双葉社web文芸マガジン[カラフル]

まずはこれ食べて(原田ひ香)

イラスト:唐仁原多里

第1話
その魔女はリンゴとともにやってきた

 まず、玄関が違った。
 池内胡雪いけうちこゆきが外回りの営業から帰ってくると、いつも玄関のたたきに山積みになっていた小汚い靴がなくなっていた。床も、さっぱりとほこりがなくなっている。
 本来なら、喜べるはずの光景なのに、胡雪は眉根を寄せた。
 胡雪は学生時代、友人たちで医療系のベンチャーを起業した。住居としても使える、2DKのデザイナーズマンションを事務所にしている。まあ、当時、なんとなくつるんで、「就職活動したくないね」と言い合っているうちに会社を立ち上げたのを「起業」と呼ぶのならだが。
 いい歳をして、いつまでも学生気分が抜けきれず、さらに、それを許される環境である胡雪たちは、営業にでも出ない限り、ほとんどスニーカーで出勤していた。夏はクロックスのサンダルで、それらの靴を乱雑に会社の玄関に置きっぱなしにしていた。
 かくいう胡雪自身も、スニーカーを二足、パンプスを一足、置いたままだった。渋面のまま靴箱を開ける。もしも、なくなっていたりしたら(その一足は穴が空いていてゴミ箱行きなのは明白だったが)怒鳴りつけてやるつもりだった。
 しかし、そこには彼らの靴がきれいに並んでいるだけだった。棚には古新聞紙が敷かれ(彼らは新聞なんて取ってない、どこから持ちこまれたのかは謎だった)、磨かれたりはしていないものの、これまたこざっぱりとほこりが払われている。
 その時、「がははははー」という仲間たちの笑い声が部屋の中から聞こえてきた。胡雪は、こっそり靴箱をのぞいた自分が笑われたかのような気がして首をすくめた。
 仲間と立ち上げた会社なのに……。
 そんな自分にさらに頭に来て、誰にも見られていないのに顔をくいっと持ち上げて、靴を脱ぎ中に入った。すると、左手にあるキッチンに、背の高い、痩せぎすな女が、こちらに背を向けているのが見えた。何か洗い物をしているらしい。
 手洗いをするため、その手前にある洗面所に向かう。彼女は、胡雪が声をかける前にくるりと振り返った。
 頬骨の高い、がっちりとした顔立ち、短く切りそろえた髪には白いものが交じっていた。女らしさをみじんも感じさせないその風貌に、胡雪は少しほっとした。
「今日からこちらに来てます、家政婦のかけいみのりです」
 抑揚のない、低い声だった。その体型や容姿にぴったり合っている。
 それもまた、イヤじゃなかった。母の女らしい、でも、妙に強弱のはっきりした、感情的な声にいつもうんざりしていたから。
 それでも、そのくらいでは、胡雪も愛想良くはできなかった。同じくらい、ぶっきらぼうに答えた。
「あ、池内胡雪です」
 他に何か言った方がいいのかしら、年齢とか、趣味とか、会社の担当とか……迷っているうちに、彼女はまたくるっと背を向けて、皿洗いに戻ってしまった。
 こっちが気を遣っているのに、なんだ、その態度は……胡雪はまたむっとしながら立ちすくむ。
 そこに、皆にモモちゃん、と呼ばれている、IT担当社員の百田雄也ももたゆうやが来た。
 さっきの笑い声は彼のものだったのか、口元にまだそれがひっかかって、口角が上がっている。まっすぐに冷蔵庫に向かうと迷いなく開いて、ミネラルウォーターのペットボトルを取った。見なくてもそれに彼の名前が書かれているのはわかった。キッチンの飲食物には自分の名前を書く決まりになっていたからで、彼は規則をきちんと守るタイプだった。そして、ボトルに口をつけたところで、胡雪と筧の間に漂っているものを感じ取ったらしい。
「何?」
 そっちが入ってきたのに、なに、はないだろう、と胡雪は思った。
「大丈夫?」
 百田はおそるおそるといった感じで、胡雪に尋ねた。
「何が?」
 訊かれていることはわかったが、逆に訊き返してやった。
「ん? なんとなく……」
 そして、筧の後ろ姿をちらりと見た。
