双葉社web文芸マガジン[カラフル]

まずはこれ食べて(原田ひ香)

イラスト:唐仁原多里

第4話
涙のあとでラーメンを食べたものでなければ

 カチ、カチ、カチ、カチ。
 かすかだけど澄んだ音が夕暮れの山頂に響く。
 百田の登山は、まずはこの、火打ち石と火打ち鎌がぶつかる、小さな音から始まると言っても大げさではない。
 もちろん、登山道を登っている過程も好きだし、それこそ、登山の王道だということは百も承知だが、この音を聞くと「山に来た」喜びがひしひしと身の内に打ち寄せてくる。
 かすかな火花が散ったあと、火打ち石と一緒に持っていた火口(蒲の穂)に着火したものを付け木に移した。集めておいた、乾燥した木の葉や枝の上に落とすと、大きく火が広がった。
 この瞬間、さらに気持ちが高揚する。わくわく感から、心がふわりと放たれる感じ。
 ガスバーナーを使えばもっと楽にできるし、そうしている人の方が多いのだが、百田はこの過程が何より好きなのだ。
―――火を燃やすと気持ちが上がるなんて、俺、ちょっとやばいのかな。でも、火にこだわるのって、人間の本能な気がするなあ。
 火の上に比較的太い木の枝を渡して、いつも使っている、ぼこぼこのアルミ鍋に水を入れて沸かした。しばらく、火と鍋の水面を見つめた。
 湯が沸いてくると、お気に入りのカフェで買った、ドリップバッグでコーヒーを淹れた。簡単だけど、インスタントよりはマシだし、疲れが取れる。
 山の上の澄んだ空気の中では、その香りも格別に思えた。ここにくると、嗅覚のみならず、すべての感覚が敏感になるのは気のせいだろうか。
 コーヒーを飲み終わると、リュックから筧が持たせてくれた紙袋を取り出した。
―――何を入れてくれたんだろう。
 開くとまず、韓国のインスタントラーメン「辛ラーメン」の袋が出てきて、その上にメモが貼ってあった。
「鍋にコップ三杯ほどの水を沸かせてください。お湯が沸いたら、粉末スープを入れてください。」
 斜め右上に引っ張られるような、少し癖のある、でも、意外ときれいな筧の文字がぎっしり書かれていた。
―――筧さんの字、見るの、初めてじゃないかな。
 メモの通りに、湯を沸かし直し、スープの素を溶かした。
「溶けたら、野菜セットとウインナーを入れてください。」
 紙袋の中を見ると、さらに市販の野菜セット「もやしミックス」と、ちょっと有名なメーカーのスモークウインナーのパックが入っていた。

「ねえ、山でご飯食べるんだけどさ、何がいいかな」
 数日前、「ぐらんま」のキッチンで、用意されたご飯を食べながら筧に相談した。
「そりゃ、山って言ったら、おにぎり、玉子焼き、唐揚げ……」
 筧は指を折りながら答える。
「いや、そういうんじゃなくて。っていうか、昔はよくコンビニのおにぎり、持って行ったんだけど飽きちゃってさ。最近は、火をおこしてお湯を沸かせるし、簡単な料理、なんかできないかなって」
「できないかなって。あたしはモモちゃんがどのくらい料理できるのか知らないし」
「カレーやパスタくらいなら作れるよ」
 筧はとっくにモモちゃんと呼んでくれるようになっていた。
 実は、「ぐらんま」の中で、一番筧と仲がいいのは自分ではないか、と百田は密かに思っている。
 営業やらなんやらで席を空けることが多い他の同僚に比べ、いつも会社にいるし、ご飯も必ず全部食べる。
 最初の頃、「IT部屋に入ってくるのは勘弁してほしい」と言っていたことが少し恥ずかしいほどだ。これまで、どこか湿って臭う毛布が気楽だと思っていたのに、いつもふわふわの布団やきちんとベッドメイクされた寝具に潜り込むことの心地よさに目覚めてしまった。
―――これ、もしかしたら、結婚したり、彼女ができたりした時の気持ちかもしれない……。
 今では筧が部屋の掃除をしてくれることが本当にありがたいし、昼間、勝手に入ってきて起こしてくれることさえある。
 彼女が来てから作業効率が上がり、仕事がはかどっている気がする。いつも掃除が行き届いていて、よけいなものがない部屋というのは心が安らぐものだ。シャワーに入っても風呂場に変な黒ずみが付いていたりしないのがいい。
 時には「ちょっとモモちゃん、ひどい顔してるよ。お風呂沸かしてあげるからゆっくり入りな」などと、ぶっきらぼうだけど、気の利いた声をかけてもらうこともある。
 温かい湯に、疲労で縮こまった体がゆったりとほぐされていく時、ふと、俺、将来、他の会社とか立ち上げたりしても、いつまでも筧さんに世話してもらいたいなあ、と考えている自分に気がついて、それこそ、「やべえ」と思う。
 これ、まさに、ほとんど「彼女」いや、「嫁」じゃないか。
 いやいや、それ以上に、「他の会社を立ち上げたりしても?」
 そんなこと、今まで思ったこともなかった。
 何考えちゃってるの、俺。

 スープの素が溶けると、メモに従って、野菜を入れた。それが再び沸き上がってきたタイミングで、スモークウインナーを入れてゆでる。
「じゃあ、カップヌードルを作って、その残り汁におにぎり突っ込んで崩して、リゾット風に食べるのは?」
 筧がおにぎりの次に提案した。
「それ、料理じゃない。さすがにわびしいよ」
「山なんかじゃ、そのくらいがいいんだって。おいしいし」
「そりゃ、おいしいだろうとは思うけどさ」
「じゃあ、辛ラーメンを鍋風に食べたら? 韓国風の鍋になるよ」
「あ、それいいかも」
 その時、一通りの作り方と材料を教えてもらったけど、次の日から急に忙しくなってしまい、スーパーに行けなかった。
「材料は買ったのかい」
 顔を合わせるたびに訊かれても、顔を横に振ることしかできないような日々が続いた。
 この登山だって、ほとんど無理かと諦めかけていた。けれど、もう一カ月近くちゃんとした休みを取ってなかったし、アルバイト学生が頑張ってくれて、「ここまでできたら、あとは自分たちでやっておきますよ」というところまできた。
「ほらよ」
 昨夜、筧が紙袋を渡してくれた。
「何これ」
「山用のご飯の材料買ってきた。中に作り方とか、全部、書いた紙を入れておいたから」
 登山はともかく、ご飯はコンビニで買うしかない、と観念していたところだった。
「有難い!」
 思わず、筧を拝んでしまった。
「七百九十円」
 ぶっきらぼうに手を差し出す。
 こういうところがいいんだよな、と百田は思う。ちゃんと金を要求してくれるから甘えられる。
 それなのに、つい、財布から千円を差し出して「おつりいいから」と言ってしまった。
「ちゃんと、お釣りくらい用意してある」
 筧は赤いがま口を出して、小銭を百田の手に握らしてくれた。

 野菜が煮えると、やっぱりアルミの小皿に取って、口に入れた。辛みは強いが味がまだ薄い。
「野菜はそのままでは味が薄いと思いますので、塩胡椒をかけてください」
 筧の紙袋には、ちゃんと小袋に分けた「塩胡椒」が入っていた。さらさらと振りかけると、ちょうどよくなった。
 しかし、なんといっても、メインディッシュはウインナーだ。鍋から直接、フォークを刺すと口に運んだ。ぱりり、と音がして、肉汁が弾け飛ぶ。
「うめー」
 思わず、声が出た。ウインナーを辛ラーメンのピリ辛の汁が覆っている。香ばしさと辛みが食欲をぐいぐい攻めてくる。
―――あー、ビール飲みたい。持ってくればよかったー。
 百田は飲めるクチだが、食事の時に必ずアルコールが必要なタイプではない。それでも後悔せずにいられなかった。
 太めのウインナー五本はなかなか食べ応えがあった。最後の一本を残して、筧のメモを読む。
「ウインナーを食べたら、残りの乾麺と『かやく』を入れてください。四分煮たら、チーズと韓国のりをのせて溶けたところで食べて」
 チーズ? もうおしまいかと思っていた袋をのぞくと、確かに、シート式のチーズと韓国のりのパックが入っていた。
―――これ、ぜったいうまいやつ。筧さん、グッドジョブ。
 ほくほくしながら、乾麺を折って鍋にぶち込む。時計を見ながら四分煮て、チーズとのりを加えた。
 もう、小皿に取り分けるのももどかしい。箸を入れると、麺にチーズが絡んで糸を引いていた。鍋を引き寄せて、かき込んだ。
「あちー、かりー。でも、うめー」
 辛ラーメンにチーズとのりが利いている。悪魔的なおいしさだ。やっぱり、ビール持ってくるんだった、とさらに深く悔やむ。
 野菜、肉、締めの麺、チーズと栄養たっぷりのご飯を食べて、これほどお腹が満足できた登山は初めてだった。
―――これは筧さんに感謝しなきゃ。山を下りたら、なんかお土産を探そう。このあたり、ぶどうの産地のはずだからシャインマスカットでも奮発するかな。時期が悪いか。
 満腹のせいで、頭がぼんやりしてくる。ぱちぱちとはぜる火を見つめた。
―――体、めっちゃ、あったまったなー。
 こんな時、思い浮かぶことは一つだった。
―――柿枝。お前はいったい今、どこにいるんだ? 北海道って、寒くはないのか?

 百田は、小さい頃から、おとなしくて何を考えているのかわからない子、と言われてきた。
「何考えているかわからないけどね、あんたはいい子。頭はいいし、顔はいいし、手がかからないし。ちいちゃんが小さい時、どれだけ助かったか」
 母は今でもそう言う。ちいちゃん、というのは妹の知恵実ちえみで、六歳年下の彼女が生まれてから、百田はずっとこの妹にやられている。
 彼女が生まれた時、すでに物心ついていた百田にとって、小さくてかぼそくて「えーんえーん」とアニメの中に出てくる赤ちゃんと同じ声で泣く妹は何よりも守るべき、愛しい存在だった。小学校に行くようになっていた百田には、母が取られるさびしさもそれほどではなく、ただただ庇護する対象だった。生まれてからずっと、妹に頼まれたことはなんでもしてあげたし、すべて譲ってきた。
―――あれが悪かったんだなあ。
 今では妹は暴君で、実家での家事は百田の仕事だし、誕生日には彼女が指定したのと寸分違わぬものを買わないと泣くし、百田が家にいれば車で駅まで送れと言う。中目黒の百田の部屋は、仕事で会社に泊まることが多いことも相まって、ほとんど妹が使っている。
「お兄ちゃん!」とドスの利いた声で呼ばれるたびに、もう、自然に腰が上がっている。何かさせられることは確実だから。
 まあ、彼女が生まれてから二十四年、ずっとその状態なので、特に不満を感じたこともない。
 埼玉の、池袋から三十分ほどの実家に、親子四人暮らしてきた。なんと言うか「普通の家族」だ。人生も家族も、「ザ・普通」。
 姉妹でマウンティングしあっている胡雪の家族関係や、マイカの壮絶な子供時代、ずっと体育会系の部活でエースだったというきらきらした伊丹の青春などを聞くと、「ひえええっ」と思う。感嘆と驚愕、恐怖をこめて。いや、妹の尻に敷かれている百田の人生の方が、向こうから見たら「ひえええっ」と言われるかもしれないけれど。
 母の知子ともこに「いい子」と言われて育ったから、自分のことを卑下したりはしなかった。ただ一点、なぜか、友達はなかなかできなかった。自分から人に話しかけるのが苦手で苦痛で、高校時代にはついに一人も友達ができずに終わった。
 結構、成績は良く、そこそこの進学校だったから、いじめられたりはしなかった。ただ、なんとなく、放置されていた。というか、教室で誰にも見えない透明の存在だった。
 高校を卒業して大学に入る時、次は絶対に友達を作ろう、と思った。学生時代というのがあと四年間しかないのなら、自分ができる限りの努力をしようと。
 ただ、その努力の仕方がよくわからなかった。
 各自、それぞれの授業を取る大学では、さらに友達を作ることがむずかしい気がした。
 ところが、その機会は向こうからやってきたのだ。
 柿枝という形で。
 子供の頃、理工学部に行っていた従兄のお兄ちゃんが大学で使ったポケコン(ポケットコンピューター)がおもちゃ代わりに百田の家に転がっていた。従兄が簡単なゲームをプログラミングすることを教えてくれ、それで、ゲームを作って遊んだ。這っているゴキブリを潰すゲームを作って一人で没頭した。
 大学は理系の学部に進むことも考えたが、両親の勧めで経済学部に入ったら、「友達」が向こうから話しかけて仲間に入れてくれたのだ。以来、彼らの中のIT部門として存在している。起業してもほとんどその関係は変わっていない。

 山頂の広場に、小さな一人用のテントを建てた。
 今のキャンプ用品はよくできているから、慣れていればほんの数分で建てられてしまう。
 テントの中に入ろうかな、と思ったけど、まだたき火がちろちろと燃えているのでそれは後回しにして、テントの前に置いたイスに座ってそれを見守ることにした。これもまた、大好きな瞬間だった。
 火を見るということだけじゃない。燃えている枯れ木や山の天気に合わせて行動する。自分の予定が、自然に左右されている、と思う瞬間がなぜかたまらない快感を呼び起こす。
 一人で山に登り、一人で飯を食べ、一人で寝る。
 それは究極の自由なようでいて、環境に大きく左右される。
 仕事ではいつも自分が決めて、自分が指示を出す。いつも自分の頭で考え、計画し、アルバイトに教える。それが、ここでは常に自然に翻弄される。
―――ああ、妹の知恵実には手を焼かされるがな・・・・・・。あれも自然の一部かな。
 くっくっ、と思い出し笑いしてしまう。
 その妹にも最近、彼氏ができたようで、さすがにいつも兄を頼ってくるばかりではなくなった。心から良かった、助かった、と思う。
 妹や姉の彼氏に嫉妬する兄弟というのが時々マンガやアニメ、物語に描かれるが、いったい、どこの世界の話なのか、と百田は思う。妹の彼氏にはただただ「申し訳ない。あんな妹とつき合ってくれて有り難い」という気持ちしか沸かない。
 山にいる間、スマートフォンは持ってきていてもパソコンは持ってきていない。電源は数時間ごとに入れてチェックするだけで、ほとんど切っている。 
 仲間や家族にはネット時代の申し子のような存在だと思われているけれど、こうしてどこともつながらない場所にいると本当にほっとする。

「この会社を売るって言ったら、モモちゃん、どうする?」
 数日前、田中からそっと打ち明けられた。
「え?」
 仕事が忙しくて、この登山の予定も立てられていない時だった。明け方、白々と夜が明けた頃眠り、一度仮眠を取ったあと、昼前に起きようと目覚ましをかけて寝た。
 ふっと目が覚めると、足下に田中が座っていた。
「田中?」
 彼はスーツを着ていた。背中を丸めるようにしてぼんやり前を見ていた。
「うん」
「どした?」
 目をこすりながら枕元の時計を見ると、まだ、朝の六時過ぎだった。
 その時計の針を見ていると、じわじわとことの異常さが身にしみてきた。
 まず、田中がこの時間に会社にいることがおかしい。スーツを着ていることがおかしい。普段、ほとんど入ってこないこの部屋にいることがおかしい。さらに、黙って足下に座っていることが……もう、おかしいを通り越している。知恵実なら「キモい」と言っているところだろう。小さなことだが、田中の尻が布団を通して、自分の足の甲に当たっているのも、不思議な感覚だった。
 何があったんだ。
「起こして、ごめん」
 彼は礼儀正しく、頭を下げて謝った。そういうところはいつもと一緒で、ちょっとほっとした。
「どした」
 もう一度、同じことをくり返す。さりげなく、足の甲を彼から離した。
 その時彼が言ったのだ。この会社を売るって言ったら、モモちゃん、どうする? と。
 その言葉にも驚いたし、状況にも驚いているし、とにかく、頭が整理できなかった。百田はそこでやっと半身を起こした。田中と向き合う。
「わかんない」
「え?」
「わかんないよ。そんなこと、急に言われても」
「ああ、そうか。ごめん」
 田中はまた素直に頭を下げる。
「実は前々から何社かから申し出はあったんだ」
「売らないかって?」
「そう」
 そんなこと、初めて聞いた。
「悪くない話でもあった」
「待て待て、会社売るってどういうこと?」
 そのあたりでやっと頭が動き出してきた。
「売るっていうのは、売るってことさ。今までやってきたことをお得意さんごと、権利を委譲するっていうか」
「ここで働けなくなるの?」
 小さな悲鳴のような声を出してしまった。
「それは、契約次第。だけど、モモちゃんが好きなようにしていいよ。逆に、軌道に乗るまでしばらくはここに拘束される可能性の方がある。特にモモちゃんは。けど、やめたいなら譲渡金額を減らしてできるだけ早く離れることにしてもいい」
「してもいい、ってもうそこまで話が進んでいるの?」
 なんだか、急に突き放されたような気になった。肩甲骨のあたりがすうっと冷たくなった。
「違うよ。これは一般論。普通、会社を売却したらどうなるかってこと」
 少し安心した。さらに体を起こして、田中の隣に座った。足先が冷たいのは精神的なものじゃなくて部屋が寒いからだった。彼はスーツだから問題ないようだけど、百田はパジャマ代わりのジャージだ。
「まだ、誰にも話してないんだよ。モモちゃんだけに言うんだ」
 思わず、眉をひそめた。
「そういうの、好きじゃないよ」
 向こうは取っておきの情報を話してくれるつもりなのかもしれないけど、皆に秘密を持つのは大嫌いだ。
「だよね、ごめん」
 田中は素直に謝った。それで、彼が百田の気持ちを引くためにそんなことを言ったのではない、ということがわかった。
「ただ、どうしたらいいかわからなくてさ。最初にそういう話があった時は別にどうとも思わなくて、自分たちもそこまで来たんだなあって思ったくらいですぐに断ったんだけど、このところ、そういう申し出が一気に二つ三つあって」
「へえ」
「なんだか、自分一人で抱えているのもどうかと思って。皆に相談した方がいいとは思ったんだけど、でも、胡雪とかにどう話していいかわからないし。やっぱり、モモちゃんが一番影響受けるだろうし」
「でも、皆いっぺんに、話してくれればよかったのに」
 自分にだけ話すなんてやっぱり嫌だよ、と思う。
 こういうところ妙に潔癖なのは、子供の頃からなかなか友達ができなかったからかもしれない。
「ごめんね。でも、本当にここ数週間の間のことなんだよ」
「そうか」
「どう言おうかって迷っているうちにさ」
 そこから先は言わなくてもわかった。柿枝だ。彼の妹がここに来たことによって、さらに田中は伝えるのが難しくなったのだろう。
「会社を売却することによって、皆、一定時期を過ぎれば、この会社に縛られることはなくなる。もちろん、お金も入るし、好きなことができる……」
「縛られる」
 思わず、くり返した。縛られているって誰が?
 自分か、伊丹か、それとも田中自身のことか。それとも、柿枝のことか。
「もういいよ」
 さらに言葉をつなごうとしている田中を遮った。あまりしないことだから、自分でも驚いた。
「それよりもどうしたんだよ、朝からスーツなんて」
 もう、売却のことは聞きたくなかった。よく見ると、彼の顔には無精髭が生えていて(そんな顔を見るのはほとんど初めてと言っても良かった。一度、一緒にキャンプに誘った時にも、朝一に起きて、きちんと髭を剃る男だった)、スーツの背中の部分にしわが寄っていた。かなりしょぼくれた感じだった。
「飲みに行ったんだ。接待。お得意さんと」
 田中は下を向いたまま、ぼそぼそと話す。
「いつ」
「今夜」
 正確には昨日か、とつぶやく。
「そしたら、そのお得意さんが知らない男を連れてきてさ。そこから会社売却の話が出て」
「うん」
「実はその後のことをあんまり覚えていないんだ」
「ええ?」
「話し合いが終わった後、一人で飲みに行って……あ、ごめん、モモちゃんは働いていたのに」
「いいよ、そんなことは」
 本当に、心からどうでもよかった。百田は飲みに行くより、ここに……会社にいたい人だったから。
「気がついたら、ここに座ってた」
「ダメじゃん」
 田中も苦しんでいるんだな、とわかった。
「うん」
 顔を見合わせて少し笑った。

 ふと気がつくと、火が消えていた。
 また火付け石でおこそうか、一応持ってきているライターを使おうか、それとも、もうやめようか。
 しばらく何もせず、ぼんやり考える。
 少し風が出てきたようだ。木々の間を抜ける、風の音が聞こえる。それに耳を澄ましていると、ゆっくりと心が凪いでいく。
―――やめとくか。
 火のない場所はすぐに冷えてくる。
 山頂の広場には他にいくつかのテントがぽつりぽつりと見えた。数人のグループで来ている人たちもいたし、百田のように一人きりのもいる。すでに電気が消えているテントもあった。
―――おれもそろそろ寝ようかな。
 たき火に水をかけて、完全に消火したのを確認してテントに入った。
 寝袋に入って寝ころぶ。
―――ああ、この時間がまたいいんだよなあ。
 小さくなったリュックを頭に当てて、仰向けになった。今の季節は虫の声もない。遠くでぼそぼそと人が話しているような音がしている。いや、それも空耳かもしれない。風の音かも。集団で来ている人のテントは少し遠かったから。百田自身が彼らを微妙に避ける位置に陣取ったのだ。それなのに、今はその音が声だったらいいと思う。
 孤独が嫌なのではない。ただ、人が話している声が聞こえたら、よく眠れるような気がした。
―――もしも、本当に田中が会社を売ったらどうする?
 会社がなくなるなんて、考えもしなかった。大学を卒業してからこれまで。
 いや、田中が売る、という言い方はおかしいか。会社は皆のものだし、彼は必ず、皆に意見を聞いてくれるはずだ。
―――だとしたら、柿枝にはどう報告するのだろう。彼に確認を取らなくていいのか。でも、どうやって彼を捜すのだろう。田中が柿枝になんの許可も取らないでことを動かすわけないよな。もしかして、田中は何か知っているのだろうか。だから、言い出したのか。いや、実は、田中と柿枝はずっと連絡を取り合っていたりして。おれらの知らない場所で。だったら、どうして早く教えてくれなかったのだろう。田中は何か他のことも隠していたりするのか。
 その可能性について、今までなんで気がつかなかったのか。
 思考が負に傾き、慌てて起きあがった。それだけでは今生まれた不安や不信は消えず、わざとらしく頭をぶんぶんと横に振った。少し頭痛がするくらい回して、やっとおかしな邪推がなくなった。

 山はこれが怖いんだ、と百田は思った。一人でいるから、妙に偏った考えが浮かんでくる。息を深く吸い込んで一気に吐き出す。胸の中の邪念を吐き出すように。
 これは昔、なぜか胡雪と一緒に行ったヨガ教室で習った方法だった。
―――あれは……柿枝がいなくなった頃だったな。
 いつものように百田がパソコンのキーを叩いていると、胡雪が部屋に入ってきたのだ。
 彼女は黙って百田の(実際には会社の、だが)ベッドに座って、不機嫌そうな顔でじっとこちらを見ていた。部屋には百田の他、誰もいなかった。
 その視線に気づきながら、見て見ぬ振りをしていた。相手をするほど暇じゃなかったし、いろいろ面倒くさそうだったし。
「モモちゃん、姿勢悪い」
 胡雪は仏頂面で言った。
「そう?」
 そこまで言われたら、応えないわけにもいかない。
「毎日、パソコンに向かってさ、体に悪くない? 肩こりとかない?」
「そりゃ、なくはないけど……」
 あまり通えていないけど、スポーツクラブの会員でもあったし、時には運動もしている。実際にはそう不具合を感じたことはなかった。
「まあ、こんなもんかなって」
 百田はたいていのことは「こんなものかな」と受け入れている。他の身体、他の自分を知らないし。
「こう!」
 いきなり胡雪が右腕を上げて、左手で右肘を取った。
「え?」
「こうして、こう!」
 百田が戸惑っているにも関わらず、同じことをさせようとする。
「こうやって肘を引き寄せると、肩首周りの血行が良くなるから!」
 腕を上に上げたまま、「ね? ね?」とこちらに迫ってくる。
「いや……」
 正直、ありがた迷惑だった。
 狭い、ちょっと薄暗い部屋に女の子が入ってきて、胸がつきそうなくらい近い距離で運動をする……。もしかしたら、他の女子、気になっている相手とかなら少しドキドキするシチュエーションなのかもしれないが、胡雪にそういうものをまったく感じていなかったし、むしろ不快なのだった。
 彼女は友達で、そういう気持ちになりたくなかった。結構、大きな胸が強調される姿勢を見ていると、おかしな気持ちになりそうで、自分も胡雪も嫌だった。
 仕方なく、パソコンから離れるふりをして後ろに下がって距離を取ると、胡雪と同じ動作をした。
「ね?」
「ねっ、って……」
「気持ちいいでしょ?」
 確かに、そうすると、肩周りのこりがほぐれて、身体が暖まって来たような気がした。
「モモちゃん、今度、一緒にヨガ行こうよ」
「ヨガ?」
「そう。今、週一で習ってるの、私。モモちゃんも行こうよ。すごくいい先生なんだ。やっと見つけたんだから。身体だけじゃなく、頭も心もすっきりするよ」
 だったら、なんで、この頃ずっと機嫌が悪い……というか、感情的なんだよ、と言いたいのをこらえた。柿枝がいなくなってから、すぐに涙ぐんだり、怒ったりするようになっていた。
「いや、おれは……」
 断ろうと口を開いて彼女を見ると、もうそれを予感しているみたいに悲しそうな顔をした。肘を上に上げたままで。それを見たら否定できなくなった。
「……はい」
「行く?」
「うん」
「よかった!」
 やっと胡雪は腕を下ろし、わざとらしいくらい喜んだ。尻を浮かせて小さく拍手するくらい。
「私、ずっと気になってたんだあ。モモちゃんが不健康な生活しているなって。一日中、会社にこもりきりにさせて申し訳ないなって」
 当時はまだ本格的に登山は始めていなかった。
 いや、気にしなくていいから、と言いたかったがやっぱり我慢した。
 百田でも、胡雪が喜ぶのは悪い気はしなかったし。一回くらいヨガに行くだけで、このところふさぎ込んでいる彼女を元気づけられるなら。

 確かにヨガは悪くなかった、と百田は振り返る。
 レッスンは金曜の夜だった。場所は中目黒の一角の雑居ビルの中で、二十人ほどの生徒が集まっていた。女性ばかりでなく、少ないけれど男も交ざっていて、気まずい思いをすることもなかった。
 胡雪はちゃんと専用のヨガウエアらしい、Tシャツとスパッツを身につけていたけれど、百田は手持ちのジャージでしのいだ。
 どこかの新興宗教のように座禅を組まされたり、「あーうーんー」とマンダラを唱えさせられたりした時は、「あれ、ここ、やべえ場所なのかな」と不安になったが、それ以上の宗教っぽさはなく、気がつくとじっとり汗をかいて自分の気持ちに集中することができた。何より、いつも何かを考えて自分で行動することが普通の日々で、人の言うなりに行動することの気持ちの良さというものを感じた。
 まあ、先生が「一時間後には新しい自分に生まれ変わっています」というほどの効果があったかは別だけど。
―――ヨガも登山と同じで頭を空っぽにして自分以外の力に身をゆだねるのが悪くないんだよね。あんなことがなかったら、たぶん、もっと通っていた。
 その後、百田が一人登山にのめり込むようになったのは必然だったのかもしれない。
 教室が終わるとどちらともなく、自然にちょっと飲んでいこうか、ということになった。胡雪の案内で中目黒の駅前のレモンサワーが評判の店に入った。「前に雑誌で見てから気になってたんだ」ということだった。
「せっかく運動したのに、なんの意味もないね」
 お約束の言葉を言いながら、二人ともまずビールで乾杯した。彼女が店の人に相談しながら、店のスペシャリテの肉のグリルの盛り合わせだとかバーニャカウダだとかを注文した。
「えっと、グリルに添えられた焼き野菜の種類は何? え、ポテトと人参とクレソン? ポテトはどこの? え、わかんないの? じゃあ、他の糖質が少ない野菜に替えられない? あ、ブロッコリーならあるの? それにして。人参は……まあそのままでいいか。バーニャカウダの野菜もできるだけ無糖質がいいな。あ、赤大根は好きだから少し多くできる? じゃあ、レンコン少なくしていいから……」
 胡雪のリクエストは果てしなく続いた。百田は好き嫌いがないし、妹と一緒にいて、女の子の好みに合わせるのには慣れていたから、ずっと横でにこにこしながらそれを見ていた。すると、「彼氏さんはこだわりないんですね」とその店員さんが笑いながらいじってきた。
「彼氏じゃないから。ただの友達」
 二人で声を合わせて否定した。
「そうなんですかあ。てっきり付き合っているのかと思いました。彼氏さん、優しそうだなあって」
 胡雪とこんなに落ち着いて二人で食事をしたのは初めてだった。会社内で買ってきた弁当を食べたり、皆で飲みに行ったりしたことはもちろん、何度もあるけれど。
 長い注文のあと、他愛ない話をしながら、レモンも中に入っているウォッカもソーダ水も、すべて特製のレモンサワーを三杯ずつ飲んだ。
「今夜、モモちゃんちに行っていい?」
 胡雪がとろんとした目でそう言ったのは、三杯目のサワーの氷が溶け始めた頃だろうか。
「え」とか「えええ?」とか百田が答える前に、「実家まで帰るのが面倒なんだもん」と彼女は早口で付け加えた。
 確かに、中目黒と恵比寿の間の坂の途中にある、百田のマンションには歩いて帰れる。彼女の郊外の実家よりは楽だ。
「いいけど、妹がいるかもよ」
「ぜんぜん、かまわない。ソファで寝かせてくれればいいから」
 彼女は瞬時に答えた。
「モモちゃんの家、行ったことないし」
 少し迷ったけど、会社でなら何度も同じ部屋で寝たこともあるし、大丈夫だろう、と連れて帰った。
 幸か不幸か妹はいなかった。
 居間のソファに向かい合って座った時には気まずさもあったが、妹のジャージを出してやると、すぐにシャワーを浴びて寝てくれた。
 異変に気づいたのは夜中のことだ。
 ふっと目が覚めると、胡雪が百田の背中にぴったりと身を寄せていた。
―――よくよく寝込みを襲われる、いや、寝込みに不意を突かれる体質なのかな、俺。そういうことされるのは、どこかこっちに問題があるのだろうか。 
 彼女が百田の寝室にいつ入ってきたのかわからなかった。ただ、すすり泣いていて、背中の肩甲骨あたりが湿っているのがわかった。

