双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第五章 暗躍

 夕刻の道を、飯塚絵理いいづかえりは急いでいた。部活動を終えてからの下校はくたくたで、正直どこかで休みたかったが、それよりは空腹をどうにかしたい気持ちが勝っていた。
(晩ご飯、何かなあ)
 ハンバーグだったらいいなと、希望的観測を抱く。一昨日おととい食べたばかりだから、まずそれはないとわかっているのに。
 だけど、母親が作るハンバーグだったら、毎日食べても飽きない。タマネギのみじん切りと、豚の挽肉ひきにくのバランスが絶妙で、塩コショウの味つけだけでも美味しいのだ。もちろん、ソースもケチャップも、何だって合うけれど。
 そんなことを考えるだけで、空っぽの胃袋がグゥと鳴る。絵理は焦って周囲を見回した。誰かに聞かれたらみっともないし、恥ずかしい。
 だが、そこは住宅街の、通い慣れた通学路だ。車二台がどうにかすれ違える程度の幅しかない。日がかげって薄暗くなった今は、他にひとの姿は見当たらなかった。
 ただ、家々の窓には明かりがともり、夕餉ゆうげのよい匂いが漂ってくる。ますますお腹が空いてきて、絵理は足を速めた。
 中学校でソフトテニス部を三年間頑張ったから、高校でも迷わずテニス部に入った。初めての硬式は、ちゃんとできるのだろうかという不安はあるものの、一年生はまだボールを打たせてもらえない。軟式よりも重めのラケットで素振すぶりをし、あとは体力作りとボール拾いがメインの毎日だ。
 最高学年から新人の立ち位置に逆戻りというのは、高校一年生の宿命である。中学でよっぽど活躍し、入部して即戦力と認められる一部の生徒を除けば、運動部員は初心者からやり直しになってしまうのだ。
(でも、ウチの部の先輩たちは優しいから、もうすぐボールを打たせてもらえるかも)
 夕飯のハンバーグと同じく、そちらにも希望を抱いたとき、路地から出てきた男とぶつかった。
「あ、すみません」
 反射的にあやまったものの、そいつは振り返りもせず、無言のまま絵理が来た方向にすたすたと行ってしまった。
(なによ、あたしはちゃんと謝ったのに)
 こちらこそすみませんとか、何か言葉を返すのが礼儀ではないのか。そもそも、路地から飛び出してきたほうが悪いのだ。
 しかし、ヘタに呼び止めて怒らせ、絡まれたら面倒である。絵理は諦めて、家路を急いだ。
(あれ?)
 しばらく歩いてから気がつく。さっきから、右の脇腹のあたりがジンジンする感じがあったのだが、そこから何か温かなものが溢れているようなのだ。
 何かに似ているなとぼんやり考えて、ああ、そうかと思い出す。生理が来たときと一緒だと。しかし、先週終わったばかりだし、次は来月のはずなのに。
 軽い目眩めまいがするのは、貧血のせいなのか。それも生理のときと似ている。足が妙にフラついて、歩きづらくなった。
 急に始まったのかと視線を下半身に移した絵理は、驚愕きようがくで目を見開いた。短めのスカートから伸びた右側の脚に、幾筋いくすじも赤い模様が描かれていたのである。
「え、えっ、なに?」
 それは間違いなく血であった。本当に生理だったら、ここまでにはならない。
 途端に立ちくらみがして、その場でひざを折る。訳のわからぬまま呼吸が荒くなり、絵理は道路に倒れ込んだ。
(……何があったの?)
 脇腹のズキズキした感じが酷くなる。それが痛みだと自覚するなり、熱をともないだした。そこから出血しているようだ。しかも、かなり。
(あいつだ──)
 さっきぶつかった男のことを思い出す。記憶にあるのは黒っぽい服を着ていたことのみで、年はいくつぐらいなのかも、顔も背格好すらもわからない。網膜もうまくに残っていた後ろ姿も、かすみみたいに薄らいでゆく。
 力を振り絞ってからだを起こした絵理は、男が去ったほうに目を向けた。しかし、彼を発見するより先に、アスファルトの上にいくつもついた赤黒い跡が視界に入る。
 踏みつけられたり、こすれたりした痕跡もあるそれらは、すべて自分の血のようだ。出血は、思っている以上に多いらしい。地べたについた腰のところにも、血溜ちだまりが広がっていた。
「きゅ、救急車……」
 つぶやいて、ポケットからスマホを取り出そうとしたところで、全身から力が抜ける。道路に身を横たえた絵理は、ゼイゼイと息づかいを荒くするばかりで、声が出せなかった。
(あたし、死ぬの?)
 考えるなり、視界がぼやける。溢れた涙のせいなのだと、理解するのに時間がかかった。
 自分で救急車が呼べないのなら、誰かに助けを求めなければ。ところが、足音も、車のエンジン音も聞こえない。周りには誰もいないのだ。家はたくさんあっても、中にいるひとを呼ぶことすらできなかった。
 五感が薄らいでくる。漂っていた夕餉の匂いも、アスファルトの油くささも感じられなくなった。まぶたを開いているはずなのに、あたりがどんどん暗くなる。
 自らの命が風前ふうぜんともしびであるとわかっているのに、落ち着いていられるのが不思議だった。それはパニックが行きついた先の症状であると、危機的状況におちいったことのない女子高校生に理解できるわけがない。
 視力を完全に失ったとき、絵理は気配を感じた。何者かが、すぐそばに立っていることに。
 助けて──。
 声にならない呼びかけを、薄く開いた唇から洩らしたところで、それが誰なのかを悟る。
(あいつだ……)
 自分をこんな目に遭わせた男が戻ってきたのだ。倒れ伏した姿を見おろし、いったいどんな顔をしているのか。
 悔しさと怒りに、絵理は身を震わせた。次の瞬間、意識がすっとやみに溶け込む。
 心臓が、最後にトクンと動いたのを聞いた気がした。
「まったくひどいもんですね」
 岩井はやりきれなくため息をついた。
「どうかしたのかい?」
 左隣で飲んでいたご隠居に訊ねられ、点けっぱなしのテレビのほうに顎をしゃくる。ニュース番組のアナウンサーが、昨日起こった通り魔事件の続報を伝えていた。
「あの女子高生、亡くなったそうですよ」
「え、意識を取り戻したと、昼間のニュースで言ってたが」
「結局、出血が多すぎたせいで、ショック状態に陥ったみたいです。生きたいって気持ちが強くて、死のふちから一度は這い上がったんでしょうけど、力尽きたんですね」
「病院に運び込まれたときは、すでに心肺停止だったそうだね」
蘇生そせいして、これなら大丈夫かって安心してたんですけど」
 やれやれと肩を落としてから、岩井はカウンターの中にチラッと視線を向けた。
(……大将、変わったな)
 行きつけの居酒屋「彩」。しばらく店を閉めていたのが営業を再開してから、一ヶ月近く経つ。けれど、すべてが以前のままではなかった。
 久しぶりに顔を見たときには、龍樹は何も変わっていないようであった。だが、程なくして変化が現れた。
 お客との接し方や、愛想のいい笑顔は前と同じである。少なくとも、見た目は一緒だ。
 なのに、どこかが違う。身にまとう雰囲気が、別人のように感じられることがあった。それに、もともと不定休ではあったものの、店を開けない日も増えていた。
(疲れているだけならいいんだけど)
 今も魚をさばく龍樹の、目の輝きがにごっているかに映る。これまでは、料理に取り組む真剣な眼差しが印象的だったのに。
 かと言って、味が落ちたわけではない。だからこそ、店は相変わらず賑わっていた。
(ご隠居は、気がついているのかな?)
 ふと左側を見れば、彼はテレビのニュースに見入っている。通り魔事件が気になるのか。
「ちょっと音を大きくしてもらえるかな」
 ご隠居が声をかけ、テレビの近くにいた常連客がリモコンを操作した。
『──今回の事件があった付近では、半径二キロメートルの圏内で、昨年から五件の通り魔事件や未遂事件が起きており、警察はそれらとの関連も視野に入れて捜査を進めています』
 別のニュースに変わったので、ご隠居は「もういいよ。ありがとう」と、テレビのリモコンを手にした客に礼を述べた。
「通り魔事件、気になりますか?」
 岩井はご隠居に訊ねた。
「まあ、事件がというより、場所がね。息子夫婦が、あの近くに住んでいるんだよ」
「え、そうなんですか?」
「テレビで言っていた二キロメートルの圏内からははずれるようだが、孫もいるし、ちょっと心配になってね」
「それは気をつけるに越したことはないですよ。息子さんに連絡したらいかがですか?」
「まあ、本人たちも事件のことは知っているだろうし、けっこう注意深いほうだから、しっかり対策はすると思うがね」
 ご隠居がぐい呑みに口をつけ、燗酒をすする。それから龍樹に声をかけた。
「大将、もう一本つけてもらえるかな」
「承知しました」
 包丁を握っていた龍樹は、視線を落としたまま答えた。
(前だったら、ちゃんと顔をあげて、お客の顔を見て返事をしていたよな)
 いや、そうでもなかったかなと岩井が首をひねったとき、ご隠居の向こう側にいた客が話題に入ってきた。
「だけど、通り魔事件が五件もあったなんて、警察は注意を呼びかけていたんですかね?」
「ああ、たしかにそうだね」
 ご隠居がうなずくと、岩井の右隣の客も加わる。
「ただ、時間や狙われた被害者や、あと凶器なんかもバラバラで、同一犯とは見られてなかったみたいですよ」
「え、そうなんですか?」
 岩井は驚いて訊ねた。
「うん。今回の被害者は女子高生だったけど、これまで襲われたのは老人や会社員、あと、小学生もいたかな。性別も男女のかたよりがなかったようだし」
「へえ……」
「凶器も、女子高生は鋭い刃物のようなもので刺されたとニュースで言ってたけれど、以前の被害者は千枚通しみたいな尖ったもので刺されたり、いきなり鈍器で殴られたり、背後から紐状ひもじようのもので首を絞められた者もいたんだって。幸い、命を落とした者はいなかったってことだけど」
「それって同一犯の仕業じゃなくて、たまたまその地域で通り魔が多かったってだけじゃないんですか?」
 岩井は首をかしげた。
「ほら、シリアルキラーとかは、犯行の手口が決まっていて、使う凶器とか狙う獲物とか、だいたいいつも同じだっていうじゃないですか」
「まあ、シリアルキラーなんて大袈裟なものじゃなくて、これまでは無差別で、気の向くまま襲っていたのが、たまたま今回はうまくいって──というと語弊ごへいがあるけれど、狙いどおりに命を奪うことができたんじゃないかな」
「なるほど」
 そういう見方もあるなと、岩井はうなずいた。すると、ご隠居が不安げな面持おももちを見せる。
「そうすると、今回のことで味を占めて、また誰かが刃物で襲われるんじゃないのかい」
 息子夫婦が事件の被害者になりはしないかと、心配なのであろう。
「いや、こんな大事になったものだから、まずいことになったって、今ごろ震えているかもしれませんよ」
 岩井の言葉は、不安を払拭ふつしよくするだけの説得力がなかったようだ。ご隠居は無言のまま、徳利に残っていた酒をぐい呑みに注いだ。
 そのタイミングで、新しい燗酒がカウンターに置かれる。
「お待たせいたしました」
「ああ、どうも」
 龍樹が空の徳利をさげ、再び虚ろな目で包丁を握る。しかし、岩井の関心はすでに大将から、通り魔事件のほうに移っていた。
「だけど、あの事件があった場所って、映像で見る限り普通の住宅街じゃないですか。あんなところで殺人が起こるなんて、誰も思わないですよね」
「うん。ただ、家が多いぶん物陰ものかげもあって、隠れるのには都合がいいのかもね」
「たしかに、いきなり物陰から出て襲われたら、防ぎようがないですね」
「高校一年生……何歳かな?」
 ご隠居がつぶやくように訊ねる。
「十五、六歳ですかね」
 岩井が答えると、別の客が補足する。
「ニュースで十五歳だと言ってましたね」
「十五歳……まだまだこれからじゃないか」
 やるせなさげにかぶりを振ったご隠居の目に、涙が光っていた。
「それなのに、暴漢のせいで命を落とすなんて。本人も無念だろうし、親御さんも切なくてたまらんだろうなあ」
「そうですね」
 岩井も同意してうなずいた。
「ただ、これまでの通り魔事件との関係が明らかになれば、それらの証拠や証言が洗い直されて、犯人逮捕に繋がるかもしれませんよ」
「うむ……それを祈るしかなさそうだな」
 ご隠居が力なく言ったとき、
「難しいんですよね」
 ぽつりと告げられて、通り魔の話題に加わっていた客がハッとする。いつの間にか龍樹が前にいて、遠くを見るような顔つきで腕組みをしていたのだ。
「難しいって?」
 岩井が訊くと、彼はわずかに目を伏せた。
「通り魔の捜査です。犯行に至る動機がちゃんとある事件なら、被害者と加害者には必ず接点があるはずですから、警察はそれを探します。だけど通り魔は、犯罪行為そのものが動機ですから、被害者と加害者の接点がほぼないと言えます。ですから、現場に明らかな証拠が残っていない限り、警察は闇雲やみくもに犯人を捜すしかないんです」
 いや、そんなことはないでしょうと言いかけて、岩井は口をつぐんだ。龍樹は娘を殺され、警察の捜査を間近で目にしたのだ。ただの当て推量ではなく、経験に基づく見解かもしれない。
「だけど、現場付近で聞き込みをして、怪しい人間をピックアップするとか」
 岩井の右隣の客が言う。どこか戸惑っている様子なのは、龍樹がこんなふうにお客の会話に割って入ることが珍しいからであろう。
「そもそも犯罪をする人間、それも通り魔のように見ず知らずの人間を襲う卑劣なやつは、他者との繋がりを絶っている場合が多いんです。だから、聞き込みをして答えてくれる一般のひとびとが、そんなやつの存在を知っているはずがないんです。それこそ怪しいとも思われていない、無に等しい人間なんですから」
「ああ、なるほど」
 隣の客は納得したようながら、岩井にはに落ちないところがあった。龍樹の主張はなるほど一理あるかもしれないが、偏見というか、決めつけがあると感じたのだ。
 まるで、すでに犯人を知っているかのように。
「つまり、打つ手なしってことですか?」
 いささか挑発的に問うと、龍樹が目を細める。すぐには答えず、じっと見つめてきた。
「……付近を制服警官が頻繁ひんぱんにパトロールすれば、そのあいだは事件が防げるでしょうね。犯人は絶対に見つかりたくないんですから、警官を見かけたらすぐに逃げますよ」
「じゃあ、捕まえることができないじゃないですか」
「だから難しいんです」
 静かに断定してから、龍樹が天井を仰ぐ。少し間があってから、
「私の娘を殺した犯人が捕まったのは、幸運だったんでしょうね。あいつと娘のあいだに、事件が起こるまで接点なんてなかったわけですから」
 この言葉が耳に入ったお客の、ほとんどが動揺した。彼が事件のことを自ら口にするなんて、これまで一度もなかったからだ。
(……大将、やっぱり変じゃないか?)
 そのとき、客のひとりが訳知り顔で言う。
「そう言えば、あいつが死んだんだってね」
「え、あいつ?」
 その客の連れが訊ねる。
「大将の娘さんを殺した男だよ。刑務所の中でいさかいに巻き込まれて、事故死したって」
 岩井は初耳だった。ご隠居は静かに酒をすすっていたから、知っていたらしい。
(じゃあ、大将はそのせいで、様子がおかしかったのか)
 彼は犯人の更正を願っていたと聞いた。なのに、罪をつぐなうことなく命を落としたものだから、怒りのやり場がなくなってしまったのではないか。
「ええ、そうなんです」
 龍樹がうなずく。無表情でこそなかったものの、どんな感情なのかうかがえない、野生動物みたいな顔をしていた。
 それは、遠くを見つめるとらに似ていた。
 と、彼が不意に口許くちもとをほころばせる。その笑顔は、お客の前で見せる愛想のいいものとは異なり、真逆の印象を見る者に与えた。
「こんなことになるのなら、私があいつを殺すんでした」
 もしかしたら、龍樹は冗談のつもりで言ったのか。しかし、誰も笑えるはずがない。店内が重苦しく静まり返った。
 そのとき、ご隠居がポツリと言う。
「酒だけが、我々の悩みを消してくれるのさ」
 その一言で、客たちは救われた。
(第18回へつづく)

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小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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