双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第5章

 回る……。世界が回る。私自身が回転する。
 黒塗りの鏡に吸い込まれた私は、巨大な赤黒い渦の中で翻弄ほんろうされていた。洗濯機の中に放り込まれたかのような感覚。気を抜けば体が千切れてしまいそうだ。
 歯を食いしばってその全身にかかる負荷に耐えながら、すぐ横を見る。そこではククルが竜巻に巻き込まれた木の葉のように、激しく振り回されていた。
「ククル、大丈夫?」
 何とか声を絞り出しながら、私はククルの耳を握る右手に力を込める。
「う、うん、大丈夫だけど、なんだかすごい世界だね。僕の耳を離しちゃだめだよ」
 ぐるぐると回転しつつ、ククルは返事をする。思いのほか余裕のあるその口調に、不安がわずかに薄れる。
「ここが鏡の中の世界なのかな?」
 そうだとしたら。つくださんのククルを探すどころじゃない。
「いや、多分違うよ。あっちを見てごらん」
 回りながら、ククルは私に握られていない方の耳を動かした。首を反らせてククルが差した方向に視線を向けると、遥か遠くで弱々しく光が点滅していた。
「たぶん、あそこがもう一つの世界だ。ここは、二つの世界をつなぐ空間みたいだね」
「じゃあ、どうにかあの光のところまでいかないと」
「大丈夫だよ。勝手にどんどん近づいてる。たぶん、このまま渦に身を任せていたら、すぐにあの光の所まで運ばれていくんじゃないかな」
 言われてみれば、徐々にだが確実に光との距離は縮まっている。どうやら渦は、あの光に向かって吸い込まれるように生じているようだ。
「じゃあ、ここからは脱出できそうなんだね」
 痛みに耐えながら声を絞り出すと、突然ククルの体の回転が止まった。毛で覆われたその顔には、険しい表情が浮かんでいる。
「油断しちゃだめだよ。あの光の奥にどんな夢幻の世界が広がっているのか、分かったものじゃないんだから。のっぺらぼうたちがそこから来たんだとすれば、かなり危険な場所のはずだ」
「わ、分かった……」
 光との距離が縮まっていく。そこには直方体の穴があき、そこから白く点滅する光が漏れだしていた。私たちは穴に向かって勢いよく吸い込まれる。
「出るよ! 気を付けて!」
 ククルが声を上げる。私は腕で顔を覆い、体を小さくしながら穴に引きずりこまれていった。
 背中に強い衝撃が走る。肺の空気が強制的に押し出され、口からむせるような声が漏れた。目を固く閉じ、歯を食いしばって体が粉々になったかのような痛みに耐えていると、「大丈夫かい?」という声が降ってきた。
 薄目を開けると、アーモンドのような形をしたつぶらな瞳が、顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫じゃ……ない……」
 声を絞り出して、倒れている私の胸の上に乗っているククルに言う。
「いやあ、すごい勢いで背中ぶつけたね。僕は放り出された瞬間に体を反転させて、足から着地したけどさ」
 ククルは得意げに言うと、やすりのようにざらざらした舌で私の鼻先を舐めた。
「ほら、いつまでも倒れていないで立ち上がりなよ。悠長に痛がっている余裕はないんだよ」
「そんなこと……できない……。背骨……折れたかも……」
「背骨?」
 ククルは小首をかしげる。
「何度言ったら分かるんだい。ここには『骨』なんかないんだよ。骨が折れたと思ったり、痛かったりするのは、これだけの衝撃を受けたらそうなるだろうって、香苗かなえが勝手に想像しているからさ」
「そんなこと言われても……」
「それならさ、自分に背骨なんか存在しないって想像してみなよ。そうしたら、『折れた骨』自体が存在しなくなるからさ」
 背骨がない? そんな状態になったら私の体は……。
 そこまで考えたとき唐突に、首から下が溶けた。
 支えを失った体が、液体になったかのように白衣から溢れ出し、床の上を広がっていく。驚いて手で体を支えようとした私の喉から、か細い悲鳴が上がる。腕がとぐろを巻く蛇のようにらせん状に曲がっていた。その姿はグロテスクで、自分の体の一部だと受け入れることに強い拒否感が芽生える。見ると、手だけでなく足も同じ様にぐにゃぐにゃと、それ自体が一匹の生物のようにうごめいている。もはや私の姿は、足を半分失ったタコが床をっているかのようだった。
「な、なんなの、これ!?」
「だから、背骨がなくなった体だよ。まあ、背骨だけじゃなく手足の骨までついでに消えちゃったみたいだけどね。いやあ、自分で言っていてなんだけどさ、人間が軟体動物みたいになるのって、けっこう不気味だね」
「呑気なこと言ってないで、どうにかして!」
「どうにかって、簡単だよ。元の体をイメージしなおせばいいんだ。ほら、集中して」
「こんな状態で集中なんかできない!」
「世話が焼けるなぁ」
 ククルは片耳でうねうねと蠕動せんどうしている私の腕に触れる。その部分から、体の内部で固い骨が伸びていくのを感じる。四肢が関節を取り戻し、床にスライム状に広がっていた体に支えが生まれ、形を取り戻していった。
 軟体動物の状態から、脊椎せきついを取り戻した私は胸を撫でおろす。
「ひどい目にあった……」
「けれど、骨の痛みはなくなっているでしょ」
 たしかに痛みが消え去っていた。
「ほんとだ……」
 打ちつけた腰に触れていると、ククルが肩に乗ってきた。
「今回みたいな怪我は、状況に応じて香苗自身が想像して生じるものだから、イメージ次第で簡単に治せるんだ。けれど、前回の『闇の巨人』とか、今回の『のっぺらぼう』みたいな悪意を持った存在が攻撃してきた場合は、そうはいかないから注意してね。ああいうのは、精神体である香苗に直接ダメージを与えることができる。その傷は、今回みたいに簡単には治せない」
「心の傷を治すには時間がかかる。そして、ある程度以上のダメージを負った心は完全に壊れちゃう。……そういうことね」
 そう、心に刻まれた傷はそう簡単には治らない。二十年以上前に負ったあの傷は、未だに癒えていないのだから。
 胸から脇腹にかけて、鋭い痛みが走る。私は浴衣の首元を軽くはだけると、その中を覗き込む。胸元から右の脇腹に、痛々しい傷跡が走っていた。
 現実の世界で、私の体にはこんな傷跡はない。しかし、この夢幻の世界にやってきている私の精神には、しっかりとあのときの傷が刻み込まれているのだ。
