双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第三章 遺恨



「──半田さん」
 声をかけられ、龍樹は振り返った。
 ここは犯罪被害者の集いの場である。定例の会が開かれる公共施設の一室には、まだ数名しかひとの姿がなかった。
「ああ、どうも」
 頭を下げると、彼女──沢口喜代子さわぐちきよこは興味深げに見つめてきた。
「半田さん、こちらの会合にも出られていたんですね」
「ええ。まだ二回目ですが。沢口さんは?」
「わたしは、ここは初めてです」
 そう言って、喜代子は穏やかな微笑びしようを浮かべた。
「実はわたし、半田さんを見習うことにしたんです」
「え、見習うって?」
「半田さん、わたしが通っていた会に初めていらしたとき、おっしゃいましたよね。実は別の被害者の会に出ていたけれど、なるべく多くのひとたちの話が聞きたいから、ここにも参加させてもらうことにしたって」
「ええ。確かに言いました」
「わたしはあとで、そんなにたくさんのひとの話を聞いて、かえってつらくなりませんかってたずねたんですよね。そうしたら、多くのひとと悲しみを共有することで、むしろ気持ちが楽になるんですって、半田さんはおっしゃったんです」
「……そうでしたね」
「正直、わたしは半信半疑だったんです。だけど、試しに他の会に出て皆さんの話を聞いて、自分のことを話したら、あとで声をかけてくださったり、相談にのってくださる方もいて、本当に前よりも楽になれたんです」
 確かに、喜代子の表情は以前よりも明るかった。ひとり息子を交通事故で亡くした彼女は、まだ四十路よそじ前なのに、初めて会ったとき十歳以上も老け込んで見えたのだ。
 けれど、今は年齢相応の若さを取り戻している。深い悲しみと苦しみに満ちていた面差おもざしも、だいぶやわらいでいた。
「それで、他にも会合がないか探して、今日はこちらに伺ったんです」
「そうでしたか。ここは女性の方が多いですし、沢口さんも話しやすいんじゃないでしょうか」
「ええ、そう思います。それから、できればですけど、皆さんの力にもなれたらと思って」
「え、力に?」
「はい。わたしが多くの方から助言や励ましをいただいて、いくらかでも立ち直れたぶんを、他の方々にお返ししようと思って」
 喜代子の言葉は力強かった。いくらかどころか、だいぶ立ち直ったかに見える。その強さが、龍樹にはまぶしかった。
「そうですか。それはとてもいいことだと思いますよ」
「ありがとうございます。ここまでになれたのは、半田さんのおかげです」
「いいえ。私は何もしていませんから」
 それは謙遜けんそんではなく、本心であった。
 仮に、自分の言葉が何らかのきっかけを与えたのだとしても、ただの偶然に過ぎない。そんな意図ははなっから持ち合わせていなかった。そもそも彼女が出ていた会合に参加したのは、単に情報を得るためだったのだから。
 それから、ここへ来たのだって。
「そう言えば、工藤正道が事故で死にましたね」
 話題を変えるなり、喜代子の顔に一瞬だけ緊張が走る。彼女のまだ幼かった息子は、工藤がハンドルを握った暴走車で殺されたのだ。
「ええ……」
 うなずいた彼女は、吹っ切るようにかぶりを振った。
「自業自得ですわ。子供を殺されたんですから、罰が当たったと思えればいいんでしょうけれど、正直、事故のニュースを見たときには、またやったのかってあきれてしまいました」
 恨んでいたはずの男が死んでも、素直に喜べるものではない。龍樹は以前にも似たような反応を目にした。おそらく同じ立場になれば、自分もそうなるであろう。
「確かに、懲りない男でしたね」
「本当に。ただ、できればあの子を死なせる前に、彼がひとりであの世に行ってくれたらよかったのにとは考えました。うちの子に限らず、犠牲者が出たことが本当に悔やまれます」
「ええ……同感です」
「あとは、今度こそ反省して、天国であの子に謝ってくれればいいんですけど」
「まあ、彼が天国に行ける保証はありませんが」
「それもそうですね」
 喜代子は寂しそうにほほ笑んだ。
 間もなくメンバーが集まる。会合は定刻に始まった。
 十数名ほどの出席者の、半分以上が女性である。そして、その多くがDV被害者だった。
 龍樹は室内を見渡し、目当ての女性がいないことを確認した。前回、話を聞いたそのひとは、斎藤昭吾の元妻である。
 先日、元夫が事件の被害者となったのだ。もうつきまとわれないとわかって安心し、会合に出る必要がなくなったのか。いや、そんな単純なものではなかろう。特に心の傷は、そう簡単にえるものではない。
 同居女性に熱湯を浴びせるなど、暴行と傷害致傷で服役した斎藤が、出所してすぐに自身も熱湯をかけられ、失明した事件はわりあいに大きく報道された。彼が復讐のために元の住居を訪れたことが明らかとなり、怪我の回復を待って書類送検されるであろうことも伝えられた。
 それから、結果的に未遂で終わり、本人が痛手を受けたこともあって、不起訴になる可能性が大きいことも。
 誰が斎藤を待ち伏せていたのかについて、興味本位に何でも暴くテレビのワイドショーや週刊誌ですら、ほとんど取り上げなかった。DV男が罰を与えられたのは当然だというのが世間の風潮で、犯人捜しをしても共感を得られないと判断したらしい。
 加えて、そんなことをするのは被害者本人か、身内などの関係者であるというのが常識的な見方である。よって追及すれば、被害者をまた苦しめることになろう。それは世間の賛同を得られないばかりか、要らぬバッシングを呼ぶ恐れもあった。
 とは言え警察のほうは、いくら悪人でも被害者になれば、捜査せねばならない。斎藤の元妻や、同居していた女性が疑われないようにと、龍樹はそれだけが気がかりだった。もちろん、事前に彼女たちのアリバイが成立することは確認していたが。
 出席者が順番に、体験談や心境を語る。男にしいたげられ、暴力を受け、怪我の後遺症やPTSDに苦しむ女性たちの話は、耳を塞ぎたくなるほど酷いものばかりだ。
 龍樹自身は、妻や娘に手を上げたことはない。言葉で脅したこともない。それでも、同じ男というだけで申し訳なく、居たたまれない気持ちにさいなまれる。男として、自分は彼女たちを助けられるはず、いや、助けなければならないとすら思わせられるのだ。
 だからこそ再起不能になるまで、斎藤を叩きのめしたのである。
 しかしながら、あれですべてが解決したわけではない。過去形ばかりでなく、たった今も被害に遭っている女性が大勢いるのだ。
 自分もほんの些細ささいな言動によって、男が威張いばりくさる社会の成立を許しているのではないか。女性を力で支配しようとする男たちの、片棒を担いでいるのではないか。と、龍樹は罪悪感にも駆られる。
『犯罪は個人の業ではなく、それが存在することをゆるす者全員の業である』
 どこかで読んだ言葉が、ふと頭に浮かぶ。その赦す者の中に、己が含まれていない自信がなかった。いや、自分はすでに、何度も罪を犯しているのだ。
「半田さん、いかがですか」
 進行役の呼びかけにハッとする。反射的に、龍樹はその場に立ちあがった。
「半田龍樹です」
 名乗ったところで、前のほうに坐っていた喜代子が振り返り、驚きを浮かべているのに気がつく。龍樹が他のひとの発言を聞くばかりで、自ら口を開くことがなかったのを知っているのだ。
 だが、今は話さなければならない。これまで胸に秘めていたものをすべて。大切にしていた娘のことと、失った悲しみと、それから──。
「私は六年前、ひとり娘の彩華を殺されました」
 このひと言で、室内の空気が張り詰める。
 胸をきあげる情動を抑え、龍樹は事実を淡々と述べた。感情に任せたら、かえって何も言えなくなってしまうからだ。
 今になって話す気になったのは、決して悲しみが癒えたからではない。それはむしろ日を追うごとに強くなり、ときには押し潰されそうになる。
 また、胸の内を打ち明け、同情を引こうとも考えていなかった。そもそも同情される資格は自分にないし、そんな甘えはとっくに捨て去っている。今の生き方を決めた、あのときから。
 龍樹にとって話すことは、懺悔に等しかった。何もできぬまま娘を死なせた不甲斐なさを告白し、自らを責める。こめかみに、心臓に、見えない弾丸を何発も撃ち込む。それでも彩華が味わった苦痛には、到底及ばないのだ。
 静かな部屋に、龍樹の声だけが低く流れた。


第四章 彷徨ほうこう

 会社帰りに、「彩」の前に佇む見知った人物を見かけ、岩井は声をかけた。
「あれ、ご隠居?」
「ああ」
 振り返ったのは、この店でよく顔を合わせる、年配の常連客であった。
「入らないんですか?」
「いや、これ」
「え?」
 見ると、入口に貼り紙がしてある。そこには、
『都合により、しばらく休業いたします。店主』
 と、丁寧な字で簡素な文が書かれてあった。
「休業……いつからなんですか?」
「もう五日になるかな」
 ご隠居がやれやれというふうにため息をつく。けれど、苛立いらだった様子はない。むしろ、店主である龍樹のことを気にかけているのが、表情から見て取れた。
 岩井は仕事が忙しかったため、一週間ほど「彩」から足が遠ざかっていた。そんなに長く休んでいるとは知らなかったのだ。
(しばらく休業って、いつまでだ?)
 期間が定まっていないのが気にかかる。
 定休日でもなく「彩」が休みになることは、これまでにもあった。けれど、翌日には何事もなかったかのように開いており、どうして休みにしたのかと、大将に訊ねる常連客もいなかった。
 それについては、ご隠居が前にそっと教えてくれたことがある。
『大将もいろいろあったから、ときには気持ちが追いつかなくなって、店を開けられなくなることだってあるだろうよ』
 いろいろというのが愛娘まなむすめを殺されたことであるのは、確認せずともわかった。大将の過去を知っている常連客は、彼の心情をおもんぱかって、余計なことを訊ねないようにしていたようだ。
 しかし、今回はこれまでと違っている。以前は臨時休業の札が下がっているだけだった。わざわざ貼り紙を出して、しばらく休業というのは穏やかではない。
「どこか遠くへ出かけたんでしょうか。旅行とかで」
 岩井は推測を述べた。すると、
「旅行か……まあ、なくはないかな」
 ご隠居はうなずいたものの、それは違うだろうと顔に書いてあった。
「あ、ひょっとしたら、郷里のほうに帰らなくちゃいけない事情ができて、帰省したのかもしれませんよ。年齢的に、親御さんが体調を崩してもおかしくないでしょうから」
「うむ、そうかもしれんな」
「あとは、料理の修業をしているとか」
 特に深く考えもせず、思いついたままを口にしたのである。すると、ご隠居が初めて明るい表情を見せた。
「なるほど。そういう前向きなことであれば、陰ながら応援しなくちゃな」
 うんうんと、何度もうなずく。ただの思いつきにそこまで賛同され、発言した岩井のほうが戸惑った。べつにそうだと決まったわけではないのに。
 にもかかわらず、ご隠居が応援なんて言葉まで口にしたのは、そうであってほしいという願望だったのだろう。
(たぶん、最悪の結末を恐れているんだろうな)
 誰もが考えたくない最悪の結末、それは、龍樹が娘のあとを追うことだ。
 岩井ももちろん、そんなことになってほしくない。その一方で、そうはならないだろうという思いもあった。確信ではなく、直感みたいなものであるが。
 店で客に対応するときの大将は、常に穏やかだった。つらい過去を背負っているとは信じられないぐらいに。だからこそ岩井は失言をやらかし、しばらく「彩」に来られなくなった。
 あのとき、酔っていたとは言え、龍樹に生意気な口をきいたのは、何を言っても受け入れてもらえる安心感があったからだ。要は甘えていたのであり、そんな自分が許せなかった。自己嫌悪に駆られた後、ちゃんと謝らなければと決心し、再び常連に加わることができた。
 大将が穏やかなのは、つらさや痛みを知っているからなのだ。あのあと、岩井は密かに実感した。弱い人間が、敵を作らないようにと穏便おんびんに接するのとは異なる。心の強さに由来する、ひと当たりのさなのであると。
 だからこそ、彼が自ら命を絶つことはないと、岩井には思えた。そこまで弱い人間ではないし、娘のためにも生きるのではないだろうか。
 失言をやらかしたあと、岩井は龍樹の家族に起こったことを調べた。事件そのものは記憶の片隅にあったものの、その後のことなど、詳細を知らなかったからだ。
 あれから何年もの年月が経っているのに、ネットには様々な情報が残っていた。龍樹が厳罰を望まなかったことを知り、岩井は驚くと同時に納得もできた。
 また、犯行当時、未成年だった犯人の名前や顔写真も見つかった。それだけのことをやらかしたのであり、正体をさらされるのは当然だと思ったものの、これを大将が目にしたらどう感じるだろうと想像し、胸にモヤモヤが残った。
 岩井自身は、犯罪者は己がしたことと同等か、もしくはそれ以上のむくいを受けるべきだと思っていた。その考えは基本的に、今も変わっていない。それゆえ、厳罰を望まなかった龍樹の姿勢を、自身の知っている人柄ゆえに納得はできても、素直に賛同したわけではなかった。
 ただ、彼は愛娘を殺めた犯人を、許したわけではない気がする。
「次に『彩』が開くときには、新しいメニューが増えているんじゃないですかね」
 岩井が安心させるべく言うと、ご隠居が「そうだね」と笑う。
「まあ、わたしは、旨い刺身が食べられればそれでいいんだが」
「だけど、大将がとんかつを出したとき、喜んで食べてたじゃないですか」
「ああ。そうだったね。まあ、あれは特別だ」
 照れくさそうに誤魔化し、彼がぴったり閉じられた「彩」の入口に目をやる。明かりが点いていないこともあり、貼り紙も含めて妙に余所余所よそよそしく映った。
「まあ、気長に待とう」
 自らに言い聞かせるように、ご隠居がつぶやいた。
(第12回へつづく)

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小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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