双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第三章 遺恨

1<承前>
 恋人に結婚する意思がないとわかり、明日菜はこれ以上食いさがっても無駄だと悟った。出生届はとっくに提出されているのであり、父親であることは認めるよう確約させ、あとは養育費さえ出せば結婚しなくてもいいと譲歩した。それでもごねるようであったら、DNA鑑定でも裁判でも何でもするつもりであった。
 予想に反して、向こうはこちらの条件をあっさりとんだ。あるいは、最初から結婚を諦めさせるつもりで、わざと不誠実なところを見せたのかもしれなかった。
 そもそも養育費にしたところで、本人が出すわけではない。会社を経営する彼の親には、痛くもかゆくもない出費だったはずだ。
 その後、明日菜は両親に手伝ってもらいながら子育てをし、先のことを考えて勤めにも出るようになった。いずれは自分と子供を受け入れてくれる、寛容かんような男が現れることを期待して。
 それから二年も経たないうちに、思いがけない事態となる。元恋人の実家が事業に失敗し、多額の損失を出したのである。借金がまたたく間にふくれあがり、息子も東京の大学を辞め、故郷に戻らねばならないところまで没落した。
 自分たちを捨てた罰が当たったと嘲笑あざわらうなんて、明日菜には到底とうていできなかった。彼らの事業が地元の経済を支えていたのであり、仕事や収入源を無くす者が大勢出ることになったのだから。その中には明日菜の父親も、明日菜自身も含まれていた。
 おまけに、子供の養育費も望めなくなったのである。
 元恋人がUターンしてくるのと入れ替わるように、明日菜は東京へ向かった。彼と顔を合わせたくなかったのもあるが、すでに上京していた女友達から、仕事を紹介すると言われたのだ。
 手っ取り早く稼ぐには、都会のほうが何かと都合がいい。加えて、妊娠したため大学に進学できなかった悔いを、若いうちに晴らしたい気持ちもあった。
 紹介されたのは、夜の店であった。
 ふたり分の生活費を稼がねばならないのである。からだを売るのでなければ、あとは非合法でもない限り、何でもするつもりでいた。
 そこは比較的健全な店で、お客もみんな羽振はぶりがよかった。下品な悪さをされる心配はなく、また、仕事中に子供の面倒を見てもらえるとあって、明日菜には好都合であった。
 あいにく、無条件でちやほやされるほどの美貌は持ち合わせていない。明日菜は心を込めて応対し、お客の良い話し相手になった。おかげで、指名されることも少しずつ増えていった。
 斎藤昭吾とは、その店で知り合った。
 四十路よそじ近い彼は常連客ではなく、たまたまふらりと立ち寄ったらしかった。最初の相手を明日菜がしたのであるが、以来、来店するたびに指名してくれるようになった。
 こういう店では、とにかく自分のことを語りたがるお客が多い。そもそもが女の子に話を聞いてもらい、鬱憤うつぷんを晴らす場所なのだ。
 ところが、斎藤はそうではなかった。自分のことは積極的に話さず、水割りをちびちびと飲みながら、明日菜にあれこれと訊ねた。過去に色々とあったから、プライベートを話したがらないとわかると、世間の出来事や流行などを話題にして意見を求めた。
 そんなやりとりの中で、斎藤もポツポツと自身を語ることがあった。彼が独身で、区役所勤めの公務員であることがわかった。それから、福祉関係の部署にいることも。
 ──だから真面目なのかしら。
 人柄も温厚そうだし、言葉の端々はしばしにも誠実さが滲み出ていた。困っているひとを助けるために公務員になったのかもしれないと、明日菜は密かに想像した。一回り以上も年が離れていることもあり、頼りがいも感じた。
 彼への好感が好意へ変わるのに、そう時間はかからなかった。あるとき、明日菜は思い切って、それまで話さなかった自身のことを打ち明けた。自分のことを知ってもらいたい気持ちが高まったためである。
 妊娠したせいで大学に進学できなかったことから、相手の男が不誠実で結婚には至らず、シングルマザーとして子育てをしていることまで、包み隠さず告白する。正直、引かれるのではないかとドキドキしていたのだが、斎藤はうなずきながら耳を傾けてくれた。そして、
『ウチの窓口にも、明日菜さんみたいなひとが来ますよ』
 共感を込めて言われ、明日菜は胸に熱いものがこみ上げた。何ということのない相槌だったのに、やけに心に響いたのである。上京して以来、いや、それ以前から男性の優しさに飢えていたため、理解を示されただけで感激したようだ。
 斎藤には二度ほどアフターに誘われ、三度目で求められるままにからだを許した。そのときは、将来の約束などしたわけではなく、寂しさを紛らわせるために抱かれたようなものだった。
