双葉社web文芸マガジン[カラフル]

アカツキのGメン(横関大)

イラスト:おおさわゆう

第15回

「幹雄おじさん、本当のことを教えてよ。俺に内緒で何か動いているんじゃないの?」
 飛露喜がそう訊くと、幹雄は笑って答えた。
「何もしてねえよ。この暮らしを見ればわかるだろ。俺たちはもう引退したんだよ。年をとれば引退する。それが世の摂理ってやつだ。天龍も長州もみんな引退しちまったろ。それと同じだ」
 歌舞伎町で元刑事の小栗忠正と出くわしたのは昨日のことだ。気になったのでこうして幹雄の部屋を訪れたのだ。さきほどからずっと問い質しているのだが、幹雄は何も知らないと言い張っている。
「嘘だね。だって忠さんが近藤君を尾行していたのは事実なんだから。近藤君というのは暴力コック騒動で殴られたコックなんだ。その彼が殴った張本人と密会していた。それを見張っていたのがアカツキ強盗団のメンバー。絶対に何か裏がある」
「飛露喜、勘違いしているようだから訂正しておく。忠さんはアカツキ強盗団のメンバーじゃねえ。前回はたまたま手伝ってくれただけだ。俺たちとは無関係だ」
「じゃあ忠さんはどうして昨日……」
「知るか、そんなこと。忠さんが振り込め詐欺に遭ったのは知ってんだろ」
 詳しい話は知らないが、正確には被害に遭ったのは忠正の妻らしい。かなりの金額を奪われてしまい、そのことが五郎の誘いに乗る大きな理由になったという。そうでなければ元刑事が輸送車強奪といった犯罪行為に加担するわけがない。
「忠さんは金が必要だからな。個人的に動いて何か企んでいるのかもしれん。どんな情報でも金になる世の中だからな」
 本当にそうだろうか。忠正が近藤を尾行していたのは疑いようのない事実だ。そういえば別れ際、彼は表裏一体という言葉を使っていた。あれにはどんな意味があるのだろうか。
「ところで飛露喜、仕事はどうしたんだ? いつまでも遊んでいるわけにいかんだろうが」
「まあ、そうなんだけどね」
 トスカーナに営業再開の目処はついておらず、このまま閉店になるのではないかという噂さえあった。店は潰して客室にしてしまう。そんな噂も流れている。懇意にしているホテルマンから聞いた話だ。
「実はね、幹雄おじさん」
 飛露喜は幹雄に相談した。ニワホテルの従業員から勧誘を受けていることを。飛露喜の話を聞いた幹雄が腕を組んだ。
「悪くないかもしれんな。誘ってくれる人がいるのは有り難いことだぞ、飛露喜」
 一度会って真剣に話を聞いてみるのもいいかもしれない。しかし問題は社長の庭野友彦だった。彼は自分がアカツキ強盗団と縁があることを知っているだろう。あれはヘアパスタ騒動で揺れていた時期だったと思うが、飛露喜に対して疑惑の目を向けてきたことがあった。バイトならまだしも、正規の社員として雇ってくれるだろうか。
「ミッキー、準備はできたか?」
 そう言ってドアが開き、隣の部屋に住む誠が顔を出した。誠はボストンバッグを肩にかけている。飛露喜の顔を見て誠が言った。
「あ、飛露喜君、来てたんだ。こんにちは」
「こんにちは。誠さん、どこか行くんですか?」
「うん、ちょっと温泉にね。おい、ミッキー、そろそろ行こうよ」
「わかってるって」
 そう言って幹雄は立ち上がり、何やら出かける準備を開始した。その背中に向かって誠が言う。
「ミッキー、あれ持っていった方がいいよ」
「あれって何だよ」
「だからあれはあれだよ」
「あれじゃわからねえよ。パスポートか?」
「なぜ伊豆に行くのにパスポートが必要なのさ。あれだよ、髭を剃るやつだよ、電気のさ。この前行ったとき、宿の備品に文句言ってただろ」
「おお、電動シェーバーだな。あれは忘れちゃいかんな」
 幹雄が電動シェーバーをとり、それをバッグの中に入れた。飛露喜は誠に向かって言う。
「温泉ですか。いいっすね」
「伊東にいい温泉があるんだよ。あ、よかったら飛露喜君も一緒にどうかな? 六人まで泊まれる部屋だから、一人増えても全然問題ないよ」
「えっ? 今からですか?」
「そうだな、よかったら飛露喜も来い」早くも身支度を終えたのか、サングラスをかけながら幹雄が言う。「どうせ暇してるんだろ。温泉は最高だぞ。温泉に浸かって、そのあとに待っているのは旨い肴に旨い酒。温泉旅館というのは日本人が生み出した最高の娯楽だぞ」
「いきなり言われても……。持っていきたいものがあるから、一度家に帰っていいかな?」
「パスポートか?」
「違うって。着替えとか」
「じゃあ駅で待ち合わせってことにしよう。飛露喜君、それでいいだろ」
 誠にそう言われ、飛露喜はうなずいた。
「本当に俺も行っていいんですか?」
「遠慮するな、飛露喜。こういうのは多い方が楽しいんだ。それに五郎がああなっちまったからな。せめて俺たちだけでも楽しまないとな、あいつの代わりに」
 そう言って幹雄がニンマリと笑った。五郎は今も入院中だ。温泉に行くのであれば、本来なら一緒に行くはずだ。かつては常に三人揃って行動していた印象がある。
「じゃああとで」
 飛露喜は幹雄の部屋をあとにした。温泉に行くなんて久し振りだ。胸が高鳴るのを飛露喜は感じていた。
 伊東の姉様こと庭野英子の邸宅は海を一望できる高台にあった。敷地も広く、東に相模湾、北西に富士山を見渡せる庭が自慢だ。今日は生憎の曇り空で富士山を見ることは叶わなかったが、初夏の相模湾は綺麗に見えた。しかしそんな風景を堪能している余裕など今の友彦にはまったくなく、後部座席から降りると真っ直ぐ玄関に向かって進んでいった。
 典型的な日本家屋だ。寺社の建築を手掛ける高名な大工により建てられた家屋だと聞いている。平屋だが、かなり広い家だった。玄関のタイルには御影石が使われている。
「お待ちしておりました。こちらにどうぞ」
 若い使用人によって出迎えられた。長い廊下を奥に進み、案内されたのは意外にも洋風な造りの応接室だった。壁には風景画が飾られている。中央にある丸テーブルをとり囲むように数台のソファが置かれており、そのうちの一台に友彦は座った。運転手として秘書の柳沢を連れてきているが、彼は車に待たせてある。伊東の姉様は部下を同席させるのを嫌うことを友彦は知っていた。
 待つこと十分、ようやく庭野英子が姿を現した。その姿を見て友彦は驚く。いつも着ている着物ではなく、長い紺のスカートに白いブラウスという洋服だった。彼女が洋服を着ている姿を見るのは初めてかもしれない。白髪交じりだった黒髪も明るい茶色に染められている。
「ご無沙汰ね、友彦さん」
「こちらこそご無沙汰してしまいまして。つまらないものですがお受けとりください」
 友彦は持参した紙袋から出した箱をテーブルの上に置き、彼女に向かって差し出した。銀座の老舗和菓子店で買ってきた饅頭だ。亡き妻の久美の大好物で、姉の英子も好きであると友彦は知っていた。紙袋をちらりと見てから、英子はソファに腰を下ろした。
「久美の葬儀のとき以来かしら。まともに顔を合わせるのは」
「そうですね。時間が流れるのは早いものです」
「忙しそうですものね。三周忌法要も来られないほどですから」
 いきなり嫌味を言われ、立つ瀬がなかった。実は去年久美の三周忌法要がおこなわれたのだが、友彦はそれを当日に欠席することになった。急に外せない会議が入ったからだ。
「まったく面目ない。しかし英子さんは全然お変わりありませんな」
 それは本心だ。いや、むしろ若返ったようにも見える。伊東の姉様というと常に着物を身にまとい、古風なイメージがあった。しかし今日の彼女は垢抜けていた。
「いろいろと世間を騒がせているようですね。大丈夫なんですか?」
 ヘアパスタと暴力コック。一連の騒動のことを言っているのだろう。友彦は苦笑する。
「まったく面目ない。私の不徳が致すところです。庭野の名前を汚さぬよう精進していくつもりです」
 彼女の方が五歳下だが、義理の姉なので昔から敬語で話している。どこか超然とした雰囲気があり、近寄り難い空気を身にまとっている女性だった。しかし久々に会った彼女の空気は微妙に柔らかいものに変わっている。その理由は何だろうか。ファッションや髪型の問題ではなく、答えは内面にあるようが気がした。男でもできたのか。そう疑ってしまうほどの変わりようだ。
「失礼します」
 そう言って若い使用人が中に入ってきて、カップをテーブルの上に置いて去っていく。日本茶ではなく、紅茶らしい。このあたりにも彼女の変化が表われている。以前は京都から取り寄せた日本茶だった。
「ところでご用件は何? わざわざあなたがこちらにいらっしゃるなんて、さぞかし大事なご用件なんでしょうね」
「ええ、まあ」友彦は背筋を伸ばした。「実はお義姉様のお耳に入れておきたいことがございましてね。つい最近わかったんですが、ある新興ファンドが我が社の株を買い占める動きがあるんです」
 友彦は説明した。スターエッジというファンドの背後には中国の星花なる会社がいて、ニワホテルグループの吸収を目論んでいること。すでに彼らは二十パーセント近い株式を所有し、このままいけばニワホテルは星花に吸収されてしまう恐れがあること。英子は紅茶を飲みながら友彦の話に耳を傾けていた。友彦が話し終えるとカップを置きながら英子が言う。
「それは困ったわね」
 その言葉の割りにはまったく困ったように見えない。死んだ久美もそうだったが、どこか一般的な常識とかけ離れた世界にいる姉妹だった。子供の頃からお嬢様として育てられたせいだと友彦は考えていた。
「本当に困りました。これほどの窮地に立たされたことはございません」
 こんなに追い詰められたのは人生で二度目だ。一度目はかつてアメリカで警察に捕まったときだ。あのときは現行犯逮捕ではなく、しかも自分に繋がる痕跡は消し去っていたため、証拠不十分で不起訴になった。しかし取り調べで受けた屈辱や、勾留されていた期間に警察官から受けた嫌がらせ行為は、日本に帰国してからも夢に見るほどだった。あのときに感じた屈辱的な思いが、五郎に対する復讐心を育てたといっても過言ではない。
 そして今回、人生二度目の大きな窮地に立たされていた。このままでは手塩にかけて育ててきたニワホテルグループが中国の会社に乗っとられてしまうのだ。
「ニワホテルを――庭野産業を易々と中国人に渡すわけにはいきません。数千人の従業員も抱えてます。彼らのためにも私は徹底して戦おうと思ってます。お義姉様、おそらく近々向こうの会社が接触してくると思われます。奴らの目当てはお義姉様が持つ株式にほかなりません。絶対に向こうに引き渡さないよう、お願い申し上げます」
 友彦は頭を下げた。しばらく間があったのち、英子の声が聞こえた。
「どうかしらね。自分の持ってる株をどう使おうが、私の勝手でしょ」

 予期せぬ言葉に友彦は自分の耳を疑った。どう使おうが勝手。つまりそれはスターエッジ側に株式を売却することを意味しているのだろうか。
「お義姉様、お待ちください。それはどういう……まさかすでに接触があったということですか?」
 十分に考えられる話ではある。庭野英子が株を保有していることは公表されている。しかも大株主だ。スターエッジ側もいち早く彼女に接触したいと考えるだろう。誰にでもわかることだ。
 腋の下に汗が流れるのを感じた。もし英子の株がスターエッジ側に渡ってしまったら、それでゲームは終了だ。ニワホテルは星花の手に渡ることになる。昨日会った二人の男の顔が脳裏に浮かぶ。奴らが喜ぶ顔など決して見たくはない。
「教えてください、お義姉様。彼らは何と申してましたか? 彼らに株を売り渡すのは得策ではありません。むしろ愚策と言えるでしょう。お願いします。どうか考え直してください」
 友彦は立ち上がった。それは無意識のうちに出た行動だった。会社を守りたい。その一心から友彦は土下座をするつもりになっていた。床に膝をついたところで英子がそれを止める。
「土下座なんてしなくても結構です」
 はっと我に返る。自分が土下座をしようとしていた事実に愕然とする。しかしここで怯むわけにはいかなかった。友彦は英子に対して言った。
「教えてください。連中はどんな提案をしてきたんですか?」
 具体的にいくらで買いとりたいと言ってきたのか。それを聞き出すことができれば、こちらとしては相手以上の価格を提示できる。しかし英子は質問には答えず、急に立ち上がった。
「友彦さん、今日はお帰りください」
「お、お待ちください。まだ話は……」
「明日、詳しい話をいたします。午前十時にここにお越しください。私は言えるのは以上です」
 そう言って英子は応接室から出ていってしまう。ドアの前で若い使用人が待ち受けていて、彼女とともに消えていく。友彦はどすんとソファに座り込んだ。
 しばらく立ち上がることができそうにない。それほどのショックを受けていた。あの調子では英子がスターエッジ側から何かしらの提案を受けているのは間違いなさそうだ。そして彼女が半ば心を決めていることも薄々わかった。彼女の決断は友彦にとって悪いものになりそうな気がしてならない。
 どれほどの時間、ソファに座って呆然としていたかわからなかった。咳払いが聞こえ、顔を向けると開いた応接室のドアの前で若い女の使用人が立っている。早く帰れと催促しているようだ。仕方なく立ち上がり、友彦は応接室から出た。
 廊下を歩く。どこかから女の声が聞こえた。楽しげにお喋りしている女たちの声だ。もしかして英子の友人が訪れていて、紅茶を飲みながら話をしているのかもしれない。
 玄関から外に出た。庭を歩き、門から外に出るとベンツの運転席から柳沢が降り立った。彼が後部座席のドアを開けたので、友彦は中に乗り込んだ。
 柳沢は何も言わなかった。友彦の表情から何かを嗅ぎとったのかもしれなかった。しばらく車中は沈黙に包まれる。柳沢はエンジンもかけずに友彦の指示を待っている。たっぷり一分ほど思案したのち、友彦は言った。
「東京には戻らん。宿を探してくれ」
「かしこまりました」
 柳沢がスマートフォンを出し、今夜の宿を探し始める。時刻は午後四時になろうとしている。明日の午前十時にまたここに足を運ぶことになるので、わざわざ東京に戻るのも面倒だった。静岡県内だと静岡市にニワホテル静岡店があるが、伊東市からは結構な距離がある。伊東市内の温泉旅館に泊まった方がいいと判断したのだ。
「社長、候補が見つかりました。好きなものをお選びください」
 そう言って柳沢がスマートフォンを差し出してきた。画面を見ると、どの宿も典型的な温泉旅館といった感じだった。写真を見てインスピレーションで選ぶことにした。
「上から三つ目だ。食事は部屋でとりたい。希望はそれだけだ」
「かしこまりました。手配いたします」
 スマートフォンを柳沢に返してから、友彦は大きく息を吐いた。義理の姉に会っただけだが、やけに疲れていた。
「飛露喜、先に行ってるからちゃんと鍵を閉めてくるんだぞ」
 幹雄はそう言って部屋から出ていった。誠もあとに続く。伊東市内にある温泉旅館だ。昔ながらの温泉旅館といった感じの風情のある建物だ。仲居に案内されて部屋に入った途端、すぐさま幹雄たちは浴衣に着替えて大浴場に向かってしまった。
 十二畳ほどの和室で、真ん中にテーブルが置かれている。広縁には大きな窓があり、その向こうに海が見えた。持ってきたバッグを置き、それから飛露喜も浴衣に着替えた。タオルを持って大浴場に向かう。
 大浴場は一階の一番奥にあった。タオル一枚持って中に入る。湯煙に包まれている。大きな湯船があるが、そこには幹雄たちの姿はなかった。露天風呂の案内表示が見えたので、そちらに足を向けた。外に出ると石造りの庭園が広がっていて、そこに露天風呂があった。幹雄と誠が並んで顔だけ出して湯に浸かっている。
「飛露喜、遅かったな。早く入れ」
 湯で体を簡単に洗ってから中に入る。露天風呂に入ったのはいつ以来だろうか。少なくとも上京してからは記憶にない。
「どうだ? 飛露喜。いい湯だろ」
「うん、いい湯だね」
 たしかに気持ちがいい。体が芯から温まってくるのを実感する。飛露喜は幹雄に訊いた。
「幹雄おじさん、ここには何度も来てるの?」
「ああ、もう通算して五回目だ。すっかり仲居とも顔馴染みだ」
 さきほど部屋に案内されたときも仲居と談笑していたことを思い出した。かなりこの宿を気に入ってるようだ。幹雄が嬉しそうに言う。
「料理もなかなかだ。刺身も新鮮だしな。今日はいいアジが入ったらしい」
 温泉に浸かり、部屋に戻ると美味しい料理が待っている。幹雄たちが足繁く通うのも無理はない。しばらく温泉を堪能していると、一人の老人が歩いてくるのが見えた。腰にタオルを巻いた痩せた老人だが、その顔を見て飛露喜は驚いた。向こうも同様だった。湯に浸かる飛露喜たち三人の顔を見て、目を見開いている。
「お、トミーじゃねえか」最初に声を発したのは幹雄だった。「何やってんだよ、トミー。こんなところで珍しいな。でも笑えるな。天下のニワホテルの社長さんが温泉旅館に泊まるなんてな」
 ニワホテル社長の庭野友彦だった。友彦は困惑気味に立ち尽くしている。救いの手を差し伸べたのは誠だった。
「ミッキー、静かにしろって。トミー、入ったらどう?」
 しばらく迷っていた友彦だったが、覚悟を決めたように湯の中に入ってきて、やや距離を置いて湯に体を沈めた。
 幹雄たちと庭野社長は旧知の仲らしい。ニックネームで呼び合っていることからもそれがわかる。しかし庭野社長は昨年幹雄たちから喫茶デイブレイクを奪いとった張本人だ。昔の復讐のようだったが、五郎は今も病室で寝たきりの状態なのだ。次に口を開いたのは幹雄だった。
「トミー、お前んところ、大変なことになってるみたいだな。あの例のイタリア人はどうした? 国に帰っちまったのか?」
 友彦は答えない。頭の上にタオルを載せ、黙って湯に浸かっているだけだ。続けて幹雄が言う。
「でも大変だよな。今じゃSNSっていうのか。ああいうので情報が拡散しちまうんだもんな。でも傑作だよな。あのイタリア人、土下座してピンチを救ったと思ったら、それが今度は子分を殴るなんてよ。誰かが裏で糸を引いているとしか思えないぜ」
 そこでようやく友彦が口を開いた。幹雄を睨みつけて言う。
「まさかお前たちの……お前たちの仕業なのか?」
「そんなことあるわけないだろ」幹雄が笑い飛ばした。「俺たちは隠居したんだ。たしかに最初は恨んだよ。でもな、今となっちゃあれでよかったんじゃないかと思ってる。身体的に店を続けるのも辛かったからな」
 幹雄は七十六歳になる。この年で喫茶店で丸一日働くのは大変だろうと想像はつく。幹雄が続けて言った。
「俺たちが完全に引退したのはここにいる飛露喜が証人だ。テレビのワイドショーが唯一の情報源で、お前のホテルの騒動には一切関与していねえ」
 四六時中一緒にいるわけではないので確信はないが、彼らが隠居老人のような生活を送っているのは事実だ。ただし先日新宿で元刑事の小栗忠正と偶然出会い、彼が若手コックの近藤を尾行していたことは気になっていた。幹雄の話では忠正は単独で行動しているようだったが、果たしてそれは本当だろうか。
「そういうわけだから、まあ頑張ってくれや、トミー。あんまり肩に力を入れすぎるとそのうちくたばっちまうぞ。俺たちはもう若くはないんだからな」
 自分たちの店をビルごと奪った人物を前にしているというのに、幹雄は恨み言一ついうことなく飄々とした態度で接している。その神経が理解できなかった。話によると彼らの間には因縁があるようで、そういうものが影響しているのかもしれなかった。
「すっかりのぼせちまった。そろそろ出るか。お、そうだ、トミー。たまに五郎の見舞いに来てくれてるらしいな。五郎に代わって礼を言うぜ」
 友彦の表情に変化が出た。恥ずかしそうな顔つきだった。それを悟られたくないのか、友彦は両手で湯をすくって顔を濡らした。
「先に上がるぜ」
 そう言って幹雄が立ち上がり、露天風呂から出ていった。誠もあとに続く。ほかにもちらほらと客がいるが、このまま友彦と一緒にいるのは気分が滅入りそうだ。しかも微妙な関係だ。まだ正式に辞めたわけではないので、飛露喜にとっては勤務先の社長なのだ。
「失礼します」
 小さく頭を下げてから飛露喜は湯から上がった。
 自動ドアが開き、一人の若者が旅館内に入ってきた。旅館の浴衣を着た男だ。名前は柴田飛露喜。柴田幹雄の遠縁に当たる男で、トスカーナで働くバイトでもある。
 友彦は旅館の一階にあるラウンジにいた。友彦の存在に気づいたのか、飛露喜はやや困惑した表情で足を止めた。友彦は立ち上がり、彼のもとに向かって歩き始める。
 さきほど自室の窓から外を眺めていたところ、旅館から出ていく彼の姿を目撃した。夜の十時を過ぎているので遠出をすることもないだろう。そう思ってここで待っていたのだ。どうやら予想は的中したようだ。
「な、何か用ですか?」
「どうしてここにいる? 私がここに宿泊しているのを幹雄たちは知っていたのか?」
 露天風呂で会ったとき、最初に抱いた疑問はそれだった。旅館の露天風呂で出会うなんて確率はそう高くはない。必然だと疑いたくなるのは当然と言えよう。
「僕はわかりません。でも幹雄おじさんはこの宿の常連で、何度も来ているみたいです」
 嘘をついているようには見えない。この宿に宿泊することになったのは突発的な出来事で、しかも数ある宿泊施設の中からこの宿を選んだのは友彦自身だった。
「あの、行っていいですか?」
 飛露喜がそう訊いてきた。彼はコンビニの白いレジ袋を持っている。近くのコンビニに行ってきたのだろう。
「本当に私に隠していることはないんだな?」
「僕は何も知りません。失礼します」
 飛露喜が立ち去っていくのを見送ってから、友彦も自分の部屋に戻ることにした。友彦の部屋は二階の一番奥だった。秘書の柳沢は別の部屋に泊っている。部屋にはすでに布団が敷かれているが、まだ眠る気にはなれない。さきほど仲居に届けてもらった焼酎をグラスに注ぎ、それを手に広縁のソファに座る。
 幹雄たちが伊東にいる。その事実をどう捉えるべきか、友彦は悩んでいた。温泉に入ることを目的とした旅行であるなら何ら問題はない。しかしそれ以外に伊東に来る目的があるとしたら、それはやはり庭野英子と結びつけて考える必要があるだろう。
 去年の夏、友彦は五郎たちから神保町アカツキビルを奪った。それは間違いのない事実で、しかもあまりにショックを受けたためか、五郎は脳梗塞を起こして倒れてしまった。幹雄と誠が自分に向ける恨みが大きいことは想像にかたくない。年も年だし、大がかりな復讐計画を練るとは思えなかったが、それでも念を入れて去年一杯は二人の行動を見張らせていた。
 興信所から上がってきた報告によると、特に不審な動きはないようだった。神保町の安アパートで大人しく暮らしているとのことだった。特に働く様子もないことから、食うに困らない程度の金はあるようだった。もし無心してきたら金くらいは用意してやるつもりだったが、その必要はなさそうだった。
 幹雄たちはスターエッジ側についているという可能性もある。しかしさきほどの露天風呂での様子から、幹雄たちからそういった類いの匂いは感じられなかった。すっかり丸くなったというか、年老いて牙が抜けたかのようだった。しかし昔から幹雄は役者だったので油断はならない。
 スマートフォンが鳴り始めた。画面を見ると、経理部長の米岡からだった。グラスを置いて電話に出た。
「社長、夜分遅くに申し訳ございません」
「何かあったのか?」
「ええ、実は親族の株主についてですが……」
 英子以外にも数人の親族が、それなりの株式を所有しており、米岡にはその者たちに接触して動向を探るように命じていた。
「面会すら断られてしまいます。もしかするとスターエッジ側から何か言われているのかもしれません」
 友彦は唇を噛む。先手を打たれてしまったということか。親族が保有する株式がすべてスターエッジに押さえられてしまっているなら、この勝負はまったく勝ち目がない。
「引き続き頼む。私は明日も伊東の姉様と会うことになった」
 友彦の言葉の端々からこちらの状況を察したのか、米岡は質問してくることはなかった。通話を切り、スマートフォンをテーブルの上に置いた。再びグラスを持ち、焼酎を口に運んだ。
 目が冴える一方だった。同じ宿に幹雄と誠が泊まっていると考えると不思議な気がした。それこそアメリカで彼らと組んで仕事をしていた頃、ほぼ毎日のように顔を合わせ、酒を酌み交わしていた。笑いが絶えなかった。あの頃が無性に懐かしいが、もう以前と同じ関係には戻れない。彼らの大事な店を奪い、五郎をあんな目に遭わせてしまったのだから。
 友彦はグラスの焼酎を飲み干した。

 翌日の午前九時五十分、友彦は庭野英子の邸宅前で車から降りた。庭を歩いて玄関に向かう。使用人が待っていて、中に入るように案内された。先客がいるらしく、二足の革靴が置いてあるのが見えた。
 前日と同じ応接室に入り、やはりなと内心思った。先日、ニワホテル本社を訪れたスターエッジの二人、鈴村と謝玄がソファに座っている。玄関で二足の革靴を見たときから予想していたことだ。二人は友彦の顔を見ても驚くことなく、笑みを浮かべて軽く会釈をしてきた。
「お揃いのようね」
 背後で声が聞こえ、振り返ると庭野英子が立っていた。今日も洋服を着ている。英子は友彦に向かって言った。
「お座りください」
 友彦はソファに座る。正面に鈴村と謝玄の顔があった。ここにスターエッジの人間が呼び出されている意味。おそらく英子はみずからが所有する株式をどちらに譲るか、それを発表するつもりではないだろうか。そうでなければこういう場を設ける意味がない。
「お集まりいただきありがとうございます。今日こちらにいらしていただいたのはほかでもありません。私が保有している株式会社庭野産業の株式についてです。そちらのスターエッジさんが庭野産業の経営に参加しようと画策していることは私も聞き及んでおります」
 そのとき使用人が入ってきて、テーブルの上にコーヒーの入ったカップを置いた。使用人が立ち去るのを待ってから、再び英子が口を開く。
「私が所有している株式は個人としては大量なものです。もしも今後、庭野産業とスターエッジさんが歩み寄ることなく、株式公開買い付けに発展することになるのは私としては不本意ですので、ここは早めに私の立場を表明しておくべきだと考えました」
 やはりそうか。友彦は膝の上に置いた拳を握り締める。おそらくスターエッジとは事前に協議し、話がついているのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。スターエッジの二人は今も余裕の笑みを浮かべている。すでに答えを知っているかのような表情だ。
 もし庭野英子が所有する株式がスターエッジに渡ったら、彼らの所有する株式は三十パーセント弱となる。そうなるとニワホテルとしてはTOB――株式公開買い付けによる全面対決に挑むのはあまりに無謀であり、星花の資本提携を受け入れるしか道はない。そして近い将来、星花の傘下に入ることになるのだ。
「二週間ほど前でしたでしょうか。スターエッジさんからお話があると言われ、私の株式を買いとりたいと提案がありました。魅力的な条件でしたが、私はその場で回答することはいたしませんでした。やはり重要な決定ですので、私は気の許せる友人に代理人として間に入っていただくことを決めました」
 代理人。いったい誰だろうか。スターエッジの二人を見ると、初めて困惑した表情を浮かべていた。代理人という話は聞いていないのかもしれない。案の定、鈴村という男が声を上げた。
「奥様、お待ちください。代理人というのは、どういう……」
 その声に耳を貸さず、英子は続けた。
「お入りください」
 応接室のドアが開く。最初に入ってきたのは着物を着た女性だ。そのあとには数人の男が続く。友彦は思わず唸っていた。深津ルミ子と幹雄、誠、それから柴田飛露喜だ。一番後ろには元刑事の小栗忠正の姿も見える。やはりこいつらだったのか――。
「株式会社アカツキの皆様です」
 そう紹介され、深津ルミ子が恭しく頭を下げた。男たちはニヤニヤ笑いながら立っている。若い飛露喜だけは落ち着かないのか目をキョロキョロさせていた。
「皆さん、ごきげんよう。株式会社アカツキの深津と申します。庭野の奥様とは仲良くさせてもらっていまして、そんな縁もあってか、今回庭野の奥様の代理人となりました。よろしくお願いします」
 それを受けて英子が言う。
「去年の秋のことだったかしら。買い出しに行ったショッピングモールで偶然出会って、それ以来仲良くしているお方です。今では週に一度は必ずランチをご一緒する間柄で、信頼できるお方なんです」
 すべて仕組まれたことだ。そのくらいは友彦にもわかる。ルミ子は偶然を装って英子に接近し、巧みにとり入ったのだろう。地味だった英子のイメージチェンジの裏にはルミ子の影響があるはずだ。昨日ここから立ち去るときに聞いた華やいだお喋りの声も、英子とルミ子の会話だったのではなかろうか。
 なぜルミ子が――幹雄たちが英子に接近したのか、その理由も想像がつく。早い段階でスターエッジの動きを察知し、庭野英子がキーパーソンになると勘づいたからだろう。そういう意味では恐ろしく鼻の利く連中だ。その動機もわかっている。奪われたものをとり戻すためだ。去年、私はこいつらからすべてを奪ったのだから。
 もう終わりだ。友彦は絶望した。ルミ子たちは英子の所有する株式を高値でスターエッジに売り渡すに違いない。そして数パーセントの手数料がルミ子たちの懐に入る算段だ。
「よろしいですか」ルミ子がよく通る声で言う。その姿は若々しく魅力的で、英子が心を許してしまうのもうなずける。「そろそろ本題に移りましょう。もう一人、紹介しなければなりません。株式会社アカツキの代表取締役、暁五郎です」
 ドアが開き、一人の男が中に入ってくる。しっかりとした足どり。ジーンズに黒いジャケットを羽織っている。血色もいい。思わず友彦は立ち上がっていた。ま、まさか――。
 間違いなく、そこに立っているのは五郎だった。
(第16回へつづく)

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横関 大Dai Yokozeki

1975年静岡県生まれ。武蔵大学人文学部卒業。2010年『再会』で第56回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の作品に、『グッバイ・ヒーロー』『チェインギャングは忘れない 』『沈黙のエール』『スマイルメイカー』『ルパンの娘』『炎上チャンピオン』『仮面の君に告ぐ』などがある。

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