双葉社web文芸マガジン[カラフル]

まずはこれ食べて(原田ひ香)

イラスト:唐仁原多里

第3話
石田三成が昆布茶を淹れたら

 なぜ、こんなにいつも人生は楽勝なのか。
 伊丹大悟いたみだいごは六本木の街を歩きながらしみじみ考える。
「ぜひ、うちの会社に来てください」
 その街にある、IT企業の最終社長面接を受けてきたところだった。相手はマスコミにもよく出てくることで有名な経営者だ。偽物のような大きな目でじっと見られた時には、自分が森の中で射すくめられた小動物になったような気がしたけれど、それを素直に告白したら、とたん、彼は破顔した。
「やっぱり、僕の顔、印象悪いかなあ」
 彼は頰をなでながら尋ねてきた。
「目が大きすぎて怖いとか、何もかも見透かされそうとかよく言われるんだよね」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
 伊丹は思わず、手のひらを彼の方に向けるようにして、否定した。実際、彼はむしろ、ハンサムと言ってもいいくらいの容姿だったし。
「ちょっと緊張してしまって。顔がっていうより、やはり社長のこれまでの功績を存じ上げてますから」
 それは本心だった。彼にも通じたのか、その後の面接はスムーズに進んだ。
 どこで育ったのか、大学では何をしたのか、何が好きで何が苦手なのか、今、学生時代の友達と起業した会社「ぐらんま」ではどんなことをしているのか……そんなことを話しているうちに、伊丹はもう、面接というより、年上の話しやすいお兄さんに人生相談をしているかのようにリラックスして、楽しい時間を過ごした。
 やっぱり、一代であそこまで会社を大きくした人は違うな……伊丹は感心しながら思い出した。
 他の人たちが、どうしてそんなに就職や営業に苦労するのか、伊丹にはよくわからない。皆、もっと気楽に挑めばいいのに。緊張しているならそれを素直に認め、不安があるなら相談すればいい。こちらがオープンマインドにならなくて、どうして向こうも気を許してくれるだろう。それでダメなら、いずれにしてもうまくはいかない。緊張しっぱなしで気を遣って話したって、ダメな時はダメなのだ。万が一、入社できたって楽しいわけがない。
 こちらと合う人とだけ付き合えばいい。そんなふうに思ってきたし、それでこれまでやってこれた。うまく行った時と行かない時の割合は半々くらいだったが、営業にしろ面接にしろ、十分な成功率だろう。
 社長は、「ぐらんま」についても熱心に話を聞いてくれた。
「いいね、その会社、僕も買いたいくらい」
 一瞬、こちらをのぞき込んできた目が鋭い光を放って、冗談めいて言いながら、彼が本気なのがうかがえた。
「光栄です」
「だけど、これからじゃないか。ここまで努力してきて、やっと苦労が報われるところまできたのに、どうして転職しようとしているの?」
 そこで、伊丹はその日、唯一の噓をついた。
「なんか、軌道に乗ってきたら、もういいかなって思っちゃって」
 目をそらせたのを気づかれないように、頭をかいて見せた。
「君、もしかして、飽きっぽい?」
「いや、中学でも高校でも大学でも、部活は最後までやり遂げましたし、そういうことはないと思います。ただ、別の場所で挑戦してみたいし、大きなところでやってみたいって考えるようになったんです。それには、この三十っていう歳が一つの区切りかなって」
「平成最後の年だしね」
 彼の方がそう助け船を出して、笑ってくれた。次の瞬間、顔を引き締めると、「僕としてはぜひ、伊丹君に来て欲しいです。でも、本当に、うちに来る気ありますか? 君、最後のところで迷っているでしょ」
 図星を指されて、とっさに返事できなかった。唯一の噓を見透かされている気がした。
「君は自分で言っているよりも、いや、思っているよりも、『ぐらんま』に愛着を持っているし、大切に思っているよ。それが最後に退社の足止めになるんじゃないだろうか」
「いや、そんなことないと思いますが……」
 否定したものの、声は小さかった。
 本当にやめる気になったら、連絡しておいで。そう言って、秘書の名刺を渡してくれた。

 さまざまなことをなんなくこなしてきた伊丹でも、初期の「ぐらんま」の営業はさすがに手こずった。
 何よりむずかしかったのは、医者のアポイントを取ることだ。
 まずは、古風に電話帳を使って一件一件、町の医院やクリニックと呼ばれる場所に電話してみたが、当然、どこも門前払いだった。田中、伊丹、胡雪が三人掛かりで一日中、電話をかけ続け、一件の約束が取れればいい方だった。(当時も、モモちゃんは会社のHPや最初のシステムを作っていた)。
 そして、その一件でさえも、伊丹が病院に赴くと、とっかかりの説明が始まったところで「あー、もう、時間ないんで」と追い返された。
 もちろん、「では、次はいつならお時間いただけるでしょうか」と懇願してみても、「またこちらから連絡する」と言われたきり、二度と返答はなかった。
 ある程度、苦戦は想像していた。どんなことをしても頑張ろう、石にかじりついてでも契約を取ろうと言っていた仲間も、少しずつ疲弊していった。
 若かったし、覚悟はできていたけれど、わずか一ヶ月で胡雪が弱音を吐いた。
「なんか、目がちかちかする」
 夕方になると彼女が言った。当時、まだ「ぐらんま」は、一人暮らしの田中の部屋で、食卓のテーブルやこたつを使って仕事をしていた。
「そりゃ、細かい数字をじっと見てるとな」
 伊丹がなぐさめるような顔で言うと、首を横に振った。
「そういう感じじゃなくて、なんて言うんだろう」目をつぶった。「気持ち悪くて、電話帳のページの間にゲロをぶちまけたくなる」
 皆、薄く笑った。同じように感じていたから。
「それから耳。家に帰っても、耳の奥から音が取れないの。ずっと『ルルルル、ルルルル』って呼び出し音が鳴っている」
 田中は黙って立ち上がり、キッチンで人数分の昆布茶を淹れて戻ってきた。
「もう、不可能な気がするの、あちち」
 昆布茶をすすって彼女が言った。猫舌の伊丹はまだ、口をつけてなかった。なんで、昆布茶ってこんなにいつも熱いんだろう、と思いながら。
「どういう意味?」
 胡雪は湯呑みの中を見つめながら嚙みしめるように言った。
「画期的なシステムだと思うし、健康保険の節約にもなる。だけど、結局、お医者さんにはなんの得にもならない話でしょ。検査料や初診料はあまり取れなくなる。それなのに、プライバシーや情報の流出の危険性は常に高い。さらにお金もかかる。最初の初期費用、めっちゃかかる。それを、私たちのような学生に毛が生えたような人間にやらせる……ありえない」
 あの日、柿枝はいなかった。毎日、毎日、地道に電話をかけ続ける作業なんて彼にはできず、何かと理由をつけて、とっくに逃げ出していた。実際、彼を電話口に縛っておくより、外をふらふらさせておく方がずっと効果的だったし。
 だからこそ、皆は本音を話し出したのかもしれない。柿枝に乗せられてここまできてしまったけど、本当は不可能なことなのじゃないかと、我に返ったのだ。
 ふと気がつくと、田中が何かを一心不乱に書いていた。
「何してんだよ、田中」
 彼は顔を上げた。
「じゃあ、何がいいんだろ?」
「え?」
「何がこのシステムの取り柄っていうか、目指すところなんだろ」
 田中は書いていたものを皆に見せた。胡雪の言葉を箇条書きにメモしていた。
・収入の減少×
・プライバシーの流出のリスク×
・初期費用×
・我々の信用×
「この×は?」
「これは医者から見た、『ぐらんま』システムのマイナス要因」
「なるほど」
「じゃあ、プラスの要素は?」
「……ないね」
 モモちゃんが小さい声でつぶやいた。
「何もない。患者さんからしたら、良いこといっぱいあるけど」
「それだ! それだよ、どうして気がつかなかったんだろう」
 田中が座っていた椅子から立ち上がり、頭を手で叩いた。彼がそんなに感情を爆発させることは少なかった。
「それで行こう」
「どういうこと?」
「とにかく、患者さん重視という視点で営業をかけるんだ。これは『患者さんのためなんです』『患者さんの利益になることなんです』『患者さんの大きな負担軽減になります』。それを二言目にはくり返すんだ。それで嫌がられたり、切られたり、断られたら、別にいいじゃないか。ダメなら、この国には患者のことを考えている医者はいなかった。それでいいよ。もう諦めよう。だけど、きっと、患者のことを第一に考えてくれる医者はどこか……」
「どこかにいるよ、きっと」
 伊丹は思わず、彼の言葉を取り上げた。
「絶対、必ず」
 本心からそう思ったのだ。励ましやお世辞でなく。
いつもぼんやり笑っている田中が真顔になり、めずらしく、ハグしてきた。伊丹は多少戸惑いながら、彼の肩を叩いた。
「それで行こう。それでダメなら、きっと気が済む。確かにそんな気がする」
「なるほどね」
「わかった」
 胡雪とモモちゃんもうなずいた。
 今思うと、あの田中もよっぽど弱って、不安になっていたのだとわかる。だから、伊丹の賛成が嬉しかったのだろう。
 彼はその三つの言葉を大きく箇条書きにして、壁に貼った。
・患者さんのためなんです。
・患者さんの利益になることなんです。
・患者さんの大きな負担軽減になります。
「迷ったら、この壁を見るんだ」
 その日がターニングポイントになった。
 田中が苦肉の策で言い出したことだが、思いの他、効果があった。「患者のため」と言われて無下に断れる医者はいない。ちゃらちゃら遊んでいるような医者でも、尊大でこちらを見下しているような医者でも、その時はほんの少し真顔になる。最終的に契約まで至らなくても、アポイントを取れたり、話だけは最後まで聞いてもらえるようになった。
 実際にはもちろん、最初の契約が取れるまで数ヶ月、さらに最初の大型契約である「長谷川クリニック」の契約をもらうまで、一年以上の年月がかかった。
 その間、お互いの「つて」―――自分たちの家族や親戚、両親の友人―――などから医者の知り合いを紹介してもらったり、話を聞いてもらったりした。
 外に出ずっぱりの柿枝はどこからともなく、銀座や六本木の、若い起業家ばかりが集まるバーの情報を仕入れてきて、田中や伊丹とともに夜な夜な通った。そこにいる誰彼となく仲良くなって、自分たちの起業内容を話したり、若い医者を紹介してもらったりした。
 そうして、ほんの少しずつ、「ぐらんま」は顧客を増やした。

 新しいことをやってみたい、と言ったのは、半分本当で半分噓だった。
 本当の本当の、真の理由は、婚約者の後藤愛菜ごとうあいなの両親に、「結婚するならもう少し大きな企業で」と難色を示されたからだ。
 いや、実際には、彼女の両親からの提案かどうかはよくわかっていない。直接言われたわけではないから。ただ、愛菜から「両親が反対している」と伝えられた。もしかしたら、彼女自身の希望が多分に入っているのかもしれない。
だい君の人柄は、パパもママもすっごく気に入っているのよ」 
 彼女は、大悟をだいくん、と呼ぶ。
「本当にいい青年だって。だけど、だからこそ、もったいないって言っているの。もっと大きなところで勝負できる人だし、幸い、世の中は売り手市場なんだし」
 彼女は秋田出身だった。両親が上京した折り、一度食事をして、挨拶はすませていた。目鼻立ちがはっきりして色白の、いかにも秋田美人といった風情の愛菜の両親にふさわしい、こぎれいな夫婦だった。父親は秋田の地方銀行の役員をしている。
 今時、地銀なんて「ぐらんま」よりもあぶないんじゃないか、と心の中で思いはしたが、もちろん、口にはしない。たとえ、つぶれたとしても、彼女の父親くらいの歳なら逃げきれるだろう。
 とはいえ、やっぱり、彼女に惚れているんだな、俺は、と思う。言うなりにいくつかの製薬会社、保険会社、そして、IT企業などを受けて、複数の採用をもらっている。
 さあ、どうするかな……。
 実は、心の中で、「『ぐらんま』は自分抜きでももうやっていけるんじゃないか」と思い、少し気持ちが離れていたことは確かなのだ。
 愛菜は意外にそういうところ、よく見抜く。
 彼女は口には出さないが、美食とブランド品と「ママみたいな、かわいいお母さんになること」だけが夢の女の子ではないのだ。それがわかっているからこそ、婚約までした。
 彼女が「大きな企業」を求めているなら、もしかしたら、それが正解なのかもしれない、とも思う。
 八年近く前、就職を考えた時に、たくさんもらっていた内定をすべて蹴って、友人たちと立ち上げた「ぐらんま」に入ったのは、自分の人生、あまりにもうまく行きすぎてないか、という懸念があったからだ。
 一度くらい、厳しい環境に自分を置いてみたらどうだろうかと考えた。自分がそこでもやっていける人間なのか、知りたかった。
 しかし、起業もまた、成功してしまった。
 今では、新しい会社に入って、一から地位と関係を築く方がリスクが高い気がしていた。ましてや、実力主義で社員同士の競争も激しい有名IT企業なら。
 いったい、自分はどこに身を置くべきなんだろうか。
 しかし、そんな迷いをさらにかき乱したのが、昨夜の柿沼の妹の訪問だった。

「兄に似た男を見た、という人がいるんです」
 柿枝の妹は、柔らかそうな茶色い髪を肩のあたりで切りそろえ、ふんわりとカールさせた髪型だった。ダウンジャケットやデニムというラフなスタイルでも、女の子らしさがにじみ出ている容姿。
 彼女はそのジャケットを脱ぐ間も惜しむように、テーブルにつくなり口を開いた。
「え?」
 胡雪は半ば立ち上がった。
 無理もないことだ、と胡雪の様子を思い出す。
 胡雪と柿枝の間に何かあったのではないだろうか、とずっと疑っていた。柿枝は、田中をのぞけば、胡雪と一番よく話していた。
 別に仲間内で恋愛沙汰があったところでかまわない。伊丹はそういうことはまったく気にしないし、なんなら結婚してくれたりした方がありがたいくらいだ。その家は皆の楽しいたまり場になっただろう。
 けれど、雰囲気だけは匂わせながら、二人は絶対にそれを認めなかったし、柿枝のような男が胡雪を選ぶ気もしなかった。
 彼は胡雪よりもっとわかりやすい、女らしい女が好みだった。なんなら、あの時初めて会った、彼自身の妹のような。
 実際、柿枝は女性に苦労せず、かなりモテる男だったし、在学中はとっかえひっかえと言ってもいいくらい、さまざまな女子と付き合っていた。
 ただ、胡雪が柿枝を好きだったのは確実だと思われた。
 いつも彼を目で追っていたし、誰かに「仲、いいよね」とでも言われようものなら、真っ赤になって否定していたし。
 最悪なのは、二人の間に一度くらい関係があったのに、そのまま付き合うこともなく皆に何事もないように振る舞っていることだ。思い詰めやすい胡雪がいつか爆発するかもしれない。
 そんなことを密かに心配していたら、現実になる前、彼の方がいなくなってしまった。ある日突然、皆の前から。
「柿枝君を? どこで」
 妹は胡雪の反応が嬉しかったようで、そちらの方を向いた。
「母の妹の結婚相手の兄弟の息子で、東北の方でコンサルの会社に入っている人がいるんですが」
「えーと。それはどういう……」
 百田が宙に目を泳がせながらつぶやいた。たぶん、柿枝家の家系図を思い浮かべているんだろう。その気持ちはわかった。伊丹も同じことを考えていたから。
「つまり、私の叔母の甥です。血がつながっていない」
「なるほど」
「その人が東北から北海道のいろんな自治体のコンサルをしていて、ほら、いわゆる村おこし? みたいなことを計画する仕事らしいんです。で、田舎を調査したり歩き回っているんですけど、そこでちょっと兄に似た人を見たって」
「どこにいたんですか」
 胡雪がまた尋ねる。
「札幌の郊外の村の牧場だって。神井村かみいむらというところだそうです。アイヌの言葉で神様の意味なんだって」
 初めて会ったのに彼女はちょいちょい馴れ馴れしい言葉を挟む。こちらを兄の友達だと思って親しみを持っているのか、それともそういうことがずっと許されてきた女の子なのだろう。もしくは、うまく丁寧語が使えないか。年齢的にはそれが一番近いのかもしれない。
「その人、役場の人に案内されていろんな牧場に行ったんだけど、そこで見かけた若い男の人にどこか見覚えがあって、『どこかでお会いしましたっけ』って訊いたんですって。そしたら『いいえ』って言われたんだけど、他を回っている間にじわじわと思い出してやっぱり、『柿枝の家の駿君だ』って確信した。全部を回った後で、もう一度その牧場に戻ってもらったけど、その時はもういなくて、村の人によく訊いたら名前も柿枝じゃないのを名乗っていたそうです」
「それはいつのことですか」
 田中が丁寧に尋ねた。静かな問いだったが、彼が緊張しているのが隣にいた伊丹には伝わってきた。
「それが、その甥の人は兄がいなくなったことを知らなかったから、そのままなんとなく忘れていたんだけど、叔母の嫁ぎ先の法事で『実は駿がずっと家に戻らないんだ』って話になって、それで『俺、会ったよ』ってことになったらしいんです。で、聞いた叔母が両親に電話してくれたんです。だから、その人が兄に会ったのは一昨年の冬になった頃のことだって」
「二年前か……」
「甥っ子さんが次にその村に行った時にはもう出て行った後だったそうです。ああいう場所は季節雇いの人が多くて、いろんな人が集まるからめずらしくはないけど、兄に似た人もふらっと現れて、でも、半年くらいの間に、つぶれそうになっていた牧場をクラウドファンディングでお金を集めて立て直したり、村の祭りを復活させようって言い出して委員会を作ったりしたらしい。たった六ヶ月いただけなのに、村を十年分くらい変えたって」
「それ、絶対、柿枝君よ!」
 胡雪が悲鳴のような声をあげた。
「ですよね? 兄だと思いますよね? いかにもお兄ちゃんがやりそうなことだもん」
 柿枝の妹と胡雪が手を取り合うようにして、うなずいた。
「村の皆に好かれて、誰も住んでいなかった家をただで貸してもらっていたそうです。皆、いなくなったのをすごく残念がっていたって」
「柿枝君だと思う。ね? 皆もそう思うでしょ?」
 胡雪が一人一人の顔をのぞき込むように尋ねて、伊丹と百田がうなずいた。田中だけが、小さく首をかしげた。
「実は、今、両親がその村に話を訊きに行っているんです。私は大学があるから行かなかったんだけど、このことを『ぐらんま』の人に伝えて、何か思い当たることがないか、聞いてほしいって言われたんです」
「お父さんとお母さんは、もっと別の話も聞けたんですか」
「いいえ」
 彼女は悲しそうに首を振った。
「残念ながら、今までは、その親族が聞いていた話以上のことは聞けなかったって。ただ、一つわかったことがあって」
「なんですか」
「兄に似た人は、自分のことを『田中健太郎』と名乗っていたって」
 全員の視線が田中に集まった。柿枝の妹は彼を見つめていった。
「だから、やっぱり、兄だと思うんです」
 そこまで言うと、彼女は電池が切れたように黙り、両手を顔に当てて泣き出した。
 皆、急に黙ってしまった。
 絶対に柿枝に違いないと言っていた胡雪でさえ、田中の肩に手を当てただけだった。
 彼女の泣き声だけが部屋に響いた。

 柿枝の妹は胡雪が駅まで送っていくことになった。
 初めて会ったばかりのはずなのに、二人は肩を寄せ合うようにして出て行った。
「あ、筧さんと、それから、マイカちゃんも今日はもう帰っていいですよ」
 田中が笑顔を作って口添えした。
「マイカちゃんの残業代は今日一日分つけておくから。筧さんは……」
「あたしはもう帰るところですから」
 彼女はなんだかそそくさと帰って行った。どこか少し恥ずかしそうだったのは、図らずも、自分が今起きた、雇い主のハプニングを盗み(盗んでいないが)見してしまったからかもしれない。
 良くも悪くも現代っ子で、苦労人でもあるマイカは、田中にうながされると「ありがとうございます! お疲れ様です!」と言って筧の後を追うように出て行った。
 結局、伊丹と田中、百田の三人が残った。
「どういうことなんだろうな」
 まず口を開いたのは、百田だった。
 伊丹も田中も何も答えなかった。
「本当に、柿枝なのかな」
「どうだろう」
 伊丹は言った。
「違うかもしれない。誰も……本当に親しい人間は誰も、彼を見たわけじゃないし」
 しかし、三人ともお互いに、思っていることはわかっていた。
 たぶん、柿枝なのだ。田中と名乗っていたのはもちろんだが、それがなかったとしても、彼だと確信しただろう。
 閉鎖的な田舎の村にやってきて、半年でそこを十年先に進める……そんなことは彼にしかできない。
「田中だって、よくある名字だし」
「そうだよな」
 田中がやっと口を開いた。
「日本で一番多い名字だし」
 日本で一番多いのって田中だっけ? 佐藤とか鈴木じゃなかったっけ、と伊丹は思ったが黙っていた。
「ちょっと……俺、帰るわ」
 田中が急に立ち上がって言った。
「いや、帰るっていうか、約束を思い出した。接待が入っているんだった」
 そして、誰もそれに応えないうちに、居間に入っていき、コートと鞄を持って出てきた。
「悪いな。胡雪によろしく伝えといてくれ」
 そう言われた時、ああ、そうか、妹を見送った胡雪がこれから帰ってくるんだった、と思い出した。そして、感情的になっているはずの彼女の相手をしばらくしなければならないのだ、と気がつき、肩にがっちり石が乗ったように重くなった。
 田中は胡雪から逃げるのだ。
 けれど、逆に、こうしてお互いの腹の中をさぐり合うような会話をするより、胡雪の荒れ狂う感情に身を任せ、話し合った方が気分が楽になるような気もした。
「わかったよ」
 黙っている伊丹の脇で、百田が諦めたように応えた。
(第6回へつづく)

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原田 ひ香Hika Harada

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『三人屋』『復讐屋成海慶介の事件簿』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』『三千円の使いかた』などがある。

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