双葉社web文芸マガジン[カラフル]

まずはこれ食べて(原田ひ香)

イラスト:唐仁原多里

第5話
目玉焼きはソースか醬油か

「皆、死んでしまえばいいのに」
 筧みのりは、そう傍らにいる若い男に言った。
「そうだね」
 彼は無表情でうなずいて、筧みのりは彼が自分の言っていることをまるで聞いていないということを確かめた。
 少し前から……東上線で池袋を出て、下板橋のあたりから早くも上の空だなあ、と思ってはいたのだが。だから、思ってもいない、過激な言葉を使ってみた。
 この人、そういうところがある、とみのりは思った。
 いつも、どこか上の空なところが。いつもぼんやり漂っていて、この世界を生きていないところが。
 それも、彼の経歴を考えれば仕方ないとさえ言えることだった。
 何もない、荒涼とした人生を経歴ということができるのならば。
「次でいいのかな」
 彼が小さな声で尋ねてきて、みのりは彼が自分を無視していたわけではなくて、ただ、これから行く街に緊張しているだけだ、ということがわかった。
「そうね、次でいいんだと思う」
 スマートフォンの地図を見ながら、限りなく優しい声で答えた。

 庄田翔太しょうだしょうたという名前を見た時、みのりはてっきり偽名を使ってる、と思ったのだ。
「ふうん」
 大阪は天王寺の裏、いつも看板のライトが消えかかっているラブホテルの従業員ロッカーで、彼の履歴書を見ながら鼻で笑った。
「なんですか」
 彼はふてくされたように足を組み、みのりを挑戦的な目でにらんだ。
「いや、別に……」
 仕事柄、というか、ここで働くようになって三年、チーフになって一年あまり、やさぐれた男や女には飽きるほど会ってきた。このくらいのことで、ひるむみのりではない。
「もしかして、間違ってますか」
「何が?」
 つけつけと尋ねて履歴書から顔を上げると、おびえたような目にぶつかった。それで彼が、とても怖がっているのだと知った。
 いつも彼の気持ちを読み違えてしまう。というか、彼はいつも人に誤解される。
「履歴書の書き方とか……」
「いいや、違うんだ。ごめん」
 なめられるわけにはいかないが、かといって、相手に威圧感を与えるのがねらいでもない。
 すぐに表情を和らげ、「なんだか、漫才師みたいな名前だね」と言うと、やっとにこっと笑った。口元から見えた八重歯がちょっとかわいかった。
「ショーダショータとかさ、吉本にいそうじゃない。はい、こんにちは、ショータショータでございます、みたいな?」
 日頃、愛想のない女が冗談言っている、と自分で自分に驚いていた。
「そういう名前なんでしょうがないんです」
 彼は頬のニキビをいじりながら、言った。
 口を開くと、八重歯だけでなく、歯並びがかなりがちゃがちゃなのが見えた。
 歯並びはともかく、肌をもう少しきれいにすれば、見える顔になるのに、と思った時にはもう、何かをつかまれていた。
 三十八という年齢にしては若く見えた。ニキビこさえている歳でもないだろ、インスタントのものばかり食べているからそんな肌になるんだよ、となんだか悲しく、いらいらした。
「なんだ。てっきり、偽名かと思ったよ」
 いや、それでもいいんだけどね、とみのりは付け加えた。
 こういう場所で働く人に、厳しい身辺調査をしたってなんの意味もない。あのころすでに、ラブホテルの清掃員になかなか求人が集まらない景気になっていた。
 偽名でもかまわないし、簡単な履歴書さえもってくれば身分証を確認することもない。古いアパートだが寮もあって、住み込みもできる。
 そのくらいの条件でやっと人が来てくれた。だけど、家出少女や引きこもりニートやら、借金取りに追われている人やら、訳ありしか集まらない。
 翔太もそんな一人だろうと思っていた。
「こっちの言葉じゃないね」
「そっちだって」
 彼は上目遣いにこちらを見た。
「生まれは東京です。あちこちぶらぶらして、今はここにいるけど」
 大阪弁も話せるけど、相手が東京の言葉だと自然にそうなるんです、と説明した。
「あたしも元は東京。東京のどこ?」
「埼玉です」
「東京じゃないじゃん」
 思わず笑った。地方に来ると関東生まれ、ということを東京、と言ってしまう人は結構いる。
「ネットに住み込みできるって書いてあったけど」
 彼もまたそれを目当てに、応募してきたようだった。
「寮は御堂筋線の西田辺だよ。地下鉄だと二つだけど、自転車でも歩きでもここまで通勤できる」
「はあ」
「一つ訊いてもいい?」
「なんですか」
「三十八年間、どんな人生だった?」
 唐突な質問だとは自分でもわかっていた。彼が少しは戸惑うかと思った。でも、即答だった。
「生まれなければよかった」
 怒りも不満もない、平然とした表情だった。
 しばらく、彼の顔が見られなかった。理由を訊くこともできなかった。
「…じゃあ、明日から来て」
 そういうと、ぱっと顔を輝かせた。
「採用ですか」
 東日本大震災のあと政権が代わり、ちょっとだけ景気がよくなってきている頃だった。そしたら、急に働き手が来なくなった。正直、誰でもよかった。
「まあ、まず三ヶ月は見習いだけどね」
「ありがとうございます」
 ちゃんと頭を下げたので、安心した。そういう作法は一応できる子らしい。
「じゃあ、明日ね」
 そう言ったのに、なかなか腰を上げない。もじもじしている。
「どうしたの」
「今日から働けませんか」
「見た目と違って、結構、やる気、あるじゃん」
 みのりは低く笑った。
「いや……金なくて」
「もしかして、泊まるところも?」
「はい」
 ちっと舌打ちしたのは、忌々しく思ったからではなくて、優しくしてしまいそうな気持ちをごまかすためだった。
「じゃあ、少し待ってて。あと一時間くらいで、あたしあがるから。そしたら、寮まで連れて行く。今日は本当にまだ働かなくていいよ。ここで休んでな」
 そう言ったのに、みのりが客室を掃除していると、翔太はのぞきに来た。そして、黙って、水をくんだり、使った雑巾を洗ったりしてくれた。嬉しかったけど、礼は言わなかった。

 なぜ、あの日、自分は会ったばかりのこの子に気を許してしまったのだろう。たとえ、三十八歳だったからって。
 今でも時々、考えてしまう。
「仕事さえしてくれれば、何してもいいんだけどさ」
 その日、寮に案内する途中、朝から食べてない、という彼に西田辺の小さな商店街の中華屋でラーメンをおごった。がつがつと麺を口に入れる彼を見ていて、つい、そんなことを口走っていた。
「やめる時だけは一言、言ってくれ。急にいなくなるとさびしいから」
 ああいう場所では、ある日、ふいっといなくなる人が多い。前日まで何も言ってなかったのに来なくなってしまう。携帯は通じないし、寮はもぬけの殻だ。
 慣れようとしているけど、それまで特に問題なく、機嫌良く働いていたのに消えられると自分のせいのように感じてしまう。思い当たることが何もなくても本当は不満を抱えていたんではないだろうか、あたしがきつく当たったのではないだろうかと思い悩んでしまう。まして、彼らを𠮟責したことなんかあったら、しばらく眠れない。
 翔太に言った時、自分がずっと傷ついてきていたのだ、と知った。他人には平気な顔をしていたけれど、ずっとずっと、気にしていたのだと。
 ラーメン二つに餃子、少し迷って肉野菜炒めを頼んだ。餃子は一皿に五つ載ってきた。翔太がおずおずと箸をのばし、几帳面に二つだけ食べて、それ以上は手をつけなかった。野菜炒めの野菜を取る時、キャベツに箸を付けてはみのりの顔を上目遣いで見、スナップエンドウを挟んでは見、いちいちこちらをうかがってくる。そして、肉にはいっさい手をつけなかった。その目つきが、また、みのりの意味のわからない感情をゆさぶった。
「肉、嫌いなのかい」
「いえ……」
「じゃあ、お食べよ。あたしはそんなに食べられないんだから。遠慮なんかすんな」
 自分は餃子を一つだけ食べて、あとは乱暴に皿を押した。

