双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第二章 暴走

1<承前>
「生きてるって?」
「ああ、ほら」
 正道は見た。アスファルトに横たわる人間のかたちをしたかたまりが、もぞっ、もぞっと、むしのように動くところを。
 そいつは生臭なまぐさ血溜ちだまりの中にいた。声すらも出せず、恨みがましげなうめきをこぼすのみ。生きているといっても、生命いのちの灯が消えるのは時間の問題だろう。
 いや、死のうが生きようが、そんなことはどうでもいい。とにかく、自分がいたこの物体を、この世に存在させておくわけにはいかない。
「早く救急車を──」
 スマホを取り出した和久井を、正道は「やめろっ!」と怒鳴りつけた。
「え?」
 唖然あぜんとする友人を尻目しりめに、ヘッドライトがぼんやりと照らす進行方向を見る。確かこの先に、ダム湖があったはずだ。
「おい、こいつを運ぶぞ」
「運ぶって、病院か?」
「馬鹿。そんなことできるわけねえだろ。おれは出所したばかりなんだぞ。しかも飲酒でスピード違反だ。二度目となったら、さらに長くぶち込まれるじゃねえか」
「だったら、どうするんだよ?」
「この先にダム湖があるだろ。あそこに沈めれば見つかることはない。仮に死体が上がったって、そのときには骨だけになってるから、おれたちが轢いた証拠はどこにも残ってねえよ」
「何だよ、おれたちって? 轢いたのはお前じゃないか」
「そのおれに運転を許したのはお前だからな。しかも、ビールを飲んでたのがわかっていながら」
「お前が無理やりハンドルを握ったんじゃねえか」
「とにかく、お前も共犯なんだよ。一緒に刑務所に入りたくなかったら、さっさと協力しろよ」
 その呼びかけに返事はなかった。和久井がいきなりガクッとひざを折り、地面に転がったのである。
「おい、こんなときに気絶なんかするなよ」
 非常事態でパニックにおちいり、失神したのかと思ったのである。ところが、そうでなかったことが、すぐに判明する。
「うがッ!」
 太腿ふとももに衝撃が走る。それは脳天まで貫くような、鋭い痛みであった。
 たまらず膝をついたとき、今度は背中に同じものを感じる。痛みと同時に、声も出せなくなるほどのしびれが神経を侵した。
 意識を失う寸前、正道は気づいた。地面に倒れていたはずの浮浪者が、いつの間にか消えていたことに。
(じゃあ、あいつが──)
 考えられたのはそこまで。正道は友人と同じく、アスファルトにからだを投げ出した。
「──はッ」
 深い息をついて闇の世界から戻ったとき、正道は運転席に坐り、ハンドルを握っていた。
(……夢だったのか?)
 山の街道で浮浪者らしき男を跳ね飛ばしたことは、すぐに思い出せた。だが、車を降りたはずなのに、また乗っている。では、あれは現実ではなかったのか。
 ところが、自分の両手が結束バンドでハンドルに固定されていることに気がつき、狼狽ろうばいする。シートベルトも締められているから、自由を完全に奪われた状態だ。
 いったい誰がこんなことをしたのか。それから、自分はどこにいるのか。車のエンジンはかかっているが、ヘッドライトが消えているためさっぱりわからない。
(和久井か? いや、あいつはこんな悪趣味なことはしない。だとすると、あの浮浪者が──)
 そこまで思考を巡らせたところで、
「気がつきましたか」
 すぐ脇から男の声がして、ギョッとする。運転席側のパワーウィンドウが開いており、外に何者かがいたのだ。
「だ、誰だ!?」
 視線を向けても、暗いために相手の顔が見えない。シルエットが確認できる程度であった。
「お前、おれが轢いた浮浪者か?」
 苛立いらだちを隠すことなくたずねると、外の男が笑ったようであった。
「やっぱり人間を轢いたと思い込んだんですね。もしかしたら、七年前に子供たちを轢き殺したときの感触がよみがえったんですか?」
 図星だったが、その手にのってたまるものかと正道は思った。あのことについて、真実を告白させようとしているかに感じられたのだ。
「ちなみに、轢いたのは豚ですよ」
「え、豚?」
「あなたが車で跳ね飛ばしたものです。もちろん生きていません。精肉用に処理されたものです」
 ということは、こいつはそれを車の前に投げて、人間を轢いたと思わせたのか。
「豚というのは、皮膚や肉の組成が人間と同じなんだそうです。服も着せておきましたから、本物の人間だと間違えても無理はありません。ついでに言えば、ああいうことに使ったあとでも、食べてしまえば少しも無駄にはなりません」
 少しも笑えない冗談だ。
「それじゃあ、あの浮浪者が」
 血溜まりの中に横たわっていたあれが、豚だったというのか。いや、呻き声が聞こえたし、動いてもいた。
「あれは私です。あなた方がどう始末をつけようとするのか、確認したかったものですから。まあ、おおかた予想どおりでしたが。特にあなたは、本当に懲りていないようですね。自らのしでかしたことを、まともにつぐなう気持ちなどなさそうだ」
 やはりこいつは、七年前のあれを調べているのだ。わざと事故を起こさせ、こちらの出方をうかがおうとしたのか。
 もっとも、人間を轢いたのではないとわかり、正道は安堵あんどしていた。要はわなにかけられただけであり、新たな罪を背負ったわけではないのだから。
(しかし、なんだってこいつは、そんな手の込んだことをしたんだ?)
 おそらく丸まる一頭であろう豚を用意した上に、自身も轢かれたように見せかけ、血の中にいたのだ。すでに着替えているようながら、あれは間違いなく本物の血だった。人間のものではなく、豚の血だったのかもしれないが。
(たぶん、豚に着せた服にも、染み込ませておいたんだろう)
 だから車のボンネットに、赤黒い染みがあったのだ。
「そういうわけで、私をダム湖に遺棄いきされては困りますので、これを使わせていただきました」
 男が手に持ったものを見せる。電動シェーバーのような形であったが、いきなりバチッと火花が散った。
「す、スタンガンか?」
「ご名答。確実に気絶させなきゃいけませんので、電圧を上げてあります」
 そのせいでふたりとも、あの場にぶっ倒れたのだ。
「おい、和久井はどうしたんだよ!?」
「離れたところで休んでもらっています。共犯とはいえ、そこまで悪人ではない。あなたと同じ目に遭わせるわけにはいきませんので」
「同じ目……お、おれをどうするつもりだ?」
「あの世で子供たちが待っていますよ。あなたが殺した子供たちが。いや、彼らは天国でしょうし、地獄に落ちるあなたには会わずに済みますね」
 その言葉で、男が殺意を抱いているのだとわかった。
「どど、どうしておれが殺されなくちゃならないんだよ。おれはちゃんと刑期を務めて、罪を償ったんだからな」
「それはいつわりの罪だ。本当なら、お前はまだ刑務所にいるべき人間だ。いや、一生出てきちゃいけないんだよ」
 男の口調がいきなり変わる。声も地の底から響くような、低いものになった。
「て、てめえに何がわかるんだよ?」
「七年前のあれは飲酒運転で、そればかりか、お前はかなりのスピードを出していた。なのに、友人に嘘の証言をさせて罪を軽くし、殺人の罪から逃れたんだ」
「殺人って何だよ。あれは事故じゃねえか」
「あれが事故なら、これも事故で済ませられるな」
 男がハンドル横のレバーを回す。ヘッドライトが点灯し、前方の景色を浮かびあがらせた。
「な、何だこれはっ!」
 正道は総毛立った。目の前には道などなく、急な斜面の先に、浮浪者を捨てようとしたダム湖が見えたのだ。
「お前はこのままダム湖に突っ込む。もっとも、その前にガソリンに引火するようにしておいたから、車は崖下で爆発して大破だ。お前もろともな」
「な、なな、何を……」
「いくらブレーキを踏んでも無駄だ。この場所まで猛スピードで突っ込んだはずみで、オイル漏れを起こしたようによそおってある。お前が酒を抜いて出頭したみたいな単なる誤魔化ごまかしじゃなく、事故に見せかける細工は綿密めんみつにやってあるよ。ハンドルもロックしてあるから回せないし、結束バンドも車が炎に包まれれば溶けるから、拘束されていた証拠は残らない」
 これは復讐なのか。そう考えて、正道は男の正体がわかった気がした。
「お前、あの子供らの親か身内なんだろう。子供が死んだ腹いせに、おれを殺そうっていうんだな」
「腹いせか」
 男がやれやれというふうに肩をすくめた。
「そういうふうにしか考えられないのでは、やはり消えてもらうしかない。この先、誰もお前によって殺されることがないようにな」
「な、なに言ってやがる。図星なんだろ。おれがこれで死んだら、警察はすぐに事故じゃなくて他殺だって見抜いて、お前を逮捕するからな。おれを恨むやつなんて、あの事件の関係者以外にいないんだ。日本の警察をなめんな」
「お前は、私の顔に見覚えがあるのか?」
 男が訊ねる。ヘッドライトがいても、反射した灯りが間接的に照らすだけで、顔がはっきり見えるわけではない。
 ただ、裁判や報道で目にした遺族の中に、こんな男はいなかった気がする。目に光の感じられない、生きているのか死んでいるのかわからないようなやつは。
「なるほど、お前が言ったことにも一理ある。これが事故ではなく事件だと判明したとして、さらに私があの事件の関係者だったのなら、捜査の手がのびるかもしれない。だが、まったく関係のない人間が疑われることはないんだよ。事実警察は、被害者と無関係な犯人による通り魔的な犯罪に関しては、多くの事件で検挙できずにいるだろう」
「だ、だけど、科学捜査で──」
「すべて燃えてしまうのに、何が残るんだ? そもそも、お前が車を凶器にした七年前の殺人だって、飲酒も速度超過も証明できなかったんだよ。ニッポンの優秀な警察は」
 いずれ捕まると脅しても、男はこの馬鹿げたことをやめるつもりはないようだ。ならば、ここは泣き落としで考えを改めさせるしかない。
「なあ、頼むよ。おれは本当に反省したんだよ。だからちゃんと刑務所に入って、しっかり罪を償ったんだからさ」
 精一杯情けない声で哀願したものの、「フン」と嘲笑ちようしようが聞こえた。
「本当に反省した人間が、親の金で刑務官を買収したり、古株の収容者にまで金をばらまいたりして、快適な生活を送ろうとするわけがない」
 正道はあおざめた。
(こいつ、どうしてそれを知ってるんだ!?)
 では、この男は警察か裁判所関係の人間なのか。そのため、何をしても逃れられるという自信があるのではないか。
「そもそもこれは、反省した人間の言葉とは到底とうてい思えないね」
 男がポケットから取り出したものを手元で操作する。すると、聞き覚えのある声が流れた。
『え? だって裁判で、もう運転はしないって泣きながら誓ったじゃないか』
『あんなの、ただの法廷戦術だよ──』
 さっき、車の中で和久井と交わした会話だった。
(こいつ、車にマイクを仕掛けてたのか?)
 あるいは自分なり、和久井なりの持ち物に、盗聴器を忍ばせておいたのか。だからこそ、ドライブルートなどの行動が筒抜つつぬけだったのだろう。
「そもそも、私をダム湖に遺棄しようとしたぐらいだ。お前の性根しようねが腐りきっているのは明らかだよ。この世にいても害を及ぼすばかりだから、消えてもらう」
「や、やめろ。そんなにおれが憎いのかよ」
「憎い?」
 男がため息をついたようだ。
「お前が殺した子供たちの親は、今でも苦しんでいる。喪失感、無力感、やり場のない怒り、様々なものに心を砕かれ、生きているのがやっとという者もいる。私はあのひとたちの言葉を何度も聞いたし、涙も見た。あのひとたちはきっと、お前のことを憎んでいるだろう」
 そこまで知っているのだから、やはりこいつは法曹ほうそう関係で、あの事故に義憤ぎふんを覚えた人間なのか。縁もゆかりもないやつが、ここまで手の込んだ復讐をするとは思えなかった。
「だが、私はお前を憎んではいない。そもそも、人間だとも思わない。だから、命を奪うことにためらいはないんだよ」
「に、憎くないのなら、何だってこんなことを──」
「憐れだからだよ」
「え?」
「お前はただ憐れで、ひととして大切なものが欠けている。だから、消えるべき存在なんだ」
 男の姿がウィンドウの外から消える。振り返っても、サイドミラーを見ても、姿を確認できなくなった。
 しかし、車が動きだしたことで、後ろから押しているのだとわかった。
「や、やめろっ。やめてくれーっ!」
 叫んでも、返事はない。男が言ったとおり、ハンドルはロックされて動かず、ブレーキもすかすかでまったく効かなかった。
 タイヤが斜面で回り出す。ギアはニュートラルに入っており、押されずとも車が加速した。
「わあああああああああっ!」
 叫び声が夜の静寂に響く。誰もいない山の中で、誰かが聞いてくれるはずもないのに、正道は声を張りあげずにいられなかった。
 ガタンっ!
 崖の縁で、車体が大きくバウンドする。次いで先頭部分を下にして、角度が垂直になった。
(落ちる──)
 崖下は水面ではなく、コンクリートの地面だった。このまま落ちたらかなりの衝撃で、まず生きていられまい。死のジェットコースターだ。全身がすくみ、睾丸こうがんがからだの奥にめり込む感覚があった。
 車が落下を始めてすぐに、ボンネットが火を噴く。これも男が言ったとおり、発火の仕掛けがしてあったらしい。正道は全身を炎に包まれた。
「──ぃぃぃぃぃぃ」
 声にならなかった。息を吸い込むなり、熱気と火が鼻と口の中に入り、粘膜ねんまくを焼いたのだ。そして、激突の衝撃がからだ中の骨を砕いたのと同時に、閃光せんこうと爆発が起こる。
 正道が今生こんじようで最後に感じたのは、激しい痛みと熱さであった。それもほんの一瞬のことで、あとはヒトの形を成さないものへと成り果てる。
 ただし、彼の犯した罪は、遺族の悲しみが続く限り、消えることはない。

 地面を伝わってくる爆発音に、和久井は肩をビクッと震わせた。その前に、友人の悲鳴も聞こえた気がしたが、何かの間違いだと思いたかった。
(……おれはいったい、どうなるんだ?)
 恐怖が身に染み込み、震えが止まらない。股間こかんがぬるいものでじんわりと濡れた。
 意識を取り戻したときから、彼は何も見ていない。どうやらアイマスクを被されているらしかった。手足を細いバンドで拘束され、木の幹らしきところにからだを縛りつけられていることも、かろうじてわかった。
 何かが燃える、いや、焦げるような匂いがする。鼻の粘膜を刺激する、嫌な臭気しゆうきだ。車がどこかに落ちて爆発したようであるが、だとしたら友人はどうなったのか。
「工藤正道は死んだ」
 聞き覚えのない男の声に、和久井は身の凍りつく恐怖を味わった。どうしてそういうことになったのか、知りたかったが聞きたくもなかった。それを知ることで、自分も同じ目に遭わされる気がしたからだ。
「工藤は君が止めるのも聞かずに酒を飲んで運転し、山道で事故を起こした。君はその途中で、工藤に車から放り出されたことにでもすればいい」
「……あ、あなたは?」
 問いかけたものの、声がかなりかすれてしまったものだから、聞こえなかったのかもしれない。男は答えなかった。
「それ以上のことは、何も言わなくていい。余計なことをしやべると、七年前の事件で君も共犯だったことが、世間に知られることになる。私はその証拠をつかんでいるからね」
 ハッタリではなく、こいつは本当にすべてを握っているのだ。和久井は確信した。
「工藤はもう罪に問われることはないが、君の場合はどうかな? 偽証罪が時効だとしても、新たな事実が判明したとなれば、被害者遺族は損害賠償を求めるだろうね」
「わ、わかりました。余計なことは喋りません」
 和久井は必死で訴えた。友人が死んだことにまったく悲しみを感じなかったのは、共犯にさせられた上に反省していないことがわかり、恨みを抱いていたからだ。
 それに、五人もの子供たちの命を奪ったのだ。死をもつて償うのは当然である。
「もちろん、私のことは決して口外しないように。まあ、私が誰なのか、わかるはずはないがね」
 そう言って、男が手に何かを握らせる。ナイフのようだ。
「あとは自分でなんとかしたまえ」
 和久井はどうにか手首のバンドを切断し、アイマスクをはずした。足首のバンドも切ってから、からだを木の幹に縛りつけていたひもを解く。
 それから、思い出して周囲を見回す。そこは山中の暗い林の中で、他に誰の姿もなかった。  
(第7回へつづく)

バックナンバー

小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop