双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第二章 暴走

 深夜に近い時刻、西にし多摩たまの郊外を走る車があった。
 車外にいれば耳障みみざわりであろうエンジン音も、車内にいれば気にならない。武者震いに似た振動も、心地よく感じられる。
「今何キロだ?」
 助手席の工藤正道くどうまさみちが、缶ビールを手に訊ねる。運転するのは友人の和久井わくいだ。
「六〇かな」
「もっと飛ばせよ」
「一般道だぞ、ここ。今だって制限速度をオーバーしてるんだからな」
「そのぐらいなんだよ。おれなら一〇〇まで出せるぞ」
「懲りないやつだな」
 和久井があきれるのも当然だろう。正道は七年前、二十二歳のときに、交通事故で死傷者を出していたからだ。それも、飲酒運転とスピード違反によって。

 あの日、前の晩にふたりは、正道の部屋で夜通し飲んでいた。
 朝になり、足元がフラつくぐらい酔っていたにもかかわらず、正道は愛車をマンションの駐車場から出した。時刻は午前八時近くであったろう。
 和久井は酔い潰れ、寝落ちしていた。正道も眠かったが、ひどく空腹だったのだ。そのため、郊外の国道沿いにある、二十四時間営業のラーメン屋に行こうとしたのである。
 胃袋いぶくろを満足させたいと、アクセルを深めに踏む。普段から制限速度など無視していたから、それは彼にとって文字通りの通常運転と言えた。
 しかしながら、酔っていたせいで、いつも以上にスピードが出ていたようだ。
 途中に通学路があり、ちょうど子供たちが登校する時刻だった。歩道や路側帯に彼らの姿が見えても、正道はブレーキを踏まなかった。むしろ邪魔だと苛立いらだった。
 だからこそ、道路上に横断歩道の存在を示す白い菱形ひしがたのマークを見つけても、スピードをゆるめなかったのだ。彼がブレーキに足をのせたのは、緩いカーブの先にあった横断歩道を渡る、小学生の姿を発見したときであった。
 おそらく制限速度の倍は出ていたのではないか。アルコールの影響で反射神経が鈍っており、ブレーキペダルを踏み込む前に、車が子供たちの列に突っ込んだ。
 そのとき現場に響いたのは、車が幼いからだを跳ね飛ばす衝撃音ぐらいで、驚くほど静まり返っていたという。無残な光景を目撃した者は、あまりのことに言葉を失っていたし、被害者には悲鳴を上げる余裕もなかったであろう。
 人間をいたことは、酔っていても理解できた。正道はブレーキから足をはずすと、アクセルを踏み込んでその場から逃げ去った。もはやラーメンどころではない。飲酒運転が発覚したら大変なことになると、己の身を案ずる判断は下せたのである。
 追われていたわけでもないのに遠回りをして、和久井が眠っている自宅マンションに帰り着く。正道は水をがぶ飲みしてから、ベッドにもぐり込んだ。あの事故で死者を出した恐れもあったのに、悪夢など見ることなく夜までぐっすりと眠った。
 目を覚ますと、和久井がテレビのニュースを見ていた。横断歩道を渡っていた小学生の列に暴走車が突っ込んだ轢き逃げ事件を、アナウンサーが興奮気味に報じていた。何しろ死者四名、重傷者三名の惨事だったのだ。
 自分がやらかしたことを他人事ひとごとのように眺めてから、正道はあれをやったのはおれだと和久井に打ち明けた。そして、今後の対処について殊勝しゆしような態度で懇願こんがんした。
 逃げおおせることができないことはわかっていた。子供たちを何人も轢いたことで、現場にはかなりの証拠が残っているはず。マンションに帰ってから、ドアミラーが片方無くなっていたことに気がついたし、ヘッドライトのカバーもひとつ壊れていた。他にもタイヤの跡など、痕跡こんせきはいくらもあるだろう。
 まして、乗っていたのは広く普及している国産車ではなく、日本に数十台しか入っていない高級外車だ。住んでいるマンションと同じく親から買ってもらったのだが、車種が割り出されれば運転者が特定されるのは時間の問題だった。
 そのため、最初から警察に出頭するつもりでいた。だが、すぐにというのはまずい。昨晩はかなり飲んだから、まだアルコールが完全に抜けていないだろう。
 正道はお茶やスポーツドリンクを多量に飲み、体内のアルコールが分解、排出される時間を稼いだ。そうして翌朝になって、地元の警察に自首したのである。そのときまでに、重体だった子供のひとりが息を引き取っていた。
 スピード違反で五人もの幼い命を奪い、自首したとはいえ轢き逃げだったのだ。おまけに、高級外車を乗り回していた加害者が、二十二歳の無職ということで非難がヒートアップした。親に何でも買い与えられる金持ちの馬鹿息子だと、世間は見下みくだしたようであった。
 当然ながら飲酒運転を疑われたが、正道はきっぱりと否定した。ひと晩中友人とゲームをして、寝不足状態で起こした事故であると主張した。
 丸一日経ってアルコールはまったく検知されず、家飲みだったから飲酒の証拠は何ひとつない。おまけに、友人──和久井が一緒に徹夜でゲームをしていたと証言したのである。また、スピード違反についても、あいにく付近には交通監視カメラなどなく、目撃証言のみで正確な速度までは捜査で明らかにできなかった。
 被害者遺族のみならず、多くのひとびとが厳罰を望んだ。交通事故で最も罪の重い危険運転致死傷罪が求められ、検察もそちらで立件できないかと検討したようである。
 しかし、飲酒運転が立証できなければそれまでだ。加害者が過去に起こしたスピード違反が明らかになったが、それで今回も無謀運転だったと断定できるものではない。結局は過失運転致死傷罪と、救護義務違反で訴追されることとなった。
 公判も、正道の親が雇った弁護士がやり手だったこともあり、加害者が過ちを認めて悔恨を述べるという流れになった。新たな事実が示されることもなく、被害者遺族はもどかしさを感じつつもどうすることもできなかった。
 そんな彼らに、正道は謝罪の意を切々せつせつと述べたものの、心の中ではこんな無意味な裁判が早く終わることを願っていた。
 法廷戦術が功を奏し、量刑は過失運転致死傷罪の上限である七年にも満たない有期刑であった。五人も殺しておいて、そんな短い刑期でいいのかと世間は非難囂々ごうごうであったが、それで刑期が変わるものではない。検察と弁護側、双方が上告せず、判決は確定となった。
 収監された正道は、親の金で刑務官を買収し、本来なら許されない差し入れを得るなどして、比較的優雅な刑務所生活を送った。受刑者の古株やリーダー格たちに現金を配ることで、所内のいじめからも守ってもらえた。
 かくして、懲役という呼び名ほどには過酷でない年月を送り、未決勾留こうりゆう期間が差し引かれたこともあって、正道は裁判で言い渡された量刑よりも早く、三十歳になる前に出所した──。

 久しぶりに再会した和久井と旧交を温め、正道の提案で深夜のドライブへと繰り出したのは、出所して三日が過ぎてからだった。
 本当は、もっと早く走りたかったのである。ところが、ひどい事故を起こして収監されたものだから、和久井のほうが気を遣ったらしい。車に近づこうともしなかった。以前はふたりで、公道をレースまがいに走ったこともあったというのに。
 昨日、一昨日おとといは街へ繰り出した。夜は酒を飲み、女も買った。しかし、本当にしたかったのは、そんなことではないのだ。
 正道のほうは、事故のことなど引きずっていなかった。それどころか、車に乗りたくてたまらなかった。貴重な二十代の大半を奪われた、さ晴らしをするためにも。自身が五人もの子供たちから、二十代ばかりか人生そのものを奪ったことなど、考えもしなかった。
 裁判での謝罪や涙は刑を軽くするためのものであったが、刑務所暮らしのあいだも、轢き殺した子供たちのために祈ったことなど皆無かいむだ。むしろ、退屈な日々に嫌気がさしたときには、あいつらが悠長ゆうちように道を横断していたからこんなことになったのだと、恨みと憎しみすら抱いた。
 刑にこそ服したものの、反省は一ミリたりともしていない。自分は悪くない、反省などしてたまるものかと、世間からさんざん非難された反動で、意固地になっていた部分もあった。
 そのため、速度超過で事故を起こしたにもかかわらず、和久井にスピードを出すよう求めたのである。これがおれという人間なのだと、自分を非難した世間に仕返ししたい気持ちもあった。
 走っていたのは西多摩の、埼玉との県境に近い山間の街道である。心置きなくドライブをたのしむために、人里から離れたのだ。また、曲がりくねっているから、平坦へいたんな道よりもスリルがある。
 とは言え、助手席に坐っているだけではもの足りない。
「なあ、運転を代わってくれよ」
 正道の申し出に、和久井はあきれた眼差しを浮かべた。
「お前、無免許だろ?」
「元免許所有者って呼べよ。それに、どうせまた取るんだから」
「え? だって裁判で、もう運転はしないって泣きながら誓ったじゃないか」
「あんなの、ただの法廷戦術だよ」
 投げやり気味に言い切ると、和久井が口を開きかける。けれど、あきらめたふうに黙りこくった。
 七年前、和久井に自分のしでかしたことを打ち明けたあと、正道は必死で頼み込んだ。飲酒運転がバレたら身の破滅だ、そのことだけは知られるわけにはいかない、ちゃんと自首するし、罪もつぐなうから、ひと晩中飲んでいたのではなく、ゲームをしていたことにしてくれと。
 友人のたっての願いであり、和久井も引き受けざるを得なかったであろう。いくら眠っていたとは言え、一緒に飲んで泥酔でいすいに近かった正道が、運転するのを止められなかった負い目があったのかもしれない。もしかしたら、裁判で真摯しんしに反省する姿を見たことで、これなら刑期が短くなっても許されるだろうと、自分に言い聞かせたのではないか。
 なのに、出所するなり手のひら返しの態度を示されては、愉快な気分ではあるまい。
「……お前、おれのこともだましてたんだな」
 ボソッとつぶやかれても、正道は平然としていた。
「敵をあざむくには、まず味方からって言うだろ」
 まだ何か言いたそうにしている和久井を、正道は牽制けんせいした。
「言っとくけど、もう裁判のやり直しはできないからな。一事不再理だし、刑も終わったんだから」
「……わかってるさ」
「心配するな。お前の偽証や証拠隠滅いんめつも、とっくに時効になっているから。まあ、刑の軽減に荷担かたんしたって、世間の非難を浴びるかもしれないけどな」
 おかしな気を起こして事実を公表するんじゃないと、要は脅したのである。和久井は不機嫌そうに唇を引き結んだ。
 彼が口を閉ざさざるを得ない理由は、他にもある。刑が確定したあと、正道の親からこの車を贈られたのである。さらに、正道が住んでいたマンションまでも。息子の刑が軽くなったお礼として。
 どこまで子供に甘いのかとあきれつつ、是非受け取ってほしいと、社会的な地位のある正道の父に頭を下げられ、和久井は厚意に甘えることにした。友人を助けるために嘘までついたのだから、そのぐらいは許されると思った。
 だが、結果的に共犯にされたわけである。正道がやったことの真実を明らかにすれば、自身にも火の粉が降りかかる。そうとわかって行動が起こせるだけの良心を、和久井はあいにく持ち合わせていなかった。もしもそんなものがあったら、七年前に正しいことをしていたであろう。
 そして今も、友人の言葉にまどわされ、ペースに乗せられつつあった。正道には誇れる学歴などなかったけれど、悪知恵だけは働くし、他人をあやつることにも長けていたのだ。
「この車、いいだろ」
「ああ。乗り心地も走りもいいし、ずっと運転していても飽きないね。まったく、お前の親には感謝しているよ」
 正道にではなく、あくまでも親にという気持ちを示したのである。すると、彼が我が意を得たりというふうにニヤリと笑う。
「これ、おれが次に買うつもりでいたやつなんだ。お前も絶対に気に入るはずだって、おれが親父に勧めたんだよ」
 和久井の顔がこわばる。結局は正道の息がかかっていたとわかり、ますますやり切れなくなった。そのため、
「だからさ、おれはこの車をずっと運転したかったんだ。なあ、代わってくれよ」
 せがまれて、どうにでもなれという心持ちになった。
「わかったよ。だけど、おれまで事故に巻き込むんじゃねえぞ」
 と、そんな厭味いやみを口にするので精一杯であった。
 路肩に停車し、運転席と助手席を交替する。正道はスタート前にアクセルを踏み込み、エンジンを音高く鳴らした。
「おお、いい音」
 ほくそ笑み、ギヤをローに入れてクラッチをつなぐ。
 オートマ車など女子供が乗るものだとさげすんで、ずっとマニュアル車ばかり乗ってきた。七年のブランクがあっても、運転はからだがおぼえており、スムーズに発進する。
「あまり飛ばすなよ」
 和久井の忠告に耳を貸すことなく、車体は夜の闇を切り裂くように疾走する。カーブの多い道を、タイヤをきしませて。
(ああ、これだよ、これ)
 正道は爽快感に包まれていた。このときをどれほど待ち焦がれていただろうか。
 ようやく取り戻した自由を、心ゆくまで堪能たんのうする。出所してから毎日飲み続けた酒も、気分を高揚させていた。心臓が鼓動を忙しく鳴らし、血が騒ぎだす。
 横目で確認すると、和久井が頬を引きらせていた。事故を起こす以前、こんなふうに正道の運転でドライブをしたときには、もっとスピードを上げても平然としていたのに。
(へっ、ビビってやがる)
 一度事故ったから、ドライバーとして信用できないと思っているのか。ならば、小便を漏らすほどに怖がらせてやろう。
 正道はアクセルを踏み込み、カーブ目がけて突進した。
「おおっ!」
 目の前にガードレールが迫る。和久井がのけって太い声を放った。
 ブレーキを踏んでハンドルを勢いよく切ると、車体がガードレールの手前で方向を変える。タイヤがアスファルトをこすり、女の悲鳴に似た音を立てた。
「──おい、気をつけろよ」
 和久井がしかめっつらで言う。情けなくおびえたのが恥ずかしかったのではないか。
「ミスじゃねえよ。わざとだよ」
「だとしても、ブランクがあるのに無茶な運転をするなよ。それに、ビールだって飲んでただろ」
「たかが缶ビールの二、三本で酔うかよ」
 正道はスピードを落とすことなく、お気に入りの高級車をひたすら走らせた。深夜の山道で、他に車が走っていないのをいいことに車線を無視し、我が物顔でハンドルを操った。
 この道は、前にも和久井と何度か走ったことがある。見通しが悪いし、対向車が来る恐れがあるため、昼間はここまでスピードが出せない。しかし、夜なら仮に対向車があっても、ヘッドライトの明かりでわかる。夜のほうが安全なのだ。
 上り坂が続いている。間もなくとうげで、そこを越えてしばらく行くと、埼玉に入るのである。
 いっそこのまま一般道だけを走って、本州を横断してやろうか。そんな計画をって愉快な気分になったとき、目の前を黒い影が横切った気がした。
 続いて、鈍い衝撃が車体を震わせる。
「あっ!」
「うわぁ!」
 ふたりの声が車内に響く。正道が急ブレーキを踏むと、派手な金切かなきり声を上げて車が停止した。
(……今のは、まさか──)
 血の気が失せるほどにハンドルを握りしめ、正道は総身そうみを細かく震わせた。たった今味わった感触が、嫌な記憶を蘇らせたのだ。
 彼が死なせた子供たちを恨み続けたのは、そのときのことを忘れたかったためもあった。幼い肉体を、車で跳ね飛ばした瞬間を。申し訳ない気持ちなど持とうものなら、どうしたって彼らを轢いたときのことを思い出さねばならなくなる。
 そもそも、あれは人間ではなかった。小柄なわりに重くて、詰まった感じのあるボールだ。
 車を介しての衝突で、しかも、かなり酔っていたのである。にもかかわらず、肉がぐにっとひしゃげる嫌な感じが、いつまでも残った。
 あのときと同じものを、またも味わうことになるなんて。
(おれ、やっちまったのか!?)
 背中を冷たい汗が伝う。
「何かぶつかったんじゃないのか?」
 和久井が息せき切って訊ねる。スピードを出しすぎたからだと責められた気がして、正道は苛立った。
「ああ。動物だろ、きっと」
「本当に?」
「何だよ、見なかったのか?」
「一瞬だったし、何も見えねえよ!」
 やりとりが口論じみてきたのは、最悪の事態になったことを互いにさとったからだ。
「とにかく、何にぶつかったのか確認しようぜ」
「ああ」
 ふたりは車を降り、まずは車の先頭を注意深く見た。そこには明らかなへこみと傷があった。
「これ、血じゃないか?」
「まさか……」
 へこみに液体が付着している。車体が黒のため色がわからないが、さわってまで確かめる気にはならなかった。何なのか、知るのも怖かった。
 続いて、ヘッドライトに照らされた道路を進む。乾いたアスファルトのところどころに、何かが飛び散ったらしきシミがあった。
 そして、三十メートルも進んだところに、横たわるものがあった。古びた衣類をまとったそれは、人間に間違いなかった。
「こいつを跳ねたのか?」
 和久井の問いかけに、正道は答えなかった。訊くまでもないだろうと思ったのと、怒りがフツフツとこみ上げていたためだ。
「何だって夜中に、こんなところをうろついてたんだよ」
 吐き捨てるように言うと、
「浮浪者じゃないのか?」
 和久井が身なりから判断する。
「だったら、適当に処理しても問題ないな」
「え?」
「どうせこの社会には不要な人間なんだ。消えちまったところで、誰も気にしないってことさ」
 正道がそう言い放ったとき、横たわった人物がかすかに動く。「うう」と小さなうめき声も聞こえた。
「おい、生きてるぞ」
 和久井が安堵あんどの匂いがする声を放った。
(第6回へつづく)

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小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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