双葉社web文芸マガジン[カラフル]

アカツキのGメン(横関大)

イラスト:おおさわゆう

第2回

 喫茶デイブレイクの営業時間は午前十時から午後八時までだ。店が入っている神保町アカツキビルは八階建てで、二階より上はテナントに貸し出しており、接骨院や雑貨店などが入っている。ビルの名義は株式会社アカツキという五郎が代表を務める会社だ。テナントからの家賃は貴重な収入源となっているが、最近ではビルの老朽化に伴い、テナントも半分くらい空いてしまっているのが悩みの種だった。
「ねえ、五郎。あれが減ってきてるもんで、仕入れを頼むよ」
 午後八時過ぎ、その日の営業を終えて片づけをしていると、厨房から出たきた誠に言われた。五郎は誠に訊いた。
「あれって何だよ」
「だからあれだよ。客が自分でナポリタンにかけるやつだよ。赤くてピリッと辛いやつ」
 最近悲しいかな物忘れが激しくなってきている。誠の伝えたい意図もわかるし、具体的な形も頭に浮かんでいるだが、その単語が出てこない。五郎はうなずいた。
「わかった。あれだな。客が使う、赤くてピリッと辛いやつだな。明日の仕入れで買ってくる」
「よろしく頼むよ。それよりミッキーは帰ってきてないのか?」
「そうみたいだな」
 幹雄は用事があると言い出し、今日の午後から仕事を休んでいる。昨日も夕方に二時間ほど仕事を抜けた。どんな用があるのか知らないが、長い付き合いなので見当はつく。
 片づけを終えてそろそろ店から出ようとしていると幹雄が帰ってきた。
「すまないな」幹雄はそう言って包みを置いた。焼き鳥だった。「惣菜屋の前を通りかかったら旨そうだったもんで買ってきた。食べようぜ」
 ビール瓶を開け、三人で飲み始めた。焼き鳥とビールという組み合わせは最高だ。アメリカ時代、よく鶏肉を買ってきて焼き鳥を作って食ったものだ。
「で、飛露喜の様子はどうだ?」
 五郎が訊くと、幹雄はとぼけてみせた。
「何の話だ?」
「水臭い奴だな。昨日と今日、飛露喜の周囲を探ってんだろ。長い付き合いだ。そのくらいは先刻承知さ」
 飛露喜が来店したのは昨日のことだ。おそらく幹雄は飛露喜のことが心配になり、あれこれと調べているのだろうと思われた。幹雄が正直に話し始める。
「飛露喜と話した。あいつ、本気でやろうとしているみたいだ」
 現金輸送車を襲うのは簡単な犯罪ではない。最近では民間の警備会社に警備を全面委託している銀行が多い。民間の警備会社をあなどることはできず、そこで働いているのはきちんとした訓練を積んだ元警察官とか元自衛官といった連中だ。現金輸送車は警備のプロによって守られていると考えるべきなのだ。
 五郎は焼き鳥(ネギマ)を手にとりながら幹雄に訊いた。
「飛露喜を止めることはできねえのか?」
「無理だな」幹雄は答えた。焼き鳥(砂肝)を食べ、それをビールで流し込んでから言った。「若いって怖いぜ。突っ走る気満々だ。まあ俺たちもそうだったから、気持ちはわからなくもないけどな」
 たしかにそうだ。若さというのは一種の危うさを秘めている。今になって思い返すと、五郎たち三人も無謀ともいえる仕事をギリギリのところで成功させたこともある。
「五郎、悪いが俺、明日からもちょくちょく休ませてもらうわ」
「まさかお前……」
「俺しかいないんだよ、飛露喜には。だから俺が手伝ってやるしかないんだ。あいつが捕まるのを黙って見ていることなんてできねえよ」
 そんな気がしていた。飛露喜の話を聞いたときから、おそらく幹雄は黙って見ていることはしないだろうという予感があった。幹雄は親戚付き合いをほとんど絶っていて、飛露喜が唯一の付き合いのある血縁者だった。
「ミッキー、無茶だよ」誠が焼き鳥(つくね)を手に心配そうな顔つきで言った。「僕たち、何歳になったと思ってんだよ。今更現役に復帰するなんて馬鹿げてるよ。考え直した方が身のためだぞ」
 誠の言う通りだ。若い者には負けない。そう口にするが、実際には体力では若者にかなうわけがないことは自分でわかっている。
「悪いが、決めたんだ。じゃあな」
 幹雄が立ち上がり、店から出ていった。その背中にかける言葉がなかった。幹雄の背中には悲壮感が漂っている。まるで死地に向かう覚悟を決めた軍人のようだった。
 老いたとはいえ、幹雄は百戦錬磨の犯罪者だ。今でもその変装技術は健在だろう。しかし不安の方が大きい。完璧な計画なくして輸送車を襲うのは難しいだろう。
「ミッキー、本気かな。本気で輸送車を襲おうっていうのかな」
 誠が焼き鳥(皮)片手につぶやくように言う。幹雄を止める手立てをあれこれ考えてみたが、なかなか妙案は思い浮かばない。五郎は手にしたビールを飲み干した。

 その店はアメ横の南側、JR御徒町駅近くの雑然とした路地の中にあった。〈ソフィア〉という店名から、おそらくママがソフィアというフィリピーナだと連想できた。ソフィア、ステファニー、マイカ、それからジャスミンというのはフィリピーナに多い名前だった。
「いらっしゃいませ。あ、五郎さん」
 憶えていてくれたらしい。五郎はジャスミンに店の一番奥のテーブル席に案内された。狭い店だがすでに三組ほどのサラリーマン風の客が入っていた。女の子は全員で三人いた。悪いがジャスミンは独占させてもらうことにする。
「飛露喜とはこの店で出会ったのか?」
 五郎が訊くとジャスミンが焼酎の水割りを作りながら答えた。
「イエス。最初はお客さんだった。すぐに仲良くなったけどね」
 ジャスミンは体のラインを強調したドレスを着ており、胸元はざっくりと開いていた。あと五歳若かったらと真剣に思ってしまうほど、彼女はあらゆる意味でチャーミングだ。
 まずは水割りで乾杯する。それから五郎は声を落として訊いた。
「飛露喜が立ててる計画のことだ。知ってることがあったら教えてほしい」
「五郎さん、彼に協力してくれるの?」
「かもな」と誤魔化した。するとジャスミンはやや声を小さくして話し出す。
「お客さんの中に警備会社の人がいるの。五十歳くらいのおじさん。その人、現金輸送車のセキュリティを担当しているんだって。でも結構口が軽くて、いろんなことを私に教えてくれる」
 自分の身分を明かしたがる奴はいる。たとえば警察官は飲み屋では絶対に自分の身分を明かしたりしない。警備会社も本来はそうあるべきだが、そういうセキュリティ教育が徹底されていない会社なのか、その男が緩いのか、それは五郎にはわからなかった。
「週に一度、金曜か土曜に必ず来る。仕事帰りに寄ったりするの」
 飛露喜の計画は単純だった。男から情報を盗み、足りない部分は聞き出し、現金輸送車のルートを特定して襲うというものだった。
 悪くない計画だが、まだまだ詰めが甘い。強盗のプロとしての血が騒ぎ出しており、頭の中で勝手に計画を練っていく。五郎はジャスミンに訊く。
「男から情報を聞き出すには、そいつとねんごろな関係になる必要がある。お前にそれができるのか?」
「ねんごろ?」
「スキンシップ。ハードなね」
 意味を理解したようだ。ジャスミンはカウンターに目を向けた。そこには一人のサラリーマン風の男と、その隣に肉感的な若い女が座っている。ジャスミンは彼女を見て言った。
「名前はマイカ。半年前に来た子。彼のお気に入りで、先週も店が終わったあとにご飯を食べにいったみたい」
 その男がどれだけの情報を有しているかが鍵になるが、最初の段階としては悪くないように思えてきた。幹雄もジャスミンから説明を受けているはずだ。あいつが飛露喜を手伝おうと決意したのは、勝ち目があると思ってのことなのかもしれない。
「ジャスミン、日本語上手だな」
 お世辞ではなかった。イントネーションが少し異なるだけで、それ以外は完璧に近い。
「勉強したからね。フィリピンにいたとき、近所に日本人が住んでて、その人から教わったの」
 しばらく世間話をした。ジャスミンは来日して三年目になる二十三歳の娘で、妹がいるということがわかった。すでに飛露喜と同棲しており、この近くにマンションを借りているようだ。飛露喜は計画を手伝ってくれる仲間を募るため、毎晩のように出かけているらしい。
 水割り三杯飲んでから席を立った。支払いをしようとしたが、ジャスミンは金を受けとってくれなかった。お言葉に甘えて財布はしまい、礼を言って店から出た。
 五郎は神保町アカツキビルの二階に住んでいる。自宅に帰ろうと歩き始めると、その人影に気がついた。近づいてきて、五郎と並んで歩き始めた。
「どう思う?」
 影が訊いてきた。幹雄だった。五郎は前を向いたまま答える。
「面白そうな話だ。だがガキには無理だな」
「だから俺が仕切る。それしかないだろ」
「どうせ俺が止めてもお前はあとには引かないだろ」
 幹雄は答えなかった。隣を見ると幹雄は口元に笑みを浮かべている。腹をくくった男の顔をしており、少し羨ましくもあった。現役を退いて二十一年、あの頃のゾクリとするような緊張感を日常生活で味わうことはできない。
「たく、しょうがねえな」五郎はあえて軽い口調で言う。「お前がやるなら、俺もやるしかねえだろ。俺が完璧な計画を立ててやろうじゃねえか」
「五郎、お前……」
「俺が参加するからには必ず成功させるぞ。何しろアカツキ強盗団は成功率百パーセントだ。ここで失敗して看板に泥を塗るわけにはいかん」
 もう七十六歳だ。以前のように脳味噌と体が動いてくれるのか、そんな不安がないわけではない。しかし長年の友を見捨てるような真似はできなかった。
 前方にラーメン屋の看板が見えた。幹雄と顔を見合わせてうなずいた。長い付き合いなので考えていることは手にとるようにわかる。足は自然とラーメン屋に向かっていた。

 翌日、営業開始前の時間を見計らい、五郎は厨房を覗き込んだ。誠は開店に向けた下準備の最中で、今はタマネギやピーマンといった野菜をカットしている。喫茶デイブレイクはそれなりに繁盛している店なので、ある程度準備していても無駄になることはほとんどない。
 誠はちあきなおみの『喝采』を口ずさみながら野菜をカットしている。その作業が落ち着くのを待ち、五郎は誠に話しかけた。
「マコ、ちょっと話があるんだが」
「何?」
「実はな、飛露喜の話に乗ろうと思ってる。ミッキーと一緒にな」
 当然のことながら誠も一緒でなければ意味がない。三人揃ってこそのアカツキ強盗団なのだから。しかし誠は予想外な言葉を口にした。
「僕は遠慮させてもらうよ」
「よし。じゃあ早速計画を……。っておい、マコ。お前、本当にやらないのか?」
「ああ。僕はやらない」
 誠はそう言って仕込み作業を再開した。今度はソーセージを切り始める。五郎は誠に訊いた。
「なぜだ? なぜ手伝ってくれないんだよ。お前の力が必要なんだ」
「冷静に考えろよ、五郎。僕たち何歳だと思ってんだよ。もう無理だよ。犯罪にも定年ってやつがあるんだよ。七十超えた老人が現金輸送車なんて襲えるわけがないって」
「やってみなけりゃわからんだろ」
「わかるね、僕には」包丁片手に誠は断言する。「僕たちはもう昔の僕たちじゃない。引退から二十一年もたってんだぞ。僕たちが衰えたことだけが問題じゃない。世間が進歩してるんだ。今じゃ現金輸送車がどんな装備をしてるのか、それさえもわからないだろ」
 誠の言っていることは正論だ。この二十一年で世間は驚くほど変化した。今では誰もがスマートフォンを持ち、当たり前のようにインターネットで娯楽を楽しんでいる。昔はそんなことは考えられなかった。
「だからこそマコの力が必要なんだ。お前、パソコンできるだろ」
「できるけど、それは使えるって意味だ。ハッキングとかそういうのは僕には無理だ。僕たちみたいな古い犯罪者が立ち向かえる世界じゃなくなってしまったんだよ」
 たしかにそうかもしれない。たとえば電子マネーを盗むとか、仮想通貨を奪うというのは俺たちは絶対無理だろう。しかし現実には依然として現金が流通しており、それを運ぶ輸送車が公道を走っているのだ。それをいただくことくらいはできるのではなかろうか。
「五郎、最近右足が痛いんじゃないか?」
「どうしてそれを……」
「見てればわかる。二階の部屋に帰るとき、前は階段使ってたのに最近はエレベーター使ってるだろ。医者には行ったのか?」
 五郎は答えなかった。実は先週、医者に行って精密検査を受けた。椎間板ヘルニアという病気で、脊柱管内の神経がうスムーズに動いていないらしい。それが原因で右足が痺れていると診断された。医者からは手術を勧められたが怖くて断った。誠が続けて言った。
「五郎だけじゃない。ミッキーだってそうだ。あいつは腰痛が酷くて、週に三度は接骨院に通ってる。僕も去年の冬から膝が痛み出して困ってる。医者に行ったら年だから仕方ないって言われたよ」
 怪我や病気だけではなく、単純に体力も落ちている。気持ちは若いつもりだが、体が年老いているのは紛れもない事実だった。
「それに五郎、考えてみてくれ。もし失敗して捕まったらどうなる? 死ぬまで刑務所で過ごすことになるぞ。この年で刑務所に入るのは悲惨だ」
 幸いなことに五郎ら三人はこれまで警察の世話になったことはない。スピード違反や駐車違反といった軽微な犯罪ですら捕まっていない。それは細心の注意を払っているからだ。些細なことがきっかけとなり、大きな逮捕に繋がる。そういうケースは山ほど目にしてきた。
「いいよ、五郎。マコは抜きでやるしかないだろ」
 いつの間にか幹雄が厨房を覗いていた。手には掃除用の雑巾を持っている。
「意気地なしは放っておこうぜ。たしかに時代は変わった。手先が器用なだけじゃ通用しない世の中になってるからな」
 幹雄の言葉に誠がいきり立つ。
「おい、ミッキー。僕はみんなのことを思って言ってるんだ」
 鳩時計が鳴り始め、開店時間の十時を知らせていた。五郎は厨房から出て、店のドアにかかっている木製のパネルを裏返す。気まずい雰囲気のまま、喫茶デイブレイクは開店を迎えた。
「昨日ね、家でプリンを作ったんですよ。意外にうまくできたんです。そしたらかみさんが喜んでくれてね」
「へえ、それは凄い」
 小栗忠正は相槌を打った。今日は公民館フレンドとの飲み会で、近所のファミレスに来ていた。時刻は午後五時を過ぎたばかりで、いわゆるハッピーアワーという時間帯を狙って入店した。五時から七時までの二時間はビールなどのアルコール類が半額以下の値段で飲めるのだ。公民館フレンドとの飲み会は必ずこのファミレスと相場が決まっている。
 メンバーは忠正を入れて四人で、全員が定年したサラリーマンだ。忠正もここでは元サラリーマンと自分を紹介している。
「俳句教室、人気があるみたいですよ」
「俳句か……。ああいう文学的なものは敷居が高いっていうか」
「でもボケ防止にもいいらしいんですな、これが。頭を使うだけあって」
「へえ、そういうもんなんですね」
 話題はやはり市民教室のことになる。次に受講するための情報収集といったところだ。誰もが老後の時間を持て余し、公民館の市民教室に通っているのだ。
「そういえばウエムラさん、卒業するみたいですよ」
「そうなんだ。いい卒業? 悪い卒業?」
「悪い方みたいですね。実家のお兄さんが倒れてしまって、その介護をするって言ってました」
「介護か。そりゃあ大変だね」
 市民教室に通うのをやめることを忠正ら公民館フレンドの間では卒業と呼んでいる。卒業には二種類あり、いい卒業と悪い卒業だ。
 いい卒業というのは市民教室を通じて生涯やりたいと思える趣味を見つけ、そちらに打ち込むために市民教室をやめることだ。たとえば俳句教室に通って俳句の魅力を知り、教室仲間から紹介された俳句の会なんかに入るパターンが典型的ないい卒業だった。
 反対に悪い卒業とは体を壊して通えなくなったとか、配偶者が認知症を発症して通うことが難しくなったとか、そういう場合だ。いい卒業と悪い卒業の割合はほぼ半々だが、年齢が上に行けば行くほど悪い卒業の可能性が高まる傾向にある。
「実はですね、私も近々卒業することになりそうなんです」
 いきなりそう宣言したのは忠正の隣に座っている池田という男だった。テーブルを囲むメンバーの中では一番若く、まだ六十代半ばだ。前職は金融関係の仕事をしていたと聞いている。
「どうしてです? どこか具合が悪いとか?」
 メンバーの一人に訊かれ、池田が首を横に振った。
「元気ですよ。実はですね、店を開くことになったんです。女房の実家が横浜にあるんですが、今は誰も住んでないんです。そこを改装して喫茶店を開こうと思ってるんですよ」
「そいつは豪勢な話じゃないですか」
 池田は若い頃から喫茶店が好きで、自宅でもコーヒーを淹れていたらしい。いつか喫茶店を開きたいという夢があり、その実現の方法を長年模索していたという。
「女房に相談したところ、了解してもらったんです。女房も二年前に退職したもんで、暇を持て余していたみたいです。店を手伝うって言ってくれてます」
「そいつはめでたいことじゃないですか。乾杯しましょう、乾杯」
 各々がジョッキを手にとって乾杯した。忠正はジョッキの生ビールを口に運んでから、隣に座る池田に言う。
「喫茶店って結構大変じゃないのかな。料理とか作らないといけないわけだし」
「ええ。だからスイーツ教室に通っているんです」
 池田が一冊のノートを出し、それを見せてくれた。ノートには喫茶店の紹介記事などの切り抜きが貼られ、中には池田が撮影したと思しき写真もある。都内の喫茶店を分析したノートで、定年する前から地道に作ってきたらしい。
「個人経営の喫茶店は大きく分けて三種類あります」池田が解説を始めた。「万能型、特化型、専門型の三つです。これは私が勝手に決めただけなんですけどね」
 万能型というのはドリンクも飲み物も一通り揃えた喫茶店のことだった。特化型というのは一つのメニューに特化した喫茶店のことで、たとえばサンドイッチだけをメニューとして置いてある店のことらしい。専門型というのは猫カフェなど特定の層を対象とした店だという。
「万能型は大変なんですよ。サンドイッチ、パスタ、カレーやピラフといったフードメニューに、ケーキやパフェなんかのスイーツ類も充実させなければならないわけです。本格的なコックがいるならまだしも、私みたいな素人には到底無理です」
 忠正は借りたノートをパラパラとめくった。ちゃんとメモもしてあり、池田の研究のあとが窺える。忠正はノートをめくっていた手を止めた。喫茶デイブレイク。その店の名前が気になった。
 神保町にある店らしい。店内の写真が一枚だけあり、かなり歴史のある喫茶店のようだった。喫茶デイブレイク。神保町アカツキビルの1F。
 アカツキという単語が引っかかった。未解決の現金輸送車連続強奪事件だ。警察関係者しか知らない事実として犯行声明が送られており、そこにアカツキ強盗団という名前が記されていた。しかし手紙を書いた者が犯人であると決めつける根拠が薄く、結局マスコミにも公表されることはなかった。あの犯行声明が本物かどうか。捜査本部でも長年議論されてきたが、その真相が明らかになる前に時効を迎えてしまっていた。
「おや、喫茶デイブレイクですか」池田がノートを覗き込んで言った。「さすが小栗さん、目のつけどころがいい。この店は数年前からメニューをナポリタンに絞ってね、それが成功したいい例です。お店の従業員も比較的高齢だし、お手本のようなお店の一つです」
「へえ、そうかい」
「私の店はミートソースをメインにしようと思ってます。茹でたパスタにソースをかけるだけですからね。今、女房は必死に研究してますよ。元イタリア料理店のコックから習ってるから、まあ間違いないでしょう」
 池田は得意げに話している。それを聞き流しながら、忠正は喫茶デイブレイクの住所を頭に刻み込んだ。
 午後七時五十五分、あと五分で閉店を迎えるという時間になり、喫茶デイブレイクのドアが開いた。その婦人が店に入ってきた途端、店内にはバラの香りがそこはかとなく漂い始めた。五郎たちの永遠のマドンナ、深津ルミ子だった。
 ルミ子は店内を見回して言った。
「変わってないわね。この店も。働く男たちも」
「よく来たな、ルミ子」
 五郎は恭しく礼をしてから、ルミ子の手をとってテーブル席までエスコートする。まもなく閉店時刻のため店内に客の姿はない。ルミ子は白いワンピースに黄色い帽子を被っていた。まるでどこかの女子大生のようないでたちだが、彼女の年齢は七十五歳、ちょうど幹雄と同い年だ。
「さあどうぞ」
 ルミ子のために椅子を引く。「ありがと、五郎」と優雅に礼を言い、ルミ子は椅子に座った。長い脚を組むその姿は現役モデルのように美しい。
「久し振りだな、ルミ子」
「そうね。五年振りかしら」
 ルミ子との付き合いは長い。出会ったのは七〇年代初頭、折しも五郎たち三人が現金輸送車襲撃を成功させ、その金で豪遊していた頃だった。出会いの場所は赤坂の老舗ナイトクラブだった。そのクラブには芸能人や歌手も多く出入りしていたが、その中でもルミ子の美貌は際立っていた。多くの男が群がっていたがルミ子は目もくれず、妖艶な笑みを浮かべているだけだった。
 初めて目が合ったとき、まさに銃弾で心臓を撃たれたような気がした。しかし五郎は内心諦めていた。俺なんか相手にされないだろう。こっちは根っからの犯罪者。俺にとっちゃ高嶺の花だ。
 しかし予想に反してルミ子がダンスホールを横切り、こちらに向かって歩いてきた。五郎の前で立ち止まったルミ子は、五郎が持っていたシャンパングラスを奪いとり、それを飲み干して笑みを浮かべた。五郎は仰々しく膝をつき、ルミ子の手の甲に口づけした。立ち上がった五郎がルミ子に「どうして俺を?」と訊くと、返ってきた答えは「同じ匂いがしたから」だった。ホールにいる男たちの嫉妬の視線を感じながら、五郎はルミ子とともにボックス席に向かった。そこにいた幹雄と誠を交えて飲み始め、その日は朝まで飲み明かした。
 ルミ子も天涯孤独の身の上で、五郎たちと同じく危ない橋を渡って今の人生があるということがわかった。彼女の場合、その美貌を駆使して男を騙し、現金や貴金属を奪いとるのが流儀だった。ナイトクラブを訪れる男の中から相手を選ぶのだ。
 ルミ子とはよく遊んだ。ほどなくして五郎たちの仕事を知り、私も手伝いたいと言い出す始末だった。冒険好きというか、危険と隣り合わせの人生に価値を見出すタイプの女だった。仕方ないので連絡役をやらせてみたところ、それが案外いい働きをした。頭の回転も速い女だった。
 猫のように捉えどころのない面もあり、そこがまた魅力的だった。五郎だけではなく、幹雄も誠も彼女に夢中だった。しかしルミ子は五郎たち三人のことを異性というより、遊び仲間だと認識している節があった。それでも彼女と一緒にいるのは楽しく、歩いているだけで男たちの羨望を集めることができるのも愉快だった。彼女といるだけでたまらない優越感に浸ることができた。
 そんな日々はあっけなく終わる。突然、彼女が渡米すると言い出したからだ。ナイトクラブで知り合ったハリウッドの映画プロデューサーと懇意になり、渡米を勧められたらしい。別れの言葉も言い出せぬうちに、彼女は去っていた。三人は落ち込んだ。特に誠の落ち込みようは酷く、しばらく味噌ラーメンしか喉を通らなかったという。
 その数年後、日本での仕事が行き詰まったとき、五郎が真っ先に思い浮かべたのはルミ子のことだった。ルミ子がいるアメリカに行けば、新しい人生が待っているのではないか。根拠のない賭けだったが、ほかの二人もアメリカ行きに賛成してくれた。二人の頭の中にもルミ子の残像があるのは聞かなくてもわかった。そして渡米してすぐ、五郎はルミ子に再会した。場所はロサンゼルスの高級ホテルのレストランだった。
 ルミ子はリッチそうな白人男性と食事をしていたが、五郎たちに気づくと食事を中断し、妖艶な笑みを浮かべて五郎たちのもとに歩いてきた。五郎は立ち上がり、初めて会ったときと同じように膝をつき、彼女の手の甲に口づけをした。
 彼女の美貌はさらに磨きがかかっており、アメリカという土地では生来の美貌に加えてオリエンタルな魅力がプラスされ、社交界の男たちの注目を一身に集めているようだった。
 怪優と呼ばれたジャック・ニコルソンの愛人だったという噂もあったし、ジョン・トラボルタと同棲していたという噂もあった。ジャッキー・チェンの筆下ろしをしたのは彼女ではないかという根も葉もない噂もあった――彼女は笑うだけで否定も肯定もしなかったが、とにかくルミコ・フカツの名はハリウッド界隈ではよく聞かれた。
 深津ルミ子はそういう女性だった。
(第3回へつづく)

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横関 大Dai Yokozeki

1975年静岡県生まれ。武蔵大学人文学部卒業。2010年『再会』で第56回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の作品に、『グッバイ・ヒーロー』『チェインギャングは忘れない 』『沈黙のエール』『スマイルメイカー』『ルパンの娘』『炎上チャンピオン』『仮面の君に告ぐ』などがある。

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