双葉社web文芸マガジン[カラフル]

図書室のバシラドール(竹内真)

イラスト:中島梨絵

来年度のマジックシード

10
 第三回のランチタイム講演会は化学室で開かれた。講師の津島先生が、実験も交えたいと言ったからである。
 実験というのは実演料理で、ランチタイムついでにできたチャーシューがふるまわれるらしいと噂が立った。そのせいなのか何なのか、聴衆はこれまでで一番多くなった。
「はい、肉の焼けるいい匂いがしてるが、講演を聞いてからじゃないと分けてやんないぞー。これはあくまで、豚モモ肉を用いた科学的実験だからな。料理の試食じゃなく、実験結果を理解するため、味覚を通じて確認するんだ。鮮度が良くて衛生的な肉に塩をすり込んでじっくり焼いてるから食中毒など起こるはずもないが、あくまで自己責任で口に入れて学問的に咀嚼するように」
 津島先生はそんな風に講演を始めた。それから窓際の、換気扇の近くに設けた即席の炉を指差して説明する。
「これはホームセンターで買った七輪の上に、底に穴を開けた一斗缶を重ねた実験装置だ。キャンプ料理なら蒸し焼き窯とかスモーカーとか呼ぶが、ここは化学室なので豚モモ肉の色彩変化を観察するための実験装置と呼ぶ。この一斗缶の蓋の下には、金串に刺した肉が吊るしてある。七輪では楢炭が燃えてるので、遠火の弱火で炙り焼きにしてる状態だな。この調理法――じゃなかった実験方法は、二年の大隈くんから紹介された白河ラーメン店の店主、近藤さんから教わった、実際にプロが店で出すチャーシューを作る方法だ」
 聴衆は化学室の実験卓を囲んで席についている。実験卓をきれいに拭いて、手芸部の女生徒たちが提供してくれたパッチワークのランチョンマットを敷いて昼ごはんという形にしたのだ。詩織は一番後ろの席でサンドイッチを食べていたが――津島先生が大隈くんを紹介した時、彼と同じテーブルに坂田くんがいることに気付いた。
 講演中だから、仲良く語らい合うという雰囲気ではない。しかしこの企画の発端となった二人にしては、緊張感もなく平和に隣り合っている。それを見るだけでほっとした。
 詩織の隣の安永先生も気付いていたらしい。目が合ったら、悪戯を成功させた子供みたいに微笑んだ。詩織から右手を差し出すと、しっかり握り返してくれた。
「今はチャーシューといっても、煮込んで作る煮豚が主流だ。その方が手軽に作れるからな。でも本来、チャーシューとは焼き豚のことだ。炙り焼きが正統だし、その伝統にこだわる本格的なラーメン屋はしっかり焼いて作るって、近藤さんから教わったよ。
 で、ちょうど前の時間から化学室が空いてたんで、これは約一時間前から焼き始めた。事前に着色料を使ったかも、なんて疑う人のために、仕込み段階からずっと撮影してある。その動画も同時進行で見せてやろう」
 実験装置の脇には三脚とビデオカメラが置かれ、ノートパソコンに繋がっている。津島先生が操作すると、液晶画面に一時間前に実験を始めるところからの映像が表示された。
「あ、そうそう。この実験で何を解明するのか話しとかないとな。――図書室にあるノートで、大隈と三年の坂田が論争したことから何やかんやあって、このランチタイム講演会になったんだ。その論争ってのが、チャーシューの縁が赤いのは何故かって言い争いなんだから下らないよな。それがきっかけで三回も講演会が開かれて、こんなに人も集まってくれてんだから、世の中は平和だ」
 笑いが涌いた。大隈くんも坂田くんも笑っている。苦笑気味とはいえ、彼らの表情は確かに平和だった。
「簡単に言うと、チャーシューについて『ウィキペディアに食紅を使っていると書いてあった、体に悪い』ってのが坂田の意見。対する大隈は『ウィキペディアは間違ってる。食紅は使ってないから体にも悪くない』って意見。化学教師として、結論から言っとこう。二人とも間違ってる」
 容赦ない言い方がまた笑いを誘う。大隈くんは平然としていたが、坂田くんは誰にともなくぺこりと一礼してみせた。
「食紅ってのは、食品添加物として使っても安全だよと、国が太鼓判を押した着色料だ。厚生労働省の諮問機関、薬事・食品衛生審議会で専門家が度重なる実験を踏まえて科学的に検討して、安全だと判断したんだよ。よって『食紅なら体に悪い』は間違いだし、『使ってないから体に悪くない』も違う。体に悪いかどうかは別の話で、その点で言えるのは、『使ってないから食紅の色ではない』ってだけだな。そのあたりの参考書として、図書室にあったこの本を紹介しておこう」
 先生が掲げたのは『食品添加物を正しく理解する本』という一冊だった。「Q&Aファイル101」という副題がついている。
「ご覧の通り、質問と回答の形式で添加物について解説した本だ。巷で言われるような『添加物はヤバい』みたいな誤解にしっかり反論して、科学的に説明してある。科学的ってのはどういうことかっていえば、実証を通して『この物質については、これだけの期間に、これだけの量を摂取すると害がある』と論理的に考えるってことだ。巷の誤解は『この物質は危ない』『その食品は体に悪い』『あれはやめとけ』って感じで、短絡的なワンフレーズになってることが多いんだ。坂田が書いた、『食紅ヤバい』みたいにな」
 先生はそこで、古本屋で買ってきたという本を何冊か掲げてみせた。加工食品や食品添加物の害について語られた本だったが、先生から見ると実証性に乏しくて科学的とはいえないとのことだった。
「いくら食紅が安全と言っても、続け様に何リットルも飲む、毎日欠かさず何年も飲むってやってたら、そりゃあ体に悪い。全身真っ赤になりそうだ。――いや、冗談で言ってんじゃないぞ。量や時間を考慮しないってのはそういうことだ。たとえば、水は生きていくのに不可欠な物質だが、『十リットル一気飲みして死んだ人がいる。水は体に悪いから一切飲むな!』なんて言われて、みんな言うこと聞くか? 量や期間を考慮すれば、そりゃ暴論だって分かるよな。
 でも残念ながら、巷にはそういう短絡的な情報が溢れてる。まあ科学的研究ってのは日々進歩するから、昔は安全とされた添加物に実は害があったって例もある。でもそういう心配があるなら、噂レベルでヤバいヤバいと喧伝するより、速やかに厚労省に働きかけて食品添加物の基準を改めさせるべきだよな? そうはせず、ただ本を売ろうとかテレビに出ようとか、アクセス増やして広告収入を得ようとかって情報が多かぁないか?
 笑ってるけど、君たちもそうだよ。物事を単純化しちゃいけない。単なる噂レベルのことを吹聴しちゃいけない。科学的、論理的に考える癖をつけよう。科学的、論理的とはどういうことかといえば、『誰でも、その気になれば確かめられる』ってことだ。『本に載ってる』とか『ネットに書いてある』だけじゃ何の実証性もない。試したり確かめたりしてみろよ。誰でもその気になったら確かめられる、ってのが科学のいいところだ。人類はそうやって進歩してきた。今やってる実験だってそのためのもんだよ」
 聴衆の視線は自然と実験装置に向く。化学室で語られると説得力のある言葉だった。
「その意味で、ウィキペディアは『誰でも、その気になれば書き込める』ってメディアだ。大勢の知恵が集まる利点もあるが、間違いもあればフェイクもある。専門家が責任もってチェックして公開って仕組みじゃないせいだ。そのへんはネット全般とも似てる。
 もちろん出版物にも間違いはあるが、著者や版元が内容に責任を負うし、それが信頼の根拠になる。ウィキなどのネット情報は、その根拠が曖昧なことが多いんだ。そこで利用する側に情報の真偽を見極める力が必要となる。それがメディアリテラシーってもんだ。
 ウィキを否定してるんじゃないよ。リテラシーをもって使えば便利だ。興味のある人にはこの、『理工系のネット検索術100』を薦めよう。理工系と書いてあるが、別に文系や芸術系や体育会系が使ったって構わない」
 白衣のポケットから新書サイズの本が出てきた。津島先生も活用してきた本らしい。
 それからチョークを手に取って黒板に向かう。そこからは化学式や物質名を書きながらの説明となった。
「今回の件、ウィキに載ってて坂田が信じた、『チャーシューが赤っぽい。イコール食紅』って考え方は間違いだ。そりゃあ『生肉は赤い』とはいえる。生肉に含まれるミオグロビンって色素のせいだ。加熱するとこの色素は化学変化をおこしてメトミオグロビンに変わるんだが、その色は白から褐色くらいだ。いわゆる焼けた肉の色だな。だから『火を通すと赤くなくなる』ってのも大概は正しい。
 しかし、そこから『赤い肉なら生だ』とか『調理済みの肉が赤いなら食紅だ』って考えたら間違いだ。科学以前に、論理の転倒だね。話の前後関係を取り違えちゃいけない」
 先生はそこで分厚い手袋をはめた。そして実験装置に歩み寄ったと思ったら、無造作に蓋をあけて金串を掴んだ。 
「百聞は一見にしかずだ。一時間以上も炙って、絶対に生肉じゃない肉を見てみよう」
 金串には一キロくらいありそうな肉片が刺さっていて、こんがりと茶色く焼けていた。先生がそれを掲げるとどよめきが起こった。
「焼く前は赤い生肉の色だったが、今はご覧の通り、外側は赤くない。これが、ミオグロビンからメトミオグロビンへの変化だね。仮に食紅を使ってたら、焦がさなけりゃこの段階で外側も赤いんだけどな。では内側はどうだろう。次なる実験装置に移してみよう」
 先生は教卓に戻り、そこに肉片を置く。聴衆の多くが立ち上がったので、詩織も腰を浮かせてそっちを覗き込む。――見れば、教卓の上の実験装置とは、まな板と包丁だった。
「本式の白河ラーメンでは、こうして蒸し焼きにした肉片を醤油で煮込んで完成だそうだが、色を見るなら今の状態が分かりやすい。これから断面図を見てみよう」
 説明しながら手袋をビニール製のものに交換し、先生は包丁を手にした。無造作に真ん中あたりを切って、その切り口をみんなに向けてみせる。
「おおーっ!」
 さらに大きなどよめきが起こった。席を離れて教卓の周りに集まる者もいる。詩織もそれに加わった。
 肉の断面はきれいに色が分かれていた。外側が茶褐色、その内側は赤みがかったピンク色で、外周に沿って輪を描いている。さらに内側は加熱後の肉らしい、白っぽい褐色だ。
「よーし。うまいことできた。これが、食紅なんて使ってないチャーシューの赤だよ。『調理したって赤っぽい肉はある』ってのが科学的事実だと実証されたわけだ。それを視覚的に確認したところで――味覚的に確認したいって人は、焼き立てで確認するといい。食べるかどうかは自己責任だからな」
 歓声が上がった。嫌がる者などおらず、先生はまな板に切り分けたチャーシューを並べて各テーブルを回っていく。トングまで用意されていて、それで希望者が差し出す弁当箱やパンの上にチャーシューをのせていく。
「ちなみにこの色合い、冷めると赤みが薄くなっていく。食紅ならそんなことはない。まあこうやって実物を見れば、『チャーシューが赤いのは食紅だ』なんて言う奴はいないよな? もちろん肉を、着色料や発色剤、いわゆる添加物で赤くすることはできる。しかし、赤いからといって添加物とは限らない。ここに落とし穴があるんだ。ワンフレーズの偏った知識に走って自ら落とし穴に落ちる奴もいるし、落とし穴を利用して人を騙すこともできる。騙すというと人聞きが悪いか。論理を飛躍させ、人々の不安を煽って注目を集めることができる。それを商売にする人もいる。大事なのは、自分の頭で実証的に考えるってことで、それもメディアリテラシーだ」
 たくさんあったチャーシューも、そんな説明と共に減っていく。配り終わる頃、安永先生が声をかけた。
「あのー、質問いいですか?」
 大きな瞳が楽しげに輝いていた。津島先生に挑むような声だった。
「このチャーシューが赤いことは実証されましたし、後で映像も確認してみますけど――どうして赤くなったのか知りたいです!」
「ああそうか! 忘れてた」
 津島先生はまな板を持って教卓に戻った。残っていたチャーシューのかけらを口に運び、もぐもぐいいながら説明を始める。
「どうして赤くなるのか。塩や煙に含まれる硝酸塩との化学変化だとか、遠赤外線効果の熱変性だとか、いくつか説がある。どの説で考えるべきか、科学者でも判断のつかないことは多い。――なーんていうと無責任だけど、確定できてないことに無理に結論を出さないのも立派に科学的な姿勢だ。今は、さっき話したミオグロビンっていう生肉の中の色素に着目して化学反応を説明しよう」
 再びチョークを持った先生は、「ミオグロビン」「ニトロソメトミオグロビン」「ニトロソミオグロビン」といった物質の名前を板書していった。それぞれの物質名を矢印が繋いでその間の化学変化が語られ、最後には「ニトロソヘモクロモーゲン」という名前が記された。
「さあ、この色素こそ、きれいなピンク色の色素だ。化学的にも安定してて、何より食べても無害、それどころか美味しい! そう。みんなが食べた、チャーシューの色素だよ。美味うまかっただろ?」
 聴衆からの拍手が問いかけへの返事となった。先生はにっこり笑って続ける。
「別にチャーシューに限った話じゃない。ハンバーグとかロールキャベツで、中がピンク色なのを見たことないか? 生煮え生焼けじゃなく、しっかり熱が通った上で赤みがあるんだ。それがニトロソヘモクロモーゲンだ。
 もっと分かりやすい例でいえば、ハムやベーコンもきれいなピンク色だな。手作りすれば無添加でも赤みが出るのが分かるけど、スーパーなんかで売ってるのは発色剤を使ってることも多い。しかし、赤いからといって必ず発色剤、添加物だとは限らない。まして、『赤い。添加物だ。体に悪い!』ってのは非科学的ワンフレーズ思考停止だ。マスコミにもネットにも、そういう言葉が溢れてる。『あれは危ない!』とか『体によくない』とか、噂だけであれこれ言う前に、『どのくらいの期間、どれだけの量を摂取するとどんな影響があるのか』って考えてみるといいよ。
 人は、途中の論理をすっ飛ばしてカラフルな結論に飛びつく。細々した条件について考えたり確かめたりは面倒くさいもんな。だけどワンフレーズな結論は、往々にして極論だ。カラフルで分かりやすいけど、結構な確率で間違う。それに踊らされないようにね」
 どうやら、そのあたりが講演の結論みたいになるらしい。詩織は安永先生に目配せし、そっと席を立った。――そろそろ図書室が混んでくる時間だ。若森先生だけに任せておくのは不安だから、早めに戻るつもりだった。
 そっと戸を開け、廊下に出る時に津島先生に会釈した。津島先生は分かっているというようにうなずき、生徒の注意を引きつけるように声を高める。
「最後にもう一つ。こうやって作れば自然に赤くなるのに、なんで食紅を使っているなんて説が生まれたのか説明しとこう。これはもともと、中華料理の調味料からきてるんだ」
 黒板に「紅糟」と記された。「ホンツァオ」というふりがなもついている。
「これは日本の感覚でいえば、中華風酒粕だな。餅米や赤米から酒を作る際にとれるから赤いんだけど、肉や魚に使うと臭みをとって旨みを増してくれる。そう、焼き豚を作る時、この紅糟をつけて焼くから赤くなるんだ。日本ではそれを真似て、食紅を混ぜたタレをつけて焼く方法が広まったらしい。そのレシピから、チャーシューは食紅を使うんだって思い込みが生まれ、今も又聞き的に残ってるんだな。赤けりゃ食紅だっていう短絡的誤情報を脈々と語り伝えてどうすんだと思うけど、最先端のデジタルメディアでも時々そういうことがおこる。だからこそ、自ら考えること、実証することが大切で――」
 そんな話を背中に聞きつつ、詩織は化学室を離れた。話の続きも気になったけど、図書室では学校司書としての仕事が待っている。
11
 第三回ランチタイム講演会の翌日、朝会の後で校長室に呼ばれた。緊張しながらノックすると、甘木校長が笑顔で迎えてくれた。
「良いニュースからお伝えしましょう」
 応接セットで向かい合うと、校長先生は楽しげに話し始めた。なんだか手品ショーでも始まりそうな雰囲気だ。
「まだ内々の話ですが、来年度も高良さんに契約をお願いすることになりました。司書枠でなく、事務員枠での一年契約ということで、待遇が変わらないのが申し訳ないんですが」
「とんでもない、嬉しいです!」
 詩織はそう言って頭を下げた。そりゃあ待遇がいいに越したことはないが、まずは直原高校の図書室で働き続けるのが先決なのだ。
「勝手なお願いを叶えていただいてありがとうございます。春からも頑張ります」
「高良さんは今も頑張ってますよ。その頑張りがあればこその再契約です」校長先生は執務机から何かのファイルを持ってきた。「この前の、ランチタイム講演会も実に面白かった。昼休みを活用して、科目や授業の枠を越えた催しが開かれるのは有意義ですね」
「ありがとうございます。安永先生のおかげで実現した企画なんです」
「安永くんも話してましたが、授業や教科書に縛られないことが魅力でした。学校図書館は本を並べるだけじゃなく、情報センターであるべきだと言われてるそうですが、その実例でしたね。――メディアリテラシー教育の大切さも叫ばれてますが、いざ実施となると、用意されたガイドラインを読み上げる授業になりがちなんですよ。それじゃあ生徒にとっては退屈な授業と変わらない。ああしてメロスやシュリーマンの例を出して考えてもらえば、きっと印象に残ることでしょう」
「あ、それじゃ若森先生の回もいらしてたんですか?」
「ええ。こっそり聞かせてもらいました」
「そうでしたか。気付かずに失礼しました」
「いえいえ、私も気配を消したんです。校長が見に来た、なんてことで講師に余計なプレッシャーを与えてもいけないし――津島くんに至っては、一種の豪傑ですからね。調理実習だと許可の申請が面倒なので、化学実験で通しますと告げてきました。私に面と向かって、『学校側には内緒ですよ』などと言うものだから、顔を出すわけにもいかなくなった。化学室でご相伴にあずかれなかったのは残念でしたが」
 楽しげに喋りつつ、校長先生は詩織の前に数枚の書類を置いた。ちょっと迷うような表情の後で話し始める。
「まずは余談から済ませましょうか。――若森くんの講演で、『この国では英語なんて三つの子供でも話せる』という例文が語られてましたね」
「はい。ニッポンムスコの話ですね」
「あの例文は私が教えたんです。高校生だった彼にね」
「え、じゃあ――」
「彼は私が英語教師として教えた一人です。彼が語った――『自分が正しいと思い込まずに柔軟な姿勢で考えるべきだ』というのは、生徒の彼が私に教えてくれたことでもあるんです。少々、昔話をしてもいいですか?」
 詩織は自然にうなずいていた。こちらから続きをせがみたいくらいだった。
「当時の私は、厳しい授業が生徒のためだと信じていました。今思えば他の方法も知らずに自分のやり方に固執していただけですが――授業では要所要所で生徒を指名し、問題に答えられないと遠慮なく叱りました。正解して当然、間違えれば級友の前で恥をかく、それが嫌なら予習するなり授業に集中するなりしなさい、という方針でね。おかげで緊張感の漂う授業となりましたが、それを自分の教師としての実力みたいに勘違いしていた」
 いつもの朗らかな喋り方とは違い、目を伏せて静かに語る口調だった。苦い思い出を噛みしめているようだ。
「そんな教室で、女生徒の一人に出題したのが例の、『英語なんて三つの子供でも』という例文です。黒板の穴埋め問題を解かせたんですが、授業中にぼうっとしていた子を指名したら、その子は解けなかった。私は注意の意味も込めて、『君は三つの子供にも劣る』と叱りました。『外国語というのはそういうものだ。三つの子供に劣る自分を恥じて、しっかり勉強しないといけない』なんてね。冗談めかせたつもりでしたが、彼女は自分を否定されたように受け取ったんでしょう。その場で泣き出してしまいました。自分の席に戻ると、机に突っ伏して泣いていたんです。私はそれを無視して授業を進めました」
 ため息と共に話が続いた。――そうやって授業で生徒が間違えた問題は、後の定期試験に出題するのが甘木先生の習慣だった。その方が生徒たちも身につく、という信念だったのだが、次の試験で妙なことが起こった。
 英作文で「この国では英語なんて三つの子供でも話せる」という問題を出したら、それに複数の男子生徒が意味不明の回答を書いたのだ。採点していた甘木先生は次々に×をつけたが、そのうちに妙なことに気付いた。
「一人の生徒の答案は――そう、若森くんです。彼の回答欄には、フランス語が書いてあったんです。フランス語でもって、『フランスではフランス語なんて三つの子供でも話せる!』とね。それで他の数人の答案を見直したら、英語以外の様々な言語で書いてあることに気付きました。スペイン語とか、ドイツ語とか、中国語とかね。それで鈍感な私も気づきました。これは彼らの抗議活動だとね。女生徒を泣かせた英語教師に義憤を感じた彼らは、横暴な彼をやりこめようと思ったんでしょう。仮に私がドイツ語を分からずに×をつけたら、『ドイツ語なんてドイツじゃあ三つの子供でも話せるのに!』と皮肉ろうというわけです。あるいはその答案を通して、私に思いやりのなさを自覚させようとしたのかもしれない。そのために各自、世界各国の言葉を調べて例文を暗記したんでしょうね」
 そこまで話すと、校長先生の口元に笑みが戻った。詩織は尋ねずにいられなかった。
「それで、その答案はどうしたんですか?」
「彼らの計画に気付いた後で、×にした答案にも○をつけましたよ。しかし、それも違うと考え直しました。それからは必死で、各国語の辞書や文法書を調べたんです。あるいはその言語に堪能な友人に教わったりもして――要するに、その言語で採点して、正しいなら○にしましたが、間違っている箇所はしっかり直して減点しました。その採点の時は徹夜したのを覚えています」
 そして採点したテストを返却する際、甘木先生は男子生徒たちの抗議の答案についてクラス全体に話した。それからあらためて泣かせた女生徒に謝罪して、作戦に加わった生徒たちには感謝を伝えた。そして自分も授業姿勢を反省するが、今後英語の答案には他の言語を用いないようにと告げたのだという。
「その後、若森くんは教職課程に進んで、教育実習生として私の前に現れました。しかしその時、私は最初、彼が誰だか分からなかったんですよ。背も伸びて髪も長くなっていたせいもあるんですが、『ご無沙汰してます』と一礼されて『ん? 君は誰だっけ?』と履歴書を確認して、『ああ、あの時の君か!』なんてね。彼は苦笑していましたが、以来どうも、私には心を開いてくれないようです」
「そうだったんですか……」
 いろいろ腑に落ちる逸話であった。若き日の若森少年ならそういう抗議くらいはするだろう。今の若森先生が言っていた「多少の因縁」というのはそういうことだったのだ。
「まあ、ここまでは余談です」校長先生は口調を改めた。「さあ、この資料のことを話しましょう。――私の中学時代の友人に優秀なのがいましてね。長いこと官庁に勤めた後で、今は衆議院議員になっています」
 詩織は目を丸くした。いよいよ本題となって、国会議員の話が出るとは思わなかった。
「彼は現在、『子どもの未来を考える議員連盟』というのに参加しています。これは昨年その総会で協議された、一種の法案みたいなものです。学校司書の法制化について議論された際の資料だそうです」
 書類の最初に「学校図書館法の一部を改正する法律案(仮称)骨子案」と記されていた。ざっと本文を眺めると、学校司書という言葉も目につく。
 そこから目を離せずにいる詩織に、校長先生は穏やかに問いかけてくる。
「学校図書館法のことはご存知ですよね?」
「はい……通信で教わった程度ですが」
 今度は詩織がテストを受けているみたいになった。一九五四年に施行とか九七年に改正とか、教科書で読んだ知識が頭をよぎる。
「若森くんのような司書教諭の役割や配置については現行の学校図書館法に明記されています。しかし高良さんのような学校司書についての記載はない。そのせいで、配置の有無や雇用の正規非正規などは自治体ごと、学校ごとにばらばらなのが現状です。多くの学校関係者が改善を訴えてますし、国会議員や文部科学省も実態調査に乗り出しました。私のところにも調査依頼がきて、その縁で旧友の議員と連絡を取り合うようになったんです」
「そうなんですか……」
 詩織は全く知らない話だった。教科書や講義では習わなかった、生の現実の情報だ。
「おかげで先日、未来の話が聞けました。近いうちに、超党派の国会議員から具体的な法改正案が出されて、国会で審議されるそうです。各種の調整はあるでしょうが、何らかの形で学校図書館法が改正される見込みなんですよ。二〇一四年成立なら、二〇一五年から施行となるかもしれません」
「あら、それならまだ先ですね」
「確かに、二〇一五年施行となれば、学校現場に反映されるのは早くとも来年四月、再来年度です。変革には時間がかかりますね。しかし、それでも希望を見出そうじゃないですか。モーパーゴ作品のようにね。――学校司書の法制化へのゆっくりとした流れ、それを柔軟に考えてみましょう。そうすれば、来年度からできることもあると思うんです。それが、高良さんなんですよ」
「私、ですか」
「そう、あなたです。正直言って、二〇一四年度はまだ、待遇改善は約束できません。しかしその先、学校には専任の学校司書を置くべしということになるかもしれない。そうなったら、学校司書は図書館業務について専門性を持った人材が望ましいに決まっています。――もちろん現時点では希望的観測ですがね。そんな未来のために、今のうちから備えておくというのも学校経営の長期的展望というものです。来年度も高良さんに、有資格者となった人材に我が校で働いてもらうのは、いざ事態が動いた時の布石になるはずですよ。人事考査でも、そういう意見を訴えました。堂々とあなたを推せましたよ」
「ありがとうございます」詩織は、言いながら笑みが浮かぶのを感じた。「布石というか……手品の種みたいですね」
「おっと。先に言われてしまった」校長先生もにっこり笑った。「そう。これは未来に向けたマジックシード、魔法の種なんです。今から蒔いておくことで、未来の図書室に宝物のような実がなるのかもしれない」
「宝物、ですか」その言葉を噛みしめた。「光栄です。来年度も頑張ります」
「見たところ、ランチタイム講演会は今後も定着していきそうですね」
「そうなんです。今回は――図書室ノートをきっかけに突発的にやらせてもらいましたが、来年度から先生方の授業計画と連携していけたら、図書館機能を教科指導に活かせるはずだって、講師の先生方とも話してたんです」
「それは頼もしい」
「それで、もしできたら、各教科の年度初めの会議に学校司書も出席させていただきたいんです。そこで授業と図書館との連携について挨拶させてもらえたらと」
「それはいいことだと思います。思いますが――会議への出席については、来年度の校長に提案してもらえますか?」
「えっ……」
 詩織が言葉に詰まると、甘木校長は小さくうなずいた。それから手品の種明かしでもするように打ち明けた。
「私は、今年度いっぱいで転任となります。校長職というのも宮仕えですからね。先日お話ししたように、一校に長くいるよりも異動させた方がいいと判断されたんでしょう」
「そうなんですか……」
「ですから、高良さんとの契約更新は置き土産みたいなものです。この直原高校を去る前に、あなたという種を仕掛けていくんですよ。その種が、自分が退場した後で花開いてくれるとしたら、それも手品師冥利ですよ」
 それが結論みたいになった。、来年度の雇用の細かい話や手続きは事務長と進めてほしいと告げられ、詩織は校長室を後にした。
 そのまま事務室に戻ろうかとも思ったが、図書室に向かうことにした。――マジックシードという言葉が頭の中に残っている。それを本に囲まれた空間で噛みしめたかった。
 図書室の鍵は持っている。司書室では仕事が待っている。そう思いながら歩いていると歩幅が大きくなった。
 扉を開けた。自分はここに蒔かれた種なんだと思うと、心があたたかくなってくる。
 しっかり芽を出し、花や実をつけるために、自分には何ができるだろう。そんなことを考えながら、大きく息を吸い込んだ。
(了)

竹内 真Makoto Takeuchi

1971年生まれ。慶應義塾大学卒業。95年に三田文学新人賞、98年「神楽坂ファミリー」で第66回小説現代新人賞、99年『粗忽拳銃』で第12回小説すばる新人賞、2013年『カレーライフ』で京都水無月大賞を受賞する。著書に『図書室のキリギリス』『図書室のピーナッツ』の「図書室」シリーズのほか、『風に桜の舞う道で』『じーさん武勇伝』『自転車少年記』『ビールボーイズ』『イン・ザ・ルーツ』『ホラベンチャー』『ぱらっぱフーガ』『だがしょ屋ペーパーバック物語』『リノベご飯のレシピ帖』『廃墟戦隊ラフレンジャー』などがある。

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