双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第7章(承前)

 サイレン音が近づいてくる。感染防御用のガウンを纏い、救急部の看護師とともに急患の受け入れ口へと向かう。
 救急隊からの搬送要請を受けた数分後、私は救急部で受け入れ準備を整えて待機をしていた。
 外に繋がる自動ドアを開くと、強い風と共に冷たい雨が吹き込んでくる。いつの間にか、大雨になっていたらしい。顔の前に腕を掲げ、大粒の雨が落ちてくる空を見上げる。まだ初夏の午後六時台だというのに、厚い雲に覆われた空は闇に覆いつくされ、辺りは深夜のようにくらかった。
 けたたましいサイレン音とともに救急車が到着する。回転灯が放つ派手な赤色が目に痛かった。
 雨が打ちつける車体に近づくと、後部扉が開き、救急隊員が降りてきた。彼が車内から引き出したストレッチャーに横たわり、虚ろな目で闇が広がる空を眺める少年の姿を見て、私は目を疑う。
 頭、顔、四肢、体幹、少年の全身に赤黒く粘着質な液体がこびりついていた。まるで血液のシャワーを浴びたかのように。生臭いにおいが鼻をつく。
 小さな顔も血液で汚れ、ストレッチャーに乗っているのが、一週間前に救急部に現れ、そしていつの間にか消えていた少年なのかどうか判断ができない。
「バイタルは現在も安定。しかし、ショックのためか呼びかけには反応しません!」
 雨音にかき消されないよう、救急隊員は声を張り上げながらストレッチャーを引いてくる。容赦なく降りつける雨が、少年の小さな顔に施された血液を洗い流していく。おぞましい血の化粧の下から現れた素顔。それは間違いなく、一週間前の当直中に出会った少年だった。
「すぐに治療をしますので、処置室に運んでください」
 私は救急隊員とともにストレッチャーを救急処置室へと引いていった。処置用のベッドにストレッチャーを横付けすると、「ベッドに移します」と救急隊員と看護師に声をかけつつ、少年の体の下に腕を入れる。血液のぬるりとした感触がラテックス製の手袋を通して伝わってきた。
「採血して血算と生化学を、血圧と心電図を測定、生理食塩水で点滴ラインを確保して」
 看護師たちに指示を飛ばした私は、処置用のハサミで少年の服を切っていく。もともと何色だったか分からないほどに血液を吸ったTシャツを裂いていくにつれ、ハサミの刃も鈍い赤色に染まっていった。
 ぎ取ったTシャツを丸めてわきに放ると、バシャという水音を立てて床に落ち、血液をまき散らした。
 露わになった上半身を見て、表情筋が蠕動せんどうしてしまう。慣れた手つきで処置を進めていた看護師たちが小さな悲鳴を上げて動きを止めた。
 肋骨がはっきりと浮き出るほどに痩せた胸部には、赤黒かったTシャツとは対照的に、蒼黒い皮膚が張り付いていた。
 古い痣を塗りつぶすかのように、新しい痣が広がっている。正常な肌の部分を探すのが難しいほどの虐待の痕跡。
「……手を動かしてください」
 声を絞り出すと、固まっていた看護師たちがはっとした表情になって処置を再開する。しかし、その手つきはどこかたどたどしかった。
 私はつけていたマスクを外し、こわばった顔の筋肉を必死に動かして笑顔を作ると、少年の顔を覗き込む。
「もう大丈夫だから、安心してね」
 可能な限り柔らかい声で話しかけるが、少年は無反応だった。その瞳は完全に焦点を失っていて、まるで眼窩がんかに硝子玉がまっているかのようだ。
 看護師が少年の手の甲に点滴針を刺す。鋭い針先が皮膚、そして静脈壁を破っているにもかかわらず、少年はまばたきすらしなかった。
 どれだけつらい毎日を送り、そして今晩、どんな恐ろしい経験をしたのだろうか。少年の痛々しい姿に、胸が締め付けられる。
 看護師がおずおずと少年の胸に心電図の電極を張り、枯れ木のように細い腕に血圧計を巻く。モニターに現れた血圧と心電図に異常がないことを確認した私は、蒸しタオルで少年の体を拭いて、こびりついた血液を落としていった。
「熱くない? 痛かったら言ってね」
 答えがないのを承知で語り掛ける。少年がこもっている心の殻は、そう簡単に破れるものではない。まずは危険が去ったこと、ここが安全な場所であることを理解してもらわねば。
 少年の引き渡しを終えた救急隊員が姿を消していくのを尻目に、私は蒸しタオルを何枚も使って少年の体を拭い続けた。一連の処置を終え、手持無沙汰になっていた看護師たちもそれに加わる。
 数分かけて血液を拭き取り終えた私たちは、彼に新しい入院着を着せると、電気毛布を掛けて冷え切った体を温める。
 全身状態が安定していて、緊急に処置する必要がないことが分かったためか、張りつめていた空気が緩んでいく。
 たしかに救急部での治療が必要ではないかもしれない。しかし、どれだけ重度の怪我を負った患者にも劣らず、この少年は重症なのだ。おそらくは長い年月をかけた治療が必要なほどに。
 私は防護用のガウンを脱ぎ、手袋を外すと、再び彼に話しかける。
「君、この前、うちの病院に来た子よね。そのときも会っているんだけど、覚えているかな?」
 予想通り、マネキンが横たわっているかのように少年は反応しない。
「私の名前はね、香苗っていうの。識名香苗。もしよかったら、君の名前も教えてくれないかな」
 少年は天井を見つめたまま動かなかった。
 これでいい。少しずつ進めていかなくては。そう思いながら、次に話しかけることを考えていると、若い看護師がベッドに近づいて話しかけてきた。
「ねえ、僕。なにがあったのかな? どうしてあんなに血塗れに……」
「ダメっ!」
 私は慌てて看護師の言葉を遮る。しかし、すでに遅かった。蝋人形のように動かなかった少年の表情筋が細かく蠕動をはじめる。発作でも起こしたかのように、か細い四肢が痙攣けいれんする。
「ああ! ああああ! うあああああ!」
 少年は激しく両手を振り回しながら、絶叫をはじめた。ひどく血走ったその目から涙を流すその姿は、瞳から血が溢れているかのようだった。少年の体が反り返り、ベッドがぎしぎしと音を立てる。その迫力に圧されたのか、看護師は身を反らせて後ずさっていった。
 私はとっさに少年の体を抱きしめる。振り回された手が頬に当たり、爪が皮膚をえぐった。鋭利な痛みに耐えながら、私は少年を抱きしめる両手に力を込める。しかし、少年はその痩躯そうくからは想像できないほどの力で暴れまわる。
 このままじゃ危険だ。固く食いしばった彼の口の端から白い泡が零れるのを見た私は、真っ青な顔で棒立ちになっている看護師に向かって片手を伸ばす。
「ジアゼパムを!」
 看護師は目を泳がせながら、「え?」と声を漏らす。
「ジアゼパム、鎮静剤を渡して!」
「あ、は……、はい」
 ようやく意図を理解した看護師は、おぼつかない手つきで救急カートからアンプルを取り出し、その中身をシリンジに吸って手渡してくる。私はそれを点滴ラインの側管に接続すると、片手で少年を抱きしめたまま、もう片方の手で中身を押し込んでいった。
 強力な鎮静剤であるジアゼパムの溶液が、プラスチック製の管を通って少年の静脈へと吸い込まれていく。私は再び両手を少年の体に回し、目を閉じて薬が効くの待つ。
 ほんの数秒で変化は現れた。激しく振り回されていた少年の四肢の動きが弱くなり、その体から緊張が抜けていく。血走っている瞳にゆっくりと瞼が覆いかぶさっていった。
 全身の筋肉が弛緩した少年の体を、私は慎重にベッドに横たえる。小さな寝息がかすかに鼓膜を揺らした。
 電子カルテの前に座ってキーボードを打ちながら、私は数メートル先にあるベッドをちらりと見る。そこでは、少年が眠っていた。子供らしからぬその険しい寝顔からは、彼があまり良くない夢を見ていることがうかがえた。
 少年が搬送されてから、一時間以上が経過している。すでに所轄の警察署や児童相談所への連絡は終えていた。
 彼には社会的な支援とともに、専門的な治療が必要だ。しかし、それらを確実に受けられるかどうか、確信が持てなかった。
 私は電子カルテのディスプレイに視線を戻す。作ったばかりの少年のカルテが表示されていた。『主治医』の欄は空白になっている。
 主治医になる医師は、触れれば壊れる硝子細工のように脆くなっている彼の心を慎重に治療していくと同時に、彼に必要な支援がどのようなものであるかを適切に見極めなくてはならない。よほど経験がある医師でなくては難しいはずだ。それが確実にできる人といえば……。
 渋い顔で画面とにらめっこをしていると、廊下へと繋がる扉が開いた。救急部に入ってきた人物を見て、私は目を大きくする。
「袴田先生!?」
 この病院の院長である袴田先生は、車椅子を滑らせて近づいてくると、「やあ、識名先生」と気さくに手を挙げた。
「どうなさったんですか? こんな時間まで」
「副院長にいろいろと書類仕事を押し付けられてね。足がこんなになっているっていうのに、頭と手が問題ないんだから仕事はできるだろうってわけだ。まったく、ひどい男だよ」
 袴田先生はおどけながら自分の足を叩く。
「でも、なんで救急部に?」
「ようやく書類を全部片づけて帰ろうと思っていたら、救急部に大変な状態の子供が搬送されたという話が耳に入ってね。院長として、ちょっと確認しておこうと思って来てみたんだよ」
 袴田先生は車椅子を滑らせて、少年が横たわるベッドに近づく。
「この子かな、血塗れで搬送されてきた子供というのは」
「はい、そうです。なにがあったのか訊いたらパニック状態になったので、危険だと判断して鎮静剤を投与しました」
「なるほど。よほど恐ろしい経験をしたんだろうね。今晩の経験について訊ねるのは、しっかり精神的な治療を施してから細心の注意を払って行うべきだろうね」
 袴田先生は少年の体に掛けてある毛布をそっとめくる。入院着の襟元から覗く、蒼黒く変色した皮膚を見て、袴田先生は眉をしかめた。
「この子が、先週君が言っていた被虐待児なのかな?」
「はい、そうです。あのとき私がしっかりと保護できていれば、こんなことにはならなかったはずなのに……」
 後悔が胸を焼く。
「言っただろ。大切なのは過去を悔いることじゃない。目の前にいる救うべき人々に全力を尽くすことだ。今度こそ、この子をしっかりと助けてあげればいい」
 袴田先生は車椅子から身を乗り出すと、少年の頭を優しく撫でた。気のせいか、険しかった少年の寝顔がわずかに緩んだ気がした。その光景を見て、私は口を開く。
「あの、この子の主治医を先生にしていただくわけにはいかないでしょうか?」
「私が主治医を?」
 袴田先生は不思議そうに自分の顔を指さす。
「はい、そうです。この子はきっと虐待と今晩の経験で、大きな心的外傷を負っていると思うんです。この病院の精神科医の中で一番、その治療の経験があるのは袴田先生のはずです」
 袴田先生はこれまで、過去のトラウマに苦しむ人々を何十人も、いや何百人も救ってきた。私もその一人だ。だからこそ確信していた。袴田先生ならこの少年の心を救ってくれると。
「しかし、院長が主治医をすることは……」
「病院全体に責任を負う立場の院長は、入院患者の主治医をしないことは知っています。そのうえ、リハビリもしないといけない先生が凄くお忙しいのも分かっています。けれど、先生しかこの子を救える人はいないと思うんです」
 必死に言葉を重ねると袴田先生は腕を組み、難しい顔で考え込みはじめた。
 だめなのだろうか? 多忙な袴田先生に、私は無理なお願いをしているのだろうか? 祈るような気持ちで答えを待っていると、中年の看護師が小走りに近づいてきた。
「あの、識名先生」看護師が耳打ちしてくる。「なんか、警察の人が話をしたいって来ているんですけど」
 私は振り返ると、いつの間にか二人の男性が少し離れた位置に立っていた。二人ともスーツを着ているが、サラリーマンとは一線を画する危険な雰囲気を全身から醸し出している。
「どうもお邪魔しますよ」
 固太りした年配の男が大股に近づいてくると、顔の前に黒い定期入れのようなものを突き付けてくる。そこには『巡査部長 園崎』と記されていた。
「私、警視庁捜査一課の園崎と申します。こちらは練馬署の三宅です」
「警視庁……」
 私はまじまじと警察手帳を眺めてしまう。大病院の救急部には、事件性のある患者が運ばれてくることも少なくない。その際は所轄署に通報することになっているので、警官と話をする機会はよくあった。しかし刑事、しかも警視庁捜査一課の刑事となると、これまで会ったことはなかった。
「さきほど、こちらに血塗れの少年が運び込まれたという情報がありまして、事情聴取に参りました」
 慇懃無礼に園崎さんが言う。
「あの、この子ならいま鎮静剤で眠っていますので、話を聞ける状態じゃ……」
「おや、そうですか? 起きているように見えますけどね」
 園崎さんは私の後ろを指さす。振り返ると、少年の目が半開きになっていた。おそらく、鎮静剤の効果が弱まってきたのだろう。
「けれど、まだ鎮静剤の影響で朦朧もうろうとしています。話を聞ける状態じゃありません」
「それは話してみないと分からないんじゃないですか。事件のことを聞いたら目が覚めるかもしれませんよ」
 園崎さんが私の横を通り過ぎようとする。ついさっき、少年が恐慌状態に陥った光景が蘇り、私は慌てて園崎さんの前に立ち塞がった。
「失礼ですが、どいていただけませんかね、先生」
 言葉面こそ丁寧だが、園崎さんの口調は脅すような響きをはらんでいた。私の倍以上は体重がありそうな男に凄まれ、足が震えてしまう。思わず身を引いてしまいそうになったとき、白衣が軽く引っ張られるような感覚をおぼえた。首だけ回して後ろを見ると、少年が白衣の裾をそっとつまんで、私を見上げていた。その顔には、助けを求めるような表情が浮かんでいる。
 少年の潤んだ瞳に映る自分の姿を見たとき、足の震えはおさまった。
「だめです!」私は腹に力を込めて言う。
「……だめとはどういうことですかね?」
 園崎さんは唇をゆがめると、低く籠った声で言う。
「恐ろしい経験をしたことで、この子は強いショックを受けています。いまは話しを聞くことはできません」
「先生、私たちがなんの事件を調べていると思います?」
 刑事はいかつい顔をぐいっと近づけてくる。その口から、肉が腐ったような匂いが漂ってきた。
「連続殺人事件ですよ。この近隣で、十人を超える人間が、ミンチにされている猟奇殺人事件です。そして、今夜起こった事件をその子供は目撃しているかもしれないんです。犯人の姿を見ているかもしれないんですよ。だから私たちは、その子供からいますぐに話を聞く必要があるんです。分かったら、どいていただけますかね」
 肩に手をかけてどかそうとしてくる園崎さんの手を私は振り払った。園崎さんは歯肉が見えるほどに唇をゆがめる。その表情は、牙を剥いた肉食獣を彷彿させた。
「どんな捜査をしているかなんて関係ありません。いま、この子に事件について聞くことは許可できません」
「あなたの許可が必要なんですか?」
「もちろんです。私はこの子の救急部での主治医であり、ここでの治療に全責任を持っています。いまの状況で事件の詳細を訊ねることは、この子の精神状況を著しく悪化させる可能性があります。ですから、医師として許可はできません」
「早く話を聞かないと、記憶が薄れて貴重な情報が得られなくなってしまうかもしれないんですよ。そうなったら責任を取れるんですか?」
「いま事件について強引に訊ねたら、脳がストレスの原因となっている記憶を消してしまうかもしれません。そのうえ、この子の精神に致命的なダメージを負わせる可能性もあるんです。そうなったら、あなたは責任が取れるんですか」
 とっさに言い返すと、園崎さんは「うっ」と言葉に詰まった。その隙を見逃さず、私はさらに説得を試みる。
「この子が身につけていたものは全てまとめて保管してあります。今日のところはそれを持って帰って、後日この子の状態が落ち着いたらあらためて、今夜のことについて話を聞くということでどうでしょうか?」
 園崎さんは唇をゆがめたまま十数秒考え込んだあと、「……分かりました」と声を絞り出した。一気に緊張がとけた私が「ご理解いただきありがとうございます」と力の抜けた礼を述べると、園崎さんは唇の片端を上げた。
「では、明日その少年を受け取りに来ますので、準備を整えておいてください」
「え!?」私は目を見開く。「受け取りにってどういうことですか!?」
「そのままの意味ですよ。今日は遅いので無理ですが、明日になったらその子を警察病院に転院させます」
「そんなのだめです!」
 反射的に抗議すると、園崎さんはすっと目を細めた。
「だめとはどういうことですか? 彼は殺人事件の目撃者かもしれないんだ。安全のためにも警察病院に転院させ、そこで治療を受けさせるのは当然でしょう」
 正論に一瞬ひるんでしまうが、私は必死に反論する。
「……この子には安静が必要なんです。いまの状態では主治医として搬送の許可は出せません」
 警察の管理下にある病院になど転院したら、この刑事は強引にでも事件の話を聞き出そうとするだろう。
「あなたは救急の主治医でしょ。入院したら他の主治医がつく。違いますか?」
「……そうです」
 この少年に必要なのは精神的な治療だ。神経内科である私は彼の主治医にはなれない。
「それなら、あなたの許可はいらないはずだ。明日、この子の主治医になったドクターに判断してもらいますよ。転院が可能かどうかね」
 勝ち誇るように園崎さんは言う。彼には自信があるのだろう。世間を震撼させている事件を解決するためという名目で、少年の主治医を説得できると。
 この病院に勤務している精神科医たちの顔が頭をよぎる。押しが強い刑事の要請を確実にはねつけられるような人物はその中にいなかった。私は再び振り返って少年を見る。彼の小さな手は血の気が引いて蒼白くなるほど強く、私の白衣を掴んでいた。私は少年の細い体を抱きしめる。
「やっぱりだめです! この子はうちの病院で治療を受けるべきです!」
「だから、だからそれは誰の判断なんですか?」
 園崎さんが舌を鳴らしたとき、ゴムが床と擦れるキュッという音がした。
「私の判断ですよ」
 車椅子を滑らせて私と刑事の間に割り込んできた袴田先生は、よく通る声で言った。園崎さんが「あなたは?」と眉根を寄せる。
「袴田といいます。この神研病院の院長ですよ。そして……」
 言葉を切った袴田先生は、ちらりと私を見るとウィンクをしてきた。
「そこの少年の主治医でもあります」
 私が大きく息を呑む。園崎さんは「あなたが?」と疑わしげにつぶやいた。
「ええ、そうですよ。担当する患者の様子を確認するためにここに来たんです」
「……院長先生が患者を受け持ったりするんですか?」
「私はPTSDの専門家なので、この子のように恐ろしい経験によって心に傷を負った患者を誰よりも見ているんですよ。やはり、経験のある医師が担当した方がよい治療ができるでしょう」
 袴田先生は少し前のめりになると、園崎さんをめ上げる。
「さて、あらためて私の診断を伝えましょう。この少年は現在、強い心的外傷を受けてショック状態にある。この状態で強引に原因となった出来事を思い出させたら、彼の精神が崩壊してしまう恐れがある。まずは絶対安静にして、ショック状態からの回復を待つべきだ。よって主治医としては、話を聞くことも、転院することも許可できない」
「……あなたの診断が正しいという根拠は?」
 園崎さんは食いしばった歯の隙間から、怒りに満ちた声を絞り出す。
「私は精神鑑定医として検察から多くの鑑定依頼を受けています。その関係で検察だけでなく、警察幹部の方々とも懇意にしている。例えば、あなたの上司に当たる警視庁捜査一課長や刑事部長ともね。もし私の能力に疑問があるのなら、彼らに訊ねてみてください」
 袴田先生は下方から、見る見ると赤くなっていく園崎さんの顔を覗き込んだ。園崎さんは拳を握りしめるだけで、それ以上の反論はできなかった。
「主治医としてしっかりと治療を行い、回復を確認しつつ、この子に今夜見たことについて訊ねていきますよ。情報は適宜、捜査本部にお伝えしますのでご安心ください」
 園崎さんは渋い表情で「よろしくお願いいたします」と会釈をすると、若い刑事を連れて出口へと向かった。彼らの姿が扉の向こう側に消えるのを見て、私は大きく息を吐く。
「ありがとうございます、袴田先生」
 頭を下げると、袴田先生はニヒルに口角を上げた。
「君が必死にその子を助けようとしたからだよ。ほら、顔を見てごらん」
 促されて、私は腕のなかにいる少年を見下ろす。先週、現れたときも、そしてさっき救急搬送されてからも、硝子玉が埋まっているかのように感情が消え去っていたその瞳の奥に、かすかに光が灯っていた。
「大丈夫だよ。もう、大丈夫だからね」
 私が語り掛けると、少年の唇がかすかに動いた。
「なに、なにか言いたいの?」
 私は彼の口元に耳を近づける。
「れん……と……」
「レント? それってもしかして、君の名前?」
 目を見ながら訊ねると、彼は、レント君は小さくあごを引いた。
「そっか。あらためまして、こんにちはレント君。私は香苗、識名香苗っていうんだ。よろしくね」
 レント君の表情がほんの少しだけ緩んだような気がした。
 体が重い。血液がすべて水銀に置き換わったかのように、全身が怠い。
 救急当直を終えた私は、漬物石でも入っているかのように重い頭を振りながら医局へ入ると、倒れこむように自分のデスクの椅子へと座った。
 袴田先生に任せたレント君が救急部から病棟へ運ばれていくのを見送ったあと、連続して重症患者が搬送されてきた。救命処置に追われているうちに、一睡もできないで朝を迎えることになってしまった。
 背もたれに体重をかけ、全身の筋肉を弛緩させて天井を眺めていると、魂まで体から抜け出て浮き上がってしまいそうだ。
 ふと窓に視線を向けるが、激しい雨のカーテンで景色がほとんど見えなかった。昨夜の雨はまだその勢力を弱めていないらしい。
「……本当に最近、雨ばっかり」
 半分眠ったような意識のままつぶやくと、デスクの上に置かれているスマートフォンを手に取る。電源を入れると、『メール 1通』と表示された。
 誰からだろう。メールアプリを開くと、差出人の欄には『父さん』と表示されていた。
 父さんがメール? 珍しいな。
 滑らかでかすかに温かいディスプレイを指先で触れる。メールの内容が表示された。

『そろそろ時間だよ 準備を整えてな』

 私はしょぼしょぼする目をこすりながら、画面に浮き上がる文字を眺める。
 そろそろ時間? どういう意味だろう?
 もしかしたら、モーニングコールのつもりだろうか。そういえば一昨日の夜に話したとき、「朝がつらくてなかなか起きられないのよね」とちょっと愚痴をこぼした気もする。
 通話履歴から父さんの番号を選んで通話のアイコンに触れる。しかし『この番号は電源が入っていないか、圏外に……』という音声が聞こえてきた。
 もう仕事中かな。スマートフォンをデスクに戻した私は、横目で掛け時計を見る。時刻は午前八時過ぎを指している。九時になったら午前の回診をはじめなくてはならない。出来ればそれまでに仮眠をとっておきたいのだが……。
 私は両手で頬を張って気合を入れ、立ち上がった。仮眠する前に確認しておきたいことがあった。
 医局を出てエレベーターでレント君が入院した十三階病棟へと向かう。ナースステーションの前を横切り廊下を進んだ私は、目的の病室の前にたどり着いた。
 胸に手を当てて数回深呼吸をしたあと、私は扉をノックする。
「レント君、おはよう。起きてる?」
 引き戸を開いて病室に入った私は、小声で言う。六畳ほどの広さの簡素な個室病室。窓辺に置かれたベッドに、レント君が横たわっていた。その目は開いてはいるが、こちらを見ることはない。不自然なほど無反応で無表情なその姿は、精巧に作られた人形が横たわっているかのようだった。
 レント君を刺激しないように、私は足音を殺してベッドに近づく。
「少しは眠れたかな?」
 微笑みかけると、彼の眼球がわずかに動いて私を捉えた。どこまでも深く、昏い瞳。底なし沼のようなその瞳孔に吸い込まれていくような錯覚に襲われる。
「ここは大丈夫だからね。私たちが君のことを守ってあげるからね」
 私はそっとレント君の額に手を当てた。人形ではありえない体温を掌に感じ、思わず口元が綻んでしまう。
「それじゃあ、お姉さんは行くけど、ゆっくり休んでいてね。また午後に顔見せるからね」
 この子は心に深い傷を負ったばかりなのだ。その傷から出血が続いているうちは、心身ともに休ませなければならない。
 あのときの私のように……。
 私はレント君に微笑みかけると、出口へと向かう。そのとき、かすかに空気が揺れた気がした。振り向くと、レント君の唇が弱々しく動いていた。
「どうしたの? なにか伝えたいことがあるの?」
 私は急いで彼の口元に耳を近づける。「パパ……」というかすれ声が聞こえた。
「パパ? お父さんがどうしたの?」
 私はレント君の頭を撫でながら、ゆっくりとした口調で訊ねる。レント君の体が震えはじめた。ばね仕掛けの玩具のように、唐突に上半身を起こしたレント君は、ベッドの上で丸くなると、寒さに耐えるように自分の両肩を抱く。
「パパとママ! パパとママがやったの!」
 上下の歯がカチカチと音を立てる口から、レント君は大声を出した。体の震えがさらに強くなっていく。
 パパとママがやった。両親が彼に虐待をくわえていたことだろうか? 心が壊れてしまうほどの激しい虐待を。
 レント君の入院着がはだけ、虐待の痕が刻まれた皮膚が露わになる。私は彼の体を両手で強く抱きしめながら、「大丈夫、もう大丈夫だよ」と囁き続ける。数十秒そうしていると、彼の体の震えが弱くなり、やがておさまった。腕の中で脱力しているレント君を見下ろす。その目は固く閉じられていた。眠ってしまったようだ。
 起こさないようにそっと彼をベッドに横たえる。数分観察して、しっかり寝ていることを確認した私は出口へと向かった。
 やはり想像以上に彼の心は傷つき、脆くなっている。慎重に治療をしなければ、容易に砕け散ってしまうほどに。
 けれど、袴田先生が主治医なら大丈夫だ。
 扉を開けながら、私は自分に言い聞かせる。きっと袴田先生は壊れかけたレント君の心を優しく修理していってくれるだろう。
 私にそうしてくれたように。
 病室を出ると、目の前に少女が立っていた。老婆のように曲がった腰。屈託のない笑顔。好奇心に満ち溢れた、やや吊り気味に大きな瞳。この病棟に入院している瑠奈子ちゃんだった。
「おはよう、香苗センセ」
 瑠奈子ちゃんはびしりと片手を挙げる。つられて私も片手を挙げてしまった。
「おはよう、瑠奈子ちゃん。どうしたの、こんなところで?」
「新しい子が入ったって聞いたから、挨拶しようと思ったの」
 瑠奈子ちゃんは私のそばをすり抜けると、引き戸を開こうとする。私は慌てて、「ちょっと待って」と彼女を止めた。
「どうして?」
 瑠奈子ちゃんはコケティッシュに小首を傾げた。
「この部屋に入院している子はね、まだ眠っているの」
「眠っている? でも、もう朝だよ。起きなくっちゃ」
 子供らしい無邪気な返答に苦笑してしまう。
「そうだよね、朝は起きないとね。けれど、ここの子は体調が悪くて元気がないの。だから、元気になるためにもう少し眠っていないといけないんだ」
 瑠奈子ちゃんは口に手を当てて少し考える。その姿は、猫が肉球の掃除をしている姿にどこか似ていた。
「分かった!」瑠奈子ちゃんは快活に言う。「じゃあ、元気になったら挨拶するね。それまでちょっと待つことにする」
「ありがとうね、瑠奈子ちゃん」
「ううん、気にしないで。それじゃあね、香苗センセ」
 元気よく言って離れていった瑠奈子ちゃんは、足を止めると何かを思い出したかのように振り返る。
「香苗センセもそろそろ目を覚まさないとだめだよ」
 当直明けで瞼が重いのが、子供にまで見抜かれていたらしい。再び離れていく瑠奈子ちゃんの小さな背中に「廊下を走っちゃだめだよ」と声をかける私はエレベーターホールへと向かった。
 ナースステーションの前を横切ろうとしたとき、「やあ、識名先生」と声をかけられる。見ると、ステーション内に車椅子に乗った袴田先生の姿があった。
「袴田先生!? どうしたんですか、こんな早い時間に病棟にいるなんて」
「もちろん、担当患者の回診に来たんだよ。入院後はずっと眠っていたが、そろそろ目を覚ましたんじゃないかと思ってね」
「もしかして先生、病院に泊まったんですか?」
「当然じゃないか。強い心的外傷を受けた患者は、初期治療がとても重要だからね」
「すみません……。無理やり主治医を引き受けてもらって。院長の仕事だけじゃなく、リハビリもしていて忙しいのに」
「なにを言っているんだい?」
 袴田先生は大仰に両手を広げた。
「感謝しているぐらいだよ。書類仕事にも、スパルタ理学療法士のリハビリにも辟易していたところだったからね。やはり、患者の治療こそ医師の本分だよ。それに、あの子はおそらく、私でないと治療できないだろう」
 袴田先生の顔が引き締まった。
「いま、ちょっとレント君の顔を見にいったんです。そうしたら、またパニックを起こしてしまいました。すぐに落ち着いて、寝てくれましたけど……」
「パニックか……」袴田先生は腕を組む。「そのとき、彼はなにか口走ったりしていなかったかな」
「言っていました。『パパとママがやった』とか……。たぶん、両親から虐待を受けていたということだと思うんです」
「おそらく、そうだろうね」
「フルネームだけでも早く分かれば、身元が分かって、虐待をしていた両親を逮捕することも出来るんでしょうけど……」
 私は苛立ちまぎれに頭を掻く。
「私も今日中に名前を訊こうと思っていたが、それももう少し待った方がいいかもしれない。激しい虐待と、昨夜の経験。彼は想像以上に強いトラウマを抱えているようだ。慎重に治療をしないと」
「でも、警察は早く話を聞こうとして、治療を急かしてきますよね」
「そんなこと関係ないさ」
 袴田先生は、薄い唇の端を上げる。
「患者の治療には医師の裁量権が優先される。私が許可を出さない限り、彼らは患者と話をすることもできない。警察、児童相談所、その他もろもろの公共機関とのやり取りは慣れているよ。任せておきなさい」
 胸にはびこっていた不安が消えていく。私は「よろしくお願いします」と勢いよく頭を下げた。
「まあ、警察の気持ちも分からないでもないんだよ。十人以上が殺害されているにもかかわらず、いまだに犯人が逮捕できず、犯行が続いている。世間からのバッシングは想像を絶するだろう。もし、レント君が本当に犯行を目撃していたとしたら、喉から手が出るほど証言が欲しいだろうからね」
 袴田先生の言葉を聞いて、私は昨日のことを思い出す。
「あの、袴田先生。ちょっと伺いたいことがあるんですけど……。特別病棟の一番奥に入院している患者さんのこと、ご存知ですか?」
「特別病棟? いや、知らないが、どうかしたのかな?」
 袴田先生は首を傾ける。その仕草は、どこかわざとらしく見えた。
「いえ、華先輩……、杉野華先生が担当している特発性嗜眠病の患者さんがそこに入院しているはずなんですが、電子カルテに表示されないんです」
 私はわきにあった電子カルテを操作する。やはり、特別室の患者の氏名は出てこなかった。
「システム的なトラブルじゃないかな?」
「いえ、違います。私もそう思って、直接病室に行こうと思いました。けれど、私の職員証では特別病室の自動ドアが開かなかったんです。それだけじゃありません。病室にまで電子錠がかかっていたんです。前まで、そんなものなかったのに」
 私は早口で言う。袴田先生は口を開かなかった。
「そのあと、杉野先生がやってきて、特別病室の患者のことを探るなって言ったんです。けれど、一職員である杉野先生に電子錠を新しくつけることなんてできないはずです。きっと、あれは病院の上層部の人がかかわっているはずです。たとえば……」
「たとえば、私、とかかな?」
 冗談めかした袴田先生のセリフに、私は沈黙で答える。
「君は私がこの病院のトップだと思っているようだが、べつにそんなことはない。私なんて雇われ院長に過ぎないんだからね。私の上にはこの医療法人の理事長や理事たち。他にも……」
「先生はこの件に一切かかわっていないんですね?」
 私が鋭い言葉で遮ると、袴田先生は少しだけ哀しそうに微笑んだ。それだけで十分だった。やはり袴田先生も、特別病室に入院している四人目の特発性嗜眠病患者の正体を隠そうとしている。
「あの部屋に入院しているのは一体誰なんですか? なんで袴田先生まで、その人を隠そうとするんですか?」
 袴田先生は答えなかった。華先輩、そして袴田先生。ずっと尊敬してきた二人に裏切られたような気がして、心が千々に乱れていく。
「答えてください! あそこに入院している人は、連続殺人事件の関係者じゃないんですか!?」
「香苗君」
 袴田先生がどこまでも柔らかい声で語り掛けてくる。壊れかけた私を救ってくれた優しい声。
「この世界には知らない方がいいこともあるんだよ。だから、……忘れなさい」
 私は言葉を失う。袴田先生の口から、そんなセリフが飛び出したことが信じられなかった。
「……失礼します」
 唇を噛んで頭を下げた私は、身を翻してナースステーションをあとにする。そのまま非常階段の扉を開き、下りていく。時間が経ってもショックが薄れていくことはなかった。それどころか、心の揺れの幅が漸増していく。
 目的の階にたどり着いた私は、病棟の廊下を大股に進んでいくと、ノックもせずに個室病室の扉を開く。部屋の奥のベッドには、三人目の特発性嗜眠病患者である加納環さんが横たわっていた。
 環さんの寝顔を前にして、昂っていた心がわずかに落ち着いてくる。深呼吸をくり返しながらベッドに近づくと、私は環さんの顔を覗き込んだ。
 私が担当する三人目の、そして最後の特発性嗜眠病患者。
 飛鳥さん、佃さん、そして環さん。私が受け持った三人の患者は昏睡状態になる前に、一ヶ所に集められた。そして、もう一人その場にいたのが特別病棟に入院している四人目の特発性嗜眠病患者である可能性が高い。
 マブイグミを行い、環さんの記憶を見れば、四人目の特発性嗜眠病患者の正体につながる手がかりが見つかるかもしれない。
 環さんのマブイグミをしよう。いますぐに。
 環さんの治療は絶対に失敗できない理由があった。飛鳥さんと佃さんとは明らかに違う点。そのせいで慎重になり、あとまわしにしていた。
 けれど、もう大丈夫だ。二回のマブイグミで私はユタとして経験を積んだ。きっとまたマブイグミを成功し、彼女を救うことができるはずだ。
 そして、事件の裏で蠢いている事実もきっとわかるはず。
 私は環さんの額に手を当てると、三度目となる呪文を唱えはじめる。
「マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
 体が内側から光り出す感覚。額に触れている掌を通して『私』が環さんの中に流れ込んでいく感覚をおぼえながら、私は瞼を落とした。
「やあ、香苗」
 瞼を上げると、目の前でうさぎ猫が長い耳を羽ばたかせて浮いていた。私は小さく「うん……」とだけ答える。
「おや、なんかご機嫌斜めだね。なにかあったのかい?」
「ククルってさ、私の体験したことを知っているんでしょ。ならなんで私が不機嫌か分かっているんじゃないの?」
「うん、実は分かってるよ」
 ククルはあっさりと言う。
「杉野華と袴田がなにか隠しているのが不満……というか、不安なんでしょ」
「そうよ。最後の特発性嗜眠病患者が連続殺人事件に関係しているかもしれないんだよ。と言うことは、その人と一緒に昏睡になった私の患者さんたちも、あの事件と関係しているかもしれない。間違いなく、裏でなにかおかしなことが、なにか恐ろしいことが起こっているの。それなのに、みんながそれを隠そうとしている!」
「けどさ、そんなに興奮するようなことでもないんじゃないかな」
「なんでよ。二人は私に隠しごとしているのよ!」
「そうだけどさ、患者の情報を外部に漏らさないのは、ある意味当たり前のことなんじゃないかな?」
 虚を突かれ、私は「……え?」と間の抜けた声を漏らす。
「だからさ、医者って守秘義務ってやつがあるんでしょ。だから、患者の秘密を他人には言えないんじゃないの?」
「で、でも……。私も医者だし……。治療のための情報共有は……」
 とっさにうまい反論が思いつかない。
「情報共有するメリットより、情報が漏れるデメリットの方が大きいって判断したんじゃない。まあ、あんな恐ろしい連続殺人事件の関係者が入院していたとしたら、病院にマスコミが殺到して大変なことになる。慎重に慎重を期すのも当然だよ」
「だからって、電子錠まで……」
「まあ、それはやりすぎかもしれないけれどさ。ただ、もしそこに入院しているのが連続殺人犯だったりしたら、それくらいするんじゃない」
「犯人のわけないよ。患者が昏睡に陥っているこの二ヶ月間も、犯行は続いているんだから」
「ああ、そう言えばそうだね」
 ククルは浮かんだまま前脚の付け根をすくめた。
「なんにしろさ、タイミングを見て話すって言ってるんだから、信じて待ってあげればいいんじゃない。そんなにカリカリする必要なんてないと思うよ」
 言われてみればその通りかもしれない。なぜ、私はこんなに苛ついているのだろう。私は自分の胸の内を探ってみる。
 当直で睡眠不足のせい? ううん、違う。昨日、特別室に忍びこもうとしたときから、いやそのもっと前から、正体不明の焦燥感が私を責め立てていた。その感覚はゆっくりとだが確実に強くなっていき、精神を炙っている。
 なにかを見落としている。なにか大切なことを忘れている気がする。
「そんなに難しい顔しないでよ」
 しわが寄った鼻の付け根をククルが舐めてくる。
「せっかくの美人が台無しだよ」
「お世辞はいいからさ」
 私は鼻を拭った。
「お世辞じゃないよ。香苗は世界一可愛い女の子だよ」
「分かったってば」
 過剰な賞賛に、首筋が痒くなってくる。しかし、なぜか悪い気はしなかった。毛羽立っていた気分が丸みを帯びてくる。
「とりあえず、まずは環さんのマブイグミに集中する。環さんの記憶を見れば、特発性嗜眠病と連続殺人事件がどうつながっているのか、手がかりが見つかるかもしれないし」
「そう来なくっちゃ」
 ククルは私の顔の前からどいて、肩に乗る。同時に視界が一気に晴れた。
「それじゃあ、まずはこの夢幻の世界の観察からだね。ここがどんな世界なのか、どんなルールで動いているのか見極めないと」
 たしかにその通りだ。頭に血が上りすぎて、そんな基本も忘れていた。
 私は軽く頭を振って、この夢幻の世界を眺める。
 私は延々と伸びる幅三メートルほどの〈道〉に立っていた。白を基調とし、ところどころに黒い凸があるその道にはどこか見覚えがある気がする。私は首を大きく回して周囲に視線を送る。
 真っ暗な空間にいくつもの〈道〉が存在していた。リボンのように柔軟に曲がり、よじれ、波打ちながら漂っている。
 見える範囲だけでも、十を超える〈道〉が見えるが、遥か遠くに浮かんでいるので飛び移ることは難しそうだった。
「とりあえず、この〈道〉を進めばいいのかな?」
「そうみたいだね」
 ククルは私の肩から飛び降りる。肉球が〈道〉に触れた瞬間、張り詰めた太い糸をはじいたような心地よい音が響き、辺りが一瞬明るくなった。
「え!?」
 私とククルは慌てて辺りを見回す。しかし、そこには暗い空間が広がっているだけだった。
「なんか、いま明るくなったよね?」
 ククルが見上げてくる。
「うん、それに気のせいかもしれないけど、原っぱに立っていたような気がしたんだけど」
「うん、僕もそんな気がした」
 数瞬見つめ合ったあと、私はそっと片足を浮かす。ククルが〈道〉に着地した瞬間、〈音〉が響き、そして周囲が明るくなった。だとしたら……。
 靴の裏が〈道〉を捉えた瞬間、また心地よい〈音〉が私の足元から聞こえ、それと同時に再び闇に満たされた空間に光が満ちた。柔らかく、温かい光が青々とした草原を照らしている。
〈音〉の残響が消える。それに合わせて、広がっていた草原も消え、再び周囲は闇に満たされた、なにもない空間に戻る。
「なんとなく、仕組みが分かった気がするね」
 ククルは黄金の毛で覆われた胸を張ると、気取った仕草で歩きはじめる。みたび〈音〉が響き、辺りに草原が出現した。肉球が〈道〉を踏み込むたびに響く〈音〉が重なり合い、〈曲〉を奏ではじめる。
 朗らかでアップテンポな中にも雄大な雰囲気を内包した曲。生命の輝きに溢れた調べ。
「春……」
 私は〈道〉から響いてくる美しい旋律に圧倒されながらつぶやく。
 アントニオ・ヴィヴァルディによって生み出された協奏曲『四季』の第一曲。新しい命に溢れた季節をうたう名曲。それがこの空間に、この世界に響き渡っていた。
「ほら、香苗。なにぼーっとしているの。置いていくよ」
 ククルに声をかけられた私は、彼のあとを慌てて追いかける。
 私たちは並んで〈道〉を進んでいく。左右に延々と広がる草原には、春の優しい日差しが降り注いでいた。遠くに広がる森に樹々は青々とした葉を蓄え、穏やかに吹く風が爽やかな青葉の香りを残して流れていく。
 濃い緑に染まった森の中から、色とりどりの小鳥が十数匹飛び出ててくると、抜けた空を縦横無尽に飛び回る。彼らが飛んだあとには、その体と同じ色の淡い軌跡が飛行機雲のように生じ、大空のキャンパスに幾何学模様を描いていった。
 森のそばを流れる小川からは無数の魚が空中に飛び跳ね、ダンスを踊るように身をくねらせている。その白銀のうろこは陽光を乱反射し、立体的な光の川が浮かび上がっていた。
「この〈道〉を歩くと〈曲〉が流れて、それに合わせた世界が広がるみたいだね」
 ククルはスキップするように軽快に四本の足を動かす。私は周りに広がる雄大な光景に魅入られ、「うん」と答えることしかできなかった。
 ふと足元を見た私は、さっきおぼえた違和感の正体に気づく。白を基調にして、ところどころに黒い凸のある道。どこかで見覚えがあると思ったこの道は……。
「……鍵盤」
 ククルが首を回して「ん? なにか言った?」と見上げてくる。
「鍵盤だよ、ピアノの鍵盤。ここは大きなピアノの鍵盤で出来た〈道〉なんだよ」
「ああ、言われてみれば。だから踏み込むたびに音が聞こえてくるのか。つまり、この〈道〉を進むことは、同時に演奏することでもあるんだね」
 ククルはリズムに合わせて身を揺すりながら足を動かしていく。
 私たちが進んでいくのに合わせて、左右の草原で色鮮やかな花が咲き乱れ、極彩色の絨毯が広がっていく。むせ返るような花の香りに全身が包み込まれる。
 森の葉のざわめき、小川のせせらぎ、小鳥たちのさえずり、それらが足元から響き渡る協奏曲とまばゆいばかりのハーモニーを奏でながら、体の中に染み入ってくる。
「気持ちがいいね、香苗」
「そうだね、ククル」
 私たちは壮麗な夢幻の世界を堪能しつつ、〈道〉を進んでいく。前方には黄金に煌めく小池があった。その水面が揺れていることに気づき、私は目を凝らす。そのとき、一際強い風が吹いた。それと同時に、池が吹き上がった。
 いや、池ではなかった。それは幾千、幾万の蝶の大群だった。
 黄金に輝く羽をはためかした蝶の大群は、私たちの進む〈道〉に金色のアーチをかける。私とククルは天を仰ぎながらその煌々と輝くトンネルをくぐった。
「さて、素晴らしい光景だけど、ずっとこの道を歩いていても加納環のククルは見つけられそうにないね。今度はあっちの〈道〉に飛び移ってみようか」
 テンポよく歩きながら、ククルはくいっと首を反らし、あごで前方をさす。そこには、曲がりくねった他の〈道〉が空から伸び、私たちがいま歩いている〈道〉と手が届きそうな距離まで近づいていた。
 この優美な世界に少し未練をおぼえつつも、私は「分かった」と頷く。やがて、二つの〈道〉同士が最も近づいている地点にたどり着いて、私たちは足を止める。響き渡っていた協奏曲は消え、同時に周囲に広がっていた美しい光景も消え去る。ふたたび闇に満たされた空間に、いくつもの〈道〉だけが浮いていた。
「けどさ、飛び乗るって言っても、あっちの〈道〉、逆さまに伸びているんだよ。歩けないじゃない」
 頭上にある鍵盤で出来た〈道〉を眺める。
「うーん、そうだね。まあ、もしものときは片桐飛鳥のマブイグミのときにやったみたいに、羽を生やして飛ぶしかないかな」
 ククルは思案顔で首を傾けた。
「そんな面倒なこと……」
 つぶやきながら、私は軽くジャンプして頭上にある〈道〉に手を触れようとする。その瞬間、上下がひっくり返った。重力が逆転し、頭上に向かって体が落下する。
 迫ってくる鍵盤に、私はとっさに両手で顔をかばう。腕に衝撃が走り、重い音が響き渡った。体が一瞬しゃちほこのように反り返り、そして傾いていく。私は勢いよく鍵盤の〈道〉に背中から叩きつけられる。再び響く、重い音。
「あはは、どうやらこの世界では、〈道〉に向かって重力が生じるみたいだね。で、大丈夫かい、香苗」
 倒れた私の肩甲骨辺りに、ククルが着地する。しかし、背中全体に広がる痛みで答える余裕などなかった。
「だからさ、何度言えば分かるんだよ。ここは夢幻の世界なんだから、痛みなんてそれこそ気の持ちようなんだよ」
 ククルは両耳で私の背中を撫でてくれた。痛みが溶けるように消えていく。
「ありがとう、ククル。助かった」
「はいはい。もう三回目の夢幻の世界なんだからさ、そろそろ僕に頼らないでもやっていけるようになってよね」
 できの悪い子供を叱る母親のような口調でククルは言う。
「それよりさ。この〈道〉では音が鳴っても特に景色とか見えないみたいね」
 落下した際に音が鳴ったが、最初の〈道〉のときのように周囲が明るくなることはなかった。
「いや、そんなことないよ」
 ククルは片耳を振る。
「海老ぞりして面白い体勢で倒れていたから気づかなかったかもしれないけど、音が聞こえている間は何かが浮かび上がっていたよ」
 面白い体勢と言われたことにカチンときながら、私は「なにかって、なに?」と口を尖らせる。
「口で説明するより、見た方が早いよ。ほら、痛みが取れたならさっさと立ち上がって進もうよ。ほら、早く」
 背中から降りたククルは、エサをねだるときのきなこのように、私の顔にせわしなく頬をこすりつけてくる。
「分かったから、そんなに急かさないでよ」
 立ち上がった私は、そっと歩きはじめる。鈴の音のような響きがリズミカルに聞こえてくる。荘厳でありながら、どこか透明感のある旋律。
「動物の謝肉祭……」
 カミーユ・サン=サーンスによって創られた、全十四曲からなる組曲。
「詳しいね、香苗」
「うん、むかしピアノを練習していたことがあるから」
 有名なクラシックならある程度は知っている。ただ、二十年以上ピアノには触れていないので、その知識は錆びついていた。
 あの日から、私はずっとピアノを避けてきた。弾き方を優しく教えてくれたあの人を思い出してしまうから。
 胸元に鋭い痛みが走り、私は奥歯を噛みしめる。シャツを捲って確認しなくても、なにが起きたか分かっていた。
 傷跡だ。この夢幻の世界では、私の胸から脇腹にかけて傷跡が走っている。その古傷がうずいているのだろう。私は胸に当てていた掌を見る。そこに血の跡はなかった。
 最初、飛鳥さんの夢幻の世界であの人のことを思い出したときは、傷口が開いてひどく出血した。佃さんの夢幻の世界でも、傷跡の瘡蓋かさぶたが剥がれ、血が滲んだ。しかし、今回は痛みこそ走るものの、出血は見られない。
 夢幻の世界を彷徨い、マブイグミをくり返したことで、あの日のトラウマが弱まっているのかもしれない。それは望ましいことだ。
 三人の患者のマブイグミに成功し、ずっと私を苛んできたつらい記憶を克服することは、一つの目標ではあった。けれどそれは同時に、あの人のことを忘れてしまうことを意味するような気もして、気分が沈んでしまう。
 私は埃をかぶった記憶を呼び起こしながら、そっと両手の五指を動かしてみる。二十年以上、鍵盤に触れていない指の動きは、自分でも可笑しく思えるほどぎこちなかった。
「おや、なんかいるね」
 ククルのつぶやきを聞いた私は、「え、どこに?」と指の動きを止める。
「香苗のすぐ後ろさ」
「後ろ?」
 振り返って目を剥く。巨大なライオンが、私に襲い掛かってきていた。鎌のように鋭く爪で引き裂かれることを予感した私は、身をすくめて固く目を閉じる。しかし、痛みが走ることはなかった。
 おずおずと薄目を開けると、ライオンの胴体が私の体を通過していた。
 振り返って、離れていくライオンを眺める。よく見ると浮かんでいるその体はホログラムのように半透明で、頭には王冠のようなものが載っていた。
「序奏と獅子王の行進曲……」
 組曲である動物の謝肉祭の、第一曲の題名が自然と口をつく。たてがみを雄々しくたなびかせながらライオン、獅子王は闇に満たされた宙空を悠然と歩いていく。
「ライオンだけじゃないよ。見てごらん」
 曲が途絶えないように、その場で足踏みを続けながらククルに言われ、首を回す。「わぁ」という歓声が漏れた。
 鶏、ロバ、亀、象、カンガルー。動物の謝肉祭で曲のタイトルになっている獣たちが、半透明の姿でなにもない空間を進んでいた。
 それだけではない。ワニ、カバ、牛、羊、熊、鹿、キリン、虎、馬……。曲の中では出てこない様々な動物たちが、ライオンを先頭に行進をしている。
 うっすらと向こう側が透けて見える動物たちの姿は、硝子で出来た精巧な模型に生命が吹き込まれたかのようだった。
 幻想的な光景に魅入られながら、私は再び歩きはじめる。なにもない空間を楽しげに進んでいる動物たちと並んで鍵盤の〈道〉を進んでいると、自分も大行進の一員になったような気がした。
「このまま、ノアの箱舟にでも乗り込みそうな雰囲気だね」
 ククルが軽口をたたいたとき、横から魚が泳いできた。その体は透明で、すけて見える骨が淡く光っていた。
 最初はイワシやアジなどの小魚の大群が横切り、続いてマグロやサメなどの巨大な魚が泳いでくる。ついには上空をクジラと思われる巨大な生物が優雅に通過していく。
「上ばっかり見ていないで、下も見てみたら」
 ククルに促された私は、〈道〉からそっと身を乗り出して下を覗き込む。そこでは、魚と同じように淡く光る骨が行進をしていた。しかし、魚と違いその体には透明な肉体はなく、そしてどれもがクジラに匹敵するほど巨大だった。
 恐竜の化石のパレード。
 ティラノサウルスの骨格を先頭に、ステゴサウルス、トリケラトプス、はてはブラキオサウルスと思われる巨大な首長竜の骨格の姿すら見える。
 そのとき、遥か遠くに純白に輝く壁が現れた。その壁はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「あの、壁ってなんだろう?」
 私が指さすとククルは片耳を立て、メトロノームのように左右に振った。
「よく見なよ。あれは壁じゃないよ」
「壁じゃない」
 後ろを振り返った私は絶句する。そこには想像を絶するサイズの白鳥が浮かんでいた。天まで届かんばかりのそのスケールは、もはや山がそびえ立っているかのようだった。
 白鳥は行進する生物たちを優しく包み込むように、その輝く翼で円を作る。羽で出来た絶壁が迫ってくる光景は、ただただ壮観で圧倒されてしまう。
「すごい光景だけどさ、いつまでもこの〈道〉にいても加納環のククルはいないみたいだよ。ちょっと名残惜しいけど、次の道へ行こう」
 ククルが前方を指さす。そこでは、動物の謝肉祭の〈道〉の隣に、大きく波打ったもう一つの〈道〉が並んでいた。
 二つの〈道〉が最も近づく部分までやってきた私は、後ろ髪を引かれる思いをおぼえつつも、小さくジャンプして隣の〈道〉へと飛び移る。
「さて、ここの〈道〉はどんな感じかな」
 ククルと私が足を踏み出すと、これまでの〈道〉で鳴り響いた重厚な音楽とは一線を画す、底抜けに明るくどこかコミカルな、テンポの良い曲が聞こえてくる。
 猫踏んじゃった、猫踏んじゃった、猫踏んじゃったら……
 頭のなかで歌詞が浮かんでくるのと同時に、周囲が明るくなり、どこまでも続く平面が現れる。そこではありとあらゆる種類の猫が、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
 よく見ると、俗に『アンモニャイト』と言われるとぐろを巻くような姿勢で気持ちよさそうに眠っている猫もいるのだが、すぐにふわふわの毛に包まれた尻尾の一部がへこみ、全身の毛を逆立てて飛び起きている。おそらく、見えないなにかに尻尾を踏まれたのだろう。
 彼等には申し訳ないが、数えきれないほどの猫がリズミカルに飛び上がっている姿は可愛らしく、口元が緩んでしまう。
「……僕、この曲、あんまり好きじゃない」
 ククルは不満げに尻尾を大きく左右に振る。
「なんで? 楽しくていい曲じゃない」
 私は歩きながらそっと腰をかがめて、ククルの揺れる尻尾を指先でつまんでみる。ククルは「ニャ!?」と声を上げると、三十センチほど飛び上がった。
 着地したククルは振り返ると、非難がこもった目で私を睨む。
「ごめんごめん、そんなに怒らないでよ。ちょっとした出来心じゃない」
「……いいから、さっさと次の道を見つけて飛び移るよ」
 不満げに言うククルの上を、奇声を上げながら三毛猫が飛び越えていった。


 
 私とククルは、いくつもの〈道〉を渡り歩いた。
『ワルキューレの騎行』の〈道〉では、ペガサスにまたがり空をかける九人の美しいワルキューレたちの行進に並び、彼女たちが怪物と戦うさまをすぐ近くで眺めた。
『展覧会の絵』の〈道〉では、話しかけてくる『モナ・リザ』や『ゴッホの自画像』、咲いては枯れてをくり返す『睡蓮』や『ひまわり』、奇声を上げる『叫び』、悲鳴が聞こえてくる『ゲルニカ』、そしてイエス・キリストと弟子たちが歓談をしてる『最後の晩餐』など、命がやどった名画が飾られた美術館の廊下を歩き続けた。
 螺旋階段のようにひたすら続く『カノン』の〈道〉では、合わせ鏡のように〈道〉をのぼっていく私とククルの姿が世界の果てまで延々と映し出され、眩暈に襲われた。
「いやあ、なんかこういうの落ち着くねぇ」
 尻尾を立てながら、ククルが優雅に進んでいく。私は「そうだね」と正面を眺める。そこには現実ではありえないほど巨大な、蒼い満月が浮かんでいた。
 月に向かって真っすぐに伸びている鍵盤の〈道〉からは、ドビュッシーにより作曲された『月の光』の柔らかく静謐せいひつな旋律が湧きあがっている。〈道〉の回りには湖が広がっていた。遥か遠くの水平線までずっと。波ひとつない水面は、湖自体が発光しているかのように、蒼い月光を淡く反射している。
 かなりの長時間、『月の光』のメロディに酔いしれながら月に向かって歩いていたが、なかなか他の〈道〉は見当たらない。ただ、この空間のりんとした空気を吸っていると、周囲の水面のように、乱れていた気持ちがいでくる気がした。
 私は視線を落として鍵盤の道を眺めながら思考を巡らせる。
 連続殺人事件と特発性嗜眠病患者たちの関係。特別室に入院している正体不明の患者。そして、その人物を必死にかくまう華先輩や袴田先生……。
「考え込んでいるところ悪いけれどさ、なにか見えてきたよ」
 うつむいた私は、ククルの声で顔を上げる。遥か遠く、満月の下の水平線から建物が姿を現わしはじめていた。
「……お城?」
 私はまばたきをくり返す。それは西洋風の巨大な城だった。
「どうやら、この〈道〉が当たりだったみたいだね。あの建物の中に、加納環のククルがいるかもしれないよ」
 足取りが軽くなったククルとともに進んでいくと、遠くに小さく見えるだけだった城が、見る見る大きくなっていく。
 湖にひっそりと浮かぶ白亜の宮殿の前に、私たちはたどり着いた。入り口の扉までのぼる階段は、木琴でできている。そっと足を踏み出すと、しっとりと響いていた『月の光』は聞こえなくなり、広がっていた湖とそれを煌々と照らしていた月も消えてしまう。代わりに木琴の階段からは、明るく陽気なメロディが響きだす。
 チャイコフスキーの『くるみ割り人形』。
 同時に階段の左右にずらりと、赤い制服に高さのある紺色の帽子をかぶった可愛らしい人形の衛兵が現れる。彼らは手にしたラッパを高らかに吹きはじめる。
「なかなか派手な歓迎だね。しかし、ピアノの鍵盤の〈道〉といい、木琴の〈階段〉といい、加納環の人生には音楽が溢れているんだね」
 ラッパのリズムに合わせて体を揺らしながら、ククルは階段を昇っていく。彼のあとを追っていた私は、ふと足を止めて耳に手を当てる。かすかに、ほんのかすかにだが、何か音が聞こえた気がした。虫の羽を鳴らしているような音が。
 耳鳴り? 首をひねった私は、音が聞こえてきたと思われる方向に視線を向ける。数百メートルは離れた闇に満たされた空間に、もやがかかっているように見えた。気のせいかと思い、何度か目をこするが、やはりその黒い靄が消えることはなかった。また、羽音が聞こえた気がした。
「なにしているんだよ? 早くおいでって」
 ククルに促された私は、靄が気になりつつも「う、うん」と足を動かしていく。階段をのぼりきると、そこには扉がそびえ立っていた。私の身長の数倍はある丸い扉。よく見るとそれは、巨大なシンバルでできていた。
 シンバルの扉が大きく鳴る。全身の細胞を揺らすようなその音に、私とククルが反り返っていると、真ん中から観音開きに扉が開いていった。
 おそるおそる中に入ると、そこには広々とした大理石の廊下が伸びていた。三車線は取れそうな幅がある床は、顔が映りそうなほどに磨き上げられ、左右に立ち並ぶ柱には精巧な彫刻が施されている。見上げると、優に十メートル以上の高さがあるアーチ状の天井には、美麗な宗教画が描かれていた。
 扉が閉まる。同時に『くるみ割り人形』のメロディも聞こえなくなった。
「あの糸、なんだろう?」
 私はつぶやく。廊下には等間隔で、半透明の糸が上下に張られていた。それはまるでレースのカーテンのように涼やかに見えた。
 ゆっくりと糸のカーテンに近づいた私は、そっと手を伸ばしてそのうちの一本に触れてみる。指先にほとんど糸の感触はなかった。その代わり、どこまでも透明感のある音が廊下に反響する。
「……ハープ?」
 糸に触れたままつぶやく。まだかすかに残響が聞こえるその音は、間違いなくハープが奏でるものだった。
 私はそっと糸の、いやハープの弦のカーテンを通ってみる。まったく抵抗なく、体が通り抜けるとともに、宝石のように美しいハープの音が空間を満たしていく。
「へえ、面白いね」
 楽しげにつぶやくと、ククルは肉球で大理石の床を蹴って駆けだした。その小さな体が弦のカーテンを通過するたびに、ハープの音が鳴る。
「ちょっと待ってよ」
 私は慌ててククルのあとを追って走りはじめる。私とククルが弦のカーテンを通るたびに響いていた美しい音がやがて一つの曲を奏ではじめる。それにつれ、シンバルの門が閉じてから消えていたオーケストラの演奏もかすかに聞こえはじめた。
 『花のワルツ』。
 バレエ組曲である『くるみ割り人形』の最後にして、最も有名な曲。その序章で流れるハープの調べは、これからはじまる雄大な演奏の期待感をいやがおうにも掻き立てるものとなっている。
 『花のワルツ』の旋律がはっきりと響きはじめたとき、私たちは廊下の突き当りにたどり着いた。
 バイオリンの彫刻が施されたその扉に手をかけた私は、足元のククルに視線を落とす。ククルは胸を張ると、力強く頷いてくれた。
 両足を踏ん張り、腕に力を込める。重い扉がゆっくりと開いていく。その隙間から、オーケストラの雄々しい演奏が湧きだしてきた。
 扉の向こう側に広がっていた光景に、私は立ち尽くす。
 サッカー場ほどの広さがありそうなホールで、可愛らしい人形たちが舞っていた。
 私の腰のあたりの身長の、木彫りの人形たちが思い思いのダンスを踊っている。
 クラシカルなワルツにはじまり、日本舞踊、コサックダンス、ベリーダンス、サルサ、タンゴ、タップダンス、はては激しくブレイクダンスを踊っている人形さえいる。彼らが着ている衣装も、西洋のドレスから着物やチャイナ服まで、各国の伝統的な装いをその小さな体に纏っていた。
 ホールの最も奥まった場所は一段高いステージとなっていて、人形たちのオーケストラが高らかに『花のワルツ』を演奏している。
 天井からカチカチという音が聞こえて顔を上げる。そこには、十数匹のカスタネットが蝶のように飛んでいた。羽ばたくたびに、軽快な音が上がる。
 お伽噺の中に入りこんだかのような光景に圧倒され、吸い込まれるようにフロアに入る。想像よりもはるかに弾力性のある床に足を取られる。靴が沈み込み、すぐに反動で体が軽く浮かび上がった。トランポリンの上を歩いているような感触。床からポン、という小気味いい音が響く。
「床は太鼓になっているみたいだね。ほら」
 ククルが器用に四本の足を踏み鳴らし、リズムを刻んでいく。
 音楽で溢れかえった空間。音の洪水が身体に染み込んでくる。
「なにをつっ立っているのさ。香苗も踊りなよ」
「踊るって、ダンスを?」
「当然じゃないか。これまでの夢幻の世界で学んできただろ。その場の状況にうまく適応しないと、その世界に囚われているククルにたどり着けないって」
「でも、ダンスなんてしたこと……」
「そんなの気にしないで。適当でいいんだよ。大切なのは楽しむことなんだからさ。ほら、こんなふうにさ」
 ククルは軽快にステップを踏む。私は見よう見まねで、足を踏み鳴らしてみる。一瞬バランスを崩し、隣で踊っていた人形に体がぶつかってしまった。
「ドンマイ。ほらもっと大胆に動きなよ。僕みたいにさ」
 ククルは後ろ足で立ち上がり、くるりと綺麗なターンを描くと、黄金色の毛に包まれた体を揺らしはじめる。
「……猫とは思えない動きだね」
「ここは現実じゃなくて、夢幻の世界、イメージ次第でなんでもできる世界だからね」
 ウインクしてくるククルの前で、私も手足を動かし、体を揺らす。最初はうまくいかなかったが、慣れていくにつれ流れてくるリズムに体の動きがシンクロしていった。
「よし、いい感じだね。それじゃあ、もうちょっと応用編に行ってみようか」
 ククルは動きを止めると、気障で慇懃な仕草で一礼をする。つられて私も頭を下げると、ククルは両耳を伸ばして、差し出してきた。ワルツを舞っている人形にペアが次々に通過していく流れの中で、私は小首を傾げる。
「え? なに?」
「だからさ、ダンスだよ。僕の耳を掴んで。せっかく『花のワルツ』が流れているんだから、一緒にワルツを踊ろうよ」
「ワルツって、そんなの出来るわけ……」
 断ろうとした私の手に、するりと柔らかい耳が巻き付く。気づくと、体が回転していた。右から左に流れていく光景と、遠心力に目を白黒させていると、ククルが「力を抜きなよ」とウィスカーパッドをあげて笑みを作った。長いヒゲが震える。
「そんなこと言われても」
「いいから、僕を信じなってば」
 ククルに優しくそう言われると、なぜか不安が洗い流されていく。私はこわばっていた体からふっと力を抜いた。自然とステップがスムーズになる。ククルの耳が柔らかく動きを導いてくれていた。
 ぎこちないながらも踊りはじめた私は、ククルに連れられて、人形たちのワルツの輪へと入っていく。初めての経験に戸惑いながらも体を動かしていくうちに、次第に気分が高揚していく。絡まりそうだった足の動きも、だいぶぎこちなさが取れてきた。
 私とククルは踊りながら、フロアを移動していく。女性の人形が身に纏っている、各国の鮮やかな民族衣装が視界を流れていく様子は、鮮やかな原色の川を泳いでいるようだった。オーケストラのそばを通過するときは、その大音量に細胞が粟立つような気がした。体が汗ばみ、気分が高揚していく。自然と顔の筋肉が緩んでいった。
 ククルとともに縦横無尽に踊っていた私は、ふとフロアの中心に大きな楽器が鎮座していることに気づく。それはピアノだった。年季の入ったグランドピアノ。
 その塗装はところどころ剥げ、うっすらとほこりをかぶっている。華やかなパーティーには場違いなみすぼらしい姿に、眉間にしわが寄っていくのをおぼえる。譜面板には、黄色く変色した古い楽譜がセットされていた。
 ククルにリードされて回転しながらも、私の意識は古びたピアノへと引き寄せられる。そのとき、『花のワルツ』の旋律に、わずかに雑音が混ざった気がした。城に入る前に聞こえた、虫の羽音のようなざわめき。
 また、耳鳴り? 私はククルの耳を離すと、片手を耳に当てる。
「うん、どうしたの?」
 ダンスを止めたククルは、四つ足に戻りながら不思議そうに小首をかしげる。私は片手で耳を押さえたまま、残った手の人差し指を立て、唇の前に持っていった。私たちの周囲を、人形たちが舞いながら流れていく。
 雑音は少しずつ、しかし確実に大きくなっている。
「ククル、聞こえない? 虫の羽音みたいなの?」
「羽音?」
 ククルは両耳をぴょこんと垂直に立てると、パラボラアンテナのようにゆっくりと回転させた。その体がピクリと震える。ポンポンのような丸い尻尾が、ぶわっと膨らんだ。
「聞こえる。虫の羽音みたいなのが」
「ククルにも聞こえるということは、耳鳴りじゃないってことだよね。聞こえてくる方向は……」
 私とククルは同時に首を回し、同じ方向を見る。さっき私たちがくぐった大きな扉へと。羽音はさらに大きくなっていた。オーケストラの演奏の中でも、はっきりと聞こえてくるほどに。
 楽しそうに踊っていた人形たちが、次第に動きを止めていく。木製の顔に浮かんでいた笑みが消え、私たちと同じように廊下へと続く扉を見つめはじめる。ガタガタと細かく不吉に揺れはじめた扉を。
 純白の扉の一部が、不意に黒く染まった。
 いや、違う。色が変化したんじゃない。その部分が食い破られたのだ。黒い霞のようなものに。
 不快な雑音が一気に大きくなり、フロアの空気をかき乱す。扉を食い破って侵入してきた黒い霞は、上昇して天井近くにいったん溜まったあと、いまだにステージ上で演奏を続ける人形のオーケストラに向かって一気に襲いかかった。
 演奏が止まり、指揮者の人形が黒い霞に覆われる。球状になった霞の中から、苦痛のうめき声が漏れ出してきた。やがて集まっていた霞が、膨らんで薄くなる。そこにはすでに、指揮者の姿はなかった。霞によって食い尽くされてしまったように。
 すぐに、霞はオーケストラのメンバーに次々と襲い掛かっていく。バイオリン、チェロ、トランペット、トロンボーン、シンバル……。それらを演奏していた人形たちが次々と霞に喰われ、消えていく。オーケストラを喰らいつくした霞は、再び天井まで上昇すると、ゆったりとした動きで回旋しはじめた。まるで獲物を探しているように。
 ダンスをしていた何百体もの人形がパニックになり、奇声を上げながら逃げ惑いはじめる。数十体の人形が、フロアから逃げ出そうと扉に殺到する。しかし、それを待っていたかのように霞は扉の前へと急降下し、人形たちを襲いはじめる。
 阿鼻叫喚のフロアで、私はしゃがみ込んで頭を抱える。すぐそばにいたドレス姿の人形が甲高い悲鳴を上げる。次の瞬間、その小さな体に霞がまとわりついた。四肢をばたつかせて必死に抵抗する人形のいびつな舞いを、ただ震えて眺めていた私は、ようやく霞の正体に気づく。
 それは虫だった。大量の黒く小さな羽虫。その大群が、目の前で人形を貪り食っている。その残酷でおぞましい光景に悲鳴を上げそうになったとき、毛足の長いマフラーのように柔らかいものが私の口を覆った。
「静かに」
 ククルが耳元でささやく。
「ほら、見てごらん。声を上げている人形が襲われてる」
 ククルは片耳で、襲われている人形たちの集団を指す。ククルが言う通り、悲鳴を上げた人形から霞に……、蟲の大群に襲われている。
「たぶん、あの蟲たちは音に反応して襲ってくるんだ。だから、静かにして。分かったね?」
 ククルが口元から耳を引く。私は小さくあごを引いた。なぜかククルの声を聞いただけで、恐怖がだいぶ希釈されていた。
 無言でしゃがみ込む私の周りで、人形たちが次々に蟲に喰われて消えていく。ほんの数分で、フロアには私とククル、そして蟲の大群しかいなくなった。
 あらかた獲物を喰らいつくした蟲たちは、再び天井近くにたまり、回旋を再開する。不快な羽音で満たされたフロアの中で、私とククルは唾をのんで身を寄せ合い続けた
 やがて、蟲たちは新しい獲物を探すためか、食い破った扉の隙間へと吸い込まれていった。
 私は肺にたまった空気を吐き出すと、隣にいるククルにできるだけ小声で話しかける。
「なんだったの、あれ?」
「さあ、分からないね。加納環はよほど虫嫌いだったのかな。それよりも、あいつらが戻ってくる前に早く加納環のククルを探さないと」
 環さんのククル……。私はフロアの中心に鎮座するグランドピアノに視線を送る。
「あのさ、私、ちょっと気になっていることがあるんだけど」
「あのピアノでしょ。僕も気になっていた。この宮殿に置かれているにしては、ちょっとみすぼらしすぎるよね」
 私とククルは、太鼓でできた床が音を立てないよう、慎重にすり足でフロアの中心へと移動していく。私は譜面板にある古びた楽譜を読んでいく。
「運命……」
 交響曲第五番、ハ短調、作品六十七。通称『運命』。ベートーベンが作曲した五番目の交響曲。
「もしかして、これを弾けってことなのかもね」
 ククルがピアノに飛び乗る。肉球が鍵盤を押し下げた。それによって振り下ろされたハンマーが張りつめられた弦を力なくたたき、ポーンと音を立てる。
 それほど大きくないにもかかわらず、ホールの音響効果が優れているのか、その音は反響して空気を震わせ続ける。
「ククル!」
 私が押し殺した声を上げると、ククルは「ごめん!」と自分の口を両耳で覆った。私たちは関節がさび付いたかのようなぎこちない動きで首を回して、扉の方を見る。喰い破られた隙間から、様子をうかがうかのように、わずかな蟲の群れが侵入してきた。
 扉の周辺に黒い霞が漂っているのを見ながら、私たちは息を殺す。鍵盤のうえのククルは、身を伏せつつ膨らんだ尻尾を持ち上げ、完全な戦闘態勢になっていた。
 数十秒、扉の周りを飛んだあと、蟲の群れは再び扉の隙間へと吸い込まれていった。私とククルは同時に大きく息を吐く。
「なんとか助かったみたいだね」
「他人事みたいに言わないでよ。怖かったじゃない」
 私たちは声をひそめながら会話をする。ククルは「ごめん」と両耳を垂らした。
「けどさ、あれくらいの音で蟲たちがやってくるなら、演奏なんてできないよね」
 ククルは垂らしていた耳を組む。
「けれど、ここで隠れているだけじゃじり貧だしなぁ。ねえ、香苗はどう感じているの。このピアノについて」
「このピアノ……」
 私はあらためて目の前にある年季の入ったグランドピアノを見つめる。流麗な宮殿には似合わないみすぼらしい姿だが、なぜかあふれ出さんばかりの存在感を放っていた。
「なにか特別なものなんだと思う」
「楽譜の曲をこのピアノで弾いたら、なにかが起こるような気がする?」
 私は少し迷ったあと、「たぶん」とあごを引いた。
「それじゃあ、演奏してみなよ。ユタである香苗がそう感じるということは、きっとこのピアノを弾くことでなにかが起こるんだよ」
「なに言っているの。そんなことしたら、蟲の大群が……」
「大丈夫さ。僕は香苗のククルなんだから」
 ククルは気障なウインクをする。
「香苗が演奏している間、僕が守ってあげるよ」
「でも……」
 私は黄ばんだ楽譜を見つめる。譜面に描かれた音符が浮き出して、襲い掛かってくるような錯覚に襲われる。
 二十年以上、ピアノを弾いていない。あの人がいなくなってから、私の指は一度も鍵盤に触れていなかった。
 きっとピアノの前に座ったらあの人のことを思い出してしまう。私にピアノの弾き方を、その楽しさを優しく教えてくれたあの人を。
「ずっと、ここでじっとしているわけにもいかないでしょ。それともここでマブイグミを中止するかい?」
「そんなのだめだよ!」
 私は首を横に振る。環さんのマブイグミを続け、彼女のククルを見つけて記憶を見なければなにも解決しない。環さんを昏睡から救うこともできなければ、特発性嗜眠病の原因も、連続殺人事件との関連も分からない。それに、特別病室にいる患者の正体も……。
「じゃあ、弾きなって。そうすれば、きっと道が開けるよ」
 ククルに促された私は、躊躇いつつもピアノの前に置かれた椅子に腰を掛けると、かすかにふるえる手を鍵盤の上に置いた。
 指先に伝わってくる、硬くひんやりとした感触。二十数年ぶりの感覚に心拍数が上がっていくとともに、あの人との思い出が脳裏によみがえってくる。
 私の手首にそっと添えられる掌の温度と柔らかさ。「そう、上手ね」と耳元で囁いてくれる優しい声。私に向けられるどこまでも柔らかい眼差し。
 幸せな記憶がじんわりと体温を上げてくれる。しかし次の瞬間、テレビのチャンネルが変わったかのように頭の中の光景が切り替わる。
 悲鳴を上げて逃げ惑う人々、私の体を強く抱きしめる腕、顔に感じる温かくぬるりとした感触、太陽の光を紅く反射する包丁、そして私の体を貫く刃物よりも冷たく鋭い視線。
 あの日、私に向けられた双眸を思い出し、頭から冷水を浴びせかけられたかのような気がする。まったく感情のこもっていない瞳。巨大な爬虫類に睨みつけられたようなあの経験。
 体の奥底から震えが湧き上がり、鍵盤に置いた手がぶれる。
 消さないと。すぐにあの記憶を頭の中から消し去らないと。そう思えば思うほど、あの日の出来事がより鮮明に蘇ってくる。
 胸に疼痛が走る。見ると、シャツの胸元からわき腹にかけて、赤黒い染みがじわじわと広がっていた。また、傷口が開いてしまったのだろう。飛鳥さんの夢幻の世界で起こったように。
 私は唇を強く噛む。犬歯が薄皮を破り、鋭い痛みが走るが、かまわずあごに力を込め続ける。
 はじめて夢幻の世界で彷徨っていたあの頃とは違う。患者さんたちを救い、あの日の記憶を克服するため、私から大切なものを奪っていったあの男に打ち勝つため、マブイグミを行ってきた。
 大丈夫だ、私はもう一人でやっていけるはずだ。
 覚悟を決めた私は両手を一度浮かすと、鍵盤に指を叩きつける。しかし、響いたのは『運命』の荘厳な幕開けの旋律とは似ても似つかない、いびつな音だった。
 間違えた!? 楽譜を見て再び弾きなおそうとした私は硬直する。ところどころ破れた古い楽譜の上で、音符が動いていた。その光景は、小さな虫が這い回っているかのようで、背中がざわざわとしてくる。
 頭を一度大きく振った私は、楽譜から手元へと視線を落とす。ピアノをやめる前、『運命』はつたないながらもよく弾いていた。譜面を見ないでも弾けるはずだ。
 再び指先で鍵盤を叩くが、やはり響くのは纏まりのない雑音だけだった。
「来た……」
 足元でククルがつぶやく。顔を上げた私の口から、か細い悲鳴が漏れる。
 扉の隙間からみたび蟲が湧きだしていた。黒い霞に見える蟲の大群は、大きな羽音を立てながら上昇し、天井の辺りに溜まっていく。その数は、さっき人形たちを喰らい尽くしたときより明らかに多く、もはや霞と言うよりは天井に黒い雷雲が立ち込めているかのようだった。
 もうすぐ、蟲たちが襲ってくる。全身にたかられ、内臓まで喰い荒らされてしまう。恐怖に体を締めつけられ、動けなくなっている私の太腿を足場にして、ククルがピアノに乗る。
 雷雲から黒い鞭が伸びるように、蟲たちが急降下してきた。私がとっさに両手で顔を守ると、ピアノの上に座ったククルは首を反らして天井を見上げ、口を大きく開いた。
「んにゃおおおおーん!」
 その小さな体躯からは想像できないほどの音量の鳴き声が響きわたると同時に、ククルの口から黄金色の光がシャワーのように噴き出した。その光のシャワーがピアノを半球状に取り囲む。鞭と化した蟲の大群の先端が、その光に触れた瞬間、ジジッという音がして黒い鞭が燃え上がる。
 鞭は一度大きくしなって距離を取ると、再び私たちを取り囲む光の障壁に向かって突っ込んでくる。しかし、結果は同じだった。光に触れるはしから蟲たちは燃え上がって消えていく。その光景は、昆虫が誘蛾灯に触れては消えていく姿を彷彿させた。
「バリヤーを張ったよ。これで少しは時間を稼げるから、いまのうちに」
 ククルは険しい表情で蟲の雷雲を睨みながら言う。今度は雷雲から数本の鞭が伸びて、光の障壁に叩きつけられる。蟲が焼けていく音が重なり、砂嵐を映したテレビが発する雑音のように聞こえる。蛋白質が焼ける不快な匂いが鼻先をかすめた。蟲の鞭が引かれる。それが叩きつけられた部分の光が、わずかに弱くなっていた。ククルは再び、「にゃおおーん!」と吠えて光を噴き出し、その部分を改修していく。しかし、全ての部分を元に戻す前に、再び黒い鞭がバリヤーに叩きつけられた。
 ククルが言うとおり、これでは時間稼ぎにしかならない。
 私は息を乱しながら鍵盤に手を戻す。しかし、演奏することができなかった。指先の感覚がなくなり、鍵盤を叩くことができない。
 脳裏にはあの日の記憶が蘇り、手を、全身を縛っていた。
 なんとかしなきゃ、早くなんとかしなきゃ。
 焦れば焦るほどに、体の感覚はなくなっていく。まるで、自分が自分でないような、意識と体が乖離してしまったような感覚。
 眼球だけ動かして、鍵盤から視線を上げた私は悲鳴を上げる。いつの間にか目の前のピアノがまったく異質なものに変貌していた。
 鍵盤蓋には刃物のように鋭い牙が生えそろい、側板や屋根、足柱には黒く硬そうな毛が生えている。私の足元にあるペダルは、巨大な鉤爪かぎつめと化していた。
 息を乱した私は視線に貫かれる。譜面台に置かれた楽譜に浮き出た双眸から発される視線に。
 爬虫類のように感情の浮かんでいないその瞳には見覚えがあった。二十年以上前のあの日、私の大切なあの人を斬りつけた男の瞳。赤く濡れたナイフを手に、ずっと私を見つめ続けたあの瞳。
 だめだ……。絶望に私は崩れ落ちそうになる。
 マブイグミを成功させることで、いまも縛り続けているあの男に勝てると思っていた。あの男に囚われることなく生きていけるようになると。けれど、そんなこと不可能なのだ。
 私は一生、あの男から逃げることはできない。あの男に勝つことなどできるわけがなかった。
 目を逸らしたいのに、蝋人形にでもなってしまったかのように体が動かない。譜面に浮き出た双眸に魂が吸い込まれ……、呑み込まれていく。このまま、目の前の怪物に喰われてしまう……。
 もう、どうでもいい……。
「香苗!」
 鋭く名を呼ばれるとともに、譜面と私の間にうさぎ猫が割り込んできた。朦朧としていた意識が鮮明になる。
「ククル……」
「大丈夫、僕がついているよ」
 譜面台に立つククルがにっと笑いかけてくる。
「でも、もう……」
 舌が震えて、上手く喋れない私の手に、ククルの耳がそっと添えられる。
「大丈夫、僕がついているよ」
 ククルは同じ言葉をくり返す。羽毛の毛布のようなククルの耳の感触に体のこわばりがほぐれていった。
「けれど、ピアノが怪物に……」
「怪物? そんなものどこにいるんだい?」
 ククルは軽い口調で言うと、譜面台から飛んでピアノの屋根に戻る。楽譜に浮かび上がっていた爬虫類のような巨大な瞳は、消えてなくなっていた。鍵盤蓋の牙も、側板や足柱にびっしりと生えていた毛もなくなっている。足元の鉤爪も、元のペダルに戻っていた。
「二回のマブイグミを成功させた香苗は、ユタとして十分に力を付けてきているんだ。だから、夢幻の世界で香苗がイメージしたことは、周囲にまで影響を及ぼせるようになっている。分かるね?」
 私は曖昧に頷く。イメージすることで自分の体に羽を生やしたり、チーターに変身できたりしたように、私はピアノを怪物に変えてしまったということだろうか。
「だから、恐怖に囚われないで。自分一人で戦おうとしないで。香苗のそばにはずっと僕がいることを忘れないで」
 ククルの言葉、一つ一つが冷え切った体を温めてくれた。
 そうだ、私は一人じゃない。私は大きく息を吐くと、ククルに触れられたままの両手で頬を張った。
「もう大丈夫そうだね。弾けるね」
 私は大きく頷くと鍵盤に指を置く。もう手が震えることはなかった。
 ククルは「頑張って」と言うと、表情を硬くして天井を覆うほどに蠢く、蟲の大群を睨む。蟲たちの鞭で打ちつけられた光の障壁は一見して劣化しているのが見て取れる。
 一気に勝負を決めようとしているのか、蟲の雲から出ていた黒い鞭がり合わさり、丸太のように太くなる。蟲でできたその丸太が、私たちに向かって一直線に伸びてくる。
「んにゃああー!」
 ククルの咆哮ほうこうとともに、その口からレーザー砲のような光線が丸太に向かって放たれる。空中で丸太と光線は激しくぶつかり合い、大量の煙がフロアに充満する。
 私は意識を両手に集中させる。蟲はきっとククルが防いでくれる。だから、私は演奏に集中しなくては。
 息を細く、長く吐いていく。ずっと耳に纏わりついていた羽音が聞こえなくなる。蟲が焼ける悪臭も、いまはもう感じない。
 世界が自分に向かって収斂しゆうれんしていくような感覚。私は静かに目を閉じた。
 瞼の裏にあの人の優しい笑顔が映った。
 目を見開いた私は、両手を鍵盤に叩きつける。『運命』のオープニングであるどこまでも重厚で、心を揺さぶるメロディが空間を揺らした。
 私は一心不乱に指を動かす。最初は抑え気味に、しだいに力強く。ベートーベンが苦悩の中で生み出した曲を奏でていく。上半身を揺すり、その勢いを指に乗せて演奏をしていく。
 怒り、哀しみ、絶望、そして希望。ピアノから湧き上がってくる旋律が様々な感情を乗せて広がっていった。
 毎日のようにピアノに触れていた頃でも、これほどの演奏をすることはできなかった。それなのにいまは、ピアノが身体の一部になったかのように思うがままに演奏することができる。
 ふと私は、指が鍵盤に吸い付くような感覚をおぼえる。見ると、手が熱されたチーズのように溶けだし、鍵盤の上に広がっていっていた。嫌悪感はなかった。ピアノと一体になっていくことに、心地よさすら覚えていた。
 次の瞬間、突然に床が破れた。ピアノの屋根で蟲を追い払っていたククルが「にゃ!?」と目を丸くする。体が落下していく感覚に、私は一瞬演奏をやめかける。
「弾き続けて!」
 屋根の端に爪を立ててしがみつきながら、ククルが声を上げる。
「これでいいんだ。これで、加納環のククルのところに行けるかもしれない。だから、演奏を続けるんだ」
「うん!」
 ククルと目を合わせて、私は答えると、肘の辺りまでピアノと一体化している腕を動かしていく。ハンマーが弦を打つ振動が、心臓の鼓動とシンクロしていく。
『運命』の荘厳な旋律が自分の一部に、自分が曲の一部になるような心地をおぼえながら私は落下し続けた。
 唐突に曲が聞こえなくなる。目を閉じてメロディに溶け込んでいた私は、はっと我に返る。いつの間にか硬い床のうえに立っていた。一緒に落ちてきたはずのピアノの姿はなかった。足元ではククルが目をしばたたかせている。
「ここは……」
 薄暗い空間だった。天井が低く、薄暗い空間に私は立っていた。温度は低いが、やけに空気が湿っていて肌に纏わりつく。濃厚なカビの匂いにむせ返りそうだった。
 天井から落ちた水滴が、ごつごつとした石の床ではじけた。
「なんか、地下室みたいだね」
 ククルは飛び上がって私の肩に乗ると、声のトーンを下げる。
「まあ、ただの地下室って感じじゃないけれどさ」
「え、どういうこと?」
「ここにある物をよく見てみなよ」
 ククルに言われた私は、目を凝らす。床に置かれた蝋燭の弱々しい炎に、壁に取り付けられた、やけに無骨な斧や剣が浮かび上がる。
「武器庫?」
「そっちじゃなくて、あっちに置いてある物だよ」
 ククルは両耳で私の頬を挟むと、無理やり横を向かせる。目に飛び込んできたものを見て、私は片手で口を覆う。
「ギロチン……」
 フランスで発明された人の首を切断するためだけに生み出された道具。頸部を切り落とす巨大な刃が、蝋燭の炎を禍々まがまがしく反射している。
「それだけじゃないよ」
 ククルの言葉を聞いて周囲を見回した私の喉から、呻き声が上がってくる。
 アイアンメイデン、電気椅子、ファラリスの牡牛、絞首台……。様々な処刑用具がそこには並べられていた。
「どうやら、処刑場というのが正しいみたいだね。まあ、大きなお城の地下なら、そういう施設があってもおかしくないか」
 のんびりとした口調でククルが言う。
「冷静に言わないで! なんでこんな……」
 あまりにも不気味な空間に声を上ずらせる私の口を、ククルの耳が塞ぐ。ククルは爪を一本立てると、口の前に持ってきた。
「大声立てちゃだめだよ。ほら、耳を澄ませて」
「耳を……?」
 私は聴覚に意識を集中させる。背中に冷たい震えが走った。天井からかすかに羽音が聞こえてくる。
「この音って……」
「そう、蟲の大群だよ。ここは城の地下なんだ。蟲はまだ上にいる。だから、あまり大きな声を出さないように。オーケー?」
 私はこくこくと小刻みに頷く。ククルは私の口を覆っていた耳を引いた。
「けれど、夢幻の世界にこんな不気味な場所があるところをみると、加納環がかなりショッキングな経験をしたんだろうね」
「でも、ショッキングな経験だけで、こんな部屋ができる?」
 この場所は、これまで見てきた夢幻の世界の中でも、飛びぬけて瘴気しようきに満ちている。いったい、環さんの身になにがあったというのだろう?
「加納環のククルを見つけて記憶を覗けば、きっと詳しいことが分かるさ。それじゃあ、蟲がやって来る前にさっさと探そうよ」
「ここを探すの!?」
 また声が跳ね上がりかけ、私は両手で口を押さえる。
「当り前じゃないか。ほら、時間がないんだから早く」
 肩から飛び降りたククルに臀部を押された私は仕方なく、どうやって使うのか想像するのも恐ろしい形状をした機器の陰を確認していく。
 数分間、身を小さくしながら探し回っていた私は足を止める。壁に立てかけられた大きな十字架、その根元に隠れるように両手で包み込めるほどの大きさの、正方体の箱が置かれていた。花柄の可愛らしい彫刻が施されているその箱は、蝋燭のわずかな灯りしかないこの地下室で淡く光を発している。
 これだ! これまでのマブイグミの経験で、私はこの箱に環さんのククルが眠っていると確信する。
「ククル」
 私が手招きすると、電気椅子の上に乗って首を回していたククルが軽快に飛んでくる。
「あったかい?」
 私は「うん、たぶん」と箱を指さす。そのとき、私の手の甲に一匹の小さな蚊のような蟲が止まった。その蟲は、カミキリムシのようなあごを大きく開くと、皮膚に突き立てた。鋭い痛みに小さく声をあげてしまう。
「香苗!」
 ククルが耳を素早く振るって、蟲を叩き潰す。手の甲についた粘着質な体液を、私は顔をしかめながら白衣の裾で拭った。上から聞こえてくる羽音は、明らかに大きくなっている。
「気づいたみたいだね」
 天井を睨みながらククルが言う。私は急いで箱のそばにひざまずいた。石床の冷たく硬い感触が、ズボンを通じて膝に伝わってくる。
 手を伸ばした私は、慎重に箱に触れると、その蓋を開けていく。弱々しい金属音で奏でられる、透明感のある旋律が地下室に満ちていく。
「オルゴール?」
 つぶやきながら箱の、オルゴールの中を覗き込む。そこには赤いレーザー光線のようなものが、小さく球状に纏まっていた。細かく揺れるその光線は、音楽に合わせてわずかに大きくなったり小さくなったりしている。心臓が鼓動するように。
「なかなか個性的なククルだね」
 オルゴールを覗き込んだククルがつぶやく。
「これが環さんのククルなの?」
「そうなんだろうね。この夢幻の世界を見ると、加納環にとって音楽はとても重要なものだったみたいだ。だから、そのククルも物質ではなく〈音〉自体が具現化したものなのかもしれないね。けど、そんなこと悠長に考えている時間はなさそうだよ」
 ククルは首を反らして、戦闘態勢を取る。石の天井にあるわずかな隙間から、染み出すように黒い霞が湧いて出てきていた。
「香苗、早くマブイグミを!」
 私は「分かった!」と答えると、そっとオルゴールの中に手を差し込む。
 指先が拍動するレーザー光線の塊に触れた瞬間、記憶の奔流が私の体に流れ込んできた。
(第16回へつづく)

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知念 実希人Mikito Chinen

1978年生まれ。東京慈恵会医科大学卒業、内科医。2011年、福山ミステリー文学新人賞を受賞し、『誰がための刃 レゾンデートル』(同作は19年『レゾンデートル』と改題し文庫化)でデビュー。主に医療ミステリーを手がけ、『天久鷹央の推理カルテシリーズ』が評判を呼ぶ。15年、『仮面病棟』で啓文堂書店文庫大賞第1位を獲得し、50万部超のベストセラーに。18年には『崩れる脳を抱きしめて』で、19年には『ひとつむぎの手』で連続して本屋大賞ベストテン入りを果たす。また19年、『神酒クリニックで乾杯を』がドラマ化されるなど各著書が注目を集めている。近著に『神のダイスを見上げて』『レフトハンド・ブラザーフッド』がある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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