双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第3章

 東京にある母の実家に移り住んでからも、パイロットになるという飛鳥あすかの夢は変わることはなかった。高校を卒業した飛鳥は、国際線のパイロットを目指してパイロット養成のための大学へと進学し、国家資格を取るための訓練や勉強に明け暮れるようになった。
 東京に移り住んだ後も、月に一回は将司まさしと会うことができた。カフェなどで将司と待ち合わせをして、昼食をとったあとに映画を見たりショッピングをする。それが、飛鳥にとって何よりの楽しみだった。
 父親とのデートを楽しみにしていることに、友人たちからはファザコンだとよくからかわれたが、別に気にはならなかった。
 ただ、顔を合わせた将司が、アルコールの匂いをまとっていることが少なからずあった。かすかに震えている将司の手を見るたび、まだアルコール依存が治っていないことを見せつけられ、胸に鋭い痛みが走った。
 将司はいつも、飛鳥の話を笑顔で聞いているだけで、あまり自分のことについて話そうとしなかった。しかし、言葉の端々から漏れてくる情報により、彼が埼玉で警備員の仕事をしていることを知っていた。
 もし、アルコールを絶つことができたら、お父さんはまたあの美しい空を飛ぶことができるのに……。将司の震える手を見るたびに、もどかしさを飛鳥は味わっていた。


 明日はお父さんとデートの日か。
 土曜日の夜、机に向かい参考書を広げていた飛鳥は、椅子の背もたれに体重をかけて背中を反らせる。長時間、同じ姿勢でいたため、体が硬い。掛け時計に視線を送ると、時刻は午後八時を回っていた。
 もうこんな時間なんだ。飛鳥は首をひねる。
 会う日の前日、いつも将司は午後七時頃に電話をしてきて、待ち合わせ場所などの確認をする。しかし、なぜか今日はまだ連絡がなかった。
 仕事が忙しいのかな? そんなことを考えていると、机の上に置いていたスマートフォンが着信音を立てはじめた。液晶画面に『お父さん』と表示される。
 飛鳥は素早くスマートフォンを手にすると、『通話』のアイコンに触れる。
「もしもし、お父さん」
『……飛鳥』
 聞こえてきた声に、かすかな胸騒ぎをおぼえる。将司の口調に、どこか深刻な響きが含まれている気がした。
「どうしたの? なんか声に元気がないね。もしかして、明日なにか都合が悪くなった? それなら、別に気にしなくていいよ。リスケすればいいだけだしさ」
 飛鳥はつとめて軽い口調で言う。
『いや、ちゃんと明日は空けてあるよ。ただ、……ちょっと仕事で疲れていてね』
「そう。もう若くないんだから、あんまり無理をしちゃだめだよ。明日は渋谷のカフェで待ち合わせて、お買い物に付き合ってもらっていいんだよね?」
『あ……、できれば待ち合わせ場所を変えたいんだ。調布の駅前にあるカフェで待ち合わせでどうかな?』
「調布ぅ?」
 思わず不満が声ににじんでしまう。大学通学のため郊外で離れて暮らす飛鳥にとって、父親とのデートはできれば都心で楽しみたかった。調布もそれなりに都会だが、渋谷ほどはショッピングを楽しめる場所はないだろう。そもそも、すでに明日見にいく予定のお店を決めていたのに。
『……ダメか?』
「あ、ううん、そんなことないよ。分かった、それじゃあ調布で待ち合わせね」
 弱々しい声に、反射的にそう答えてしまう。スマートフォンの向こう側から、安堵の吐息が聞こえてきた。
『ありがとう、それじゃあ……』
 将司は詳しい待ち合わせ場所と時間を伝えてくる。飛鳥はそれを、参考書の空白にメモしていった。
「了解。でも、お父さん、どうして調布に? なにか特別な予定とかあるの?」
『それは……、明日会ったときに説明するよ。そろそろ仕事に戻らないといけないな。じゃあ飛鳥、また明日な』
 早口でまくしたてられた飛鳥が、「うん、また明日」と答えると、すぐに回線が切れた。
 どうしたんだろう? なにか様子が変だったけど……。小首をかしげつつ、飛鳥は手の中のスマートフォンを眺める。
「ま、いっか」
 どうせ、明日になれば会えるのだ。詳しいことはそのときに聞けばいい。
「楽しみだなぁ」
 はにかみながらつぶやいた飛鳥は、スマートフォンを机に置くと、再び参考書に視線を落とした。


 翌日の正午過ぎ、指定された調布駅前の喫茶店に到着すると、窓際の席ですでに将司は待っていた。
「飛鳥」
 将司は嬉しそうに微笑みながら、大きく手を挙げる。
「ごめん、少し待たせちゃったね」
「いや、いま来たばかりだよ」
 飛鳥は将司の前に置かれたカップに視線を送る。ほとんどコーヒーは残っていなかった。おそらく、かなり前から待っていたのだろう。
 待ち合わせ場所に、約束の時間より早く着いても、きまって将司はすでにそこで待っている。そして「いま来たところだよ」と優しい嘘をついてくれる。
 やっぱり、昨日の電話で少しおかしかったのは、仕事が忙しかっただけだったんだ。飛鳥は笑顔を返しながら、テーブルを挟んで向かい側の席に腰掛けた。
 いつもと同じように、二人はカフェで昼食をとりながら、他愛のない話に花を咲かせた。とりとめのない会話。けれどそれは、飛鳥にはなによりも幸せな時間でもあった。パイロットになるために必要な、大量の知識を頭に詰め込む勉強と、毎日の厳しい訓練で疲弊していた心がいやされていく。
「そういえば、あと一年と少しで卒業だな。そのあと、飛鳥はどうするんだ?」
 ハヤシライスを食べ終え、食後のコーヒーを飲みながら将司が訊ねてくる。口の中に入っているラザニアを飲み込んで、飛鳥は口を開いた。
「できれば、大手の航空会社に就職したいと思ってる。最初は国内線からだろうけど、将来的には国際線の機長を目指したいな」
 お父さんと同じように。飛鳥は心の中で付け足す。
「国際線の機長か。いいじゃないか、素晴らしい仕事だぞ」
「競争率は高いからなかなか難しいけどね。あくまで夢として」
「そんなことない。飛鳥ならきっとできる。だから自信をもって頑張るんだぞ」
 将司は目を輝かせながら力強く言った。少し気恥ずかしくなって、飛鳥は皿に残っていたラザニアの最後の一口を食べると、紅茶をすすった。
 そのとき、ふと違和感をおぼえる。なにかがいつもと違う気がする。しかし、それがなんなのかはっきりしない。
 飛鳥は眉をひそめながら、胸に湧いた感覚の正体を探る。
「どうかしたか?」
 不思議そうに訊ねながら、将司は手にしていたコーヒーカップをソーサーに戻した。陶器がぶつかる小さな音が鼓膜こまくをくすぐった瞬間、飛鳥は目を見開いた。
 震えていない? 飛鳥は将司の手を凝視する。
 将司の手は細かく震えていた。十年以上ずっと。だから、カップをソーサーに戻すときなど、いつもカチャカチャと大きな音が立っていた。それなのに、今日はほとんど音がしなかった。
 穴が開くほどに将司の手元を見つめ続けるが、やはり常にそこに見られた痙攣けいれんがない。
 将司は少しばつの悪そうな表情を浮かべると、手をテーブルで死角になる位置に引っ込めた。
 治ったんだ。お父さんはやっと、アルコール依存症を克服したんだ。
 たかぶった気持ちを落ち着かせようと、飛鳥は紅茶を含むが、急いで飲んだせいかむせ返ってしまった。
「大丈夫か。ほら、これを使って」