―――あの日、おれはどう行動するのが正しかったんだろう。
 翌朝、重いリュックを背負って歩きながら、百田はずっと考えていた。
 昨夜はよく眠れなかった、と言いたいところだけど、万年寝不足、子供の頃から寝付きだけは良かった体質で、背中にいた胡雪の暖かさとか湿った感じとかを思い出しながら、すぐに眠ってしまった。
 あの日、胡雪はしばらくすると離れていって、居間のソファに戻った。
 はっきりはわからないけれど、たぶん、胡雪は百田が起きているのに気がついていた。百田が起きていても気がつかないふりをしているのに、気がついていた。百田は胡雪が気がついているのに気がつき、さらに、胡雪は自分が気がついていると百田が気がついていることに、気がついていた。
―――ああいう時の対処法を教えてくれるソフトがあったら、開発者はノーベル賞とれるんだろうなあ。
 あれから、胡雪と二人で出かけたことは一度もない。
 朝、起きると、彼女は消えていた。
 ヨガに行ってご飯を食べたことも夢だったんじゃないか、と思うくらい、見事に跡形もなく、いなくなっていた。
 ただ、ヨガのために持って行ったジャージがいつも持ち歩いているトートバッグに入っていたので、現実だったんだ、と信じることができた。
 あの日のことを彼女と話したこともないし、気まずくなったりしたこともない。翌月曜日に顔を合わせると、普通に「おはよ」と言ってくれ、前と同じ関係が続いた。
 でもまあ、自分の対処の仕方も悪くなかったんじゃないか、とも思う。
 あの時、何があっても良いことにはならなかっただろうし。
 いや、もしも、あの時の温かい彼女を抱きしめていたら、今頃は……。
「ああ、もう、やめやめ」
 思わず声を出して、また、首をぶんぶん振って邪念を追い出す。そのくらいしないと消えないほどの妄想だった。
―――なんか、新しいことを考えよう。胡雪のことなんて考えていると、よけいややこしくなる。
 本当はせっかく来たのだから、登山道に集中した方がいいのだろうが、今日は何か考えないと胡雪の亡霊から逃れられそうになかった。いや、彼女を霊とするのは失礼か。
 空を見上げる。今朝は少し曇っている。そのせいで寒いけど、空気が湿っていて歩きやすい。
 森の木々の間に雲のように霧がかかっているのをぼんやり見ながら歩いた。
(第8回へつづく)

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原田 ひ香Hika Harada

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『三人屋』『復讐屋成海慶介の事件簿』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』『三千円の使いかた』などがある。

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