双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第四章 彷徨ほうこう

 かなり迷ったものの、怜治はまたあの居酒屋を訪れた。他に適当な店がなかったのである。明日は休みだから、是非とも飲みたい気分になっていた。
(あいつ、またいるのかな……)
 不愉快極まりない対応を見せた、あの男。ベテランっぽい風格がありながらも、店員としては最低最悪だった。
 あんな態度の悪いやつは、とっくにクビになっているはず。そう期待していたものの、店内に足を踏み入れたのとほぼ同時に、カウンターの中にいたそいつを見つけてしまった。
(チッ、いやがった)
 怜治は彼と目を合わせないよう顔を伏せ、奥のカウンター席に向かった。椅子に腰掛け、今日のお勧めは何かなと、メニュー黒板に視線を向ける。
 その中に「お造り」の文字を認め、自然と唇が歪んだ。前回、ツマの中に髪の毛が紛れていたのを思い出したのである。
 魚好きでもないのに、通であるところを見せたいがため、怜治は毎回刺身を頼んでいた。しかし、今日はあきらめねばなるまい。またあいつが盛りつけを担当するのであろうし、嫌な思いは二度としたくなかった。
 だったら何がいいかと他のさかなに目を移していると、視線を遮るみたいに白衣の店員が前に立った。
「いらっしゃいませ。お飲み物は何にいたしましょうか」
 オシボリを渡されながら訊ねられ、反射的に店員の顔を見るなり、怜治は驚きで固まった。彼は、あの無礼なやつだったのだ。
(──こいつ、接客もするのか?)
 料理専任ではなかったのかと戸惑う。早い時間でお客がまだ少なかったから、手が空いていたのかもしれない。
 そして、意外なことに、彼は実に愛想のいい笑顔を見せていたのだ。
「……あ、び、瓶ビールを」
 どうにか告げると、「承知しました」と答える。さらに、
「瓶ビール一丁」
 と、店内に威勢のいい声を響かせた。
 怜治はきつねにつままれた気分であった。まったく態度が違っているではないか。
(じゃあ、前のときに、おれを馬鹿にしていたみたいに見えたのは、勘違いだったのか?)
 考えてみれば、縁もゆかりもない客相手に無礼な態度を示すなんて、あり得ないのである。刺身のツマに髪の毛が入っていたのはただの事故であり、嘲笑ちようしようされ、暴言を吐かれたように見えたのも、こちらが勝手にそうだと思い込んだ可能性がある。
 だとすれば苛立いらだち、悶々もんもんとしていたのは、まったくの杞憂きゆうだったことになる。
「お待ちどおさまでした。こちら瓶ビールになります」
 あの男が目の前にグラスを置く。そして、怜治に向かってビール瓶を差し出した。
「お注ぎします」
「あ、ど、どうも」
 恐縮してグラスを持つと、黄金色の液体がトクトクと注がれる。泡の比率も完璧かんぺきにビールを注ぎ終えると、彼は瓶をカウンターに置いた。
「ご注文のほうが決まりましたら、お声がけください」
 言い置いて、持ち場に戻る。怜治はその後ろ姿をぼんやりと見送った。
(……なんだ、いいヤツじゃないか)
 瓶ビールは何度も注文しているが、店員から注いでもらったのは初めてだ。彼は瓶を傾ける手つきも堂に入っていたし、接客そのものも慣れた感じであった。やはり他の店で長く勤めたあと、引き抜かれたのではないか。
 そういうベテランだったら尚のこと、お客に喧嘩を売るような真似をするはずがない。
 余計なことで気を揉んで、無駄なストレスを抱え込んでしまった。しかし、それが解消されたことで心が軽くなる。
 怜治はグラスのビールを空け、二杯目を手酌てじやくで注いでから、メニュー黒板に目を移した。胸のつかえが取れた今、悩むことなく注文できる。
「すみません」
 右手を挙げて声をかけると、あの店員が戻ってきた。
「ご注文ですか?」
「ええ。本日のお造りと──」
 刺身以外に、串物と揚げ物も頼む。そのとき、店員の胸に留められたプラスチックのネームプレートが目に入った。「半田」と印字してある。
(あれ、半田?)
 顔と同じく、名前にも見覚えがある気がした。しかし、いつどこで目にしたのだろう。注文したあとで考え込んだものの、さっぱり思い出せなかった。
「お待ちどおさまでした。本日のお造り、イサキとアジになります」
 あの店員が刺身を持ってくる。カウンターに置くと、またビールを注いでくれた。
「どうも」
 怜治は、今度は恐縮することなく、堂々と杯を受けた。恐るるに足りない相手とわかれば、いくらでも強気になれるのである。
「お客様は、日本酒は飲まれないんですか?」
 ビール瓶を戻し、半田という店員が訊ねる。
「まあ、飲まないこともないけど」
「刺身には日本酒のほうが合いますよ。冷酒もいいですけど、私なんかは燗酒かんざけが好きですね」
 言われて、怜治はなるほどとうなずいた。彼の言葉に共感したわけではない。徳利とつくりの日本酒と刺身という組み合わせが、いかにも通っぽいと思えたのだ。他人の目を意識して飲む彼にとって、それは最も重要なポイントでもある。
「たしかにそうだね。この刺身に合う日本酒はあるの?」
「もちろんございます。越後えちごの純米酒で、お燗にすると特に味がよくなるんです」
「じゃあ、それをいただこうかな」
「ありがとうございます。徳利は一合と二合とありますが」
「一……いや、二合にしよう」
「かしこまりました。お燗をしますので、少々お時間をいただきます」
 店員が下がると、怜治はグラスのビールを飲み干した。日本酒が来る前に、飲んでしまうことにしたのである。
 この店の瓶ビールは中瓶で、いつもだいたいその一本だけで終わらせる。飲み足りなかったらサワーを一杯追加するぐらいで、普段の酒量は決して多くなかった。
(二合も飲めるかな……)
 日本酒は好んで飲むほうではないのに、みみっちい人間だと思われたくなくて、つい見栄を張ってしまった。一合でよかったなと後悔する。
(ま、たまには酔うのもいいか)
 仕事のストレスもまりがちだったし、それを発散したくてここへ来たのである。酔ってくだを巻くつもりはなかったが、たまには嫌なことを忘れるぐらい飲んだってかまうまい。何しろ、せっかくの週末なのだから。
 怜治は、会社では人事部に所属していた。配置転換や異動、昇給に昇格、評価や研修といった、社員の地位・身分に直接関わる仕事をしている。そのため、とかく風当たりが強かった。
 もちろん、平部員の怜治が決定権を握っているわけではない。管理側から指示されたことを行なっているだけだ。にもかかわらず、部員として不満やクレームも引き受けねばならない。同期のやつから人事評価について、面と向かって厭味いやみを言われたこともあった。
 そんなとき、強く言い返せるだけの度胸や負けん気を、怜治は持ち合わせていなかった。いい年をして女性経験がないほどに、対人スキルがとぼしかったのである。そのため、理不尽なことでも言われるまま、黙ってやり過ごすのが彼の常だった。
 だからこそ、前回あの店員から馬鹿にされたと感じたときも、何もできなかったのだ。
「お待たせいたしました。こちら、日本酒の熱燗あつかんになります」
 酒を運んできたのは接客専門の女性店員で、半田という男ではなかった。いつの間にか店内の客が増えており、彼は持ち場につきっきりとなったようだ。
(え、お酌はしてくれないの?)
 喉まで出かかった言葉を、怜治は呑み込んだ。女性店員が空になったビール瓶とグラスを手に、そのまま下がろうとしたからだ。
 しかし、もともとそういうサービスがある店ではない。さっきあの男がビールを注いでくれたのは、おそらく以前働いていた店で、そうしていたからであろう。それに、女性店員にお酌を強要したら、セクハラだと受け止められかねない。
 そんなことはわかりきっているのに、サービスが悪いなと怜治が不満を覚えたのは、いつもよりはやいペースでビールを空けてしまったからだろうか。アルコールが脳を昂奮こうふん状態にしているようで、立ち去った女性店員をましく睨みつける。
 とは言え、今日に限らず、不満なら年がら年中抱えている。仕事の件だけではない。世上せじようの出来事も腹立たしいことばかりだ。
 こうして真っ当な考えを持っている自分に、女性たちが振り向かないことも合点がいかない。あの女性店員も、おれだから酌をしなかったのではないかと、被害妄想でしかない推測にもとらわれた。三十路童貞みそじどうていのコンプレックスのせいもあったろう。
 だいたい、振り向かないも何も、怜治自身が好きな異性にアプローチをしたことがないのである。もしも拒まれたらと考えると勇気が出せず、ただ指をくわえて眺めるだけに終始していた。
 傷つくことをひたすら恐れ、そのくせ世間には毒を吐きまくる。自負心は人並み以上にあった。
(まったく、クソみたいな世の中だぜ)
 いつものように、カウンター席のカップルに(消えろ)と念を送りながら、怜治は徳利を傾けた。素朴な造りのぐい呑みを満たし、口許くちもとに運ぶ。
 熱燗は、日本酒の独特な香りがかなり強かった。慣れていないため顔をしかめたものの、思い切ってすすると口内に甘みが広がる。
(へえ、なかなかいけるじゃないか)
 予想していたよりも飲みやすく、のどを軽やかに流れてゆく。そのままくいっと、最初の一杯を空けてしまった。
 怜治は刺身にはしをつけ、燗酒を手酌で飲み続けた。本物の大人の酒呑みになった気分で。
(よし。次からはビールじゃなくて、日本酒を頼むことにするかな)
 こうして徳利を傾ける手つきは、我ながら絵になると思った。それから、ぐい呑みに口をつけるところも。
 これまでジョッキの生でなく、瓶ビールを頼んでいたのも、いちいちコップに注いで飲むのが格好いいと感じたからだ。刺身を食べる作法と一緒である。彼は常に他人の目を気にして、酒にではなく自分に酔っていた。
 最初に頼んだ串物と揚げ物も運ばれてくる。怜治は失敗したかなと悔やんだ。串物はともかく、揚げ物は日本酒に合わない気がしたからだ。実際、食べると油のベタつきがしつこく感じられる。
「すみません。お新香しんこの盛り合わせをください」
 日本酒に合うのはこれだろうと、素朴なつまみを注文する。塩辛しおからのほうがもっと渋くていいのかもしれないが、見た目からして好きではなかった。
 若い世代も訪れる居酒屋で、通ぶって徳利を傾けながら、怜治は心の中で悪態を吐き続けた。何もわかっていない会社の連中や、無知無能な世間、男を見る目がない女性たちに向かって。
(まったく、みんな馬鹿ばっかりだ)
 こんな社会を、自分がどうにかしてやらなくちゃいけないのだと、鼻息を荒くする。今夜もそのための行動をするつもりでいた。明日は休みだから、オールナイトで。
(え、あれ?)
 頭がぼんやりしてくる。二合徳利はまだ半分ぐらいしか空けていないが、もう酔ったのだろうか。
 少しペースを落とそうかと思ったところで、不意に目の前が真っ暗になる。何が起こったのかと慌てたのは、ほんの二、三秒であったろう。
 怜治は、意識の深い闇の中に吸い込まれた──。

 気がついたとき、怜治は事務室らしきところで寝かされていた。デスクが置かれ、ロッカーが並んだ手狭てぜまな部屋で、壁際の長椅子で横になっていたのだ。
(え、ここは?)
 なかなか力の戻らないからだを叱りつけ、上半身を起こす。頭の中は、半分ぐらいかすみがかかっていた。それが晴れるにつれて、自分が何をしていたのかを徐々に思い出す。行きつけの居酒屋で、飲み慣れない日本酒を飲んでいたことを。
(……じゃあ、酔い潰れたのか?)
 だが、ペースははやかったかもしれないが、摂取したアルコールはそれほど多くない。酔って記憶をなくしたことは過去にもあったものの、そのときは水割りを十杯近くとか、明らかに飲みすぎたからであった。
 ただ、仕事のストレスが溜まっていたため、疲れやすかったのは事実である。そのせいでアルコールの影響が強く出たのであろうか。それにしては、酔ったあとに必ず生じる頭痛がない。頭がぼんやりしているのは一緒でも、どことなく違っている感じがあった。
 そこへ、白衣姿の居酒屋店員が現れる。いつもレジを担当している、店長格の男だ。
「ああ、お気づきになられましたか」
 安堵の笑顔を向けられ、怜治は恐縮して頭を下げた。
「すみません。あの、おれはいったい──」
「お客さん、カウンターで眠ってしまわれたんですよ」
「え、眠った?」
「いきなり顔を伏せて、それこそ寝落ちしたっていう感じで。最初は、急性アルコール中毒かとあおくなったんですけど、それほど多く飲まれていませんでしたし、様子も特に切羽詰せつぱつまった感じはなかったので、疲れが溜まっていたかして眠気に襲われたんだろうと判断したんです。それで、とりあえず奥の部屋に来ていただきました」
「そうだったんですか……」
「だいぶ、お疲れだったんですか?」
「いや……そこまでではないと思うんですけど」
 首をひねった怜治の目に、壁の時計が映る。時刻はすでに零時近かった。
「え、もうこんな時間?」
 驚いて声をあげる。店に入ったのは六時前だったから、かなり長く眠っていたことになる。
「ええ。お客さん、ぐっすりと眠っていて、いくら声をかけても起きられなかったんですよ」
 店員の顔に困惑が浮かぶ。だいぶ迷惑をかけてしまったようだ。
「ここって、閉店が十一時でしたよね?」
「ええ。従業員もだいたい帰りましたし、私もここを閉めなくちゃと思っていたんです。その前に起きてくださって、安心しました」
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
「いえ。こういう店では、まあまああることですから。あと、お荷物のほう、そちらのラックに入っていますので、無くなっているものがないかご確認ください」
 長椅子の脇に、店内にもある荷物入れがあった。そこにはかばんと、シワにならないよう脱がしたのであろう、スーツの上着が入っていた。
(あ、ひょっとして、誰かが薬でおれを眠らせて、財布さいふを盗んだんじゃないだろうな)
 近くにいた客あたりが、すきを見て酒か料理に睡眠薬を仕込んだのではないか。怜治は焦って上着と鞄を確認した。
 幸いなことに財布も鍵も、パスケースもちゃんとあった。中身も抜かれていない。鞄の中のものも無事だった。
「大丈夫です。ちゃんとあります」
 告げると、店員は笑顔でうなずいた。すぐに対処したから、盗られるような心配はないとわかっていたのだろう。
 怜治は注文したものの代金を払い、店の裏口から外へ出た。週末の街は、深夜近くでも人通りと喧騒けんそうに満ちていた。
(……じゃあ、べつに、薬で眠らされたわけじゃなかったんだな)
 何も盗まれていないのだから、犯罪に巻き込まれたわけではない。そうすると、本当に疲れていて、少し飲んだだけで眠ってしまったのか。あるいは、飲み慣れていない日本酒のせいで、酔いが早まったのかもしれない。
(あ、ちゃんぽんがまずかったのかな)
 ビールのあとに日本酒を飲んだのも、よくなかったのだろうか。しかしながら、眠ってしまった理由よりも、醜態しゆうたいを他の客たちに見られてしまったことのほうが大問題だ。
 いきなりカウンターに突っ伏したらしいから、周囲は何事かと思ったのではないか。おそらく、そのまま店員たちに抱えられ、奥まで連れていかれたのだろう。
 いっそ急病人ということで、救急車で運ばれたほうが、まだマシだったかもしれない。怜治がどれだけ飲んだか知らない連中は、飲みすぎて酔い潰れただらしない男と思ったであろうから。
(くそ、みっともない……かっこ悪いところを見られちまった)
 駅に向かって足を速めながら、ひとり歯噛はがみをする。おそらく店内の客たちは、軽蔑けいべつの眼差しを向けていたのではないか。
 格好をつけて飲んでいたぶん、醜態をさらしたことが恥ずかしくてたまらない。けれど、素直に反省するには、彼のプライドはあまりに強固であった。
 酒呑みが羽目はめをはずすのは、普通にあることだ。酔って他人にからむやつもいる。それと比べれば、自分は誰にも迷惑をかけていない。だから許されるのだ。
 そうみずからに弁明しても、恥ずかしさは簡単には消えない。失敗をなかったことにするためには、他の誰かをらしめればいい。そうして正しいことをした気分にひたれば、溜飲が下がるのである。
 終電に間に合い、怜治は自宅アパートに無事帰ることができた。
 会社へは、実家からも通えない距離ではない。しかし、社会人になったら自立すべきだと考え、就職してから自分の部屋を借りた。親しくなった女の子を、誰の目もはばかることなく連れ込むことができるなんて期待もあったが、一度も実現していない。
 シャワーを浴びてさっぱりすると、怜治はむんと鼻息を荒くした。
(よし。今夜もやるぞ)
 2Kの住まいは、一人暮らしには充分な広さがある。寝るとき以外は常にいる洋間には、彼と世界をつなぐツールもあった。
 ネットに繋いだパソコンだ。
 電源を入れて立ち上げると、まずはメールをチェックする。親しい友人はいないから、受信ボックスにはどうでもいいダイレクトメールしか入っていない。それらを削除してから、ブラウザを起動した。
(さてと、今日は何があったかな)
 最初にチェックするのは、ニュースサイトである。日々の出来事を確認するためというより、怜治にとってはターゲット探しの場であった。
 彼のターゲットは、この世に巣くう穀潰ごくつぶしども──犯罪者であった。
(第14回へつづく)

バックナンバー

小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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