双葉社web文芸マガジン[カラフル]

まずはこれ食べて(原田ひ香)

イラスト:唐仁原多里

第1話
その魔女はリンゴとともにやってきた

 柿枝駿はやおも学生時代、胡雪たちと一緒のメンバーだった。
 正直、いわゆる、人間的というか、男性的というか、そういう魅力はこのメンバーで随一だったと思う。
 胡雪は最初に柿枝に話しかけられた時のことをよく覚えている。
 胡雪は大学の選択授業を迷っていた。
 まだ、友達と呼べる友達ができていなかった。
 昔からそうなのだが、新しいクラスに集まった時に、皆、なんとなく席の前後や、隣の人と、前から知り合いのように話しているけれど、それができるのが不思議でたまらなかった。
 いわゆる「楽勝」と呼ばれる、何も勉強しなくても「優」を取れる授業やら、少しは厳しいけれど、おもしろく将来のためになる授業をしてくれる教授やらがいる、というのは聞いていたけど、そんな情報は誰とも話していない胡雪のところに回ってくるはずもなく、ただ、どうしたらいいのかわからずに手をこまねいたまま、選択授業の用紙を事務局に出しに行った。
 胡雪が一般教養に選んだのは、「心理」「文学」「ドイツ語」「統計学」などだった。
「心理学はヤバいって」
 いきなり、後ろに並んでいた男子が胡雪の用紙をのぞき込んで言った。
「え?」
「心理、めちゃくちゃ人気あるから、たぶん取れない。取れないと、空いている科目に適当に回されるから厳しい『数学』とか『物理』になって、苦労するよ」
「……なんでそんなこと知ってるの?」
 どきどきしながら振り返ると、柿枝と田中が並んで立っていた。柿枝は背が高く、なかなかの男前だった。田中は今と変わらず、ただただひょろりと細かった。
「うちの従兄がここの出身だから」
「へーそうなんだ」
 なんでもないみたいに応えたけど、内心めちゃくちゃ嬉しかった。見た目がさわやかで、誰彼となく屈託なく話しかけていた柿枝は、クラスでも目立った存在だった。
「心理やりたいなら、それほど人気がない『教育』にしたら? 中身は教育心理だし。それでもどうしても心理がよければ来年選ぶか。二年の方が優先されるし」
「そうなんだ」
「あと、生物、おすすめ。イギリスの生物学のビデオ観てレポート書くだけで易しいし、先生もおもしろいって」
「よく知ってるね」
 また同じようなことを言ってしまった。本当は、もう少し、気の利いたことを言いたかったのに。
 田中がそこで始めて口を開いた。
「統計はどうせ三年以降、びっちり経済でやるしさ」
「あなたたちも経済なの?」
 気がつかないふりをして尋ねた。
「そう。君もでしょ。A組の池内胡雪さんだよね」
 柿枝はこともなげに答えた。

 あの時……柿枝たちがどうして胡雪のフルネームを知っていたのか、未だに訊けずにいる。
 訊けずにいるけど、「かわいかったから」だとか「きれいだったから」「魅力的だったから」ではないことは、もうずっと前から知っている。
 自分がそんなことで男たちから選ばれる女ではないことは幼稚園の時からわかっているのだ。
 だけど、それ以外のどんな理由でも、自分ががっかりしそうで怖い。

 胡雪は、のろのろとパソコンを立ち上げ、エクセルを使って社員とアルバイトの給料計算を始めた。
 単純作業だから考え事をしながらでもできる。
 会社事業のアイデアを出したのも柿枝だった。
さまざまな病院で受けた、検査、治療、投薬などの記録をすべて一括して一枚のカードやスマートフォンのアプリで管理できるシステムを作りたい、というのは彼の夢だった。彼の八十を越えた祖母が、多くの病院に通い、自分の症状や投薬を「覚えきれない……」と嘆いているのを見て思いついたらしい。また、彼は祖母がいろいろな病院で何度も何度も同じような検査を受けていることも気になっていた。
「保険が使えるとはいえ、金と時間の無駄遣いだよな。保険料は高くなるばかりだし。それに、祖母ちゃん、MRIが大嫌いで、あれをやるたびに体調が悪くなっていく気がするんだ」
彼の志を受けて、社名も「ぐらんま」となったのだった。
起業当初は病院側にまったく相手にされなかったが、大悟のねばり強い営業で、美容整形外科から金持ち向けの総合病院となった長谷川クリニックに採用されて、少しずつ顧客が増えた。今では、田中は時に厚労省などの委員会からも声をかけられることさえある。
―――私たちはずっと彼の夢を追っている。
 自分がここで家事をしなくなったのは、柿枝がいなくなってからではないか。
 昔は鍋パーティーの時に灰汁を取ったり、空いたグラスを下げて洗ったり、そのくらいのことはしていたのだ。
 鍋はモモちゃんが作ってくれたし、最後の片づけは皆でしたけど。
 そんな時、すっと隣に来てくれて、一緒にやってくれたのが柿枝だった。
 胡雪の隣に来てグラスを拭いてくれたり、「胡雪はたこ焼き、どっちが好き? 外カリカリの関東風か、やわやわの関西風か」と訊いてくれたりした。
―――そうか。柿枝君がいなくなった頃から家事をやらなくなったのか……いや、違うかな。母と姉が、結婚を迫るようになってからか。

 胡雪の六つ年上の姉、胡春こはるには、もう小学四年生の子供がいる。その下に幼稚園児の五歳の男の子と二歳の女の子もいる。三人というのは、今時では子沢山の方ではないか。
 四年の女の子は私立中学の進学塾に通う、というのが、この正月の実家の話題の中心だった。
 三人の子供と専業主婦と、その中学受験を支えられる収入がある義兄は商社勤務だ。東急線沿線に中古だけど百平米近いマンションを買っていた。
 普通。
 姉と母はそれを普通と呼ぶ。普通とか人並みとか。
 普通という名の、実は、とんでもないハイレベルのエリート人生。
 それに気づかないならともかく、本当は心の底で二人は気づいている。自分たちが一見普通そうに見えながら、とんでもない幸福な場所にいることを。
 国産だけどワンボックスカー、ブランドもののベビーカー、流行りのマザーバッグ……それらすべてが「上質の普通」を高らかに指し示している。
 そんな場所に胡雪の居場所はなく、正月二日には早々に自分のマンションに帰ってきてしまった。
 仕事がある、と言って。
 そして、その足で目黒の会社に出社すると、そこには当然のように、モモちゃんとアルバイト学生がいた。年末からずっと泊まり込んでいたらしかった。その日はさすがに、めずらしく彼らと飲みに行った。
 そう、いろいろ文句を言いながらも、この会社はいつでも居場所を胡雪に与えてくれていた。仕事という口実、仲間という同僚を。
 母はここ数年、ちらちらと結婚を勧めてくる。
「お姉ちゃんはその歳には二人の子がいたのよ」と言って。
 言われなくてもわかっているし、その一人はおなかの中だったはずだが、それを指摘するのもいまいましい。どうせ「そんなのどちらでも同じでしょ」と言われるに決まっている。
「あんな、男ばかりの会社にいて、彼氏はいないの?」
 姉が問うのも毎年のことだ。
 だいたい、胡雪が大学を卒業して就職もせず、友人たちと起業する、と言った時、一番反対したのはこの姉だった。
「大きな会社にしか大きな仕事って来ないんだよ」
 あの時の、姉のしたり顔をよく覚えている。
 なんだよ、大きな仕事って。
 姉は結婚前、大手ゼネコンに勤めていたから、文字通りビルとか駅とかを建てることを「大きな仕事」と言ったのかもしれないけど。
 しかし、それよりも、姉が心配していたのは別のことだとすぐに気がついた。
「お父さんたち、あの子を甘やかしすぎ。なんでちゃんと就職活動させないの。就職活動も人生経験の一つなんだから!」
 まあ、そこまではよかった。しかし、姉は本当に言いたいことを後回しにする癖がある。
「妹がちゃんとした会社に入らないなんて、恥ずかしくて君島さんやお義母さんたちにも言えないよ」
 君島、というのは義兄の苗字だ。
「まあ、いいじゃないか。胡雪は女の子なんだし」
 無口な父がめずらしく取りなしているのを隣の部屋から聞いてしまった。(その父の言葉も少し気に入らなかったが)。
「もしも、その起業とやらがうまくいかなくて、借金でも作ったらどうすんのよ? お父さんやお母さんに借金頼んできたりして、うちの財産使い込んだり」
「使い込むほどの財産もないよ」
 父はうまく話をそらしていたが、姉はまったくひるまない。
「保証人になることを頼んできたり、破産したり、うちまで借金取りに追われたり、やくざが家に来たり……」
 すげえ、想像力だな、と胡雪は思った。起業するって言っただけで、これだけの物語をあみ出せるとは。実際には、学生時代の友達とアルバイトで貯めた金、一人二十万ずつ出して、百万を出資金に起業しただけなのに。
 確かにその後、柿枝が数千万を出してくれる出資者を見つけてくれて、姉が心配するような大きなお金が動いていたことは間違いないが。
「そんなことになったらどうするつもり! ねえ、お父さんてば!」
 知らんがな、と心の中で思わずつぶやいてしまった。
 とにかく、姉の頭の中では、起業→行き詰まり→借金→やくざの督促→破産みたいな図がきれいにできあがっているようだった。
 正義の人は怖い。
 自分が正しいと思っている人間はどうしてこんなに偉そうなのだろう。普通からそれることをどうしてこんなに恐れているのだろう。
 ただ、起業しただけ、ただ、仲間が欲しかっただけなのに。