「冷蔵庫、開けて良かったですか」
 こちらは、そう怯えずに尋ねた。
 筧は振り返り、「あ、もちろん、どうぞ」と言った。
 百田はひょこひょこお辞儀をしながら出て行った。
 わかってる、百田はそういうやつなのだ。大学時代からの付き合いだからよくわかっている。
 ITには強く、身体ががっちりしていて、でも山登り以外のスポーツにまるで興味がない。中学二年の時に急に身長が伸び始め、特に鍛えなくても筋肉がつきやすい体質のおかげで、どこに行っても運動部に誘われる。それをうまく断るだけで、高校時代は終わってしまった、と言っていた。そのせいだろうか、いつもどこかおっかなびっくり人と付き合っている雰囲気がある。このごろは、山のためにスポーツクラブに通っているようで、その身体はさらにごつさを増してきた。
 内面も外面も女性に興味を持たれそうなタイプなのに、気づいた時にはもう女に去られているような、察しの悪いところがあった。
 百田が出て行った後、胡雪は洗面所に入った。手洗いとうがいは風邪を持ち込まないための、会社のルールでもあった。
 その洗面所に衝撃を受けた。
事務所としても、普通の住居としても使える造りのマンションで、しばしば社員が泊まっていく。そのため歯磨き粉がこびりついていた洗面台も、鏡も蛇口も、ぴかぴかになって輝いている。散乱していた歯ブラシや歯磨き粉チューブはもちろん棚に整頓されていた。
 念のため、風呂場をそっとのぞくと、こちらもまた、掃除されたばかりだということがわかった。これまで、ぐちゃぐちゃに床に置かれていた、共用のシャンプーとリンスが片隅にきれいに並んでいた。ふっとそれを取り上げて、ひっくり返して底を見る。
 そこはまだ、汚れていた。底にねばねばした黒い水垢か、カビのようなものがこびりついていた。
 胡雪は思わず、にやりとした笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
―――なんだ、家政婦とか言って、家事のプロのはずなのに、こんなことにも気づかないの?
「まだ、完璧な掃除ではないんで」
 後ろで急に声がして、シャンプーのボトルをとり落としそうになる。いつのまにか、胡雪の後ろに筧が立っていた。
「これから、二回三回と来るうちに、完璧になるから」
 それだけ言うと、ドアを閉めて出て行った。
―――やっぱ、いけ好かない女! 忍び寄るなんて、気味が悪い。口の利き方まで偉そうだ。
 胡雪は思い切り顔をしかめて、なんとか怒鳴りたくなる気持ちを抑えた。

「家政婦を雇おうと思う」
 胡雪たちが学生時代の友人と立ち上げた会社「ぐらんま」の、名目上も実質上もCEOである、田中優一郎たなかゆういちろうがそう言い出したのは一ヶ月ほど前のことだった。
「家政婦?」
 一番にそう訊き返したのは、営業担当の伊丹大悟いたみだいごで、彼は百田とは反対に、小学校に入る前からリトルリーグをうろちょろしていたような根っからの体育会体質だ。
 けれど、ずっと同じ競技を続けてそちらの方に進む、というわけではなく、小学校では野球、中学サッカー、高校ラグビー、大学アメフト、と見事なくらい一貫性がない。
 どこに行ってもそこそここなし、常にレギュラーの座を得る運動神経を持ちながら、プロを目指すほどの根性も野心もなく、それなのになぜ体育会かと問われれば、「だって、部活ってそういうもんだろ?」とすらり、と言う。
「文化系の部活だっていくらでもあるでしょ」
 昔、知り合った頃に胡雪が尋ねると、「体育会系以外の部活動なんて意味ないじゃん。数だって、そりゃいくつかはあるだろうけど……少しだろ?」と答えた。「ブラバンと……あと……なんだっけ?」
 そういうくったくのなさが、彼の良いところであり、逆に言えばそれしかない、ということにもなる。
 とりあえず、人に好かれるし、人と接することにまったくストレスを感じないし、先輩後輩の関係とか大好物、らしい。営業用のネクタイをつけて生まれてきたような男だ。彼のような人がなぜ普通に就職せず、胡雪たちの起業に加わったのか、いまだ不思議だ。
「家政婦ってさ、あれ? 人のうちに来て、子供を厳しくしつけたりするやつ」
 そこで例に出すのは『家政婦は見た』じゃないか、と思ったが、彼は新しい方の家政婦ドラマを口にした。
「会社で何するの? だいたい、会社に来てくれるの?」
 週初めの夕方行われる会議、月曜会の席でのことだった。
 午後五時に集まって、打ち合わせと報告をする。その日に決まっていたのは、一番、プライベートの予定が入りにくい曜日だったからだ。五時ならどんなに忙しくても食事をとりながら話をすることもできる。
 創立時の七年前はほとんどそのあと飲みに行ったり、酒とつまみを買ってきてそのまま宴会をしたものだ。冬なら鍋をしたし、ボージョレーヌーボーを飲んだこともあったし、たこ焼きパーティーをしたこともあった。
 けれど、この数ヶ月、一度もメンバー全員がそろったことはなかった。皆、忙しくて外に出ていたり、締め切りがせまっていたり、「そんな話をするくらいなら一分でも寝たい」と言って仮眠を取っていたりした。
 それが、一週間ほど前「話があるから集まってくれ。どうしても予定があるなら先に言って」と田中からLINEが回ってきていた。
 田中の改まった態度が少し気になりながら集まったのは、創立メンバーのこの四人だった。
「それが、会社にも来てくれるらしい」
「でも、どうして?」
 きつい口調にならないように気をつけながら、胡雪が尋ねた。
「このところ、忙しいのが続いているじゃん。前は、家事は気がついた人がやるってことだったし、アルバイトの子にやってもらってたこともあった。けど、今、そのアルバイトたちも忙しくてそこまで手が回らないのが実状じゃん。それなのに、会社に泊まったり」
 というところで、一番、会社泊が多い百田が首をすくめた。
「ご飯食べたり、風呂を使ったりってことは増えている。仕方ないと思うけど、水回りとかいつも汚れているよね。ご飯だって、外に食べに行くなんて夢のまた夢、皆、コンビニとか弁当屋とか、出前とかさ、食べられるのはまだましで、一日、何にも食べないやつもいる。いろいろ身体に悪いし、なんか、会社の空気が殺伐としてきた感じがするんだ、最近」
 それには、誰も、一言もなかった。
「毎日じゃない、一週間に三日、十四時から十八時まで四時間いてもらって、水回りの掃除と夕食と夜食を作ってもらう」
 夜食、としたのは、この会社が全体的に遅くから始まるからだった。昼少し前くらいに出社して、十時過ぎまで、というのが一番多い。営業の伊丹だけはわりに早く、九時くらいから出社して、夕方には帰る。彼はもともとそういう時間に働くのが好きだったし、取引先に合わせるからだ。最近、年下の、普通のOLの彼女ができたことも理由になっている。
「夜食、食べない人は?」
 当然、その質問が伊丹から出た。
「それは家政婦さんに伝えて減らしてもらったら。翌朝食べてもいいし、臨機応変にいこう。来てもらう時間も、とりあえず今はそう決めて、合わなかったら変えてもらう。どちらにしても、家政婦代、食費は会社の経費から出す」
「家政『婦』、ということは女性なのね?」
 胡雪はその時、ざわざわする気持ちを抑えながら初めて尋ねた。
「ん? そう」
 田中は、そこ問題か? と言いたげな顔で答えた。
「どんな人?」
「いや、まだ、決まってない。まだ、どこから雇うかも決めてないんだ。家政婦の派遣事務所というのがいくつかあるらしいからこれから声をかける。まあ、家政婦というくらいだから、女性かな」
「……あんまり若い人はどうかな」
 胡雪は意見した。そんなにうるさく聞こえないように、でも、最低限のことは言っておきたかった。
「同じくらいの歳の人はいろいろ頼みにくいと思う、三十代も……かといって、あんまり年寄りもね。身体が悪くて働くのもつらいって感じじゃ、来てもらうのも悪いし……母親ぶっていろいろこちらに指図してくるのも困るよね」
「結局、どんな歳でもだめじゃん」
 伊丹が笑いながら混ぜっ返した。
「そんなわけじゃないよ。ただ、気になることを確認してみただけ」
 胡雪は言ったが、自分が強く否定しすぎてないか、気になった。面倒くさい女と思われるのだけは避けたかった。
「わかった、わかった。とにかく、いくつかのとこに声かけてみて、推薦してもらった人と会って決めるよ。こんな感じの仕事って話して、やってくれる人がいるかどうかもわからない。それに、いやだったら、すぐにやめてもらってもいいんだよ。さっきから言っているように、事務所はいっぱいあるし、違うところにまた頼めるんだから」
 そこまで言われると、胡雪はそれ以上言えることはなかった。
 百田が最後にそっと手を挙げた。
「何、モモちゃん」
 田中が問う前に、伊丹が言った。
「その人、寝室に入ってきたりするの?」
 IT担当としてプログラムを組んでいる百田は、この中で会社にいる時間が一番長い。一つの部屋に簡易ベッドを置いて、泊まれるようにしていた。それは社員の誰もが使えることになっていたが、彼の使用頻度が最も多い。そこにパソコンを置いていて、ほとんど彼の自室のようになっている。
 会社への貢献度を考えれば、それはごく自然のなりゆきだったし、誰もそれを責めたりしていない。
「いや。掃除を頼みたければ、お願いできるけど」
「お願いしたい時は言う。言わなければ、やらないってことにしてもいいのかな」
 虫が良すぎるかな、と心配そうに付け加えた。
「ううん。好きなようにしていいと思う。こっちもこういうの初めてだし、とにかく、お互いあまり気兼ねなくやっていこう。さっきも言ったように、うまくいかなければすぐやめてもらえばいいんだし」
 そんなふうにして、家政婦を雇うことは決まった。
 
 胡雪は行き場がなくなってしまった。
 トイレに入って、便器に腰を下ろす。もちろん、そこはきれいに整えられていた。手拭きタオルや床のマット……なんとなく惰性で置かれていったものがすでに洗って取り替えられている。予備のものを使ったのか(それがどこに置かれているのかも、胡雪は把握していなかった)、あの人がここに来て最初にはぎ取り、洗濯したのか……洗濯機には乾燥機がついているからそれは可能なのだけど。
 トイレットペーパーの端が三角に折られていないのを見て、少しほっとした。そういう気配りをする女は嫌いだったし、三角に折る時の手はまだ洗われてないのだと少し前に気づいてからあれ自体も嫌いだった。
 社内で家事を努めてやらないようにして、ずっと過ごしてきた。
 女だからといって、会社の中で家事をしなければならないわけではないはずだ。それが創業メンバーの「紅一点」という立場だったとしても。
 いや、昔は、少しはやっていた。ここを立ち上げた頃には。
 鍋パーティーで空のグラスがなくなったら率先して洗っていたし、たこ焼きパーティーをする時は食材の足りないもののチェックを自然にしていた。
 いつからそれをやめたのだろう。
 いくらきれいでも、いつまでもトイレに入っているわけにもいかない。
 胡雪はジャーと水音をたてて、トイレを出た。
 そして、「ぐらんま」社の中枢部ともいえる、CEOの田中がいる部屋の前で立ち止まる。
 この会社の事務所は目黒駅から徒歩十一分(徒歩が一桁と二桁では賃料が二万は違うと不動産屋で言われた)、ビルを真上から見るとクローバーの葉というか、変形ミッキーマウスというか、少し変わったデザイナーズマンションの一角にある。
 二つの部屋と一つのダイニングキッチンが放射状につながっているような間取りだ。普通のマンションなら居間にあたる部屋を田中や胡雪、伊丹といった、事務と営業畑の人間が使っており、寝室を百田を始めとしたITチームが使っている。彼らを、胡雪たちはモモちゃんとその仲間たちと呼んでいる。百田以外はアルバイト学生だ。
 社長が事務や営業と一つの部屋に押し込まれているのは不思議だが、システムとセキュリティーに大きな比重がかかっているこの会社の性質上、誰も異論は挟まなかった。もちろん、IT部屋もベッドも、誰もが使うことができたし、田中はそういうことをむしろ楽しげに言うタイプだった。「社長の俺が一番狭いとこに押し込まれているんですよ」なんて笑って。
 しかし、その日、胡雪は自分のデスクのある居間に入りにくかった。
 半年前からずっと接触していた、阿佐ヶ谷のレディースクリニックの契約が、どたんばで白紙に戻ったからだ。
「結局、やっぱりね、患者さんのプライバシーが一番大事なのよ、うちのような病院はね」
「ですから、もちろん、うちもそれを何より一番に考えて、最も比重を割いているんです。そのため、総合病院の長谷川クリニックさんにもご契約いただけたわけですし」
 胡雪はもう何度くり返したかわからない説明をしていた。
 その時の口調が、もしかしたら、少し強かったのかもしれない。もしかしたら、少し押しつけがましかったのかもしれない。長谷川クリニックという名前を尊大に出し過ぎたのかもしれない。
 何より、どこか「だから、何度も言っているでしょ」といった雰囲気を感じたのかもしれない。
 大先生と呼ばれている、おばあちゃんの先生に、「少し考えさせてくれる?」と断られただけでなく、きっぱりと「しばらく来なくていいから」とまで言われてしまった。
 いったい、あそこにはどれだけの労力と時間を割いてきただろう。
 女性だから、と担当に任命された。この間は「うちもそういうことに手を着ける時期にきたのかもしれないわね」とまで言っていたのに。次女の貴子さんと「今度一緒に飲みましょうよ」と言い合える仲にまでなっていたのに。実行はまだだけど。
「でしたら、まずは、病院内のカルテと調剤の記録だけでも、うちのシステムで再構築させていただけませんか。外とつなげるのはそのあと、いくらでもできますので」
「そうねえ。息子と相談してみるわ」
 先月、そう言ってもらえた時には心の中でガッツポーズをしたほどだった。
 あそこの二代目、ただ無口なだけと胡雪が心の中であなどっていた「若先生」だ。大先生よりも百倍与しやすそうで、これはほとんど決まりだろう、と思った。
 しかし、今日行ったら、前と少し雰囲気が変わっていた。
 あれは若先生の差し金なのか。それとも、若先生が最近結婚したばかりの、若妻の影響なのか。
 彼女は六本木にある会員制のクラブで先生と出会ったらしい。クラブと言っても、元芸者のママがバレリーナやら舞台女優やら、そういう「夢を追いかけている若者」ばかりを集めた店で、妻もホステスではなく、バレリーナの卵という触れ込みで結婚式では発表した、というのは看護師たちに聞いた。つまりとびきり美しくて、プライドが高い女だということだ。さらに大先生に従いながら、若先生をコントロールし、あの病院をすでに制御しかけているらしいのだから、なかなかのタマだ、と思った。頭もいいのだろう。
 彼女に嫌われたのかもしれない。理由はまったく思い当たらない。ただ、同じ歳だということ以外に。
 しかし、田中も、レディースクリニックだからと女を担当にするって偏見だろ、考えが当たり前すぎるんだよ、と胡雪は心の中で毒づく。
 女が女とうまくいくわけではない。
 しかたなく、居間に入る。どんなに嫌でもいつかは行かなければならない。
 正面に座っていた、田中がすぐに顔を上げた。彼の顔は色白で少し長い。それはまじめそうに見えて、どこか公家のような品の良さも兼ね備えていた。
「あ、胡雪」
 あ、じゃないよ。帰ってきたのは聞こえていたはずなのに。
 心の中に文句があっても、胡雪はへらへらと笑ってしまった。向こうがいつもと変わらず、優しい笑顔をたたえていたから。柔らかい、こちらを包み込むような温かい笑顔。田中の得意技だ。
「どうだった?」
「ごめん。ダメだった」
 田中の前に立って、自然、小さく頭を下げる。
「いい、いい。あそこはむずかしいんじゃないかと思ってた」
 胡雪が説明しようと口を開いたところで、彼はさらに笑顔になった。
「でも……」
「しばらく様子見て、次は大悟に行ってもらおう」
 その声はもちろん、すぐ近くにいる大悟に聞こえて、「おう」と彼は手を挙げた。
 それで終わりだった。説明や言い訳さえする必要もなかった。
 胡雪は黙ったまま、自分の席に座った。田中の横で、大悟の前。つまり三人はほぼ三角形に座っている。
 営業だけでなく、事務も担当している胡雪にはいくらでも仕事があった。来月の給料の計算もしなくてはならないし、帳簿もつけなければならない。
 だけど、すぐに手をつける気がしなかった。
―――いつもそうだ。
 ここで自分は怒られたり、叱責されたりしたことがほとんどない。
 もちろん、学生時代からの友達だけでやっている職場だ。いまだ、友人関係の延長のようなところがあって、上司も部下もない。
 田中のCEOは名目上だし、社員と学生アルバイトという違いがあるだけだ。
 叱責されたのは一度だけ。会社を立ち上げて六年目、長谷川クリニックが得意先になり、急に収入が増えた時だ。まだ税理士を入れておらず、胡雪が出した確定申告に大きな記入漏れがあって税務署の調査が入った。
 あの頃は胡雪だけでなく、他の社員も仕事が倍増して、会社内がしっちゃかめっちゃかだった。
 いや、叱責といわれるほどでもなかったのかもしれない。
 税務署から田中と一緒に帰ってくると、百田や大悟が心配して「胡雪、ごめんな」と謝られた。田中には税務署を出たところで、「これから気をつけよう」と言われた。涙がどっとあふれた。
きつく叱られないのは、期待もされてないのだと思う。
 起業当時、なんとなく、事務と経理を任されることになって、簿記の資格を取った。その後、部屋の中ばかりではつまらない、と訴えて、営業もやるようになった。でも、たいした成果は出せていない。本当は、事務ばかりしていると会社の経営から取り残されるような気がして怖かった。
―――田中が社長をやってくれなかったら、この会社はどこに行ってしまっただろう。きっと早々に畳んだに違いない。大悟は生まれながらの営業、モモちゃんはITの天才。何もない、私。
 学生時代、成績だけはわりに良かったけど、それはただ真面目にがりがり勉強してきたからだ。
 デスクの片隅に、純銀製の名刺入れが置いてあった。前にここにいた柿枝かきえだが、胡雪が営業の仕事をしたい、と言い出した時に贈ってくれたものだった。すぐに錆びて黒ずむのでしばしば磨かないといけない。けれど、その時間は気持ちを落ち着かせてくれる、良い息抜きになっていた。今はピカピカに光っていて、その必要がない。すぐにでもクロスを使って磨きたいのに。
 シルバーが輝けば、輝くほど、胡雪が鬱屈を抱え込んでいる証拠となる。
 ふっと、今、柿枝君がいたら、どう言ってくれるかな、と思った。
(第2回へつづく)

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原田 ひ香Hika Harada

1970年神奈川県生まれ。大妻女子大学卒業。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞、07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞を受賞する。著書に『東京ロンダリング』『人生オークション』『母親ウエスタン』『三人屋』『復讐屋成海慶介の事件簿』『ラジオ・ガガガ』『ランチ酒』『三千円の使いかた』などがある。

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