双葉社web文芸マガジン[カラフル]

まずはこれ食べて(原田ひ香)

イラスト:唐仁原多里

第6話
筧みのりの午餐会

「ここが今日、一番のお勧めでーす」
 不動産会社の営業、内海芽依うつみめいが少し大げさに声量を上げて、軽自動車の助手席のドアを開いた。朝一番の内見だというのに元気な声だった。
「ありがとうございます」
 本来なら、女性にドアを開かせたりしないのだが、つい、他のことを考えて動作が一呼吸、遅くなってしまった。
「ごめんね、ちょっとぼんやりしていた」
 謝りながら、車から降りた。
「とんでもない」
 彼女の、輝くような白いスーツは悪くなかった。ぴったりと体に張り付いて、バストとヒップが強調される。髪型は一転してショートカットだ。ぱっと見、どこかの女性国会議員のようだが、顔立ちがフェミニンなので救われている。男に好まれ、女にもぎりぎり嫌われないライン。営業としては満点だった。
「大切なお客様ですから」
 そう言いながら、大げさなくらいけろけろと笑った。
 二歳年下の彼女と不動産を見て回るようになって、三週間ほどが経つ。
 雑談の中で、すでにお互いの経歴や育ち、年収や休日の過ごし方などは一通り話してしまった。
 彼女は田中の予算も希望も熟知していて、よい物件があるとすぐに連絡してくれる。話がまとまれば、大きな営業成績となるのだろう。
「ここ、ぜひ、見ていただきたいです。田中さんが考えられていたようなものとはちょっと違うかもしれないけど、むしろ、ご希望にはそうんじゃないかと思って」
 連れてこられたのは、一軒家だった。
 場所は中目黒と祐天寺の間くらい、中目黒からは徒歩十三分で、祐天寺からは五分。チラシには中目黒の方が大きく書いてあるが、むしろ、祐天寺に近い。
 しかし、何より変わっているのは、その外観だろう。一階の入り口部分がガラス張りのショールームのようになっている。部屋は白い壁に白木のフローリング、どこまでも爽やかだ。けれど、外から中が丸見えだった。
「これ、どういうこと?」
 二十畳ほどの広いリビングに立って、戸惑ったような声をあげてしまった。
「前の住人の方は、奥様がフラワーコーディネーターの先生だったんですね。それで、ここが事務所とお教室になっていたんですよ」
「なるほど。確かに花屋ができそうだね」
 田中は今は何も置かれていないワンルームを眺めた。奥に小さなキッチンがあった。
「そういうお教室や、ちょっとしたカフェもできる造りなんです」
「でも、僕たちの用途とはどうだろう……」
 田中は小さく眉をひそめた。
 内海は慌てたように言葉を重ねた。
「ここをカフェ風にアレンジしたら、田中さんが言う、皆が集まる空間になりませんか」
「あ、ああ」
 確かに、そうすればうってつけのスペースになるかもしれない。
 急に田中にも、そのイメージが見えてきた。
 きらきらと窓から射し込む日差しの中、大きなアンティークテーブルを置こう。少し大きすぎるほどのテーブル。そこに皆が集まる。各自のPCと飲み物を持って。
「外から丸見えだと言うなら、カーテンを工夫すればいいですし」
 内海は手元の資料に目を落として読み上げた。
「三階建てで地下もあり、そちらは出入り口が別なので賃貸にもできます」
 地下。そこにモモちゃんのベッドを置けばいい。いつでも好きな時に寝ることができる。
 思わず、くすりとしてしまった。
 それに勇気を得たように、内海は声をさらに張り上げた。
「屋上にはサンルームがあって、テーブルを置いてお茶を飲んだり、バーベキューなんかもできますよ」
 私もバーベキューやってみたいなあ、彼女は小さい声でつぶやいた。それが女性不動産屋の常套手段なのか、本心なのか、田中は特に詮索しなかった。たぶん、両方なのだろう。
「二○○○年に完成しまして、現在築十九年、システムキッチン、床暖房完備、ウォークインクローゼットあり」
「築十九年か」
「ええ。でも、最初に建てられた方がずっと住んでいたので、そんなに人の手に渡っていないんです。スレてない、というか」
「建物がスレてないってこと?」
「ええ」
 ふっと目を合わせて笑った。
 彼女とは一度、恵比寿駅の近くでお酒を飲んだ。会社のあと内覧に出かけて遅くなってしまったのでお礼に誘ったのだ。そうしたら、飯よりも飲みたい、と言った。
 二杯の酒を飲みながら、なかなかがんばっている、元気な女性だと田中は思ったし、内海はいわゆる青年実業家である田中に興味があることを隠さなかった。
 まあ、その反応も、不動産屋としての彼女の手かもしれない。
「その方はどうされたんだろう」
「その方……?」
「ここを作った方。そのフラワーアレンジの奥さんと旦那さん。海外にでも移られたんでしょうか」
「離婚ですね」
 彼女は手元の資料をちらりと見て言った。その情報が、本来、客に漏らしていいものかどうか、田中にはわからなかった。
「なるほど」
「こんな家を作るほどの仲でも離婚するんですねえ」
 その声に、わずかなこびがあった。
「じゃあ、現金にするの、急いでいるのかな」
 その媚を断ち切るように尋ねる。
「さあ、どうでしょう。もちろん、交渉はできますが」
 媚を悟られたと感じたのか、彼女は急に真顔になって読み上げた。
「土地面積が九十六平米、約三十坪、建物面積が百八十平米……」
「ここ、いくら」
 彼女の声を遮って尋ねた。
「一億八千万ですね」
 田中の予算にもぴったりだった。

 一ヶ月ほど前から新しい家を探している。
 マンションでも一軒家でもいい。いつか、会社がなくなっても、皆で集まれる家を。
 場所は目黒区、品川区、渋谷区のあたり、駅から徒歩五分以内に絞った。
 内海に「ぐらんま」まで車で送ってもらいながら、田中はぼんやりと考えていた。
「まだネットなんかに情報を出してはないんです。お得意さまだけで……でも、いくつか内見は入っていますし、興味のある方はいるみたいですよ。仲介でなくて、うちが売り出している物件ですから仲介料はいただきません。それだけでも実質的に割引みたいなものですね」
 一応、彼女は業者の常套句を口にしたが、それ以上、しつこく誘ってくることはなかった。
 もうそこそこ懇意だし、あまり、強く営業してもいい返事がもらえる相手ではないと悟っているのだろう。田中のような男は、決める時はすぐに決めるし、ダメな時はいくら押しても無駄だということくらいはわかっているらしい。
「ありがとう」
 会社の下で降りる時礼を言うと、「まだ大丈夫だとは思いますけど、ご興味があったら早めにご連絡ください」と彼女は言った。
「ああ」
 そっけなく返事してふっと振り返ったら、意外に必死な目にぶつかった。
 そうだ。彼女だって営業なのだし、まだ若くて、一つでも契約を取りたいのだ。
「また、連絡するよ」
 言葉をかけた。
「あそこを買うなら、絶対、私に声をかけてください」
 正直、同じものを買うとしても、他の男の営業に交渉してもらった方がいいのか、と考えていたことが伝わってしまったのかもしれない。少し気がとがめた。
「わかってるよ」
 笑顔を作った。
 しかし、彼女の車が去ると、マンション全盛の今時、約二億の一軒家、あれだけ変わった造りのリビングではなかなか売れないのではないか、と冷静に品定めしている自分がいた。

「ぐらんま」の居間に入ると、キッチンでごとごとしている音がして、不審に思いながら中に入った。
「筧さん」
 彼女は台所の下の引き出しを開いて、何か漁っていた。
 まだ朝の十時だ。午後から出勤の筧がもう来ていることに驚いた。
「ああ、田中さん」
 慌てて立ち上がり、大きな銅色の鍋を落として大きな音をさせた。
「びっくりした」
「それはこっちのセリフですよ。どうしたんですか、こんな時間に」
 最近、いろいろ考えているからだろうか、不信感さえわいてくる。
「いや、実は、昨日、今日の出汁を用意して帰るのを忘れちゃって」
 筧はすぐに落ち着きを取り戻して、大鍋を流し台の上に上げた。
「今日は出汁をたっぷり使って料理するつもりだったのに」
 筧は蛇口から、鍋にざあっと水を入れながら言った。
「そんな、出汁なんて……なんでもいいのに」
「昆布は、少なくとも二時間は置きたいからね」
 彼女はいつもの手提げ袋からジップロックを取り出し、数センチ角の黒い昆布を布巾でさっと拭いて、ぽちゃんと鍋に入れた。
「それだけ……?」
「これだけ」
 筧は落ち着きはらっていた。
「さあ、お茶でも淹れようか」
「本当に、それだけのために来たんですか?」
「ああ。この昆布を水に漬けて、一度家に帰ってまた来るつもりだった」
「出汁のためにそこまでする人がいるなんて信じられない」
「ちょうどこっちに来る用事があったから」
「そうですか」
 まだ不審な気持ちが声に混ざってしまったのかもしれない。
「そんなに訊くなら、あたしも訊いていいかい? なんで家なんて探しているの? しかも馬鹿高い家ばかり。その金どこから出るんだい?」
 思いがけないことを、彼女から尋ねられた。
「なんでわかったんですか」
「あたしは会社のゴミを捨てているんだよ? それに、誰もいない時には電話も受けている。なんとなくわかることはあるさ」
「誰にも気づかれてなかったのに」
「ここを畳もうって言うんじゃないだろうね」
「え」
 田中は思わず言葉に詰まった。
「……まだ、決めたわけではありませんから」
「本当に畳むのかい……? かま掛けただけなのに」
 思った以上に、筧はショックを受けているようだった。
 その様子で、田中は完全に、警戒の気持ちを解いた。
「すみません。まだ、皆には言わないでください」
「言わないけど……」
 筧は腰が落ちるように椅子に座った。めずらしい姿だった。
「やめないでほしいねえ」
「そうですか? そう言ってもらえると、決心が鈍るなあ。でも、筧さんならいくらでも仕事はあるでしょう」
「そうだけど」
 筧は自分の指先を見た。それは大きく角張っていた。
「最近は、どこも人手不足で、家政婦もなり手がなくて、確かにクチはあるんだけどね」
「でしょうね」
「せっかく慣れてきたのに、さびしいよ」
「それは、本当に、すみません」
「じゃあ、その家に新しい会社でもつくるのかい」
「いえ……ただ、ここがなくなっても、皆が集まるところがほしいと思って。皆が仕事したり、ご飯食べたり、自然に集まれる場所を、と思って。そう、シェアオフィスや、シェアハウスみたいな」
「そうか」
 筧は賛同することなく、なんだか、気の毒そうに田中の顔をじっと見ていた。
「あ、筧さんにも来てもらおうと思ってます。ここほど頻繁じゃないかもしれないけど、週一くらいで掃除とか料理とかしてもらえたらありがたい。筧さんが来てくれて、水回りの掃除や食事のおかげで皆の生活が目に見えて良くなったのは確かなので……」
「ありがたい話だけど、そう、うまくいくかねえ」
「え?」
 筧は言いよどんだ。
「なんか、問題ありますか」
「問題というほどじゃないけど」
「ええ」
「こういう話が出たから言うんだよ? 社長のあんただから」
「はい。わかってます。いつもは、筧さんは告げ口するような人じゃないのは」
「……伊丹さんは他の会社を受けたりしている。今すぐには転職する気はないけど、ここがなくなるとなったら移るだろうね。そうなったら、平日は新しい会社に通勤するだろうから」
「まあ、伊丹はそういうことになるかな、と思ってました。営業なら致し方ない、と。でも、休日とか遊びに来てくれればいいな」
「それに……あの人は、そろそろ結婚するかもよ」
「えー」
「気がついてなかったのかい、やっぱり」
「彼女がいるのは知ってましたけど」
「そうなれば、なかなか休日にいつも友達とべったりってわけにはいかなくなるものだよ」
「まあ、そうですね」
「胡雪ちゃんとモモちゃんは……」
「はい」
「まあ、二人ともここをやめようとかは思ってない。だけど、この会社がなくなればどうだろう? 新しい仕事を始めて、それでも、まだ皆で一緒にと思うかどうか」
「具体的に何かあるんですか?」
「具体的に、というか」
 筧は田中の方にまた、気の毒そうな視線を送った。言いにくそうに口をすぼめながら言った。
「二人ともというか、あんたも含めてだが、皆もう三十だ。いつまでも学生時代の友人と仲良しこよし、という感じじゃなくなるかもしれない」
 筧の口調には、他にも何か理由がありそうで、でもまだ言えないという雰囲気が漂っていた。田中は黙った。
「田中さんは社長だし、皆のリーダーで一番しっかりしているのは間違いないけど」
「はい」
「だけど、どこか、実はまだ、子供っぽいところがあるね」
 筧が微笑んでくれて、思わず、一緒に笑ってしまう。
「そうなんです。僕は子供ですよ。でも、皆、僕を買いかぶるから」
「もちろん、一番頼りになるのは田中さんなんだろうけど……ここを続ける、というわけにはいかないのかい。続けていれば誰も辞めないさ」
「ええ、まあ……ただ、本当にそれが良いのかわからなくて」
「それは……あの人のことと関係ある? 柿枝さん、という人のこと?」
 田中は黙った。
「あのね、あたしが言うことじゃないけど」
「ええ」
「あんた、何か、隠してんじゃないか」
「え?」
「柿枝さんのこと。何か知っていることがあるんじゃない」
「いや、それは……皆と同じです」
「そうかい。じゃあ、どう考えているんだ? あの人が今、どこにいるのか、生きているのか死んでいるのか。生きているなら、どうして帰ってこないのか」
「……生きてると思いますよ」
「その根拠は?」
「根拠は……言えないけど」
「誰かに話した方がいい」
「え?」
「何か知っているなら、誰かに話しておいた方がいい。秘密にしているとつらくなるし、今後何かがあった時の保険にもなるからね」
 筧は立ち上がった。
「さあ、それじゃあ、あたしは一度、家に帰るね。また、午後、来ますよ」
 筧はエプロンを畳んで、椅子にかけ、バッグを手にした。
「筧さん」
「はい?」
「待ってください」
「何?」
「聞いてもらってもいいですか」
「は? 何を」
「柿枝のこと。もしも、誰かに話すなら……筧さんがいい」
「どうして」
「僕らのことをある程度知っていて、冷静に判断してくれそうな人だから。他にそんな人、これから現れるとは思えない……これから何か予定があるんですか」
 筧はどこか不安そうに、田中の顔を見た。
「ないけど」
「あの日のことを」
「あたしなんかでいいのかい」
「ええ。筧さんに保険になる、と言われて、はっとしました。確かにそうだって」
 筧は座りなおした。
 
「電話口の柿枝の声は弱り切っていました」
 いろいろな言葉が思い浮かんだ中で、田中がやっと選んだのはそれだった。口にしたとたん、さまざまな気持ちがいっしょくたになって込み上げてきたが、ぐっと抑えた。
「その電話はいつ?」
「彼がいなくなって二週間くらいの時です。やっと実家や僕たちが彼の失踪に気づいた頃」
「そうなの」
「皆に言わないで処理しようと思ったんです。決して、隠そうとしたんじゃない。今ならまだ間に合う。いつもの彼の癖みたいなもんだ、って笑い話になるって」
 やはり、涙がにじんできた。しばらく鼻をすすってごまかした。筧は何も言わずに、次の言葉を待っていた。
「最初の電話は十勝とかちにいるってことだったんです」
「十勝? 北海道の?」
「そうです。北海道の真ん中。それもまた、間違いでした。酔っぱらってて、声が小さくて、よく聞き取れなかったんです。とにかく、十勝だと。十勝の牧場に勤めるんだ、と言っていました。だから、当然、帯広おびひろあたりにいると思ったんです」
「確か、柿枝さんの妹が牧場にいたって」
「ええ、だから、確かにその気はあったんだな、と後でわかりました」
「それで、その時は」
「ええ。僕はとにかく今行くからそこで待ってろ、と言って、すぐにネットで北海道行きの飛行機を取りました。帯広空港まで。羽田空港に着いてから、帯広空港のレンタカー屋に電話して車も借りました。北海道の足ならやはり車だろうと……そして……」
 十二月になったばかりの頃だった。
 帯広空港に着いた田中はもう一度、柿枝に電話した。すると、彼のスマートフォンに出たのは、別の人物だった。
 彼は丁重な態度で電話口に出たことをわび、ホテルの者だと名乗った。柿枝は泥酔していて、とても電話に出ることはできなかった。
「それで、そちらのホテルはどこなんですか」
洞爺湖とうやこです」
 彼は一時的に、Wホテルの医務室にいる、と言われた。ホテルの人が弱り切っているのが、電話の丁寧な声からもありありと伝わってきた。
 Wは洞爺湖温泉にある、超高級で有名なホテルだった。田中も何度かテレビや雑誌で見たことがある。柿枝が電話に出られない状態で、そんなホテルに十日以上も泊まっている、と聞いて田中はぞっとしたが、行かないわけにいかなかった。
 レンタカー屋で借りたカローラについているカーナビによると、少なくとも四時間はかかるようだった。
 幸い、帯広空港から出た時に雪は降っていなかった。路面は凍っていたが、スタッドレスタイヤで四駆だったので助かった。
 しかし、十勝を抜けて、富良野ふらのにさしかかった頃から、激しい雪が降ってきた。完璧に雪かきをしてある高速で東北出身の田中だから、そう動揺はしなかったが、嫌な天気になった、と思った。
 Wホテルは、洞爺湖温泉のほぼ真ん中に位置する、標高約六百メートルのポロモイ山の頂上に建っている。洞爺湖温泉を見下ろし、まるで、洞爺湖畔を治める王家か貴族の館のようだった。
 真っ白な雪景色の中、田中は車で山をあがって、ホテルに車をつけた。
 ホテルで名乗ると、すぐに中年のホテルマンたちが寄ってきて、田中を中二階にあるラウンジに連れて行った。彼らの一人は支配人だと名乗った。
 カフェラウンジと言っても、他のホテルのメインレストランと同じくらい立派で、豪華できらびやかで、でも、品がよかった。濃い茶色の色調の床と調度品をシャンデリアが照らしていた。休暇や遊びに来たんだったらどれだけよかったことか、と田中は思った。
 ローシーズンの平日で、ラウンジの中に他の客はいなかった。ラウンジの入り口のところにあるブラッセリーから、夕食の準備なのか、焼きたてパンの匂いがした。
 店内の一番奥のテーブルに、柿枝が頰杖をついていた。田中の顔を見ると、「おお」と手を挙げた。そして、少し恥ずかしそうに笑った。
 この笑顔なのだ、と田中は思った。この笑顔を見せられてしまうから、いつも自分たちは彼を許してしまう。
 テーブルの上にはシルバーのワインクーラーがあって二本のシャンパンがつっこまれていた。
「悪いな」
 田中が口を開く前に柿枝が謝った。
「飲む?」
 彼が持ち上げた、シャンパンの銘柄を確認もしなかった。
「行こうか。車で来ているんだ」
 田中は、笑顔を見せずに言った。
「え」
「すぐに出るから」
 そして、横にいるホテルマンに向かって、「お会計してもらえますか。それから、部屋の荷物をすべてまとめてロビーまで運んでください」と頼んだ。
「待てよ」
 柿枝が止めた。
「おい、せっかく、北海道の片田舎まで来たんだから、このホテルのサービスを受けていけよ。一晩でもいいから泊まって行けよ。一緒にうまい飯食って、温泉入って語ろうよ」
 お愛想で言っているのだと田中はわかっていた。柿枝だって、田中が怒り狂っているくらいわかっていただろうし、これ以上、泊まる気もないのだろう。そうでなければ、田中を呼ばない。
「とにかく、お勘定を」
「わかりました」
 支配人は慇懃に頭を下げたが、内心、躍り上がりたいくらい喜んでいるのがわかった。
「じゃあ、せめて、自分で部屋くらい片づけるよ。そのくらいやるって」
 柿枝が立ち上がったが、足下はふらついていた。
「今、一緒に帰らないなら、僕はこのまま帰る。二度と会わない」
 田中は静かに言った。そして、支配人に向かって、「お手数ですが、彼も一緒にロビーに連れてきてもらえますか。僕はロビーで待ってますので」と言うと、踵を返してロビーに下りた。
 柿枝の目を一度も見なかった。

 支配人が持ってきた領収書は、もちろん、七桁を軽く越えていた。
「予想していましたけど、さすがに頭がくらっとしました」
 田中は苦笑した。
「あんたが払ったのかい」
「ええ。会社がやっと軌道に乗ってきて、少しずつできてきた貯金で払いました。ほぼ、全額です。まるであいつが僕の通帳を覗き見したくらい、ほぼ全額でした」
 そこまで言って、田中ははっとした。
「どうして気がつかなかったんだろう。本当に覗いてたのかもしれない。ちゃんと知ってて、計算して呼んだのかもしれない。あんなべろべろに酔って、傍若無人に振る舞っていながら」
「なんのために?」
「……僕の……ヒットポイントというか、体力というか気力というか……そういうものを根こそぎ奪うために」
「奪ってどうするんだよ」
 田中はしばらく考えた。答えはあったが口にはしなかった。
「まあ、いいじゃないか。たまたまかもしれないし」
 筧は、先を促した。たぶん、それも、自分のためでなく、田中のために。
「ホテルからやっと車に乗せて、走り出しました。時間は夕方でしたが、あたりは暗くなりかけていた。北国の日暮れは早いですから。それでも、僕はどこかに泊まったり、休んだりする気はなかった。買ってあった最終のチケットが使えないのもわかっていました。だけど、なんだか、車を停めたら負けのような気がしていた。とにかく、空港に着いて車を返して、そしたら、そこで夜を明かそうと思ってたくらいでした。いや、本当に何も考えていなかった。考えず、ただ、車を走らせました」
 田中は行きに通った高速でなく、一般道を使った。
「柿枝はぐでんぐでんで後ろの席で寝ているし、少しでも彼の酔いを醒まそうとも思いました。どうせその日の飛行機には乗れないわけだし。それに、せっかく、北海道に来たのに、何も見ず、何も食べずに帰る自分をなぐさめるような気持ちもあったのかも。少しは北海道気分を味わいたい、というか」
 田中は森の中を走った。あたりはすぐに真っ暗になり、横殴りの雪が降っていた。
「僕が北国出身でなければ、躊躇するような雪でした。国道でも街灯なんてないですから、車のヘッドライトだけで進んでいきました。途中、道の駅というか、駐車場にトイレだけ付いた、休憩所のようなところがあって、そこの電光掲示板にマイナス三度という数字が出ていたのを覚えています」
 占冠しむかっぷの山の中を国道沿いに走った。雪はますますひどくなった。
「雪の中を走っているうちに、だんだんおかしな気分になってきたんです。雪は真っ白で、空と森は黒でした。ただただ、その中を走るんです。わずかに照らされたライトの中で。まるで、世界中で、僕と柿枝だけが取り残されたような気がしてきました。世界は破滅していて、もう、他の人は誰もいなくて、僕たちだけのような」
 しかし、そんな、どこかセンチメンタルな気分を壊したのも、また、柿枝だった。
「一時間ほどすると、彼がむっくりと起きたんです。そして、僕をなじり始めました」
 最初はぶつぶつと何を言っているのかわからなかった。
「いや、なじるというか、挑発する感じかもしれません」
 田中はとろくて、伊丹は表づらだけがいいバカ、百田はコンピューターができるだけ、それ以外は人として終わってる……。
「そういう言葉は初めてじゃなかったんです。これまでも何度も言われていた。だから、聞こえないふりをしていました。ただ、あれだけは耐えられなかった」
 田中が相手にしないことに気づくと、柿枝は胡雪のことを言い出した。
「とてもここでは口にできません……許せなかった。あまりにも胡雪がかわいそうで」
「あの子の……女としての性的なこと?」
「まあ、そうです」
「じゃあ、話すことない。なんとなくわかるよ」
 田中は目を伏せた。
 忘れようとしても時々、よみがえってくる。あの日の柿枝の汚れた言葉の数々。胡雪は物欲しげなみっともない女で、いつも俺を欲しそうに眺めていた。それに気づきながら無視していて、一番、利用できそうな時に抱いた。その後、あれは俺にとって最も使いやすい武器になった。彼女の気持ちは、いかようにも動かせる。あまりにも簡単に。時にはそれを楽しむために、彼女をいたぶった。ああいう時、あの女の体はこういう反応を……。
さすがに、僕は『やめろ』と言いました。彼女にもそうですが、ある意味同性としても、柿枝を許せなかった。そんな汚れた表現や言葉を使って人を汚すことは、何より彼自身を貶めることだと言ったんです。でも、そう諫めながら、どこかで、それでも彼が素面になれば、また、天使のような顔を見せ、それにまた自分は抗うことができず、彼を許してしまうだろうとも思いました。だって、だからこそ、こうして、真冬の北海道まで来ているんですから」
 しかし、柿枝の言葉は終わらなかった。
「彼は嬉しそうに笑っていました。やっと僕が反応したから、喜んだんです。そして、言いました。お前がそういうことを言うのは」
 田中はそこで苦しげに眉をひそめて、言葉を濁した。
「いいんだよ、だいたいのことはわかった」
 筧は田中を止めた。「そんな、つらくなることを思い出さなくても、もう、だいたいわかったから」
「いえ、これを言わないと、僕がその後取った行動も説明できません……彼は言ったんです。お前と胡雪が同じだからだ、と」
「え、どういうこと?」
「……わかってもらえないかもしれませんが、僕は胡雪で、胡雪は僕なんだと、そう言いました」
「胡雪ちゃんと田中さんが同じ……?」
「僕もまた、物欲しげに、かまってほしそうに、いつも柿枝の近くをうろうろしているって。行く当てのない、迷い犬みたいに。だから、拾ってやったんだと。彼の言うなりになることがわかって」
「……それで、どうしたの?」
「やめろって言いました。『やめろー』って叫びました。車の中で、あいつはへらへらせせら笑っていた。『やめろー、黙れ』って僕はバカみたいに叫び続けた。柿枝はもう何も言ってないのに。『やめろ、やめろ』って何度も何度も」
「あんたがそんなふうに怒鳴る姿なんて、想像できないよ」
「すると、柿枝がお前がそこまで感情的になるのは自分が胡雪より上だと思っているからだ、と。結局、お前は偽善者なんだ、って」
 それは違うよ、と筧はささやいたが、田中は首を振った。
「確かにそうかもしれません。意識したことはなかったけど、そこでキレたんですから」
「違うよ、彼みたいな人間はそうやって、人と人とを無意識に戦わせておかしくするんだよ。あたしも今までにそういう人を見たことあるからわかる」
 田中は小さく、ありがとう、と言った。
「それから、泣きながらなじりました。お前は結局、何もわかってない。皆がどれだけこれまでお前を心配してきたか。どれだけ大切にし、お前の事業をやってきたか。成功はもう目前なのに、どうしてそんなことしか言えないんだと。それでも、彼はずっとへらへら笑っていて、お前たちだって、俺のことをずっと利用してきたのに、お前たちの成功は全部俺のものなのに、俺がいなかったら何もできないのにって言いました。そこまで言われて、僕もやっと目が覚めたみたいになって、思わず、柿枝、お前、寂しい奴だなって言いました。もうわかったから、東京に帰ったら、会社を畳もう、全部、お前に返すから、もうすべて終わらせるって。そしたら、柿枝はやっと黙りました。その時、あれが来たんです」
「あれ? あれと言うのは」
 田中はしばらく黙った。頰杖をついて、ゆっくりと冷えた茶を飲んだ。
「信じてもらえないかもしれないけど」
「聞くのが怖い」
「大丈夫です。怖い話だけど、少なくとも表面的には怖くないから」
 筧にはめずらしく、怯えた目をした。
「あんなの、自分の田舎でも見たことない……」
 田中はそのまま遠くを見る目になった。
「鹿が道路に飛び出してきたんです。大きな、でも、角のない、メスの鹿でした。僕は慌ててブレーキをかけました。すると、その後から、少し体の小さい鹿が次々と森から出てきたんです。一列に並んで。大きな鹿を追うように。あれ、家族だったんですかねえ。つまり、暗くて白い森の中で、国道を鹿の群が突っ切ったんですよ。全部で五、六匹でしょうか。体はヘッドライトに照らされて、黒く浮かんでいました。そして、最後に、ひときわ大きなオス鹿が出てきました。角が大きく広く伸びていて、森の主か神様みたいなんです。彼はゆっくりと歩いて僕らの前を横切り、道の脇まで来るとこちらを振り返って、じっと見ていました。まったく慌てず、騒がず、ゆうゆうとしていました。僕らを見張っているようにも、家族を守っているようにも見えた。彼はもう道の脇に寄っていたから道を通ることはできたんです。でも、どこか、圧倒されるような気持ちで、僕は身体を動かせずにいた。僕も柿枝も一言も発さずに、それを見ていました。しばらくすると、彼は森の中に入っていきました。まるで映画のワンシーンのような、美しくて荘厳な風景でした」
 筧は声を出さずにうなずいた。
「彼がいなくなって、僕が車を動かそうとした時です。柿枝ががちゃり、と音を立てて車の後ろのドアを開け、鹿が行った方に走って出て行ってしまったんです。あっという間のできごとでした。おい、とも、どこ行くんだ、とも声をかける暇もなかった。森の中に入っていって、すぐに見えなくなりました」
「いなくなっちゃったのかい」
「はい。僕は一瞬遅れて車の外に出て、彼の後を追いました。でも、とても森の中まではいけず躊躇しました。森は下草に覆われていて、そこに雪が降り積もっていました。柿枝はぴょんと飛び越えるようにして中に入っていったけど、僕にはその勇気はなかった。暗くて、深くて、どのくらいの深さがあるのか、まったくわからないんです。僕はそこに立ちすくんで、おーい、おーいと呼びかけました。もちろん、返事もないし、なんの音も聞こえない。ただ、しーんと静まりかえっているだけです。柿枝の名前も呼びましたが、むなしいだけでした。驚きから我に返ると、寒さと怖さで体ががたがた震えてきました。このままではとてもいられない、と思って、車を路肩に寄せ、そこでじっと彼を待ちました。他にどうしようもなかったからです。雪はどんどん降り積もってくるし、気温はしんしんと下がっているようでした。スマートフォンは圏外で、その間、他の車は通りませんでした。車の中にいても震えが止まらなくなって、しかたなく、ゆっくりと車を動かしました。彼を捜すような感じで、のろのろと走らせ、次の中継点というか、無人の道の駅のような、パーキングとトイレが併設されている場所まで行きました。そこでトイレに入って、また、のろのろと車を運転して、元の場所まで戻りました。でも、正直、そこが本当に彼とはぐれた場所なのか……もうよくわからなくなっていました。かなりよく風景を覚えて進んだつもりだったけど……でも、森はほとんど同じようで真っ暗で。だから、さらに、先に進んで、反対側のパーキングまで行き、そして、また、ゆっくり元のパーキングまで戻る、ということを一晩中くり返しました。そのうちに、柿枝が元の道に戻ってきてくれれば会えるはずだと信じて」
「警察には届けなかったのかい」
「あの日の、あの夜の自分の行動って、今でもよくわからないんです。外は真っ白に吹雪いていて、寒くて、冷たくて、疲労と恐怖で頭がぼんやりしていました。警察って思わないでもなかったけど、あの中で、警察に来てもらっても、捜し出せると思えなかった。どう説明したらいいのかもわからなかった。何より、心のどこかで見つかるかどうかは、柿枝次第だって思っていました。つまり、彼が戻りたければこの道に出てくるし、戻りたくなければ、どんなにこちらが捜しても見つからないんじゃないかと。だって、彼は自分から出て行ったんですから。なんというか、変な話ですが、そこだけは彼の方もわかっていて、心は通じていると思っていました。帰る気なら出てこいよ、だけど、タイムリミットは朝までだ、と心の中でつぶやいていました。結局十時間以上、行ったり来たりしたんじゃないでしょうか。その間、幻覚かもしれないけど、森の中から、柿枝が息を凝らしてじっとこちらを見ている視線を感じました。だから、こちこちに冷え切った体で、もう一回、もう一回と往復することができたんです。そして、朝になった時、もういいや、と思いました。柿枝と別れたあたりで車を降りて、朝焼けの中、彼の名前を叫びました。何度も何度も。最後だと思って。そして、もう、いい、ここまでやったら、もういい。もう、僕たちは、僕は柿枝を捨てていい、って決めました。というか、柿枝が戻ることや見つかることを望んでいないって思いました。それに、探すにしても、消えるにしても、いずれにしろ、彼は自分たちを苦しめるためにやってるだけだっていうこともわかっていました。もうこりごりだとも思った。本当に、もう、付き合いきれない。そう、自分に言い聞かせていたのかもしれません」
「わかるよ」
 筧はうなずいた。それを見て、田中は少しだけほっとした。これを話したのは彼女が最初だが、初めて許された気がした。
「僕は帯広空港に帰り、車を返却して飛行機に乗りました。少なくとも、その日はぜんぜん、罪悪感も後悔もなかった。自分ができるところまではやったし、これ以上できることもないし、何より、彼は自分から出て行ったのだから」
「まあ、そうだよね」
「でも、数日すると、じわじわと恐怖感と、罪悪感が襲ってきました。どうして、自分はあそこで戻ってきてしまったのだろう。電話がつながらなかったとはいえ、警察に届けなくてよかったのか。朝になって明るくなってからもっと捜せばよかった、だとか」
 筧が立ち上がって、コンロにやかんをかけた。その時気づいた。体があの日と同じようにこちこちに硬く、冷たくなっていることに。
「疲れていたのも確かです。もう、彼のことはうんざりだった。あの頃の彼は、いつも、酔っぱらって、グチっぽくて、嫌みで、被害妄想の固まりで、嫌らしくて、人間のクズだった。昔は違っていた。本当にすばらしい男でした。だけど、僕はほとほと疲れてしまったんです。会社も忙しくなって、だんだん、彼のことを頭の隅に追いやって少し忘れてさえいました。最低ですね」
「忘れたかったんだろう」
「まあ、そうです。でも、あの妹が来て、彼が生きていると言っていたでしょう」
「あの子が言っていた時期は、あなたと会ったあとなの?」
「はい、それは間違いありません。彼は生き抜いたんだとわかりました。近くの農家だか、酪農家だかで働いていたんですね。ほっとしたのは事実です。一方で、もしかしたら、いつか、彼がここに来て、僕がやったことをすべて彼らにばらすかもしれない、とも恐れています。きっと皆、怒るだろうし、彼の言い分をそのまま受け入れるでしょうね。そうなったら、僕はおしまいだ。きっと皆は二度と僕に口を聞いてくれなくなるでしょう」
「それはわからないよ、あんたの言い分も説明しないと」
 田中は静かに首を振った。絶望的な気分だった。
「ありえません。彼はそういうの、とてもうまいんです。僕が言うことなんて、誰も信じない」
「それで、会社を畳むの?」
「わかりません。皆に相談してみないと・・・・・・でも、もしそうなったら、会社を売ってお金にして配るか……僕は別に使いたいこともないし、やりたいこともないから、家を買おうかと思って。そしたら、もしかしたら、誰かは来てくれるかもしれない」
「やっぱり、あんたは皆が好きなんだね」
 田中は筧が淹れてくれた紅茶を飲んだ。それにはレモンと蜂蜜が入っていて、甘く熱かった。
「さあ、僕は全部、話しました。次は筧さんの番ですよ。筧さんの秘密を話してください」
「どういうこと?」
「あなたにも秘密がありますよね。話してくれれば力になれます」
 筧はぎょっとして、田中をにらんだ。
「ないよ」
「あるはずです」
「そんなもの、あるわけない」
 筧の声が震えた。
「じゃあ、僕から話しましょう」
「もう話したじゃないか」
「僕の話じゃありません。あなたの話です」
「ええ?」
「すみません。筧さんのこと、少し調べさせてもらったんです」
「どういうこと?」
 彼女は田中をにらんだ。
「本当にごめんなさい。ただ、最近、ちょっとあなたのことが話題になったから……」
 田中は、筧と若い男が一緒に歩いているところを伊丹が見た、という話をした。
「それで、ちょっと知り合いの探偵に調べさせました」
「仲間内で話題になったから、すぐに興信所に調べさせるなんて、あんたたちはどれだけもの好きなんだか。ただじゃあるまいに」
「だから、すまないって言ってるじゃないですか。そのお詫びに、力になろうって言うんじゃいけませんか。筧さんだって、その方が受け入れやすいでしょう」
 筧は宙をにらんで答えなかった。
「まあ、わかっていることだけ、話します」
 田中は言った。「まず、一緒に歩いていた男とは同居していますね」
「……あんたたちが考えているようなことじゃないよ」
 筧は思わず、という感じで反論した。言ってしまったあとで、ちっと舌打ちする。
「まあいいでしょう。彼はほとんどどこにも行かず、筧さんのアパートから出てこない、でも、完全に姿を隠しているというわけでもなく、買い物に行ったり、二人で出かけたりすることもある。ただ、勤めたりはしていない」
「怖いね、見張られてたなんて」
「毎週、必ず、二人で埼玉方面に出かけている、という調査もありました。何かを探しているようだ、と」
 筧は答えなかった。
「だから、引きこもりというのとは違う。そして、どうも、少し前に大阪のホテルの清掃を二人でされていて、そろって辞めて、こちらに来られたらしい」
「よく、そんなこと、わかったね」
「筧さんが家政婦の協会の方に提出した履歴書に前職のことが書かれていましたから。問い合わせて、すぐにわかったんです。ホテルには、筧さんが新しく勤める先の人事課を探偵が装いました」
「それでも、よく向こうが話したもんだ」
「そういうことはプロの男ですから。ホテルのオーナーがよく鳴いてくれた、と言ってました」
「そうかい」
 筧はすっかり気を許したのか、ふてくされたのか、テーブルに肘をついた。
「あれは、ちょっと気に入るとぺらぺら話すやつだから」
「彼は庄田翔太、三十八歳、ホテルに提出した履歴書もファックスで送ってもらえました。彼のこれまで働いたところにも連絡してみましたが、実際、勤めたところもあるし、噓のところもあったようです」
「あたしが知らないことまで、知ってる」
 彼女はさびしげに笑った。
「ただ、まったくわからないのは、就職する前。十八歳で彼が最初の勤め先の、新聞販売所に入る以前がよくわからないそうです。履歴書に書いてあった、どこの学校にも在籍した形跡はない」
 もう、彼女は答えなかった。ただ、テーブルの傷を爪の先でさわって、コリコリと音をさせている。
「わからないことはもう一つ。あなたたちの関係です。探偵は、彼はあなたの姉弟きょうだいや親子、夫、恋人ではないだろう、と言っていました。手練れの彼でもその関係が読めない、と。それから、役所には、あなたの住民票はあるが、彼のものはなかった」
 田中はなんのメモも読まず、よどみなく話した。一度読んだものは、だいたい記憶することができる。特にこんな印象に残る話なら。
「探偵の彼は元警察官なんですよ」
 筧はやっと目を上げた。そして、田中をにらみつける。
「庄田さんについて、彼が思いつく限りの、さまざまな可能性を話してくれました」
「坊ちゃんたちはいいねえ」
 筧がやっとぼそりとつぶやいた。
「時間つぶしに、大金使って、人のことを隅々までひっくり返してさ」
 あんたたちがおもしろ半分にやったことで、あたしたちはもうここを出ていかなければならないかもしれないのに、小さな小さな声がつぶやいた。
「すみません。でも、そんなことはさせない」
 筧がにらむ。
「絶対にさせない。筧さんたちの居場所をなくすために、そんなことしたんじゃありません。力になれることはないかと思ったんです。話してください。探偵の彼が予想した可能性くらいは覚悟しています」
 筧が強い目の光でじっとこちらを見ている。田中の心の中を見透かそうとする目だった。ただ、さっきのような憎しみはない。
 田中は畳みかけた。
「彼はさっきも話した通り、なかなかの腕利きです。彼や弁護士を使えば、これまで筧さんたちができなかったこともできるかもしれません」
 信じていいのだろうか、どうだろうか……田中のことを必死で見定めようとしている。田中はそれに応えるつもりで、小さくうなずいた。
「……あの子に訊いていい? 話していいかどうか」
 筧の声がかすれていた。
「ええ、もちろん」
 筧はスマートフォンを持って立ち上がった。別室に行って、ひそひそと話している。
 意外と早く戻ってきた。
「あたしが信用できる人間ならいいってさ」
 そして、筧は話した。
 長い、長い、話を。
(第11回へつづく)

バックナンバー

原田 ひ香Hika Harada

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『三人屋』『復讐屋成海慶介の事件簿』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』『三千円の使いかた』などがある。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop