双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第1章(承前)

 数種類の香辛料が織りなすスパイシーな香りが鼻先をかすめる。スプーンですくったカレーを口に含むと、深い旨味と刺激的な辛みが口腔内に広がった。
「うまいか?」
 ダイニングテーブルを挟んで対面に座る父さんが訊ねてくる。私は咀嚼をしたまま、数回首を縦に振った。父さんの目尻にしわが寄る。
 袴田先生の忠告どおり私は実家に帰っていた。院長室を出てすぐに電話をすると、父さんは「待っているよ」と心から嬉しそうに言ってくれた。
 子供の頃からの私の好物である、父さんの手作りカレー。実家を出てからというもの、帰ってくるたびに父さんはこのカレーを作ってくれる。
 こうして父さんと向かい合って食事をするのって、どのくらいぶりだろう? 
 せわしなくカレーと口との間でスプーンを往復させながら、私は父さんを観察する。
 老けたなぁ。それが偽らざる気持ちだった。
 頭髪は薄くなり、顔にはシミとしわが目立つ。五歳の頃から、私を男手一つで必死に育て上げてくれた父さん。その苦労が、その外見から滲み出していた。
 それなのに私はろくに顔を出しもしないで……。感謝と罪悪感が胸の中でブレンドされる。
 自己嫌悪に苛まれていると、唐突にニャーと鳴き声が響き、膝の上に薄茶色の毛玉が飛び乗ってくる。『きなこ』という名のうちの飼い猫だ。私が小学生のころ、近所の公園で拾ってきた子猫は、いまはこの家の主のように傍若無人に過ごしている。
「ご飯食べているんだから邪魔しないで。ほら、ハネ太は大人しくしているじゃない」
 私は名前の由来となったきな粉のような色の毛を一撫ですると、リビングの隅に置かれた大きなケージを指さす。その中には、こちらも私が子供のころからの付き合いであるウサギのハネ太が、目を閉じて座っていた。一見すると眠っているようだが、地面に触れそうなほどに垂れ下がった耳が時々ぴくぴくと動いているのを見ると、こちらの様子をうかがっているようだ。
 きなこは私の膝を踏み台にして前足をテーブルに乗せ、フンフンとカレーの匂いを嗅ぎはじめた。
「猫はカレーなんか食べれないよ」
 抱えて床に下ろすと、きなこは抗議するかのように「ナー」と一声鳴いた。態度こそ大きいが、体格は小柄でいまだに子猫のときの愛嬌を存分に残している。どうしても甘やかしてしまいたくなる。
「あとでおやつに猫用スナックあげるから、ちょっと待ってて」
 きなこの視線にプレッシャーを感じながら、私はカレーを食べ続けた。
 食事を終えると、父さんが淹れてくれた紅茶を飲む。そんな私を、父さんは包み込むような笑みを浮かべて見つめていた。
 ああ、やっぱり実家に帰ってきてよかった。私は内心で、帰郷を勧めてくれた袴田先生に感謝する。
 こうして父さんと向かいあってお茶を飲んでいるだけでも、この数週間ずっと張りつめていた気持ちが緩んでくる。
 いくら仕事が忙しいとはいえ、もっと頻繁に父さんに会うべきだった。なんで私は、ずっと実家に帰っていなかったのだろう。
「それで、なにがあったんだ?」
 唐突に父さんが話しかけてきた。
「え? なんの話?」
 私は手にしていたカップをソーサーに戻す。
「なにかあったから、急に帰ってきたりしたんだろ?」
 父さんが細めた目で、私の瞳を覗き込んでくる。子供の頃から、ふさぎ込んでいると、父さんはきまってこうして話を聞いてくれた。そうすると、うじうじと悩んでいたことが嘘のように、体の内側にこびりついていた負の感情が溶けて洗い流されていくのだ。
「ちょっと……、仕事が忙しくて」
 曖昧に答えると、父さんは小さく肩をすくめた。
「それだけじゃないだろ。香苗は頑張り屋だから、忙しいだけでそんな弱気になったりしないさ。なにか辛いことでもあったんだろ? 話しぐらいなら聞くぞ」
 やっぱり父さんにはかなわないな……。私は苦笑しつつ、どう話すべきか考える。
 担当患者たちの姿を見て、『あの時』のことを思い出すことは、言うわけにはいかない。父さんも『あの事件』で、私と同じぐらい傷つき、苦しんだのだから。
「実はちょっと難しい患者さんを担当していて。特発性嗜眠病っていう病気の患者さんなんだけど……」
 躊躇ためらいがちに話しはじめる。相手が家族とはいえ、患者の個人情報を漏らすわけにはいかない。けれど、疾患についての一般的な説明ぐらいなら問題ないだろう。
 私は特発性嗜眠病について、医療的な知識のない父さんも理解できるよう、噛み砕いて説明をはじめた。



「そうか、世の中には不思議な病気があるもんだな」
 何度も相槌あいづちを打ちながら私の話を聞き終えた父さんは、眉間みけんにしわを寄せる。
「凄く珍しい病気だからさ、手探りで治療しているんだけど、全然効果がないんだよね。なんか、それで無力感をおぼえるというか……」
 無力感をおぼえ、『あの時』に何もできなかった自分を思い出してしまう。私は膝の上で拳を握りしめた。
「しかし、夢を見たまま眠り続けるって、あれだな。なんか、そういう童話がなかったか」
「白雪姫でしょ。魔法使いの毒リンゴを食べて眠り続けて、王子様のキスで目覚めるってやつ。だから、特発性嗜眠病のことを『白雪姫症候群』って呼ぶ人もいるみたい。私はそんなロマンチックな名前、嫌いだけど」
 私はカップの残っていた紅茶を口に放り込む。濃い部分が底に沈んでいたのか、やけに苦く感じた。
「どうして嫌いなんだ? 女の子はロマンチックなものが好きだろ」
「やめてよ。もう『女の子』って歳じゃないって」
 かぶりを振る私の前で、父さんは無言ではにかむ。父親にとって娘は、いくつになっても『女の子』らしい。
「キスで起きるような簡単な病気だったら、いくらロマンチックな名前が付いていてもいいよ。けれど、特発性嗜眠病の患者さんは、かなりの割合で死ぬまで二度と目覚めないの。まさに呪いって感じ。王子様のキスでも、おまじないでもいいから、患者さんたちを目覚めさせる方法があったら教えて欲しいよ」
 私が大きなため息をつくと、父さんは無精ひげの生えたあごに手を当てて考え込んだ。
「呪い……か」
「どうしたの? 難しい顔して」
「いや、そういうことなら、母さんに相談したらいいんじゃないかなと思って」
「え、ママに!?」
 心臓が大きく跳ね、胸骨を裏側から叩く。顔の筋肉がこわばっていくのが分かる。
「ああ、違う違う。俺の母さん、香苗のばあちゃんのことだよ」
 私の顔色に気づいた父さんは慌てて言った。
「ああ……、そういうことか」
 固まっていた表情筋が一気に弛緩する。
「でも、おばあちゃんって……」
 軽い頭痛をおぼえた私がこめかみに手を当てると、父さんは天井を指さした。
「まだこの時間なら、自分の部屋で起きていると思うから、話を聞いてみたらどうだ」
「ちょっと待って。なんでおばあちゃんに話を聞くの? 病気の話なんだよ」
「けれどその患者さんたちの症状って、素人の俺が聞くと病気というより、それこそ呪いとか、まじないみたいに聞こえるんだよな。それなら、専門家に相談するのが一番だ。なんと言ってもばあちゃんは、若いころユタをやっていたからな」
「ユタ? それって、沖縄の巫女みこさんみたいな人だっけ?」
 聞き覚えはあるが、それがどのようなものなのか、正確な知識はなかった。
「俺もあまり詳しくないけど、どちらかと言うと霊能力者に近いかな。不思議な力で悪霊を払ったり、病気を治したりするんだよ」
「霊能力者……」
 鼻の付け根にしわが寄る。
「まあ、胡散うさん臭いのは確かだな」父さんは楽しげに笑う。「実際、相手の弱みに付け込んで詐欺みたいなことをしている自称ユタもたくさんいるらしい。ただ、近所の話とか聞くと、ばあちゃん凄く優秀なユタだったらしいぞ」
「不思議な力って、そんなものあるわけないじゃない」
 口調に苛立ちが滲んでしまう。
 病に苦しむ人々に、言葉巧みになんの根拠もない高額の治療法を勧める者はたくさんいる。医師になってから、そのような治療法を信じてしまった結果、不幸になっていった患者を何人も見ていた。
「いやいや、ばあちゃんに不思議な力があるのは間違いないぞ。俺は子供のころから色々と見てきたからな。ちょっとした病気を治したり、探し物の場所を言い当てたりとかな」
「でも、私、そんな話はじめて聞いたんだけど」
「ばあちゃんはユタだっていうことをあまり知られたくなかったみたいで、近所の人に頼まれたときだけ、無料で助けてあげたりしていたんだよ。さっき言ったように、詐欺師まがいのユタも多いんで、ユタっていうだけで白い目で見てくる人も少なくなかったからな」
「ふーん、そうなんだ」
 料金を要求しなかったということを聞いて、抵抗感がいくらか薄くなる。
「まあ、参考になるか分からないけれど、話を聞いて損はないんじゃないか? 昔から受け継がれてきた知恵ってやつは、けっこう役に立ったりするもんだぞ」
 父さんに促されると、そんなものかもなと思ってしまう。超常的な能力など全く信じていないが、久しぶりに会うのだから、おばあちゃんとゆっくり話をするのも悪くない。
 私は「それじゃあ、ちょっとお話してこようかな」と席を立つ。父さんは嬉しそうに「いってらっしゃい」と手を振った。
 ダイニングを出て、二階へと続く急な階段を上がっていくと、きなこが足元をすり抜けて行った。
「お前もおばあちゃんの部屋に行くの?」
 一足先に二階に到着したきなこは、私を急かすように「ンニャー」と声を上げた。まだおやつを貰っていないのが不満なのかもしれない。
 二階へ上がると、短い廊下の右手にあるふすまを、きなこが爪で掻くいていた。おばあちゃんの部屋だ。襖の前まで来た私は、「おばあちゃん、起きてる?」と小声で訊ねてみる。すぐに「起きてるよー」と、返事があった。
 襖を開けると、琉球畳が敷かれた和室が広がっていた。ちゃぶ台の奥にゆったりとした浴衣を着たおばあちゃんが、ちょこんと座っている。部屋の隅で灯っている蚊取り線香から漂ってくる独特の匂いが懐かしかった。
「香苗ちゃん、久しぶりだねえ。しばらく見ないうちに、大きくなったさぁー。ほら、座りなさい」
 おばあちゃんは元々しわの多い顔に、さらにしわを寄せると、座布団を勧めてくる。部屋に入ったきなこは、大きくジャンプしておばあちゃんの膝の上で丸くなった。
「やだ、子供じゃないんだから、もう大きくなったりしないよ」
 おばあちゃんの対面に正座しながら苦笑する。
「会えて嬉しいよ。ほら、ムーチーでも食べなさい」
 おばあちゃんは、ちゃぶ台の上に置かれた菓子器の中から、折りたたまれた大きな月桃げつとうの葉を取り出す。ムーチー、または鬼餅と呼ばれる沖縄の菓子だ。
「あっ、これ懐かしい」
 受け取った私は、月桃の葉を開いていく。中から現れた紅芋が練り込まれた濃い紫色の餅を、前歯で葉からこそぎ落とすようにして食べる。奥歯で噛みつぶすと、一般的な餅よりも遥かに粘着質で柔らかい食感とともに、紅芋の優しい甘みと、月桃の葉の爽やかな香りが口の中に広がった。
 子供のころはおばあちゃんの家に行くたびに食べていた味。そのなつかしさに、熱いものがこみ上げてくる。
 やっぱり家族に会うのはいい。ざらついていた心が温かく癒されていく。私は幸せを噛みしめるように、ムーチーを食べ続けた。
「マブイが落ちたのさぁ」
 食べ終わり、指先に付いたべとつきをハンカチで落としていると、唐突におばあちゃんが声を上げた。意味が分からず、私は「え? なに?」と聞き返す。沖縄のなまりが強いおばあちゃんの言葉は、時々聞き取れないことがある。
「だから、香苗ちゃんが診ている患者さんのことさぁ。急に起きなくなったんだろ?」
「……なんでそれを?」
 背中にぞわりとした震えが走る。さっき父さんが口にした「不思議な力」という言葉が耳に蘇った。
「香苗ちゃんのことならね、私はなんでも分かるさぁ」
 得意げに目尻を下げるおばあちゃんを見ながら、私は軽く頭を振る。
 きっと父さんと私の会話が聞こえていただけだ。この家は、それほど防音性に優れているわけではない。年齢の割には耳が遠くないおばあちゃんなら、この部屋でも聞き取れたかもしれない。
 なかば強引に自分を納得させた私は、おばあちゃんに「マブイってなあに?」と訊ねた。沖縄の方言のようだが、東京で育った私には聞き覚えのない言葉だった。
「マブイっていうのはねぇ、内地の言葉でいうと『魂』みたいなものさぁ」
「魂……」
 スピリチュアルな単語に、頬の筋肉が引きつる。
「マブイはね、ちょっとしたことで落ちちゃうんだよ。すごく驚いたり、悲しいことがあったりしたときさぁ。そういうとき、なにも考えられなくなっちゃうだろ」
 ショックで茫然自失になることを言っているようだ。
「おばあちゃん、私が診ている患者さんたちはね、一ヶ月以上も眠り続けているの。そんなすぐに治るようなものとは違うんだよ」
「それはねぇ、落としたマブイを誰かに吸い込まれちゃったからさぁ」
「吸い込まれた?」
 意味が分からず、反射的に聞き返す。
「そうよ。香苗ちゃんが診ている人たちはマブイを落とす前、みんな元気がなかったんじゃないの? 凄くつらいことがあって、落ち込んでいたんじゃないの?」
「なんでそれを!?」
 甲高い声を出した私は、慌てて両手を口に当てる。
 これもさっきの話を聞かれていたからだ。そうに違いない。
「つらいことがあるとねえ、マブイが弱くなるの。弱ったマブイは吸い込まれやすくなる。マブイを吸い込まれて落としたままの人は、家に帰ったりご飯を食べたりはできるけど、一度眠ったらずっと起きられなくなるのさぁ」
「吸い込まれるって、何に?」
 特発性嗜眠病とまったく同じ症状。私は思わず身を乗り出していた。
「サーダカンマリな人よぉ」
「さーだかんまり……?」
「そういう力がある人のことさぁ」
 他人の魂を抜く力がある人間? 頭痛がしてくる。心臓の鼓動に合わせて痛みが走るこめかみを押さえながら、私は質問を続けた。
「それじゃあ、そのマブイっていうのが吸い取られた人は、どうすれば起きるの?」
 なにを馬鹿なことを訊いているのだろう? 医者である私が、こんな迷信じみたことを真に受けるなんて……。
 理性ではそう思うのだが、なぜか私はおばあちゃんの話に魅せられていた。
「マブイグミをするのさぁ」
 おばあちゃんは高らかに言う。
「まぶい……ぐみ……?」
「そうよぉ。マブイを戻してあげるの。ちょっとマブイを落としただけなら、普通の人でもできるけどねぇ。吸い取られた人はそうはいかないさぁ。ちゃんとした人がやらないと」
「ちゃんとした人って、もしかして……ユタっていうこと?」
 おばあちゃんはにこにこと微笑むだけだった。
「……おばあちゃんなら、マブイっていうのが吸い取られた人、私が担当している患者さんを治せるの?」
 そんなことあるわけないと分かっているはずなのに、質問を止めることができない。
「いやあ、無理だねぇ」
 おばあちゃんは残念そうに首を横に振る。
「三十年前なら出来ただろうけどねぇ。ただ、出来る人ならいるよぉ」
「出来る人? 誰!?」
 座布団から腰を浮かしかけた私の鼻先に、おばあちゃんは人差し指をつきつけた。
「香苗ちゃん、あんたさぁ」
「……私?」
 半開きの唇から、呆けた声が漏れる。
「そうよぉ。香苗ちゃんは私の孫だからねぇ、きっとできるよぉ」
 体の熱が一気に引いていく。ユタであるおばあちゃんの血を引いているから、私に特別な力があるとでもいうのだろうか。そんな都合のいいことあるわけがない。
 これ以上、この話をしてもしかたがない。おばあちゃんに顔を見せられたし、そろそろ引き上げよう。そう思って腰を上げかけると、不意におばあちゃんが額に掌を当ててきた。
「え? なに?」
 反射的に身を引こうとすると、おばあちゃんは「動かないで」と優しく微笑んだ。
 いったいなにをしているのだろう? 不安に駆られながら固まっていると、額の中心がふわりと温かくなる。
 その部分に光が灯った気がした。淡いオレンジ色の光が。
 目で見えるわけではない。それなのに、その光の色彩まで、なぜか私には感じ取ることができた。
「なに? なんなのこれ!?」
 私が腰を浮かすと、おばあちゃんは「大丈夫さぁ」と目を細める。
 額の熱が広がっていく。顔、首、体幹、そして四肢の先端へと。全身の細胞は熱を帯びはじめる。しかし風邪で発熱しているようなつらさはなく、太陽の熱に温められた南国の海の中に漂っているかのように心地よかった。
 私は瞼を落とす。漆黒の世界の中、私の体はオレンジ色の光に包まれて浮いていた。いや、それは正確じゃない。私自身がそのオレンジの光を放っているのだ。
 六十兆ある全身の細胞が、淡く発光しているのを感じる。
「これって……」
 私が目を開くと、おばあちゃんは得意げに目を細めた。
「ね、香苗ちゃんはやっぱり私の孫さぁ」
 体の熱がゆっくりと引いていく。感じていた光も弱くなっている。しかし、その残滓ざんしが、へその奥あたりにくすぶっている気がした。
「どういうこと? いまなにをしたの?」
「マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
 問い詰める私の前で、突然おばあちゃんは呪文のような言葉をつぶやいた。
「なに……言ってるの?」
 気味の悪さをおぼえて身を引く私を、おばあちゃんは見つめてくる。
「マブイが落ちている人の頭に触って、いまの呪文を唱えるんだよ。そうしたら、マブイをその人の体に戻すことができるよ」
「特発性嗜眠病を治せるっていうこと?」
 おずおずと訊ねると、おばあちゃんは我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「そう……、ありがと」
 礼を言った私は、逃げるように襖に向かう。これ以上、おかしな迷信に惑わされるのはまっぴらだった。おばあちゃんの膝で丸まっていたきなこも、起き上がってついてくる。
「ああ、香苗ちゃん」
 襖を開くと、背中から声を掛けられた。私は「なに?」と首だけ振り返る。
「マブイグミをするときはね、ククルを探すんだよ」
「ククル? なにそれ?」
 新しく出てきた単語に、眉根が寄ってしまう。
「すぐに分かるさぁ」
 おばあちゃんは少女のように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あっ、香苗お姉ちゃん」
 実家に帰った翌日の夕方、午後の回診中に病棟の廊下を歩いていると、明るい声がかけられる。振り返ると、入院着を着た小学校低学年ぐらいの少女が屈託のない笑みを浮かべて立っていた。たしか、この病棟に入院している子だ。何度か顔を合わせたことがあった気がする。
「こんにちは。えっと……」
瑠奈子るなこだよ。角畝かくうね瑠奈子」
 不満げに頬を膨らませる姿も可愛らしい。
 自分の担当患者ではないし、なかなか難しい名前なのではっきりとは覚えていなかった。
「ごめんね、瑠奈子ちゃん。えっと、こんなところでなにをしているのかな?」
 彼女は悪戯っぽい笑みをたたえながら近づいてくる。老婆のように背中を曲げて小刻みに足を進めるその姿から、彼女が神経の難病に冒されていることが見て取れ、表情が歪みそうになってしまう。
「お散歩。お部屋にいても暇だから、ぶらぶらしていたの。お姉ちゃんもお散歩していたの?」
「私はお仕事中。担当している患者さんのところに行って、お話を聞いて回っていたのよ」
 私は膝を曲げて、瑠奈子ちゃんと視線を合わせた。
「瑠奈子ちゃんも、そろそろ担当の先生が会いに来るだろうから、自分の病室に戻っていた方がいいよ」
「でも、お部屋にいてもなにもやることないんだもん。つまんないよ」
 瑠奈子ちゃんは哀しそうにうなだれる。もともと背骨が前曲しているので、その姿は痛々しかった。
「それじゃあ、お仕事が終わったらちょっとお姉ちゃんが遊んであげる。だから、それまでは自分のお部屋で待っていてくれる?」
「ホント!? 分かった、待ってる」
 花が咲くように笑みを浮かべると、瑠奈子ちゃんは踵を返して離れていった。やはりぎこちない足取りながらも、そのスピードはかなり速い。疾患を抱える自分の体に適応しているのだろう。
 小さい背中が見えなくなるのを確認すると、私は引き戸を開いて病室へと入っていった。
 片桐飛鳥さんの病室。部屋の奥に置かれたベッドには、彼女が横たわっていた。一定のリズムで響く、かすかな寝息が鼓膜こまくをくすぐる。
 ベッドに近づいた私は首にかけていた聴診器を手に取り、「回診ですよ。ちょっと失礼しますね」と声をかけてから診察をはじめた。
 すぐに診察は終わる。特に異常は見られない。これまでの四十日間と同じように、彼女はただ眠り続けているだけだった。
 診察が終われば、もうこの病室には用はないはずだ。早くナースステーションに戻って、カルテの記載や処方・検査のオーダーなど、山積みになっている業務をこなさなくてはならない。にもかかわらず、私はベッドのそばから動くことができなかった。
 いったいなにをするつもり? 私は自問しつつそっと手を伸ばし、彼女の右の瞼に触れる。
 薄皮の下で素早く動いている眼球の動きが指先に伝わってきた。
 触れている瞼から目尻、そしてこめかみにかけて、細い古傷が走っている。私はカルテに記されていた情報を思い出す。なにか特発性嗜眠病を治すための手がかりがないかと、親族をはじめとする関係者から必死に話を聞いて、まとめたその情報を。
 二十一歳の飛鳥さんは、飛行機のパイロットを夢見て航空学校に通っていた。しかし、数ヶ月前に事故に巻き込まれ、重傷を負った。命に別状はなく、四肢を骨折したものの、それも手術によって後遺症なく治癒することができた。
 しかし、問題は目だった。
 事故の際、飛び散った破片が右目をかすめ、角膜をひどく傷つけてほぼ失明状態になった。片目の光を失えば、視覚で物体の遠近を判別することが困難になる。それはパイロットを目指す者にとっては致命的な障害だった。
 夢を失い絶望した彼女は、体の怪我が癒えても学校に復帰することなく、抜け殻のように呆然と毎日を送るようになった。
 そしてある日の朝、突然目覚めなくなった。
 まるで、つらい現実を拒絶し、夢の中に引きこもってしまったかのように。
 いま彼女はどんな夢を見ているのだろう? 幸せな夢に心をゆだねているのか、それとも悪夢の中を彷徨さまよっているのだろうか。無表情なその寝顔からは、判断することができなかった。
「マブイが落ちた……か」
 マブイ、魂なんてものが本当にあるのか分からない。人格なんて、蜘蛛くもの巣のように複雑に絡み合った脳神経回路に生じる電気信号が生み出しているものだと思っている。けれど、たしかに『魂』というものが存在し、それが体から消え去ったら、目の前で夢を見続ける彼女のような状態になるのかもしれない。
 マブイグミ。
 おばあちゃんから聞いたその話を思い出す。たしか、相手の額に手を置いて呪文を唱えるんだっけ?
「香苗ちゃんは私の孫だからねぇ、きっとできるよぉ」
 おばあちゃんの言葉が耳に蘇ってくる。
 私は飛鳥さんの瞼に当てていた手をゆっくりと、その額へと移動させる。彼女の体温で、掌がほんのりと温かくなった。
 本気でやるつもり? 医師の私があんな非科学的な迷信を真に受けて?
「信じてなんかいなくても、おまじないくらいしてもいいよね。ちょっとした願掛けみたいなものだし」
 言い訳するようにつぶやくと、私は飛鳥さんの顔を見つめつつ、ゆっくりと唇を開いた。
「……マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
 誰かに聞かれたりしないように、蚊の鳴くような声で放った呪文が、病室の空気をかすかに揺らした。
 なにも起こらなかった。
 王子に口づけをされた白雪姫のように、彼女が目覚めるようなことはもちろんなかった。彼女はいまも、かすかな寝息を立てている。
「そりゃそうだよね」
 そうつぶやいて手を引こうとする。けれど……できなかった。
 独り言を発することも、手を引くことも私にはできなかった。まるで、脳と身体を繋ぐ回線が切断されたかのように。
 なんなの、これ!? 反射的に叫ぼうとするが、喉も舌も言葉を紡げない。
 そのとき、光が灯った。昨日、おばあちゃんに頭を触られたときと同じように、全身が淡いオレンジに発光しはじめた。
 いや、光っているのは身体じゃない。その中に収められた『私』だ。身体に収めきれない光が、その外まで漏れ出しているんだ。
 ずっと身体こそが『自分』だと思っていた。皮膚を境に、その内側が『自分』で外側が『自分以外』であると。けれど、いま私は身体の奥底に本当の『自分』の存在を感じていた。
 全身からあふれ出していた光が、次第に右半身に、そして飛鳥さんに触れている右手へと集中していく。私の掌と、彼女の額。皮膚が触れ合っているその部分を通して、光が、いや光っている『私』が流れ込んでいく。『私』が彼女に吸い込まれていく。身体の中にある『私』が次第に希釈されていく。
 このままでは、『私』は掌に落ちた雪の結晶のように消え去ってしまうのではないか。
 恐怖にかられ、必死に手を引こうとする。しかし、やはり身体は微動だにしなかった。その間も、光は、それを灯している『私』は飛鳥さんの体へと流れ込み続けている。
 やがて視界が暗くなってきた。目がおかしくなったのではない。視神経から脳へと伝わった視覚情報を受け取る『私』が薄く、消えてしまいそうなほどに薄くなってきたから。
 すぐそばに『死』が佇んでいるのを感じる。あの日、二十年以上前のあの日以来の、濃厚な『死』の香り。
 脳裏に包み込むように笑みを浮かべて、手を伸ばしてくる女性の姿が弾ける。その瞬間、恐怖が消え去った。
 私は心穏やかにその香りを受け入れていた。
 次の瞬間、スイッチを切られたテレビ画面のように、私の意識は黒く塗りつぶされた。



 気づくと、私は森の中に立っていた。薄暗い森の中。辺りには巨樹が乱立し、立ち塞がる巨大な幹が迷路のようにいりくんでいる。
 ここは……? 混乱しつつ空を仰ぐ。遥か遠く、空に触れそうな距離に大量の葉が生い茂っているのが見える。いまだかつて、これほどまでに巨大な樹を見たことはなかった。木製の高層ビル群に迷い込んだかのような心地になる。
 両手を額に当てると、乱れている呼吸を必死に整え、状況の把握につとめる。しかし、どれだけ頭を働かせても、なにが起きているのか分からなかった。
 私は病院で勤務していたはずだ。それなのに、いつの間にこんな森の中に?
 もしかしたら、夢でも見ているのだろうか? いや、夢にしてはあまりにもリアルすぎる。
 私は鼻から大きく息を吸う。むせ返るような葉と土の湿った匂いが、鼻腔を満たしていく。一歩足を踏み出すと、靴の裏から柔らかい地面の感触が這い上がってきた。頬を撫でる空気は湿度こそ高いが、森林特有の清涼感を孕んでいて、爽やかですらあった。
 明晰夢、夢を見ている間、自分が夢の中にいると理解できるというその状況は何度も経験したことがある。しかし、そのときに感じた、世界の、そして『自分』という存在の濃淡が、時間経過とともに変化していくような感覚がいまはない。すくなくとも、私にとっていまのこの世界は『現実』だ。
 じゃあ、病院で回診をしていたことが夢だったのだろうか? もしかしたら、医学部に入り、過酷な初期臨床研修を終えて神経内科医となり、三人の特発性嗜眠病患者の担当になったのも、全部夢だった?
 いや、そんなわけがない! しっかりしろ!
 私は両手で自分の頬を叩く。パーンという小気味いい音が響き、両頬に走った鋭い痛みが、沸騰しそうなほど混乱している頭をわずかに冷ましてくれる。
 冷静になれ。冷静になるんだ。
 胸に手を当てて深呼吸をくり返していると、すぐそばに球状の物が落ちていることに気づき、私は小さく悲鳴を上げて飛びずさる。
 それは松ぼっくりだった。子供のころ、よく集めては近所の男子と投げて遊んでいた松ぼっくり。しかし、地面に落ちているそれは、スイカほどの大きさがあった。
 常識外れのサイズの松ぼっくり。たしかに、これほど巨大な樹が立ち並んでいるなら、この大きさの松ぼっくりが落ちていても不思議ではないのかもしれない。けれど、私が驚いたのはそのサイズだけではなかった。
「いつの間に……」
 さっきまで、こんなものはなかった。こんな異常な物が落ちていれば絶対に気づいたはずだ。
 ……いや、そうとは限らない。私は勢いよく首を横に振る。
 ここに来てから、私は混乱し続けている。そのせいで、こんなに近くに落ちていても気づかなかったのかもしれない。
 そうだ。そうに違いない。
 強引に自分を納得させた私は、なんとなしに膝を折ると、松ぼっくりに手を伸ばす。指先が触れる寸前、その松ぼっくりはころりと転がった。まるで、私の手を避けるように。びくりと体を震わせて手を引く。
 風? けれど、こんな大きなものが動くような風は吹いていないはず……。
 心臓の鼓動が加速していく。背中を冷たい汗が伝った。
「キャハハハハ」
 唐突に笑い声が上がった。幼児が無邪気に発するような甲高い笑い声。しかし、私の耳にはそれが肉食獣の唸り声よりも恐ろしく響いた。
 その声は、明らかに目の前の松ぼっくりから聞こえてきているのだから。
「なんなのよ……、これ……」
 舌がこわばって言葉がうまく出ない。その声に反応したかのように、松ぼっくりはくるりとその場で回転すると、先端を私に向けてきた。
 目などないはずなのに、松ぼっくりからの視線が体を貫いていく。
 呼吸を乱しながらじわじわと後ずさる私の鼓膜を、また笑い声が揺らす。何重にも重なり、エコーのかかった笑い声が。
 関節が錆びついたかのように動きが悪くなっている首を回して、周囲に視線を送る。いつの間にか、数えきれないほどの巨大な松ぼっくりが私を取り囲んでいた。
 夢だ……。やっぱり私は、悪夢を見ているに違いない……。
 上下の歯がカチカチと音を立てはじめた。
 目の前にいる松ぼっくりが、一際大きな笑い声をあげる。それを合図に、松ぼっくりたちが動きはじめた。
 私を中心に、無数の松ぼっくりたちが笑いつつ、ランダムな動きで転がりはじめた。
 お互いに衝突しては跳ね上がり、そのたびに一際大きな笑い声があがる。
 逃げないと。いますぐに、ここから逃げ出さないと。そう思うのだが、震える足に力が入らず、動くことが出来ない。そもそも、四方八方を、奇声を発しながら転げまわる松ぼっくりに取り囲まれているのだ。どこに逃げればいいのかさえ分からない。
 松ぼっくりたちの舞踏会の中心で、私はただ怯えながら立ち尽くすことしかできなかった。
 そのとき、背中に冷水を注ぎ込まれたかのような感覚に襲われた。体を大きく震わせた私は、おずおずと首を回して右を向く。
 踊り狂う松ぼっくりたち、その奥に『闇』が佇んでいた。
 それはまさに『闇』としか表現できないものだった。その部分だけ空間が切り取られたかのように、どこまでも黒く底の見えない『無』がわだかまっていた。
 物も、音も、そして光さえも呑み込むような『闇』。それがいったいなんなのか分からない。けれど、頭の中でアラームが最大音量で鳴り響いていた。全身の汗腺から、氷のように冷たい汗が染み出してくる。
 ころころと踊っていた松ぼっくりの一つが、その『闇』に触れた。悲鳴じみた笑い声を上げながら、その松ぼっくりが『闇』に吸い込まれる。笑い声が次第に小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。底なしの穴に落下したかのように。
『闇』が膨らんだ。いや、それとも近づいているのだろうか? あたりが薄暗いせいか、距離感がつかめない。
 踊っていた松ぼっくりが、次々と『闇』に呑み込まれていく。
 私は唇を力いっぱい噛んだ。八重歯が薄皮をわずかに破る。鋭い痛みが、断線していた脳と足を結ぶ神経を繋げた。私は地面を蹴って走りはじめた。足元で踊る松ぼっくりを避け、ときには蹴り飛ばしながら足を動かしていく。
 追ってきているだろうか? 走ったまま、首だけ振り返る。背後に、さっきと同じ大きさの『闇』が見えた。
 全然小さくなっていない。追ってきている。恐怖で足がもつれそうになる。
『闇』が巨大な樹の幹に触れた。音もなく、その部分がごっそりとえぐり取られる。喉の奥から「ひっ」という悲鳴を漏らしつつ、私は正面に向き直る。
 目の前に、巨樹がそびえ立っていた。慌てて両手を突き出して激突を防いだ私は、軽く頭を振る。
 樹がない方に向かって走っていたはずなのに……。後ろを向いているうちに、進行方向がずれてしまったのだろうか?
 私は振り向いて『闇』の位置を確認する。そのサイズはさっきより大きくなっているように見えた。しかし、やはり正確な距離が掴めない。
 早く回り込んで逃げないと。正面に向き直ると同時に、口から、「え……?」と呆けた声が漏れる。
 目の前にあったはずの樹が消えていた。両手でその幹に触れていたはずなのに、正面には大きく道が開けていた。
 なにが起こったか分からず一瞬硬直するが、すぐに我に返って走りはじめる。息を乱しながら再び振り返ると、今度は『闇』が心なしか小さくなっている気がした。
 これなら逃げ切れる。あの『闇』に呑み込まれずにすむ。わずかに安堵しつつ、正面に向き直った私は、慌てて足を止める。ずっと開けていたはずの道に、また巨大な樹が立ち塞がっていた。
「なんで……」
 私は慌てて辺りを見回す。ぞわりと全身に鳥肌が立った。周囲に生えている樹の配置が明らかに変わっていた。まるで、それらが勝手に動き回ったかのように。
 私は再度走り出そうと正面を向く。また、立ち塞がっていたはずの樹は忽然と消えていた。
「なんなのよ……、これ?」
 かすれ声を漏らしつつ、せわしなく体を回転させる。
 視界の中で樹が動いているということはなかった。しかし、わずかに視線を外すたびに、そこに生えている樹の配置が大きく変化する。
 この感覚は知っている。『だるまさんが転んだ』だ。子供のときによくやったあの遊戯のように、大樹が私の隙をついて音もなくその位置を変えている。
 視界から遠近感が消えていく。周囲の大樹が、私を押しつぶそうと迫ってきているような錯覚に襲われる。
 いや、これは錯覚なのだろうか? 本当に樹が近づいてきているのではないだろうか?
 棒立ちになる私の鼓膜を、黒板を引っ掻くいたような不快な音が揺らす。
 体を震わせておずおずと振り返った私の、焦点が合わない瞳が、『闇』をとらえる。それはいつの間にか、見上げるほどに膨れ上がっていた。
 いまにも私を呑み込もうとしているかのように。
 ダメだ……。絶望が心を黒く染め上げていく。体が動かない。
 肉食獣に追い詰められた小動物のように、茫然と立ち尽くす私の足元を、不意に小さな影がすり抜けていった。足首を羽毛で撫でられたような感触に、金縛りが解けた。私は反射的に首を回して、小さな影を視線で追う。
 その影は少し離れた位置で止まった。暗くて姿ははっきりしないが、シルエットからすると四つ足の動物のようだ。
「ついてきて!」
 声変わりしていない男児のような、幼い声。それは、明らかに影から聞こえてきていた。
「ついてきてって……」
「いいから早く! それとも、あれに喰われたいの?」
 あれ。近づいてきている『闇』。それとの距離を再度確認しようと、私は首を回しかける。その瞬間、「見ちゃダメ!」と鋭い声が影から飛んだ。
「あれから逃げたければ、走るんだよ。いますぐに全力で走るんだ!」
 声質に似合わない強い口調。思わず、「は、はい!」と返事をしてしまう。
「走れ!」
 その言葉とともに、影が走り出す。反射的に私も地面を蹴った。
 迷路のように立ち並ぶ樹の間をすり抜けていく小さな影を、私はただただ必死に追う。
『闇』を引き離すことはできただろうか?
 後方を確認しようとした瞬間、影が走ったまま、「振り返るな!」と叫ぶ。
「絶対に振り返っちゃだめだ。まっすぐに前だけ、僕だけを見ながら走り続けるんだよ。じゃないと、また樹に衝突して、『あれ』に追いつかれるよ」
「で、でも……、もう限界……」
 私は荒い息の隙間から声を絞り出す。
 運動不足の体で走り続けたため、全身が悲鳴をあげはじめていた。太ももは熱を持ってパンパンに張り、いまにも破裂しそうだ。口の中は砂漠のように乾燥し、必死に酸素を取り込んでいる肺が痛かった。
「それは香苗が限界だと思い込んでいるからだよ。だって、限界になる体なんてないんだからね」
 影は走ったまま呆れ声でつぶやく。
「どういう……こと……?」
「すぐに分かるよ。それより、そろそろゴールだよ」
「ゴール?」
 言われて視線を上げると、薄暗い森の奥からかすかに光が差し込んでいた。
「あそこまで行けば大丈夫。だから頑張ってよ。あと、絶対に振り返っちゃだめだよ」
 あそこまで行けば助かる。休むことができる。体の底にわずかに残っていた気力を振り絞り、私は鉛のように硬く重くなっている足に活を入れる。
 森の切れ目が近づいてきた。大きく飛び上がった影の後を追って、私はまばゆい光の中に飛び込んだ。
 暗闇に慣れた目がくらむ。瞳を閉じた私は羽毛布団のような柔らかいものに、顔から倒れこんでいった。
 もはや、指先さえも動かせる気がしなかった。目を閉じたまま私は、必死に酸素をむさぼり続ける。
 やがて、呼吸が落ち着いてくる。瞼を上げ、まだ震える手をついて上半身を起こした私は息を呑んだ。
 そこには黄金色の海が広がっていた。
 手をついている地面を撫でる。ビロードの絨毯じゆうたんのような滑らかな感触とともに、金の光が煌めいた。
「……クローバー?」
 水面に見えたもの。それはクローバーの葉だった。
 体が浮くほどに密集して生えている半透明のクローバー。その上に私は倒れ込んでいた。
 おそるおそる一本千切って、顔の前に持ってくる。宝石のように煌めくその葉は、四つに割れていた。
 幸せの象徴、四つ葉のクローバー。
 一本だけではない。よくよく見てみると、辺りに生えているクローバーすべてが四つ葉だった。
 私は手にしている葉を、指先でつまんでみた。フェルトのように柔らかく潰れたその葉は、内包していた七色の光を吐き出す。虹の滴が弾けたかのような美しさに、しばし魅入られてしまう。
 ガラス細工のように透明で柔らかいクローバーの葉。それらに金色の光が降り注ぎ、きらきらと乱反射をして、黄金色の海原が広がっているかのように見えている。
「なんとか逃げ切れたみたいだね」
 あまりに幻想的で非現実的な光景に見蕩みとれていた私は、はっと顔を上げる。すべてを呑み込むようなあの『闇』、あれはもう追ってきていないのだろうか?
 振り返った瞬間、小さく悲鳴を上げてしまう。クローバーの海原と暗い森の境目、私が倒れている位置からほんの少ししか離れていない場所に、『闇』が揺蕩たゆたっていた。それはいつの間にかそびえ立つほどに巨大に膨れ上がり、森の奥が見通せなくなっている。いや、もしかしたら森の内部にあった無数の大樹、踊り狂っていた松ぼっくり、そして落ち葉が敷き詰められた地面さえも『闇』に呑み込まれ、消えてしまったのかもしれない。
 もはや森の境目に立ち並ぶ樹の向こう側には、巨大な穴が開いているようにしか見えなかった。
 底なしの巨大な深淵。
 私はクローバーの葉の上を這うようにして、『闇』から距離をとる。そのとき、頬に高級なタオルで撫でられたような柔らかい感触が走った。
「大丈夫だよ。あいつはいまのところ、こっちには来られないみたいだからさ」
 耳元で、あの小さい影の声がささやく。反射的に横を向くと、黒目がちな、つぶらな瞳と視線が合った。
 そこには、見たことのない生物がたたずんでいた。
 基本的なフォルムは猫そのものだ。小柄な体を薄いクリーム色の柔らかい毛が覆っている。しかし、その耳は猫ではあり得ないほどに長く、垂れ下がり、足元のクローバーに触れそうだった。
 ウサギの耳を持った猫。それ以外に、その生物を表す言葉は見つからなかった。
 こんな動物みたことない。しかも、この生物は人の言葉を話すことができる。
 私はうさぎ猫を見つめながら、おずおずと口を開いた。
「あなたはいったい……?」
「僕はククルだよ。君のククルだ。よろしくね、香苗」
 彼は挨拶でもするかのように片耳をぴょこんと挙げた。
(第3回につづく)

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知念 実希人Mikito Chinen

1978年、沖縄県生まれ。東京慈恵会医科大学卒、日本内科学会認定医。2011年、第4回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、12年、受賞作を改題した『誰がための刃 レゾンデートル』で作家デビュー。15年には『仮面病棟』が啓文堂書店文庫大賞を受賞しベストセラーとなり、18年に『崩れる脳を抱きしめて』が本屋大賞にノミネートされる。

近著に『祈りのカルテ』『ひとつむぎの手』『火焔の凶器 天久鷹央の事件カルテ』がある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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