双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第二章 暴走

 平日の夜にもかかわらず、「彩」には客が集っていた。十脚の椅子が、八つも埋まるほどに。
「この豚の角煮、旨いね」
 酒よりも食べることを重視する常連客が、舌鼓を打つ。
「ありがとうございます。豚肉のいいものが手に入ったものですから。普段は、あまり肉料理は提供しないのですが、今回は特別に」
 龍樹が答えると、客は首を横に振った。
「いやあ、たまにはいいよ。身もあぶらも柔らかくて、味がしっかり染み込んでいるのにしつこくないし、これならいくらでも食べられそうだ」
「だからって、食べすぎないでよ」
 連れの女性が脇腹を突く。メタボ体型のそこも、角煮並みに柔らかだったのか、
「ここのお肉も、大将に料理してもらえばいいのに」
 と、軽口を叩いた。
「おれの肉は、そんなに旨くないよ」
「そりゃそうだな」
 笑顔でうなずいたのは、並んで坐っていたご隠居だ。
「百グラム、二十円ってところかな」
「ひでえなあ。だったら、おれはトータルで、たった一万二千円なんですか?」
「一万二千……六十キロ? あんた、なに誤魔化してるのよ。完全に八十キロをオーバーしてるくせに」
「細かいことに突っ込むなよ」
 そんなやりとりに、龍樹は燗酒かんざけを準備しながら頬を緩めた。
「ご隠居、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 一杯だけお酌をしてから、徳利とつくりをカウンターに置く。ご隠居は猪口ちよこに口をつけ、目を細めた。
 龍樹は、角煮が気に入った常連客に話しかけた。
「今、叉焼チヤーシユーをこしらえているんですよ。ラーメンに使われるのは、煮て作るものが多いんですが、中国料理で出される、で焼くタイプのものを」
「へえ、それも旨そうだなあ。いつできるの?」
「私も初めて作るので、ちょっと時間がかかりそうなんですよ。まあ、明後日あさつてには味見していただけると思います」
「うん。絶対に来るよ」
 そのとき、新たな客が来店する。
「いらっしゃいませ」
 その声に戸口を振り返ったお客たちの、何人かが複雑な顔を見せる。そこにいたのは、かつて龍樹に食って掛かった、岩井という若い男だった。さすがに気まずかったのか、あれ以来「彩」に来ていなかったのだ。
「席、空いてますか?」
 仏頂面ぶつちようづらで訊ねた岩井に、龍樹は愛想のいい笑顔で答えた。
「ええ、こちらへどうぞ」
 ご隠居の反対側の隣が空いていたので、そこを勧める。岩井は腰掛けるときに「どうも」と、年長の常連客に頭を下げた。
「久しぶりだね」
「そうですね。大将、ビール」
「承知しました」
「それから──このあいだは、すいませんでした」
 殊勝に頭を下げた若い客に、龍樹は「いいえ、気にしていませんので」と答えた。このやりとりに、事情を知らないお客は怪訝な面持ちを見せたものの、すぐにそれぞれの会話に戻った。
 すでに他で飲んできたのか、岩井の頬には赤みが差していた。だが、それほど酔ってはいない様子である。おそらく、もう一度ここへ来るのに、アルコールで勢いをつけたのであろう。きちんと謝らないことには、彼自身の気が済まなかったから。
 カウンターにグラスを置き、龍樹は「どうぞ」とびんビールを勧めた。岩井は恐縮してグラスを手にした。
「何か作りましょうか?」
「ええと、お勧めがあれば。できれば、腹にどんと来るようなやつを」
「なんだ、安心して腹が減ったのかい?」
 ご隠居のからかいに、岩井は「ええ、まあ」と苦笑いをして見せた。
「でしたら、とんかつはいかがですか?」
「え、そんなものができるんですか?」
「豚肉のいいのが入ったんですよ」
「じゃあ、頼みます」
「承知しました」
 龍樹は厚めにスライスしたロース肉に、包丁の刃先で何カ所か切り目を入れた。それから小麦粉、溶き卵、パン粉の順番でころもをつけ、中温に熱した天ぷら鍋に入れる。
 油の弾ける音が、店内の会話に色を添える。揚げ物のいい香りが、何人かの食欲もそそったようだ。興味深げに、天ぷら鍋のほうを眺めている。
 カツが揚がるまでのあいだに、龍樹はキャベツの千切りを用意した。ザクザクと手際よく、細くて綺麗に揃ったものを。
 その脳裏に、在りし日の娘が浮かぶ。
『彩華にもやらせて──』
 キッチンに立った母親にまといつき、包丁を使わせてほしいとねだる。何でも自分でやってみたい年頃だったのだ。
 怪我けがをしないようにと念を押されて、彩華が初めてこしらえた千切りキャベツは、長さも幅も不揃いで、いっそ炒め物に使ったほうがよかったような代物しろものだった。けれど、龍樹はソースをかけて、すべて平らげた。それまでに食べた、どんな千切りキャベツよりも美味しかった。
 彼女が包丁を手にしたのは、あれが最初で最後だった。次の機会を得る前に、この世から去ってしまったから。
 そんなことを思い出したものだから、千切りキャベツが太くなってしまった。これではお客に出せない。
 太くなったものを取り除き、新たに細く刻む。皿に盛り、揚がったカツを等間隔に切って並べた。
「どうぞ。こちらのソースをお使いください」
 普段、カウンターに置いてないソース瓶を添えて、とんかつの皿を岩井の前に出す。
「へえ、旨そうだ」
 彼はほくほく顔で割り箸を手にし、カツの一切れを口に運んだ。「あちっ」と声を洩らしつつ、はぐはぐと咀嚼そしやくする。
「うん、旨い」
 相好そうごうを崩した岩井に、龍樹は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「これ、すごくビールに合いますよ」
 グラスを一気に空にした岩井は、瓶に残っていたものを注ぐと、「ビール、もう一本追加で」と注文した。
「承知しました」
「大将、おれもとんかつ」
 豚の角煮を平らげたばかりの常連客が声をかける。
「まだ食べるの?」
 連れの女は渋い顔をしたものの、
「いいじゃんか。ふたりで食べようぜ」
 そう言われて、「ま、それならいいわね」と許した。彼女も食べたかったのだろう。
「大将、わたしにもとんかつを」
 ご隠居の言葉に、龍樹は驚きを浮かべた。
「え、大丈夫なんですか?」
 普段、魚と野菜しか食べないから気遣ったのである。
「わたしだって、たまには肉がほしくなるさ」
 そう言って、隣の岩井をチラッと見る。若い客が美味しそうに食べているものだから、我慢できなくなったようだ。
「承知しました。とんかつが都合ふたつですね」
「大将、おれも」
 別の客も手を上げる。
「承知しました。とんかつ三つ」
 カウンターの空瓶を下げ、せんを抜いた新しいビールを出してから、再び豚肉の下ごしらえをする。
「そう言えば、ウチの母親は、とんかつを作るときに肉を叩いてたんですけど、あれって何だったのかな?」
 岩井の問いかけに、龍樹はロース肉に包丁で切り目を入れながら答えた。
「叩くことで肉の繊維を断ち切って、火を通りやすくするんです。そうすると、肉が柔らかくなるんですよ」
「へえ」
「中には、平べったくすることで中まで火の通る時間を短くするためだと思っているひともいるみたいですが、叩いて伸びた肉は、元のかたちに戻さなくちゃ意味がないんです」
「なるほど。だけど、大将は叩いてないですよね。包丁は入れてるけど」
「これは、赤身と脂肪のあいだのスジを切っているんです。そうしないと、肉がちぢんでり返ってしまうものですから」
「ふうん」
「それに、この肉は叩く必要はないんです。前もって、充分に叩いてありますから」
「え、どうやって?」
