双葉社web文芸マガジン[カラフル]

憐れみの詩(小倉日向)

第三章 遺恨

「誰なんだ、お前は?」
 もう一度訊ねたものの、男は答えなかった。代わりに、
「この部屋に戻ってきたのは、復讐のためなんですね」
 と、静かな口調で断定する。昭吾は肩をビクッと震わせた。
「復讐とは、何のことだ?」
 動揺を隠して問い返すと、闇の中でも男が笑ったような気がした。
「しらばっくれなくてもいいですよ。また奥さんに熱湯をかけるつもりですか?」
 逮捕、起訴されるきっかけとなった出来事を口にされ、昭吾は驚愕きようがくした。
(どうしてそのことを──)
 だが、疑問を覚えるまでもないのだと、すぐに気がつく。自分は見ていないが、あのときメディアが相応に騒ぎ立てたのであろう。
(だけど、誰かが死んだわけでもないんだぞ。どうしてこいつは、一年も昔のことをしつこく憶えているんだ?)
 似たような事件は、国内のそこかしこで日常的に起きている。昭吾も自身が当事者になる前に、そのたぐいの報道をいく度も目にしたことがあった。
 しかしながら、そのときは概して他人事ひとごとであった。むしろ、糾弾きゆうだんされる側の男たちにシンパシーを感じ、世間の反応が大袈裟すぎるのだと思った。
 だいたい、言うことを聞かない女子供を躾けるのは、男として当然の義務なのだから。
(待てよ。こいつ、明日菜の身内か知り合いじゃないのか?)
 だとすれば、部屋の中にいたのも納得できる。縁を切りたいからと彼女に頼まれて、待ち構えていたのではないか。つまり、これは脅しだ。
 もちろん昭吾は、この程度のことで引き下がるつもりなどなかった。
「お前が何者か知らないが、どうやら勘違いをしているようだな。ここで暮らしていた女は、おれの妻じゃない。子供も一緒に部屋へ置いてやっただけで、要は居候だ」
 だから何をしてもかまわないのだと、言外に匂わせる。拘束されていても、相手が明日菜の身内ならば恐れるに足りないと思い始めていた。
「勘違いをしているのはあなたですよ」
 男の声が低くなる。それでいて、言葉遣いは丁寧なままだ。
「どういう意味だ?」
「私が奥さんと言ったのは、あなたが五年前に離婚した女性のことです」
 予想もしなかったことを言われ、昭吾は大いにうろたえた。
(こいつ……どうしてそのことを!?)
 彼が言ったとおり、昭吾は二十代の終わりに結婚した相手と、五年前に別れたのだ。
 いや、そのぐらいのことは、ちょっと調べればわかるかもしれない。だが、その女にしたことまで、こいつは知っている様子であった。あのときは、逮捕も報道もされていないはずなのに。
「隠しても無駄ですよ。あなたは奥さんだったその女性にも、熱湯をかけてひど火傷やけどを負わせたことはちゃんとわかっています。しかも、その前から日常的に暴力を振るい、挙げ句の果てに一生消えない傷痕をつけてしまったわけです。肉体だけじゃなく、心にもね」
「あ、あいつが喋ったのか?」
 堪え切れずに問いかけても、男は答えなかった。
「あのひとは今でも、あなたの影に怯えています。虐待の件を訴えないことを条件に、あなたと別れることができたあとでも、あなたから受けた仕打ちの数々を今でも夢に見て、眠れないことがあるそうです。夜だけじゃありません。昼間だって、またあなたが目の前に現れるのではないかという恐怖にさいなまれ、外出のときも常にビクビクしているんです。他の男性と付き合うことも、あなたとの関係がトラウマになり、怖くてできないのです」
 本人から聞いたのか、それとも人伝ひとづてなのかはっきりしない言い回しに、昭吾は焦れた。それでも、単なる推測を口にしているのではないのだと、何となくわかった。
(じゃあ、明日菜じゃなくて、あいつの身内なのか?)
 万が一でもつきまとうなと、脅しに来たのか。しかし、だったらどうして、こんなところにいるのだろう。しかも、今頃になって。
 男の正体が見えなくなり、昭吾は苛立ちと言い知れぬ恐怖を覚えた。それでも、弱みを見せたら相手の思う壺だと、懸命に気持ちを奮い立たせる。
「あいつのことはいいから、とにかくお前は何者なんだよ!?」
 怒気をあらわに声を荒らげても、男は意に介さない様子だった。
「あなたは奥さんだったひとだけでなく、そのあとで同居した女性にも暴力を振るい、熱湯をかけた。ところが、逮捕され、刑罰を受けたにもかかわらず、こうして復讐のために、夜中に部屋を訪れるとは。どうやら改心する気持ちはなさそうですね」
「どうしておれが改心しなくちゃならないんだ。言うことを聞かない馬鹿な女を躾けるのは、男の務めだろうが!」
 昭吾は頭に血が昇っていた。だからこそ、本音が出たとも言える。
「では、復讐のために来たことは否定しないんですね」
「復讐じゃない。躾だと言ったろう。何なら熱湯じゃなくて、じかに火を点けてもいいんだからな」
 怒りにまかせて言い放つと、やけに深いため息が聞こえた。しばらく間があってから、
「虐待されて育った子供が大人になると、同じように我が子を虐待する場合があると聞きます」
 沈んだ声音が闇を伝う。何を言おうとしているのかわからず、昭吾は口をつぐんだ。
「しかし、あなたは違う。親に愛情を注がれ、ごく普通に育った。なのに、ここまで歪んでしまったのは、もともとあなたの中に残虐な心が潜んでいたんでしょうか」
「残虐とは何だ。勝手なことを言うな!」
 言い返したものの、心臓の鼓動がやけに大きくなる。不気味な雰囲気を感じ取っていたからかもしれない。
「おそらく、嗜虐心しぎやくしんが表に現れたのは、コンプレックスからなんでしょうね」
「は? 何を知ったふうなことを」
「職場──役所でのあなたの評判は、決して悪くなかった。真面目に仕事をこなしていたと、同僚も証言している」
「お前、おれのことを聞き回ったのか?」
「但し、あくまでも悪くないのであって、称賛は皆無です。そもそも、仕事を真面目にこなしていたなんてのは、ごく当たり前のことなんですから。褒め言葉でも何でもありません。むしろ、あなたには何の取り柄もなかったからこそ、ありきたりな評価をするより他なかったわけです」
「取り柄がないだと? ば、馬鹿にするなっ!」
 拘束もものともせず、昭吾は網にかかった海老えびのごとく暴れた。怒りに震えたのは、図星を突かれたためもあった。
「おれは公務員として、全体の奉仕者として、立派に勤めていたんだ。なのに、あいつのせいで、おれは価値ある仕事を奪われたんだ。お前にその悔しさがわかるのか!?」
「全体の奉仕者……価値ある仕事……なるほど、あなたのプライドが窺える発言ですね」
「自分の仕事にプライドを持つのは、当たり前だろうが」
「それだけに、目立った成果を上げることもできず、歯車みたいにただそこで回っているだけの存在であったことが、我慢できなかったんですね」
 昭吾は軽い目眩を覚えた。
(こいつ、どうしてそこまで──)
 隠していたはずの本心を暴かれ、言い返すことができなくなる。背中を冷たい汗が伝った。
「そこまで仕事にプライドを持っていたのは、自分はできるという自信があったからでしょう。ところが、現実には与えられるものをこなすのが精一杯で、職場では完全に埋もれた存在だった。それが我慢できず、見返すだけの力もなかったから、鬱憤うつぷんを他で晴らすしかなかったわけです。自分よりも弱い者をターゲットにして。あなたの虐待は、ただの弱い者いじめです」
「やめろっ!」
 昭吾は叫んだ。けれど声は闇に吸い込まれ、少しも響かなかった。
「やめろか……別れた奥さんも、それから一緒に暮らした女性も、あなたに同じことを言ったんじゃないのか? どうかやめてほしいと。なのに、あなたは聞く耳を持たずに彼女たちを殴り、熱湯をかけ、子供にまで手を出そうとした。懇願を無視してね」
 男の口調が徐々に変わる。肉体の奥から絞り出されるような、重い響きをまといだした。
「お前がしたことは、八つ当たりに過ぎない。自身の無能さを認めたくなかったものだから、弱い者を打ちのめすことで、脆弱ぜいじやくなプライドを保とうとしただけだ」
「ち、違うっ!」
 まぶたの裏に熱さを感じながらも、昭吾は足掻あがいた。身をよじり、男がいるであろうほうに首をのばす。
「そんなことより、明日菜はどこへ行ったんだ。お前が逃がしたのか? あいつに頼まれて、おれをこんな目に遭わせているのか!?」
 荒ぶる呼吸が、やけに大きく聞こえる。それが自分のものだと、少ししてからわかった。
「……憐れだな」
 つぶやきが聞こえると同時に、天井の明かりが点く。闇に慣れた目を光で射抜かれ、昭吾は反射的に目をつぶった。
 その前に、男の顔が一瞬だけ目に映った。
(──誰だ?)
 見覚えはなかった。中肉中背で特徴のない、どこにでもいるような男であった。腕力で他人を従わせるタイプの人間でもない。
 それだけに、不気味だったのも事実である。
 昭吾はずと瞼を開いた。目許を歪めて明かりに慣らしながら、腕組みをしてこちらを見おろす男を確認する。
「……お前、誰だ?」
 問いかけに、男は目を細めた。昭吾がそうしているのを真似るみたいに。
「誰でもいいし、私の顔を憶える必要はない。仮に憶えたところで、誰かに伝えることもできないだろうがな」
 不吉なことを言われ、からだが震える。
「お、おれを殺すつもりなのか?」
 その質問がすぐに出てきたのは、男の目に死の色を感じたからであった。殺気とは異なる。彼自身がこの世の存在ではなく、地獄から来たように思えた。
「殺されたいのか?」
 冷淡に問い返され、昭吾はぶんぶんと首を横に振った。
「ま、まさか」
「お前は、まだ死ぬわけにはいかない。女性たちが受けた苦しみを味わっていないからな」
 男がすっと視界から消える。頭をもたげて姿を追ったとき、両足首を固定する結束バンドが目に入った。おそらく後ろ手にされた手首にも、同じものが使われているのだろう。
 間もなく、男が隣の部屋からベッドを引きずってくる。マットレスの載っていない、木枠だけのものを。
「あ、明日菜はどこへ行ったんだよ?」
 こいつはいったい何をするつもりなのか。つのる恐怖を振り払うように訊ねると、「さあ」と素っ気ない返事があった。
「さあって、お前が逃がしたんじゃないのか?」
「いいや。このアパートは近々取り壊されるそうだから、引っ越したんだろう」
「何だって!?」
「他の住人もいない。つまり、お前がいくらわめこうが、誰にも知られないってことだ」
 死ぬわけにはいかないという男の言い分を信じるのなら、命を奪われることはなさそうだ。だが、喚こうがと断ったことから、拷問されるのだとわかった。
(くそ……なんだっておれがこんなやつに)
 別れた妻や明日菜に恨まれるのなら、まだ理解できる。けれど、この男は彼女たちの身内ではなさそうだし、縁もゆかりもないらしい。
 それだけに、弱いところを見せたくなかった。
「お前、あいつらに金でも積まれて、頼まれたのか?」
 男に襟首えりくびを摑まれ、上半身を起こされる。このままやられてたまるかと、精一杯虚勢を張って訊ねると、やれやれというふうにため息をつかれた。
「そんなことができるのなら、お前に虐待されたときも、堪え忍ばなかったはずだ」
「だ、だったら、どうしてこんなことをする?」
「これ以上、罪のない被害者を増やしたくないだけだ。いいから黙ってろ」
 またも首の後ろでバチッと音がする。スタンガンだ。悟るのと同時に衝撃を浴び、昭吾は「がッ」と太い声を上げ、再び闇に落ちた。

「──起きろ」
 頬を平手打ちされ、意識を取り戻す。天井の蛍光灯が、やけに眩しい。
(え?)
 瞼を閉じようとして、動かないことに気がつく。何か器具のようなもので固定され、開きっぱなしになっているようだ。さらに両手両足と、胴体に頭部すらも動かせない。
(な、何だ?)
 昭吾はもがいた。薬か何か盛られて、からだを麻痺まひさせられたのかとも思ったが、そうではないらしい。背中に板状のものが当たる感触に気づいた。
(そうか。ベッドに──)
 の寝台に、大の字で動けなくさせられているのだ。感触からして、さっきのような結束バンドではなく、ダクトテープか何かではないか。
 しかし、どうして瞼を開きっぱなしにする必要があるのだろう。
 そのとき、昭吾の脳裏に、若い頃に観た映画のワンシーンがよみがえった。近未来の荒廃した社会を描いた作品で、罪を犯した若い男が矯正きようせいのためにと、目を閉じられないようにして様々な映像を見せつけられる場面があったのだ。
 そうすると自分も、見たくもないものを見せられるのか。目が乾いてきたようで、瞳に鈍い痛みを覚える。瞼もジンジンと痺れていた。
(くそ……この程度のことで音を上げてたまるものか)
 鼻息を荒くすると、視界に男の顔が入った。
「てめえ、いったいどういうつもりだっ!」
 動けないぶん、声を張りあげても、彼はまったく動じなかった。むしろ鼻白はなじろんだ面持ちで、首を小さく横に振る。
「やれやれ。ここまでされても、反省は無理なんだな」
「うるせえッ! てめえにあれこれ指図される筋合いはねえんだよ」
 昭吾が強気に出られたのは、男に暴力的な性向が窺えなかったからだ。いかにもやくざ風な男に拘束されたのなら、泣き言を並べたかもしれないが、彼は違う。ここまで激することもなかったし、やはり誰かに頼まれて、口先で脅しているだけなのだ。
 ただ、表情に凄みがなく、むしろ死んだ目をしているのが気にかかる。
「ならば、お前が与えた苦しみを、身をもって味わうがいい」
 言い置いて、男が視界から消える。目玉を動かして行方を追うと、キッチンのほうに行ったようだ。
(おれが与えた苦しみ……まさか──)
 不意に悟ったのは、さっきから耳鳴りみたいに聞こえていた音の正体がわかったからだ。シュンシュンと夕暮れのひぐらしを思わせるそれは、沸騰したお湯の蒸気に違いなかった。
(じゃあ、おれにも熱湯をかけるのか?)
 ふたりの女にしたのと同じように、熱傷を負わされるというのか。
 男が戻ってくる。手に提げていたのは、アルマイト製の大きな薬罐やかんだった。注ぎ口から白い湯気がたち昇っている。
(クソっ、おれはそんなものを使わなかったのに)
 そもそも明日菜のときは、最初から熱湯をかけるつもりではなかった。たまたまインスタントラーメンを食べようと片手鍋にお湯を沸かしていたから、それを使ったまでのことだ。なのに薬罐を持ち出すとは、明らかに過剰な仕返しだ。火傷だけで済まず、死んでしまうのではないか。
「お、お前、やっぱりおれを殺すつもりじゃないのか」
 さすがに怖じ気づくと、男はかぶりを振った。
「お前に安らかな死を与えるわけにはいかない。お前が女性たちにしたのと同じように、一生苦しんでもらう」
「苦しめだと? 冗談じゃない。いいか、この茶番が終わったら、すぐに通報してやるからな。お前の顔はきっちり憶えたんだ、クソ野郎め。不法侵入に監禁、暴行傷害で逮捕されやがれ」
 それは強がりというより、ほとんどやけっぱちであったろう。なぜなら、いくら顔を憶えていても、素性がさっぱりわからないのだ。通報したところで、人相だけですぐに逮捕される保証はない。
 ただ、元妻や明日菜の依頼でここへ来たのだとすれば、そのセンから捜査することは可能であろう。もっとも、男は捕まらない自信があるのか、少しも意に介していないふうだ。
「通報か……そんなことをしても無駄だ」
「どうして無駄なんだ?」
「証拠が何もないからだよ」
「指紋は拭き取れば消えるってか? フン。そんなものがなくても、おれの証言だけで充分だ。覚悟しやがれ」
「お前は証言などできない」
「何だと?」
「お前がこの世で最後に見るのは、確かに私の顔だ。あとは深い闇の中で、羽化うかしない蛆虫うじむしのごとく生きるがいい」
 吐き捨てるように告げるなり、男が薬罐のお湯を注いでくる。しかも、開きっぱなしの目に向かって。
「うぎゃぁああああああっ!」
 ここまで悲痛で、喉が破れんばかりの悲鳴を、昭吾はかつて放ったことがなかった。なぜなら、これまで経験したことのない熱さと激痛と衝撃を味わったからである。脳が直にダメージを受けているのではないかと錯覚するほどに。
 いや、熱湯の一部は眼球を溶かし、視神経を伝って本当に脳まで達していたのかもしれない。仮に瞼を閉じられたとしても、無駄な足掻きにしかならなかったであろう。
「うわっ、うがッ、ぐはぁあああ──」
 程なく喉が涸れ、声が出なくなる。目を中心に顔がジンジンと痛んだのは、けれどそれほど長い時間ではなかった。痛みや熱を感じる神経が麻痺したらしく、なまりみたいな重さの熱湯が目に当たるのを感じるのみになる。煮詰まった眼球が、眼窩がんかにめり込むのがわかった。
 そして、彼が言ったとおり、昭吾は光を完全に奪われてしまった。
 気が遠くなりかけたとき、薬罐が畳に落ちた鈍い音が響く。
「通報なら、私がお前の代わりにしてやろう。残念ながら、証拠は何も残さないがな。いや、ひとつだけ、お前が復讐のためにここへ来たと言った音声データだけ残しておくよ」
 昭吾は何か言い返す気力もなく、意識ごと闇に吸い込まれていった。
(第11回へつづく)

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小倉 日向Hinata Ogura

北多摩在住。静かな土地で犬と暮らし、純米酒と芋焼酎を好む風雅人。漂泊の歌人になることが夢。

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