 ただ……。私は指先でそっと傷跡に触れる。ケロイド状に盛り上がったその部分の滑らかな感触とともに、うずくような痛みが走る。
 ただ、飛鳥あすかさんの夢幻の世界で見たときよりも、心なしか傷は小さくなっている気がした。
 担当する三人の特発性嗜眠とくはつせいしみん病患者。自らの夢幻の世界に囚われた彼らを救い出すことができたとき、この傷は癒えるのかもしれない。二十年前、眠り続ける彼女のそばでおぼえた、身を裂かれるような無力感。いまも私をさいなみ続けるあの感覚から逃れることができるのかもしれない。そんなかすかな期待をおぼえていた。
「なにぼーっとしているんだい、香苗」
 あの日の記憶を反芻していた私は、ククルの声で我に返る。
「あ、ごめん」
「油断しないようにって釘を刺しておいたじゃないか。ほら、それじゃあまずは、ここがどんな世界なのか確認しないと」
 言われて私は周囲を見回す。四畳半ほどの空間に私は座り込んでいた。床にタイルが敷かれ、シャワーや洗面台が見える。
「バスルーム……」
 そう、ここはバスルームだった。単身者のマンションにありそうな狭いバスルーム。そこで私はバスタブに背中を預けて座り込んでいた。床に叩きつけられた痛みと、軟体動物になったショックで、そのことにも気づいていなかった。
「うん、そうみたい。けれど、なんか不気味な雰囲気だよね」
 ククルの言うように、この空間には濁った空気が満ちていた。天井の蛍光灯はいまにも消えそうに点滅しているし、床のタイルには黄ばみが目立つ。洗面台の下部についている排水管の接続部からは、ぽたぽたと水がしたたり落ち、隅にある排水口は髪が詰まっていた。
 鼻先をかすめた匂いに、反射的に口元に手が行く。腐敗臭、真夏の部屋に魚を放置したような匂いが漂ってきた。その匂いは次第に濃厚になっていく。吐き気をおぼえた私は、ゆっくりと立ち上がった。視点が高くなると、さらにこの空間の異常さが明らかになる。
 洗面台の鏡が割れていた。その表面には蜘蛛くもの巣のように、細かいひび割れが放射状に走っていた。
 鏡……。やしろまつられていた鏡の、うるしを塗られたように黒光りする姿を思い出しつつ、私は鏡を覗き込む。ひび割れによっていびつにゆがんではいるものの、そこに私の顔が映りこんだ。私は手を怪我しないように割れた部分を避け、おそるおそる表面に指を這わせてみる。社の鏡を触ったときのように、中に吸い込まれることはなかった。
「ねえ、ククル。たぶん私たちって、この鏡から放り出されたんだよね? これに触ってもなにも起こらないってことは、あっちにはもう戻れないってことなのかな?」
 肩に乗っているククルに話しかけるが、返事はなかった。不審に思い、横目で視線を送ると、ククルは唖然とした表情で背後を見つめていた。
「どうしたのククル?」
「……バスタブ」
 押し殺した声でククルがつぶやく。「バスタブ?」と振り返った私は、息を呑んで大きく飛びずさった。背中が壁のタイルにぶつかる。
 白いバスタブは液体で満たされていた。赤黒く、粘着質な液体で。
 液体がゆっくり渦を巻く。色の濃淡がいびつなまだら模様を描き、その禍々まがまがしさを増していく。
 腐敗臭がさらに強く、呼吸をすることすら躊躇ためらわれるほど濃厚になる。
「な、なんなのこれ?」
「……分からない。けれど、あまりいいものではなさそうだね」
 私の肩の上で、ククルは戦闘態勢を取った。
 鼻を押さえたまま固まっていると、液体のなかから何かがゆっくりと浮かび上がってきた。白く、滑らかな曲線を描く物体。それが何なのかに気づいたとき、悲鳴が口を覆った掌の下で響いた。
 それは骨だった。人間の頭蓋骨。空洞の眼窩がんかが恨めしそうにこちらを見た瞬間、私は身を翻した。
 扉を開けてバスルームを出る。短い廊下の先に玄関があることに気づき、そちらに向かって走る。
「ちょっと、香苗。どこに行くんだよ」
 分からない。けれど、少しでもあのバスルームから離れなければ。本能がそう告げていた。
 玄関扉を開けて飛び出ると、そこはマンションの外廊下だった。扉が等間隔に並んでいる。廊下の突き当りにある非常階段へと駆けていく。
 あと少しで階段にたどり着くというとき、進路を遮るように扉が開いた。慌てて足を止めた私は目をく。扉から出てきたのは、スーツ姿ののっぺらぼうだった。その手にはびたのこぎりが握られている。
 のっぺらぼうはぐるりと首を回してこちらを向く。その顔に目などないのに、敵意に満ちた視線に射抜かれて動けなくなる。
 のっぺらぼうが鋸を大きく振り上げた瞬間、銀色の軌跡がその体をぎ払った。のっぺらぼうの姿が霧散するのを、私は固まったまま眺める。
 次の瞬間、頬に走った衝撃で金縛りが解けた。
「しっかりしなよ!」
 鋼と化した右耳でのっぺらぼうをほふり、毛に包まれた柔らかい左耳で私の頬を打ったククルが、鋭く言う。
「ここに来るって決めたのは香苗だろ。佃三郎のククルを見つけて、彼のマブイを救い出すんだろ」
 そうだ、そのために私はここに来たんだ。混乱に沸騰していた頭が冷めていく。
「少しは落ち着いたかな」
「うん。ありがと、ククル」
「お礼を言うのはまだ早いよ。この夢幻の世界は、かなり危険な場所だ。マブイグミをやり遂げるまで、油断しないように……」
 ククルがそこまで言ったとき、背後の玄関扉がきしみを上げて開いた。
 その場で勢いよく回転すると、右手に持っていた金魚のレーザー銃を掲げる。
 扉からきりを持って出てきたのっぺらぼうの姿を確認すると同時に、私は腹びれの引き金を絞る。紅のレーザー光線によって脇腹に大きな穴が開いたのっぺらぼうの姿が消えていった。
「もう、大丈夫みたいだね」
 ククルはその可愛らしい外見に似合わないニヒルな笑みを浮かべると、非常階段を耳でさした。
「それじゃあ、あらためて佃三郎のククルを探しに行こうか」
「うん!」
 私は力強くうなずいた。
 
 両手で持った金魚型のレーザー銃を胸元に構えつつ、私は警戒しながら細い路地を進んでいく。
 マンションの非常階段を降り、敷地から出た私たちは、両側にブロック塀がそびえ立つ路地を歩いていた。時折、刃物を持ったのっぺらぼうが曲がり角からぬっと姿を現わしたりするので気が抜けない。
「よいしょっと」
 足元を歩くククルが緊張感のない掛け声を上げながら、ブロック塀の上から顔を出したのっぺらぼうの首を耳の刃で薙ぎ払う。
「いやあ、これで何匹目だろう。きりがないね」
 ククルは芝居じみた仕草で首を鳴らす。
「ねえ、佃さんのククルって、この世界のどこかにいるんだよね」
「そうなんじゃないかな」
 頼りない答えに、眉根が寄る。
「そんな顔しないでよ。ククルがどこにいるか考えるのは本来、ユタである香苗の仕事なんだからさ」
「そうなんだろうけどさ……」
 私は口を尖らせつつ、離れた十字路から出てきたのっぺらぼうをレーザー銃で撃った。
「まあ、ここにいる可能性は高いと思うよ。前にも言ったけど、夢幻の世界を作り出しているマブイはかなり傷つき、弱っている。そういう人物は概して、マブイを映す鏡であるククルも同じ状態になっているんだ。そして、弱った状態で夢幻の世界に囚われているククルは、その傷を負ったきっかけとなるような場所で隠れていることが多い」
「飛鳥さんのククルが、あの底なしの暗闇の中にいたみたいに……」
 私がつぶやくと、ククルは「そういうこと」と耳を振った。
「のっぺらぼうが跋扈ばつこするここは、きっと佃三郎のマブイが重い傷を負った出来事と深い関係があるはずだ。きっと、佃三郎のククルはこの悪夢のような世界のどこかにいるさ」
「でも、ここってかなりの広さがあるよ。のっぺらぼうのせいで慎重に進まないといけないし、どうやって佃さんのククルを探せば……」
 そこまで言ったとき、私ははっと顔を上げる。左右にそびえ立っていたブロック塀が、少し先で尽きていた。私とククルは顔を見合わせると、小走りに進んでいく。
 路地を抜けると、大通りが広がっていた。
 私は「あっ」と声を上げる。左右に並ぶブロック塀の奥に建つ民家、通りを照らす街灯、地面に描かれた標識。その全てに見覚えがあった。
「ククル、ここって……」
「……ああ、そうだね。鏡の向こう側にあった大通りそっくりだね」
 そこは鏡を通してこちら側の世界に来る前、佃さんの夢幻の世界に這入り込んですぐのとき、私が立っていたあの大通りに似ていた。しかし、あのときの大通りとは、明らかに異なる点もある。
 私は深呼吸をくり返しながら、通りを観察する。
 街灯は半分ほどが消えている。残りの半分もちかちかと点滅して、いまにも消えてしまいそうだ。ブロック塀は蒼いこけに覆われ、ところどころ崩れている。地面に描かれた標識も、かすれて読み取れない。
 私はレーザー銃を構えたまま、左右に立ち並ぶ民家を目で追っていく。どの家からも明かりが漏れていないのは、最初に見た大通りと一緒だ。あのときは違和感をおぼえたが、ここでは当然と感じる。それほどに、どの民家も荒れ果てていた。
 門扉は錆びて倒れ、塗装が剥くげた外壁にはシダ植物が這い、窓ガラスは多くが割れている。
 何年間も放置され、風雨にさらされ続けたゴーストタウン。辺りはそんな様相を呈していた。
「なんか……気味が悪いね……」
 足元に寄り添うククルが緊張をはらんだ声でつぶやいたとき、遥か遠くに明かりが灯った。私は目を疑う。明かりに浮かび上がったのはあまりにも異様な光景だった。
 鏡の向こう側の世界では祭りが開催されていた丘があった場所、そこにマントをまとった巨大なのっぺらぼうが立っていた。そのサイズは首を反らしてしまうほどに巨大で、人型の高層ビルがそびえ立っているかのようだった。
 巨大のっぺらぼうの周囲には、鬼火のように蒼い炎が浮かび、のっぺらぼうの顔を下方から不気味に照らしている。
「香苗、あそこ……」
 ククルが巨大のっぺらぼうの足元を耳で差す。目を凝らすと、マントの隙間がトンネルのようになっていて、そこから刃物をもったのっぺらぼうが出てきていた。
「あれが、のっぺらぼうの発生源?」
「どうやらそうみたいだね。で、どうする?」
 ククルは身を低くして、警戒態勢を取る。
「え? どうするって?」
「だから、あの巨大のっぺらぼうの中に入るかどうかだよ」
「あの中に!?」声が裏返る。
「ここまでくると、佃三郎のトラウマにのっぺらぼうが深くかかわっているのは間違いない。そうなると……」
「……あの巨大のっぺらぼうの中に、佃さんのククルがいる」
 唾をのんで言うと、ククルは「そういうこと」と耳を振った。
 息を乱しながら、巨大のっぺらぼうを見る。あんな不気味なものの内部に這入り込むことに、本能的な恐怖をおぼえた。しかし、佃さんのククルはきっとあそこに……。
 脳裏に、穏やかな顔で眠る美しい女性の横顔がよぎる。
 軽く頭を振った私は、上目遣いに巨大のっぺらぼうを睨んだ。
「行こう。じゃないと、佃さんを治せないんだから」
「いい顔だね。なかなかユタっぽくなってきたよ」
 ククルは楽しげに言うと、ジャンプして私の肩に飛び乗った。
「それじゃあ、洞窟探検としゃれこもうか」
 頷いた私が足を踏み出そうとしたとき、巨大のっぺらぼうの足元からこちらに向かって、二本の蒼白い光が伸びはじめた。大通りの両側に立ち並んでいる廃墟と化した民家の窓に、奥から順に光が灯ってきている。ついには私のそばにある民家にも光が灯る。それと同時に、静寂が満ちていたゴーストタウンにざわめきが満ちていく。
 鏡の向こう側でも似たようなことがあった。しかしあのときとは違い、民家の窓からこぼれる光は不気味な蒼色で、聞こえてくるのは朗らかな歓談ではなく、怨嗟えんさに満ちたうめき声だった。
「これは……、よくないね」
 ククルがつぶやくのを聞きながら、私は民家の二階にある窓に視線を送った。背中に冷たい震えが走る。そこには、のっぺらぼうがいた。刃物を持ったのっぺらぼうが割れた窓から、存在しない目でじっとこちらを見ていた。
「香苗、全力で走るんだ。もうすぐ、民家からのっぺらぼうたちがあふれ出してくる!」
「う、うん」
 慌てて走り出そうとすると、ククルは「そうじゃない!」と叫ぶ。
「え? そうじゃないって?」
「人間の足で走っていたら間に合わない。もっと速い動物をイメージして、変身するんだ」
 速い動物。誰よりも速く大地を駆ける獣。
 ククルの指示を理解した私は、目を閉じて必死にイメージを膨らませる。全身に波紋のように震えが走り、手から金魚型のレーザー銃が落ちた。
 体内からごきごきと骨が変形していく音が響く。痛みはなかった。関節を鳴らしたときのような心地よさすら覚えていた。
 脊柱が湾曲し立位を保っていられなくなる。私は倒れこむように両手を地面につく。いや、それはもはや手や腕ではなく、前脚だった。四肢の関節が人間とは、霊長類とは明らかに違う角度に曲がっていき、皮膚の下で筋肉がしなやかに蠕動しつつ膨らんでいく。
 全身の皮膚が粟立あわだつような感触が走ったあと、黄金色の柔らかい毛が生えてくる。八重歯が伸びてできた鋭い牙を剥くくと、私は空に向かって大きな咆哮ほうこうを上げる。
「おお、チーターだね。これならきっと間に合う。行くよ」
 背中に乗ったククルの声を聞きながら、黄金の体毛に包まれたチーターと化した私は、弾力のある肉球で地面を蹴った。
 力強い四肢の筋肉で地面を蹴った力が、強力なバネが仕掛けられているかのように柔軟で強靭きようじんな背骨によって加速力へと変換されていく。
 左右に廃墟と化した民家が連なっている光景が、これまで経験したことのない速度で流れていく。遥か遠くに立っていた巨大なのっぺらぼうが、みるみると近づいていく。
 前方にある民家の敷地からとうとう、のっぺらぼうたちが溢れ出してきた。もうすぐ巨大なのっぺらぼうにたどり着く、しかし民家から出てきた大量ののっぺらぼうたちが、大通りの中心に殺到してくる。その光景は、まるで左右から巨大な壁が、押しつぶそうと迫ってくるかのようだった。
 大丈夫、襲われる前に巨大のっぺらぼうに到着できる。そう思ったとき、巨大のっぺらぼうのマントの隙間、いまから私たちが飛び込もうとしている場所から、日本刀を手にしたのっぺらぼうが姿を現わした。
 そののっぺらぼうは、私たちを待ち構えて両断しようとするかのように、頭上に日本刀をふりあげた。
 このままじゃ、斬られる。けれど、少しでも減速したら両側から迫ってきているのっぺらぼうたちに襲われる。
「このまま突っ込め!」
 躊躇ちゆうちよしている私に向かって、ククルが叫んだ。
「でも……」
「いいから僕を信用するんだ!」
 力強いセリフが迷いを打ち消した。覚悟を決めた私は一際強く地面を蹴ってさらに加速していく。そのとき、頭上から見慣れたものが視界に入ってくる。それはククルの耳だった。
 長く伸びた二本の耳がり合いつつ、質感を変化させていく。やがてそれは銀色に輝く槍になった。中世の騎士が持つような、円錐えんすい状の巨大な槍。
 槍の先端が、日本刀を構えるのっぺらぼうを向く。その意味を悟った私は、巨大のっぺらぼうのマントの隙間に向かって、ただがむしゃらに走り続けた。
 左右に立ち並んでいた民家が途切れる。左右から迫っていたのっぺらぼうの壁も見えなくなる。巨大のっぺらぼうがすぐ目の前に迫る。
「行けえ!」
 ククルの声を聞きながら私は、立ち塞がるように日本刀を構えているのっぺらぼうに向かって突っ込んだ。のっぺらぼうが日本刀を振り下ろすようなそぶりを見せた瞬間、槍の先端がその胸に突き刺さった。かすみのように散るのっぺらぼうの体を突っ切るように、私はトンネル状になっているマントの隙間へと飛び込んだ。



 暗闇の中、肉球で地面をこすって急ブレーキをかける。完全には勢いを殺すことができず、体は数メートル横滑りしてようやく止まった。
 私は素早く振り返って、いま飛び込んできた入り口をみる。のっぺらぼうたちが後を追って来ることはなかった。
「どうやら、外の奴らは入ってこれないみたいだね」
 ククルが私の背中から飛び降りる。縒り合わさって巨大な槍と化していた耳がはらりとほどけて短くなり、またふわふわとした毛に包まれた元の形へと戻った。
「よかった」
 安堵の息を吐く私の足元に淡い光が灯った。その光はまゆのように私の体を包み込んでいく。
 私は目を閉じ、自分の体が再構成されていく感覚を味わう。それは温かな液体の中で溶けていくかのようで、心地よかった。
 光の繭が消えたとき、黄金色のチーターは消え、私は白衣を纏った普段の姿に戻っていた。
「あれ、チーターはやめたの? なかなか機能的な身体だったのに」
 同じネコ科の姿をやめたのが不満だったのか、ククルはつまらなそうに言う。
「いくら機能的でも、やっぱり四足歩行は違和感があるしね。それに、もうお祭り気分じゃいられないから、この格好に戻ってみたんだ」
「たしかに、ここはお祭り気分でいられるような場所じゃなさそうだね」
 ククルが真剣な表情になる。この場所は、入り口からかすかに入ってくる光で視界が保てるが、奥には闇がわだかまっていてなにがあるか分からない。ただ、闇の中に何かが潜んでいる気配がする。なにか危険なものが。
 息を殺していると、足元の床が輝きだした。非常灯のような薄緑の光。それが奥に向かって伸びていくにつれ、闇の奥に隠れていたものが、ぼんやりと浮かび上がってくる。
 現れた圧倒的な光景に、私はあんぐりと口を開けて立ち尽くした。
 そこにはろうが並んでいた。鉄格子で出来た二メートル四方ほどの正方体の牢。それが道の左右に高々と積まれ、壁を作っている。首を反らすが、牢の壁がどこまで達しているのか分からなかった。そして、それらの牢の一つ一つに、のっぺらぼうが閉じ込められていた。
「これって……」
 言葉を失う私の足元で、ククルが耳で狭い額をく。
「ここはのっぺらぼうの収容所、……というか刑務所か拘置所なのかな?」
「刑務所?」
「佃三郎は弁護士だったんでしょ。だったら、そういう場所と関係が深かったんじゃないかな。そのイメージが顕在したのが、この牢の壁なんだと思うよ。さて、それじゃあ行こうか」
「え? 奥に行くの!?」
「そりゃそうでしょ。これだけ気味が悪いってことは、ここは佃三郎の精神が、大きなダメージを負った出来事と密接につながっているはずだ。つまり、ここにククルが隠れている可能性が高いんだよ」
「そうかもしれないけど……」
 頭では理解していても、のっぺらぼうたちが収容されている無数の牢の間を進んでいくことに抵抗があった。
「ほら、ぐずぐずしている暇はないよ。夢幻の世界は時間が経つにつれ変化していく。いつ外ののっぺらぼうたちが押し入ってくるか分からないんだ。さっさと行かないと」
 妖しく緑色に光る道を、ククルは軽い足取りで進みはじめる。
 佃さんを救うためだ。私はこぶしを握りしめると、ククルのあとを追った。
 牢の壁に囲まれた道を歩いていく。鉄格子の隙間から、のっぺらぼうたちが手を伸ばしてくる。かなり道幅があるので、その手が届くことはなかったが、道の両側に無数の手が生えている光景はおぞましく、全身に鳥肌が立ってしまう。
 口がないにもかかわらず、のっぺらぼうたちがあげる呻き声が不協和音を奏で、恐怖を掻くき立てた。
「いやあ、気持ち悪い光景だね。大量の芋虫か、巨大なムカデの足が蠢いているような」
 楽しげに言うククルに「やめてよ!」と抗議していると、唐突に数個先の牢の扉が開き、中からのっぺらぼうが出てきた。
「ああ、ごめんごめん」
 ククルは謝りながら片耳を刃物に変えながら伸ばし、のっぺらぼうの首を薙いだ。のっぺらぼうの姿が掻くき消される。
「けど、たしかに軽口叩いている場合じゃないね。ここにある牢が一気に開いたりしたら、一気に襲い掛かられる」
 恐ろしい想像に、背筋が冷たくなる。
「そうなる前に、佃三郎のククルを見つけないと。香苗、急ぐよ」
 私は頷くと、恐怖を押し殺して駆けだした。私たちは牢の壁が両側にそびえる道をひたすらに走っていく。時々、牢から出てきたのっぺらぼうが襲ってくるが、足元を駆けるククルが耳で切り裂いてくれる。
 どれだけ走っただろう。延々と続く同じ光景、心をむしばんでいくような気味の悪い光景に時間の感覚が麻痺まひしだしたころ、道の遥か先にぼんやりとした紫色の光が見えた。
「ククル、あそこ!」
 私は正面を指さしながら、スピードを上げる。やがて、妖しく光る床とともに、左右に連なっていた牢の壁が消え去った。私とククルは足を止める。
 闇の中に、それはあった。紫色に淡く光る正方体のおり
 のっぺらぼうたちが閉じ込められている牢より遥かに小さく、一辺は五十センチほどしかないだろう。格子は鉄ではなく、プラスチックのように半透明で、それ自体が弱々しい光を放っている。まるで、蛍光灯でできた檻のよう。
 緊張しつつ檻へと近づき、格子の隙間から中を覗き込んだ私は、口を固く結ぶ。
 そこには幼い少女が、膝を抱えるようにして横たわっていた。
 年齢は幼稚園生ぐらいだろうか。麻袋に穴を開けたような簡素な服から伸びる手足は枯れ木のように細く、幼い顔は血の気がなく蒼白だった。四肢には擦り傷が目立ち、片方の足首には無骨なかせすらはめられている。
 痛々しいその姿に、鼻の付け根にしわが寄った。
「ククル、これが……」
「ああ、この子が佃三郎のククルで間違いないだろうね」
「ひどい状態……。まるで、奴隷にされた子供みたい……」
「それだけ、佃三郎のマブイも傷ついているってことさ。さて、苦労したけどようやく佃三郎のククルを見つけることができた。でも、マブイグミはここからが本番だよ。僕は夢幻の世界を案内することはできるけど、ここからは香苗が一人でやらないといけない」
「うん……、分かってる」
 一度大きく深呼吸をした私は、檻に向かって手を伸ばす。
 淡く輝くその格子に両手が触れた瞬間、記憶の奔流が流れ込んでくる。私は目を閉じてその流れに意識をゆだねた。
 
 遠くから祭囃子ばやしが聞こえる。
 木製の桶を持った佃三郎は、足を止めて音が聞こえてきた方向を向く。自然と頬が緩んでしまう。今日は近所の神社で行われる、年に一度の夏祭りの日だった。夕方の仕事が終われば祭りに行っていいと、両親から許可はもらっている。
「おい、三郎。なにぼーっとしてんだよ。そんなんじゃ、祭りに行けないぞ」
 三歳年上の兄が声をかけてくる。まだ十四歳だというのに、その太い両腕で大人が持つのも苦労するたるを抱えていた。
「あ、兄ちゃんごめん」
「まったく、仕事も大してできないくせに休むなよ」
 いやみったらしい兄のセリフに、三郎は唇を噛む。三郎には兄が二人いた。彼らが同年代の中でも際立って体格がよく、力が強いのに対し、三郎は同級生の中でもかなり小柄だ。
「そういえば、お前、また試験でいい点数取ったんだって。母ちゃんが言っていたぞ」
 兄の後ろを歩きながら、三郎は「うん」と頷く。このあと、何を言われるか予想して、気持ちが重くなっていく。
「まったく、勉強なんてしている暇があったら、もっと体を鍛えろよな。お前が使えない分、俺たちが余計に働くことになるんだから」
「……ごめん」
 うつむきながら謝罪すると、兄は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
 町のはずれで畜産業を営む佃家では、子供たちも重要な労働力だ。その中で、非力な三郎はいつも兄たちと比較され、惨めな思いを強いられてきた。
「頭なんか良くても、なんの意味もないんだよ。それなのにお前と来たら……」
 兄の小言を黙って聞き流しながら、三郎は桶を掴む手に力を込める。
 そんなことはない。これからは勉強ができる奴の時代なんだ。学校の先生がそう言っていた。
 俺はこんな田舎町を出て東京に行く。そこで、牛の世話なんかじゃなく、もっと大切なことをするんだ。兄ちゃんたちには出来ないような、大切なことを。
 牛舎に入りながら、三郎は自らに言い聞かせるように、胸の中でくり返す。
「そういえばお前さ、いつか東京に行きたいとか言っているらしいな」
 頭の中を読んだかのような兄のセリフに、心臓が大きく跳ねる。顔を上げると、牛の水飲み用の細長いますの前で足を止めた兄が、冷たい眼差しを向けていた。
「お前みたいな奴が、東京に出て何をするつもりなんだよ?」
 兄は抱えた樽の水を豪快に升に移す。牛たちが一斉に水を飲みはじめた。
「それは、なにか大切なことを……」
 視線の圧力に萎縮し、口ごもってしまう。
「大切なこと? 家族の仕事を手伝うよりも大切なことってなんだよ?」
「それは……」
「なんだ、考えていないのか? お前はただ、うちの仕事から逃げ出したいだけなんじゃないか」
 図星を突かれて、三郎は無言で俯く。
「そんな奴が、東京に出て『大切なこと』なんてできるわけないだろ。分かったらくだらないこと考えてないで、牛にブラシをかけてやれ。全頭な」
「全頭って、兄ちゃんは……」
「俺は祭りだ。同級生の女と回る約束をしているんだよ。ああ、あと犬と猫たちにえさもやっておけよ」
「俺だって祭りに……」
 抗議の言葉は、兄に睨まれて尻すぼみになる。
「東京に行くなんて、馬鹿なことを考えていた罰だ。まあ、頑張れば祭りになんとか間に合うだろ」
 樽を担いで離れていく兄の姿を、唇をゆがめて見送った三郎は、すぐそばに落ちていたブラシを手に取り牛に近づく。
 枷がつけられているかのように足が重かった。



 息を切らしながら石段を駆け上がっていく。響いてくる太鼓の音が大きくなるにつれ、鼓動が高まっていく。
 必死に牛たちにブラシをかけ、犬と猫の餌やりを終えた三郎は、夏祭りが行なわれている神社に向かっていた。なんとか、祭りが終わる前に仕事を済ますことができた。まだ十分に祭りを楽しむ時間はあるはずだ。
 ズボンのポケットの中で、硬貨がガチャガチャと音を立てる。石段を上がり切った三郎は、肩を激しく上下させながら「わぁ」と歓声を上げる。鳥居の向こう側に、夢の世界が広がっていた。
 色とりどりの華やかな浴衣を着る参拝客たち、参道を明るく照らす提灯、左右に連なる出店。刺激の少ない田舎町に住む三郎にとって、それは幻想的な光景だった。
 火に誘われる羽虫のように、三郎はふらふらと参道を進んでいく。背が低いため、浴衣姿の人々で出店がよく見えなくなる。しかし、それも楽しかった。これほど多くの人が集まっているのを見るのは、年に一回、この夏祭りだけだ。
 人の波を掻くき分けながら、三郎は出店を覗き込む。金魚掬い、お面、型抜き、タコ焼きなど、様々な屋台が連なっていた。
 三郎はポケットから硬貨を取り出して数える。この日のために、なけなしの小遣いを貯めたものだった。
 大切に使わないと。三郎は小さく飛び跳ねて屋台の種類を確認し、なにを食べ、なにで遊ぶか計画していく。それだけで、仕事の疲労を忘れられた。
 まずはこれだ。すぐ近くにあった出店に向かった三郎は、そこでリンゴあめを買った。
「ほい、毎度あり!」
 威勢のいい声をあげる店主からリンゴ飴を受け取った三郎は、それを一口かじる。柔らかい飴の層を抜けた前歯が、瑞々みずみずしいリンゴの果肉を齧り取る。シャリッという小気味いい音が弾けた口の中で、飴の甘味とリンゴの酸味が融け合っていく。
 普段の生活では経験することのない美味を堪能しながら、三郎は参道を奥へと進んでいく。小遣いには限りがある。どの出店で遊ぶか、吟味する必要があった。
 浴衣姿の親子で賑わっている金魚掬いの屋台を覗き込む。しゃがみこんでいる客たちの肩越しに、金魚が泳ぐ水槽が見えた。提灯の光に照らされた金魚はそれ自体が淡く発光しているかのように美しかった。
 一瞬、ポイを買おうかと思うが、三郎は口を開きかけたところで思いとどまる。
 すくった金魚を持って帰ったところで、家で飼うことはできない。自宅ではネズミ避けに数匹の猫を飼っている。よくスズメなどを狩って食べている彼らにとって、金魚はおやつにしか見えないだろう。
 金魚掬いの屋台から離れた三郎は、リンゴ飴を齧りながら出店をひやかしていく。
 参道を半分ほど進んだところで、お面屋にずらりと並ぶ様々な動物のお面を眺めていた三郎は、肩に強い衝撃をおぼえた。食べかけのリンゴ飴が手を離れて地面に落ちる。なけなしの小遣いで買ったご馳走が砂まみれになった。
「ああ、悪いな、三郎。背が小さくて気づかなかったよ」
 三郎は歯を食いしばって顔を上げる。そこには、同級生の少年が三人、あざけるような笑みを浮かべて立っていた。普段からなにかと嫌がらせをしてくる少年たちだった。リーダー格の少年は、三郎より頭一つ背が高い。
「ひどいよ。せっかく買ったリンゴ飴だったのに……」
 三郎が勇気を振り絞って抗議の声を上げると、リーダーの少年の目がすっと細くなる。
「だから、お前が小さくて見えなかったから、肩が当たったんだよ。なにか文句でもあるのか」
 少年は三郎に近づくと、覆いかぶさるようにしてにらみつけてくる。その迫力に、三郎は身を小さくすることしかできなかった。
 少年は分厚い唇に笑みを浮かべると、わざとらしく鼻をひくつかせる。
「くさいな。動物の匂い、牛の糞の匂いだ」
 屈辱と羞恥心が体温を上げる。三郎は両手でシャツの裾を強く握った。
 学校以外の三郎の生活では、常に動物が傍にいる。家業の手伝いで、日常的に牛の世話をしているし、害獣よけのための犬や猫も数匹ずつ飼っている。家の裏の山からは、よく狸や鹿が出てくるし、猪の姿を見たこともある。朝はいつも外から聞こえてくる小鳥の鳴き声で目が醒めていた。
 動物は好きだった。彼らは周囲にいる人間のように、自分を馬鹿にしたりしないから。毎日を懸命に生きている彼らの姿を見ることが楽しかった。ただ、常に動物が周りにいる環境はたしかに、独特な匂いを肌に染み込ませる。特に、日課の一つである牛たちのふんの処理は。
 自分がとてつもなく惨めな存在であるように思えて、視界がにじんでくる。
「おい、なにを泣いてるんだよ。男のくせに」
 少年が額を小突いてきた。それだけで、小柄な三郎は二、三歩後方にたたらを踏んでしまう。その姿を見て満足したのか、少年たちは笑い声を上げつつ去っていった。
 彼らの姿が見えなくなると、三郎は背中を丸めて歩き出す。さっきまでキラキラと輝いていた提灯の光も、いまはくすんで見えた。
 パンっという小気味いい音が三郎の鼓膜を揺らす。反射的にそちらに目を向けた三郎の足が止まる。そこには射的の屋台が立っていた。同年代の少年たちが空気銃を構え、コルクの弾で小さな菓子箱などを撃ち落としている。
 三郎の視線は、棚の一番上にある景品に吸い寄せられた。それは、車の模型だった。こんな田舎町では決して走っていないような、外国の車の模型。
 以前、裕福な家の子供が、同じような物を学校に持ってきて自慢したことがあった。男子全員がその同級生の机を取り囲み、模型に羨望の眼差しを向けた。さっき絡んできた三人も。
 あの模型を手に入れたら、あいつらを見返せる。
 三郎は硬貨が収められているポケットに手を入れながら、ふらふらと屋台に近づいていく。
「おう、坊主。お前もやるか?」
 店主に威勢のいい声をかけられた三郎は、首をすくめるように頷いた。
 代金を払った三郎は、受け取った空気銃にコルク弾を詰めると、両手で構える。予想を超える重量にぶれる銃口をなんとか一番上の棚に鎮座する模型の箱に向けると、引き金を絞った。
 パンっという破裂音とともに伝わってきた反動で、銃口が上を向く。コルク弾は天井の布に当たると、力なく地面に落ちた。
「ダメだよ、ダメ。もっと力を込めないとな。坊主は小さいんだから」
 店主が分厚い唇の端を上げる。その表情に、さっき絡んできた少年の嘲笑ちようしようが重なった。三郎は次のコルク弾を装填そうてんし、すぐに撃つ。弾が一直線に地面に向かって飛んでいった。
 額の辺りが熱くなっていくのをおぼえながら、三郎は弾を装填しては、引き金を絞っていく。小さな皿に載っていた五発のコルク弾を全て打ち尽くしたが、模型を撃ち落とすことはおろか、まともに棚まで届かせることもできなかった。
「終わりだな」
 空気銃を奪おうとする店主に向かい、三郎は硬貨を握った掌を突き出す。
「なんだ、坊主。まだ続けるのか?」
 三郎は無言で手を突き出し続けた。店主は「はいはい」と硬貨を受け取り、代わりにコルク弾を皿の上に置く。
 すぐに銃口にコルク弾を詰めた三郎は、再び模型に向かって撃ちはじめた。
 何発も撃つうちに、次第に弾は棚の方向へ、そして模型の箱のそばへと飛ぶようになる。上達を実感した三郎は、コルク弾が尽きるたびに、店主に代金を払って新しい弾を買った。
 射的にのめり込むうちに、いつの間にかこの日のために貯めていた小遣いは底をついてしまった。皿の上には最後のコルク弾が一個だけぽつんと置かれている。それを手に取った三郎は、慎重に銃口に詰めていく。何十発も撃ったおかげで、ほとんどの弾が模型の箱のそばに当たるようになっていた。
 最後の一発。これが外れたら、もう模型を手に入れることはできない。小遣いを全部つぎ込んだのが無駄になる。
 構えた銃身に顔を添わせながら片目を閉じる。引き金にかけた人差し指が、緊張でかすかに震えだした。銃口をまっすぐに模型の箱に向けながら、三郎は深呼吸をくり返す。
 大丈夫だ。次こそ当たる。あの模型を撃ち落とすことができる。
 息を止めると、人差し指の震えが止まった。三郎は引き金を絞る。
 銃を通して伝わってくる反動を、三郎は力を込めて抑え込む。圧縮された空気に押し出されたコルク弾が、一直線に模型の箱に向かって飛んでいくのを、三郎はまばたきをすることも忘れて見つめ続けた。
 箱の中央に描かれた外車に、コルク弾が衝突するのを見て、三郎は両手を高く掲げる。しかし、喉を駆け上がってきた歓声は口の中で霧散した。
 箱をとらえたコルク弾は、まるで壁に当たったかのように跳ね返ると、力なく地面へと落下していった。両手を掲げた姿勢で固まったまま、三郎は微動だにしていない模型の箱を眺め続けた。
「残念だったな、坊主。景品は撃ち落とさないともらえないんだよ」
 店主は無造作に三郎の手から空気銃を剥くぎ取ると、小さな飴玉の箱を差し出してくる。
「まあ、頑張っていたから特別賞だ。気を落とすなよ」
 放心状態で飴玉の箱を受け取った三郎は射的の屋台から離れると、おぼつかない足取りで参道を奥へ進んでいく。背中に漬物石でも乗っているかのように体が重かった。視界が揺れ、雲の上を歩いているかのように足元が定まらない。
 なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。この日のために貯めていた小遣いを全部使ってしまった。それで手に入ったものは、わずかな飴玉だけ。もう、夏祭りを楽しむこともできない。
 こんなことなら、祭りになんか来ずに、牛の世話でもしていればよかった。そうすれば、同級生に馬鹿にされることも、こんなにつらいを思いをすることもなかったのに。
 うなだれ、足を引きずるように歩いていた三郎は、臓腑を揺らす太鼓の音に顔を上げる。いつの間にか境内の奥までやってきていた。社の前の広場に高いやぐらが組まれ、その周りで浴衣姿の人々が盆踊りを舞っていた。
 提灯に照らされた人々の笑顔を見て、惨めな気持ちがさらに強くなる。こんな状態で、楽しげに踊る人々の輪に加われるはずもなかった。
 三郎がきびすを返そうとしたとき、「佃君」と声を掛けられる。見ると、そばに浴衣姿の少女が立っていた。同級生の南方みなみかた聡子さとこだった。
「こんなところに突っ立って、なにしてるの?」
 金魚があしらわれた桃色の浴衣を着た聡子に、切れ長の目で見つめられた三郎は、「いや、その……」と言葉を濁す。
 美人で気が強く、思ったことはなんでもずばずばと口にする彼女に苦手意識があった。それに、医院を営んでいる彼女の家は、町でも有数の資産家だ。昔から聡子を前にすると、劣等感を掻くき立てられる。だからできるだけかかわらないようにしていた。それなのに、この同級生の少女はなにかにつけて話しかけてくるのだ。
「盆踊りするなら早い方がいいよ。もうすぐ終わりの時間だから」
 聡子は櫓を指さす。
「いや……、いま帰るところだから……」
「え、盆踊りしないで帰るの? なんで?」
 問い詰めるような口調が気持ちを毛羽立たせる。三郎は「ほっといてくれよ」とかぶりを振ると、逃げるように離れていった。
 盆踊りの輪から離れ、参道のわきにある木にもたれかかった三郎は、片手で目元を覆う。気を抜いたら、嗚咽おえつが漏れてしまいそうだった。早くここから離れたいのだが、帰路につく気力さえもわかなかった。
 焦点の合わない目で盆踊りを眺めていた三郎の肩が叩かれる。緩慢に首を回すと、そこにはさっきからかってきた三人組の少年が立っていた。
「な、なんだよ」
 反射的に身構えた三郎の胸に、リーダー格の少年が何かを押し付けてくる。腕の中にある物を見た三郎は目をいた。それは模型の箱だった。さっき、射的で必死に狙っていた外車の模型。
「これって……」
「それやるよ。さっきリンゴ飴をだめにしちまったからさ」
 少年は三郎の肩を叩きながらどこか作り物っぽい笑みを浮かべる。三郎が「え、でも……」と戸惑っていると、少年たちは走って去っていった。
 狐につままれたような心地で、三郎は立ち尽くす。なにが起きているのか分からなかった。ただ、喉から手が出るほど欲しかったものが、いま腕の中にある。その事実に胸が高鳴る。
 せわしなく箱をあけようとしたとき、背後から重い足音が響いてきた。次の瞬間、三郎の体は浮き上がり、木の幹に背中から叩きつけられた。
「さっきの餓鬼か!」
 痛みに呻いていると、怒声が全身に叩きつけられた。怒りで表情をゆがめた中年の男が、三郎のシャツのえりを掴んで木の幹に押し付けていた。混乱する三郎に男がぐいっと顔を近づけてくる。その顔には見覚えがあった。さっき、小遣いを使い果たした射的屋の店主。
「よくもうちの景品を盗んでくれたな!」
 店主の剣幕に身をすくめながら、三郎はすぐに状況を理解する。
 同級生の少年たちは、射的屋からこの模型を盗み出したのだ。しかし、店主に発見されて追いかけられたので、とっさにそれを三郎に押し付けた。
 濡れ衣を着せられたことを悟った三郎は、必死に誤解であることを伝えようとする。自分は盗みなどしていないと。しかし、歯を剥くき、顔を真っ赤に紅潮させた店主の姿は昔話に出てくる赤鬼のようで、恐怖で言葉が出てこなかった。
「覚悟はできてるんだろうな」
 店主は片手で三郎を幹に押し付けたまま、もう片手で拳を作る。
「お、俺が盗んだんじゃ……」
 舌がこわばって声が出ない。拳が大きく振り上げられる。
 殴られる。絶望しながら三郎が目を閉じたとき、鋭い声が上がった。
「止めてください!」
 予想した衝撃は来なかった。三郎がおそるおそる薄目を開けると、少し離れた位置に少女が立っていた。色鮮やかな金魚があしらわれた、桃色の浴衣を着た少女が。
「……南方?」
 三郎は目をしばたたかせながら、同級生の少女の名を呼ぶ。しかし、その少女、南方聡子は三郎に目をくれることもなく、店主を睨んだままつかつかと近づいてきた。
「その子を離してあげてください」
 すぐそばまでやって来た聡子がりんとした声で言う。
「うるさい、関係ない餓鬼が引っ込んでろ」
 店主が吐き捨てるが、その声には戸惑いが色濃く滲んでいた。聡子は自分の三倍は体重がありそうな男に全くひるむことなく、さらに一歩、足を進める。小柄な少女とは思えない迫力に圧倒されたのか、店主は軽く身を引いた。首元にかかっていた力が緩み、三郎は大きく咳き込む。
「あなたは間違っています」
 鼻先に指を突きつけられた店主は、「な、なにがだよ?」と軽くのけぞる。その顔からはすでに怒りの表情が消え、どこか不安げですらあった。
「模型を盗んだのはその子じゃありません。盗んだ男子たちが、その子に模型を押し付けたんです。あっちにいるのが本当の泥棒です」
 聡子は店主に突きつけていた人差し指で、林の奥をさす。そちらを見ると、模型を渡してきた少年たちが大きな樹の陰に隠れ、様子をうかがっていた。
 見つかった彼らは、「やばい!」と声を上げると、慌てて逃げ出していく。
「こら! 待ちやがれ!」
 店主は三郎の腕から模型の箱を奪い取ると、少年たちを追って走っていった。
「あっ、関係ない子を疑ったんだから謝りなさいよ!」
 林の中に消えていく店主の背中に、聡子が怒声を浴びせる。「悪かったな、坊主」という声が樹々にこだましてかすかに聞こえてきた。
 助かった……。安堵とともに膝の力が抜けていく。三郎はその場にへたり込んでしまった。
「もっとちゃんと謝るべきじゃないの」
 不満そうにつぶやく聡子を、三郎はひざまずいたまま見上げる。
「どうして、こんなことを……?」
 三郎はまだ動きが戻っていない舌を必死に動かしてたずねる。学校のなかでも目立つ存在である聡子が、自分のような惨めな存在を助けてくれたことが信じられなかった。
「どうしてって、迷惑だった? 助けない方がよかった?」
 聡子は形のいい眉をわずかにしかめる。三郎は顔を大きく横に振った。
「そんなことない。でも、なんで俺なんかのために?」
「誰とか関係ないでしょ。佃君はやってもいないことで責められて困っていた。それなら、助けてあげないとって思っただけ。困っている人を助けるのは、正しいことでしょ」
「正しいこと……」
 三郎はその言葉をくり返す。その瞬間、くすんでいた周囲の光景が一気に明るくなった気がした。
「それより、なにか私に言うことあるでしょ」
 呆けていた三郎は、慌てて「あ、ありがとう」と礼を口にする。
「どういたしまして」
 花が咲くように朗らかな笑みが広がっていく聡子の顔から、目が離せなかった。恐怖で血の気が引いていた頬が熱くなっていく。この同級生の少女が、こんなに優しい笑顔を浮かべるのを見たことがなかった。それどころか、彼女の顔をこんなにはっきりと見たことすらないような気がする。
「いつまで座っているの? 立ちなよ」
 聡子が手を差しだしてくる。三郎はおずおずとその柔らかい手を握って立ち上がる。顔の火照りがさらに強くなった。
 聡子は三郎の手を離すことなく、歩きだした。
「え? どこ行くの?」
 手を引かれていく三郎が訊ねると、聡子はあごをしゃくって盆踊りの中心に立つ櫓をさす。
「盆踊り。一緒に踊ろうよ」
「いや、でも俺、牛の世話でくさいから……」
「くさい?」
 振り返った聡子は小首をかしげた。
「それって、お家の仕事を手伝っているからついたんでしょ。偉いじゃない。気にすることなんかないよ」
「でも……」
 戸惑っていると、聡子は三郎の首筋に鼻先を近づけた。
「それにこの匂い、嫌いじゃないよ。動物の匂い。生きてるって感じの匂い」
 はにかむ聡子の姿に魅入られ、三郎は言葉が継げなくなる。
 住む世界が違うと思っていた。ずっと馬鹿にされていると思って、近づかないようにしていた。けれど、そう思い込んで自分から壁を作っていただけなのかもしれない。
「正しいこと……」
 再びその言葉を口の中で転がしながら、三郎は聡子とともに盆踊りの輪に加わる。
 楽しそうに舞う聡子の姿は、三郎にはきらきらと輝いて見えた。
 あれだけ欲しかった模型も、いまは頭から消え去っていた。提灯の灯りの下、聡子とともに踊りながら、三郎は自らの未来が明るく照らされていくのを感じていた。
(第10回につづく)

バックナンバー

知念 実希人Mikito Chinen

1978年生まれ。東京慈恵会医科大学卒業、内科医。2011年、福山ミステリー文学新人賞を受賞し、『誰がための刃 レゾンデートル』(同作は19年『レゾンデートル』と改題し文庫化)でデビュー。主に医療ミステリーを手がけ、『天久鷹央の推理カルテシリーズ』が評判を呼ぶ。15年、『仮面病棟』で啓文堂書店文庫大賞第1位を獲得し、50万部超のベストセラーに。18年には『崩れる脳を抱きしめて』で、19年には『ひとつむぎの手』で連続して本屋大賞ベストテン入りを果たす。また19年、『神酒クリニックで乾杯を』がドラマ化されるなど各著書が注目を集めている。近著に『神のダイスを見上げて』『レフトハンド・ブラザーフッド』がある。

  • 双葉社
  • 小説推理
pagetop