「大きなかたまりのままのやつを天井からぶら下げて、サンドバッグ代わりに殴ったんです」
 これに、岩井が目を丸くする。けれど、龍樹の唇に笑みが浮かんでいるのに気がついて、「なあんだ」とあきれた。
「大将、それ見たことありますよ。『ロッキー』って映画でしょ」
 龍樹は笑顔でうなずくと、下ごしらえを終えた肉に小麦粉をまぶした。
「『ロッキー』か……しかし、あれが公開されたとき、君はまだ生まれていなかったろう」
 懐かしむ表情を浮かべたご隠居が、岩井に訊ねる。
「ええ。おれが生まれる十年前ですね。テレビで見たんですよ」
「なるほど」
 その会話から、ふたりの視線は自然とけっぱなしのテレビ画面に注がれる。ニュース番組が、未明の事故の続報を伝えていた。
「あ、ちょっと音を大きくしてもらえますか」
 岩井が言い、常連客がリモコンを操作する。アナウンサーの声が、店内の会話を邪魔しない程度に流れた。
『──警察では、亡くなった工藤さんがスピードを出しすぎてカーブを曲がりきれずに、崖下に転落したものと見ています』
 映し出された被害者の顔写真に、岩井は顔をしかめた。
「こいつって、あれですよね。何年か前に、子供たちを暴走車でき殺したやつ」
「ああ、そうだったかな。よく憶えてるね」
「ネットのニュースで流れてたんですけど、あの事件は憶えていましたよ。たしか、小学生が四人ぐらい死んだんですよね」
「五人ですね」
 龍樹がぽつりと言い、衣をつけた肉を鍋に入れる。油のはねる大きな音で、テレビの音声が聞こえづらくなった。
「そうそう、五人。なのに、裁判では懲役七年とか八年とかそのぐらいで、ものすごく頭にきたから記憶に残ったんです」
「そうか……そんなこともあったかな」
 ご隠居が徳利を傾ける。燗酒をすすり、ふうとため息をついた。
「悲惨な事件は途絶えることはないが、ときが経つと忘れてしまうものだね。それこそ当事者にならない限りは、何もかも他人事ひとごとに過ぎないのかもしれない」
 やり切れなさそうに言い、天ぷら鍋を見守る龍樹に視線をくれる。だが、彼は何も言わなかった。
「あの事件のとき、飲酒もスピード違反も立証できなかったから、刑期が短くて済んだんですよね。犯人の親が有力者の金持ちだから、警察が買収されて捜査に手心てごころを加えたんじゃないかって噂もありましたよ」
「いや、さすがにそれはないんじゃないかい?」
「そうとも言い切れませんよ。おかみが信用できないってのは、昔から変わっていませんから。だいたいあいつらは──」
 鼻息を荒くした岩井であったが、何かに気がついたようにトーンダウンする。
「ま、憶測ですけどね」
 つぶやくように言ったのは、前回、昂奮こうふんしすぎて大将に食って掛かったことを思い出したからではないか。話題をお上から、事故で死んだ男に戻す。
「確か、あいつは出所して間もなかったんですよね。こんな事故を起こしたってことは、結局のところ反省してなかったんですから、自業自得ですよ。遺体を調べたら、アルコールだって検出されるんじゃないですか」
「ああ、それは無理みたいだよ」
 岩井の発言を聞いていたのか、別の常連客が口を挟む。
「え、どうしてですか?」
「遺体は黒焦げどころか、ほとんど炭だったって。調べようがないんじゃないかな」
「そうなんですか。まあ、あんなやつに余計な金を使って、細かく調べる必要はないから、かえって好都合ですね」
 うなずいた岩井が、ふと気遣う眼差しを浮かべる。
「あいつのせいで子供を亡くした親たちは、今回のこれで多少は救われたんですかね?」
「どうだろう。事故で死なすのなんか生ぬるい、自分が同じ目に遭わせてやりたかったと、そう思っている親もいるんじゃないのかな」
 ご隠居が珍しく過激なことを口にする。子供が五人も亡くなっていることで、怒りがこみ上げたのではないか。