 そして、独り住まいのアパートの部屋に誘われて、二度目の関係を持ったとき、ここで一緒に暮らさないかと持ちかけられた。
 嬉しかったのは確かである。だが、自分ひとりならともかく、幼い子供がいるのだ。子連れで押し掛けても迷惑をかけるだけだし、どこまで本気なのかもわからない。真面目な男だから、抱いたことで責任を感じただけであるとも考えられた。
 それはできないと断っても、斎藤はどうしてと疑問を口にした。さらに、店を辞めて、子供と一緒に留守を守ってほしいとまで言ったのだ。
 真面目な人柄に惹かれていたし、間違いなく誠実な男なのだと信じられた。明日菜は涙ぐみ、真摯しんしな要請にうなずいたのである。
 そのときには、一緒に住み始めて三ヶ月も経たないうちに、彼が印象とは真逆の言動を見せるようになるなんて、想像すらしなかった。

 息子を保育園に送り届けてから、勤務先であるショッピングモールへ向かう。母子家庭を支援する団体から紹介された仕事で、明日菜は清掃員せいそういんをしていた。
 ホステスをしていたときより、正直なところ収入は減っている。だが、夜の街へは戻りたくなかった。またあんな男につきまとわれたらと思うと、躊躇ちゆうちよせずにいられなかった。
 それに、腕や脚にはまだあざや傷が残っている。それから、見えないところにも。そんなからだで、接客業などできるわけがない。たとえ肌をさらさなくても。
「おはようございます」
 ロッカールームで挨拶をすると、先輩である女性が「おはよう」と返してくれる。それから思い出したように、「あ、そうそう」と言った。
「昨日、あなたが帰ったあとで、モールに訪ねてきた男性がいたわよ」
「え?」
「わたしと但馬たじまさんが声をかけられたんだけど、あなたに連絡を取りたいから、住所か電話番号を教えてほしいって言われたの」
 心臓が不穏な高鳴りを示す。顔から血の気が引き、頬がピクピクと痙攣けいれんした。
「そ、それって、どんな男性でしたか?」
「んー、四十歳は過ぎてるように見えたけど。以前、あなたと付き合っていて、たまたま見かけたからなんて言ってたけど、それにしては年が離れすぎだし、かなり怪しいわよね。まあ、あなたはまだ若いし、オジサンに一目惚ひとめぼれされることならありそうだけど」
 彼女は軽口を叩いてから、安心させるようにうなずいた。
「心配しなくても、わたしも但馬さんも、何も教えてないわよ。そういうのは個人情報で口外できませんって、突っぱねたから」
「そうですか……」
 明日菜はとりあえず胸を撫で下ろしたものの、不安が完全に消えたわけではなかった。むしろ、膝が震えて立っていられなくなるほどに、怯えていたのである。
「その男性って、真面目で温厚そうな感じじゃなかったですか? あと──」
 外面そとづらだけはよかったあいつの印象や外見を口にしたものの、彼女は首をひねった。
「んー、言われてみればそんな感じだったかもしれないけど、その説明だけじゃ断言できないわね。写真か何かない?」
 あの男の写真など、すべて処分してしまった。スマホにあったデータも含めて。
「そういうのはないんですけど……」
「でも、心当たりがあるみたいだし、本当に付き合っていたの?」
「い、いえ。ただの知り合いです」
 先輩女性が眉をひそめる。そんな繋がりの男ではないのだと、悟られてしまったようだ。
 内縁関係にあった男に母子ともども暴力を振るわれ、挙げ句そいつが刑務所に入ったことを、今の職場では誰にも打ち明けていなかった。男で苦労するタイプだなんて、色眼鏡いろめがねで見られたくなかったからだ。
(本当にあいつが……だけど、まだ刑期は終わっていないはずだわ)
 しかし、反省の態度を示し、懲役を真面目に務めていれば、仮釈放があると聞いた。
 あいつが心から反省するはずがないことぐらい、明日菜は嫌というほどわかっている。一緒に暮らしていたときから執拗しつようで、動かなくなったねずみをいたぶる猫のようなやつだった。
 よって、仮釈放になったのだとすれば、決して悔い改めたわけではない。早く出所して仕返しを目論もくろんでいるのは、火を見るよりも明らかだ。
 彼が自分を恨んでいるのはわかっている。逮捕され、刑に服したばかりではない。役所も懲戒免職となり、すべてを失ったのだ。自棄やけを起こし、再び捕まることになってもかまわないぐらいに荒んでいるだろう。
 もちろんそれは逆恨みである。すべてはあいつ自身が招いたことだ。
 とは言え、そんな真っ当な反論が通用する人間なら、そもそも同居する女子供に暴力を振るうような真似まねはしまい。まともに話ができる相手ではないのだ。
 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
 本当にあいつが仮出所して、こちらの動向をうかがっているのだとすれば、まずいことがある。明日菜たちは、以前あの男と同居していたアパートに、まだ住んでいるのだ。
 あいつが逮捕されたあとに、当然ながら引っ越しを考えたのである。出所後にやって来る可能性があったし、嫌な思い出が部屋に染みついていたから。
 けれど、それには先立つものが必要だった。
 ホステスをしていたとき、わずかながらたくわえはあった。ところが、すべてあいつにむしり取られたため、金銭的な余裕はまったくなかった。
 アパートは2DKながら、古くて駅から遠いこともあり、家賃が安かった。大家も事情を汲んで賃借人ちんしやくにんの名義を変更し、続けて住まわせてくれたのだ。
 危機感がなかったわけではない。出所するまでの、限られた猶予しかないことぐらい重々わかっていた。実際、アパートの建て替えも決まっているし、そろそろ新しい住まいを探さなければと、準備を進めていた矢先であった。仮釈放の可能性など、少しも考えることなく。
 訪ねてきた男が、あいつだと決まったわけではない。アパートではなく勤め先に来たということは、それこそ好意を持たれるかして、見ず知らずの男が連絡先を聞き出そうとした可能性もある。そもそも、ここで働いていることは知らないはずだし、本当にあいつだったら、出所してぐ元の住所へ来るに違いなかった。
 だとしても、危機が迫っていることに変わりはない。仮釈放される可能性もゼロではないし、早急さつきゆうに手を打つ必要がある。
「ちょっと、どうしたの?」
 様子がおかしいことに、先輩も気がついたようだ。心配そうな面差おもざしを向けてくる。からだの震えが止まらなかったし、おそらく顔面蒼白がんめんそうはくになっているのではないか。
「すみません……ちょっと体調が悪くて。もしかしたら、早退させていただくかもしれません」
「そうなの? こっちのほうは大丈夫だから、主任に言って帰らせてもらいなさい」
 すぐに信じてくれたから、本当に具合が悪そうに見えるのだろう。もっとも、本当のことを話したら、かえって同情されないかもしれないが。
(……どうしてわたしが、こんな目に遭わなくちゃいけないの?)
 何か悪いことをしたというのだろうか。
 簡単に裏切るような男の子供を産んだばかりか、安易に夜の店で働き、そこで知り合った男と付き合うから、こういうことになったのだ。事件後、何人かの身内からそう非難された。
 そんなことは、誰よりも自分がよくわかっている。数え切れないほど後悔したし、眠っている我が子を抱き締めて、泣きながら謝ったことが何度もあった。事件のあとも故郷に戻らず、未だに東京にいるのは、偏見を持つ身内がいる近くにいたくなかったからだ。
 それにしても、どうしていつも女が責められるのだろう。
 妊娠させた男や、一生消えない傷を負わせた男のことを無視して、明日菜を非難した連中は、女のほうがだらしないからこうなったと言わんばかりだった。おそらく、世間にもそういう考えの者は少なくあるまい。警察や検察の取り調べでも似たようなことを言われたし、病室で最初に対応した警官は、どうして逃げなかったのかと面倒くさそうな顔を見せた。
 結局、男がどんなに酷くても、最終的に責任を負わされるのは女なのである。
 これが逆の状況で、例えば男が悪い女に引っ掛かった場合も、やはり女が責められるのだ。悪女のレッテルを貼られ、裏の事情などおもんぱかられることなく、口汚くののしられることになる。
(不公平だわ──)
 この世が男社会であることぐらい、まだ若い明日菜にも理解できる。もっともそれは、男が偉いなんて単純なものではない。男社会の本質は、身勝手な男たちを甘やかし、女をしいたげることなのだと今はわかる。
 明日菜だって、何度も逃げようとした。けれど、幼い息子がいて、しかも生活すべてを支配されていたのだ。簡単に逃げろなんて言わないでほしい。
 それでも、今は本当に逃げねばならない。何よりも自分と、最愛の息子を守るために。
 すぐに帰って荷物をまとめ、保育園で息子を引き取ろう。とりあえず、友人のところへ身を寄せるつもりだった。
 もしも昨日の男があいつで、職場を突き止められたのだとしたら、転職も考えねばなるまい。保護命令の申請も必要だろうか。
 しかしながら、あいつがそんなものに従うわけがない。狂犬はくさりつながない限り、どこまでも追ってくるのだ。
(とにかく、急がなくちゃ)
 溢れかけた涙をぬぐい、明日菜は主任のところへ早退の許可をもらいに行った。
 
(眠っているな──)
