双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第8章

 闇の中で声が聞こえる。聞き慣れた声。
「早く起きてよね。あなたがいないと、人手不足で困るんだから」
 ……華先輩? 
 扉が閉まる音が聞こえる。私は薄目を開けた。やけに白い天井が目に入ってくる。
 横になったまま目だけ動かして私は周囲を見回す。頭側の壁には、ナースコールのスピーカーと並んで、酸素の供給バルブと喀痰かくたん吸引用のプラスチック容器が備え付けられている。ベッドのすぐ横には床頭台が置かれ、ベッド柵に取り付けられた名札には、『神経内科 識名香苗  主治医 杉野華』と記されていた。
 華先輩が主治医で、私が患者? 
 状況がつかめないまま、私は上体を起こす。はだけた毛布から現れた体は、入院着に包まれていた。手首には患者用のタグが巻かれ、前腕には点滴針が刺さっている。
 私、入院している? 天井から伸びた点滴棒にぶら下がっているパックから流れてくる透明な液体が、プラスチック製の細いラインを通り、静脈へと流れ込んでいくのを眺めながら、私はようやく状況を理解する。
 なんで、入院しているんだろう。たしか、マブイグミをするために環さんの病室に行き、夢幻の世界で鍵盤の道を通って……。額に指先を当てて記憶をたどっていた私の喉から、しゃっくりをしたような音が漏れる。
 ……少年X。環さんの記憶の中でその名を聞いた私は動けなくなって、ククルに現実世界へと送り返された。
 記憶が鮮明になっていくにつれ、部屋の空気が薄くなっていくような気がする。息苦しさをおぼえ、首元に手を当てた。
 なんで少年Xが、私から大切な人を奪ったあの男が出てくるのか分からない。私はただ、特発性嗜眠病の患者さんたちを救いたかっただけだ。それなのに……。
 割れるような頭痛をおぼえ目を閉じる。まぶたの裏に、あの日の光景が鮮明に映し出された。蜥蜴とかげのような瞳で私を見つめる少年の姿。粘着質な恐怖に全身にべとつくような感覚が走る。
 シャワーを浴びたい。いや、シャワーだけじゃこの肌にまで染み込むような恐怖は消せない。いっそ、自分の皮膚をぎ取ってしまいたい。
 身の置き場のない苦痛が過ぎ去るのを、ただ身を縮めて待っていると、扉の開く音が聞こえた。そちらを見た瞬間、苦しさがいくらか弱まった。
「やあ、香苗君。目が覚めたようだね」
 車椅子に乗ったこの病院の院長、袴田先生は朗らかに言う。
「けど、まだ顔色が悪いな。少し横になっていた方がいい」
 両手でホイールを回して、袴田先生がベッドに近づいてきた。私は言われた通り、起こしていた上半身を横たえる。袴田先生の声を聞くほどに、苦痛が希釈されていく。
「覚えているかな。君は加納環さんの病室で気を失ったんだよ。おそらくは疲労による脳貧血だろう。とりあえず私の判断でこの部屋に入院させて、休んでもらうことにした。主治医は杉野先生が引き受けてくれたよ」
「すみません、御迷惑をおかけして」
「謝るのはこっちの方だよ」
 袴田先生はかぶりを振る。
「倒れるまで医者を働かせたとしたら、その責任は院長である私にあるんだからね」
 違う。たしかに心身ともに疲労はしていたが、倒れた直接の原因は、これまでにないほどリアルなフラッシュバックのせいだ。しかし、それを袴田先生に話すことには躊躇いがあった。
 トラウマに苦しんできた私は、袴田先生の治療によって救われた。にもかかわらず、再び二十三年前のあの日の出来事に囚われていることが、治療を無駄にしてしまったような気がしていた。けれど、いまここで相談することができたら、袴田先生は進むべき道筋を示してくれるかもしれない。
 いままで、そうしてきてくれたように。
 どうするべきか迷っていると、袴田先生は手を伸ばして額に触れてくれた。
「なにか言いたそうな顔だね。もし悩みがあるなら、話を聞くよ。私は君の主治医でもあるんだからね」
 額に伝わってくる温度が、迷いを溶かしてくれる。私は言葉を選びながら話しはじめる。
「最近、夢を見たんです。……少年Xについての夢を」
 正確には環さんの記憶でだが、あれは夢の世界、夢幻の世界の出来事だ。嘘はついていないだろう。
「少年X……」袴田先生の表情が、わずかに硬くなる。「つまり、またあの事件の夢を見るようになり、消耗してしまったのが今回倒れた原因だということかな?」
「はい、……そんな感じです」
 私が曖昧に頷くと、袴田先生は口を固く結んで黙り込んだ。
「あの、本当にすみません……。せっかく先生が治療してくださったのに、また症状を悪化させたりして」
 重い空気に耐えられなくなり、おずおずと謝ると、袴田先生は私の目をまっすぐに覗き込んできた。
「香苗君、これは症状が悪化してるんじゃない。その逆だよ」
「逆……ですか?」
「ああ、そうだ。この前も言っただろ、私はトラウマを心の奥底にある抽斗ひきだしの中に隠す手伝いをしただけだと。いつか君は、そのトラウマと正面から向き合い、克服する必要があると」
 私は「はい」とあごを引く。
「君に起きている症状は、きっとそれなんだよ。特発性嗜眠病という、トラウマを想起させる疾患の患者の主治医となり、そのうちの二人を目覚めさせた。その過程で、君は医師として、人として成長し、強くなっていったんだ。ずっと苦しんできたトラウマと対峙できるまでにね」
 袴田先生のセリフに力が籠っていく。それにつれて、私の心も熱を帯びはじめた。
 飛鳥さん、佃さん、そして環さん。三つの夢幻の世界を彷徨い、三人の人生を追体験してきた。三人と一緒に苦しみ、喜び、悲しんでいくうちに、たしかに私は成長したのかもしれない。
 もしかしたら、自らの身に起きた悲劇を受け入れられるほどに。
「トラウマに向き合うのは容易なことではない。特に君のように、幼少期にとてつもなく悲惨な経験をした場合は。これから君はとてもつらい思いをするだろう。ただ、それを乗り越えたとき、君は本当の意味で救われるはずだ。分かるね」
 私はシーツを固く掴んで覚悟を決めると「はい!」と声を張る。
「いい返事だ。ただ、そのためにもまずは心身を回復させる必要がある。とりあえず今日はこの病室で休み、明日から二、三日休みを取って実家に帰って療養しなさい」
「え? いや、そこまでしていただかなくても。明日からまた仕事に戻ります」
「おいおい、香苗君」
 芝居じみた態度で袴田先生は両手を広げる。
「さっきも言ったように、働きすぎて君が倒れたら、院長である私の責任になるんだよ。もしかして、私を院長の椅子から引きずり下ろすつもりかな。車椅子が必要な体になったとはいえ、頭がまだしっかりしているうちは、院長の座は誰にも譲るつもりはないよ」
「いえ、私はそんな……」
「それなら、しっかり休みなさい。体はこの病院でも回復することができるが、心を回復させるには大切な家族と会うのが一番だ。そうだろう」
 袴田先生はちょっと気障にウインクする。
 たしかに実家のみんなに会えば、この心の苦しみも癒されるかもしれない。二十三年前のあの事件のとき、ともに苦しみ支えあった家族なのだから。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
 袴田先生は「ああ、それがいいよ」と薄い唇に笑みをたたえた。
「さて、疲労で倒れた患者をあまり起こしていると、杉野先生にどやされるな。そろそろ失礼するよ」
 袴田先生は車椅子を回転させる。私はその背中に声をかけた。
「あっ、袴田先生。レント君の様子はどうですか?」
「レント?」
 袴田先生は振り向くことなくつぶやく。
「あの……、血塗れで救急外来に運ばれた子です。先生が主治医になって下さった……」
「ああ、彼のことか。とくに変化はないよ。心を開くにはかなり時間がかかるだろう」
 どこか突き放すような口調に戸惑っていると、袴田先生は出口の前まで車椅子を進める。
「あ、あと、もう一つだけうかがいたいことがあるんですけど」
 ドアハンドルに手を伸ばす袴田先生に私は慌てて言う。袴田先生は「なにかな?」と、やはり振り返らずに言った。
「特別病室に入院している特発性嗜眠病患者さんのことは、やっぱり教えて頂けないんでしょうか?」
 緊張しつつ、私はおそるおそる訊ねる。
 環さんのマブイグミを成し遂げるためには、彼女が巻き込まれた事件の真相を知ることが重要だ。久米さんは本当に殺人犯だったのか? 彼はいま一体どこにいるのか?
 もしかしたら、最後の特発性嗜眠病患者は久米さんなんじゃないか。私はその可能性に思い至っていた。
 久米さんが実際に人を殺したのかは分からない。ただ、少なくとも警察は彼を殺人犯として追っている。
 精神鑑定医として信頼されている袴田先生に、昏睡状態に陥った指名手配犯を治療するよう、警察が頼んできたのかもしれない。もし、そんな情報が外部に漏れたりすれば、マスコミが病院に殺到するだろう。だからこそ、あそこまで徹底的に患者をかくまっている。そう考えれば納得できる。
 もし久米さんが最後の患者だとしたら、彼の夢幻の世界に這入り込み、記憶を覗けばすべてがはっきりする。彼が本当に殺人犯なのかも、いまも続いている連続殺人事件の真相も、そしてきっと、この事件に少年Xがどうかかわっているかも。
「もしかしたらなんですけど、あの部屋に入院している患者さんは、……久米っていう名前だったりしませんか」
 私は軽く身を起こして、袴田先生の背中を凝視する。答えてくれなかったとしても、体から発する雰囲気で、想像が正しいのかどうか判断するために。
「……なんで知りたがる?」
 腹の底に響くような声が部屋の空気を揺らす。すぐにはそれが袴田先生の声だとは気づかなかった。それほどに、その声は危険な色をはらんでいた。
 ホイールを操作してゆっくりと振り返った袴田先生の表情には、これまで見たことないほどの怒りが刻まれていた。
「二度と、あの患者のことを口にするんじゃない。分かったね」
 脅しつけるように言う袴田先生を前に、私は唖然として答えることができなかった。目の前にいる男性が、本当にいつも支えてくれた主治医なのかさえ、確信が持てなくなっていた。
「分かったのかと聞いているんだ!」
 怒声が壁に反響する。私は「はい!」と身をすくめた。
「ならいい。いま言ったことを忘れないようにしなさい」
 袴田先生は私を睨みつけたまま部屋から出ていった。扉が閉まっても、私は動けなかった。いま起きたことが現実か分からなかった。
 体の奥底から震えが湧きあがり、視界が滲んでくる。
 いつも優しかった彼が、あんなに急変するなんて……。
 漏れそうになった嗚咽を、私は噛み殺すと、目元を力強く拭った。
 袴田先生にあんな態度を取られたことはつらいが、いまは悠長に落ち込んでいる場合じゃない。温厚な彼がなぜ豹変したのか、それを考えるんだ。
 数週間前なら、ユタとなってマブイグミをはじめる前の私なら、尊敬する人から怒鳴られたことの衝撃でなにも出来なくなっていただろう。けれど、いまは前を向くことができている。
 袴田先生に言われた通り、私は強くなっているのかもしれない。
 大きく息をつくと、このあとの行動について頭の中でシミュレーションをしていく。
 少なくとも、袴田先生から最後の特発性嗜眠病患者について情報を引き出すのは無理だろう。彼があそこまで過敏に反応するということは、その患者には絶対に公にできない秘密が隠されているはずだ。
 特別病室にいるのは、久米さんなのだろうか? たとえ、警察に依頼されて殺人犯を入院させているとしても、袴田先生はあそこまで激怒するとは思えない。
 それでは、警察にすら情報を隠しているとしたらどうだろう? もし、指名手配犯を通報することなく匿っていたりすれば、袴田先生が過敏になるのも分からないでもない。警察にばれれば病院全体の責任問題になる。マスコミが病院に殺到し、関係者全員が非難の嵐に巻き込まれるだろう。
 もし、その仮説が正しいとしたら、特別病室にいるのは誰なのだろう?
 久米さんである可能性は低い。そこまでのリスクを冒して彼を匿う理由がない。それなら……?
「病院関係者……?」
 口から言葉が零れる。特別病室に入院しているのが関係者、しかも病院にとって重要な人物であれば、袴田先生や華先生の態度も分からないでもない。
 大きな犯罪に手を染めたVIPを特別病室に匿っている。それが答えなのではないだろうか。
「あの連続殺人事件にかかわっているらしいのよ」
 数週間前、華先輩から聞いた情報が頭に蘇る。
 まさか、恐ろしい連続殺人の犯人が最後の患者……? そこまで考えたところで、私は軽く頭を振る。
 そんなわけがない。最後の特発性嗜眠病患者が昏睡状態だったこの二か月間の間にも、犯行は続いている。特別病室の患者が犯人であることはあり得ない。なら、その患者はいったいなにをしたというのだろう? 
 謎の患者、いまも続く連続殺人事件、そして少年X。
 思考が絡まりあい、額が熱くなってくる。
 だめだ、疲れ切った頭で答えが出るような問題じゃない。まずは体を休ませよう。さっき袴田先生に勧められた通り、明日退院の許可が出たら、実家に戻って父さんのカレーを食べ、きなこやハネ太と戯れ、おばあちゃんに相談しよう。
 私は手を伸ばして床頭台に置かれているスマートフォンを取ると、履歴から父さんの番号を出し、『通話』のアイコンに触れる。しかし、すぐに『この番号は現在電源が入っていないか、電波が届かないところに……』という案内が聞こえてきた。
 私は首を捻りながら回線を切る。そう言えば、環さんのマブイグミをする前に電話をかけたときも繋ががらなかった。もしかしたら、携帯電話を落としたか壊したかしたのかもしれない。
「父さん、ちょっと抜けてるところあるからなぁ」
 もし明日も電話が繋ががらないなら、直接帰るしかないか。それだと、父さんが準備する余裕がないので、カレーにはありつけなくなるけど仕方ない。逆に少し早めに帰って、私が夕飯の支度をしてもいいかもしれない。たまには親孝行しないと。
 そんなことを考えていると、さっきまで頭を支配していた殺伐とした出来事も忘れることができた。明日の献立を考えつつ、私は目を閉じた。睡魔が優しく体を包みこみはじめたとき、勢いよく扉が開く音が響いた。私は驚いて瞼を上げる。
「香苗センセ!」
 背中を丸めて前傾した姿勢で少女が、快活な声とともに部屋に入ってくる。この病院に入院している患児である角畝瑠奈子ちゃんだった。
「瑠奈子ちゃん? どうしてこんなところに?」
「香苗センセが入院したって聞いたから、お見舞いに来たの。元気になった?」
 瑠奈子ちゃんは体を前傾させたまま、かかとを浮かしてひょこひょこと近づいてくる。おそらくは神経難病のせいでそんな特徴的な歩き方になっているのだろう。 
「あ、ありがとう。でも、病室抜け出して一人で来ちゃだめだよ」
「一人じゃないよ」
 瑠奈子ちゃんは首を振る。
「じゃあ、看護師さんに連れてきてもらったの?」
 瑠奈子ちゃんは、「ううん」と言うと、振り返って扉を見る。
「もう入ってきてもいいよ」
 緩慢な動きで引き戸が開いていく。部屋に入ってきた人物を見て、私の口から驚きの声が上がる。
「レント君?」
 瑠奈子ちゃんが連れてきたのは、血塗れで搬送されてきた少年だった。
「そう、レント君。香苗センセに会いたいって言うから一緒に来たんだ」
「だめだって、勝手にそんなことしちゃ。看護師さん呼んで、もとの病棟に連れて行ってもらうね」
 入院中の患児が二人も姿を消したら、病棟はパニックになる。しかも、レント君に至っては、殺人事件を目撃している可能性もあるし、そうでなくても酷い虐待を受けているのだ。病室にいないことが分かったら、誘拐されたと誤解され通報されるかもしれない。
 私がナースコールのボタンを手に取ると、瑠奈子ちゃんが「待って!」と甲高い声を上げる。ボタンを押し込みかけていた親指の動きが止まる。
「ちょっとだけでいいから、この子の話を聞いてあげて。香苗センセに話したいことがあるんだって」
「私に話したいこと?」
 私はボタンを床頭台に置くと、ベッドから降りる。少し足がふらつくが、倒れるようなことはなかった。
 私は床にひざまずき、レント君と目の高さを合わせる。
「どうしたの、レント君。なにかお話があるのかな?」
 刺激しないよう、できるだけゆったりとした口調で訊ねると、レント君は落ち着きなく左右を見回したあと、おそるおそる近づいてきた。おぼつかない足取りから、彼が負った精神的な傷を感じ、胸が締め付けられる。
 私の目の前で足を止めたレント君は、視線から逃げるようにうつむいてしまう。私はそっと彼の頭を撫でた。柔らかい髪の感触が掌に広がる。
「大丈夫だよ。もう、大丈夫だからね。なにか困ったことがあったら、お姉さんに言ってね」
 固く結ばれていたレント君の唇から力が抜け、わずかに開く。その隙間から、気を付けなければ聞き逃してしまいそうなほどか細い声が漏れだした。
「……パパとママがやったの」
 胸の痛みがさらに強くなる。
「うん、分かってるよ。パパとママに虐められたんだよね。つらかったよね」
 こんな幼い子に、苛烈な虐待を加えるなんて……。きっとレント君は、虐待に耐えかねて家から逃げ出し、一人で彷徨っているところで殺人事件に遭遇してしまったのだろう。そしていま、レント君の心は壊れかけている。彼の両親に対する怒りがふつふつと湧き上がってくる。
「……違うの」
 レント君は俯いたまま声を絞り出した。
「パパとママが……殺したの」
 全身の毛が逆立ったような気がした。すぐには、なにを言われたのか理解できなかった。硬直する私の前で、レント君の体が細かく震えだす。
「パパとママが、男の人を殺したの。その人は大きな声をあげて逃げようとしたけど、パパとママが捕まえて……。体がどんどんバラバラになっていって……。雨みたいに血が降ってきたの。ぬるぬるして、べたべたして、気持ち悪くて……」
 レント君の震えがみるみると強くなっていく。救急部で恐慌状態に陥ったのと同じ状況。
 私はとっさに振り向いて、床頭台に置いたナースコールのボタンを掴もうとする。しかし、その前に小さな体が胸に飛び込んできた。
 抱き着いて来たレント君を、私は両手で包み込む。想像以上に華奢きやしやな体だった。力を入れれば折れてしまいそうなほどに。きっと、栄養状態も劣悪だったのだろう。
「大丈夫だよ、大丈夫」
 私は全身を使ってレント君を抱きしめながら、その耳元に囁き続ける。やがて、こわばっていた彼の体から、少しずつ力が抜けていった。痙攣のような震えもおさまってくる。
 いまの話をどう理解すればいいのだろう?
 レント君の背中に回した両手をゆっくりと上下に動かしながら、私は思考を巡らせる。
 レント君の両親が、何ヶ月も前から続いている連続殺人事件の犯人。そんなことがあり得るのだろうか?
 私はネットニュースなどで収集した、連続殺人事件の概要を思い出す。被害者たちは人気のない場所で襲われ、そして遺体の原形がなくなるほどの暴力によって蹂躙されている。それほど凄惨で無秩序な犯行にもかかわらず、現場には何一つ犯人に繋ががるような証拠は残されておらず、前回のレント君を除いて事件の目撃者もいない。
 実体のない怪物のような殺人犯が、レント君に虐待を加えた両親だとは、私にはどうしても思えなかった。体幹には虐待の痕跡が見られるレント君だが、顔には傷一つない。それは虐待の事実を他人に気づかれないように、顔を避けて殴っていたのだろう。そんな卑怯で小賢こざかしい悪人が、あそこまで暴力的な犯行を起こせるとはとても思えない。
 でも一応、警察には伝えておいた方がいいだろうか。
 レント君の体温を感じながら私は考え続ける。連続殺人犯はいまだに逮捕されることはなく、恐ろしい犯行をくり返している。これ以上の犠牲者を出さないためにも、どんなわずかな情報でも警察は欲しているはずだ。
 数十秒迷った末に、私は結論を出す。
 警察に言うのはやめよう。やはり、レント君の両親が連続殺人犯なわけがない。殺人現場の目撃というショッキングな出来事により、レント君は混乱状態に陥り、記憶の混濁が起こったのだろう。彼の頭の中では、恐ろしい殺人鬼の姿が両親の姿に書き換えられたのだ。
 レント君にとっては、両親は怪物そのものだから。
 そんな情報を伝えたところで、捜査が混乱するだけだ。それに、レント君が証言できると知ったら、この前の園崎とかいう刑事のように、話を聞かせろと警察が押しかけてくるに決まっている。まだ精神が回復していないレント君に、そんなストレスを与えるわけにはいかない。
「もう、怖いことは話さなくていいんだよ。思い出さなくていいんだよ。ここは安全なんだからね」
 震えが完全に消えたのを見計らって、私は慎重にレント君から体を離す。彼はいまもうなだれたまま、迷子のような表情をさらしていた。私はレント君の青ざめた頬に触れる。指先に頬骨の硬さが伝わってくる。
「心配しなくていいよ。私たちがあなたを守ってあげるから。私たちがあなたを助けてあげるからね」
「お姉ちゃんが……助けてくれるの……?」
 レント君は上目遣いに視線を送ってくる。
「そうね、私も助けてあげるけど、一番頼りになるのは、院長先生かな」
 ついさっき見た、袴田先生の怒りの表情が頭をよぎるが、私はなんとか笑顔を保つ。
「だからレント君、困ったことがあったら院長先生にお話ししてあげてね」
「やだっ!」
 唐突に大きな声を上げると、レント君は幼児のように激しく首を左右に振りはじめる。
「どうしたの、レント君。院長先生は優しいよ。レント君を守ってくれるよ」
「やだ! 絶対にやだ! やだやだやだやだ……」
 再びパニックになりかけたレント君を前に、私は呆然とする。
「どうしたの? 院長先生に怒られたの?」
 動揺しつつ訊ねるが、レント君は首を横に振るだけだった。いったいなぜ、袴田先生にここまで拒絶反応を示すのだろう。
「院長先生って、あの車椅子に乗ってる人でしょ?」
 ずっと黙っていた瑠奈子ちゃんが口を挟んでくる。私が「そうだけど……」と答えると、瑠奈子ちゃんはやけに大人びた仕草で肩をすくめた。
「私もあの人、嫌いだな。なんか怖いし、気持ち悪いよ」
 私が「気持ち悪いって……」と絶句していると、瑠奈子ちゃんは前傾姿勢のままレント君に近づき、その肩にポンと手を当て、顔を軽く抱いてやる。それだけで、頭を抱えていたレント君の叫び声がおさまった。こわばっていた彼の表情も弛緩していく。
 あまりにも鮮やかな手口に私が目を丸くしていると、瑠奈子ちゃんは「ねえ、香苗センセ」と声をかけてきた。私は思わず「はい!」と背筋を伸ばす。
「センセはどう思っているのか知らないけどさ、私たちはあの人が怖いの。なんか、嫌な目で見てくるし、なに考えているか分からないしさ」
 たしかに、精神科医としての習性なのか、袴田先生はときどきこちらの心の底まで読み取ろうとするような眼差しを向けてくることがあった。子供にとっては、それが怖いのかもしれない。
「だからさ、レント君があの人を好きになるのは無理だよ。この子が信用しているのは香苗センセだけなんだ。だから言ってあげてよ。『どんなことがあっても、私が助けてあげる』ってさ」
 瑠奈子ちゃんに促されて口を開くが、言葉が出てこなかった。心身ともにボロボロになったレント君を、私なんかが救うことができるだろうか? 迷いが舌の動きを止める。
 両親に、社会に裏切られ続けてきた少年に、適当な口約束などできなかった。すがるような目で見つめてくるレント君の前で、私は言葉に詰まる。
「ねえ、香苗センセ」
 諭すような口調で瑠奈子ちゃんが言う。
「約束してあげてよ。香苗センセならきっと、この子を助けてあげられるからさ。というか、香苗センセじゃなきゃ、この子を助けられないんだよ。だからさ、自信を持って」
 自信を持て……か。たくさんの人にそうアドバイスを受けてきた。
 父さん、おばあちゃん、華先輩、袴田先生、そして……。
――もっと自信を持ちなよ。なんといっても、香苗はもう、一人前のユタなんだからさ
 脳裏でうさぎ猫がその可愛らしい姿に似合わない、ニヒルな笑みを浮かべる。体が軽くなった気がした。私はレント君に微笑みかける。
「大丈夫だよレント君、私が助けてあげるからね」
 自然とその言葉が口から溢れた。レント君は俯いていた顔を上げると、わずかに、本当にわずかに薄い唇に笑みを浮かべた。
「よし、それじゃあそろそろ行こうか」
 瑠奈子ちゃんはレント君の手を取ると、引きずるようにして出口へ向かう。「え? もういいの?」
「だって、早くもどらないと看護師さんに見つかって怒られちゃうでしょ。じゃあね、香苗センセ」
 瑠奈子ちゃんは引き戸を開けると、レント君を連れて出ていく。
「それじゃあ、香苗センセ。いろいろ大変だと思うけど、頑張ってね。応援してるよ」
 扉が閉まる寸前、瑠奈子ちゃんは猫を彷彿させる大きな目で、悪戯っぽくウインクをした。
「頑張るって、なにを?」
 狐につままれたような気持で首を傾げながら、私は閉まった扉を眺め続けた。
 上腕の静脈に差し込まれていた点滴針が引かれていく。鈍い痛みに、頬の筋肉が引きつってしまう。
「はい、お疲れ様」
 点滴針を抜き終えた華先輩が明るい声で言う。
「ありがとうございます。先輩のおかげで元気になれました」
 私が頭を下げると、華先輩は肩をすくめた。
 翌日の午前、私は退院のために、華先輩から診察を受けていた。
「私はなにもしてないけどね。それより、元気になったって言っても、仕事とかしないで、ちゃんと実家で明後日まで休むのよ。それが退院の条件なんだからね」
「分かっています。ちゃんと休みます」
 華先輩は「なら、よし」と私の背中を叩いた。
「ちなみに、実家まではどうやって帰るつもり。タクシー?」
「いや、さすがにタクシーじゃ高すぎるんで電車を使います」
「大丈夫なの? 病み上がりなのに」
 華先輩の眉間にしわが寄る。
「大丈夫ですよ、ちゃんと座れるように指定席取りますから」
「なんなら、グリーン車使いなさいよ。なによりも休養が大事なんだから」
 私は「はい、ありがとうございます」と再び頭を下げる。
「まったく、返事だけはいいんだから」
 苦笑して病室を出ていこうとする華先輩に、私は「あの……」と声をかける。
「ん? どうしたの? あんたの担当患者のことなら任せておいて。代理としてちゃんと診ておくからさ」
「いえ、そうじゃなくて……」
 言葉を濁した私は、一度深呼吸をすると覚悟を決めて口を開く。
「特別病室に入院している特発性嗜眠病患者がどんな人なのか、やっぱりまだ教えてもらうわけにはいかないんですか?」
 華先輩の表情が硬くなっていくのを見て、私は身をすくめる。しかし、怒声が飛んでくることはなかった。
「本当にしつこいね、香苗ちゃんは。なんでそんなにあの患者にこだわるのよ?」
 華先輩はこれ見よがしにため息をつく。
「それは……、やっぱりなにか治療の参考になるかもとか……」
 マブイグミや、その過程で知ったことなど説明できるわけもなく、しどろもどろになってしまう。華先輩は「まあ、いいけどさ」と首筋を掻いた。
「え? 誰だか教えてくれるんですか?」
「それはだめ。まだそのタイミングじゃないから」
 華先輩は胸の前で両手を交差させる。私は失望すると同時に、華先輩が思いのほか軽い口調で答えてくれたことに安堵していた。
「そのタイミングって、じゃあいつならいいんですか?」
 私が唇をとがらせると、華先輩は「そうだなぁ……」と腕を組む。
「香苗ちゃんが担当している三人目の特発性嗜眠病患者さん、たしか加納環さんだっけ? 彼女が目覚めたら考えてあげる。準備が出来たってことだから」
「本当ですか!?」
 私は声を張る。準備とはなんのことか分からないが、最後の特発性嗜眠病患者に会えるかもしれない。
「どうしたのよ、そんな大声出して。びっくりするじゃない」
 華先輩は眼鏡の奥の目を丸くした。
「だって、絶対に教えてくれないと思っていたんで……。昨日、袴田先生に訊いたら、すごく怒られたし」
「怒られた? ああ、まったくあの親父は」
 華先輩は苛立たしげに髪を掻き上げると、ぐいっと私に顔を近づけてくる。
「香苗ちゃん、あんな奴のこと気にしなくていいからね」
「あんな奴って……」
「治療を受けて救われたあんたが、院長を尊敬するのは理解できるよ。私もなんだかんだ言って、医者としての院長は尊敬してる。でもね、あの男には裏の顔もあるってことをおぼえておきなよ」
「裏の顔って、どういうことですか?」
「聖人面しているけどさ、じつはその裏でろくでもないこと企んでいたりするってこと」
 華先輩は虫でも追い払うように手を振る。
「そんな……」
「ああ、そんなつらそうな顔しなさんなって。あくまで私の意見だって。あんたにとっては確かに尊敬すべき人なのかもしれないね。私が言いたいのは、どんな人間だって多面性を持っているってこと。だから、油断はしないようにね。香苗ちゃんにもそのうちに分かるからさ」
 あまりにも曖昧なアドバイスに、私は「はぁ」と生返事をする。
「そもそもね、特別病室にいる患者だって、別にそこまでして隠す必要なんてないんだよ。香苗ちゃんだって知っている人なんだからさ」
「私が知っている人!?」
 突然出てきた大きな手掛かりに、声が裏返る。
「うん、そうだよ。香苗ちゃんもよく知っている人」
「誰なんですか、それは!?」
 勢い込んで訊ねると、華先輩は人差し指を立てて左右に振る。
「だから、それについてはもう少し待ちなさいって。まずは仕事のことは忘れて、実家でゆっくり休んできなさい。そうすれば、色々とうまくいくだろうからさ」
 私が「でも……」と食い下がろうとすると、華先輩は私の眉間をつついた。
「それ以上反抗するなら、退院取り消しにするよ。もう一晩この殺風景な部屋に泊まるのと、実家でゆっくり過ごすの、どっちを選ぶの」
「……実家で過ごします」
 渋々と答えると、華先輩は柏手でも打つように、胸の前で両手を合わせた。
「よし、それじゃあ決まり。行ってらっしゃい」
 ぱんっという小気味いい音が鼓膜を揺らした。



『おかけになった番号は、現在電源が切られているか……』
 今日だけで何度聞いたか分からない音声案内が流れてきたのを聞いて、私は回線を切る。
 病院をあとにし、少し奮発してグリーン車を使って実家の最寄り駅までたどり着いた私は、土砂降りの雨の中をビニール傘をさして歩いていた。アスファルトに跳ね返った雨粒が足元を濡らしていく。パンプスの中に水が溜まり、踏み出すたびにぱちゃぱちゃと音を立てるのが不快だった。
 病院を出てからも、何度か父さんの携帯電話に連絡を取ろうとしたのだが、最終的に一度も繋ががることはなかった。とりあえず、メールも送っておいたが、この調子では読んでいるのか怪しいところだ。
 私は父さんからメールの着信がないか確認する。フォルダの中に、一昨日父さんから送られてきたメールがある。私は何となく、そのメールを開いてみた。

『そろそろ時間だよ 準備を整えてな』

 このメールを受信して以降、父さんからの連絡はない。いったい、これはどういう意味なんだろう。あとで直接聞けばいいと思って、深く考えていなかったが、あらためて見ると、なんとなく気味が悪かった。
「なんの時間なの?」
 つぶやきながらスマートフォンをバッグにしまった私は、雨の中を歩きながら夢幻の世界で見た、環さんの記憶を思い起こす。華先輩のアドバイスに従って、いまは仕事のことも事件のことも考えないようにと思うのだが、どうしても思考がそちらに引きつけられてしまう。
 そういえば、久米さんが少年Xだったかもしれないという情報にショックを受けて忘れていたが、環さんの記憶の中で、倉庫に貼られた中年男性の写真には、すべてノイズがかかっていた。その人物の顔を隠すかのように。
 なぜ、被害者の顔だけ見えなかったのか分からない。そう言えば、ネットニュースなどでも、その人物の情報はほとんど載っていなかった。
「なんでだろ?」
 つぶやいた瞬間、目の前に閃光が走った。私は呻き声をあげてこめかみを押さえる。
「なんなの……いまの……?」
 一瞬、頭の中で映像が弾けたような気がした。フラッシュバックに似た感覚。ただその映像がトラウマになった記憶ではなく、見たことのない光景だった。
 こめかみに電流が走ったかのような衝撃とともに、再び脳内に映像が流れ込んでくる。色がなく、ところどころノイズが入るその映像。意識を集中すると、音声すら伴っていることに気づく。
 その現象は、映写機で古い白黒映画を頭蓋骨の裏側に投影しているかのようだった。
 ダイニングテーブルの前に座った人物の目から見た映像。おそらく、手の感じからすると男性だろう。
 男の手がテーブルの上に置かれた郵便物の山に伸ばされ、一番上に置かれていた封筒を取る。映像にノイズがかかり、宛名は読めなかった。
 なにがいるのか分からないまま、映像は進んでいく。
 男は少し迷ったあと、封筒を破いていく。紙の繊維が千切れていく音が、私の耳でなく、直接頭に聞こえてくる。
 中には契約書のようなものが入っていた。男はそれを上から下に丹念に眺めては、裏返して背面まで確認している。
 戸惑っている気配が伝わってくる。そのとき、扉が開く音が聞こえてきた。
 男の手が落ち着きなく動き、まずは封筒をわきにあったゴミ箱へと捨てると、持っていた書類を強引にまとめてズボンのポケットへと押し込む。その瞬間、電源が落ちたかのように、脳内で流れていた映像が消え去る。
 気づくと、私は雨のなかに立ち尽くしていた。さしていたビニール傘は、いつの間にかわきに落ちている。容赦なく降りつけてくる雨粒が髪を濡らし、頬からあご先にかけて水の流れが出来上がっている。
 すぐに傘を拾うことはできなかった。いま起こったことの意味が分からず、ただ雨に打たれていた。
 いまのは、なんだったのだろう。誰かの記憶を見たようだった。
 マブイグミの際も囚われているククルに触れて記憶を見てきたが、その際は俯瞰的に眺めている感じだった。それに比べて、いま起きた現象では、白黒映画のようにやや粗い映像ではあったが、極めて主観的に追体験することができた。
 いったいなにが起きているのだろう。不安をおぼえつつ、私は腰を曲げて傘を手に取る。ここまで濡れてしまっては、いまさら差しても意味はない。私は傘を引きずりながら、とぼとぼと歩き続ける。ビニール傘の先端がアスファルトをこする音を、雨音が掻き消していった。
 ふと、私は足を止めて顔を上げる。いつの間にか、実家の前まで到着していた。
 門扉を開けて敷地に入った私は、玄関扉の前でシャワー後のように水分を吸っている髪を束ねてしごく。髪に含まれていた大量の雨水が髪から絞り出され、玄関前の床にばしゃっと落ちた。
 こんなびしょ濡れの姿を見られたら、父さんに心配されるだろう。風でビニール傘が壊れたことにしよう。
 濡れた服が肌に吸い付いて不快だった。雨に体温を奪われ、骨の芯まで冷え切っている。早く熱いシャワーを浴びたい。
 私はインターホンのボタンを押す。ピンポーンという軽い音が響く。しかし、返答はなかった。もう一度くり返すが、やはり結果は同じだった。
 もしかしたら、父さんは留守なのかもしれない。会社で営業部に所属している父さんは、ときどき出張をすることがあった。今日がその日なのかもしれない。
 父さんが留守でも、おばあちゃんはいるだろうが、なにしろ高齢だ。チャイム音に気づかない可能性がある。
 仕方ない。私はバッグからキーケースを取り出し、玄関扉の錠を外すと、ノブを引く。開いていく玄関扉がなぜか、普段よりも重く感じた。
「ただいまー」
 濡れた傘を靴入れに立てかけると、パンプスを脱ぐ。廊下に進んでいくと、水を含んだストッキングのせいで、はっきりとした足跡が出来てしまう。
 ストッキングを脱いでしまおうかと足を止めた私は、違和感をおぼえて周囲を見回す。
「きなこ?」
 実家の玄関扉を開けると、きなこはいつもそこにいた。ネコの鋭敏な五感で、私が帰ってくるのをいち早く察知し、玄関で待っていてくれるのだ。なのに、今日に限って、黄金色の毛玉のお迎えがない。
「きなこ、どこにいるの? 帰ってきたよ」
 声のボリュームを上げるが、やはりきなこが姿を現わすことはなかった。もしかしたら、おばあちゃんの膝の上で熟睡でもしているのだろうか?
「父さーん、ただいまー。電話繋ががらないから、連絡なしで帰ってきちゃった」
 廊下の奥に向かって呼びかけてみたが返事はない。やはり、父さんは留守なのかもしれない。私は腕時計に視線を落とす。時刻は午後七時半になっていた。父さんがいるなら、この時間はリビングでテレビを見ているはずだ。
 私はもう一度周囲を見回して誰もいないことを確認すると、濡れたストッキングを素早く脱いだ。素足の裏に、フローリングの冷たさが伝わってくる。
 廊下を奥まで進んだ私は、リビングの扉の前にやってくる。大きな軋みをあげる扉を開いて中に入った私の口から、「は?」と呆けた声が漏れる。
 そこには何もなかった。
 ダイニングテーブル、ソファー、テレビ、ハネ太のケージ、きなこのキャットタワー、そこに置かれていたはずのものが消え失せ、ただなにもない空間が横たわっていた。
 私は吸い込まれるようにふらふらと部屋の中に入っていく。すべての家具、生活用品が取り払われたリビングはやけに広く、寂しく感じた。
「父さん……、きなこ……、ハネ太……」
 家族を呼ぶ私の声が寒々しく壁に反響する。返事はなかった。
 なにが起こっているんだろう? なんで誰もいないんだろう?
 現実感が希釈されていく。私はふらふらと揺れながら、力の入らない足を動かしてリビングを出ると、廊下を戻り、階段をのぼっていく。
 おばあちゃん、二階にいるおばあちゃんに訊けばなにか分かるかもしれない。
 階段を上がり切ったすぐ右手にあるふすまに近づいた私は、「おばあちゃん、起きてる」と声をかけてみる。いつもの「起きてるよぉー」という声が、今日は返ってこなかった。
 いてもたってもいられなくなり、私は引き戸を勢いよく開く。
「なんで……」
 おばあちゃんはいなかった。年中置かれていた炬燵こたつも、琉球硝子の食器が入っていた小さな棚も、部屋の隅に畳まれていた布団もなくなっていた。琉球畳が敷かれていた床は、いまは冷たく硬いフローリングで覆われている。その空間からは、おばあちゃんがいた痕跡が根こそぎ消え去っていた。
 私は後ずさりして部屋から出ると、廊下の突き当りにある自分の部屋へ向かう。怯えつつ扉を開くと、そこには見慣れた光景が広がっていた。簡素なシングルベッド、年季の入った勉強机、大量の参考書に混じって小説や漫画が詰め込まれた本棚。
 自分の部屋、自分の領域に入った私は、安物のカーペットの上に倒れこみ、四つん這いになる。髪の毛先から零れ落ちる水滴がカーペットの生地に吸い込まれていくのを眺めながら、必死に状況を把握しようとする。
 父さんたちの、私の家族の痕跡が消え去っている。なんでこんなことが……。
「引っ越し……?」
 営業部で働いている父さんは、以前はよく数カ月単位で支社に出向となり、単身赴任をしていた。もしかしたら、また転勤になったのではないだろうか。
 昔とは違い、いまはおばあちゃん一人を置いて単身赴任するわけにはいかない。だから、おばあちゃん、きなこ、ハネ太、全員を連れて行った。そう考えれば辻褄が合う。
 だとしても、なぜそんな重要なことを私に教えてくれなかったんだろう? 
「ううん、話してくれていたのかも」
 私はカーペットに向かってつぶやく。
 三人の特発性嗜眠病患者さんを受け持ってからというもの、色々なことがありすぎて常に悩んでいた。もしかしたら、実家に帰って一緒に食事をしているとき、お父さんが転勤や引っ越しについて説明していたのに、聞き流してしまったのかもしれない。
 先日父さんから送られてきた『そろそろ時間だよ 準備を整えてな』という意味不明のメール。それも、もうすぐ引っ越しだから、自分の部屋にあるものをどうするか、準備を整えておけと理解できなくもない。
 そうだ、そうに違いない。私は必死に自分に言い聞かせる。頭の隅で膨らんでいる不安に気づかないふりをしながら。
 でも、どうやって確認すればいいのだろう。父さんの携帯電話には何度かけても繋ががらない。
 カーペットと見つめ合ったまま考え込んでいた私は、「そうだ!」と声を上げると、そばに放ってあるバッグからスマートフォンを取り出す。
 父さんの会社だ。勤務先に連絡を取って、父さんがどこに転勤になったのか訊ねればいいんだ。
 私はディスプレイに電話帳を表示させると、指をせわしなく動かして番号をスクロールしていく。すぐに父さんの会社の番号は見つかった。私は迷うことなく『通話』のアイコンに触れる。
 残業をしている社員がいたのか、こんな時間だというのにすぐに回線は繋ががった。
『はい、営業部ですが』
 はきはきとした声がスマートフォンから響いてくる。
「あの、お世話になっております。私、そちらに勤めている識名の娘ですが……」
『ああ、識名さんの娘さん。どうされました、こんな時間に?』
 どうやら、相手は父さんの同僚のようだ。これなら話が早い。
「えっとですね、最近、父が転勤になったと思うのですが、新しい勤務先がどちらか教えて頂けたらと思いまして。もし可能でしたら、新しい自宅の電話番号なども」
『転勤?』
 電話の相手が、訝しげに聞き返してくる。押し殺していた不安がみるみると膨らんでくる。
「はい、そのはずなんですけど……」
『えっと、なにかお間違いじゃないですか? 識名さんなら半年以上前に、一身上の都合ということで退職されていますけど』
 スマートフォンが急に重くなった気がして、だらりと腕が下がる。振り子のように揺れる手の中から、『もしもし? もしもし?』という声が聞こえてきた。



 熱いシャワーが皮膚に残っていた雨水のべとつきを洗い流してくれる。それとともに、思考にかかっていた靄もいくらか晴れていく。
 父さんの会社への電話を終えた私は、スマートフォンが手からこぼれ落ちるのも気にせずタンスから着替えを取り出し、一階にあるバスルームに向かっていた。
 なんでこんなときにシャワーを浴びようとしているのか、自分でもはっきりわからなかった。ただ、この不可解な状況を解き明かすためにも、一度心身にこびりついている汚れを落としたかった。
 私はシャワーを全開にしたまま、バスルームの床に腰をおろす。体育座りになって首を反らすと、軽い痛みをおぼえるほど熱いお湯が顔に降り注ぐ。私は目を閉じて両腕を左右に伸ばし、バスルームに満ちている熱気を全身で受け止める。
 乱れに乱れていた心もわずかながら落ち着き、少しずつ冷静な思考ができるようになってきた。
 父さんは半年前に仕事を辞め、そして私になにも告げることなくどこかへと消えてしまった。これがいま分かっている事実だ。
 いま考えるべきことは、なぜ父さんは消えたのか、どうして私にはなにも言わなかったのか、その二点だ。
 ふと頭に『夜逃げ』という言葉が浮かぶ。
 私の知らないうちに大きな借金をしていて、返済が出来なくなり姿を消した。私に伝えなかったのは、情けなかったのと、迷惑をかけないため。おばあちゃんたちは、父さんがいないと生活が成り立たないので一緒に連れて行った。そう考えれば辻褄が合わなくもない。
 いや、違うか……。シャワーを顔に浴びたまま十秒考えて、私は頭を振る。
 夜逃げは基本的に着の身着のまま行うものだ。今回のように家財道具を根こそぎ持っていくわけがない。そんなことをすれば目立って、借金取りに気づかれてしまうだけだ。
 ただ、トラブルに巻き込まれ、私に迷惑をかけたくなかったという線は十分にあり得る。
 私は最近、父さんと交わした会話を必死に思い出す。そこになにかヒントがないか探しながら。しかし、どれだけ頭を絞っても、父さんのセリフにトラブルの種らしきものは見つからなかった。
 目を開けた私はゆっくりと立ち上がると、シャワーを止め、バスルームから出る。髪と体を拭いて、新しい下着を身につけた私は、湯気で曇る洗面台の鏡に映る弱々しい表情を晒した女に気づく。
 私は流し台を両手で掴むと、鏡に顔を近づける。
「なに情けない顔してるの。落ち込んだってしょうがないでしょ」
 そう、落ち込んでいてもなにもはじまらない。この不可解な状況を解明するためには、ただ前を向いて進んでいかなくては。
 鏡の中にいる女の弛緩した表情が引き締まってくる。私は「よしっ!」と両手で頬を叩くと、新しいシャツとジーンズに着替えて廊下に出た。
 私は胸に手を当てて、これから取るべき行動を考える。
 警察に通報して探してもらおうか? いや、家の状況からして父さんたちは自分たちの意志で姿を消している。警察が本気で探してくれるわけがない。
 なら、自分で探すしかない。まだこの家で、見ていない場所がある。まずはそこに手がかりがないか探すとしよう。
 トイレ、物置、キッチン、思いつくところから探していく。食器、調理用具、はてはトイレットペーパーすら消え去っていて、手がかりらしきものは見つからない。私は大きく息を吐くと、意識的にあとまわしにしていた場所を探す決意をする。
 廊下にもどった私は、玄関のすぐそばにある父さんの寝室の扉を開ける。やはり、その部屋も空になっていた。父さんが使っていたベッドもタンスも消えている。
 視線が寝室の奥にある襖に吸い寄せられる。その襖の向こう側にある和室を、父さんは書斎として使っていたはずだ。けれど私は二十年以上、襖の奥を覗いたことがなかった。
 踵を返して出ていってしまいたいという衝動に唇を噛んで耐えた私は、一歩一歩足を前に踏み出して、襖へと近づいていく。
 伸ばした手が襖の取っ手に触れた瞬間、焼けた鉄にでも触れたように私は手を引いてしまう。自分がまだ、あの人を失ったことを受け入れられていないことを思い知らされる。
 細く長く息を吐いて、私は嵐のように波打っている心を静めていく。あれから二十三年間、私はたくさんの人に支えられて成長してきた。あの人と同じように、昏睡状態に陥った患者さんを二人も救うことができた。
 私はもう、眠り続けるあの人の手をただ握ることしかできなかった子供じゃない。いまこそ、二十三年前の悲劇に向き合うべきときなんだ。
 一度大きく息を吐いた私は、勢いよく襖を開いた。
 四畳半の和室。置いてあるはずのデスクは消えていた。ただ、部屋は空ではなかった。その中心には仏壇が鎮座していた。
 仏壇に近づいた私は正座をすると、そっと観音開きの扉を開く。位牌は入っていなかった。代わりに一枚の写真がそこには飾られていた。
 幸せそうに微笑む三十歳前後の女性の写真。
「ママ……」
 私は震える手を伸ばして写真を掴む。
 脳の奥底にしまい込んでいた記憶が、一気に浮き上がってくる。
 転んで泣いている私の頭を撫でてくれた、幼稚園で描いた似顔絵を凄く喜んでくれた、ハイキングで並んでお弁当を食べた、怖い夢を見たとき一緒に布団に入り抱きしめてくれた。
 あの人との、ママとの思い出が部屋に咲き乱れ、私を包み込む。
 視界が滲み、網膜に映るママの笑顔が滲んでいく。
「ごめんなさい……、本当にごめんなさい……」
 ママの写真を胸に強く当てながら、私は謝罪の言葉をくり返す。
 二十三年前、ずっとそばにいてくれた人が、誰よりも愛してくれた人がいなくなったことが苦しすぎて、私はママとの思い出を脳の奥にある底なし沼へと沈めてしまった。
 忘れてしまえば、もともといなかったのだと思い込んでしまえば、もうつらくないと思って。
 あのとき、ママが助けてくれたからこそ、私がここにいるのに。
 あのとき、ママを助けられなかったからこそ、私は医師を目指したのに。
 二十三年前、東京に単身赴任していた父さんに会いに行った私たちは、三人で行った遊園地で少年Xが起こした通り魔事件に巻き込まれた。多くの人々がパニックに陥って逃げ惑い、怒声と悲鳴で溢れかえった現場で、人の波に押しながされた私は、ママと繋がいでいた手を離してしまい、気づいたら通りの真ん中で立ちすくんでいた。周りにいた人々は逃げ去り、一人佇んでいる私に少年Xはまっすぐに近づいてきた。
 少年Xの振り上げた血で濡れたナイフの刀身が、陽光を妖しく反射したのを、いまでも昨日のことのように思い出すことができる。
 ナイフが振り下ろされた瞬間、私と少年Xの間に人影が飛び込んできた。気づいたときには、胸元から脇腹にかけて切り裂かれ、白いワンピースを血で紅く染めたママが、私の方を向いてひざまずいていた。
 ママは笑顔を、泣いている私をあやしてくれるときと寸分たがわぬ笑顔を浮かべて「大丈夫よ、香苗。私が守ってあげるから」と、私を抱きしめてくれた。深い傷を負っているとは思えないほど力強く。
 少年Xは私たちに追撃を加えることなく棒立ちになっているところを取り押さえられ、ママは駆けつけた救急車で病院に搬送された。
 けれど……、出血が多すぎた。
 ママは救急車の中で心肺停止になり、搬送先の病院で蘇生したが長時間低酸素状態に置かれた脳細胞は致命的なダメージを負ってしまった。
 ママは昏睡状態になった。子供だった私には、ママはただ眠っているようにしか見えなかった。だから、何度も「ママはいつ起きるの?」と父さんに訊いたが、そのたびに痛みに耐えるような表情をされるので、そのうちに悟りはじめた。
 もう、ママは起きることがないのだと。もう、二度と頬にキスをしてくれることも、頭を撫でてくれることも、優しく微笑みかけてくれることもないのだと。
 私はただ、病院でママの手を握ることしかできなかった。なんで、自分にママを治すことができないのかと無力感に押しつぶされながら。
 そして、事件から一ヶ月ほど経ったある日、ママは亡くなってしまった。大切な人が私の人生から消えてしまった。小さな私の胸に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった。
 だから、私はママのことを忘れようとした。あの笑顔を底なし沼へと沈めてしまった。そうすれば、胸に空いた穴が埋められると思ったから。
 なんて馬鹿だったんだろう。ママを忘れることの方が、ずっとつらいことだというのに。忘却という無機質な補填剤で胸を満たしても、ただ虚しさに苦しめられるだけだというのに。
 事件の記憶がフラッシュバックする。しかしそれは、これまでのように恐怖と嫌悪感を伴うことはなかった。
 身を挺して私を守ってくれたママの笑顔。これまでは逆光で見えなかった顔を、今日ははっきりと思い出すことができた。
 声を抑えることもせず、私は泣き続ける。二十三年前に流すべきだった熱い涙が頬を伝っていった。
 ようやく、二十三年かけてようやく、私はトラウマと向き合うことができた。あとは、それを乗り越えるだけだ。それにはきっと、いま私の回りで起きている不可解な現象を解決し、そしてあの日のママと同じように、いまも昏睡状態に陥っている環さんを助ける必要がある。
 十数分、誰にもはばかることなく嗚咽を上げた私は、しゃくりあげながら涙で濡れた目元を指先でこする。
 父さんがママの写真を残していったことには、なにか意味があるはずだ。私は乱れた呼吸を整えながら胸に当てていた写真を裏返してみる。そこに小さな黒い染みがあった。
 よごれかな? 私は涙で濡れた指で、その部分を拭いて見る。その染みは消えるどころか、大きく広がった。
 もしかして。私は顔に残る涙を掌で拭き取ると、写真の裏側を一撫でしてみる。そこに、文字が浮かび上がってきた。東京都杉並区にあるアパートの住所。これが手がかりだ。ここに書かれた住所に、父さんはいるに違いない。
 なんで父さんが、ここまで手の込んだことをしたのかは分からない。けれど、いまは行動するべきだ。そう判断した私は書斎を飛び出ると、階段を駆け上がって自分の部屋へと戻る。カーペットに放られていたスマートフォンとバッグを手に取り、玄関へと向かった。
 扉を開けて外に出ると、ちょうど家の前の道をタクシーが通りかかった。私は迷うことなくタクシーを止めて乗り込む。
「毎度どうも、どちらまででしょう?」
 私は写真の裏に書かれていた住所を告げると、運転手は怪訝な表情で振り返った。
「お客さん、かなり離れていますけどよろしいですか? 運賃、それなりにかかっちゃいますよ」
「かまいません、行ってください」
 私は即答すると、運転手は「承知しました」とタクシーを発進させる。シートベルトを締めた私は、目を閉じて頭の中を整理していく。
 久米さんが起こしたという事件、少年X、最後の特発性嗜眠病患者、そして消えてしまった父さんたち。考えるべきことは腐るほどあった。
 どこからか、「頑張ってね、香苗」というママの声が聞こえた気がした。
「お客さん、もうすぐ到着しますよ」
 視覚を遮断して思考を巡らせていた私は、運転手に声をかけられて目を開ける。タクシーは雨の中、閑静な住宅街を走っていた。いつの間にか杉並区に入ったらしい。ずっと頭を使っていたせいか、思いのほか早く着いた気がした。
「えっと、ここですね」
 カーナビを確認した運転手は、二階建てのアパートの前で車を停めた。私は財布から取り出したカードで精算をすると、タクシーを降りる。
 ビニール傘を開いた私は、目の前に立つアパートを見上げた。年季の入ったアパートだった。おそらく築三十年は経っているだろう。ひびが目立つ壁には多くのツタが這い上がり、二階へと上がる鉄製の階段は錆びで覆われている。昭和時代の単身者向けアパートといった様相を呈している。
「こんなところにみんなが?」
 外見から想像するに、部屋もかなり狭そうだ。二人と二匹が生活するのは厳しいだろう。
 いったいなぜ父さんは私をここに導いたんだろう。ここになにがあるのだろう。私は傘を差したまま、外階段を上がっていく。写真の裏に書かれていた住所は、このアパートの二階の部屋だった。一段ごとに悲鳴のような軋みを上げる階段をのぼり、古い型の洗濯機が並ぶ外廊下を進んでいく。一番奥にある扉の前で足を止める。そこが目的の部屋だった。
 乾燥した唇を舐めて、私はチャイムを鳴らす。緊張して反応を待つが、扉が開くことはなかった。
 私はそっとドアノブを回し、引いてみる。鍵はかかっておらず、ほとんど抵抗なく扉は開いていった。電灯のともっていない室内には、闇がたゆたっていた。
「お父さん、いるの……?」
 おそるおそる声をかけてみるが、返事はなかった。
 上がるべきだろうか? 息をひそめて闇を見つめながら、私は迷う。ここが父さんの居場所でなかったとしたら、勝手に上がれば不法侵入になってしまう。けれど、いまはここ以外に手がかりはない。
 覚悟を決めた私は、玄関に上がると手探りで壁にあるスイッチを入れる。天井の蛍光灯が弱々しく灯る。切れかけなのか、ときおり点滅する白い灯りに、キッチンが備え付けられた短い廊下が浮かび上がる。
 パンプスを脱いだ私は、「お邪魔します」と小声でつぶやいて廊下を進んでいく。右手にある開いた扉の隙間からは、狭いユニットバスが見えた。
 外見通り、単身者用の部屋のようだ。誰か暮らしている痕跡がある。私は左手にあるキッチンに視線を向ける。そこにはわずかな食器と調味料が整理されて並んでいた。単身赴任が長かった父さんは、水回りを整頓する癖がついていた。やっぱり、父さんはここに住んでいるのだろうか?
 慎重に廊下を進み、突き当りにある引き戸の前までやってくる。
 この中になにがあるというのだろう? 父さんがいるのか。それとも誰か違う人間が潜んでいるのか。痛いほどに心臓の鼓動が加速していく。
 私は扉を開けると、一歩後ずさって身構える。明かりのついていない部屋が、点滅する廊下の蛍光灯に浮かび上がる。
 六畳ほどの部屋のようだった。薄暗いので断言はできないが、誰もいないように見えた。
 私はすり足で部屋に入ると、電灯からぶら下がっている紐を引く。暗さに慣れた目にはやや強すぎる明かりが部屋を照らし出す。眩しさに目を細めながら、私は部屋を観察する。シングルベッドとデスクだけが置かれた簡素な部屋。快適さを追い求めることなく、ただ生活に必要な最低限のものだけをそろえたその空間は、病院の当直室を彷彿させた。
「ここになにが……?」
 つぶやきながら振り返った私は息を呑む。染みの目立つ壁に大量の写真が貼られていた。
 その写真に写っていたのは、私の見知った人物だった。
 久米さんと環さん。二人を写した写真が、何十枚もそこにあった。
「なんで……?」棒立ちで私はつぶやく。
 ここは父さんが使っていた部屋の可能性が高い。そこに、なぜ久米さんと環さんの写真が貼られているのだろう。二人と父さんの間に、いったいどんな繋ががりがあるというのだろう。
 疑問と混乱の海に沈んでいき、呼吸が出来なくなる。
 大量の写真に覆われた壁の圧迫感にじりじりと後ずさっていった私の背中が、カーテンの閉められた窓際に置かれているデスクに当たった。振り返った私の目に、デスクに積まれている本のタイトルが飛び込んでくる。
 
『少年X その心の闇』
『なぜ少年Xはナイフを手にしたのか』
『遊園地通り魔事件 その深層』
『少年Xを生み出した家庭』

 それらは全て、二十三年前に起きた通り魔事件と、その犯人である少年Xについて記されたものだった。なんの関連もなかったはずの父さんと久米さんが、頭の中で繋ががった。
 環さんの記憶の最後で刑事が、久米さんが少年Xだったかもしれないと言っている。もしその情報が外部に漏れていたらこの状況にも説明がつく。
 二十三年前、ママを守れなかったことに父さんはずっと苦しんでいた。ママを殺した少年Xが少年法により守られ、たいした罰を受けなかったことに憤っていた。
 あの事件を、ママを忘れることで必死に自我を保とうとした私とは対照的に、父さんは少年Xに対する恨みを生きる糧にしていたのかもしれない。
 もし、久米さんが少年Xだったという情報を警察が漏らしていたら、父さんはきっとそれに気づいたはずだ。そしてその真相を確かめるために、仕事を辞めてここを拠点にして調査をはじめた。
 よくよく考えてみれば、父さんが仕事をやめたのは、久米さんが中年男性の殺害を告白して姿を消した時期と近い。
 警察は中年男性の殺害事件から、久米さんを少年Xかもしれないと疑いはじめた。父さんはその情報を掴み、行動を開始した。そう考えれば時系列も合う。
 実家に帰るたび、ちゃんと父さんがいたのは、私が前もって連絡してから帰っていたからだろう。私の帰宅に合わせて父さんも家に戻り、仕事を辞めて少年Xについて調べていることを隠していたんだ。
「……なんでそこまでしたのよ」
 思わず、恨み言が口をついてしまう。
 少年Xを赦せないのは理解できる。だからと言って仕事を辞め、高齢のおばあちゃんを置いてこんな部屋に移り住んでまで追う必要がどこにあるというのだ。
 そもそも、少年Xを見つけてどうするつもりだったのだろう。居場所を世間にリークして糾弾させるつもりだったのか、それとも自分の手で……。
 恐ろしい想像に唇が歪んでしまう。
 私だって、少年Xを赦すことなんかできない。ママを奪ったことを赦せるわけがない。けれど、少年Xを殺したいとは思わない。それをすれば、私も少年Xと同じ人殺しになってしまうし。なにより……。
「なにより、そんなことをしてもママは戻ってこない」
 乾いた独り言が口から零れた。
 今日、父さんがいなかったのは、電話が通じなかったせいで私が帰ってくることを知らなかったからだろうか。
 いや、そうじゃない。数秒考えて、私は首を振る。だとしたら、おばあちゃん、きなこ、ハネ太までいなくなり、家財道具も消えていた理由が分からない。実家の状況からは、二度とここには帰ってこないという強い意志が見て取れた。
 私はバッグからスマートフォンを取り出し、最後に父さんから来たメールを表示する。

『そろそろ時間だよ 準備を整えてな』
 
「なんの時間なの?」
 ディスプレイを睨みながらつぶやく。文面は父さんがなにか決意をしたようにも読める。
 もしかしたら、父さんは少年Xを見つけたのではないだろうか。そして、数日前に大きな行動を起こすことに決めた。
 おそらくは、少年Xに対する復讐を。
 だからこそ、安全のためにおばあちゃんたちを実家から移動させ、私にも思わせぶりなメールを送って警戒させた。そういうことではないだろうか。
 私は奥歯を噛みしめる。復讐が成功したら父さんは犯罪者となり、失敗すれば少年Xに返り討ちされる。どちらにしても、家族はバラバラになってしまう。
 父さんは家族を犠牲にしてまで、少年Xを破滅させたかったのだろうか。いつも私のことを一番に考えてくれていた父さんは、どこに行ってしまったのだろう。あごに力が入り、奥歯がぎりりと軋んだ。
 私は再び壁に近づき、そこに貼られている写真を一つ一つ眺めていく。
 久米さんが殺したとされている中年男性も、父さんと同じように少年Xを追っていた。それゆえ、久米さんが少年Xかもしれないと警察は考えた。自分の正体が暴かれそうになり、久米さんが被害者を殺害したのかもしれないと。
 久米さんは少年Xなのだろうか? そもそも、久米さんは本当に中年男性を殺害したのだろうか?
 マブイグミを成功させて環さんを救うため、そして父さんがいまどこにいるか知るために、それを知る必要があった。
 環さんの記憶の中で、刑事は久米さんが少年Xだと断定してはいなかった。ということは少年Xの本名は『久米』ではないのだろう。戸籍が乗っ取られたと警察は疑っているのか。
 私は久米さんの経歴を思い出す。中学生時代に両親を亡くし、田舎にいる祖母に引き取られ、大学入学時に東京に戻ってきた。唯一の肉親である祖母ももう亡くなっている。
「入れ替わったとしたら、田舎に行ってから東京に戻ってくるまでの間」
 久米さんは同窓会で、中学時代の友人たちに会っている。そこで気づかれないことなどあり得るだろうか?
「あり得る、か」
 少し考えた後、私はそう結論づける。大人ならともかく、成長期の少年にとっての数年間は限りなく大きい。完全に外見が変わってしまうほどに。それに、中学時代の久米さんは、あまり目立たない存在だった。
 同窓会に別人が来ても、「だいぶ雰囲気が変わったな」と思われる程度だろう。では、やはり久米さんが少年X……?
 私は壁に貼られている写真に触れていく。写真の中では、環さんと久米さんが幸せそうに寄り添っていた。
 思わず口元がほころんだとき、頭蓋骨の中で声が反響した。
『……違う』
 慌てて部屋を見回し、誰かいないか確認する。しかし、心の隅では気づいていた。いまの声が、実体のある人間から発されたものではないことに。
 夢幻の世界で、衰弱して囚われているククルからの声を聞いたときと同様に、いまの声は頭の中に直接響いてきた。
 環さんの夢幻の世界から脱出する寸前、輝くオルゴールの箱から溢れ出した一筋のレーザーが頭部をかすめたことを思い出す。
 いま聞こえた『声』、そして実家に向かう途中で見た『映像』、それらはあのとき私に入ってきた、環さんのククルの欠片によるものだ。私はなぜか、そう確信していた。
 これまで、現実世界でククルからのメッセージを受け取ったことはなかった。きっと、この前おばあちゃんが言っていたように、マブイグミをくり返すことによって、私はユタとして成長しているのだろう。だから、夢幻の世界から出ても、環さんのククルのメッセージを受け取ることができるようになった。
 それなら……。私は胸に手を当てて、意識を集中させる。脳裏で白黒映画が投影される。
 右側に古びた倉庫群が広がる道が、右手に持った懐中電灯の光に照らされている。実家に帰る道で見たのと同じように、ある人物の目から見た映像。
 やがて、その人物は鉄製のシャッターで閉じられた倉庫の前にやってくる。見覚えのある場所だった。環さんの記憶の中で見た倉庫。
 しゃがんでシャッターと地面の間に手を差し込んだその人物、勢いよく開いていく。ガチャガチャとけたたましい音が響いた。
 その人物は慎重に倉庫に入ると、懐中電灯で中を照らす。
『なんだよ……、これ……』
 呻くようにその人物は言った。壁に貼られた佐竹優香さんの写真を見て。
 倉庫の奥にある机の上に鍵が置かれているのに気づいたその人物は、そちらに近づいていきながら、優香さんの写真が貼られていたのと反対側の壁を見る。
 たしかそこには、久米さんに殺害されたという中年男性の写真が貼られているはず。そう思った瞬間、映像が乱れて見えなくなる。
「ちょっと、なによ」
 壊れた電化製品にするように、私が平手でこめかみを叩くと、再び映像が戻ってきた。その人物は机の上に置かれていた鍵を手に取ると、逃げるように倉庫から出てシャッターを下ろし、鍵を閉めた。
 荒い息をついたその人物は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。そこで映像が途切れた。
 私はすこしふらつく頭を振ると部屋をあとにする。玄関に立てかけてあった傘を手に取り、外廊下に出ると、階段を降りていく。
 自分がどこに向かっているか分からなかった。ただ、どちらに進めばいいかは分かっていた。
 産卵期に生まれ故郷の川に戻ってくる鮭や、季節ごとに大陸を移動する渡り鳥はこんな気持ちなのだろうか。私はただ本能に導かれるままに雨が降る夜道を進んでいく。
 また、映像が頭に流れ込んでくる。
 自分の目に映る映像と、脳に直接映し出されている白黒の映像、二つを同時に眺めつつ私は足を動かしていく。
 白黒映像を見ている人物は、狭いユニットバスにいた。左手が黒い液体で濡れている。荒い呼吸音が聞こえてくる。いまや私は、その空間に立ち込める生臭さまで感じ取ることができた。
『もしもし、先生ですか!』
 その人物が叫ぶように言う。視界には入っていないが、右手でスマートフォンを持ち、誰かと会話をしているようだ。
 電話から返事が聞こえてきているようだが、なぜかその声だけノイズがかかって聞き取れなかった。
『そうです! 言われた通りに倉庫に貼られていた写真にあった住所に行ったんです! 鍵が開いていたんで、入ったんです。そうしたら、そうしたら……』
 興奮で舌が回らなくなったのか、その人物の声が途切れる。左手が壁を叩く。手についていた黒い液体が飛び散った。その人物の叫び声が、狭い空間に響き渡る。
『人が倒れていたんです! 写真に写っていた中年の男の人が刺されて……、血塗れで……』
 液体で濡れた手が大きく映し出される。私の足が止まる。白黒の映像だからこそ、手についた液体が黒く見えていたことに気づいて。
 血液だ。その人物の左手は、血塗れだったのだ。
 いま頭に流れ込んでいる映像は、ある人物が数ヶ月前に殺されたという中年男性の死体を目撃し、事件のあった部屋のユニットバスに入ったときのものだろう。
 その人物は『先生』と呼ぶ相手に助けを求めている。いったい『先生』とは誰のことなのだろう。私は再び本能に促されて足を動かしはじめる。
『……はい、分かっています。このままじゃ、どうなるか。……いいえ、それはありません』
 映像の中の人物の口調が低く籠ったものへと変化していく。
『はい、そうします。……ええ、佃先生がいいと思います。……はい、俺は姿を消します。少なくとも、予定の日まで……』
 強い決意を孕んだ声で言うと、その人物は通話を終えた。それと同時に、白黒の映像は消える。
 傘を差したまま歩いていた私はふと視線を上げる。遠くに小高い丘が見えた。ようやく自分の目的地に気づいた私は、街灯が落とす光の中、丘に向かって真っすぐに続いている道を足早に進んでいった。



 スマートフォンに付いているライトで足元を照らしながら、私は延々と続く階段を上り続ける。
 膝が痛い、酷使している下半身の筋肉が悲鳴を上げはじめている。それでも私は一段一段、ひたすらにのぼり続ける。
 また、頭の中に映像が流れ込んでくる。いま私が踏みしめているものと全く同じ階段を昇っていく映像。
 この暗さではカラーでも白黒でも違いはないので、どちらが実際に自分が見ているもので、どっちが頭の中に流れ込んできているものなのか、区別がつかなくなってくる。
『はい、もうすぐ着きます。あとちょっとで……』
 男が、スマートフォンで通話をしている。相手は『先生』だろうか?
 白黒映像の階段が途切れる。それと同時に、私も階段をのぼり切っていた。私が見ている二つの映像に、大きな鳥居と、その奥にある社が映し出された。
 この神社を私は知っていた。優香さんに囚われ、隷属していた久米さんが環さんによって救われた神社。
 頭に流れ込む男は、通話を終えたスマートフォンをポケットにねじ込むと、『先生! 先生、どこですか?』と声をあげながら境内へと入っていく。私もその人物と同じように、鳥居をくぐって石畳を進んでいく。
 頭に流れ込む映像がどんどんと鮮明になっていく。視覚、聴覚、嗅覚だけでなく、その人物の五感の情報すべてを、いつの間にか感じるようになっていた。
 男が、何者かの声を聞く。しかし、他の感覚は実際に体感しているかのようにリアルに伝わってくるにもかかわらず、その声だけは獣の唸りのような音にかき消され、男の声か女の声かさえも分からなかった。
 声に誘われるように映像の人物は社の裏側へと回り込んでいく。傘をさした私もシンクロするように、同じように移動していく。
 男と私は、同時に社の裏手にある雑木林へと入っていく。
『先生、こっちでいいんですか? 早く身を隠さないとヤバいんです。出てきてください』
 男が言う。返事の代わりに背後から枯葉を踏みしめる音が聞こえた。
 次の瞬間、男の首に細いロープが巻き付き、一気に締め上げた。彼と五感をシンクロさせている私の喉にも強い圧迫感が走り、か細い呻き声が漏れる。手にしていた傘が、濡れた土の上に落ちた。
 私は映像の中の男と同じように両手を喉の元に当て、足をばたつかせる。男の恐怖と絶望が私の体に染み入ってくる。
 喉の筋肉が千切れ、首の骨が折れていく感触が伝わってくる。口腔内が鉄の味がする泡で満たされる。眼球が後ろ側から押し出され、破裂しそうだ。
 消える……。『自分』という存在が消え去ってしまう。
 これまでになくリアルに『死』を感じ取った瞬間、映像が消えた。男の感覚、感情が一瞬で消え失せた。
 ぬかるみに四つん這いになった私は、しゃっくりのような音を立てながら必死に酸素を貪る。
 呼吸が落ち着いてきた私は、泥で濡れた手で、そっと喉元に触れてみる。さっきまで断ち切られそうなほどの痛みが走っていた部分を押しても、違和感をおぼえることはなかった。
 映像の中の男がどうなったか、火を見るより明らかだった。私はわずかな間、五感を共有した男性に思いを馳せる。彼が誰だったのか、私には分かっていた。
 いまわの際、彼の脳裏に映し出された人物を、私も見たから。
 私は泥の中に四肢をついたまま、天を仰ぐ。漆黒から落ちてくる雨が顔を濡らしていく。そのとき声が聞こえた気がした。私を呼ぶかすかな声が。
「どこ!? どこなの?」
 私は闇に満たされた森の中を見回す。再び、弱々しい声が聞こえた。私は泥まみれになることも気にすることなく、声が聞こえてくる場所を探して森の中を這い回る。
 やがて、私は大木の根元のわずかに土が盛り上がっている部分にたどり着いた。
「……ここね。……ここにあなたはいるのね」
 私はぬかるんだ地面を両手で掻き分けていく。指の皮が剥け、細かい木の枝が手に刺さり、爪が欠けても私は手を動かし続けた。
 どれだけ掘り続けただろう。感覚がなくなりかけていた指先に硬いものが触れる。私は残っている力を振り絞って土を避けていく。
 暗順応した私の瞳がそれを捉える。地面から突き出る、白骨化した手を。
 私は唇を噛むと、その手を両手で包み込む。
「ずっとここにいたんだ」
 そうつぶやいたとき、私は骨となった手になにかが絡みついていることに気づいた。
 きっと、最期の瞬間、とっさに握りしめたものだろう。
 顔を近づけた私は、それが何かに気づいて目を細める。
 かつてこの神社で環さんが彼に渡したもの。音符の形をしたペンダントがそこにはあった。
「本当にお疲れ様でした、……久米さん」
 わずかな間だけだが感覚を、苦痛を、苦悩を共有した同志に、私は静かにねぎらいの言葉をかけた。
 のりのきいた新品の白衣を纏うと、私はロッカーの扉の内側についている小さな鏡を覗き込む。薄くメイクが施された顔に、凜とした決意が浮かんでいた。
「よしっ」
 小さく声を出してロッカーを閉じる。
 雑木林で久米さんの遺体を見つけた翌々日の朝、休暇を終えた私は神研病院のロッカー室にいた。
 一昨日の深夜、久米さんの遺体が埋まっている神社をあとにした私は、泥まみれの体で夜道を歩き、見つけた公衆電話から警察に通報をした。神社の雑木林に遺体が埋まっていることを告げた私は、名前を訊いてくる相手を無視して受話器を戻し、自宅マンションまで徒歩で戻った。
 汚れた服を脱ぎ、シャワーを浴びて寝間着に着替えると、私は眠った。夢を見ることもなく泥のように眠り続けた。
 翌日、昼近くに目を覚ましてテレビをつけると、すでに杉並区の神社で遺体が発見されたというニュースが流れていた。警察が捜査すれば、もしかしたら発見者が私だと気づかれるかもしれないが、別にかまわなかった。久米さんの遺体をあんな冷たい土の下に放置しておくわけにはいかなかった。
 私は久米さんの婚約者である環さんの主治医だ。いざとなれば、昏睡状態の彼女が、寝言であの場所のことをつぶやいたとでも言っておけばいい。
 テレビの電源を落とした私は食事をとったあと警察署に向かい、父さんとおばあちゃんの行方不明者届を出した。明らかに自分の意志で消えた二人の行方不明者届を受理してもらえるかどうか不安だったが、明らかにやる気のない受付の警察官は、拍子抜けするほどあっさりと受け付けてくれた。「なにか分かったら連絡しますので」という警察官に礼を言って、私は警察署をあとにした。
 警察が本気で捜査してくれるとは思っていなかったが、それでも行方不明者届を出していれば、なにか情報があったときに連絡をくれるはずだ。それで十分だった。
 自宅に戻った私は、再び寝間着に着替えてベッドに横になった。疲れ切った心身をマブイグミができるほどに、もう一度、環さんの夢幻の世界に這入り込めるほどに回復させるため。
 父さんのことは心配だったが、むやみに動くよりもまずは休むべきだと判断した。まずは環さんのマブイグミを行い、手がかりを掴む。それこそが、父さんを見つける最短の道のはずだ。
 しっかり栄養を取り、体を休めたおかげで今朝には体力がかなり戻っていた。もう、マブイグミが行える。そう思った私は、こうして今朝出勤したのだった。
 ロッカールームから出た私は、エレベーターに乗って病棟に向かう。エレベーターを降りて環さんの病室に向かっていた私は、談話室の前で足を止めた。
 入院患者が見舞客などと話すための広い部屋の窓辺に、小柄な少年の姿が見えた。少し迷ったあと、私は談話室の中に入って行く。
「レント君」
 近づいて声をかけると、入院着に包まれた華奢な背中が小さく震えた。振り返った少年、レント君は私の顔を見て少しだけ表情を緩めてくれた。
「何を見ているの」
 私はしゃがみながらレント君と並んで窓の外を見る。レント君は雨雲に覆われた空を指さす。
「今日も天気悪いね。最近雨ばっかりだね」
 太陽の光は厚い黒雲に遮られ、早朝だというのに外は深夜のように昏かった。異常気象なのか、本当に最近は雨の日が多い。
「パパとママが呼んでる……」
 空を見上げたまま、レント君は小声でつぶやく。その顔に、恐怖が広がっていく。私は彼の柔らかい髪を撫でた。
「大丈夫だよ、レント君。ここにはパパもママも来れないからね」
「……でも、僕を呼んでいるんだ」
 レント君は首をすくめ、身を小さくする。長い時間虐待を受けてきた恐怖から、幻聴が聞こえているのかもしれない。彼の頭を撫でたまま、唇を固く閉じた。そのとき、「あっ、いた!」という声が聞こえた。振り返ると、談話室の入り口辺りに、腰に両手を当てた瑠奈子ちゃんが立っていた。
「病室にいないからびっくりしたじゃない。外に出ちゃったかと思ったわよ」
 相変わらずの猫背のまま、大股で近づいてきた瑠奈子ちゃんは、レント君の手を取った。
「ほら、部屋に戻るよ」
 瑠奈子ちゃんに促されたレント君は小さく頷いた。どうやら、瑠奈子ちゃんが姉代わりになってレント君の面倒を見てくれているようだ。
「香苗センセ、ありがとうね。この子を見てくれていて」
「ううん、こちらこそありがと、瑠奈子ちゃん。レント君を気にかけてくれて」
「だってさ、この子、ほっとくと危なっかしいんだもん。香苗センセが助けてあげられるようになるまでは、一応私が見ていてあげないとね」
 助けてあげる……か。私は頬を掻く。可能なら、私もレント君を助けてあげたい。しかし、小児精神医学の経験がない私に、彼を救う力があるとは思えなかった。
「私もレント君を治してあげたいんだけど、私は専門家じゃないし……」
「そんなこと関係ないよ。この子は香苗センセにしか助けられないんだよ。この前、約束したじゃない」
 たしかに先日、レント君を助けてあげると約束した。子供との約束とはいえ、いや子供との約束だからこそ守らないといけない。
「うん、分かった。私もレント君を守るためにできる限りのことをするね。それでいいかな?」
 瑠奈子ちゃんは猫を彷彿させる大きな目を細めると、「うん!」と頷いた。
「それじゃ、お部屋に戻ろ。クサナギレント」
 レント君の手を引いた瑠奈子ちゃんの言葉を聞いた、私は「え?」と声を上げる。
「どうしたの、香苗センセ」
 瑠奈子ちゃんは可愛らしく小首を傾げた。
「瑠奈子ちゃん、いまレント君のこと、なんて読んだ?」
「この子のこと? クサナギレントだよ。それが名前だもん」
「レント君の名字を知ってるの!?」
 私が甲高い声を出すと、瑠奈子ちゃんは「うん、もちろん」と頷いた。
「レント君、クサナギっていう名字なの? クサナギレント君っていうの?」
 私は視線を合わせると、レント君は躊躇いがちに頷いた。どうやら、仲良くなった瑠奈子ちゃんにだけはフルネームを教えていたようだ。
 これは重要な情報だ。フルネームが分かれば、彼の身元も分かるだろう。虐待を加えていた両親を逮捕することもできるかもしれない。そんなことを考えていると、レント君は身を翻し、小走りで談話室から出ていってしまった。瑠奈子ちゃんが「あっ、待って」とそのあとを追う。
 一度姿が見えなくなった瑠奈子ちゃんは、談話室の入り口から顔だけ覗かせると、「頑張ってね、香苗センセ。応援してるよ」と言い残して去っていった。
 なんに対してエールを貰ったのだろう。今日も一日、仕事を頑張れということだろうか。私は少しだけ首を傾げながら、談話室をあとにする。
 たしかにいまから頑張る必要があった。ヒールを鳴らして廊下を進みながら、私は気合を入れなおしていく。
 レント君のフルネームについては、袴田先生に報告しなければならないが、その前にやるべきことがあった。
 個室病室の引き戸を開いて中に入った私は、窓際のベッドに近づいていくと、そこに眠る環さんの顔を覗き込む。これから、彼女に伝えないといけないことを思うと心が痛かった。しかし、それをしなければ、彼女は決して目覚めない。
 私は環さんの額に手を当てると、これで四度目となる呪文を唱える。
「マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
 環さんの中に『私』が流れ込んでいった。
「やあ、香苗。お帰りなさい」
 目を開けると、ククルが片耳を上げる。
「ただいま、ククル」
 私は素早く周囲に視線を這わせる。そこは処刑や拷問に使う道具に溢れた、薄暗い地下室だった。前回の失敗したマブイグミの際、私が最後にいた場所。
「ここからはじめられるんだ。良かった。また鍵盤の道からだと思っていたから」
「夢幻の世界は常に変化しているからね。もう、加納環の夢幻の世界に、あの幻想的な道が存在しないんだ。ただ、いいことばかりじゃないよ。前回の続きということは、危険もそのままってことなんだからさ」
 ククルは耳で私の背後を指さす。振り返ると、奥の壁の隙間から、無数の『蟲』がうごめきながら湧き出してきていた。
 前回と同じように、口から光線を吐き出して蟲を防ぐつもりかククルが私を守るように前に出た。
「大丈夫だよ、ククル」
 私は手を横に振る。蟲の大群と私たちの間に壁が生じた。私がイメージした光の壁が。
 壁に衝突した蟲たちは、ジジッという音を残して蒸発していく。
「どう?」
 少しだけ得意げにあごを突き出すと、ククルは瞳孔の開いた瞳で私を見上げて数回まばたきをしたあと、拍手をするように両耳を合わせる。
「すごいね、香苗。ユタとしてかなり成長したじゃないか。なにか、吹っ切れたみたいだね。この前に比べて、凄くいい顔になってる」
「うん、ママを思い出した、ママに会ったんだ。……二十年ぶりに」
「そうか、良かったね」
 前回のマブイグミからいままでの間、私になにがあったのか知っているのだろう。ククルはただ嬉しそうに微笑むだけだった。
 ただ無為に光の壁に突っ込んでいた蟲たちが集まっていく。前回のように、サソリへと変身するつもりだろう。そうなれば、光の壁は長くはもたない。
「ククル、私はこれから環さんのマブイを呼び出して、マブイグミをする。その間、なんとか蟲を食い止めておいて」
「任せといて!」
 ククルは黄金の毛に包まれた胸を張ると、蟲の突撃で薄くなっている部分の壁に向かって「んにゃおーん!」と咆哮を上げる。ククルの口から放たれた光の束が、輝く壁を修復していく。
 私は壁に立てかけられた十字架に近づいていくと、その陰に置かれているオルゴールに入っている環さんのククル、心臓のように拍動する小さなレーザーの玉に話しかける。
「大丈夫、あなたの大切な人は私が助けてあげるから」
 レーザーが光量を増した気がした。
 私は首を反らして地下水が染み出してくる天井を仰ぐ。飛鳥さんや佃さんのときのように、声を張り上げることはしなかった。そんな必要はなかった。
「環さん、私の話を聞いて」
 小声で囁くと、目の前にワンピースを着た環さんが現れた。ホログラムのように向こう側が透けていて、彼女が実体ではなく、あくまで意識が投影されたものだということが分かる。
「はじめまして環さん」
「……あなたは?」
 環さんは生気のない瞳で私を見る。
「私は識名香苗、あなたの主治医です」
 私が自己紹介すると、環さんは「主治医?」と眉根を寄せた。
「私が誰かはそんなに重要なことじゃないの。きっと、あなたが目を覚ましたら覚えていないだろうから。それよりも大切なのは、久米さんのこと」
 久米さんの名前を出した瞬間、弛緩していた環さんの表情が複雑に蠕動する。愛する人への想いと、彼に対する疑念がそこから読み取れた。
「あなたは婚約者である久米さんが殺人犯で、しかも二十三年前にや無差別大量殺人を犯した少年Xかもしれないと思い、絶望したそうですね?」
 おずおずと頷いた環さんに向かって、私ははっきりと言う。
「久米さんは誰も殺していません。もちろん、少年Xでもありません」
 環さんの目が大きく見開かれる。かすかに開いた唇から「でも……」という声が漏れる。
「まず、佐竹優香さんの事件については殺人ですらありません。彼女は自殺だったんです」
 そっと環さんの眉間に触れた私は意識を集中させ、あの事件の真相についてのイメージを流し込んでいく。環さんの顔に驚きの表情が広がっていった。
「けれど、そのあとに起きた事件は自殺なんかじゃない!」
 私の手を払った環さんは後ずさって叫ぶ。
「警察は間違いなく彼が犯人だって。証拠があるって言っていた。それに、あの人が私に内緒で借りていた倉庫には、殺された男性の写真がたくさん貼られていたのよ!」
「本当に、その倉庫は久米さんが借りていたものなんですか?」
 環さんは虚を突かれたように「え?」と声を漏らす。
「なんでその倉庫が、久米さんが借りていたものだと思うんですか? だって、書類の借主にはあなたの名前が書いてあったんでしょ?」
「けれど、私は倉庫なんて借りてないし……。それに、私が帰ってきたとき、彼は慌てて書類を隠したの」
 環さんの言葉が歯切れ悪くなっていく。
「環さん、おかしいと思いませんか? あの倉庫はあなたの名義で借りられていたんですよね。それなのに、なんで久米さんに書類が届くんですか?」
「それは……、本当に契約していたのは彼だからじゃ……。他人の名前で契約できるような適当な会社だし」
「たしかに、お金さえ払えば本人確認をしなくても契約できるような管理の甘い会社だったんでしょう。だからって、契約者となっているあなたにではなく、保証人の久米さんに当てて契約書を送るのはおかしいと思いませんか?」
「じゃあ、どういうことに……?」
 戸惑い顔で環さんはつぶやく。
「あれは、契約していた会社ではなく、第三者が送ったものだと思います。それを、久米さんに見せるために」
「え……? え……?」
 環さんは軽く首を振る。
「久米さんの立場になって考えてみてください。自分宛に来た封筒を開けてみたら、婚約者であるあなたの名義で借りられている倉庫の保証人の欄に、自分の名前が書かれている。しかも、内密に至急確認するような警告文まで同封されていた。それを見たらどう思いますか?」
「どうって……」
「あなたが自分に隠れて倉庫を契約していた。そしてなにかトラブルに巻き込まれた。そう思うんじゃないですか。だからこそ、久米さんはあなたが帰ってきたときにそれをとっさに隠した」
 環さんが目を大きくするのを眺めながら、私は話を続ける。
「そして後日、久米さんがその倉庫を訪れてみると、そこには佐竹優香さんと、とある男性の写真が貼られていた。あなたをストーキングしていた人物と、そっくりの格好をした男の写真が。その写真から男の潜伏先を突き止めた久米さんは、そこに向かう。そして、惨殺されているその男の遺体を見つけた」
 私は一息に話すと、環さんの反応をうかがう。彼女はこわばった表情で頭を抱えていた。洪水のように押し寄せてきた情報を必死に咀嚼そしやくしているのだろう。そのとき、ダイナマイトが破裂したかのような轟音ごうおんが内臓を揺らした。
 私は首だけ振り向いて、音が聞こえてきた方向を見る。光の壁の向こう側で、象ほどの大きさのあるサソリが尾を振り上げていた。尾が鞭のようにしなり、先端の毒針が光の壁に突き刺さる。再び轟音が響いた。
 ククルが口から光線を吐き出し、壁を必死に修復している。
「こっちは任せて、香苗はマブイグミに集中を!」
 光線を吐き終えたククルが叫ぶ。サソリは再び尾を振り上げた。ククルは頭を伏せると、両耳を伸ばす。鋼と化した両耳が交差して、巨大なハサミとなり、サソリの尾を根元から切断する。
 黒板を引っかいたような叫び声をあげながらサソリが暴れ狂う。槍のような八本の足が石の床を削っていく。
 脳の表面をざわつくような雑音に私はこめかみを押さえる。大量の蟲の羽音が、地下室の空気を攪拌していた。奥の壁から湧いた蟲の大軍が、尾の切断面にたかり、そこに同化していく。みるみるうちに、切断された尾が再生されていくのを見て、猶予がないことを悟った私は、環さんに向き直った。
「環さん、あなたの名義で借りられている倉庫に、殺された優香さんと中年男性、二人の写真が貼られていた。まるで、その人たちを調べていたみたいに。その状況は客観的にはどう見えると思う?」
「客観的に……」
 呆然とその言葉をくり返した数秒後、環さんの表情がこわばっていく。私はあごを引くと、ゆっくりと言った。
「そう、あなたが二人を殺害したように見える」
「そんな……、私は殺すわけない」
「いえ、客観的に見たらそうとは言い切れない。あなたは大切な久米さんを解放するため、彼を虐げていた優香さんを殺害した。けれど、とある男性がそのことに気づき、あなたを調べはじめた。優香さんの殺害がばれると思ったあなたは、逆にその男性の居場所を突き止め、口を封じた」
「そんなのおかしい! だって、優香さんはすでに久米君と別れていた。殺す必要なんてないでしょ」
「別れても久米さんは優香さんを忘れられなかった。だから、彼を自分のものにするために、優香さんを殺した。そう疑われるかもしれない。少なくとも、そう思わせるだけの状況が出来上がっていた」
 私は一度言葉を切ると、唇を舐めたあとに決定的なセリフを口にする。
「だからこそ、久米さんは罪を被った。自分が二人を殺したと佃さんに告白したんです」
 環さんの口から、か細い悲鳴が漏れた。
「なんで、そんなことに……。いったいなにが……」
 うわごとのように環さんはつぶやく。
「裏で手を引いていた人物がいるんです」
「誰がそんなことを……」
「……少年Xですよ」
 その名を発した瞬間、私を見つめる爬虫類じみた目が脳裏をかすめる。私は下っ腹に力を込めて、恐怖を押し殺した。
「少年……X……? でも、警察は久米君が少年Xだって……」
「環さん、よく思い出してください。久米さんが少年Xのわけがないんです。だって、あなたがまたピアノを弾けるようになった同窓会の夜、久米さんはこう言ったじゃないですか。昔、あなたがピアノを弾いている姿を見たことがある。そのときは凄く楽しそうに弾いていたって」
 環さんの口から「あっ」という声が漏れた。
「そうです。もし久米さんが少年Xと入れ替わっていたなら、中学時代のあなたの演奏を見ているわけがないんです。久米さんは少年Xじゃない。スケープゴートにされただけなんです」
「スケープ……ゴート……?」
「そうです。久米さんが殺したことになっている中年男性、彼は名を変えて隠れている少年Xを追っていました。正体が暴かれそうになった少年Xは、男性を始末すると同時に、久米さんの犯行に見せかけ、さらに久米さんこそ少年Xだったと思わせるように計画したんです」
「そんなこと、どうやって……」
「まず、少年Xは管理の甘い倉庫会社を見つけて、環さんを借主、久米さんを保証人として倉庫を借りました。家賃は先払いだったんで、会社の方も本人確認などはせず、郵送でやり取りしたんでしょう。被害者となる中年男性があなたのことを調べているように見せかけるため、その男性とおなじような恰好をして、あなたを夜道で追うなどの小細工もしたはずです。そして、準備を整えた少年Xは、倉庫の契約書を、不安をあおる警告文と一緒に久米さんに送った。不安をおぼえた久米さんは、どうするべきか少年Xに相談をした」
「相談!? 久米君と少年Xが知り合いだったっていうんですか?」
「知り合いどころか、久米さんは少年Xの操り人形のようになっていたと思います。たぶん少年Xはいま、心理カウンセラーのような仕事をしているはずです。そして、どのような経緯で知り合ったか分かりませんが、カウンセラーとして久米さんを……洗脳していた」
 なぜか、自然とその『操り人形』や『洗脳』といった刺激的な言葉が口をつく。私は違和感をおぼえ目元を押さえる。
「環さん、あなたももしかしたら少年Xに会っているかもしれません。昏睡になる直前、誰かあなたに連絡してきませんでしたか? 久米さんの居場所を教えてやるとか言って、あなたを呼び出したりしませんでしたか?」
 特発性嗜眠病患者たちは、昏睡に落ちる前、何者かに呼び出されて一ヶ所に集まっている。その人物こそ、少年Xだと私は睨んでいた。
 名前を変えた少年Xは、他人の人生をコントロールすることに快感をおぼえ、多くの人々を自分の支配下に置いて絶望へと追いやり、自殺に追い込んでいった。きっと、飛鳥さん、佃さんも少年Xに操られていた被害者だったんだ。
 そこまで考えたところで、私は額に手をやる。なんで私はそんなことまで知っているんだ。いまの情報はどこから……? 再び強い違和感をおぼえる私の前で環さんは髪を振り乱す。
「分かりません! 思い出せないんです!」
 やはり、マブイを吸われた前後の記憶は曖昧になっているらしい。私は少年Xの正体を探ることをいったん棚上げにする。
「混乱させてすみません。話を戻します。久米さんの生い立ちを知る少年Xは、いざというときは久米さんを自分の身代わりにしようと思っていた。そして、被害者となった男性に正体を知られ、温めていた計画を実行に移したんです。久米さんは追い詰められると、少年Xに相談した。そんな彼を操って、少年Xは彼を倉庫、そして自分が殺害した男性の遺体があるアパートの部屋まで導き、こう言った」
 自分が残酷なことをしていると自覚しつつ、私は口を開く。
「このままだと、君の婚約者が佐竹優香と中年男性を殺害した犯人として逮捕されるよ、と」
 環さんは両手を口に当てる。
「だからこそ久米さんは、佃さんに電話して自分が二人を殺したと告白したの。大切な人を助けるために」
 腰が抜けたように環さんはひざまずくと、縋りつくような眼差しを向けてきた。
「彼は……、久米君はいまどこにいるんですか?」
 私はゆっくりと手を伸ばす。久米さんの最期を伝えるために。
 事実を知ることがどれだけ環さんにとってつらいことか分かっていた。けれど、これを知らせずにマブイグミは行えない。
 私の指先が環さんの眉間に触れる。彼女の瞳孔が開いていく。半開きの口から呻き声が漏れる。
 私が指を離した瞬間、環さんは崩れ落ちる。土下座をするような姿勢で頭を抱え、細かく体を震わせる。
「いや……、うそよ……、うそだって言って……」
 痛々しいその姿を唇を噛んで見つめていると、硝子が割れるような音が響いた。振り返った私は唇をゆがめる。光の壁が割れ、黒光りする巨大なサソリが近づいてきた。
 身構えた私の前に、小さな影が立ち塞がる。
「だから、あのサソリは僕に任せてってば」
 ククルは刀に変えた両耳でサソリと斬り合いながら言う。標的が大きいだけに、ククルの攻撃はほとんどが命中し、サソリの体に傷をつけるのだが、すぐそこに蟲がたかり修復していく。
 私が「でも……」と迷うと、ククルはニヒルに口の端を上げた。
「香苗にはやるべきことがあるだろ。香苗にしかできないことがさ」
 私にしかできないこと……。マブイグミ。
「あと少しだけ時間を稼いで!」
 声を張り上げると、ククルは嬉しそうに「ラジャー!」と答えた。
 私はひざまずき、力なく倒れこむ環さんの顔を覗き込む。
「環さん、分かったでしょ。久米さんは人殺しなんかじゃなかった。全部愛する人を守るための行動だったの。彼は凄く優しい人だった」
 必死に言葉を重ねても、環さんはほとんど反応しなかった。私は横目で、オルゴールに入っている環さんのククルを確認する。そのレーザー光線の輝きはさっきより弱々しくなっている気がした。
 たとえ真実を伝えても、環さんが絶望したままではマブイは力を取り戻すことはない。マブイグミは完遂せず、この夢幻の世界は終わらない。
 久米さんは殺人犯ではなかった。しかし、彼は殺されてしまい、二度と会うことはできない。環さんはいま、そのことに絶望している。
「聞いて、環さん。久米さんはあなたを救うために命を賭けたの。だからこのままじゃだめ。あなたが幸せになること、それこそが彼の願いだったのよ」
「なんで久米君は私を信じてくれなかったの……?」
 蚊の鳴くような声で環さんは言う。
「え? どういうこと?」
「私が人殺しなんてするわけがない。私が犯人のわけがないって信じてくれたらよかった。そうしたら、死ぬ必要もなかった。彼は私を信じてくれなかった」
「違う! そうじゃないの!」
 私は反射的に叫んでいた。環さんは緩慢に顔を上げ、感情の光が消えた目で私を見る。
「どういう……こと?」
 なぜ私は叫んでいたんだろう。なにに気づいたんだろう。
 私は目を閉じて神社へと続く階段で、彼とシンクロしたときのことを思い出す。脳に直接流れ込んできた彼の感情が蘇ってくる。
 大きく息を呑んだ私は、目を見開いて環さんの両肩を掴む。
「久米さんは信じていた。あなたが犯人のわけがないって信じていたの」
「なにを言って……。それじゃあ、なんで彼は自分が犯人だなんて……」
「あなたが犯人じゃないと分かっていた。けれど、状況から警察はそうは思ってくれない。このままだとあなたが逮捕される。そう思ったからこそ、彼は自分に疑いの目を向けさせた」
「私が逮捕される……」
「そう、彼は優香さんの件で逮捕されたとき、警察の取り調べがどれだけ苛烈なものか知った。その経験があったからこそ、いまのあなただけは逮捕させるわけにはいかなかった。あなたは特殊な状態だったから」
「特殊な状態? そんなことない。私は普通だった。普段と同じだった」
「いいえ、そうじゃない」私は首を横に振る。「あなたは忘れているだけ。思い出して。なんで夜道で男に追われたとき、そのまま手をつくんじゃなく肩から倒れたの? なんで、あなたも久米さんもお酒が強いのに、ノンアルコールビールを買っていたのか」
 視界の隅で、オルゴールに入った環さんのククルが大きく拍動した。
「私は……」
 環さんはひざまずくと両手で下腹部を押さえる。その手の下から、柔らかい光が溢れてきた。
「そう、あなたは妊娠しているの。久米さんとの子供を」
 倒れている環さんの周囲の床が輝き出し、そこから拳大のシャボン玉のような、蒼い泡が湧きあがってくる。環さんの顔の高さでその泡が弾けると同時に、ハンドベルを鳴らしたような澄んだ音が響いた。
 まばたきをくり返す私の前で、赤、緑、黄色、ピンク、橙、様々な色の泡が床から生まれては浮き上がってき、はじけて音を鳴らしていく。泡がはじける音が、やがて美しい曲を紡いでいった。
 きよしこの夜。救い主の誕生を祝う静かながら荘厳、そして涼やかな旋律。

 きよしこの夜 星は光り 救いの御子は
 まぶねの中に 眠りたもう いとやすく

 哀しげに微笑みつつ、弱い光が宿る下腹部を撫でながら、環さんは歌詞を口ずさむ。その姿を、目を細めて眺めていた私の肩に小さな影が飛び乗ってきた。
「いい雰囲気のところ悪いけどさ、ちょっとだけ手伝ってくれるとありがたいかな」
 私の肩に乗ったククルが、刃の両耳を必死に振るいながら言う。首を回して振り向いた私の頬が引きつった。いつの間にか、巨大なサソリがすぐそばまで迫ってきていた。アフリカゾウの鼻ほどの太さのある尻尾が、勢いよく振り下ろされる。私はとっさに両手をかざす。掌から迸った光の奔流が、サソリの尾と激しく衝突した。骨が軋むような衝撃が全身に走る。
 ククルが両耳の刃でサソリの足を切り落としていくが、すぐに大量の蟲によって修復されていく。私は足に力を込めて押し返そうとするが、尾の先に付いた毒針は、光線を掻き分けるようにして、じりじりと迫ってきていた。
 毒針が私の掌に触れようとしたそのとき、シンバルを叩いたような音が地下室に響き渡った。私は音がした方向を見る。そこには、小さなオルゴールが転がっていた。
 一筋の紅いレーザー光線がオルゴールから飛び出し、巨大サソリの頭部を貫いた。サソリは黒光りする体を一度大きく痙攣させると、その場に崩れ落ちる。迫っていた尾もだらりと垂れ下がり、腕にかかっていた圧力も消え去る。
 倒れ伏したサソリの体から、無数の蟲たちが湧きだし、壁や天井の隙間へと逃げていこうとする。
 しかしその前に、オルゴールから浮きだしてきたレーザーの玉が、一気に膨張した。間近でオーケストラが演奏しているような大音響が地下室に響き渡る。
 交響曲第九番 第四楽章。ベートーベンが作曲した最後の交響曲のクライマックス。『歓喜の歌』とも呼ばれるその力強く雄大な旋律とともに、レーザー光線が複雑に色を変化させつつ、薄暗い部屋を駆け巡った。
 レーザーに触れたはしから、蟲たちが蒸発していく。わずか十数秒の間に、部屋に満ちていた蟲の大群は一匹残らず駆逐された。
 数秒ごとに色を変えるレーザーと、オーケストラが奏でるような壮大な演奏で満たされたこの地下室は、どこまでも幻想的だった。この贅沢なコンサートに私が酔いしれていると、レーザー光線が環さんの前に収束していく。やがて、それは人の形へと変化していった。
 レーザーの輝きが消えたとき、環さんの前には一人の男性が立っていた。久米さん、環さんを愛し、彼女のためにすべてを捧げた人物。
「……環さん」
「……久米君」
 久米さんが差し出した手を掴んで、環さんは立ち上がる。寄り添った二人の額が触れる。
「ごめん、哀しい思いをさせて。本当はずっと君のそばにいたかった。君と家族になって、この子を育てていきたかった」
 久米さんは愛おしそうに、環さんの腹部を撫でた。
「謝らないで」
 微笑む環さんの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「あなたは命を救ってくれたんだから。私と……この子を」
 久米さんと、環さんの手が重なる。二人の命の結晶が宿る腹部の上で。
「いやあ、美しい光景だね。これで今回もマブイグミは成功かな」
 サソリとの戦いで、ところどころに軽い出血が見られるククルが、私の肩の上で言う。私はククルの怪我に手を添え、そこを治療していく。
「おっ、こんなことまで出来るようになったんだ。本当に成長したね、香苗」
 ククルは嬉しそうに両耳を立てた。
「ねえ、もしかしてククルっていう存在って……」
 私はこれまでの三人のマブイグミの経験から思いついた仮説を口にしようとする。しかし、ククルは「しっ」というと、片耳で私の口を塞いだ。
「ほら、いまいいところなんだからさ、邪魔しちゃだめだよ」
 もう片方の耳で、ククルは環さんたちを指す。
「この子を大切にするから。きっと幸せにするからね」
「うん、この子と君。二人の幸せをずっと祈っているよ」
 地下室の壁、天井、床が淡く輝きはじめた。その光が部屋に満ちていく。
「環さん、忘れないで。僕はずっと君のそばで、ずっと君のことを見守っているよ」
 久米さんのそのセリフとともに二人の姿が光の中に溶けていく。夢幻の世界が消えようとしている。
「さて、そろそろ、いったんお別れの時間かな」
「ちょっと待ってククル。まだ訊きたいことがあるの!」
 私は半透明になっているククルに必死に話しかける。
「なにを訊きたいかは分かってるけど、それは次に会ったときに教えるよ。それより、これで三人のマブイグミが成功した。けれど、本番はこれからだよ」
「本番? どういうこと?」
 私が早口で訊ねると、ククルは両耳を羽ばたかせて私の肩から浮き上がった。
「次が一番重要な人物のマブイグミだっていうことだよ」
「一番大切な人物って、最後の特発性嗜眠病患者のこと? やっぱり特別病室に入院している患者が、他の三人のマブイを吸った人、サーダカンマリなの?」
 おばあちゃんの説明では、サーダカンマリは他の人のマブイを吸ったことで昏睡状態になっている。そして、その人物のマブイは、自分が作った夢幻の世界で彷徨い続けているということだった。
 環さんの夢幻の世界に、彼女のマブイが彷徨っていることはなかった。マブイグミの仕上げの際に出てきた環さんは、あくまで実体のない影のような存在だった。そうなると、最後の特発性嗜眠病患者、特別病室に匿われている人物こそ、サーダカンマリに違いない。
「その通りだよ」
 光の中に浮いているククルは、あっさりと頷いた。
「特別病室にいる人物こそ、他人のマブイを吸った張本人、サーダカンマリな人さ。その人物のマブイグミが成功したとき、全てが解決する。これまでの三人のマブイグミは全て、その人物のマブイグミをするための準備だったんだよ」
「準備? どういうこと? その人って誰なの?」
 私とククルの体がさらに透けていく。夢幻の世界がもうすぐ崩壊する。
 ククルは私の問いに答えることなく、「ねえ、香苗」と話しかけてきた。
「最後のマブイグミは凄く過酷なんだ。香苗はそのために凄くつらい思いをしないといけない。けれど、いまの香苗ならきっと大丈夫だって信じているよ。これまで三人のマブイグミを通して、香苗は凄く成長してきたからね。もう全部受け入れられるはずさ」
「どういうこと? 意味が分からない」
 ククルに近づこうとしたとき、その姿が光の中に溶けていった。彼の声だけがかすかに聞こえてくる。
「それじゃあ香苗、また会おうね。最後の夢幻の世界でさ」
 私の意識も光が塗りつぶしていった。



「ククル……」
 つぶやきながら私は瞼を上げる。目の前のベッドに環さんが横たわっていた。
 彼女の額からそっと手を引くと、その顔には涙の跡があった。
 環さんが「う、う……」と声を上げる。彼女の両手が、かすかに膨らみはじめている下腹部に重ねられる。ククルが言い残した不吉な言葉でざわついていた胸が温かな満足感で満たされていく。
 まもなく、環さんは目を覚ますだろう。私は三人のマブイグミに成功し、担当する特発性嗜眠病患者全員を治療することができたのだ。
 ふと壁時計を見ると、夢幻の世界に入ってから一時間ほど経過していた。
 今回はやけに現実世界での時間が経っているな。そんなことを考えていると、首からぶら下げているPHSがブルブルと震えだした。液晶画面を見ると、袴田先生からだった。
 こんな時間にどうしたんだろう? 私は通話ボタンを押し込む。
『香苗君、大変なことが起きた』
 回線が繋ががるなり、袴田先生はひどく動揺した声で言った。彼のこんな口調をこれまで聞いたことがない。不安をおぼえつつ私は環さんのベッドに背中を向けると、「どうしたんですか」と押し殺した声で言った。すぐ横にある窓が風でガタガタと軋む。叩きつけられた雨粒の音がうるさく、私がPHSを耳に押し付けると、袴田先生の苦悩に満ちた声が聞こえてきた。
「レント君が行方不明になった。どうやら病院から出ていったらしい」
 窓の外で走った雷光が、部屋を黄色く染め上げた。
「残念ながら、少年はいまだ発見できていません」
 机を挟んで向かい側の席に座った園崎という名の刑事が言う。
 環さんのマブイグミが成功した日、そしてレント君が行方不明になった日から三日が経っていた。
 レント君が院内にいないことが判明してすぐ、暴風雨のなか私や袴田先生、華先輩を含む職員十数人で病院の周辺を探した。しかし、レント君は発見できなかった。警察にも連絡して捜索してもらったが、いまだに発見はおろか、彼の足取りすらつかめていない。
 そうしてなんの手がかりもないまま三日が経った今日、園崎さんはペアを組む三宅という練馬署の刑事とともにやってきて、現在の状況説明をしていた。
 病状説明室には机の向こう側に園崎、三宅の両刑事、こちら側には私、袴田先生、華先輩が座っている。四畳半ほどの空間に五人もの人間が詰め込まれているせいか、少し息苦しく感じる。
「三日も発見できないとなると、ただ迷子になっているとは考えられない。何らかの犯罪に巻き込まれた可能性もあります」
 低い声で園崎さんが言う。
「それってまさか、連続殺人の犯人に見つかったとか……」
 私は声を震わせる。レント君はいまも続いている恐ろしい殺人事件の、唯一の目撃者かもしれない。だとしたら、犯人に狙われる可能性も否定できない。三宅さんが「その可能性も含めて、現在捜査をしています」とそっけなく答えた。
「しかし、まさかこんなことになるとは思いませんでしたなぁ」
 園崎さんは当てつけるような口調で言うと、袴田先生を睨む。
「警察病院に転院させるのは危険だと院長先生がおっしゃるから引き下がったのに、これではあの少年はさらに危険な状況に追いやられている。どう責任を取るおつもりなんですか?」
「責任の追及は、少年が発見されてからでも遅くないんじゃないですか。彼が生存して見つかるか、それとも遺体で見つかるかで責任は違ってくるでしょう」
 袴田先生の答えに、私は耳を疑う。園崎さんもあっけにとられた表情を浮かべている。
「はっ、彼の生死にあまり興味のないようですね」
 気を取り直したように園崎さんは言う。
「こんなに無責任な人物だと知っていたら、大切な目撃者を任せたりしませんでしたよ。本当に腹立たしい。これで、殺人事件の解決が遠ざかっただけでなく、新しい犠牲者が出るかもしれない」
 その通りだ。袴田先生ならレント君を救ってあげることができる。そう思ったからこそ、私も任せたのだ。それなのに……。
 私は隣に座る袴田先生を見る。仮面を被っているかのように表情のないその顔は、全く知らない人物のように見えた。
 最近、袴田先生の様子がおかしい。いったいどうしたというのだろう。
「あなた方からなにか、少年を見つけるための情報が得られると思ってきたんですが、とんだ無駄足だったみたいですね。主治医がこんなに適当な医者じゃ、話にならない」
 園崎さんが立ち上がりかけたとき、私は先日、瑠奈子ちゃんと交わした会話を思い出す。あの日、レント君は私が助けると、瑠奈子ちゃんに約束した。袴田先生が頼りにならないなら、私がなんとかしなくては。
「あの」
 私は勢いよく立ち上がる。園崎さんが「なんですか?」と訝しげな視線を向けてきた。
「あの、レント君が両親のところに戻ったっていうことはあり得ませんか?」
「両親のところに? そんなことあり得ませんよ」
 園崎さんの態度には取りつく島がなかった。私は気にすることなく言葉を続ける。
「けれど、失踪する寸前に、レント君が外を眺めて言っていたんです。『パパとママが呼んでいる』って」
 園崎さんは目付きを鋭くすると、隣にいる三宅さんと顔を見合わせたあと、浮かしかけていた腰を椅子に戻した。
「なるほど、院長先生に比べるとあなたは少年のことを気にしていたらしい。彼のフルネームを聞き出したのもたしか、あなたでしたね」
「私と言うか、レント君と仲良くなった子が教えてくれたんですけど」
「細かいことはいいんですよ」
 園崎さんはかぶりを振る。
「あの少年について知っていることがあったら、どんなことでもいいんで教えていただけますかね」
 あのことまで言うべきだろうか? あれはきっと、混乱して口走っただけのはず。
 数秒迷ったあと私は口を開く。どんな小さな情報が、レント君の居場所を突き止められるか分からないのだ。
「レント君は……パパとママがやったって言っていました」
「やった? なにをですか?」
「そのときの話の流れから言ったら、連続殺人だと思います」
 刑事たちが目を剥く。華先輩も息を呑んで硬直している。ただ一人、袴田先生だけは、私の話が聞こえていないかのように無反応だった。
「自分の両親が連続殺人の犯人だと、あの少年が言ったんですか?」
 園崎さんが前のめりになる。
「はっきりではないですが、それに近いことを。そのときは大きなショックを受けたせいで、記憶が混乱していただけだと思っていたんですが……」
 私が慌てて付け足すと、園崎さんは乱暴に髪を掻き上げた。
「まったく、なにがなんだか分からない」
「たぶん、酷い虐待をした両親の姿と、連続殺人犯の姿が頭のなかで混同しただけだと思います」
 園崎さんは腕を組み、私を見る。
「もちろん、少年の両親は連続殺人犯なんかじゃありません。それどころか、少年は実の両親から虐待を受けてもいませんでしたよ」
「……え!?」今度は私が驚く番だった。「虐待を受けていない? そんなことあり得ません。レント君の体の傷は、間違いなく長い間、過酷な虐待を受けたことによってついたものです」
「そうですか。けれど、少なくとも最近までそれをしていたのは、あの少年の実の両親ではありません」
「なんでそう言い切れるんですか! しっかり調べてください!」
 興奮した私が立ち上がると、園崎さんは冷めた眼差しを向けてきた。
「クサナギレント。それが少年の名前でしたね。調べた結果、たしかに該当する子供の記録がありました。おかげさまで、彼の身元が分かりましたよ。児童相談所に問い合わせたところ、両親からの虐待の被害者として昔の記録もありました」
「じゃあ……」
 私が前のめりになると、園崎さんは片手を突き出してきた。
「落ち着いてください。それでも彼の両親が、最近まで虐待をしていたり、連続殺人の犯人だったりすることはないんですよ。なぜなら、もういないんですからね」
「もういない?」
 私が聞き返すと、園崎さんは声のトーンを落とす。
「ええ、そうです。クサナギレントの両親はずっと前に死んでいるんですよ。何者かに殺害されてね」
 言葉を失う私の前で、園崎さんは陰鬱に言葉を続けた。
「両親の遺体が見つかって以来、クサナギレントという人物の記録はまったくありません。彼は先日発見されるまでずっと、社会から消えていたんですよ」



 Tシャツにジーンズというラフな格好でベッドに仰向けになりながら、私は自室の天井を眺め続ける。自宅マンションに帰ってから、ずっと同じ姿勢で考え込んでいた。
「クサナギレントの両親はずっと前に死んでいるんですよ。何者かに殺害されてね」
「両親の遺体が見つかって以来、クサナギレントという人物の記録はまったくありません」
 数時間前、刑事たちから聞いた話が頭の中でくり返される。
 両親が何者かに殺害され、そしてレント君はずっと行方不明になっていた。つまり、犯人がレント君を誘拐し、その後、虐待をしつつ育てていたということだろうか?
 物心つかないうちに誘拐されたとしたら、自分に虐待を加えている大人を親だと思い込んでも仕方がない。
 レント君は自分の両親こそ、現在この周辺で起きている連続殺人事件の犯人だと仄めかしていた。だとすると、彼の両親を殺害した犯人は、レント君を誘拐したうえで苛烈な虐待を加えつつ育て、最近になって連続殺人を開始したということだろうか。そして、事件現場にレント君を連れていき、残忍な犯行を目撃させたうえで解放を……。
 私は両手で髪を掻き乱す。いまの仮説では、あまりにも犯人の行動に一貫性がない。なぜレント君を誘拐して育てたのか、なぜ犯行現場に彼を連れていったのか、そもそもなぜ連続殺人を犯し続けているのか、全てに説明がつかない。
 なにかが間違っている。なにか違うアプローチをしなくては、レント君を見つけることはできない。そんな予感がしていた。
 気怠さを感じながら緩慢に身を起こした私は、ナイトテーブルに置かれているリモコンを手に取り、テレビの電源を入れる。夜のニュース番組がディスプレイに映し出される。
『……から行方不明になっている少年の捜索は現在も続いており、警察が三百人体制で周囲を捜索しています。しかし、いまだ発見にはいたっておらず、少年の安否が心配されています』
 ちょうどレント君についてのニュースが流れていた。連続殺人事件の目撃者かもしれない少年の失踪に、世間は強い関心を持っており、大きなニュースになっている。
 画面の中では、警察官たちが雨の中、長い棒で茂みの中を突いたり、ダイバーが池に潜ったりしていた。それらの映像が意味することを理解して、リモコンを掴む手に力が籠る。
 警察はすでにレント君が死亡しているかもしれないと考えている。そして、時間が経てばたつほど、その予想が現実のものになる可能性は高くなる。
 一刻も早く彼を見つけなくては。気が急くのだが、警察が大規模な捜索を行っているいま、一般人である私に出る幕などあろうはずがなかった。
 無力感が容赦なく心を苛んでくる。ニュースキャスターの『次のニュースです』という言葉とともに、映像が切り替わった。心臓が大きく跳ねる。それは、私が久米さんの遺体を見つけた神社を空撮したものだった。
『先日、杉並区の神社の裏にある林で発見された白骨化した遺体が、殺人の容疑で指名手配され、逃亡中とみられていた久米容疑者のものであることが警視庁の調べで明らかとなりました。久米容疑者は二年ほど前、以前交際していた佐竹優香さんを……』
 滔々と原稿を読むキャスターの声を聞きながら、私は乾燥した唇を舐める。とうとう、あの遺体が久米さんのものだということに警察が気づいた。殺人の容疑者がすでに死んでいたということで、本腰を入れて捜査を開始するだろう。彼の遺体を発見したのが私だと気づかれるかもしれない。そうなっても動揺しないよう、覚悟を決めておかなくては。
 そのとき、テレビから軽い電子音が響き、画面の上方に『ニュース速報』の文字が現れた。
 なんだろう、興味を惹かれた私は軽く前傾する。
『練馬区内で五人の遺体を発見 現在東京西部で起きている連続殺人か』
 目を疑った私は、ベッドから降りてテレビに近づく。
 また殺人事件が起きた。あの恐ろしい連続殺人が。しかも今回は五人も……。
 呆然自失のままニュース速報の文字を何度も読み返していると、画面の横から出てきた手がキャスターに原稿を渡した。彼は一度目を見張ると、やや上ずった声で喋りはじめた。
『えー、ただいま速報が入りました。練馬区内の路上で、五人の男女の遺体が見つかったとのことです。遺体の状況から警視庁は殺人事件と断定、東京西部で連続して発生している殺人事件との関連を慎重に……』
 私はリモコンのボタンを押し、テレビの電源を落とす。重い沈黙が降りた部屋で、私は正座をして考え込む。
 レント君が入院している間、殺人事件は起きていなかった。そして、彼が姿を消すと、再び事件が起きてしまった。これは偶然なのだろうか?
 窓から外を眺めながら、レント君が「パパとママが呼んでいる」とつぶやいたことを思い出す。もしかしたら、犯人にとってレント君はなにか重要な意味があるのかもしれない。何らかの理由で彼がいないと殺人を犯せないとか……。
 そこまで考えたところで思考の袋小路に迷い込んでしまう。レント君がいないと人を殺せない。そのロジックが思いつかない。
 頭蓋骨の中に漬物石でも詰まっているかのように重い頭を押さえる。あまりにも考えることが多すぎる。心配なのはレント君だけではない、父さんがいまどうしているのかもずっと気になっていた。
 ただ、父さんについてはレント君ほどの危機感を覚えていなかった。父さんが追っている少年Xがいまどこにいるのか、予想は付いている。いまのあの男には、父さんを傷つけることなどできるわけがない。
 私はこめかみを揉みながら、頭を整理していく。
 半年前、少年Xは自分の正体を探っていた中年男性を殺害し、その罪をなすりつけたうえで久米さんを絞殺した。久米さんとシンクロし、その一連の経験を共有した私は、久米さんが少年Xと思われる人物を『先生』と呼んでいたことを知っている。
 おそらく少年Xは現在、カウンセラーのような仕事についているのだろう。そして、優香さんに虐げられていたときか、それとも釈放後なのか分からないが、久米さんは患者として少年Xと出会い、魅了されてしまった。それほどに、少年Xはカリスマ性を持ち、カウンセリングの腕が良いのだろう。患者を自分のとりこにして、思い通りに操れるほどに。
 三回のマブイグミで見てきた特発性嗜眠病患者の記憶の中に、それに該当する人物が登場していた。
 愛していた父親に殺されかけたと思い込んだ飛鳥さん、自らの正義が間違っていたと苦悩した佃さん、絶望の中にいた二人は何者かのケアによってなんとか心が壊れる寸前で踏みとどまっていた。そして、マブイを吸われて昏睡に陥る前日の夜、その人物に呼び出されている。
 特発性嗜眠病になる前日の深夜、何者かに呼び出されているのは環さんも同じだ。
 三人の記憶の最後の部分は、その直後にマブイを吸われた影響なのか、ノイズが入ってはっきりとは見えなかった。しかし、きっと三人を呼び出した人物は少年Xに違いない。絶望に付け込まれて彼の支配下に置かれていた飛鳥さんと佃さんは、深夜であろうと呼び出しに応じただろうし、環さんも行方不明の久米さんの情報を教えると言えば誘い出すことができたはずだ。
 少年Xがなんで三人を誘い出したのか。直接的な危害を加えるため。おそらく少年Xは三人を殺害するつもりだったはずだ。自分の正体を探っていた中年男性を殺害し、さらには久米さんを手にかけたことで、二十三年間耐えてきた殺人への衝動が爆発し、止められなくなってしまった。きっとそういうことなのだろう。
 そこまで考えたところで、私は口元に手をやる。
 落ち着いて見直すと、やや強引な理論展開のような気もするが、なぜかこの仮説が正解だという確固たる確信が胸に宿っている。
 もしかしたら、ユタとしての能力が上がっているからだろうか。三人の記憶の中でよく見えなかった部分が私の潜在意識に溶け込み、答えを導き出しているのだろうか。
 そうだ、きっとそうに違いない。無理やり自分を納得させつつ、私は思考を進めていく。
 少年Xと三人が一堂に会したとき、なにかのトラブルがあった。そして結果的に、三人のマブイは少年Xに吸われてしまい特発性嗜眠病を発症した。そして、マブイを吸った少年Xもその負担に耐え切れず、昏睡状態に陥り、特発性嗜眠病となった。だからこそ、三人は少年Xに傷つけられることなく、マブイを失った体は帰巣本能に従ってふらふらと自宅へと戻り、昏睡状態に陥ったのだ。
 他人のマブイを吸って特発性嗜眠病となった者は、自らの創り出した夢幻の世界に囚われ、マブイの状態で彷徨い続けるとおばあちゃんが言っていた。しかし、これまでの三人の夢幻の世界では、それを創り出した本人のマブイが彷徨っているようなことはなかった。
 つまりは、最後の特発性嗜眠病患者である少年Xこそ、マブイを吸った張本人、サーダカンマリに違いない。そして、いまも昏睡状態の少年Xは、袴田先生や華先生によって、神研病院の特別病室に匿われている。
 いったい少年Xは誰なのだろう? なぜ、そこまでして袴田先生たちは彼を隠すのだろうか?
 もう少しだ。もう少しで真相にたどり着く。そんな予感が背中を押す。
 果たして、入院患者が少年Xだということを、袴田先生や華先輩は知っていて、そのうえで彼を匿っているのだろうか? 私は口元に手を当てて頭を絞る。
 華先輩は以前、最後の特発性嗜眠病患者が連続殺人事件にかかわっているかもしれないと言っていた。二ヶ月前から昏睡状態の少年Xが、いまも続いている連続殺人の犯人ということはあり得ない。ただ、事件に少年Xが一枚噛んでいる可能性は十分にある気がした。
 二十三年前、私を見つめた感情の浮かんでいない瞳。あの男は怪物だった。遺体が原形をとどめないほど破壊されている連続殺人と、なにか関係があっても不思議ではない。
 連続殺人事件に巻き込まれたレント君と、少年Xを追っている父さん。二人の手がかりは昏睡状態で特別病室に入院している少年Xであろう人物にある。そして私は、その人物の記憶を覗き見る力を持っている。
 前回のマブイグミからすでに三日が経ち、体力は回復してきている。いつでも次の、そして最後のマブイグミを行える。ただ、問題はどうやって特別病室に……。
 そこまで考えたとき、ピンポーンというどこか間の抜けた音が部屋に響いた。
 思考を邪魔された私は、思わず舌を鳴らしてしまう。こんな時間にいったい誰だ。
 立ち上がり玄関へと向かった私は、ドアスコープを覗き込み頬を引きつらせる。ドアの外に立っているのは、見知った二人の男だった。園崎と三宅という名の刑事たち。
 こんな遅い時間に刑事たちが自宅まで押しかける理由など、一つしか思いつかない。久米さんの件だ。彼の遺体を見つけたのが私だということを知られてしまったのだろう。
 私は緊張を息に溶かして吐き出しながら、そっと扉を開ける。
「こんばんは、識名先生。夜分恐れ入ります」
 園崎さんは深々と頭を下げる。しかし、革靴を履いた彼の足が、閉めることができないように扉を固定したのを私は見逃さなかった。
「……なんのご用でしょうか?」
 警戒しつつ訊ねると、園崎さんは左右を見回した。
「ここですと、他の住人の方に聞かれるかもしれません。よろしければ、上がらせていただけませんでしょうか?」
 言葉面こそは丁寧だが、その口調には拒否を許さないような響きがあった。
 私は振り返って部屋の中を見る。男性を二人、しかもこんな時間に部屋に上げることには抵抗があったが、断ったところで刑事たちが引き下がるとは思えなかった。それに、久米さんの遺体の件なら、たしかに他人に聞かれるかもしれない場所でするような話ではない。
 私は渋々、「どうぞ」と二人を招き入れた。堂々とした態度で部屋に入ってきた刑事たちの態度から、彼らが他人の生活空間を踏み荒らすことに慣れていることを感じた。
 私は座布団を二枚出し、部屋の中心に置かれたローテーブルのそばに二人を座らせると、とりあえずコーヒーを淹れることにする。
 お湯を沸かしている間、刑事たちは無遠慮な視線を部屋中に這わせていた。じろじろと体を見られているような気分になり、鼻の付け根にしわが寄ってしまう。
「どうぞ、インスタントですけど」
 私は三つのコーヒーカップとスティックシュガーをローテーブルに並べた。園崎さんは「どうも」とブラックのまま一口コーヒーを飲むと、カップをソーサーに戻す。陶器がぶつかるカチャッという音が、空気を張り詰めさせた。
「さて……」園崎さんは唇に付いたコーヒーを舐める。「急にお邪魔して申し訳ございません。どうしても直接先生とお話しして伝えたいことがありましたもので」
「伝えたいことってなんでしょう?」
 背中に冷たい汗が伝う。
「その前に確認したいことがあります。先日、先生はお父様とおばあ様の行方不明者届を提出された。そのことに間違いありませんか?」
「はい、間違いありません。もしかして、父と祖母の居場所が分かったんですか!? 二人がどこにいるのか、新しい情報があったんですか!?」
 私が座布団から腰を浮かすと、園崎さんと三宅さんは顔を見合わせる。その表情には、かすかに戸惑いの色が浮かんでいるように見えた。
「えー、識名先生、申し訳ありません」
 園崎さんは咳ばらいをする。
「お二人について新しい情報はありません。今日、ここに来た理由もそれではありません。それに、病院から逃げ出した少年の件でもありません」
 膨らんでいた期待が、急速にしぼんでいく。
「では、今日いらした理由を教えてください」
 父さんとおばあちゃんのことでなければ、もはや好ましい話題はあり得ない。私は居ずまいを正す。
「えー、どこから話しましょうかね。まずですね、先日とある神社の裏にある雑木林から、白骨化した男性の遺体が見つかりました」
 やっぱりその話だったか。私は動揺が表情に出ないように奥歯を噛みしめる。
「なんとなくニュースで見た気がします。それがどうかしたんですか?」
「実はですね」園崎は声をひそめる。「科捜研で調べた結果、その遺体が久米のものであることが分かったんです」
 私は「久米?」としらを切る。これは誘導尋問に違いない。佃さん、そして環さんの主治医であること以外、私と久米さんの接点はない。彼のことを詳しく知っていては不自然だ。
 二人の刑事は、ふたたび何やらアイコンタクトを取る。なぜか彼らの顔に浮かぶ戸惑いが濃くなっているように見えた。
「えー、識名先生。久米のことはご存じないでしょうか?」
「はい、どなたでしょうか? もしかして、私が担当した患者さんとかですか? たくさんの患者さんを診察しているので、全員まで覚えては……」
「いえ、違いますよ。久米はあなたの患者ではありません。あなたが担当した、加納環さんの婚約者で、佃三郎さんが弁護をした男です」
「はぁ、環さんと佃さんの関係者ですか」
 自分でも白々しいと思いつつも、私は演技を続ける。園崎さんは頭痛をおぼえたかのようにこめかみを押さえつつ、話を続けた。
「久米は二年ほど前、元恋人の女性を殺害したうえ、遺体を酸で溶かした容疑で逮捕、起訴されました。しかし、佃さんの弁護の甲斐あって高裁で無罪判決を受けて釈放され、その後、加納さんと婚約しています。思い出されましたか?」
「ええ、そんな事件があったのは覚えています。けれどたしか、無実だったんですよね」
 そう、久米さんは無実だった。優香さんは自殺で、その後に起きた中年男性の殺害は、少年Xが起こしたものだ。
「いえ、話はそう単純じゃないんですよ。釈放されてから数ヶ月後、久米はとある中年男性を殺害したと告白して姿を消したんです」
「そうなんですか!?」
 私は目を剥いて声を高くする。
「それも覚えていらっしゃらないんですか。これは困ったな」
 園崎さんはこめかみを押さえたまま、深いため息をついた。
 騙されるな。私は自分に言い聞かせる。この刑事たちは私が久米さんについて詳しく知っていたと証明したいのだ。そして、彼が殺害された事件について、私を容疑者にしようとしているに違いない。
 私は久米さんの遺体発見に関与していない。それで押し通すんだ。もし警察が、私は彼の遺体を掘り起こしたという確実な証拠を持っていたとしても、あれが久米さんの遺体だとは知らなかった。昏睡状態だった環さんが譫言うわごとで言った場所を探したら遺体が出たので、怖くなって逃げた。そう釈明すればいい。
「ええとですね。久米に殺されたと思われていた男性は、二十三年前に少年Xによる通り魔事件の被害者の一人でした。少年Xはご存知ですね」
「……ええ、もちろんです。私もあの事件に巻き込まれ、母を失っているんですから」
「そうですか。それについては覚えていらっしゃるんですね。安心しました」
 それについては? なにが言いたいんだろう?
「えっとですね、識名先生。殺された男性は、少年Xを追っていました。少年法に守られてたいした罪を受けなかった少年Xが、名前を変えて社会に溶け込んでいると睨み、その正体を暴こうと考えていたんです」
「その気持ちは……わからないでもないです」
 父さんもその男性と同じ気持ちで、少年Xを追っていた。二十三年前のあの事件に巻き込まれた人々の心に刻まれた傷は、いまも癒えていないのだ。私も含めて……。
「これはちょっと言いにくいんですが……、男性の遺体には、少年Xが両親を殺害したときに付けたシンボルのようなものが刻まれていました。なので我々は、久米こそが少年Xであり、正体に気づかれたので男性を殺害して姿を消したと思っていました。さらに、これはまだ公にされてはいない情報なのですが、その後からこの付近で発生した連続殺人事件も、我々は久米、つまりは少年Xが身を隠しつつ、人を殺し続けていると思っていました」
「……え?」口から呆けた声が漏れる。
 いま起きている連続殺人が少年Xの犯行? そんなはずはない。少年Xは二ヶ月前から昏睡状態で神研病院の特別病室に入院しているはずだ。今日も犠牲者が出た連続殺人事件の犯人のわけがない。
 よく考えたら、そもそもこの刑事たちが久米さんの件で私に話を聞きに来るのはおかしい。この刑事たちは、連続殺人事件の特別捜査本部に所属していたはずだ。被害者の遺体が原形をとどめていないほどの暴力で、人間が犯したとはにわかには信じられないような残酷な連続殺人。半年ほど前に久米さんが犯したとされていた、中年男性の殺害とは明らかに違う事件だ。
 なぜ、警察は二つの事件を同一犯によるものだと思っているんだろう?
 刺すような痛みが頭に走り、私はうめき声を上げてこめかみを押さえる。
 一瞬、脳裏でイメージが弾けた。なにかおぞましいイメージが。
 なにかがおかしい。私はなにか勘違いしている。胸の中で膨らんでいく違和感の正体を必死に探っている私を尻目に、園崎さんはさらに話を進めた。
「しかし、今回久米の遺体が発見されたことで状況は大きく変わりました。司法解剖の結果、久米が死亡したのは半年以上前で、さらに喉頭の骨が砕けていることより絞殺されたと推測されます」
 久米さんとシンクロした際に、背後から絞め殺された感覚、ロープが皮膚に食い込み、喉の奥で骨が砕ける音を聞いたのを思い出し、私は喉元に手を当てる。
「つまり、久米は失踪直後に殺害されたと思われます。元恋人と男性の殺害についても、何者かに脅されて虚偽の告白した可能性が高くなりました。つまり、久米さんは半年前にアパートで中年男性が殺害された事件の犯人ではないのかもしれません」
「そうなんですか。でも、なんでわざわざ、関係者でもない私にそのことを伝えに?」
 いまだ胸にわだかまっている違和感の正体を探ることを棚上げにして、私は訊ねる。園崎さんのまどろっこしい物言いに苛つきはじめていた。久米さんの遺体を発見したのが私だと疑っているなら、さっさとそう言えばいいのに。
「関係者じゃない? 本気でおっしゃっているんですか?」
 園崎さんが目を覗き込んでくる。きっとかまをかけて、私が動揺するかどうか確認しようというのだろう。
「私がどう関係しているっておっしゃるんですか?」
 私はやや口調を強めると、みたび園崎、三宅の両刑事は顔を見合わせた。さっきから、いったい何だと言うのだろう。
「えー、識名先生、話がもどって恐縮なんですが、あなたはお父様とおばあさまの居場所が分からないから行方不明者届を提出したんですよね。お二人を探しているんですよね」
 なぜ久米さんの遺体の話ではなく、行方不明者届について訊ねるのだろう。私は首を傾ける。
「家族が行方不明になったんだから、当然じゃないですか」
「いえ、お二人は行方不明ってわけじゃ……」
「父と祖母が、いまどこにいるのかご存じなんですか!? でも、さっき新しい情報はないって言っていたじゃないですか!」
 私はローテーブルに手をついて身を乗り出す。
「いえ、なんと言いますか……、新しい情報ではないんですよ。十年ほど前の情報なんです」
 園崎さんはやけに歯切れ悪く言う。
「十年前? 十年前の情報がなんでいま出てくるんですか」
「それはですね、識名先生……」
 園崎は子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で言う。
「あなたが行方不明者届を出された父方のおばあ様は、もう十年も前に亡くなっているはずなんですよ」
「……は?」
 なにを言われたか理解できなかった。園崎さんのセリフが脳に浸透していかない。
「なにを言って……。だって、おばあちゃんとはこの前、実家で……」
「けれど、死亡届によると十年前に心筋梗塞で亡くなっています。葬式を上げて埋葬された記録もあります」
「葬式……」
 つぶやくと同時に、また頭痛が走り脳内でイメージが弾ける。穏やかな表情で目を閉じているおばあちゃんが横たわっている棺桶を、涙を流して覗き込んでいるイメージ。
 私はテーブルについていた両手を押して、後方に飛びすさる。カップからコーヒーが溢れた。
「大丈夫ですか、識名先生」
 三宅さんが心配そうに話しかけてくるが、答える余裕などなかった。いま頭に浮かんだ光景はなんなんだろう? あれはまるで、おばあちゃんが……。
 急に裸で氷点下に放り出されたかのような悪寒をおぼえ、私はガタガタと体を震わせる。
「先生、驚かれているところ申し訳ありませんが、話を続けさせてもらいます」
 園崎さんが私を見つめる。
「今日こちらにお邪魔したのは、おばあさんのことを話すためではありません。久米が何者かに殺害された可能性が出てきたことにより、お父様の件の状況が大きく変わってきたんです」
「父の件……?」
 父さんと久米さんに、なんの関係があるのだろうか。もしかして、父さんが久米さんこそ少年Xだと思って追っていたことを、警察は把握しているのだろうか。だとしたら……。顔から血の気が引いていくのが分かった。
「まさか、父が久米さんを殺したと疑っているんですか!?」
 興奮で声が裏返ってしまう。園崎さんは目をしばたたかせると、大きく首を横に振る。
「まさか、そんなこと思っていませんよ。なんでそんな話になるんですか?」
「あ……、すみません、頭がこんがらがってしまって」
 私は首をすくめて謝罪する。混乱して早とちりしてしまった。
「先生、少し落ち着きましょう。私たちは久米の遺体が見つかったことで、半年前にアパートで起きた殺人事件についての状況が大きく変化した。そのことをあなたに伝えに来た。それだけなんです」
 この刑事たちは、私が久米さんの遺体を見つけた件で来たわけじゃない? 
「なんで、私に半年前の殺人事件について報告する必要があるんですか? 別に関係者でもないのに」
「いえ、そんなことはありません。識名先生、あなたはあの事件の関係者ですよ。……とても重要な関係者です」
 園崎さんの口調がさらに重いものになる。
 この人はさっきからなにを言っているんだ? 正体不明の不安と恐怖が体内で暴れまわり、いまにも皮膚を突き破って出てきそうだった。
「識名先生、これから私が言うことをよく聞いてください。あなたは半年前、アパートで中年の男性が殺害された件に大きくかかわっています」
 言葉を切った園崎さんは私を見つめると、ゆっくりと口を開き、そのセリフを放った。
「なぜなら、殺害された男性こそ、あなたのお父様なんですから」



 口から「は?」と呆けた声が漏れる。なにを言われたのか分からなかった。
「半年前、先生のお父様は借りていたアパートの一室で何者かに殺害されました。お父様の部屋からは少年Xについての資料と、久米の写真が発見されました」
 思考が真っ白に塗りつぶされている私の前で、園崎さんは滔々と話し続ける。
「そのことより二十数年前の通り魔事件で奥さんを失い、自分も重傷を負ったお父様は少年Xを追い、久米こそが奴であると突き止めた。そのことに気付いた久米が、正体を暴かれる前にお父様を殺害した。そう思っていました。しかし、久米の遺体が見つかったことより、久米が少年Xのスケープゴートだった可能性が高くなっています。少年Xは自分の正体に気付いたお父様を殺害したあと、彼の部屋に貼ってあった写真を久米のものに代えて……」
「待って! ちょっと待ってください!」
 私は声を張り上げる。
「わけの分からないことを言わないでください! ほんの数日前に、私は実家で父と祖母に会っているんですよ」
 二人の刑事はまた顔を見合わせた。彼らのどこか辟易しているような表情を見て、頭に血が上る。
「急に押しかけてきてなんなんですか! 私の家族が死んでいるなんて失礼です! そもそも、半年前に父さんが事件に巻き込まれたなら、そのときに連絡してくるはずでしょ!」
 一気にまくしたてた私が荒い息をついていると、園崎さんは冷めた顔で「連絡しましたよ」とつぶやく。
「……はい?」
「ですから、連絡しましたよ。私たちが先生にはじめてお目にかかったのは、その事件現場だったじゃないですか」
 また頭痛が走り、脳裏にイメージが弾ける。虚ろな目で立ち尽くす私に、園崎さんが話しかけている。その後ろには、アパートが立っていた。見覚えのあるアパートが。
「識名先生、あなたはたぶん疲れすぎなんですよ。ご自分の病院で診てもらった方が……」
「園崎さん!」
 私は叫んで園崎さんのセリフを遮る。
「現場はどこですか!? 半年前に殺人事件があったアパートはどこにあるんですか!?」
 私の剣幕に圧倒されたのか、園崎さんは軽くのけぞりながらその住所を告げた。私は目を見開くと、跳ねるように立ち上がり玄関に向かう。靴を履くと、「識名先生、どこへ!?」という園崎さんの声を無視して扉を開け、外廊下に出た。エレベーターを使うことすらもどかしかった。非常階段を駆け下りた私は、雨が降りしきる夜道に飛び出した。
 全身で雨を受け止めながら、必死に足を動かし続ける。足の筋肉が軋み、雨に体温を奪われ、酸素不足になった体中の細胞が悲鳴を上げても、私はただ走り続けた。背後から得体のしれない怪物が追ってくるような妄想に囚われながら。
 雨のカーテンの向こう側に、目的地が見えてくる。古ぼけた木造のアパート。実家の仏壇に残されていたママの写真の裏に記されていた場所。数日前に訪れた父さんの潜伏先。
 足を止めた私は必死に酸素を貪りつつ、アパートを見上げる。さっき、半年前の事件現場がどこか訊ねたとき、園崎さんが迷うことなくここの住所を口にした。
 きっと、あの刑事の勘違いだ。ここが半年前に殺人事件が起きた現場のはずがない。父さんが被害者のわけがない。ほんの二週間前、私は実家で父さんたちと過ごしていたんだから。
 必死に自分に言い聞かせて、アパートに向かおうとする。しかし、足が動かなかった。道路の間に見えない障壁が立ち塞がっているかのように敷地に入れない。
 怖かった。ただ怖かった。何が起きているのか知ることが。このまま身を翻して去ってしまいたいという衝動にかられる。
 いや、だめだ。私は両拳を力いっぱい握りしめる。逃げてもなにも解決しない。それを私はこの二十三年間、思い知らされてきた。
 三人のマブイグミを経て、私は成長したはずだ。だから、前を向こう。真実に立ち向かおう。そうすればきっと、全部あの刑事たちの勘違いだったと分かるはずだから。
 自分に発破をかけた私は、奥歯を噛みしめて敷地に一歩踏み出した。
 錆びた階段を上がり、洗濯機の並ぶ外廊下を進んでいった私は、目的の部屋で目を見張る。その玄関扉は開き、入り口には警察が現場保全に使う規制線が張られていた。
 前回来たときは、こんなものなかったはずだ。私は唾を飲み込むと、『警視庁 立入禁止』と記された規制線をくぐって室内に入る。短い廊下には特に異常は見られなかった。
「父さん!」
 声を張り上げ、靴を脱ぐこともなく廊下に上がった私は、右手にある扉がわずかに開いていることに気づく。前回はどうせトイレだろうと思って、ここを開けることはしなかった。しかし、今日はやけにその扉が気になった。わずかに開いた隙間から、瘴気が漂ってきているような気がした。
 そっとノブを掴んで扉を開けた私は硬直する。口から「なんで……?」というかすれ声が漏れる。いまにも切れそうなほど、弱々しい電球の明かりに映し出された薄暗い空間には見覚えがあった。私自身の目ではなく、数日前にシンクロした久米さんの目によって目撃したことがある部屋。手を血塗れにした久米さんが、興奮しながら『先生』に電話をかけていたユニットバス。
 吸い込まれるように扉をくぐった私は、洗面台に近づいて小さく悲鳴を上げる。洗面台の鏡に、はっきりと手形が付いていた。血液の手形が。
 よく見ると鏡だけではない。廊下からは暗くて気づかなかったが、蛇口、便座、シャワーカーテン、浴槽、このユニットバスのありとあらゆる箇所に血の手形が刻まれている。
 私は震えながら後ずさってユニットバスから出る。背中が廊下の壁にぶつかった。足を上げて、ユニットバスの扉を蹴る。大きな音を立てて、扉は閉まった。
 早鐘のように打つ心臓の拍動が、鼓膜にまで伝わってくる。全身の汗腺から、冷たい汗が滲み出していた。
 半年前、遺体を見つけてパニックになった久米さんが逃げ込んだユニットバス。それがなんでここに?
 分からない、分からない、分からない……。
 頭を抱えながら、私は横目で廊下の突き当たりにある扉を見る。その奥に、どんな光景が広がっているのか、確認するのが怖かった。にもかかわらず、私は誘蛾灯に誘われる昆虫のように、ふらふらと扉に向かっていく。ノブを掴んだ私は、自分が自分でないような感覚にとらわれたまま、扉を開いていく。
 その部屋の様子は、数日前に訪れたときとほとんど変わらなかった。
 ただ一点を除いて。
 床に白線が引かれていた。人が倒れている形の白線が。その周囲のカーペットには、大きな染みが出来ている。なにか赤黒い液体が広がったような染み。刑事ドラマなどでよく見る事件現場そのままの光景が、そこには広がっていた。
 気づくと、私は座り込んでいた。口を半開きにしたまま、部屋の中心にある白線を眺める。数日前に来たときは、こんなものなかったはずだ。いったい、この数日でなにが起きたというのだろう?
 いや、もしかしたら前回来たときもあったのだろうか? もしかしたら、私が気づかなかっただけなのだろうか?
「識名先生、あなたはたぶん疲れすぎなんですよ」
 ついさっき、園崎さんに言われたセリフが耳に蘇る。もしかしたら、私は現実をまともに認識できなくなっていたのかもしれない。父さんは、本当に半年前にここで……。
 そこまで考えたところで、私は勢いよく頭を振って、脳に湧いた不吉な考えを振り払う。そんなわけがない。この二ヶ月、私は何度も実家に帰り、父さんに会っている。父さんと交わしたたわいない会話を、父さんが作ってくれたカレーの味を鮮明に覚えている。これはきっと誰かが私を混乱させようとして仕組んだことに違いない。
 私はまだ力の入らない足に活を入れて立ち上がると、久米さんと環さんの写真が大量に貼られている壁の前に移動する。少なくとも最近まで、父さんはこの部屋で久米さんを追っていた。彼が少年Xだと思い込み。それは間違いないはず……。
「あれ?」
 壁を眺めながら私は声を漏らす。
 久米さんが少年Xかもしれないと警察が考えはじめたのは、久米さんの失踪後のはずだ。
 だとしたら、父さんはどうやってこんなに久米さんの写真を集めたのだろう。調査をはじめたとき、すでに久米さんは殺害され、神社の林に埋められていたというのに。
 時系列が合わない。なんで私はいままで、こんな当然のことにさえ気づかなかったんだ。
 棒立ちになっていた私はふと、天井近くの壁紙の端がめくれていることに気づいた。
 あれは……。気になった私はデスクにあった椅子を持ってくると、その上に乗って、めくれている壁紙を引く。日焼けしすぎた薄皮が剥がれていくように、壁紙はぺりぺりと音を立てながら剥がれていく。椅子から降りて移動しつつ、さらに引いていくと、全面の壁紙が剥がれ落ちた。
「なに……、これ……?」
 壁紙の下から現れた壁を見て、私は唖然としてつぶやく。そこにも、大量の写真が貼られていた。しかし、それらに写っているのは久米さんではなかった。
「なんで……あの人の写真が……」
 手にしていた壁紙を離した私は、写真を一枚一枚眺め、そこに映っている見知った人物の姿を確認していく。なかには、その人物と私が並んで話している写真すらあった。
 視線が一枚の写真で止まる。その写真にだけは人はおらず、重厚な作りの観音開きの扉が写し出されていた。それがなにを写したものか、すぐに気づく。神研病院の特別病室。
 その写真をそっと剥がし、裏返してみる。そこには文字が記されていた。

『準備はできたね 真実を見つけに行こう』

 誰からのメッセージなのか分からない。誰が壁全体の壁紙を張り替え、その下にこんな仕掛けをしたのか想像もつかない。これはなにかの罠なのかもしれない。けれど一つだけ確かなことがある。
 特別病室に入院している最後の特発性嗜眠病患者。三人のマブイを吸ったサーダカンマリであり、おそらくは少年X。その人物こそが全ての謎を解く鍵だ。
 なにが起きているか分からないいまこそ、特別病室に行くべきだ。そこに入院しているのが誰なのか確かめ、その人物の夢幻の世界に這入り込んで記憶を覗き込む。そうすればきっと、一連の事件の裏で蠢いているものの正体がつかめるはず、全ての真実が明らかになるはずだ。
 行こう! 私は手にしていた写真をズボンのポケットにねじ込むと、出口に向かった。視界の隅に映る、床に描かれた白線から必死に意識を逸らしながら。
 夜間の出入り口から院内に入ると、顔見知りの警備員が目を丸くした。
「識名先生、どうしたんですか? ずぶぬれじゃないですか」
「途中で傘が壊れちゃって」
 適当に誤魔化した私は、顔に張り付いた髪を掻き上げながら奥に進む。昼間は患者でごった返す外来の待合も、いまは照明が落とされ人気がない。非常灯の明かりに妖しく照らされた無人のフロアを横切った私は、エレベーターで三階に向かう。
 衝動に突き動かされてアパートから病院まで走ってきたが、どうやって特別病室に入ればいいのだろうか。私の職員証では、特別病室の自動ドアを開けることすらできない。
 エレベーターから降りた私は、内科医局の扉を開いた。この病院に勤務する内科医全員のデスクがあるフロアには蛍光灯が灯ってはいるものの、同僚医師の姿はなかった。こんな深夜では、いかに遅くまで勤務することが多い医師たちといえど帰宅しているのだろう。
 私は医局の洗面台に置かれていたタオルで濡れた顔を拭きながら、自分のデスクに向かう。とりあえず腰を落ち着けて、これから取るべき行動について考えたかった。
 特別病室に入院している患者は、病院ぐるみで匿われている。あの病室に入れるのは、主治医である華先輩や、院長である袴田先生など、限られた職員だけだ。
 華先輩か袴田先生、どちらかを説得して、職員証を借りなくては。
「可能性があるとしたら……華先輩か」
 濡れたうなじをタオルで拭きながら、私はつぶやく。
 先日、特別病室の患者について袴田先生に訊ねたとき、彼はこれまで見たことがないほど激高した。とても面会を許可してくれるとは思えない。それに、レント君に対する態度などを見ても、最近の袴田先生は何か様子がおかしい。彼にこんな気持ちを抱くのはとても残念だが、いまは心から信頼することはできなかった。
「残るは華先輩……か」
 タオルを首にかけながら、私はつぶやく。
 特別病室に忍び込んだのを見つかったとき、華先輩にもかなり厳しい態度を取られた。けれどこの前、準備が出来たら会わせてもいいというようなことを言ってくれた。担当する三人の特発性嗜眠病患者、全員を目覚めさせることができたらと。
 マブイグミを行い、三人を昏睡から救い出すことができたいまなら、華先輩のいう「準備が出来た」状態になったと言えるだろう。
「いったいなんの準備だか分からないけどさ」
 私は壁時計を見る。すでに日付が変わっている。宵っ張りの華先輩ならおそらくまだ起きているだろうが、いまからいきなり電話をして特別病室の患者に会わせてくれというのはさすがに無茶だろうか。
 数秒考えた私は、体を拭っていたタオルを両手で丸めると、低い声でつぶやく。
「……無茶でもやるしかない」
 身の回りで起きている不可解な状況。それを一刻も早く解決しなくてはならないのだ。
 ……父さんの安否を確認するためにも。
 華先輩に連絡を取り、強引にでも特別病室に入れてもらう決意を固めつつ私は自分のデスクに到着する。とっさに自宅を飛び出してきたのでスマートフォンを持ってきていない。デスクの抽斗にしまってあるPHSで交換台に連絡して、外線で華先輩を呼び出してもらわなくては。
 抽斗に手をかけたところで、デスクの上に置かれているものに気づき、私は動きを止める。それは、職員証だった。『神経内科 杉野華』と記され、笑顔の華先輩の写真が載っている。
「華先輩の職員証……?」
 なんでこれが私のデスクに? わけが分からないままに持ち上げて見ると、その下から小さなメモ用紙が姿を現わす。

『頑張ってね』

 用紙には一言、そう記されていた。
 これは華先輩からのエールに違いない。どうして今夜、私が最後の特発性嗜眠病患者に会おうとすると分かったのかは不明だが、華先輩は特別病室の鍵である自分の職員証を私に託してくれた。
 職員証を鷲掴みにした私は、小走りに医局をあとにして病棟へと向かった。病棟のある十三階についてエレベーターを降りると、消灯されている薄暗い廊下が伸びている。夜の見回りに出ているのか、ナースステーションに看護師の姿はなかった。
 足音を殺しながら廊下を進んでいった私は、華先輩の職員証をカードリーダーにかざして特別病棟の自動ドアを開く。鉄製の自動ドアが重い音を立ててスライドしていく。
 特別病棟に侵入した私は、自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、柔らかい絨毯が敷き詰められた廊下を進んでいく。
 壁には絵画がかけられ、西洋の甲冑すら飾ってある廊下は、昼に見たときは豪奢な雰囲気だった。しかし、非常灯の薄い灯りに浮かび上がった光影は不気味に見え、いまにも甲冑が襲ってくるような気がしてしまう。
 おそるおそる足を進めた私は、とうとう突き当りにある観音開きの重厚な扉の前までやってくる。この扉の向こう側に、サーダカンマリが、……少年Xがいる。二十三年前、私を見つめた氷のような眼差しを思い出す。体の奥底から湧き上がってきた震えを、私は奥歯を噛みしめて抑え込んだ。
 もう怯えない。もう、あの男の記憶に潰されない。
 この部屋に入院している人物の正体を暴き、夢幻の世界に侵入し、すべての謎を解き明かす。そのときこそ私は、二十三年間がんじがらめにされていた鎖から解放される。
 大きく息を吐いた私は、華先輩の職員証をカードリーダーにかざした。ピッという軽い電子音が響き、扉が焦らすようにゆっくりと開いていった。
 白い空間が広がっていた。面積はテニスコートぐらいあるだろうか、床も壁も、そして遥か高い位置にある天井も真っ白な部屋。
「ここが、特別病室?」
 私はおずおずと扉をくぐる。てっきり、高級ホテルのような部屋だと思っていたのに、こんな手術室や研究室を彷彿させるような殺風景な空間だとは。
 戸惑いつつ、私は部屋の中心に目を向ける。そこにはポツンとベッドが置かれていた。
 あそこにサーダカンマリが、少年Xがいる。口の中の水分が急速に失われていく。
 ベッドに横たわっている人物の正体を確認し、すぐにマブイグミをはじめる。夢幻の世界へと侵入してククルと合流したあと、その人物の記憶を探って、このわけの分からない状況を解明する。
 私は一歩一歩踏みしめるようにベッドに近づいていく。距離が詰まっていくにつれ、心拍数が上昇していった。
 ベッドのそばについた私は、こうべを垂れてベッド柵を両手で掴む。まだ、患者の顔を見ることができなかった。
 少年Xがすぐそこにいる。ママを奪い、父さんを傷つけ、そして二十三年間私をくるしめ続けた人物が。
 柵を掴む手がガタガタと震える。それが恐怖によるものか、それとも武者震いなのか、自分でも分からなかった。
 行け! いまこそ、トラウマを乗り越えるんだ! 
 自らを鼓舞した私は勢いよく顔を跳ね上げると、両腕に力をこめ、身を乗り出してベッドを覗き込んだ。
 ベッドの上で目を閉じている人物、最後の特発性嗜眠病患者の顔が網膜に映し出される。その瞬間、思考が真っ青に塗りつぶされる。
 私は何度もまばたきをくり返しながら、呆然とその人物の顔を凝視する。
「なんなの……これ……?」
 なにが起こっているか分からなかった。自分が何を見ているのか、理解できなかった。
 ベッドで横たわっていたのは若い女性だった。見覚えのある女性。
 いや、見覚えがあるどころじゃない。私は彼女の顔を毎日見ている。
 ……毎日、鏡の中で。
 特別病室に入院していた最後の特発性嗜眠病患者、それは……私自身だった。
「あり得ない……、こんなことあり得ない……」
 かすれ声で「あり得ない」とくり返しながら私は後ずさり、自分と同じ顔の女性が横たわるベッドから離れていく。そのとき、背後から足音が聞こえた。
「香苗センセ」 
 小さく「ひっ」と悲鳴を上げて振り返ると、入り口に小学校低学年ぐらいの少女が立っていた。小柄な体躯、顔を突き出すように前傾した姿勢、ネコを彷彿させる大きな瞳が細められている。
「瑠奈子ちゃん」
「こんばんは香苗センセ」
 瑠奈子ちゃんは軽く片手を挙げる。
「だ、ダメでしょ、こんなところに入ってきちゃ。それに、もう寝る時間でしょ」
 注意すると、瑠奈子ちゃんは肩を震わせて笑い声を漏らした。
「こんな状況なのに、常識的なこと言うんだね。ということは、まだ全然気づいてないんだ。混乱しているとはいえさ、ちょっと鈍すぎるんじゃないかな」
「なに……言っているの……」
「分かんないか。けれど心配しないで。このおかしな状況を全部説明するために、私が来たんだからさ」
「説明!? なんで私と同じ顔をした人が、そこに寝ているのか教えてくれるの」
 私は甲高い声を出すと、瑠奈子ちゃんはゆっくりとした足取りで部屋に入ってくる。彼女が軽く両手を振ると、入り口の扉が閉まった。まるで、彼女が触れることなく扉を閉めたかのように。
 そんなわけがない、自動ドアだから勝手に閉まっただけだ。私は近づいてくる瑠奈子ちゃんに威圧感をおぼえつつ、自分に言い聞かせる。
「同じ顔をした人じゃないよ。そこに寝ているのは香苗センセ本人だよ」
 私から三メートルほどの距離で立ち止まった瑠奈子ちゃんは、ベッドに横たわる『私』を指さす。
「そんなわけないじゃない! だって、私はここにいるでしょ!」
「そんなに興奮しないでよ。もちろん君も香苗センセさ」
 瑠奈子ちゃんの口調が心なしか変わっていくのを前に、私は頭を抱える。
「意味が分からない。……なんで特別病室に私が寝ているのよ。この部屋にいるのは、最後の特発性嗜眠病患者で、サーダカンマリで、少年Xだったはずなのに」
「大筋は当たっているよ」瑠奈子ちゃんは肩をすくめる。「香苗センセは少年Xではないけれど、特発性嗜眠病患者でサーダカンマリな人さ」
「なにを言って……」
 そこまで言ったとき、また激しい頭痛とともに脳裏で映像が弾けた。
 雑居ビルの暗い階段を、私が重い足取りで上がっている。やがて私は、階段を上がり切ったところにある鉄製の扉を開いて、薄暗い部屋へと入った。
「こんばんは、先生。いらっしゃいますか?」
 奥にある『診察室』に私が進む。革製のリクライニングシートが置かれたその部屋で、あの人がこちらに背中を向け、デスクの前に座っていた。
「やあ、香苗君」
 あの人は振り返ると、優しい笑み、不自然なほどの慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「どうしたんですか、明かりもつけないで。あの……、こんな時間に急なご用って、なんでしょうか?」
「ああ、もう少し待っていてくれるかな。すぐに他の方々も来るから」
「他の? まだ誰かいらっしゃるんですか?」
 私が訊ねると、彼はさらに口角を上げ、デスクに置いてあるモニターのようなものに視線を向けた。監視カメラの映像のようなものが映っている。
「ああ、ちょうど他の三人も来たみたいだ。それじゃあ、君は最後にするつもりなんだが、とりあえず私が誰なのかだけ教えておこう」
「誰なのか? どういうことですか?」
 あの人はゆっくりと立ち上がると、心から愉しげに私に言った。
「香苗君、実は私はね、少年X……」
 映像が途切れ、悲鳴が響きわたる。私はすぐには、それが自分の口から迸っていることに気づかなかった。
「……なんなの!? 私は何を見たの!?」
 頭を抱えたまま、私はひざまずく。近づいてきた瑠奈子ちゃんが、私の目を覗き込んできた。
「どうやら思い出したみたいだね。うん、いい傾向だよ。受け入れる準備ができたからこそ、記憶が蘇ってきたんだからね。さて、時間もないし、そろそろ説明しちゃおうかな」
「瑠奈子ちゃん、知っているなら教えて。なんで私の周りでおかしなことが起きているのか」
「おかしなこと?」瑠奈子ちゃんは小首を傾げる。「おかしなことって具体的になにかな?」
「なにって、私と同じ顔をした人が、そこに寝ていることに決まっているじゃない!」
 私が叫ぶと、瑠奈子ちゃんは「それだけ?」と顔を近づけてきた。
「それだけじゃない。いま頭におかしなイメージがよぎったし、それに刑事が父さんも、おばあちゃんももう死んでいるとか言って……。父さんが借りていたアパートは今日行ったらユニットバスが血塗れで、事件現場になっているし……」
 混乱しすぎて舌がうまく回らない。私が縋りつきながら、必死に言葉を紡ぐと、瑠奈子ちゃんは「それだけ?」と同じ言葉をくり返した。瑠奈子ちゃんの大きな瞳に、怯えた表情の私が映る。
「それだけって……、どういうこと?」
 不吉な予感に声が震える。
「ねえ、香苗センセ。よく思い出してごらんよ。他にもおかしなことはいっぱい起こっていたんだよ。この世界はずっとおかしなことだらけだったんだよ」
 瑠奈子ちゃんは大きく両手を広げる。恐怖をおぼえた私は、彼女の華奢な肩から手を離してずりずりと後ずさる。
「最近、雨ばっかりだよね」
 瑠奈子ちゃんは天井を見上げた。
「ねえ、香苗センセ。この雨さ、いつから降っているんだっけ?」
「いつから……」
 記憶をたどった私は、顔から血液が引いていく音を聞いた気がした。
「そう、二ヶ月間だよ。この二ヶ月、一度たりとも止むことなく、雨が降り続けているんだ。おかしいと思わなかったのかい?」
 両手を広げる瑠奈子ちゃんを、私はただ見つめることしかできなかった。
「それだけじゃないよ。なんで子供の私とかレント君が、この病棟に入院して、病院中を歩き回っているの? 子供なら、小児病棟に入院して、外に出られないようになっているもんでしょ。それにさ、特発性嗜眠病患者を三人も受け持つのだっておかしいよ。そんな貴重な疾患の患者なら、できるだけ多くの医者に担当させて、経験を積ませるのが当然じゃない?」
「それはきっと……、小児科病棟が満床だから仕方なく。特発性嗜眠病患者は私がどうしても担当したいって志願したから……。それに今年は異常気象で……」
 無理筋だと理解しつつも私はなんとか理由付けをする。
「しかたないなあ、それじゃあこれはどうかな。ねえ、実家に帰ったとき、子供の頃から飼っているネコとウサギに会ったんだよね」
 なぜ瑠奈子ちゃんがそのことを知っているのだろう。さらに深く混乱の渦に巻き込まれつつ、私は「それがどうしたっていうの?」と語気を強める。
「ねえ、香苗センセ」
 瑠奈子ちゃんは哀しげに微笑んだ。
「ネコとウサギの寿命ってどれくらいかな?」
 電撃に体を貫かれたような気がした。体の力が抜けていく。
「そう、子供の頃に飼っていたネコやウサギがまだ生きているわけがないんだよ。残念なことに、彼らの寿命は人間よりもはるかに短いんだからさ」
「そ、そんなことない。きなことハネ太は長生きで……」
 あえぐように言うと、瑠奈子ちゃんはこれ見よがしにため息をついた。
「まったく強情と言うか、頭が固いと言うか。よし、それじゃあ決定的なのを行こうか」
 瑠奈子ちゃんは顔の前で人差し指を立てる。
「香苗センセは最近、よく実家に帰っていたよね。ちょっと気が向いたときとか気軽にさ。そして、朝実家から病院に出勤したりしていた。そうだよね?」
 私は力なく頷く。なにを言われるのか怯えつつ。
「それじゃあ聞くけどさ、香苗センセの実家って、いったいどこにあるの」
「実家……」
 視界がぐらりと揺れる。そうだ、私の実家は……。
「広……島……」
 かすれ声が漏れる。
 そうだ、広島だ。新幹線で四時間もかかる場所だ。それなのに、私はまるで隣の県にいく程度の気軽さで実家に帰っていた。
 そんなこと出来るはずないのに。
「分かったみたいだね。そう、思いついてすぐ帰れるような場所じゃないんだよ。ましてや、タクシーで帰るなんて出来るわけがない」
「けれど、私は……」
「うん、君はこの二ヶ月間、周りで起きている異常なことに気づいていなかった。それを当然のことだと受け入れていた。けれど、それは当たり前なんだ」
 ウインクをした瑠奈子ちゃんの体が少しずつ縮んでいく。入院着から覗く首元や腕に柔らかそうな金色の毛が生えてくる。
「誰でも、おかしなことを自然と受け入れてしまうものなんだよ。夢の中ではね」
 瑠奈子ちゃんはさらに前傾し、両手を床についた。いや、それはもはや手ではなく、前足と化していた。柔らかそうなピンク色の肉球がある前足に。
「夢の中……」
 その言葉をくり返す私の前で、毛で包まれた瑠奈子ちゃんの頬から長いヒゲが伸びていく。はらりと落ちた入院着から見慣れた生物が這い出してくる。ウサギの耳を持つネコが。
「そう、ここは夢幻の世界。香苗、君は二ヶ月前から、自分が創り出した夢幻の世界で彷徨い続けているんだよ」
 ククルは挨拶するように、長い耳をぴょこんと立てた。
幕間
「ねえ、とうとう他の三人、全員が目を覚ましちゃったよ」
 パイプ椅子に腰かけた杉野華は、目の前のベッドでかすかに寝息を立てる女性に向かって話しかける。
 数日前、特発性嗜眠病患者の一人だった加納環という女性が目を覚ました。妊娠中だった彼女の健康状態は良好で、お腹の胎児も順調に育っている。昨日からは、産婦人科医の指導のもと、出産に向けて体力を取り戻すためのリハビリも開始している。
 これで、同時に昏睡状態に陥った四人の特発性嗜眠病患者も、残すところは華が担当する彼女だけとなった。
「まったく、あなたが起きないせいで、私の腕が悪いみたいに見えるじゃない。後輩たちがどんどん、患者を治していっているからさ」
 他の特発性嗜眠病患者たちは、三人の後輩医師がそれぞれ担当していた。彼らにどうやって患者を治療したのか訊いても、三人とも「特別なことは何もしてません。勝手に目を覚ましたんです」と同じ答えが返ってきた。
 華は立ち上がると、ベッドに横たわる女性の頬を撫でる。
「ねえ、昨日園崎っていう刑事が言っていたんだけど、あの人に連続殺人の容疑で逮捕状が出そうなんだって。しかもさ、どうやら本当にあの人が、少年Xだったみたい。そう、あんたが子供のときに襲われた少年Xだよ」
 華は大きくため息をつく。
「私さ、あの人のこと、けっこう尊敬していたんだ。なんと言っても、あんたを助けてくれた恩人だったからね。けれど、そのトラウマを植え付けた本人だったなんて……」
 拳を握りしめる華の鼓膜を、小さな寝息が揺らす。華は苦笑を浮かべると、女性のこめかみを軽く指ではじいた。
「愚痴とかを黙って聞いてくれるのは嬉しいんだけどさ。やっぱり、前みたいにちょっと生意気なこと言うあんたの方が、話していて楽しんだよね」
 二ヶ月以上、仕事が終わるとこの病室に来て、その日に会ったことをこと細かに入院している彼女に話す生活が続いている。そうすればいつの日か、「へぇ、そんなことがあったんですね、華先輩」と彼女が目を覚ましてくれるような気がしていた。
 今日こそは……。そんな期待を胸に、華は彼女の顔を覗きこむ。しかし、その目は閉じられたままだった。瞼が細かく震え、その下で眼球が激しく動いているのが分かる。
 華は首をわずかに傾ける。心なしか、彼女の寝顔がいつもより険しい気がした。もしかしたら、悪い夢でも見ているのかもしれない。
「そんなに怖い夢なら、もう見るのやめちゃいなよ」
 華は彼女の頬をそっと撫でたあと、出口へと向かう。
「また明日ね、香苗ちゃん。いい夢を」
 後輩であり、そして親友でもある識名香苗に軽く手を振ると、華は病室をあとにした。



 さて、あとはあの人の様子でも見てから帰るか。
 病棟の廊下を進んでいくと、背後からホイールの音が聞こえてきた。
 またあの人か……。肩を落として振り返ると、車椅子に乗ったこの病院の院長が近づいてきていた。
「なにかご用ですか、馬淵まぶち先生」
「院長と呼んでくれと言っているじゃないか」
 約二ヶ月前からこの病院の副院長から院長へと昇格した馬淵大介は、眉間にしわを寄せた。
 そんな情けないこと言うから、みんなから院長って認められないのよ。内心でつぶやきつつ、華は「はいはい、院長先生」と言い直す。
「識名先生の調子はどうかな?」
 馬淵は器用に車椅子を回転させて、香苗の入院している病室を指さす。大学時代、ラグビー部の試合で腰椎を粉砕骨折して半身不随となり、それ以来二十年以上車椅子を使用しているらしい。さすがに車椅子の扱いは慣れたものだった。
「相変わらずの眠り姫ですよ」
 あんたが本当に知りたいのは、あの子のことじゃないでしょ。華が胸の中でつぶやくと、案の定、馬淵は「それでは」とつぶやいて、再び車椅子を回転させ、廊下の奥にある特別病室へと繋ががる自動扉を指さす。
「彼の方はどうかな? 目を覚ます気配はないのかい?」
「……ありませんね。正直、病状は芳しくありません。体のダメージが大きいですから」
 これも、この新しい院長が本当に訊きたいことじゃない。華は冷たい声で馬淵に向かい、「もういいですか?」と言い放つと、踵を返す。
「いや、ちょっと待ちなさい。話はまだ終わっていない」
 華を慌てて呼び止めた馬淵は、神経質に辺りを見回したあと、声をひそめる。
「あくまで噂なんだが、彼がなにか大きな犯罪にかかわっているかもしれないと聞いたんだ。しかも、もうすぐ逮捕されるかもしれないと。主治医である君はなにか知っていたりしないかい?」
 馬淵が目を覗き込んでくる。この心の底まで見透かそうとするような目が大嫌いだった。
「ええ、知っていますよ。彼は暗示にかかり易い患者を洗脳して、自殺に追い込んでいました。しかも、この前まで世間を賑わせていた連続殺人事件の犯人かもしれません。さらに、二十三年前、自分の両親を殺してバラバラに解体したあと、遊園地で十人以上を殺害した少年Xの可能性すらあります。それがばれたら、マスコミがこの病院に殺到するかもしれませんが、その際はどうぞ、病院の最高責任者として毅然と対応をお願いいたします」
 早口でまくしたてた華は、「では」と言って放心状態の馬淵から離れていく。思わず刑事たちとの約束を破り、彼のことを明かしてしまった。嫌っている院長をやり込めれば気分が晴れるかと思ったが、気持ちはさらに沈んでいくだけだった。
 特別エリアの前までやって来た華は、首からぶら下げている職員証をカードリーダーにかざす。ガラス製の自動扉が開いていった。
 特別エリアの殺風景な廊下を、華は重い足取りで進んでいく。
「高い個室料を取っているんだから、このエリアぐらい絨毯敷くとか、絵を飾るとかぐらいすればいいのにさ」
 つぶやきつつ、突き当りにある最も個室料の高い特別病室の前までやってきた華は、引き戸のノブを握ったところで動きを止めた。
 約一ヶ月前から、この部屋には同じ人物が入院している。この病院にとって、そして華自身にとっても重要な人物が。病室に入って彼の姿を見るのには、いつも覚悟が必要だった。とくに、刑事たちから彼がなにをしたのか聞いてから。
「よしっ」
 口のなかで小さく声を出すと、華は引き戸を開いて病室に入る。
 中には高級ホテルのスイートルームのような空間が広がっていた。トイレとバスルーム、革張りのソファー、マホガニー製のデスク、さらには見舞客用のベッドルームまで付いている。
 華が住んでいるマンションの数倍の広さがあるその部屋の窓際に置かれたベッドの回りには、様々な医療機器が置かれていた。
 天井にぶら下がった点滴パックから、彼の鎖骨下静脈へと伸びる点滴ラインの側管には数個のポンプが取り付けられ、昇圧剤などの生命維持に必要な薬品を正確に測りながら投与している。リズミカルに電子音を響かせるディスプレイには、心電図、血圧、脈拍、呼吸数などが細かく表示されていた。彼の呼吸を管理し、肺へと酸素を送っている人工呼吸器からは、一定のリズムで空気を送り込むポンプ音が聞こえてくる。
 植物のツルのように垂れ下がっている点滴ラインを掻き分け、華はベッドサイドにたどり着く。そこに横たわる男性の姿を見て、華は口元に力を込めた。
 硬膜下血腫の除去手術を受ける際に剃り上げられた頭部には、うっすらと髪が生えている。右の顔面は特に損傷が激しく、いまも巻かれている包帯の下には、頬から眉にかけてえぐり取られた傷が広がっているはずだ。一度、包帯の交換に立ち合った際には、眼球を失いただ黒い空洞と化している眼窩に、吸い込まれていくような錯覚に襲われた。
 右腕と右下腿は骨が粉砕されて修復不能で、放置すると感染症を起こす危険があったため、手術で切断されている。
 華は彼の左手にそっと触れると小声で囁いた。
「こんばんは、……袴田先生」
 この病院の前院長からの返事はなかった。小さくため息を吐いた華は、ディスプレイに表示されている数値や、人工呼吸器の設定を確認していく。
 約二ヶ月前の深夜、彼は交通事故に遭った。多くの車が高速で行き交う幹線道路にふらふらと飛び出し、そして大型のSUVと衝突した。
 ドライビングレコーダーには、横断歩道でもない場所で、突然おぼつかない足取りで車道に飛び出した袴田の姿が記録されていたらしい。まるで魂が抜かれたような様子で車道に出た彼の様子から、自殺をはかった可能性もあるということで、SUVの運転手は不起訴になっている。
 事故後、袴田はすぐに大学病院の救急センターに搬送された。二十メートル近く跳ね飛ばされた袴田の全身は損傷が激しく、特に腹部の内臓は大きなダメージを負っていた。
 緊急手術が行われ、破裂していた右の腎臓と脾臓が摘出され、大きく破れていた大腸も半分以上が取りさられた。胸郭ごと潰された右肺も摘出手術、そして硬膜下血腫の除去術も同時に行われた。
 その後も右腕と右下腿の切断手術などを受けながら一ヶ月以上ICUに入院したのち、全身状態が安定したタイミングでこの神研病院に転送され、華が主治医となって特別病室に入院している。
 本来なら大学病院に入院し続けても良かったのだが、袴田が事故に遭ったことで、副院長から院長に昇格した馬淵が強引に転院させたらしい。人望のあった前院長への誠意を見せることで、新しい院長として認められやすくなる。そんな計算があったのではないかと華はふんでいる。
 一通りの確認を終えた華は肩を落とす。ディスプレイに表示されている数値が芳しくない。採血データでも各種臓器の機能が落ちてきている。
 大事故から奇跡的に生還した袴田の肉体も、限界を迎えつつあった。このままではおそらく、遠くない未来、彼の心臓は拍動することを止めるだろう。
 華はベッドのそばに立てかけられていたパイプ椅子を広げ、腰掛ける。
「なんで目を覚ましてくれないんですか、袴田先生」
 胴体部に比べれば、袴田が受けた頭部の損傷は軽度と言えた。頭蓋内に生じた血腫も、早い段階で手術によって除去できているので、脳細胞へのダメージはそこまで大きくないはずだ。CTやMRI等の画像検査でも、そのことは証明されている。にもかかわらず、事故後、袴田の意識は戻らず、昏睡状態が続いていた。
 華は袴田の顔を見つめる。瞼がぴくぴくと動き、その薄い皮膚の下で眼球が激しく動いているのが見て取れる。もしかしたら夢を見ているのかもしれない。それは、まるで……。
「まるで、特発性嗜眠病」
 ぼそりとつぶやいた華は、鼻の頭を撫でる。
 袴田が事故に遭った翌日に、片桐飛鳥、佃三郎、加納環、そして識名香苗の四人は特発性嗜眠病を発症している。そして刑事の言葉を信じるなら、袴田は事故に遭う少し前に、四人を『カウンセリング』に使っていたビルに呼び出している。
 そこで袴田が毒物を使い、四人を特発性嗜眠病にしたのではないかと園崎という刑事は言っていた。そして、自分もその毒物の影響を受けたせいで幹線道路へと飛び出し、事故に遭ったのではないかと。
 事故によって脳にダメージを負ったせいで、袴田は昏睡状態に陥っているとずっと思っていた。けれど、もしかしたら勘違いだったのかもしれない。袴田が目覚めないのは脳の損傷のためではなく、特発性嗜眠病に、あの魂が抜かれたかのように眠り続ける奇病にかかっているからなのかもしれない。
 興奮して椅子から腰を浮かしかけた華だったが、すぐにまた臀部を座面に戻す。もしそうだとしても、なんら状況が変わるわけではなかった。特発性嗜眠病に特別な治療法があるわけではない。いまできることは、袴田の生命が消えないように処置を続けながら、祈ることだけだ。彼の意識が戻るように。
「袴田先生、早く目を覚ましてくださいよ。あなたには訊かなくちゃいけないことがいっぱいあるんですよ」
 華は声のトーンを下げる。
「あなたは本当に患者を洗脳して、自殺に追い込んでいたんですか? 本当に連続殺人を犯したんですか? 本当に香苗ちゃんのお父さんを殺したんですか?」
 言葉を切って立ち上がった華は、袴田の耳元に口を近づける。
「本当にあなたは……少年Xなんですか?」
 やはり、返事はなかった。しかし、かすかに袴田の眉間にしわが寄った気がする。
 やっぱり夢を見ているんだろうか? だとしたら、どんな夢なんだろう?
 袴田の眉間に指を添わせていると、白衣のポケットの中で、PHSが震えだした。液晶画面に表示されていた内線番号は、いまいる病棟のナースステーションのものだった。
「はい、杉野ですけど、どうしたの?」
 電話を取ると、若い看護師の声が聞こえてくる。
『あ、すみません、杉野先生。識名先生に会いたいっていう方々がいらしているんですけど』
「お見舞いってこと? べつにいいんじゃない。なんでわざわざ連絡してきたの?」
 普通、見舞客が来たことを主治医に伝えることはしていない。
『いえ、それがですね、三人とも識名先生とは直接は面識ないらしくて。ただ、どうしてもいま会わなくちゃいけないって……。言っていることがよく分からないんです』
「はぁ? 面識がないのに見舞い? 私も意味が分からないんだけど。そもそも、その人たちって誰なの?」
『それは……』
 見舞客たちの名前を聞いた華は、まばたきをくり返した。
 なんであの人たちが? 疑問が解消されるどころか、さらに深まっていく。
「えっとね、いま奥の特別病室にいるから、その人たちにはちょっと待ってもらっていて。すぐに行くからさ」
 なにが起こっているのかは分からない。ただ、あの人たちが香苗ちゃんに会いたがっていることにはなにか意味があるはずだ。
 PHSをポケットに戻した華は、ベッドに横たわる男の顔を覗き込む。
「また、来ます。ゆっくり休んでいてくださいね、袴田先生。ああ、これって本当の名前じゃないんでしたっけ。もしかしたら、あっちの名前で呼んだ方がいいんですかね」
 華は静かにその名を呼んだ。
「少年X、……草薙くさなぎ蓮人れんとさん」
(第18回へつづく)

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知念 実希人Mikito Chinen

1978年生まれ。東京慈恵会医科大学卒業、内科医。2011年、福山ミステリー文学新人賞を受賞し、『誰がための刃 レゾンデートル』(同作は19年『レゾンデートル』と改題し文庫化)でデビュー。主に医療ミステリーを手がけ、『天久鷹央の推理カルテシリーズ』が評判を呼ぶ。15年、『仮面病棟』で啓文堂書店文庫大賞第1位を獲得し、50万部超のベストセラーに。18年には『崩れる脳を抱きしめて』で、19年には『ひとつむぎの手』で連続して本屋大賞ベストテン入りを果たす。また19年、『神酒クリニックで乾杯を』がドラマ化されるなど各著書が注目を集めている。近著に『神のダイスを見上げて』『レフトハンド・ブラザーフッド』がある。

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