 当時も、家政婦はやっていた。
 もともと家政婦の方が本業だった。震災の前までの数年は景気が悪くて仕事が少なく、休みの合間にできる仕事を、と思ってラブホテルの清掃をパートで始めた。
 みのりは体を動かすのが好きで、だらだらとしている方が性に合わなかったから、空いた時間の小遣い稼ぎくらいのつもりだった。けれど、土日も厭わず二つ返事でシフトに入り、仕事も丁寧なみのりをオーナーが気に入って、どんどんホテルの割合が増えてきた。
 しかし、家政婦よりも時給が悪いので、ホテル清掃が増えてしまうと結果的に収入が落ちる。それを彼に正直に話したら、チーフという、アルバイトとパートをまとめる役割を与えられて、時給を五割も上げてくれた。
 深夜帯の受付は、オーナーの親族だという「雪野ゆきの」という老女がいつも座っていた。
 みのりはよほどのことがないと受付には座らなかったし、清掃員が客と顔を合わせることは絶対にないように厳しく言い含められていたけれど、雪野がみのりを気に入って、よくそこに呼んでもらって話をした。皆、雪野さん、と彼女を呼んでいたけど、それが名字なのか、下の名前なのか、最後までよくわからなかった。そんな付き合いだった。
 雪野と受付にいる時、いろいろなカップルを見た。
 孫と祖父母のような驚くほど年齢差のあるカップルはもはや普通で、逆に驚かなくなっていった。
 四十代の主婦らしい女がエコバッグに買い物したばかりの食料をいっぱいに詰めて、若い男と入って行った時には、他人事ながらこれから夕飯に間に合うのかと心配になった。
 彼女は終わったあと、そのエコバッグを中身の食材ごと忘れていった。
 みのりは雪野と、食材をエコバッグに入れているのと、スーパーのポリ袋に入れているのと、こういう場所で置き忘れた時にどっちがやばいか、ということをおしゃべりした。二人とも、ぶっちぎりで「エコバッグ」だろう、ということになった。エコバッグでポリ袋代二円を節約する、良い妻がここに来る方がやばい。
 紫に染めた髪がいつも美容院に行ったばかりのようなのに、化粧気はほとんどない雪野を、オーナーの本当の母親なのではないか、とみのりは考えていた。確信はないが、それを隠して勤めている気がした。また、彼女がパートやアルバイトを隙のない目で見張っていて、いろいろオーナーに告げ口しているのも気づいていた。スパイとして派遣していたのかもしれない。だから、どんなに彼女がオーナーの悪口を言っても、決してそれに乗らなかった。
 用心しながらも彼女が嫌いではなかったし、親子であることは知らん顔していた。そんなことを問いつめたってしかたない。人はこちらが理解できない理由でたくさんの噓をつくのだから。
 でも、エコバッグのようなところで意見が合う女だったから、長くパートできたんだろうな、とみのりは今でも思う。
 驚いたことに、その良妻だか悪妻だかわからない女は翌日、エコバッグと食材を取りに来た。その場にみのりは居合わせなかったが、受付裏のバッグヤードで、レシートと品物をつき合わせていったそうだ。
「こう、じっくり、品物を一つ一つ調べはってねえ」と、雪野は老眼鏡をずらして、彼女の様子をまねして見せた。
「あんなもん盗むと思ったのかねえ。わたしらも見下されたもんや」
「冷蔵庫に保管しておいて、よかったですねえ」
 みのりが前日、気を利かせて入れて帰ったのだった。
「まあ、今日来なかったらもらって帰って、もうほかしました言おうと思ってたけどな」
 あははははは、と彼女は大きな口を開けて笑った。
「あの人、老眼だったんですか」
「そう。あれは結構、見た目より歳がいってるな」
「へえ」
「帰る時にな、アルバイトのゆみちゃんが出て行くのをじーっと見て、私にも仕事ないですかね、とか言いよった。ありません、って断ったわ」
「来てもらえばよかったのに」
 シフトを回すのに、毎月頭を悩ませていたみのりは本心から言ったのだが、彼女にじろりとにらまれた。
「あんな人、怖くて雇われへんわ」
 彼女と雪野のどちらが怖いのか、とみのりは思った。 
 今頃、あの人たちは、みのりと翔太について噂しているかもしれない。地味な中年女と若い男が駆け落ち同然で出て行ったんだよ、と。

 Tという駅で降りた。
 そこで降りたのは、翔太が生まれ育った町を「埼玉県の、池袋から出ている路線の、確か、動物の名前が付いた駅だった」と記憶していたからだ。
 ここ一ヶ月ほど、週末になると池袋から電車に乗って、「動物の駅」で降りている。
 彼はそこに十か十一くらいまで住んでいたらしい。それから、母親と各地を転々とし、十七、八の時、大阪で母親といたアパートを飛び出した。
「なんか、いらいらしてたから」
 その理由をみのりが聞くと、彼はそう答えた。
「それはあんたが? 母親が?」
「自分が」
それ以上は語らなかった。
 彼の境遇を知れば、それはもっともだと思えた。
 何かがおかしい、と気づいたのは彼を雇って三ヶ月くらいした頃からだ。
 他でも清掃の仕事をしたことがあるらしく、飲み込みは良かった。聞けば清掃だけでなく、工事作業員や引っ越し作業、工場での仕分けなど、短期やら日雇いやらのバイトを転々としてきたらしい。
 他のアルバイトやパートと親しげに話したり、馴染むことはなかったが、もともとニートでも引きこもりでも、真面目に働いてくれさえすれば雇う場所ではあったので何も問題はない。みのりとも、最初のラーメン以外は特別親しむということもなく、たんたんと通ってきた。
「丁寧な仕事をして、遅刻をしなければ、誰も文句は言わないよ」とみのりが指導をした際に教えると、こくんとうなずいて「助かります」と言った。
 不思議なもので、それでも彼がただの「無口」じゃない、ということは他の作業員にも微妙に伝わった。
「あいつ、逃亡犯かなんかじゃないかな」
 そんな噂がみのりの耳にも入ってきた。
「めったなこと、言うんじゃない」
 思わず休憩室でたしなめたのは、小学校四年から一度も学校に行ってないと豪語する、彩花あやかちゃんという十九歳の女の子だった。
「だって、庄田さん、絶対に写真に写らないんですよ」
 唇をとがらせて、彼女はみのりに言いつける。
 登校拒否から引きこもり、ニートになっていた彼女を母親が引きずるように連れてきて、大泣きしながら親子ともどもオーナーと面接をしたのが二年前のことで、今ではいったいこの子のどこが問題なのかわからないほど仕事にも皆にも馴染んでいた。
 最初の頃、研修以外は一人で作業させ、他のアルバイトと顔を合わせないようにし、もし合わせても挨拶や雑談は不要、としただけで、彼女は数ヶ月で少しずつ皆と話し始めた。
「写真嫌いな人、いるよ。うちの婆さんも、自分の顔見るの嫌だって言って、ほとんど撮らせなかった。葬式の時、遺影の写真を探すのに苦労してねえ」
 別の四十代のパート女性がため息混じりに言った。
「それは、そういう年代の人だからでしょ。あたしらは違うもん。庄田さん、彩花がお弁当をネットにアップするために撮る時、写り込むのも嫌がるんだよ」
「それは、後ろに写らないように気を遣ったんじゃない」
「だけど、この間、バイトの皆で飲みに行った時も最後に写真撮ろーってなったけど、いなくなっちゃった」
「あれだけ、無口な子なら、最後までいるのがつらかったんやない」とパート女性がかばった。
「だけど、真理恵まりえちゃんのこと、ずっと口説いていたみたいですよ。飲み会の間、ずっと話してた」
 引きこもりの子たちもしばらくすれば普通の若者に戻る。そうなれば、研修でパートのおばさんたちに必死に頼っていたことも忘れたかのように、若いアルバイト同士で仲良くなっていくのだ。
 パートとアルバイトに時給の差異はないけれどどこか境界線があって、彼らは彼らでよく飲みに行ったり、誰かの誕生日パーティをしたり、時にはキャンプに行ったりする子までいるらしい。
 みのりは、それはそれでいいのではないか、と思っている。むしろ、元気になっていくのを見るのは楽しい。
 けれど、彩花ちゃんの話には少し不機嫌になっているのを感じた。とっくに三十を越えている翔太だって、みのりたちに比べればまだ若いし、女性に興味もあるのだろう。それを突きつけられた気がした。
 勝手に、そういうことには興味がない人間なのかと思っていた。
「さあね、借金取りに追われているのかもしれないし、人のことはあれこれ噂するんじゃないよ。ここはそういうことをしないから、皆、いられるんだしね」
 みのりにはめずらしく、少し厳しい言葉をかけると、彩花ははっとした顔になった。もともと、神経の敏感な子だったから、すぐにみのりの注意に気づいたらしい。
 自分が彼女にそんな顔をさせたのを見たくなくて、みのりはさっと立ち上がり、休憩室から出ようとドアを開けた。そこに翔太が立っていた。
 聞かれた、と思った。彼はそこにずっと立っていたような気がした。
「あんたが写真嫌いだから、皆、変なかんぐりするじゃないか」
 とっさに、そう言った。
「すみません」
 彼は素直に頭を下げた。
 次の日、庄田翔太はいなくなってしまった。

 T駅は改札口を出たところで、南口と北口に分かれている。
「どっち?」
 みのりがかたわらの翔太に尋ねると、彼は頭を右に傾けた。
「じゃあ、両方見てみるか」
 黙ってうなずく。
「どっち、先に行こうか」
 今度は左に傾ける。
「じゃあ、まずは南から行こうか。暖かそうだしね」
 みのりが薄く笑って見せたが、翔太は無表情のままだった。
 南口は小さな駅ビルにつながっており、パン屋とチェーン系のスーパー、さらに進むとマクドナルドもある。さまざまな駅に降りたってきたみのりは「こちらが町の表側だな」と直感した。駅のどちら側も開けている町もあるが、多くの駅はどちらか側だけに商店や食べ物屋が集まり、反対側が住宅街になっている。
 実際、階段を下りると、ロータリーがあって、バスとタクシーが数台停まっていた。その周りを居酒屋やコンビニ、牛丼屋が囲んでいる。 
 それをふらりと一周すると、翔太も黙ってついてきた。
 ロータリーから放射線状に三つの道が続いている。それらを一つ一つのぞくように見たあと、尋ねずにはいられなかった。
「どうだい?」
「うーん」
 ここでやっと翔太は声を出して、顔を右に向けた。
「少しでも覚えがあったら、そっちに行ってみよう。別に違ったら違ったでいいから」
 みのりたちは、翔太の生家を探しているのだった。

 ふらりと出て行った翔太がまたラブホテルに舞い戻ってきたのは、数ヶ月後のことだった。
 みのりが深夜帯のパートを終えて、朝六時に裏口から出て行くと、その向かい側の道に翔太が立っていた。
 目が合うと首を折るようにして、こくん、とうなずいた。
 みのりが知らん顔で天王寺駅の方に歩いていくと、そのあとをついてくる。子犬のようだ、と思った。
 牛丼屋の前まで来た時、振り返って顎を動かし「入る?」と尋ねるとまた、こくんとうなずいた。
 カウンターに並んで座った。他に客は一人、体の大きな若い男がいるだけだった。
 朝食のメニューを差し出すと、一番安い、卵かけご飯のメニューを選んだ。みのりは牛丼のかしらの小鉢が付いているものを選んだ。翔太が小声で「ご飯、大盛りにしていいですか」と訊いたので、うなずいてやった。
 品物が運ばれてくると、翔太はまたがつがつ食べた。
 彼がご飯を半分まで食べたところで、みのりは小鉢を差し出した。
「食べなよ」
「ありがとうございます」
「どこに行ってたの」
 彼は答えなかった。
「悪いけど、出戻りは雇わないんだよ、うちは。特に、黙って出て行ったやつはね」
 そんな規則などないのに、そして、自分の口添えがあればオーナーはまた彼を雇うだろうとわかっていたのに、みのりは言った。
「話してくれなきゃ、助けることもできないんだよ」
 すると彼は周囲をきょろきょろ見回して、奥の席に座っている大男がこちらに見向きもせず、塩鮭に食らいついているのを確認すると、みのりの耳に唇がくっつきそうなくらい近づきささやいた。
「戸籍がないんです」
「え?」
 思いがけない答えに、みのりは戸惑って聞き返したが、そこではもう二度と彼は言わなかった。
 さまざまな答えを予想していた。どんな答えでも驚かないつもりだった。借金でも犯罪でも、夜逃げでも離婚でも……ありとあらゆる対応を考えていたのに、それは聞いたことがない言葉だった。
 牛丼屋を出て近くの雑居ビルの地下の喫茶店に入った。そこもまた、老人が数人いるだけだったが、みのりは一番奥の、誰もいない席を選んだ。関西の店らしく、朝はコーヒーを頼むと、卵とトーストがついてくる。みのりは断ったのに、彼はまたそれもがつがつと食べた。
 みのりはわかった。
自分は腹を空かしている人間を邪険にできないのだと。彼らに冷たくしたり、拒否したりを絶対できないのだと。それが自分の弱点なのだと。
 まずは腹を満たしてやろう。拒否するのはそれからでもできる。
「で、どういうことなんだい?」
「……戸籍がないんです。自分は」
「だから、それがどういう意味なんだい、って訊いているんだよ。戸籍ってあの、戸籍? 役所の? 紙に書いてある?」
 彼はトーストをほおばったまま、うなずいた。
「誰にも言わないでください。今まで話したの、一人か二人か……三人です」
 その中の一人は一緒に住んでいたこともある女性だったが、告白してから別れることになった、と言った。
「わかったよ。だけど、どういうことなの? 最初から話して」
 それで、彼は話してくれた。自分には生まれた時から戸籍がないということ。母はひどい暴力を振るう男と結婚していて、命からがら逃げてきたこと。その男に居場所を知られないために出生届を出すこともかなわなかったこと。住民票を移すこともなくいろいろな場所を転々としてきたこと。名前も本当に庄田なのか、よくわからないこと。十二歳くらいの時に大阪にやってきたこと。戸籍がないのでちゃんとした職にも就けず、学校に行ったこともないこと。頼んでも、母は父に見つかることを恐れて戸籍の申請をしてくれなかったこと。十七の時、戸籍のことで母を責めて喧嘩になり家を出たこと。それから十年後一緒に住んでいた動物園前駅のアパートに行ってみたけど、もうそのアパートごとなくなって駐車場になっていたこと。周りの人に聞いたら、その数年前にアパートで女の人が自殺したため、事故物件になって取り壊されてしまったこと。その女は聞いた限りでは自分の母親と年格好が似ていたこと……。
 底なし沼のような話に、みのりは思わず話をさえぎった。
「役所に相談してみたことはあるの?」
「……一度行ったことはあるんですけど……」
「どうだった?」
「なんか、警察を呼ばれて」
「え?」
 翔太の話は要領を得ないが、みのりが何度も聞き返して把握した限りでは、いろいろ話しているうちに役所の職員が翔太に外国人ではないかと疑いの目を向けてきたので思わず大きな声を出してしまったらしい。それで他の職員も集まってきて、恐怖を覚えた翔太はそこから出ようとした。職員が彼の服を引っ張り、それでどちらからともなくつかみ合いになって、相手を一発殴ってしまった。
「それから行ってません。もしかして、捕まるんじゃないかと思って……」
 彼の恐怖の原因がうっすらとわかった。
「なるほど。だけど、そんなことじゃ、もう捕まらないと思うよ。あんたが悪いんじゃない」
 しかし、彼は恐ろしげに、目をきょろきょろと動かした。
「なるほど」
 どう言っていいのかわからなくて、みのりはまたくり返した。
「どうしたらいいのかねえ」
「仕事を……」
「仕事ねえ」
「それだけ紹介してくれれば別にいいんです。何もしてくれなくても」
 彼はそう言ったが、みのりは見捨てることができないような気になっていた。
 もう、彼は満腹のはずなのに。
 もしかしたら、本当に空腹なのはみのりだったのかもしれない。
(第10回へつづく)

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原田 ひ香Hika Harada

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『三人屋』『復讐屋成海慶介の事件簿』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』『三千円の使いかた』などがある。

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