 ふと、視線に気がついた。
 あの、筧みのりがドアのところからこちらをのぞいている。胡雪と目が合うと、こっちこっちと言うように、手招きした。
 胡雪が自分の鼻を指さして、「私?」と尋ねると、こっくりうなずいた。
 間違いなく、田中でも伊丹でもないようだ。しかたなく席を立った。
「なんですか」
 キッチンに入ると同時に、つっけんどんに訊いてしまう。
「あのね、これが夜食ね」
 筧は銅色のアルミの大鍋の蓋を開けた。ふんわりと、カレーとそれだけじゃない、やさしい甘い香りがした。鍋の中にはなみなみとカレー色の何かが入っている。
 機嫌が悪かったはずの胡雪でも、思わず、笑みが浮かんでしまうような匂い。でも、顔を引き締めて尋ねた。
「これ、なんですか」
「カレーうどんの汁」
「こんな鍋、ありましたっけ?」
「上の棚にあったから、使った」
 ああ、と思い出した。
 昔、鍋料理を初めてする時に、駅前のスーパーで一番大きな両手鍋を買ったのだった。当時は一人暮らしの田中の部屋が会社だった。確か、大きさは直径三十センチだった。本当は土鍋がよかったけど、それだけの大きなものになると高くてアルミのしか買えなかった。
 田中と胡雪、二人で買いに行ったのだ。スーパーで大きなレジ袋に入れてもらって、二人で片方ずつ、ぶらぶらと提げて帰ってきた。
「人が見たら、俺たち、同棲カップルみたいに見えるかな」
「ばーか」
 二人でげらげら笑った。だって、同棲よりずっといいことが始まるってわかっていたから。
 お金もなかった、信用もなかった、仕事もなかった。何もなかった、だけど、何かが始まる期待とわくわく感だけがあった。
 それから、何度使ったかしれない。鍋はもちろんのこと、夏はそうめんを大量に茹で、モモちゃんが山でタケノコを取って来た時もこれで茹で、秋は東北出身の田中が「芋煮会」をした。最初、くすんだ金色に光っていた表面も、ところどころぼこぼこにへこんでしまっている。
 でも、ここ数年、使っていなかった。ここに越してきた時、地方の有名窯元の土鍋を、取引先から贈られたから。自分たちの仲の良さを知っている相手の、気の利いた引っ越し祝いだった。
「……土鍋が買えなくて」
 土鍋はアルミの倍以上の値段がした。
「正解」
 筧はクイズ番組の司会者のように人差し指を立てた。
「え?」
 彼女が言い切った言葉の意味がわからなくて訊き返した。
「正解、これで正解。土鍋は鍋物くらいにしか使えないけど、これなら菜っぱも茹でられるし、カレーも作れるし、ご飯だって炊けちゃう」
「そうですか」
「冷凍庫に冷凍うどんが買ってあるから、電子レンジでチンして、これを上にかけて食べるの」
 ああ、それで、カレーだけじゃない、醤油と砂糖の甘い匂いがしたのか、とわかった。純粋なカレーじゃなくて、出汁も入っているんだろう。
「ネギは千切りにして冷蔵庫に入れてあるから上に載せて。汁に入れて煮てもいいんだけど、今から入れると煮すぎちゃうから」
 筧はテーブルの上の大皿を指さした。かけてあるラップは湯気で曇っていた。
「これはおにぎりと鶏のから揚げ。こっちは夕食用。大根葉とじゃこと卵を炒めたやつを混ぜ込んだのと、ゆかりと枝豆を混ぜ込んだの、ツナとゴマ油を入れたのの三種類。一人各一個ずつ。余ったら冷凍しておいて。明日チンして朝ご飯に食べるといい。から揚げは冷めてもおいしい味付けになってる。それから、具だくさんの豚汁が土鍋に入ってる」
 それはガス台に置いてあった。筧が重い蓋を上げると、また大きな湯気が立った。
「食べる時、温めなおして……それから」
「……それ、私がやるんですか?」
「は?」
 それまで、すべてにおいてどうどうと振る舞っていた筧が、初めて、虚を突かれた顔になった。胡雪は少しだけ、すっとする。だから、さらにきつい声が出た。
「それ、私がしなくちゃいけないんですか、って訊いているんです」
「あんたが……何?」
 筧は意味がわからないようで、ますます、「?」という顔になる。
「私が女だから、皆の夕食と夜食の用意をしなくちゃならないってことなんですか? 私に声をかけてきたのは」
 低いけど、筧にははっきり聞こえるように言った。
「いや、そんなんじゃないよ」
「だって、そういうことでしょ。私を見つけて声をかけたんだから。私だって仕事があるんですよ。これから、あなたが来る度に、食事の用意を私がしなくちゃならないなら……まあ、途中まで作るのはあなたですけど、最後のそういう用意っていうか、仕上げっていうか、そういうの、私がしなくちゃならないんですか? そんなの聞いてないし、そういうふうに思っているなら、私、困るんですよ」
「……違うよ」
「どこが違うんです? 現に今、あなた、私を指名して、私に説明してますよね?」
「そういうつもりじゃなかった。そういうふうに思わせたら、ごめん」
 筧は意外と素直に謝った。
「ただ、あたしももう少ししたら帰るから、誰かに言付けないと、と思って部屋をのぞいたら、あんたが一番暇そうだったから」
「暇……?」
 さらに頭に来た。もしかしたら、女だから声をかけてきた以上に頭に来たかもしれない。
「いや、そんなこと、どうしてわかるんですか。私、給料の計算とかしてたんですよ? それなりに忙しいんですよ。男とは違うけど、男の人がしている仕事とは違うけど、だけど、忙しいのは一緒で」
 声が大きくなっている、と途中から気がついていた。もしかしたら、田中や伊丹たちにも聞こえているかもしれない。だけど、やめられなかった。
「バカにしないでよ」
「ごめんなさい。そういうつもりではなくて、でも、さっき部屋をのぞいた時、あなたからは殺気っていうか……覚悟っていうか……そういう気配みたいのが感じられなかったから。他の人と違って。でも、それはあたしのただの感じ方で、勝手な見方だから、間違ってたらごめんなさい」
 覚悟……?
 胡雪はふっと力が抜けて、近くにあったイスに崩れ落ちるように腰掛けてしまった。
 覚悟がないってこと? 私は。
「だから、とっさに声をかけてしまった。女とか、そんなんじゃなかったつもりだけど」
「……わかりました」
 もういいです、と言って立ち上がろうとして、今度は本当に自分に行き場がないことを知った。
 今の会話が聞こえていれば、居間にも、寝室にも行けない。
「私だって、がんばってますよ……覚悟がないとか、言わないで」 
 気がついたら、泣いていた。
 そんなこと、言われなくても自分が一番わかっている。友達が起業すると聞いて、なんとなくふらふらと付いてきてしまった。本当は別にやりたいことなんてなかった。ただ、大学時代の友人付き合いが楽しくて……男たちの間に、女が一人の「紅一点」の環境を続けたくて、ここまで来てしまった。
 お姉ちゃんが言っていたことも当たってる。就職活動から逃げた。
 家事をしたくない、と言いながら、女である環境に甘えていることは、自分が一番、よくわかっている。
 ずっと一緒だと思っていた。ずっと男女は同権の世界で、中高大と育ってきたのだ。
 それなのに。
 そろそろ三十近くなってきたら、急に「それじゃあ、だめだ」と言われるようになった。
 母から、姉から、心ない親戚から、ふと立ち寄った居酒屋で隣に座ったおやじから、生理不順で通った婦人科医から……。
結婚を強要するわけではないですけど、女性の妊娠に期限があることもまた、事実なんですよ。
阿佐ヶ谷のではない、別の産婦人科医に言われた。
平成元年に生まれた自分が、この平成が終わると同時に突き付けられた現実。
そんなことも何も知らないのに、なぜ、この、今日来たばかりの女に「覚悟がない」なんて言われなくてはならないのか。
胡雪がしゃくりあげていると、筧は黙って自分のバッグを出した。ぺらぺらの、バッグというより袋と言った方がいいような、ビニールの鞄。スーパーのキャンペーンで配っているエコバッグのような、または、葬式の香典返しのカタログギフトの中から選ぶような、安っぽい、ださい鞄。
 そこから、彼女が取り出したのはリンゴだった。
 つやつやした、でも、まだまだらにしか色づいていないリンゴが、次々と出てくる。
 痩せぎすな中年女がリンゴを持っていたら、それは魔女にしか見えない。
「これ、今日、家を出る時に、アパートの大家さんがくれたの。田舎から送ってきたんだって。台風で落ちたやつ。傷物で、あまり赤くないけど、甘いんだって」
 これは、予算外、あたしからのお世話になるご挨拶、と言って、小さく笑った。
 胡雪は、彼女を雇う時に田中が夜食や夕食用に決まったお金を渡す、と言ってたのを思い出した。その予算外、という意味だろう。
 筧はくるくると器用に皮をむいた。むいたものを四つに割って、さらにそれを八つに割る。
 きれいな手をしている、と気づいた。ごつごつと骨ばった大きな女なのに、指だけはすらりと長くて白くてしなやかだ。
 それをそのまま食べさせてくれるのか、と思ったら、彼女はキッチンの下の棚から、テフロン加工のフライパンを出して並べた。
 コンロにかけ、ごくごく弱火にして蓋をする。
 筧の様子をじっと見ていたら、少しずつ涙が乾いてきた。そっと指で拭った。
「焼くんですか、リンゴを」
「そう」
 その間も、彼女の手は止まらず、残りのリンゴもすべて同じようにむいた。それらを次々と焼いていく。
 キッチンにかすかに甘い匂いが漂った。
「砂糖も水も何も入れないの。ただ、フライパンに並べて蓋をするだけ」
 途中で、筧はフライパンの蓋を取って、胡雪に見せてくれた。みずみずしかったリンゴからじわりと水が出てきて、端がカラメルのように焦げ始めている。彼女はそれをフライ返しでひっくり返した。
「こうして両面、きつね色に焼ければ出来上がり」
 筧は冷凍庫からアイスクリームを出してきた。コンビニなどどこでも売っている、百円台の安いアイスだった。
 小皿に丁寧にこんもり盛って、焼いたばかりのリンゴを載せた。
「さあ。まずはこれ食べて」
 スプーンを添えて、胡雪に出してくれた。
「本当はデザート用だったんだけど」
 そして、胡雪の前に座った。
「……いただきます」
 熱いリンゴがのったアイスクリームはとろりと溶けだしている。それと甘酸っぱいリンゴを一緒に口に入れた。
「どう?」
 胡雪の顔をのぞき込むように見た。
「おいしい」
「よかった」
 筧は立ち上がって、包丁やまな板など、使ったキッチン用品を次々に洗っていく。
「……女の子がいるって聞いて」
 水音の中に、小さな筧の声が聞こえた。
「リンゴをもらったものだから、つい、アイスクリームを買っちゃった」
 女の子だから甘いものなんて、短絡すぎるよねえ、あたし。
 ありがとう、と素直に言えない。
 でも、甘すぎない、アイスクリーム以外、砂糖をいっさい使っていないデザートは心をとろかした。
「これ、紅玉ですか」
 ごめんなさい、という言葉の代わりに尋ねた。
「ん? 違うの。普通のリンゴ。アップルパイとかジャムとか、本格的なお菓子作りに使うなら紅玉だけど、あれは高いし、砂糖をしっかり入れないとおいしくならないからね」
 これなら、普通のリンゴでできるから、時々作るんだ、と教えてくれた。デザートなんて柄じゃないんだけど、とつぶやく。
「そうなんだ」
「紅玉を知っているなんて、お菓子作りでもするの?」
「母と姉が」
 母たちのケーキは、砂糖とバターを贅沢にいっぱい使う。
 それそのものが、恵まれた立場を誇示するかのようなお菓子作りだ。
 でも、これは、台風で落ちたリンゴをただ焼いただけ。でも、甘い。十分、甘くて優しい。
 途中から、アイスが溶けきって、焼きリンゴを溶けたアイスのソースで食べているみたいになった。それもまたおいしい。
 今の自分に一番合っているデザートだと思った。
「女の子がいるって聞いて、デザートを作るなんて、女は甘い物好きだっていう、もしかしたら、思いこみや差別かもしれないけど」
 筧はつぶやいた。
「でも、相手を喜ばしたかっただけ。それだけ」
「ありがとうございます。私もすみませんでした」
 そんなふうに人に謝ったのは久しぶりだった。なんだか、すっきりした。
「男の役割とか女の立場とか、そんなに気にしなくてもいいじゃないの」
 筧がさらりと言った。
「あたしが家政婦やってるのは、ただ、この仕事がよくできて、好きだからだし」
「あ、なんか、いいもん、食ってる」
 急に声をかけられて驚いた。
 仮眠から起きたらしい、モモちゃんがキッチンをのぞいて叫んでいた。
「うまそう。俺にもちょうだい」
「これはデザート、皆はご飯の後だよ」
 筧はモモちゃんにも夕飯と夜食の説明をした。さっきの胡雪にしたのと同じように。
 これはおにぎり、これは豚汁、冷凍うどんはチンしてカレー汁をかけて。
「うわ、おいしそうだなあ」
「徹夜や夜遅くまで仕事する人には、カレーうどんっていいんだって。消化がよくて、スパイスが脳を活性化する」
「へえ、そうなんだ」
「できたら、食べた後、三十分くらい仮眠するとさらに効率がいいらしいよ」
「そんな時に寝たら、もう、目覚めない永遠の眠りについちゃいそう」
 筧とモモちゃんが声を合わせて笑った。
 そうだ。女の子のために甘いものを(でも甘すぎないものを)作るのと、徹夜の人のためにカレーうどんを作るのと、どう違うのだろう。
「カレー一口、味見させて」
「少しだけだよ」
 筧は小皿にすくったカレーを彼に差し出した。
「うまーい!」
「油揚げとちくわと玉ねぎが入ってる。食べる時に、ネギを別に載せるんだ」
「これ、うまいなー、ご飯にもかけたい。普通のカレーと少し違うけど」
「カレーうどんの極意、知ってる?」
「え?」
 胡雪と百田は同時に子供のような声を上げてしまった。
「一さじの砂糖だよ。それを加えることで、味に丸みが出る」
「へえ」
「じゃあ、あたしはそろそろ帰りますから」
 筧はキッチンを磨き上げて、エプロンをイスの背にかけ、コートを着込んで、あのペラペラバッグを手に持った。
「さあ、失礼しますよ」
 玄関に向かう筧を、皆、部屋からぞろぞろ出てきて見送った。
「ありがと、あんした」
「また、今度」
「いいんだよ、あたしは仕事で来ているんだから」
 さあ、仕事に戻って戻って、と筧はしっしとするように、手を振った。
「こんなの、今日だけでしょ。そのうち、慣れたら誰も顔も出してくれなくなるんだから」
「ばれたか」
 伊丹が笑った。
 筧が部屋を出ていくと、誰ともなく顔を見合わせて、「俺たちもご飯にしますか」と言い合った。
 田中や伊丹たちもキッチンのテーブルで、思い思いに、おにぎりと豚汁を食べ始める。
「これ、うま」
 大根葉のおにぎりにむしゃぶりついていた田中が思わず、という感じでつぶやいた。
「こっちの、ゆかりおむすびもなかなか」
「から揚げ、最高。なんか、運動会のお弁当思い出す」
「豚汁、身体があったまるな」
 皆、きっと、さっきの胡雪と筧のやり取りを聞いていただろう。だけど、自然に食事が始まったことで、誰も何も言わない。
 悪くないね、家政婦、と胡雪がつぶやいた。
 だろ、と田中。
「じゃあ、まあ、しばらく来てもらうか」
「そうだな」
「賛成!」
 モモちゃんが一番大きな声を出した。
 食べ終わると、また、皆、順番に皿や容器を洗って片づけた。
 胡雪はびっくりしていた。
 このところ、なんだか、ずっと孤独だった。なんだか、「ぐらんま」はずっとぎくしゃくしていた。
 それが、赤の他人が一人来て数時間いてくれただけで、家族みたいにご飯を食べている。
 自然に筧のエプロンを畳んで、戸棚にしまった。なんの義務感もなく、こだわりもなく。
 さあ、私も仕事に戻りますか、と胡雪も少し微笑んだ。
(第3回へつづく)

バックナンバー

原田 ひ香Hika Harada

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『三人屋』『復讐屋成海慶介の事件簿』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』『三千円の使いかた』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop