゃないですが」まんざらでもなさそうな顔だった。「それなら私なりのコツを教えますね。まず――初心者にわりと多い勘違いは、『接着剤はしっかりつけよう』ってことです」
「はあ」
 のっけから意外な言葉だった。しっかりつけない方がいい、なんて聞いたこともない。
「プラモ方面では常識ですけど、接着剤をしっかりつけるとはみ出ます。はみ出ると様々な弊害がある。接着剤なんて少なければ少ないほど、薄ければ薄いほどいいんですよ。今回は補修用のゴムボンドを使いますから、これが役に立ちます」
 そこで彼は背後に手を回した。ヒップポケットから何か出したと思ったら、透明なペットボトルである。
「じゃーん! ――ってほど大したもんでもないですが」彼はそのペットボトルを道具類の箱の隣に置いた。「さっき、給湯室で汲んでおいた水道水です」
 自分で「大したもんでもない」と言いながら、わざわざ用意してくれたらしい。彼がにこにこと水を汲んでいる姿を想像して、詩織はつい噴き出してしまった。
 指導係が久美だったら不真面目だとしかられそうなところだ。しかし丸山さんは笑いをとって気をよくしたようである。
「その時々の湿度や室温でも違ってきますけど、私は接着可能なぎりぎりまで薄めて使います。その方が伸ばしやすいし、乾燥も早いし。もちろん水分が多すぎても紙にはよくないから、薄く少なく使うんですね。多少の経費削減にもなりますし」
 補修用ゴムボンドの容器から、もっと小さな容器に中身を出し、そこに水を注いで竹串でかき混ぜている。その竹串は補修個所に接着剤をつけるための刷毛でもあった。
「塗る時と付ける時にもコツがあります。いいですか、まずは見ててくださいね……」
 丸山さんは作業を進めつつ、なんだか楽しそうに話しかけてくる。詩織はその手元に見入りつつ、本当にプラモデルを作る男の子みたいだなあと思っていた。

 その後も丸山さんとマンツーマンで作業を進めた。彼の作業は手早く、補修待ちや装備待ちの籠に詰められていた本の山がどんどん減っていく。
 詩織から質問すれば丁寧に教えてもらえたし、ミスをしても咎められることはない。詩織の失敗箇所を丸山さんの技で直してくれるので、かえって勉強になったくらいだ。だんだん詩織もリラックスしてきて、丸山さんとあれこれ雑談しながら楽しく働いた。
「丸山さんのプラモデルって、どんな作品を作ってるんですか?」
 特に深い意味のある質問ではなかった。知識皆無の分野なので、ただ漠然と尋ねてみただけである。
 しかし丸山さんは、何故か一瞬、困った表情を浮かべた。それから苦笑するみたいに答えてくれた。
「作品、ってほどのものじゃないです。実在の車とかアニメのメカとか、基本的に説明書通りに作ってるだけで」
「あら、それだって作品でしょ?」
「うーん……個人的な感覚かもしれないけど、プラモで『作品』っていったら、ある程度のオリジナリティーがあるものって気がします。メカなら自分でデザインしてフルスクラッチとか、あるいはジオラマ的に背景まで作り込むとか、塗装だけでも状況的にするとか」
「そういうもんですか」
 分かるような分からないような話だった。謙遜で言っているわけじゃなく、本当にそう考えているのは伝わってくる。
「たとえば本であれば」丸山さんは補修中の単行本を持ち上げた。「いくら印刷したり装丁したり、装備を一通り整えたりしても、出版社の人も印刷所の人も図書館員も、『私の作品です』とは言わないじゃないですか」
「ああ……なるほど」詩織もうなずいた。「あくまで書いた人の作品ってことですか」
「そうそう。プラモでも、そういう感覚なんです。メカのデザインにしろプラモの造型にしろ、ちゃんとプロの人がやってますからね。作者とか作品とかいうのはそういう人の方がふさわしい、って思います。私のプラモは創作活動じゃなくて――趣味とか娯楽とか、そんなようなもんです」
 拗ねるとか、卑下するとか、そういうマイナスな響きは感じさせない声だった。ただ淡々と自分を語っているだけで、本当にそう考えているのだろう。
「子供の頃から――いわゆる創作って苦手なんです。図工の時間とか、いるじゃないですか。もっと個性的な物を作れ、とか言いたがる先生って。人真似じゃない、自分しか作れないのが創造だー、みたいな。僕はそれが嫌だったんです。何かを真似たり、お手本通りに作る方が好きだった。自分を表現しろ、なんて言われると本気で途方に暮れました」
 彼は作業中の本を持ち上げてみせた。『日の名残り』という小説で、表紙に印刷されたカズオ・イシグロの名前を指している。
「そういえばこの作家の――『わたしを離さないで』って作品、読みました?」
「映画は前に見ました」詩織は思い出しながら言った。「でも小説はまだです。映画、すっごく切なくて痛々しい感じだったでしょ? ストーリーっていうか、設定が残酷で……本で読んだらもっとつらそうだなーって」
「いろいろ考えさせられる小説ですよ。じわっと伝わってくるっていうか……私は小説の後で映画を見ましたけど、小説の方が格段によかったな」
 淡々とした喋り方だった。詩織に小説をすすめようとしているわけじゃなく、ただ思っていることを口にしているらしい。
「ていうか、映画版は映画版で考えさせられたんです。――二時間くらいの映像にまとめるためにぐっと凝縮されてるから、そのぶん象徴的というか」
 詩織は黙って作業を続けた。考えながら喋っている彼の邪魔をしたくなかったのだ。
「その映画版で、『作品は魂があるかを知るためのもの』みたいな台詞があったの、覚えてます?」
「はい……なんとなく」
「小説版にも同じような台詞はあるんですけど、映画で見た時、ちょっと引っかかったんですよ。作品で魂があるか知れるんだったら――作品を作れない人は魂がないってことかよー、って」
「…………」
「いやもちろん、言いがかりみたいなもんだって、自分でも思います。映画の台詞だから短くもなってるでしょうし、翻訳の問題もあるのかもしれないし。でも僕は、自分が作品を作る――創造性を発揮するタイプじゃないのが分かってるから、作品を作れない側から考えちゃったんです。作品がなくたって魂はあるぞって」
「でもそれは、きっとあのお話だからこその台詞じゃないですか?」
 詩織は頭の中で映画の設定を思い出していた。――主人公たちが子供時代を過ごした寄宿舎で、絵とか詩とかの創作活動が奨励されていたのだ。それが「魂があるかを知るため」だったというなら、それなりに納得はいく。
「うん、それはそうだとは思います」丸山さんもうなずいてくれた。「でも――なんでこの話をしたかっていいますと――図書館って、いろんな人がいろんな本を借りていくじゃないですか。こうやって図書館で働いてると、人が本を選んだり本を読んだりってことにも魂を感じるんですよ。図書館が本を書いたり作品を作ったりしなくても、いろんな魂が集う場所なんだって。作品なんて氷山の一角、魂のほんの一部分の見え方でしかない、とも思うし」
「そうですね。――うん、私もそう思います」
 そこで詩織の頭に浮かんだのは、直原高校の図書室のことだった。確かに、いろんな生徒がいろんな本を借りている。本を借りなくたって、読まなくたっていいのだ。そこではいろんな魂が感じられるし、だからこそ学校司書の仕事が好きになったのかもしれない。
「……なんか、プラモの話から脱線しちゃいましたけど」丸山さんは照れたように言った。「こうやって本を直すことも、誰かの魂の役に立つかもって思うと、やりがいが出てきませんか?」
「はい。補修の時にはそう思うことにします」
 サービスタイムにこの業務を希望してよかったと思った。補修の技術だけじゃなく、大切なことを教えてもらえたようだった。
 そうして図書館実習の一週間が終わった。
 最後は閉館後の後片付けを終えて職員一同が集まったところで挨拶をすることになり、お礼を言って頭を下げたら拍手までもらえた。館長からは、実習修了を証明する書類を卒業証書みたいに手渡された。
「これとレポートを大学側に提出すれば、単位が認定されるはずです」春日館長はとぼけた口調で言った。「当館から大学の方にも、人手が増えて助かったとお礼メールを出しておきましたので」
 そして解散後には、女子のロッカールームで池田久美から声をかけられた。
「いろいろ厳しくしちゃったけど、詩織はよくやってたと思うよ」
「……ありがとう」
 ございます、とは付け加えない方がいい気がした。久美はにっこりと笑って続ける。
「でも、覚えといた方がいいよ。私の厳しさなんか、図書館に就職して働いていく上での厳しさに比べたら、全然大したことないからね。――いくら任期付採用っていったって、素人がいきなり公立高校の学校司書になれて月々お給料をもらえるなんて、詩織は最初からものすごくラッキーだっただけだよ」
「……それは、確かに」
 詩織は素直にうなずいた。直原高校に採用された時には詩織自身も戸惑ったのだ。自分の司書としての実力のなさが分かるにつれて、あの時の自分がいかに恵まれていたのか思い知っている。
「司書課程の勉強の大変さは、さすがに分かってる頃でしょうけど」久美は得意げに言った。「実際に図書館で司書になるのはもっとはるかに大変なの。これから司書資格をとれたとしても、それで人生安泰みたいには考えない方がいいから」
「……それも、分かってます」
 詩織は久美の視線を受け止めた。我ながらのんきすぎた学生時代とは違うのだ。勉強や資格の意味だって、自分なりに考えている。
「私はまず、今の職場の図書室でいい仕事をするために、勉強して資格をとるの。そりゃもちろん、任期が切れた後も図書館の仕事につけたら嬉しいけど、司書資格がそのパスポートとは思ってない。まずは自分を高めたいって思ってるだけ」
「うん」
 久美はそこで、何故か一つうなずいた。それから笑顔で言ってくれた。
「詩織、変わったねー」
「ありがと。褒め言葉って思っておきます」
 指導担当として掛けてくれた中で、一番あたたかな言葉だったかもしれない。そんなことを言ったらまた叱られそうだけど、もうそれをプレッシャーに感じることもない。
 そうして久美とも、笑顔で別れることができた。

 その夜、山村さんに電話をかけた。白前市立図書館で体験したあれこれについて喋りたかったからだ。
 しかしいつもの彼と様子が違った。詩織の話に相槌は打ってくれているものの、どうも心ここにあらずという雰囲気が伝わってくる。
「……ねえ、もしかして、体調悪い?」
 尋ねたら、答えまでに間が空いた。
「別に病気とかじゃないけど」そっけない声が返ってきた。「まあ疲れてはいるのかな」
「ていうか……機嫌悪い?」
「いや、なんていうか……」
 否定されたが、口ごもる声に苛立ったような響きがある。日頃は温厚な彼には珍しいことだった。
「言おうか迷ってたんだけど、一応言っとくね。黙ってるのも変だから」
「どうしたの?」
「この前の月曜日、ホテルで見かけたんだ。詩織さんのこと」
「ホテルって――ああ、従妹の結婚式の日ね」
「うん。そう言ってたね」
「声でもかけてくれればよかったのに」
「いや……一緒の人がいたから、悪いかなと」
「一緒の人? 見かけたって……ロビーの喫茶室のこと?」
「そう。ほら、あそこってパン屋が併設されてるから、そこに買い物に行って」
「披露宴の後で、直原高校の図書委員の子のお父さんにばったり会ったの。ホテルの廊下で声かけられて――ほら、この前話したでしょ? 息子さんが家出かもしれないって相談に来たって人」
 説明しながら気付いた。何か誤解されたのかもしれない。
「その、家出騒ぎ――っていうか、家出ってほどじゃなかったわけだけど、その時の話とかあったから、コーヒーでも一杯って感じでお喋りしただけだよ」
 食事に誘われたのを断って、というところも話そうとしたら、皮肉っぽい声が聞こえた。
「一杯っていうか、僕が見た時は、ウエイトレスがお代わりを注いでたみたいだけど」
「……そりゃ、ああいう場所だもの。カップが空になってたらお代わりくらい入れてくれるじゃない」
 つい笑ってしまった。一杯だろうが二杯だろうが、どうでもいいじゃないのと思った。
 しかし笑い声は返ってこなかった。――彼の沈黙が重たくて、詩織はついからかうような言い方をしてしまった。
「細かいところにこだわるのは、それだけ気にしてるってこと?」
「……こだわるっていうか」低い声が返ってきた。「隠してないで、話してくれたっていいじゃんって思ってさ」
「隠すも何も、話すほどのことでもないし」
 そう答えた詩織の声は、なんだか言い訳めいて響いた。言い訳する気もないのに、責められると言い訳みたいになってしまう。
 図書館実習の際、「お客様からクレームがついたら口ごたえせずにまず謝ること」と教わったのを思い出した。――しかし結局、謝ってきたのは彼の方だった。
「ごめん。こういうのを繰り言っていうんだね」ため息みたいな笑い声が聞こえた。「分かっちゃいたけど、つい言いたくなっちゃって」
「――言ってくれてもいいけど」詩織はなんとか大人の対応を試みた。「この際、言いたいことは言っといたら?」
 そういう言い方をすれば、彼の方からもうやめたくなるかなと思った。しかし今度も予想外の反応が返ってきた。
「僕も人間できてないからさ。月曜はこっちも休みだったから誘ったのに、断られて――なのに他の男と楽しそうにお喋りしてるところを目撃しちゃったら、面白くなかったんだ。そりゃあ詩織さんの事情も分かる――」
「だって、断ったも何も」
 気付いたら、言葉が口をついていた。彼の言葉を促しておいて、それを遮ってまで言い返してしまった。
「それは従妹の結婚式の日だったからで――楽しそうにお喋りっていうのだって、まさか喫茶室でずっとしかめっ面で向き合うわけにもいかないじゃない」
 最後は冗談みたいに言ってみた。だけど笑いは返ってこない。
「だから、そういう事情も分かるけど――まあ、繰り言だよね」
 彼の方が、自分を抑えることはできるみたいだった。「これ以上言い合うのも良くないから、今夜はもう切っとこう」と告げてきた。
 詩織だって、そういう提案を断ってまで喋り続ける気はしない。――実習最終日というところまではよかったのに、なんでこうなっちゃったのかなあと考えていた。
(第7回へつづく)

竹内 真Makoto Takeuchi

1971年生まれ。慶應義塾大学卒業。95年に三田文学新人賞、98年「神楽坂ファミリー」で第66回小説現代新人賞、99年『粗忽拳銃』で第12回小説すばる新人賞、2013年『カレーライフ』で京都水無月大賞を受賞する。著書に『図書室のキリギリス』『図書室のピーナッツ』の「図書室」シリーズのほか、『風に桜の舞う道で』『じーさん武勇伝』『自転車少年記』『ビールボーイズ』『イン・ザ・ルーツ』『ホラベンチャー』『ぱらっぱフーガ』『だがしょ屋ペーパーバック物語』『リノベご飯のレシピ帖』『廃墟戦隊ラフレンジャー』などがある。

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