 慌てて将司がハンカチを差し出してくる。しかし、飛鳥はハンカチではなく、将司の手を掴んだ。父の手に触れるたびに感じていた振動、心まで揺らし、細かいひびを入れていたあの振動を、今日は感じることはなかった。
「お父さん、今日はどこに行くの?」
 手を握りしめたまま訊ねると、将司の顔に緊張が走る。
「……そろそろ、出ようか」
 質問に答えることなく、将司は席を立った。飛鳥は大きく頷いて、父の後を追った。
 カフェを出た将司は、飛鳥を連れて駅前のローターリーに止まっていたタクシーに乗り込み、目的場所が書かれた紙を運転手に渡した。発車したタクシーは住宅地から離れ、やがて左右に林が広がっていく。
 移動している間、飛鳥は口を開かなかった。どこに行くのか、訊ねることをしなかった。質問をして、予想と違う答えが返ってくることが怖かった。
 横目で隣に座る将司を見る。緊張のためかこわばっているその顔には、強い決意がみなぎっていた。
「お客さん、そろそろ着きますよ」
 運転手が言うと同時に、左右にかぶさるように生えていた樹々が途切れ、目の前に広々とした空間が開けた。無意識のうちに、飛鳥は「うわぁ」と歓声を上げる。
 そこは飛行場だった。山間の土地に作られた飛行場。
「お父さん!」
 甲高い声を上げると、将司は目を細めた。目尻にしわが寄る。
「十年前の約束、今日こそ果たそうな」



 座席を通じてエンジンの息吹が伝わってくる。フロントグラスの向こう側には滑走路がまっすぐに伸びていた。プロペラが空気を激しく攪拌かくはんする音が響く。
 一時間ほど前、飛行場でタクシーを降りた将司は、受付に向かうと予約していた小型のセスナをレンタルする手続きを行った。
 いかに小型とはいえ、飛行機のレンタル料はかなりの高額だ。警備員の給料の中から、その代金を払うのは大変だったはずだ。けれど、飛鳥はその心配を口に出さなかった。
 お父さんは病気を克服したことを、最高の形で伝えようとしている。それなら、恥をかかせることなく、最高のプレゼントを喜ぼう。
 そう心に決めたときから、心臓は加速を続けていた。頭の中には、初めて将司の操縦する飛行機に乗ったあの夜間飛行の記憶が、パイロットを目指すきっかけになったあの美しい思い出が、美しい煌めきとともに蘇っていた。
 手続きが終わると、飛鳥は将司とともにレンタルした小型のセスナに乗り込んだ。二人乗りの小さな機体は、あの記憶の中の飛行機に似ていた。
 将司は慎重に機体を滑走路まで進めると、機首についているプロペラを加速させはじめた。
 飛鳥はそっと、操縦席に座る将司を見る。表情はこわばり、額には脂汗が浮いていた。無理もない、十年以上も操縦をしていないのだ。しかし、不安は微塵みじんも感じなかった。
「お父さん」
 飛鳥はそっと伸ばした手を、操縦桿を握る将司の手に添える。はっとした顔で将司が視線を向けてきた。
「大丈夫だよ。だってお父さんは、一流のパイロットなんだから」
 不思議そうな表情で数回まばたきしたあと、将司の表情から硬さが消えていった。
「そうだな……。ああ、そうだ。俺は一流のパイロットだ」
 将司は大きく息を吐くと、力のこもった眼差しを滑走路に向ける。
「よし、行くぞ!」
 将司の掛け声とともに機体が発進する。滑走路に引かれた白線が、みるみると加速して迫ってくる。やがて、それが一本の線のように見えはじめたとき、将司が操縦桿を引いた。
 機体が離陸し、浮遊感が体を包み込む。フロントグラスの向こう側に見えていた滑走路が消え、代わりに突き抜けるような青空がそこに広がった。
 空に吸い込まれていくような感覚。訓練でいつも飛んでいるというのに、飛鳥の胸には初めて飛行機に乗ったときに勝るとも劣らない感動が広がっていく。
「はは、ははははは……」
 幸せそうな将司の笑い声に、自然と口元がほころんでしまう。
 やがて、上昇を止めた飛行機は水平飛行に移る。飛鳥は目を細めて、どこまでも広がっている空を眺めた。大海原に浮かんでいるような解放感。
「やっぱり空は気持ちいいね、お父さん」
「ああ……、本当に空は気持ちいいな」
 将司は噛みしめるように答えた。
 それから、しばらく二人の間に会話はなかった。その時間が飛鳥にはなによりも幸せだった。言葉などなくてもお互い分かり合っている感覚が、胸の奥を温かくしてくれた。
 窓の外に広がる蒼天を眺めていた飛鳥は目を閉じる。まぶたの裏には、十数年前に見た、宝石をちりばめたような夜空が広がっていった。
 数分間、記憶の中の夜空を泳ぎ回った飛鳥は、ゆっくりと瞼を上げ、口を開く。
「お父さん、ありがとう。約束を守ってくれて。病気に勝ってくれて。私、すごく……」
 操縦席の将司に向き直った飛鳥は、そこで言葉を失った。
「お父……さん……?」
 声がかすれる。数分前、飛鳥が目を閉じる前までの将司は、そこにはいなかった。
 笑みを浮かべていた口は、きしむほどに歯を食いしばり、幸せそうに細めていた目は、血走って焦点を失っている。息遣いは荒く、唇の端からはよだれすらこぼれていた。
「お父さん、大丈夫!? 体調が悪いの?」
 慌てて訊ねるが、将司は答える代わりに熱にうかされたような口調でつぶやきはじめる。
「声が……聞こえる。空から声が……」
「声? そんなもの聞こえないよ。どうしちゃったの?」
 飛鳥はおずおずと手を伸ばす。その指先が肩に触れた瞬間、将司は勢いよく飛鳥の手を振り払った。操縦桿が振られ、機体が大きく傾く。飛鳥は小さく悲鳴を上げた。
「邪魔するな! 俺は空に行くんだ! 神が空にいるんだ!」
 噛みつくような将司の剣幕に体がすくむ。
「神って……、なに言っているの……?」
 操縦席に座っている人物は、もはや父親ではなかった。父親の形をした何者かが、この飛行機を操縦している。私の命を握っている。
 背骨に冷水を注ぎ込まれたかのような心地になる。
「すぐに着陸して! お願いだから!」
 飛鳥が叫ぶが、将司は虚空を見つめたまま、「神が……、神がいる……」とつぶやくだけだった。
 管制に異常を伝えないと。これまで航空学校でくり返した非常時の訓練が、パニックに陥りかけている心のバランスを何とか支えてくれた。飛鳥は無線に手を伸ばす。しかし、機内無線を取る寸前、将司が飛鳥の手首を掴んだ。
 骨が軋むような痛みに、飛鳥は顔を歪める。
「お願い、お父さん、やめて。なんでこんなことをするの?」
 涙で視界が滲んでいくのをおぼえながら、飛鳥は声を絞り出す。
 将司の顔に笑みが浮かんだ。見るに堪えない、痛々しく歪んだ笑みが。
「もちろん、お前と一緒に空を飛ぶためだよ。ずっと一緒に……」
 次の瞬間、将司は操縦桿を倒した。機首が下がり、椅子から体が浮かび上がる。シートベルトが腹部に食い込む痛みに顔を歪めつつ、飛鳥は目を剥いた。
 フロントグラスの向こう側に地面が見えた。急速に迫ってくる地面が。
 下降、いや墜落している。
「操縦桿を引いて! 上昇して!」
 声を張り上げるが、将司は魅入られたように迫ってくる地面を凝視するだけだった。地面の接近を告げる不吉な警告音が機内に響き渡る。
 前方からのしかかってくる重力に耐えながら身を乗り出した飛鳥は、必死に操縦桿に手を伸ばす。もう、地面はすぐそこまで迫っていた。
 操縦桿に手が届いたと同時に、飛鳥は全力でそれを引く。機首がぐっと上がった。地面に向かっていた機体が、急速に減速する。
 しかし、遅かった。機体は水平に近い飛行に戻っていくが、前方には鬱蒼うつそうとした林に覆われた山が立ちはだかっていた。どれほど機首を上げても、もはやそこを超えるほどの角度をつけることは叶わない。
 小さな機体はまっすぐに山肌へと向かっていく。密生した樹々がフロントグラスの向こう側から迫ってくるのを、飛鳥はただ呆然と眺めることしかできなかった。
「飛鳥ぁー!」
 将司の叫び声が響き渡る。
 衝撃が全身に叩きつけられ、飛鳥の意識は真っ黒に塗りつぶされた。



 事故から二週間ほど経った昼下がり、半分になった視界で飛鳥は病院の天井を眺める。片目しか見えず、遠近感が曖昧になっているため、真っ白な天井が迫ってくるような錯覚に襲われる。
 事故のあと、飛鳥が全身に走る激痛とともに意識を取り戻したのは三日後だった。四肢や肋骨を骨折し、何十針も縫うような傷を負ったが、なんとか一命をとりとめていた。
 すでに骨折に対しての手術は終え、主治医の言葉を信じるなら運動機能に大きな後遺症はないだろうということだった。
「あんな激しい事故で、重要な臓器が大きな損傷を受けなかったのは奇蹟だよ」
 昏睡状態から目覚めた飛鳥に、主治医はそう言って笑顔を見せた。
「……けど、生きていてなんの意味があるんだろう?」
 口から零れた言葉が、ふわふわと空中を漂う。
 事故の際に砕け散ったフロントグラスの破片によって激しく傷ついた右目は、ほぼ失明状態となっていた。
 片目の視力を失う、それはパイロットになるという夢を、憧れ続けていた大空を失うことと同義だった。
 眼科の医者が、どうにかしたら視力を取り戻す可能性があるといった説明をしたような気がするが、その言葉は右から左へと流れていった。
 たとえ、視力が戻ったとしても、私はもうあの空を取り戻せない。幼いときに見た、煌めく星空を。
 いつも、目を閉じればあの宝石のような輝きで満たされた空が、瞼の裏に映し出された。しかし、いまはそれができない。思い出そうとすれば、墜落の記憶が、あのみるみる地面が迫ってくる記憶が蘇り、パニックになるだけだ。
 もはや空は憧れの場所ではなくなってしまった。
 空っぽになってしまった。私はいま、なにも持っていない。
 事故のあとずっと、心の重心が定まらず、ふわふわとした感覚に囚われていた。気を抜けば空中に浮きあがってしまいそうな、ふっと『自分』が消えてしまいそうな感覚。
「お父さん……」
 つぶやいた瞬間、わずかにだが体重が戻ってきた気がした。
 あのとき、お父さんに何があったのだろう? いったいなぜ、あんな事故が起こってしまったのだろう?
 この数日間、数えきれないくらい繰り返してきた疑問が頭に浮かぶ。毎日、面会に来てくれている母親に、何度か事故の詳細を訊ねたが、そのたびに痛みに耐えるような表情で「もう、忘れなさい」と言われるので、質問ができなくなっていた。
 病室の扉がゆっくりと開く。左目だけを動かしてそちらを見ると、母が顔を覗かせていた。
 ああ、もう面会時間か。
「飛鳥、どう、調子は?」
 おずおずと訊ねてくる母親に、飛鳥は「まあまあ」と投げやりに答える。
「そう、良かった。あのね……、実は飛鳥と話をしたいっていう人がいるんだけど……」
 落ち着かない様子で言う母の後ろに、大柄な男が立っていることに気づく。
「失礼しますよ」
 野太い声であいさつをしながら、くたびれたスーツ姿の中年男が入ってくる。威圧感のあるその態度に、飛鳥は反感と軽い恐怖をおぼえた。
「どなたですか?」
 訊ねると、男はスーツの胸ポケットから二つに折りたたまれた手帳のようなものを取り出し、飛鳥に向かって突き出した。それは、これまでドラマの中で何度も見てきた警察手帳そのものだった。
「調布署の刑事ですよ。ちょっとあなたに聞きたいことがあってね。本当なら、もっと早く話をしたかったんだけど、主治医に止められていましてね。今日になってようやく許可が下りたんですよ」
 まくし立てるように言われ、動きが悪くなっている頭が混乱する。
「なんで刑事さんが私に話を……?」
「もちろん、事件についての詳細を聞きたいからですよ。小型飛行機が墜落した事件のね」
 林に向かって墜落していく光景がフラッシュバックした。息が乱れる。
「あの、娘は事故のショックからまだ回復していなくて……」
 母が弱々しく抗議をするが、刑事は面倒そうに手を振った。
「分かっていますって。だから、ちゃっちゃと終わらせますから」
「あの……、事件ってどういうことですか? あれは事故じゃ……?」 
 飛鳥は骨折していない左手で頭を押さえる。
「ええ、最初は単なる操縦ミスか機体の不具合による事故だと思っていたんですよ。けれど、フライトレコーダーを調べたところ、そうじゃない可能性が高くなったので、事件として捜査することになったんです。殺人未遂事件としてね」
「殺人!?」
 飛鳥は目尻が裂けそうなほど、左目を見開く。
「ええ、そうですよ」刑事は肩をすくめた。「フライトレコーダーの記録では、墜落の数分前から操縦していたあなたの父親、羽田はだ将司がぶつぶつとなにかおかしなことを口走っていることが記録されている。声が聞こえるとか、神がいるとかね。そして、その後、明らかに故意と思われる操作により、飛行機は墜落した」
 言葉を切った刑事は、無精ひげの生えているあごを撫でた。
「羽田将司はおそらく、あなたを殺そうとしたんですよ」
「お父さんが……私を……?」
 何を言われたか、一瞬分からなかった。見ると、刑事の後ろで母が唇を噛んでうつむいていた。
「違います!」
 ベッドから体を起こそうとした飛鳥は、折れた肋骨に走った痛みにうめき声を漏らす。
「違います! お父さんがそんなことするはずがありません! だって、お父さんは……」
「あなたを愛していた?」
 からかうように刑事は言った。
「そうなのかもしれませんね。調べたところ、羽田将司はあなたにとても執着していたようだ。けれど、あなたを殺そうとすることと、あなたを愛していたことは、別に矛盾はないんですよ」
「どういう……意味ですか?」
 飛鳥はあえぐように訊ねる。混乱でめまいがしてくる。こめかみ辺りがずきずきと痛む。
「簡単なことですよ。羽田将司はたんにあなたを殺したかったんじゃない。あなたと一緒に死にたかったんだ。つまり、今回の事件は正確には心中未遂ということですな」
「しん……じゅう……」
 ショートしかけている脳細胞は、すぐにはその意味を理解できなかった。放心状態の飛鳥を尻目に、刑事は説明を続ける。
「人生に絶望した羽田将司は、愛するあなたと一緒に死ぬことを望んだ。一人娘とかつてのように飛行機で空を飛び、そして墜落して心中する。それが彼の計画だったんですよ」
「ち、違う……。お父さんは、そんなことする人じゃ……」
 こわばっている舌を動かして、飛鳥は必死に言葉を絞り出していく。
「そう信じたい気持ちは分かりますよ。けれどね、羽田将司はもうあなたの知る父親ではなくなっていたんですよ。数ヶ月前からね」
「なにが言いたいんですか!? はっきり言ってください!」
 飛鳥はヒステリックに叫ぶ。これ以上、もったいぶった物言いに耐えられなかった。
「それならはっきり言いましょう。羽田将司は末期癌患者だったんですよ。数ヶ月前に、あと一年はもたないだろうと宣告されていたらしいです」
 あまりにも唐突に突きつけられた情報に、思考が真っ白に塗りつぶされる。
「それ以来、彼は精神的にかなり不安定になっていた。そして限界まで追い詰められ、押しつぶされそうな現実に耐えきれなくなった羽田将司は、自殺を決意する。けれど、一人で死ぬのは怖いから、一番愛している娘と一緒に……」
「やめて! もうやめて!」
 飛鳥は叫ぶと、ギブスが嵌められた両手で頭を抱える。
 大好きなお父さんが私を殺そうとした。ずっと乗ってきた飛行機を凶器にして、あの美しい空で私を傷つけようとした。
 そんなこと信じたくなかった。
「これは失礼、ちょっと調子に乗りすぎましたかね」
 たいして反省を感じさせない口調で刑事は言う。
「そういうわけで、精神的に破綻した末の犯行だと思われます。そう考えれば、飛行機を墜落させる寸前に、彼がおかしなことを口走っていたことにも説明がつきますからね」
「……違う」
 蚊の鳴くような声でつぶやくと、刑事は「ん? なにか言いましたか?」と身を乗り出してきた。飛鳥はその顔を睨みつける。
「適当なこと言わないで! お父さんはそんな弱くない! 癌になったからって、自殺を考えるような人じゃない。だから、あれは……」
 刑事が小馬鹿にするように鼻を鳴らしたのを見て、飛鳥のセリフは尻すぼみになっていく。
「すいませんね、一つ大切なことをお伝えし忘れていました。昨晩、入院中の病院で羽田将司は首を吊って自殺を図りました」
 なにを言われているか分からなかった。その言葉の意味を理解することを心が、感情が拒否をした。
「幸い発見が早く死亡はしませんでしたが、脳が大きなダメージを受けて植物状態ということです。床頭台には遺書らしきメモがなぜか運転免許証と一緒に置かれていて、そこには『すまない 許してくれ』と乱れた字で書かれて……」
 遠近感が失われた視界の中で、刑事の声はやけに遠くから聞こえてくる気がした。



 主治医が言っていたとおり運動機能に後遺症を残すことなく、事故から二ヶ月ほどして飛鳥は退院することができた。しかし、四肢の怪我は治っても、右目の視力が戻ることはなく、それ以上に深く傷ついた心の傷が癒えることもなかった。
 実家に戻った飛鳥は、ほとんど外出することもなく、魂が抜けたかのように毎日を無為に過ごすようになった。
 眼帯をしている自分の姿を見るのが嫌で、部屋にあった鏡は全部押し入れの中にしまい込んだ。
 特別な治療をすれば、右目の視力が戻るかもしれないという話を眼科の医者から説明されたが、飛鳥はそれを拒否した。
 病院で首を吊った将司がどうなっているかは、母が最低限の情報だけくれた。昏睡状態が続いていて、おそらくそのまま意識が戻ることはないらしいと。
 すべてを失って空っぽになってしまったいま、視力を取り戻……すことになんの意味があるのか分からな……かった。
 そんな飛鳥……心配して、母は……治療を勧めて……病院に紹介……
 そこでも最初は……全然……
 でも……先生は……次第に……楽に……
 クローバーが……あの日………だから……その場所……
 飛鳥は…………意識……………消えて…………
 消えて……全部消え……
「うわあああ!?」
 大きな悲鳴が上がる。
「香苗、大丈夫? どうしたの!?」
 声変わりしていない男児のような声に、私はせわしなく首を振った。すぐそばで、うさぎ猫が大きな瞳で不安そうに見つめていた。その長い耳は上方に向かってたなびいている。
 唐突に体の感覚が戻ってくる。すさまじい速度で落下している感覚が。
「ク、ククル?」
 私は必死に状況把握につとめ、パニックになりかけている心の均衡を取り戻そうとする。
 この延々と墜ち続けている感覚があるということは戻ってきたんだ。飛鳥さんが創り出した、この夢幻の世界へ。
「ククル? じゃないよ。急に悲鳴を上げたから驚いたじゃないか」
「え? もしかしてさっきの悲鳴って私の声なの?」
 目をしばたたかせると、ククルは呆れ顔になる。
「気づいていなかったの? そうだよ、片桐飛鳥のククルに触れて瞑想状態になっていたかと思ったら、急に大声上げてさ。いったい何があったんだよ?」
「……飛鳥さんの記憶を見たの。子供の頃から最近まで、ずっと。けど、飛鳥さんが事故に遭ってからの記憶を見ていたときに、なんと言うか、ノイズみたいなものが入って、うまく見えなくなったというか……、記憶の世界からはじき出されたというか……」
「はじき出された、か」
 ククルはたなびいていた両耳を組む。
「もしかしたらその記憶は、片桐飛鳥がマブイを吸われたことに関係することなのかもね」
「え? どういうこと?」
「だからさ、現実世界で片桐飛鳥は、故意にかそれとも偶然にかは分からないけれど、誰かにマブイを吸われたわけでしょ。それって、彼女のマブイにとってはものすごい恐怖だったと思うんだよ。強引に自分の体から引き剥がされたんだからね。人間というのは自分の限界を超えた恐怖の記憶を思い出さないように、消し去ったり、心の奥底に隠したりする。自分自身が壊れてしまわないようにね。分かるでしょ」
「……うん、分かる」
 そう、私にはその気持ちが分かる。文字通り、痛いほどに。
 幼いときに遭ったあの事件。そのときの記憶が私にはほとんどない。かすかに思い出せるのは、「大丈夫よ」と微笑みながら抱きしめてくれた、彼女の姿だけだ。
 人間は記憶を消したり、書き換えたりする。自分の心が、マブイが壊れてしまわないように。
「そのノイズがかかった部分の記憶というのは、片桐飛鳥のマブイを吸った人間、または吸われた状況に関係するものだった可能性が高いね」
「それって、すごく重要な部分じゃない! その記憶を見れば、誰が飛鳥さんのマブイを吸ったのか。誰のせいで特発性嗜眠病になったのか分かるんでしょ!」
 ククルは興味なさげに「まあ、そうかもね」と前足の付け根をすくめた。
「じゃあ、どうにかして、そこの記憶をはっきり見ないと」
「どうして?」不思議そうにククルは首をかしげる。
「どうしてって、その犯人は飛鳥さんだけじゃなくて、他の三人の患者さんのマブイを吸っている可能性が高いんだよ。なら、その人を見つけて……」
「見つけて、どうするの?」
 真顔で問われ、私は「それは……」と言葉に詰まる。
「彼らのマブイを吸ったサーダカンマリな人物、つまりそういう力を持つ人物は、意図的にそれをしたとは限らない。他人のマブイを吸ったって、別に快感だったり、元気になったりするわけじゃないからね。というか、三人分ものマブイを吸収したら、キャパシティオーバーで自分自身にかなりの負担がかかる可能性が高いんだよ」
「そういうものなんだ……」
「だから、その人を見つけたところで、吸い込まれたマブイを解放できるとは限らない。何かの拍子に、無意識にマブイを吸い込んでいたら、自分の意思でそれを解放するのは難しいだろうからね」
「じゃあ、飛鳥さんたちのマブイを解放して、目を醒まさせるためには……」
「そう、マブイの負った傷を癒して、自力で脱出させるしかないんだよ。そのためにはまず、そこまでマブイが傷ついた原因である、つらい経験を知る必要があるんだ。で、片桐飛鳥の苦しんでいる理由については分かったの?」
「うん、飛鳥さんのお父さんがパイロットで……」
 私が説明をしようとすると、「言わなくても大丈夫」とククルが前足の肉球を向けてきた。
「大丈夫ってどういうことよ?」
 話の腰を折られて唇を尖らせていると、ククルは身をよじるようにして近づいて来て、その長い耳で包み込むように私の頭を掴むと、大きな目を閉じる。ククルと私の額が触れる。同時にその部分に淡いオレンジ色の光が灯った。
「うん、なるほどね。だいたい分かったよ」
「いまので、分かったの?」
 ククルは自慢げに鼻を鳴らした。
「僕は香苗のククルだからね。僕と香苗は繋がっているんだよ。だから、簡単に記憶を覗くことができるんだ」
「そうなんだ」
「しかし、想像以上に深刻だね。よりにもよって、大好きだった父親に、特別な場所だった空で殺されかけるなんてさ。そりゃ、マブイも衰弱するはずだ。さて、どうしたもんかねえ」
「普通のマブイグミではこれからどうするの?」
「うーん、ここまで重い問題を抱えていることは少ないんだよね。普通は時間が癒してくれたり、狭くなっている視野を広げてあげたりすれば、ある程度は癒せる程度の悩みのことが多いんだ。逆を言うと、それくらいの悩みでも衰弱するくらい、人間っていうのは弱い生き物ってことだね」
 皮肉っぽくウィスカーパッドをくいっと上げると、ククルは話し続ける。
「だから一般的には、その人物を縛っている苦しみの本質を見極めて、それに対応する方法を探っていくんだ」
「なんとなくカウンセリングに似ているね」
 私も袴田はかまだ先生のカウンセリングによって、あの悲惨な体験に対応する方法を学び、救われた。
「そうなんだけど、ここまで悲惨な体験をしているとなると、簡単じゃないよ。愛する家族を失うことだけでもつらい経験なのに、そのうえ大好きな父親が自分を殺そうとしたなんてさ」
 ククルは猫とは思えない渋い表情を作る。
『……違う』
 どこからか声が聞こえた気がして、私ははっと顔を上げる。
「うん? どうかしたの?」
「ククル、なにか言った?」
「香苗が変な動きするから、どうかしたのか聞いたんだけど」
「そうじゃなくて、なにか『違う』とかなんとか。頭の中に直接響いてくるような声が……」
 そのとき再び『……違う』という、弱々しい声が頭に響いた。
「ほら、また聞こえた。ククルには聞こえないの?」
「……ああ、なるほどね」ククルは不敵な笑みを浮かべる。
「誰の声か分かったの?」
「そんなの簡単じゃないか。僕の声じゃないとしたら、ここには他に誰がいる?」
「誰がって……」
 私は緩慢な動きで振り返る。そこに浮かんでいる、いや墜ち続けている光の繭を。その中で羽を折りたたんでいる小鳥の、飛鳥さんのククルの左目がかすかに開いていた。
「あなたが喋っているの? 違うってどういう意味? 詳しく教えて!?」
 勢い込んで訊ねるが、再び『……違う』という弱々しい言葉が響くだけだった。
「無理だよ、香苗。ここにいる片桐飛鳥のククルは仮死状態みたいなものなんだ。詳しい説明なんかできないよ」
「けれど、なにか必死に伝えようとしているんだよ! さっきから必死に『違う』って」
「違う、ね」
 ククルは押し殺した声でつぶやく。
「もしかしたらこのククルは、片桐飛鳥自身が気づいていない事実を僕たちに伝えようとしているのかもしれないね」
「え? そんなことがあり得るの?」
「えっとね、ククルはマブイを映す鏡みたいなものだけど、それ自身が意思をもつ存在でもあるんだよ。だから、その人物が経験した事柄を、ちょっと違うふうに見たのかもしれない。ほら、物事って見る角度によって、別のかたちに見えたりするでしょ」
 なぜか、ククルは早口で言う。取ってつけたような説明に完全に納得したわけではなかったが、飛鳥さんのククルが何かを伝えようとしていることは間違いない。何か重要なことを。
「どうにか、飛鳥さんのククルが伝えようとしていることを知る方法はないの?」
「あるよ」ククルはあっさりと答えた。「ユタの能力を持っている香苗なら、このククルの想いを汲み取ることができるはずだよ。このククルと波長を合わせるんだよ。感情の波長をね」
「感情の波長……」
 その言葉をくり返しながら私は、まゆの中にいる小鳥の弱々しく開いた左目と視線を合わせる。
「ねえ、知っていることがあったら教えて。私は飛鳥さんを助けたいの。心を縛っている鎖から、彼女を解き放ってあげたいの。だから、お願い」
 優しく声をかけると、風が吹いてきた。繭から流れてくる、穏やかな風。それは落下に伴って下方から吹き上げてくる空気の流れの中でも、なぜかはっきりと感じることができた。
 小鳥を包む繭がはらりとほどけて、数本の光の糸が風に乗って向かってくる。その糸が体に触れた瞬間、私は体を大きく反らした。
 頭の中で花火がはじけるかのように、様々な光景が弾けては消えていく。
 白い布にくるまれた新生児、フロントグラスの奥に広がる夜空、無数の計器に覆われたコックピット、赤ワインの瓶、細かく震える手、レントゲン写真、机の上に置かれた十数個の白い錠剤、歪みながら迫ってくる地面、床頭台に置かれたメモと運転免許証、カーテンレールにかけられ輪を作っているベッドシーツ……、そして笑顔。
 新生児の、幼児の、少女の、そして大人の女性になった飛鳥さんの笑顔が繰り返し浮かんでは消えていった。
「いまのは……?」
 頭の中の映像が消えると、私は呆然とつぶやいた。
「どうやらいまのが、片桐飛鳥のククルが伝えたかったことみたいだね」
 いつの間にか、私のこめかみに頭を当てていたククルがつぶやいた。いま見た映像は、ククルにも伝わったようだ。
「でも、抽象的過ぎてなにがなんだか……。さすがにこれだけじゃ、何も分からないよ」
「そんなすぐに諦めてどうするのさ」
 ククルの目付きが鋭くなる。
「いまのメッセージは、傷ついて衰弱した片桐飛鳥のククルが、残った力を振り絞って送ったものだよ。香苗なら片桐飛鳥を救えるかもしれないと思ったからこそ、このククルはそこまでのことをしたんだ。彼女を救うんだろ。必死に考えるんだよ。このククルが何を伝えたかったのかさ」
 ククルの眼差しに射抜かれ、私は口元に力を込める。
 そうだ、私は飛鳥さんの主治医だ。どこまでも深い昏睡から彼女を救うために、この世界にやって来た。
 だから、全力を尽くそう。彼女を、そして私自身を救うために。
 私は目を閉じると、飛鳥さんのククルが伝えてきた映像を思い出す。
 あの映像の中には飛鳥さんの姿が何回も出てきた。おそらく、最初に見た新生児も、生まれたばかりの飛鳥さんだろう。あれらは、羽田将司という人物が飛鳥さんを愛していたことを示しているはずだ。
 愛していたからこそ、羽田将司は自分もろとも飛鳥さんを殺そうとしたのだろうか? 末期癌によりうつ状態になり、心中を試みたが失敗し、最愛の娘を傷つけたことを後悔して首を吊った。
 表面だけをなぞれば、飛鳥さんの記憶の中で刑事が言っていたように、一連の事件はそう見える。
「神の声が聞こえる……か」
 私は目を閉じたままつぶやく。墜落する寸前、将司が口にしたその言葉が気になっていた。
 たしかに、精神疾患によっては妄想や幻覚などが生じることがある。しかし、神からの啓示のような幻聴を聞くというのは、うつ病の症状としてはあまり生じない。
 違う種類の精神疾患や、違法薬物の影響で……。
 机の上にいくつもの錠剤が置かれた光景がフラッシュバックする。
 もしかして、あれは違法薬物で、その影響で錯乱状態になって……。
 いや、違う。私は首を振る。一見したところ、あれは違法薬物ではなく、正式に処方された錠剤という感じだった。そもそも、大量の違法薬物を飲んでいたなら、飛行機に乗る前に錯乱状態になっているはずだ。その手のクスリは、内服してから効果が出るまでの時間が短い。
 そもそも、あの錠剤はいったいなんの薬だったのだろう? 抗癌剤? それとも、抗うつ薬?
 どちらにしても、一度にあんな大量に内服することは……。
 そこまで考えたとき、私は目を見開く。脳細胞のシナプスが一気に発火した気がした。
 手の震え、アルコール依存症、大量の錠剤、そして神の声……。
 すべてのピースが有機的に組み合わさっていき、青写真が浮かび上がっていく。
 どこまでも哀しい青写真が。
「逆だったんだ……」
「逆? それって、どういうこと? 香苗なにか気づいたの?」
 ククルが大きなまばたきをするが、私は答えることなく上方を、漆黒の闇に覆われた空間を仰ぐ。
「飛鳥さん、聞こえる? 羽田将司さんはあなたを殺そうとなんかしていなかった! あなたと心中する気なんかなかったの!」
 のどらして張り上げた声が、闇に吸収されていく。それでも私は叫び続けた。
「ここがあなたの夢の中なら、どこかにいるんでしょ。お願いだから話を聞いて! なんであんな事件が起こったのかわかったの!」
 息を乱す私の耳にかすかに声が聞こえた。か細い鳴き声が。私は声の聞こえてくる方向に視線を向ける。
 闇の中にうっすらと少女が、幼い飛鳥さんがうずくまっていた。暗い森のなかで迷子になっていたときと同じ姿。
 落下し続けている私やククルとは対照的に、彼女の髪や服が下からの風にたなびいてはいなかった。
 私は背中で折りたたんでいた羽をわずかに動かして、彼女のそばに近づく。
「飛鳥さん」
 震える肩に向かって伸ばした手は、彼女の体をすり抜けた。
「触ることはできないよ」
 ククルは両耳で、飛鳥さんの体を叩くようなそぶりを見せる。しなった耳が、彼女の体を何度も通過した。
「片桐飛鳥のマブイ本体は誰かに吸い込まれたままで、この夢幻の世界にはいないからね。この子は、彼女のマブイがこの世界に作り出した身代わり、幻影にすぎない」
「でも身代わりってことは、飛鳥さんは聞いているのよね?」
「夢幻の世界を作り出しているマブイは、完全に意識があるわけじゃないけど、なんとなく聞こえているとは思うよ」
 なら、それで十分だ。説明をしようと口を開きかけた私は、いつの間にか周囲の闇の中に無数の大樹が浮かび上がっていることに気づく。反射的に下を、落下している方向を見る。しかし、そこには底なしの深淵が広がるだけだった。
「夢幻の世界が、また変化をしているね」
 警戒が色濃く浮かぶ口調でククルがつぶやいた瞬間、遠くから『あすかぁー』という、やけにエコーがかかった声が聞こえてくる。
 身がすくむ。男とも女ともつかないその声には、明らかに相手に恐怖を与えようという意図が溶け込んでいた。
『あすかぁー、どこにいるんだぁー、出ておいでぇー』
「これって、飛鳥さんが林で迷ったときの……」
「うん、その記憶をもとに作られた世界だろうね。けれど、そのときに助けに来てくれた父親は、いまの彼女にとっては自分を殺そうとした人物に他ならない。だから、この世界で気味の悪い声を出している存在は……、あまり考えたくないね」
 あの有名な童話の中で、子供たちを食べようとした魔女のように、危険な存在が近づいてきている。背中を冷たい汗が伝った。
「飛鳥さん、聞いて。羽田将司さんは、あなたのお父さんは、あなたを殺そうとなんてしていなかったの」
 早口でまくしたてると、体育座りをしていた飛鳥さんは、膝の間にうずめていた顔を緩慢に上げた。
 私は軽く身を反らす。そこには三つの顔があった。幼稚園生、小学生、そして大学生の飛鳥さんの顔がホログラムのように、彼女の顔面で重なっていた。
『うそよ、パパは私を殺そうとしたの』
 三人分の声が重なり合って聞こえる。その間も『あすかぁー、どこだぁー』という不気味な声がどこからともなく響いてきた。
「パパ、お酒を飲んで、パイロットを辞めちゃったの」
「私よりも、お酒の方が大事だったの」
「末期癌になったお父さんは、私を道連れにしようとしたの」
 三人の飛鳥さんが口々に苦悩を吐き出していく。
「違う。たしかにそう見えたかもしれない。けれど、実際は違った。パイロットを辞めたのは、お酒のせいじゃない。離婚したのも、お酒がやめられなかったことが一番の原因じゃないはず。なにより、彼は心中なんてしようとしていなかった。あなたのお父さんは、ただ約束を守りたかっただけなの。あなたと一緒にもう一度、大空を飛ぶっていう約束を」
 必死に言葉を重ねると、幼稚園生の飛鳥さんの体が一瞬膨らんだ気がした。小さな体から分裂するように、人影が私の前に立ち上がる。それは大学生の飛鳥さんだった。
「なら、なんでお父さんはわざと墜落したの?」
「それは、あのとき将司さんは幻覚にとらわれて、わけが分からなくなっていたから……」
「じゃあ、お父さんはお酒をやめられていなかったってこと?」
 大学生の飛鳥さんは、つらそうに細い眉をしかめた。
「そうじゃない、将司さんはお酒をやめていた。幻覚の原因はアルコールじゃなく、病気だったの」
「病気? それってアルコール依存症のことでしょ。それなら、やっぱり……」
「アルコール依存症じゃない。将司さんは、他にももう一つ病気を持っていたの。だからこそ、将司さんはパイロットを辞めないといけなかった」
 体育座りしている幼稚園生の飛鳥さんの体が、再び少し膨らんだように見えた。その体から、小学生時代の飛鳥さんが分離する。
「パパはお酒のせいでパイロットを辞めたんじゃないの?」
「そうよ。飛鳥ちゃんのお父さんは、意志が弱くてお酒がやめられなかったわけじゃない。ただ、病気のせいでパイロットが出来なくなったの」
 小学生の飛鳥さんに柔らかく言うと、大学生の飛鳥さんが険しい表情で身を乗り出してきた。
「嘘よ! だってお父さんは、お酒を飲み過ぎて手が震えるようになってパイロットができなくなったんだから!」
 噛みつくように彼女は叫ぶ。
『あすかぁー、そこかぁー。そこにいるのかぁー』
 悪意に満ちた声が近づいてきた。その声の主が、もうすぐ姿を現す。焦燥が胸を焼く。
「飛鳥さん、逆なの。お酒の飲み過ぎで手が震えるようになったんじゃない。将司さんは手が震えるようになったせいで、お酒を飲むようになったの。病気のせいで手が震えて空を捨てないといけなくなって、その絶望でお酒を飲むようになったの」
「病気のせいで、手が震える……」
 大学生の飛鳥さんの口が、半開きになった。
「そう、将司さんの手を震わせていた病気は、アルコール依存症じゃない。その病気、それは……」
 そこで言葉を切った私は、大学生の飛鳥さんの目をまっすぐに見つめながら、彼女の父親の体をむしばんでいた病の名を告げる。
「パーキンソン病よ」
 パーキンソン病。脳内にある黒質こくしつという部分の神経細胞が変性することによって、運動機能が阻害されていく疾患。そして、パーキンソン病の最も特徴的な症状として安静時の手指振戦、つまりは手が細かく震えることが上げられる。
「ぱーきんそん……びょう……?」
 大学生、小学生、そして幼稚園生の三人の飛鳥さんの、いぶかしげな声が重なる。
「そう、パーキンソン病。手が震えたり、細かい動作が苦手になる原因不明の神経の病気。あなたのお父さんは、その病気のせいでパイロットを辞めることになった。大好きだった空を捨てないといけなくなった。彼の手が震えていたのはアルコールのせいじゃなくて、病気のせいだったの」
 私は必死に言葉を紡いでいく。
『そこかぁー! あすかぁー、そこにいるのかぁー!』
 猛獣の唸り声のような声がさらに大きくなり、枯葉を踏みしめる足音が聞こえてきた。もうすぐ『何か』がやってくる。明らかな悪意を持った何かが。
「そうだとしたら、なんだっていうの? お父さんが私を殺そうとしたことには変わりない! お父さんは一人で死ぬのが怖くて、飛行機を墜落させて私を道連れにしようとしたの!」
 大学生の飛鳥さんは、迷いを振り払うかのようにかぶりを振った。
「ねえ飛鳥さん、聞いて」
 炎であぶられるような焦りを必死に押し殺しつつ、私は話し続ける。
「お父さんは、あなたと心中するために飛行機に乗ったんじゃないの」
「じゃあ、なんで飛行機は墜落したの!? お父さんは間違いなく、わざと飛行機を墜とした。そのせいで私は片目を失明して、パイロットになる夢を……、ずっと憧れていた大空を……」
 言葉を詰まらす飛鳥さんにそっと手を伸ばし、私は実体のないその体に触れた。感触はないが、かすかに掌に体温が伝わってくる気がした。
「飛行機が墜落直前、お父さんの様子は普通じゃなかった。そうでしょ?」
 うつむいていた飛鳥さんは緩慢に顔を上げ、かすかに頷いた。
「あのとき、あなたのお父さんは幻覚に囚われていたの。そのせいで、正常な判断ができなくなって、あんなことを起こした。決してあなたを傷つけたかったわけじゃない。全部、病気が原因なの」
「……あれも病気の症状だったの?」
「いいえ」私は首を横に振る。「あれは病気自体の症状じゃない。薬のせい。薬の副作用が、将司さんに幻覚をみせたの」
「副作用……?」
「そう、パーキンソン病は脳の一部でドパミンっていう神経伝達物質が不足することが原因で生じる。だから、治療ではドパミンを補充する。ただ、ドパミンを過剰に投与された場合、副作用として幻覚や妄想が生じる場合があるの。例えば、神様からの声のような幻聴が聞こえたり」
 大学生の飛鳥さんは目を大きく見開く。そのとき、彼女の背後に生えている樹々の奥で、何かがうごめいた。なにか、黒く巨大なものが。
「香苗、そろそろやばいよ。香苗だけでもこの世界から脱出しないと」
 無言で成り行きを見守っていたククルがつぶやく。
「待って! もう少しだから!」
 私が叫ぶと同時に、エコーのかかったおぞましい声が内臓を揺らした。
『みつけたぁー。あすかぁ、みつけたぞぉ』
「分かるでしょ、飛鳥さん! あのときの将司さんの症状は、パーキンソン病薬の典型的な副作用そのものなの。お父さんはあなたを殺す気なんてなかったの!」
 ひたひたと近づいてくる『何か』に怯えつつ、私は必死に説得する。
「証拠……」大学生の飛鳥さんは小声でつぶやく。「あなたの話が本当だっていう証拠はあるの?」
「ある! 事故のあった日、将司さんの手が震えていなかったこと、それが証拠よ!」
 飛鳥さんたちの背後にある樹々が、めきめきと音をたてながらなぎ倒されていく。とうとう、『何か』が姿を現した。
 それは『闇』だった。巨大な人型の『闇』
 松ぼっくりを呑み込み、クローバーの絨毯じゆうたん蹂躙じゆうりんしたあのどこまでも深い『闇』が、人の形をしてそこに存在した。
 背中に生えた翼を羽ばたかせて、この場から逃げ出したいという衝動に必死に耐えつつ、私は話し続ける。あの日、なにがあったのか。
「末期癌で残された時間が少ないことを知った将司さんは、どうにかしてもう一度あなたと空を飛ぶという約束を果たしたかった。けれど、パーキンソン病の症状が出ていては、飛行機の操縦はできない。だからあの日、将司さんは指定された容量を超えたパーキンソン病薬を摂取したの。補充された大量のドパミンによって、将司さんの症状は一時的に改善した。けれど、過剰に投与されたドパミンはあなたとの飛行の途中、将司さんに激しい幻覚を引き起こし、混乱状態にした。そして……飛行機は墜落した」
 人型の『闇』は、なぶるかのようにゆっくりと迫ってくる。
「あの事故は、将司さんがあなたとの約束を必死に果たそうとした結果起こった事故なの!」
 声を張り上げると、迫ってきている人型の『闇』にかすかな亀裂が入った。
「なら、どうしてお父さんは首を吊ったりしたの? 事故のあとすぐに自殺したってことは、最初から死ぬつもりだったってことじゃない」
「そうじゃない。将司さんはあなたに遺したいものがあった。そのために、彼は自ら命を絶ったの」
「遺したいもの?」
 戸惑いの表情を浮かべる大学生の飛鳥さんに、私は大きく頷く。
「角膜よ」
 大学生の飛鳥さんの体が、大きく震えた。
「あなたは事故で角膜が傷ついたせいで失明した。けれど、角膜移植さえ受ければ視力が戻るかもしれない。また大空を飛べるかもしれない。だから、自分の角膜をあなたに遺すために、将司さんは自ら命を絶ったの。遺書と一緒に運転免許証を置いたのは、きっとその裏に書かれている臓器提供の意思表示を見てもらうため」
 たとえ自殺が成功していたとしても、飛鳥さんに角膜が渡るか分からなかった。おそらくは、そうならないだろう。けれど彼には他に道がなかったのだ。自らの失敗により、愛する娘を傷つけてしまった償いをする方法が他に思いつかなかった。
「飛鳥さん、あなたのお父さんは間違っていた。大量の薬を内服してまで、あなたと空を飛んだり、角膜を遺すために自殺しようとしたり。明らかな間違いを犯してしまった。けれど、それはすべて、愛情から出たものだった。あなたを心から愛していたからこそ、そんな行動を取ってしまったの」
 迫ってきた人型の『闇』が、両腕を振り上げる。私は三人の飛鳥さんを順に見つめながら、微笑んだ。
「だから飛鳥さん、お父さんを赦してあげて。そして、彼が最後に望んだように、大空を取り戻して。お父さんとの思い出の大空を」
 三人の飛鳥さんが振り返る。次の瞬間、彼女たちに襲い掛かろうとしていた人型の『闇』がはじけ飛び、黄金色の光が辺りを照らした。まぶしさに、顔の前に手をかざした私は、光の中に立つ人影に気づく。
「飛鳥」
 どこまでも柔らかく愛情に満ちた声が響く。
 光が消えると、人型の『闇』は消え、代わりに男性が立っていた。森で迷った幼稚園生の飛鳥さんを迎えに来たときの羽田将司さんが。
「お父さん!」
 三人の飛鳥さんが、将司さんに向かって飛びついていく。彼女たちの姿が重なり、いつの間にかそこには幼稚園生の飛鳥さんの姿だけが残っていた。
 胸に飛び込んできた飛鳥さんを、将司さんは優しく抱きしめる。
「ごめんな、飛鳥。本当にごめんな」
「謝らないで、パパ。……大好きだよ」
「ああ、パパも飛鳥のことが大好きだよ」
 抱き合った親子の姿が透けていき、やがてかすかな煌めきを残して消え去った。いつの間にか、周囲を囲んでいた樹々もなくなっている。
 私とククルは、再びなにもない空間に取り残された。
「ねえ、ククル。これで飛鳥さんを救えたのかな? 昏睡から目覚めることができるのかな?」
「すぐに分かるよ」
 ククルがそう言ったとき、背後から閃光が走った。慌てて振り返ると、光の繭が輝いていた。ついさっきまでのように弱々しくではなく、目が眩むほどに明るく。
 その繭は次第に大きさを増していき、私よりも遥かに大きくなる。
 つぼみが花咲くように、繭の上部が開いていった。窮屈そうに這い出したものを見て、私は息を呑む。
 それは鳥だった。鶴のような長い首と小さな頭、頭部には黄金色の鶏冠が生え、長い尾には孔雀くじやくのような色鮮やかな目玉模様が付いている。そして、その羽は燃えていた。紅、蒼、紫、橙……、様々な色の炎で翼が編まれた姿は、想像上の生物である鳳凰ほうおうを彷彿させる。
 大きく一鳴きした鳥は、両翼を羽ばたかせる。闇に支配されていた空間を、炎の輝きが満たしていく。
「あれが、飛鳥さんのククル……」
 繭の中で身を縮込めていた小鳥とあの鳳凰が、同一の存在だとはにわかには信じられない。
「うん、その真の姿さ。香苗のおかげで、本当の姿を取り戻せたんだよ」 
 ククルは目を細める。気づくと、私たちはもう落下していなかった。足の下に光の床が広がり、その上に立っていた。
 飛鳥さんのククルが飛び立った。舞い散った色とりどりの炎は、光球となって辺りを回転しはじめる。
 もはや、どこを見回しても闇は存在しなかった。万華鏡の中に投げ込まれたかのような、極彩色の世界で私は両手を広げる。
 鳳凰が、飛鳥さんのククルが昇っていく。どこまでも高く。そのとき、硝子の割れるような音が響き渡った。
「そろそろお終いかな」
 ククルがつぶやく。
「お終いって、なにが」
「この夢幻の世界がさ。ククルが本来の姿を取り戻したということは、片桐飛鳥のマブイが力を取り戻したということだ。もうすぐ、彼女のマブイは自分の体に戻ることができる。役目を終えたこの夢幻の世界は、崩れ去るのさ」
「崩れ去ったらどうなるの?」
「もちろん、目が醒めるよ。香苗も、そして片桐飛鳥もね」
 飛鳥さんが目覚める。胸の中で心臓が大きく鼓動した瞬間、空間にひびが入った。まるで、鏡にハンマーを打ちつけたかのように、遥か上方からこの世界が砕け散っていく。
 その破片が、光を乱反射しながら降りかかってくる。恐ろしくはなかった。ただ、その美しさに圧倒されて動けなかった。
「それじゃあね、香苗。また近いうちに」
 ククルの挨拶を聞きながら、私は光のシャワーを全身で受け止めた。



 気づくと、私は病室に立っていた。ベッドと床頭台が置かれた、殺風景な個室の病室。そこで、ベッドに横たわる飛鳥さんの額に手をかざしている。
 掛け時計に視線を送ると、この部屋に入ってきた時刻から、五分ほどしか経っていなかった。
 いまのは現実だったのだろうか。それとも、私は夢を見ていたのだろうか。
 いや、夢だったのは間違いない。問題は、私が一人で白昼夢を見ていただけなのか、飛鳥さんの夢、『夢幻の世界』に這入り込んでいたかだ。
 軽く頭を振りながら手を引いた私は、目を見開く。飛鳥さんの右目から涙が溢れ出し、その陶器のような白い頬を伝っていた。
 焦らすようにゆっくりと、彼女の右目の瞼が上がっていくのを、呼吸をすることも忘れて見つめる。
「ここは……?」
 弱々しい声で、飛鳥さんはつぶやく。
「ここは……神研病院ですよ」
 胸の奥からこみ上げてくる熱い感情が、声をかすれさせる。
「病院? なんで私は病院に?」
「片桐飛鳥さん、あなたは四十日間、昏睡状態だったんですよ。四十日もの間、ずっと夢を見ていたんです」
「夢……」
 飛鳥さんは不思議そうにつぶやくと、目元を拭った。
「うん、なにか夢を見ていた気がする。すごく怖くて、哀しい夢。なのに、なぜか幸せな夢を。でも、どんな夢だったか思い出せない」
 飛鳥さんは入院着の胸元を掴む。その唇がかすかに動いた。
「お父さん……」
 飛鳥さんの呼吸が乱れていく。その目から、再び涙が溢れはじめた。
 夢は思い出せないものだ。それでいいのだろう。きっと、飛鳥さんはもう知っているのだから。
 自分がどれだけ父親に愛されていたかを。
 顔を覆って肩を震わせはじめた飛鳥さんに会釈をすると、私は身を翻して出口へと向かう。
 廊下に出ると、閉まった扉に背中を預けて息を吐いた。
 とうとう、やったのだ。私はとうとう、特発性嗜眠病の患者を救うことができた。
 温かい達成感を胸に、私はかすかに聞こえてくる深い慟哭どうこくを背中で聞き続けた。
(第6回につづく)

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知念 実希人Mikito Chinen

1978年生まれ。東京慈恵会医科大学卒業、内科医。2011年、福山ミステリー文学新人賞を受賞し、『誰がための刃 レゾンデートル』(同作は19年『レゾンデートル』と改題し文庫化)でデビュー。主に医療ミステリーを手がけ、『天久鷹央の推理カルテシリーズ』が評判を呼ぶ。15年、『仮面病棟』で啓文堂書店文庫大賞第1位を獲得し、50万部超のベストセラーに。18年には『崩れる脳を抱きしめて』で、19年には『ひとつむぎの手』で連続して本屋大賞ベストテン入りを果たす。また19年、『神酒クリニックで乾杯を』がドラマ化されるなど各著書が注目を集めている。近著に『神のダイスを見上げて』『レフトハンド・ブラザーフッド』がある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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