「ああ、そうかもしれませんね。大将はどう思いますか?」
 龍樹に訊ねてから、岩井は《しまった》というふうに唇を歪めた。愛娘を亡くしている彼には、酷な質問であったと気づいたのだ。ところが、
「岩井さんが言われたように、救われることを望みますよ」
 穏やかな表情で答えてもらい、安堵を浮かべる。しかしながら、彼が『多少は救われたんですかね?』と疑問を口にした瞬間、龍樹の肩がビクッと震えたことは知らなかった。
「お待たせいたしました」
 湯気の立つとんかつが、三人の前に置かれる。
「申し訳ありませんが、ソースの瓶がひとつしかなくて、回していただけますか?」
「ああ、了解」
 ソースが岩井からご隠居へ、それから他のふたりへと渡される。
「おお、最高」
 最初にかぶりついたのは、肉好きの常連客だ。笑顔を見せ、隣の連れにも皿を勧める。
「うん、美味しい」
 女性も満足げに目を細めた。今度はたっぷりのキャベツと一緒に、二口目を食べる。野菜をしっかり摂るように、普段から気をつけているのだろう。
「ああ、これは旨い」
 ご隠居も嬉しそうにうなずいた。
「肉はしばらくぶりだが、揚げ物なのに少しもしつこくない。大将の揚げ方が上手なんだろうね」
「恐れ入ります」
 龍樹は礼を述べ、猪口に燗酒を注いだ。
「それに、肉が柔らかいねえ。これは本当に、かなり叩いたんじゃないかい?」
「そうですね。頑張りました」
「肉をサンドバッグにするのは、なかなかいいアイディアかもしれないね。ストレス解消にもなるだろうし」
「だけどシルベスター・スタローンは、『ロッキー』の撮影で肉を叩きすぎて、こぶしが平らになったそうですよ。ネットの記事で読んだことがあります」
 岩井の口入れに、ご隠居は首をかしげた。
「『ロッキー』のあれは、確か冷凍庫でのトレーニングじゃなかったかね?」
「ああ、そうですね」
「凍った肉だったら、それは拳を痛めてしまうだろうよ」
 言われて、なるほどとうなずいた岩井が、新たな発案をする。
「もしもおれが、さっきのニュースの男に子供を殺された親だったら、本人に仕返しをしたらこっちが捕まるから、代わりに豚の頭にあいつの顔写真を貼って、車ではね飛ばしてやりますよ。多少は気が晴れるし、はねた豚も食べればいいんだから」
 突飛とつぴな意見に、ご隠居はやれやれという顔を見せた。
「そんなことで気が晴れるかねえ。だいたい、今はあれがあるから、車のほうもただでは済まないだろう」
「あれって?」
「ほら、エアバッグとかいう」
「ああ」
「あれが飛び出したら、元通りに直すのに費用がかかるんじゃないのかい?」
「だけど、人身事故でもエアバッグが開くのかなあ。あれって、けっこうな衝撃がないと開かないって聞いたことがあるんですけど」
「人間にぶつかるのも、かなりの衝撃だと思うが?」
「そりゃ、ぶつけられたほうはそうでしょうけど。あ、はねられたひとを守るために、フロントガラスのところで開くエアバッグがあるって、テレビで見たことがありますよ」
 ふたりのそんな会話を耳に入れながら、龍樹は他の客から注文された料理を作る。その脳裏には、事前に和久井の車に細工をしたときのことが浮かんでいた。
 GPSの発信器と、音声を電波で飛ばすタイプの盗聴器を仕掛け、さらにエアバッグも開かないようにしておいたのだ。人間に見立てた豚をはねたときと、それから、崖下に転落したときに開かないようにと。確実にやつの命を奪うために。
 すべてが終わったあと、持ち帰った豚をサンドバッグにしたのは事実だった。やり場のない思いを拳に込めて、飽くことなく殴り続けた。
 けれど、それで気が晴れることはなかったのである。
(第8回へつづく)

バックナンバー

小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop