双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

プロローグ〈承前〉

「あなたに拘束され、レイプされたあと、上条敦子は日常生活を送ることも難しかったようです。椅子に座れなかったのは、そのときのことを思い出すからでしょうね」
 淡々と述べられるあいだに、堀江の脳裏に女の顔が浮かんだ。数週間前のことで名前も忘れていたが、絶望をあらわにした面持おももちに情欲を沸き立たせ、容赦ようしやなく犯したのである。そのぐらいは憶えていた。
 もっとも、それ以前の女たちとなると、記憶はかなり怪しかった。
 犯した女が自殺したと聞かされたとき、堀江は動揺した。けれど、すぐにそれがどうしたと開き直った。女は勝手に死んだのだ。自分には無関係である。
「彼女に対して謝罪の言葉があるのなら、言ってください」
「そんなものはない」
 堀江は即答した。
「そもそも、そんな女は知らない。俺にはまったく関係ないことだ。なのに、どうして俺がこんな目に遭わされなくちゃいけないんだ。ふざけるな!」
 言葉を継ぐうちにいきどおりがこみ上げ、口調が荒々しくなる。本当に無実の罪で責められている気がしてきた。
「そうですか」
 男の口調に落胆が感じられたものだから、堀江は怪訝けげんに思った。無理にでも自白させようという、気概きがいが感じられなかったからだ。
(このぶんだと、案外すぐに解放されるかもしれないな)
 かなり調べ上げていたようだが、警察関係でないとなると、探偵か何かだろう。容疑者を拘束したり、自白させたりする権限などないのだ。恐れるに足りない。
「あなたは大勢の女性をレイプしたわけですが、それ以外の暴力、すなわち、腕力で女性を言いなりにさせたことがありません。これはなぜでしょう」
 男が訊ねる。へたに相槌あいづちを打ったら、自分がしたことだとバレてしまう。堀江は無言を貫いた。
「もちろん、あなたに犯されて処女を散らしたり、初めてでなくても乱暴な挿入そうにゆうによって、膣粘膜ちつねんまくに傷を負った女性たちもいたわけです。けれど、あなたは好んで肉体的な痛みを与えようとはしなかった。あなたが見たかったのは、凌辱されて絶望の涙をこぼす、女性たちの泣き顔だったのでしょうから」
 男がポケットから何やら取り出したようだ。ライトの光がキラッと反射した。
「つまり、ペニスで痛みを与えることはあっても、こぶしは使わない。私が調べた限りでは一度だけ、やむにやまれぬ状況で使ったようですが。この事実は、いったい何を意味するのか」
「何が言いたいんだ?」
 勿体ぶった言い回しが気にさわり、堀江は口を開いた。すると、また男の言葉遣いが変化する。
「お前自身が、痛みに弱いということだ」
 男がすっとしゃがみ込む。堀江の両腕は脇に下げられた状態で、椅子のパイプ部分に結束バンドで固定されていた。
 次の瞬間、手の甲に激烈な痛みが生じる。
「うわぁああああああっ!」
 これまでに経験したことのない激痛が、腕の神経を高速で駆けのぼり、脳に到達した。
「な、何をしやがった、てめえっ!」
「千枚通しを刺しただけさ」
「ぐああっ!」
 またも悲鳴をあげたのは、手の甲を貫いたものが乱暴に引き抜かれたからだ。今度は痛みだけでなく、熱さも感じた。
「痛みを感知する点、痛点つうてんは場所によって分布密度がことなる。手の甲は、指先の倍以上とも言われてるんだ。それと比べれば──」
 立ちあがった男が、またも千枚通しを振り上げる。今度は堀江の肩へ真っ直ぐに下ろした。
「ぐぅううううっ」
 痛みに身をよじる堀江に、男は冷淡に告げた。
「肩や背中は、痛点の密度はそれほどでもない。だが、頭に近いぶん恐怖感が著しく、心理的な痛みは増すのさ」
「は、早く抜け、馬鹿野郎!」
 罵倒ばとうしても、男は少しもひるまない。逆光で、相変わらず顔は見えていないものの、表情がまったく変わっていないように感じられた。
 それゆえ、かなり不気味である。
「抜いてもいいのか?」
「四の五の言わずにさっさとやれ。この野郎、てめえを傷害罪で訴えてやるからな」
「本当にいいのか? これを抜いたら、また別のところへ刺すことになるぞ」
「な──どこだよ、別のところって」
「最も痛みに敏感なところさ。目だよ」
 そのとき、堀江の頭に浮かんだのは、自身の目に千枚通しが突き刺さっている、猟奇的りようきてきな場面であった。
(こいつ、本当にやる気だ!)
 手の甲も肩も、少しもためらわずに刺したのである。こちらが白状するまで、あらゆるところを刺しまくるに違いない。
「わ、わかった。待て」
 刺された二箇所がズキズキと痛みを訴えるのにも我慢できず、堀江はとうとう陥落かんらくした。うながされるまま、これまでの所業しよぎようを呻き交じりに語る。女たちの名前や素性は忘れていたが、男に補足されながら、ほとんどの事犯じはんを告白したのではないか。
(こいつ、どうやって俺のことを調べ上げたんだ?)
 ここまで詳細に探るのに、かなりの時間をかけたはず。いや、そればかりでなく、やはり協力者がいないことには不可能だ。
(そうすると、女たちの誰かってことになるな)
 あるいは、その関係者か。
 もうひとつわからないのは、この男の素性である。探偵かとも思ったが、どうも違うようだ。あくまでも印象に過ぎないが、金で雇われている感じがしないのである。
 だいたい、こんなふうに拉致して拘束するなど、やることが芝居がかっている。
(俺が上条とかいう女にしたことを真似ているようだから、やっぱり復讐ふくしゆうじゃないのか?)
 だったら、拷問ごうもんしてまで自白させる必要はない。闇討やみうちでも何でもして、さっさと殺せば済むことだ。それをしないということは、自白という証拠を得て、服役ふくえきさせることが目的なのか。
 冗談じゃないと、堀江は鼻息を荒くした。千枚通しを刺されたところの痛みが、怒りとともにぶり返す。
「さて──」
 男がカメラの録画を停止する。立ち位置を変え、堀江の横に立った。
「え?」
 つられて彼を見あげ、思わず息をむ。逆光ではなく、横からライトを照らされた男の顔が、はっきりと確認できたのである。
 他人に痛みを与えても、平然としていたのだ。堀江は頭の中で、凶悪な人相を思い描いていた。
 ところが、鼻梁びりようの影があざみたいに不気味な他は、予想に反して平凡な面容めんようだ。いっそ、人畜無害じんちくむがいそうでもあった。
 年は四十代ぐらいではないか。そして、まったく見覚えがない。
「これからどうする?」
 問いかけに、堀江は面喰らった。それはこっちの台詞せりふだと思った。
「どうするって、どういう意味だ?」
「お前の自白はすべて記録した。あとはお前自身が、どう落とし前をつけるかだ」
 やくざじみたことを言われても、凡庸ぼんような顔を目にしているためか、少しも怖くない。
「私の希望はふたつだ。二度と過ちを犯さない。それから、罪の償いをする。それだけだ」
 さとす口調で言われ、堀江は憤りを募らせた。こんなやつの言いなりになってたまるものか。
「冗談じゃない。俺はこれからだって女どもを犯しまくってやる。自殺しようが、そんなことは知ったこっちゃない。俺はやりたいようにやるからな」
 拘束されながらも強気だったのは、こんなやつには何もできまいと踏んだからである。さっき、千枚通しを突き刺せたのは、こっちに顔が見えないようにしていたからなのだ。本性は見た目そのままに、気弱で平凡な男に違いない。
「だいたい、俺はお前に脅されて、怪我けがまでさせられて仕方なくしやべったんだ。何が自白だ。そんな録画なんか、役に立つものか。逆に、脅迫強要、傷害致傷で貴様きさまの社会的生命を奪ってやる」
 パイプ椅子をがたつかせ、今にも飛びかからんばかりに噛みつく。これで敵も怯むはずと、堀江は目論んでいた。
「そうか……」
 男がうなずく。表情をほとんど変えることなく、こちらをじっと見つめた。
「え?」
 堀江は胸を不穏ふおんに高鳴らせた。男の目から、光が消えたのである。
 それはけものの目であり、死者の目だった。あらゆる感情が消え去り、空洞くうどうのみが残ったかのようだ。
「な、なんだお前──」
 結局、怯んだのは堀江のほうであった。
「これ以上、話しても無駄なようだ」
「無駄って、どういう意味だ」
「お前が人として存在することを、誰も望まない」
 肩に刺さったままだった千枚通しを男がつかむ。雑草でもむしるみたいに、無造作むぞうさに引き抜いた。
「ぐはッ」
 痛みと熱さが、肩をジンジンとしびれさせる。しかし、そんなことはどうでもいい。またどこかに、本当に目に刺すつもりなのかと、堀江は震えあがった。
 カラン──。
 コンクリートの床に何かが落ちる。千枚通しだとすぐにわかった。
(なんだ。やっぱり口先だけで、度胸がないんだな)
 安堵して、堀江はまた喧嘩腰になった。武器がなければこっちのものだ。
「さっさと結束バンドを切れよ、馬鹿野郎」
 すると、男が背後から何かを出す。刃物だ。
「よしよし。素直じゃねえか」
 てっきり、それで結束バンドを切るものと思ったのである。
 ところが、普通のナイフにしては長すぎる。いや、ナイフではない。包丁ほうちようだ。刺身を切るときに使う、刃の部分が三十センチほどもある柳刃やなぎば包丁だった。
 堀江が唖然あぜんとして見つめる前で、男が包丁の刃を下向きにする。切っ先を拘束された男の太腿ふとももに当てたかと思うなり、ためらいもなくすっと押し下げた。
「あ──」
 最初に感じたのは、熱さであった。腿の深いところまで、熱を帯びたものが侵入していた。
 だが、半分も入り込んだ刃が熱いのではない。血潮ちしおあふれたことで、そう感じたのだ。
 続いて、文字通り切り裂かれた痛みと、重い痺れが筋肉の内部に広がる。
「ば、馬鹿野郎! 何しやがる」
 男を見あげて、堀江は罵倒した。ところが、彼が動じる様子はない。目だけでなく、影の差した表情も死んでいるように映った。
「ぬ、抜けよ。早く」
「いいのか?」
「な、なに?」
大腿動脈だいたいどうみやくを切断した。これを抜けば、お前は一分以内に失血死する。まあ、抜かなくても、長くは持たないが」
 死の宣告に、体温が急速に低下するのを覚える。
(こいつ……死神だ)
 だから死者の顔をしているのだ。たかが女をレイプしたぐらいで、黄泉よみの国へ連れていくつもりなのだ。
「ふ、ふざける……な──」
 口がうまく動かない。熱かったはずの太腿が、今は氷の冷たさに変わっていた。
「お前は、何人もの女性たちを殺した。レイプは心を殺すことだ」
「う……あ……」
「だが、心を殺された女性たちは、それでも強く生きようとする。お前は憐れに死ぬだけだ」
「死──」
 視界がぼやける。男が突き立てた包丁を抜いたのが、堀江が今生こんじようで目にした最後の光景だった。痛みも熱さも、あらゆる感覚が泡雪のごとく消える。
 間もなく、二度と抜け出せない闇が、堀江を包み込んだ。

第一章 面会

 都心から快速電車で三十分、北多摩きたたまの市街、JRの駅からほど近いところに「彩」がある。
 カウンター席のみの小さな飲み屋。椅子の数は十脚しかない。もっとも、脱サラした主人がひとりで切り盛りしているから、あまり大勢のお客を相手にすることはできないのだ。
 店そのものは、内装も外観も古びている。前の経営者が高齢で引退した物件を、そのまま譲り受けたのである。おかげで初期投資は安く済んだものの、目新しいところが何もない。一儲ひともうたくらむのは不可能だ。
 それでも、前の店からの常連が続けて通ってくれたり、彼らの声がけで新規のお客もぼちぼち現れたりして、どうやら食いつなぐことはできていた。路地を入った目立たない場所にありながら、気軽に入って一杯飲める店が近所にあまりないためもあって、閑古鳥かんこどりが鳴くことは滅多めつたになかった。
 今夜も、席はふたつしか空いていない。手狭な店は賑やかだった。
「大将、たいの刺身を頼むよ」
 すでにかなり酔っているらしいお客に声をかけられ、店の主人である半田龍樹はんだたつきは「承知しました」と答えた。
 五年前、四十歳で飲み屋の主人になるまで、彼はごく普通のサラリーマンだった。もともと料理好きで、自分で魚をさばくなど普段から腕を振るっていたおかげで、一年も修業することなく店をやっていけるまでになれた。自分にはもうこれしかないのだと、一心不乱に打ち込んだ成果もあったろう。
 鯛の刺身を注文したのは、上司だという常連客に連れてこられ、半年ほど前から通ってくれるようになった若い男だ。若いといっても、あくまでもこの店の客としてはであって、実際の年齢は三十路みそじを越えているだろう。
 彼は、今日はひとりである。一合徳利いちごうどつくりを傾け、燗酒かんざけをちびちびと舐めるように飲みながら、食器棚の上に置かれたテレビを眺めていた。画面がすすけて、カラー放送がセピアっぽく映るのもかまわずに。
 その他のお客は、古くからの常連である。龍樹が店を始めてからの者もいれば、前の経営者のときからのお客もいる。今日は半々ぐらいか。
 客同士も顔見知りがほとんどで、ひとりで来ても会話がはずむことから、頻繁ひんぱんに通ってくれるようだ。隣に坐った者同士、さかずきみ交わす光景も珍しくない。
 そういう利点がなければ、すぐに飽きられるであろう。料理も酒も、味はともかく種類は決して多くないのだから。
「鯛の刺身か。わたしにももらえるかね」
 常連客の中でも年配の男が注文する。彼は皆からご隠居いんきよと呼ばれていた。実際はまだ七十前で、そこまで年寄りではない。
「承知しました」
 刺身用の平皿を二枚用意し、ツマの白髪大根しらがだいこんを載せる。それから、鯛の切り身を俎に置いた。
「まったく、ようやくかよ」
 うんざりした口調でこぼしたのは若い客──岩井いわいだ。何事かとテレビを見あげると、九時のニュースが始まっていた。
 キャスターが深刻そうな面持おももちで伝えていたのは、昨年、世間を大いに騒がせた殺人事件の、裁判が開始されたというニュースであった。
「捕まえてから、いつまで引き延ばしてるんだよ。さっさと裁判なんか終わらせて、死刑にすればいいじゃねえか」
 その言葉に、龍樹は我知らず眉をひそめた。他のお客たちもテレビを見あげたのに逆らうみたいに、視線を俎に戻す。
「いや、それこそ死刑になるかならないかって事件だから、検察も慎重に調べてたんじゃないのかい」
 別の客の発言に、岩井は大きくかぶりを振った。
「だけど、やったのはこいつに間違いないのに、何を調べるっていうんですか? 時間の無駄ですよ。たぶん、人権派とかいう弁護士が、精神鑑定がどうのって難癖なんくせをつけてたんでしょう」
 やはり酔っているらしく、声が普段よりも大きい。どうあっても己の考えを認めさせたいと、意地になっているようにも感じられた。おそらく、普段から犯罪者に対して、厳しい目を向けているのだろう。
「こんなやつ、普通に考えたら当然死刑ですよ。だって、ふたり殺してるんですから。他人の人生を奪っておきながら、自分は生きるなんてのは身勝手すぎますって。ていうか、ひとり殺したら死刑でいいんです」
 声高こわだかな主張に、たしなめた客が苦笑する。もっとも、岩井に同調してうなずく者もいたのである。
 店内が殺伐さつばつとした雰囲気になりかけたのを嫌ってか、ご隠居が温和な笑顔を見せる。
「それにしても、大将は相変わらず腕がいいね。刺身を切るところなんか、もう何十年もやっているみたいに見事な手際だよ」
「いえ、そんなことはありません」
 龍樹は謙遜けんそんして答えた。
「たぶん、道具のおかげです。前のご主人から、いいものを譲っていただきましたので」
「その刺身包丁もかい?」
「ええ。まだあまり使ってらっしゃらなかったようですが、手入れがきちんとされていましたから。研ぎ方のコツも、前のご主人から教えていただいたんです」
「なるほど、見ていると、確かに切れそうだね」
「はい。何でも切れます」
 刺身を切り終えてから、龍樹はほおゆるめた。
(第3回へつづく)

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小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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