 深夜、かつて住んでいたアパートの一室を見あげ、斎藤昭吾は全身を熱くした。その胸にあったのは懐かしさなどではなく、闘志であった。
(あいつのせいで、おれは臭いメシを食わされることになったんだからな)
 養ってやった恩も忘れ、大袈裟おおげさに騒ぎ立てた女の顔が浮かぶ。憎しみが募り、嗜虐心が燃えあがった。
 彼女に熱傷を負わせたために逮捕、起訴されたのであるが、昭吾はそのことをまったく後悔していなかった。あれは単なるしつけであり、誰からも非難されるいわれはない。
 それでも、刑務所に入ったあとは反省の態度を示し、仮釈放の面接官にも悔悟かいごの情を切々と訴えた。あの女に復讐するために、一刻も早く娑婆に出たかったからだ。
(まずは子供を人質にすればいいな。そうすればあいつは逃げられない。子供には手を出さないでと泣いて頼んで、言いなりになるだろう)
 悪辣あくらつな笑みを浮かべ、昭吾はアパートの外階段を上った。足音を立てないよう、注意深く。
 部屋の前に立ち、ドアのネームプレートを確認する。そこには、かつて差し込んであった自分の札がなく、代わりにあの女の苗字みようじがあった。
(くそ。ここはおれの部屋だぞ)
 ちゃっかり住み続けるとは、なんて図々しいやつなのか。怒りがこみ上げ、昭吾は我知らずこぶしを握りしめた。
 しかしながら、好都合なのは確かだ。もしも引っ越していたら、どこにいるのか一から探さねばならない。その手間が省けたのは幸いだ。
(まだここに住み続けているってことは、おれのことが忘れられないんだな)
 つまり、あいつの人生には、自分が存在しなければならないのだ。だからあいつを好きにしていいのだと、昭吾は短絡的に結論づけた。
 ドアノブを握ると、抵抗なく回る。鍵はかかっていなかった。
 仮に施錠されていても問題はない。昭吾はキーを持っていた。こういう古いアパートは、何があっても錠交換などしないだろうと踏んで、取って置いたのだ。
 ともあれ、またも手間が省けたから、なんて幸運なのかと増長ぞうちようする。
(ていうか、やっぱりあいつは、おれが帰るのを待っていたんだな)
 だから鍵をかけていなかったのだと決めつけ、昭吾はそっとドアを開けた。
 中は電気が消えていた。それでも、アパートの外にある蛍光灯けいこうとうの光が差し込み、いくらかは様子が窺える。目につくところは、以前とほとんど変わっていないようだ。
 靴を脱いで上がり、足音を忍ばせてダイニングキッチンを抜ける。引き戸を静かに開ければ、かつてリビングとして使っていた和室であった。
 さすがにそこまでは、外の光がほとんど届かない。窓のカーテンも閉じているようで、ほぼ真っ暗であった。
 ただ、その部屋に母子の気配がないことはわかる。
(奥で眠っているんだろう)
 かつては、ふすまへだてられた隣の六畳間で寝ていたのである。
 もう電気を点けてもかまうまい。昭吾は壁のスイッチを探った。
 次の瞬間、首の後ろに衝撃がある。バチッと音がして、室内が鈍く白い光で照らされた。
 昭吾は声も立てずに意識を失い、その場に膝をついて倒れた──。

「うわっ!」
 声を上げ、昭吾は目を覚ました。途端に、首の後ろ側にヒリつく痛みを感じる。
(……何があったんだ?)
 かつて住んでいた部屋に忍び込んだところまでは、容易に思い出せた。それから、何かの衝撃を受けたことも。首の痛みは、その名残であろう。
 暗闇の中、畳に転がされていることに気がつく。しかし、起きあがろうにもからだが動かない。後ろ手に拘束され、両足首もしっかり固められていた。ひもではなく、何やら細くて硬いもので。針金か、あるいは結束バンドではないか。
(くそ、誰がこんなことを)
 この部屋に住んでいるのは、あの女だ。では、あいつがと思ったとき、
「動けないでしょう」
 男の声がした。聞き覚えはない。
「だ、誰だ?」
 問いかけてから、もしやとあおくなる。まだあいつが住んでいるものとばかり決めつけていたが、実はとっくに別の人間が入居しており、そいつに泥棒と間違われたのかもしれない。
「す、すみません。怪しい者じゃないんです。実は、私は以前この部屋に住んでいた──」
 懸命に弁解しかけたところで、
「知ってますよ。斎藤昭吾さん」
 名前を口にされ、昭吾は激しく狼狽ろうばいした。
(第10回へつづく)

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小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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