双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第6章(承前)

 久米が犯人ではないなんてこと、本当にあるのだろうか?
 久米は佃さんに、佐竹優香さんを殺したと告げた。様々な状況証拠が、久米が優香さん殺害犯だと示している。なのに、なぜか私は佃さんのククルが伝えてきたことが真実だと感じていた。
 佃さんのククルの声が聞こえたとき、言葉だけでなく、感情の欠片かけらのようなものが身体の中に入ってきた。
 もし、本当に久米が犯人じゃなかったとしても、なぜそれを佃さんのククルが知っているのだろうか? ククルはマブイを映す鏡みたいなものだったはずだ。それなら、佃さんが知らないことを、彼のククルが知っているのはおかしい……。
 疑問が次々に湧き上がり、神経回路がショートしそうになる。
 鈍い頭痛をおぼえた私は、額を押さえる。明らかに脳の処理速度が落ちている。佃さんの記憶からはじき出されてから、頭蓋骨の中に漬物石でも詰め込まれたかのように頭が重かった。
「大丈夫かい、香苗?」
 足元で心配そうに声をかけてくるククルに、視線を落とす。
「ねえ、ククルはマブイを映す鏡みたいなものって言っていたよね」
「……ああ、そうだよ」
 ククルは頷く。しかし、その口調はやけに歯切れが悪かった。
「けれど、飛鳥さんのククルは彼女が知らないはずのことを知っていた。私はそれを教えてもらったから、彼女を救うことができた。そしてさっき、飛鳥さんのときに比べたらものすごく弱く、本当にかすかにだけど、佃さんのククルでも同じようなことが起きたの。ねえ、ククルっていうのは、本当にたんなるマブイの分身なの?」
 身をかがめて顔を近づけると、ククルはわずかに視線をそらした。その姿を見て確信する。ククルがなにか隠していることを。
「知ってることがあるなら教えてよ。なんでククルたちは、その人が知らないことまで知っているの? なにか隠していることがあるの?」
 緊張しつつ答えを待つ。夢幻の世界で唯一の味方だったククル。ずっと頼りにしてきた彼の正体がぼやけてきたことに、強い不安をおぼえる。
 ククルは長い耳で頭を掻いた。
「もし、佃三郎のククルが、久米が犯人じゃないって伝えてきたなら、きっとそれが真実だよ」
「なんでそう言い切れるの? 質問に答えてよ。あなたはなにを隠しているの?」
「……いまはまだ早いよ」
 ククルはひとりごつようにつぶやいた。私は「早い?」と聞き返す。
「そう、まだ早いよ。ちゃんとその時がきたら全部伝える。だからもう少し待って」
「説明になってない! 『その時』っていつ? あなたはいったい何者なの!?」
 ククルは口の端を持ち上げて、苦笑するような表情を作る。目の前にいるウサギ猫にはじめて恐怖をおぼえた私は、一歩後ずさった。
 この夢幻の世界に這入り込んでから、ずっとククルに頼り切ってきた。彼を完全に信用していた。しかし、よくよく考えたら、私はククルのことを何も知らない。ただ、彼自身が口にした説明を鵜呑みにして、味方だと思い込んでいたにすぎない。
 もしかしたら、このウサギの耳を持つネコは、その可愛らしい仮面の裏に邪悪な顔を持っているのではないだろうか? 胸に芽生えた疑念は、恐怖という栄養を吸収し、見る見る大樹へと成長していく。
 ククルは大きなため息を吐くと、両耳をパタパタと羽ばたかせて私の顔の高さまで浮き上がった。そのつぶらな双眸そうぼうに、こわばった私の顔が映る。
「香苗」
 ククルが語り掛けてくる。どこまでも柔らかい声で。
「僕はたしかに、まだ伝えていないことがある。けれど、これだけは信じて。僕は香苗の味方だよ。僕は君のためなら何でもできる。君を守るためなら喜んで命を捧げる。僕にとって、君はなによりも大切な宝物だからね」
 なぜか、恐怖、不安、疑惑……、黒い感情が一気に消え去った。胸の奥がほのかに温かくなっていく。
「もうちょっとして、香苗が受け入れる準備が整ったら、僕の知っていることを全部話すよ。それまで、待ってくれるかい?」
 ククルが目を細める。私は無意識のうちに「うん」と頷いていた。
「さて、それじゃあ話を戻そう」
 柏手を打つように、ククルが両耳を合わせる。羽ばたきをやめたせいで、その体が落下していった。
「久米は優香を殺していない。佃三郎のククルはそう言ったんだね」
 ククルの体が着地する。衝撃を吸収した肉球が、ぽむっと音を立てた。
「言ったというか、ほんとうにかすかにそんな声が頭の中に響いたんだけど……。けど、気のせいだったのかも……」
「いや、気のせいなんかじゃない。それは間違いなく、佃三郎のククルからのメッセージさ。けど、そんな声まで聞こえるなんて、香苗はユタとしてかなり成長したんだね。片桐飛鳥のときに比べて、佃三郎のククルに含まれているその成分は、ものすごく薄いはずだからね」
「その成分?」
 首をひねると、ククルは「ああ、こっちの話」と両耳を振って誤魔化した。
「で、その声を聞いて香苗はどう感じたんだい?」
「どうって……、なんとなく、久米が……久米さんが犯人じゃないような気がしているけれど」
「じゃあ、久米は犯人じゃないよ」
 あっさりと言うククルを前にした私は、「そんな適当な」と顔をしかめる。
「適当なんかじゃないよ」
 ククルは不満げに鼻をひくつかせた。
「ユタである香苗が、佃三郎のククルからメッセージを受け取り、それを本能的に真実であると感じているんだ。それは、間違いなく真実だということだよ。自分を信じなって」
「そんなことを言われても……」
「じゃあ、自分じゃなくて僕の言葉を信じて。なんにしろ、久米は優香を殺してはいない。それを、佃三郎のマブイに納得させるんだ。そうすれば、この気味の悪い夢幻の世界は崩壊して、佃三郎のマブイは解放される」
「じゃあ優香さんを殺した真犯人は誰なの? なんで久米さんは、人を殺したって佃さんに電話をしてきたの? 優香さんだけじゃなく、中年男性の被害者も久米さんが殺したんじゃないの?」
 疑問を並べ立てていると、内臓を揺さぶるような低い音が空間に響きわたった。首をすくめて振り返ると、無数の牢に閉じ込められたのっぺらぼうたちが、こちらを向いて喉を震わせ、唸り声をあげていた。
 のっぺらぼうたちがリズムを合わせて格子を揺すりはじめる。金属がぶつかり、軋む音が重なり、おぞましい交響曲となって精神をあぶる。
 険しい表情をしたククルは、身を伏せ、綿毛のような尻尾を膨らませた。
「ごちゃごちゃと考えている時間はないよ。久米が優香を殺していない。そのことだけ証明すればいいんだ。いや、しっかり証明する必要はない。佃三郎のマブイに、自分が間違っていなかったと納得させればいい。そうすれば、きっとこの夢幻の世界は崩れ去る」
「納得させるって、どうやって?」
「だから、それを考えるのはユタの仕事なんだってば。さっき、佃三郎の記憶の中で見たこと、佃三郎のククルが伝えてきたことを思い出すんだ。きっと、そこにヒントがあるはず」
 戦闘態勢を保ったまま、ククルは早口でまくしたてる。私は「わ、分かった」と目を閉じると、両手をこめかみに当てて必死に頭を働かせる。
 血飛沫ちしぶきで汚れた浴室の中、酸で満たされた浴槽に白骨化した遺体が浮かぶ、おぞましい光景が脳裏をよぎる。こみ上げてくる吐き気に耐えながら、私は必死に考え続ける。
 優香さんの首を切り裂いた凶器は、どこに消えたのだろう?
 なぜ、遺体は酸で溶かされたのだろう?
 なぜ、遺体の手首にチェーンが巻き付いていたのだろう?
 なぜ、鏡が割られていたのだろう?
 久米さんが犯人ではないとしたら、一体誰が、なんのために優香さんを殺したのだろう? 
 いったい犯人は誰なのだろう?
 疑問が頭のなかでゆっくりと、ねっとりと渦を巻く。この夢幻の世界にやってきたときの浴槽で、回転していた赤黒い液体のように。
 そのとき、脳内で火花が散った気がした。
「犯人……」
 口から漏れたつぶやきが、のっぺらぼうたちの唸り声と格子の軋みにかき消されていく。騒音の中、私の頭では佃さんの記憶の中で見た様々な事実が、有機的に組み合わさっていき、一つの青写真を浮かび上がらせていた。
「なにかわかったの?」 
 緊張をはらんだククルの問いに「うん!」と頷いた私は、首を反らして闇がわだかまる上方に向け声を張り上げた。
「佃さん、話を聞いてください! あなたは間違えてなんかいません。久米さんは、本当に優香さんを殺してなんかいなかったんです!」
 闇の中に声が反響する。私は細く息を吐いて反応を待つ。次の瞬間、目の前に半円状の木枠が現れた。その下は細い棒状の木柱が取り付けられている。
「証言台……?」
 外国の法廷ドラマなどでよく見る、証言をする際に立つ場所。いつのまにか、私はそこに立っていた。腰の高さにある木枠に触れていた私は、はっと顔を上げる。のっぺらぼうたちが閉じ込められている牢の手前にひな壇が登場し、そこに席が出来ていた。裁判官たちが座る裁判席。その真ん中、裁判長が座る場所に、老人が俯いて座っている。
「佃さん!」
 私は声を上げる。法衣を着てそこに座っていたのは、佃三郎、その人だった。彼はゆっくりと顔を上げると、落ちくぼんだ目をこちらに向ける。
 記憶の中で見た姿より、彼は老けて見えた。肌には張りがなく、腰は曲がっている。心なしか、髪も薄くなっている気がする。表情は弛緩して、張りがない。しかし、こちらを見るその目付きは鋭く、瞳は爛々らんらんと輝いていた。
 佃さんは席に置かれていた、これまた外国の裁判でよく見る木槌きづちを手に取ると、勢いよく振り下ろす。重く、大きな音が空気を揺らした。
「これより開廷する!」
 佃さんが雄々しく宣言するのを聞いて、唖然としていた私はようやく状況を理解する。
 これは裁判なのだ。夢幻の世界の裁判。ここで佃さんを説得することができれば、彼のマブイを救うことができる。
 私は乾いた口腔内を舐めて湿らせると、唇を開いた。
「聞いてください。久米さんは優香さんを殺してなんかいません。あなたは、人殺しを世間に解き放ったわけじゃないんです」
「そんなはずはない! 久米君は言ったんだ。自分は殺人犯だと。佐竹優香を殺害したと!」
 佃さんは再び木槌を振り下ろした。それに呼応するように、裁判席の背後にそびえ立つ無数の牢に閉じ込められているのっぺらぼうたちが、格子をがしゃがしゃと鳴らす。その迫力にひるみかけた私は、拳を握りしめて叫んだ。
「異議あり! 自白だけでは証拠になりません!」
 佃さんは「なに?」と眉根を寄せる。
「被告人の自白だけでは、有罪にすることはできないはずです。しかも電話越しの自白じゃ、久米さんがどんな状況でそれを言ったかまでは分かりません。久米さんが殺人犯だという確たる証拠にはなりません」
 木槌を握ったまま、佃さんは無言で私を睨み続ける。やがて、佃さんは木槌を机に戻した。
「異議を認める。たしかに、久米君の自白だけでは、彼が殺人犯だと断定することはできない。しかし……」
 佃さんはあごを引いた。
「警察は、彼が殺人犯であるという確固たる証拠をいくつも見つけている。私も確認したが、それは間違いないものだった。それはどう説明する?」
「優香さんの事件についてですか?」
 質問を返すと、佃さんは「どういう意味だ?」と低い声でつぶやく。
「ですから、その証拠と言うのは、久米さんが優香さんを殺害したという証拠なんでしょうか?」
「……いや、違う」
 数瞬の沈黙のあと、佃さんは首を横に振った。
「彼が釈放後に、中年の男性を殺したという証拠だ」
「なら、関係ありません」
「関係ない?」いぶかしげに佃さんは聞き返す。
「ええ、関係ありません。私がこの場で証明したいのは、久米さんが優香さんを殺害していないということだけです。釈放後の事件については、いまは関係ありません」
 言葉を切った私は、緊張しつつ佃さんの反応を待つ。中年男性が殺害された件については、佃さんの記憶を見てもほとんど情報が得られなかった。それについて、久米さんが犯人でないと証明することは不可能だ。
 再び木槌を手にした佃さんは、それを勢いよく振り下ろした。爆発するような音が臓腑を揺らす。
「異議あり! 久米君が中年男性を殺害したか否かは、彼の人間性にかかわる重要なファクターである。それを棚上げして議論などできない!」
 怒鳴る佃さんに対して、私も腹の底から「異議あり!」と叫び返した。
「久米さんが殺人犯だとしても、やっていない犯罪で罰を受けるのは間違っています!」
「どういう意味だ?」
 佃さんは軽く前のめりになる。
「久米さんが優香さんを殺害していたにもかかわらず、自分の弁護によって無罪にしてしまった。自分が『間違ったこと』をしてしまったせいで彼が釈放され、中年の男性が犠牲になってしまった。あなたはそうお考えなんですよね?」
 佃さんは「ああ、そうだ……」と躊躇ためらいがちに頷いた。
「では、もう一つ質問です。もし優香さんを殺したのが、久米さんではなかったとしても、裁判で有罪になるべきだったと思いますか? 冤罪えんざいであったとしても、久米さんが有罪判決を受けていれば、その後に中年男性は殺されなかったから」
 再び、佃さんは険しい表情で黙り込む。彼の背後にそびえ立つ牢にいるのっぺらぼうたちが、答えを急かすかのように格子を鳴らした。
「……いや、そうは思わない」
 苦悩が濃く溶け込んだ声が、佃さんの口から漏れる。
「被告人がどれほどの悪人であったとしても、犯していない罪で裁かれるべきではない」
「もし、それで未来の犯罪が防げるとしても……ですね?」
 私が念を押すと、佃さんはぎこちなく首を縦に振った。
「では、久米さんが優香さんを殺害していないなら、彼を弁護して無罪を勝ち取ったあなたの行動は『正しいこと』となりますね」
 私が『正しいこと』と口にした瞬間、佃さんの表情に強い動揺が走った。
「どうなんですか佃さん、答えてください!」
 質問を重ねると、佃さんはゆっくりと乾燥してひび割れた口を開いた。
「ああ、それは『正しいこと』だ……」
 牢に閉じ込められた無数ののっぺらぼうたちが一斉に、抗議するかのように奇声を上げるなか、私は「よしっ」と小さな歓声をこぼす。これで勝算が見えてきた。
「佃さん、ここで裁かれている人は誰ですか?」
「裁かれている人?」佃さんは困惑顔になる。
「そうです。ここは裁判所です。それなら、裁かれる人が、被告人がいるはずです」
「それは……」
 助けを求めるかのように、佃さんは視線を彷徨さまよわせた。私はまっすぐに佃さんを指さす。
「あなたですよ、佃三郎さん」
「私……?」
「そうです。あなたは久米さんを無罪にしてしまった自分自身が赦せなかった。だからこそ自らを責めて、疲弊した」
 その結果、他人に吸われてしまうほど、マブイが衰弱してしまった。
「佃さん、この法廷はあなた自身が創り出したものです」
 衰弱したマブイが創り出した、夢幻の法廷。
「ここではあなたは裁判官であり、検察官であり、そして被告人なんです」
 そう宣言すると、裁判長の席に座っていた佃さんの姿が消えた。私は慌てて周囲を見回す。いつの間にか、向かって左側の空間にデスクが、無人の検察席が存在していた。
 続いて首を回し、向かって右側を見た私は口元に力を込める。そこに置かれている簡素な椅子、被告人席に佃さんが背中を丸めて座っていた。古い外国映画の中で囚人が着るような縞模様の囚人服を着た佃さんが。よく見ると、その手足には鋼鉄のかせすらはめられている。
 佃さんはゆっくりと顔を上げて、虚ろな目で私を見る。
「では、弁護士は誰なんだ……? 誰が私の弁護をしてくれるんだ……?」
「私です」
 私は胸を張って答えた。
「私があなたを弁護します。あなたが『正しいこと』をしたと立証します」
「君が……」
 佃さんが呆然とつぶやいたとき、体が締め付けられるような感覚が走った。驚いて視線を下げると、いつの間にか白衣が消え去り、私の体はパンツスタイルのタイトなスーツに包まれていた。弁護士の正装ということなんだろう。
「なかなか似合っているよ。かっこいいじゃないか」
 足元で茶化してくるククルを軽く睨んでいると、木槌が叩きつけられる音が響きわたった。はっと顔を上げる。裁判長席に法衣をまとい、木槌を手にしていた佃さんの姿が戻っていた。見ると、検察席にはブラックスーツを着た佃さんが、険しい表情で座っている。
「これより、あらためて開廷する!」
 裁判官の佃さんが高らかに宣言した。
 裁判官、検察官、そして被告。三人の佃さんと、弁護士である私による裁判がはじまった。
「被告人は前に!」
 裁判官に命令された被告人が立ち上がり、枷のかけられた足を引きずりながら近づいてくる。私が場所を譲ると、被告人は証言台に立って裁判官を見上げる。
「被告、佃三郎。あなたは殺人犯である久米の弁護を行い、詭弁により無罪とした。その結果、釈放された久米は新たな殺人を犯した。そのことに相違ないか?」
 裁判官の糾弾に、被告人は体を小さくする。
「分からない……、分からないんだ……」
「なにが分からないというんだ!」
 検察席に座っていた、検察官の佃さんが声を荒らげながら近づいてきた。
「お前自身が久米から聞いたんじゃないのか。自分が犯人だという告白を。久米が無実だというお前の判断は間違いだったんだ。お前は『間違ったこと』をしたんだ」
 検察官は証言台の木枠を乱暴に叩く。どうやら、この夢幻の世界の裁判は、現実世界の規則通りに進むわけではないらしい。裁判について詳しい知識を持たない私にはありがたい。
「異議あり!」
 私が大声を出すと、検察官は「なんだ?」と顔をしかめる。
「久米さんは殺人犯だと決まったわけではありません」
「久米は私に電話をして、自分が殺したと伝えてきたんだ。殺人犯に決まっている」
「自白だけじゃ、証拠にならないはずです!」
 私はついさっき口にしたのと、同じ言葉をくり返す。
「どんな状況で電話してきたかもわからないじゃないですか。もしかしたら、電話の向こう側で、自白するように誰かに脅されていたのかも」
「いや、あの口調は無理やり言わされたものではない。間違いなく自発的な罪の告白だった」
「それはあなたの主観であり、客観的な証拠にはなりません!」
 私と検察官は、証言台を挟んで視線をぶつけ合う。
「異議を認めます。検察官は証拠に基づく発言をするように」
 裁判官が木槌を鳴らす。検察官は小さく舌を鳴らす。
「少なくとも、釈放後の殺人については確実な証拠がある。この男が久米を解き放ったせいで、人が殺されたのは間違いない」
「確実な証拠ってなんですか?」
 訊ねるが、検察官は「確実な証拠は、確実な証拠だ」とくり返すだけだった。
「異議あり。その証拠がどのようなものなのか説明してもらわないことには、確実なものなのかどうか判断できません」
 抗議すると、裁判官が「異議を却下する」と声を上げた。予想外の答えに、私は唖然となる。
「その証拠は確実なものである。弁護士はその前提で話を進めるように」
「どうやら、佃三郎の中では、その証拠が正しいものであるという確信があるみたいだね。そこに異議を唱えたところで、無駄みたいだよ。違うところから攻めないとね」
 ククルのアドバイスに、私は「分かった」と頷き、裁判官を見る。
「その証拠は、釈放後の殺人事件の証拠ですよね。優香さんの事件については、久米さんが犯人であるという確実な証拠はないはずです」
「……久米は男性の殺害とともに、佐竹優香の殺害も認めている。二つとも久米の犯罪だと推測できる」
「推測だけで有罪にはできないはずです。そしてこの裁判は、優香さんの事件で久米さんを無罪にしたのが正しかったか否かを争うものです。つまり、注目するべきは優香さんが殺害された事件であり、釈放後の事件は関係ありません」
「関係はある! 久米の人間性を示すことは重要だ!」
 検察官がつばを飛ばして叫ぶと、裁判官が数回木槌を鳴らした。
「双方とも落ち着くように。検察官は優香殺害事件について重点的に議論するように努めなさい」
「……はい」
 渋々とうなずいた検察官は、証言台の被告人に向き直る。
「お前は久米の自白が、違法な取り調べによるものと証明してあの男を無罪にした。しかし、状況証拠は全て久米が佐竹優香殺害の犯人だと示していた。それは認めるな?」
「……たしかに状況証拠はそうだった。ただ、……彼が犯人だという確実な証拠はなかった」
 ぼそぼそと聞き取りにくい声で被告人は答える。
「あれだけの状況証拠がそろっていれば、久米が犯人だと思うのが普通じゃないか? お前は、あの男が犯人だと分かっていたのに、それに気づかないふりをして弁護をしていたんじゃないか?」
「違う! 私は久米君が無実だと信じていた。彼と話をして、経験から彼はやっていないと確信していたんだ?」
「経験? 確信?」検察官は鼻を鳴らした。「その経験は確かなものなのか? これまでも犯罪者たちを解き放ってきたんじゃないか。いまもお前が、久米が無実だったと確信しているのか?」
「それは……」
 被告人は言葉に詰まり、うなだれた。
「久米さんは無実です!」
 私が言葉を挟むと、検察官は大仰に肩をすくめた。
「なぜそう言い切れる? すべての状況証拠が、あの男が犯人だと示しているんだぞ」
「状況証拠ってなんですか? 具体的にはなぜ、久米さんを犯人だと推測できるんですか?」
 私は一歩踏み出すと、検察官の顔に警戒が浮かんだ。
「……犯行が行なわれた夜、久米は佐竹優香の部屋を訪れ、数時間滞在している。彼女は久米にストーカーされていたと周りに言っていた。久米が所属している研究室から、酸を作るための薬品が持ち出されていた」
「それだけですか?」
「それだけって……」
 検察官の眉間にしわが刻まれる。
「では質問です。久米さんが犯人だとしたら、なぜ遺体を最後まで完全に溶かさなかったんですか? 酸で溶かすのは、遺体を消し去るのが目的のはずです。なのに、なんでその前に犯行現場から去っているんですか?」
「……遺体が溶けていく恐ろしい光景に耐えられなかったからだろう」
「前もって薬品を持ち込むほど用意周到なのに、なんでエントランスの防犯カメラに映るなんて不用意なことをしているんですか?」
「……犯罪者はときに不合理な行動を取るものだ」
「家の全ての鏡が割れていたのはなぜですか? 犯行現場の浴室だけでなく、洗面所の鏡や部屋の姿見も徹底的に割られています。その全ての場所で、久米さんと優香さんが争ったとでもいうのですか?」
 検察官の眉間のしわが深くなっていく。
「なんで遺体の手首にチェーンが巻き付いていたんですか? 凶器はどこに消えたんですか? なんで優香さんの顔の骨は、何ヶ所も骨折があったんですか? なぜ、そこまで顔を痛めつける必要があったんですか?」
「ああ、うるさい!」
 検察官は大きく手を振ると、私の鼻先に指を突きつけた。
「いい加減にしろ、細かいことばかりまくしたてて! それならお前は誰が犯人なのか分かっているとでもいうのか!? 久米よりも疑わしい人間が誰かいるとでもいうのか!」
「検察官は冷静に!」
 裁判官の叱責が飛ぶ。検察官は不満げに「承知しました」とつぶやいた。
「弁護人は検察官の質問に答えなさい。久米以外の人物がこの事件の犯人だという確証はあるのかどうか」
 裁判官の落ちくぼんだ目が私を捉える。私は数回深呼吸をくり返すと、はっきりと答えた。
「確証はありません。ただ、全ての状況を説明する仮説があります。その仮説なら、この事件の不可解な点にすべて説明がつきます」
 三人の佃さんの目が大きく見開かれる。裁判席の後ろの牢に閉じ込められているのっぺらぼうたちの奇声が、一際大きくなった。
「それは、久米が犯人ではないという仮説ですか?」
 探るような口調で訊ねる裁判官に向かって、私は大きく頷いた。
「ええ、そうです。この事件を起こしたのは久米さんではありません」
「誰なんだ!?」被告人が証言台の木枠を掴んで身を乗り出す。「いったい誰が佐竹優香を殺したんだ。研究室の教授か? それとも准教授か?」
「いえ、違います?」
 首を横に振ると、三人の佃さんの声が重なる。
「じゃあ、犯人は誰なんだ!?」
 裁判官、検察官、そして被告人。私は三人の佃さんと順に視線を合わせたあと口を開いた。
「犯人なんかいません。優香さんは自殺したんですよ」



「自殺!?」
 三人の佃さんたちは目を剥き、再び声を重ねた。それに呼応するように、のっぺらぼうたちが格子を強く揺する。
「違う! 現場の状況から自殺などあり得ない!」
 額に青筋を立てて叫ぶ検察官に向かって、私は「そんなことありませんよ」と肩をすくめる。
「事件の晩、優香さんが電話で久米さんを自宅に呼んだのは、警察も確認しているんですよね」
「……たしかに電話はしているが、自宅に呼んだかどうかは分からない」
 渋い声で検察官は言う。
「呼び出したんですよ。久米さんがあなたに話した通りに。そして、存在しないストーカーの被害について数時間相談したあと、彼を追い出したんです」
「なんでそんなことする必要があったんだ?」
「簡単ですよ。久米さんが犯人であるように見せかけたかったんです。優香さんは久米さんにストーカーされていると周囲にふれ回り、研究室から前もって酸の材料になる薬品を盗み出した。それも全部、久米さんが犯人であるという状況証拠を作り出すためです」
 絶句する佃さんたちのそばで、私は裁判官席の後ろにそびえ立つ牢の壁を眺める。のっぺらぼうたちに揺さぶられ続けている格子が、緩んできているように見えた。急がないと。
「なんで……、久米君を犯人に仕立てようと……? なんの恨みがあって……?」
 被告人の佃さんが呻くように言う。
「決まっているじゃないですか。久米さんが自分をふったからですよ」
「けれど、久米君の話では、彼女はすぐに別れることに同意してくれたと……」
「優香さんは極めてプライドの高い女性だったんです。そんな彼女が、奴隷のように支配していた久米さんに、別れないでくれと懇願することなどできなかった。優香さんにとっては、全く未練などない様子で別れる以外の選択肢がなかったんです」
「本心では未練があったということですか?」裁判官が訊ねてくる。
「未練という言葉は正確ではないと思います」
 私は首を横に振る。
「きっと久米さんに対する執着心は、ほとんど無かったと思います。飽きたらいつでも捨てられる玩具程度の感覚だったんじゃないでしょうか。けれど、久米さんから別れを切り出すのは絶対にゆるせなかった。久米さんにとって、自分と付き合えることは、自分に仕えることは至上の悦びであるべきだったから」
「だからと言って、命を捨てて久米君を殺人犯に仕立てあげるなんて、まともじゃない! 正常の思考なら、そんなこと考えつくわけもない!」
 顔を紅潮させて怒声を上げる検察官に、私は横目で視線を送る。
「正常の思考でなかったとしたら?」
 検察官は「なに?」と眉をしかめた。
「周囲の人が証言していたじゃないですか。久米さんと別れてから、優香さんが憔悴していったって。あれは演技でも、ストーキングされていたからでもありません。久米さんに切り捨てられたことで、彼女は心の均衡を失ってしまったんですよ」
「久米君との別れが、心を壊すほどの衝撃だったということですか?」
 裁判官が低い声で訊ねてくる。私は軽くあごを引いた。
「優香さんは元々、精神的に不安定だったんだと思います。それを、治療によってなんとか心のバランスを保っていた。けれど、久米さんとの別れによって、一気にそのバランスが崩れてしまったんです」
「治療?」検察官が眉根を寄せる。「彼女が治療を受けたなどという情報はないぞ。周囲の人は誰もそんなことを言っていなかった」
「当然です。彼女にとって治療を受けたこと、そして疾患のことは絶対に知られたくなかったでしょうから。周囲の人が知っているわけがありません」
「疾患!? そんなはずはない」検察官はかぶりを振る。「佐竹優香の健康状態には問題はなかったはずだ。大学に調査にいったとき、健康診断の結果などについても聞いたが、異常はなかったということだった」
「健康診断なんかでは発見できない疾患なんですよ。とても発見しにくく、治療が難しく、それでいて本人を苦しめ続けるたちの悪い疾患。彼女はそれに冒されていたんです」
「……なんで君にそんなことが分かるんだ。優香さんに会ったこともないのに」
 不信感をあらわにする検察官の目を、私はまっすぐ見る。
「私が医師だからです。徹底的に割られた鏡、酸で溶かされた遺体、手首に巻き付いたチェーン、消えた凶器、そして……美しい被害者。医師である私の目から見ればそれは全て、優香さんがある疾患にかかっていたことを示しています」
 検察官が敵意に満ちた表情で反論しようとしたとき、裁判官が「静粛に!」と力強く木槌を打ち鳴らした。牢の中で騒いでいたのっぺらぼうたちも、一瞬動きを止めて沈黙する。
「あなたは、彼女がどのような病気だったとお考えなんですか?」
 静寂が降りた空間で、裁判長は穏やかに訊ねてきた。私は彼の目をまっすぐに見ながら、ゆっくりと口を開く。
「醜形恐怖症、それが優香さんを苦しめていた疾患です」



「しゅうけい……きょうふ……?」
 たどたどしくつぶやく被告人に向かって私は頷く。
「ええ、醜形恐怖症、または身体醜形障害と呼ばれる精神疾患です。強迫神経症の一種とされていて、自分の外見が醜いと思い込み、そのことにとらわれて日常生活に支障をきたすんです」
「醜い? なにを言っているんだ。優香さんの外見は誰が見ても美しいものだった」
 検察官が鼻のつけ根にしわを寄せた。
「重度の醜形恐怖症の場合、実際に美しいかどうかなど関係ないんです。この疾患の本質は、自己イメージに歪みが生じることです。重症の場合、どれだけ美しい外見をしていても、自らが直視できないほど醜い外見をしていると思い込んでしまうんです。ただ、優香さんの場合、久米さんと別れるまでは比較的症状は落ち着いていたはずです。おそらくは、治療の効果で」
「それは彼女が薬を飲んでいたということか?」
「たしかに醜形恐怖症の治療にはまず投薬やカウンセリングなどの、精神的なアプローチもとられます。けれど、彼女はきっとそれだけでは完治しなかった。だからもっと直接的な、物理的な治療を受けたんです」
「物理的な治療? なにが言いたいんだ。もったいつけるのはやめて、結論を言ってくれ」
 検察官は苛立たしげに手を振った。
 たしかに、あまり時間をかけている余裕はない。再び格子を揺らしはじめたのっぺらぼうたちを眺めながら、私は佃さんたちに伝える。優香さんの秘密を。
「優香さんは手術を受けていたんです。美容形成手術を」
「……美容形成?」
 検察官の佃さんが呆然とつぶやく。他の二人の佃さんも、驚きの表情を浮かべていた。見ると、足元のククルまで目を大きく見開いている。
「優香さんはとても外見が整った女性でした。それこそ、非現実的なほど。そうですよね?」
 私に促された三人の佃さんたちは、おずおずとうなずく。
「それは美容形成によるものだったんです。きっとご両親を亡くすなどのつらい経験によって、優香さんは精神的に不安定となり、醜形恐怖症を発症してしまった。それを克服するための手段として、彼女は彼女は大学に入る前にでも美容形成手術を受けたんです」
「そんなの、単なる想像に過ぎない! どんな根拠があって、君はそんな主張をしているんだ」
 検察官が唾を飛ばして反論してくる。
「優香さんの遺体では、あごの骨がひどく腐食されていたんですよね。それが根拠です。大掛かりな美容形成手術により、彼女のあごの骨は一般の人より細く、薄く、脆くなっていたんだと思います」
 検察官がなにか反論しようとするが、その前に裁判官の声が響いた。
「優香さんがその醜形恐怖症という病気を患い、そして美容形成を受けたとしたら、あの異様な事件について論理的に説明できると言うんですか?」
 私が「はい!」と腹の底から声を出すと、裁判官は目で先を促した。
「美容形成手術によって現実離れしたほどの美しさを手に入れたことで、優香さんの醜形恐怖症は落ち着きました。そして彼女は、久米さんという男性を隷属させることで、自ら美に対する自信を確固たるものとしていた」
「けれど、久米君は彼女と別れた……」
 被告人の佃さんが弱々しくつぶやく。
「それが、今回の悲劇が起きたきっかけです。完全に支配していた久米さんから別れを切り出されたことで、優香さんは自らの美に対する自信を根底から覆され、醜形恐怖症が再発してしまった。重度の醜形恐怖症が」
 三人の佃さんたちを見回しながら、私は説明を続ける。
「醜形恐怖は極めてつらい疾患です。彼女はじわじわと精神をむしばまれて衰弱していった。ついには、自宅の鏡を全て叩き割るほどに追い詰められていったんです」
「鏡は自分で割ったというんですか!?」
 裁判官が驚きの声を上げる。
「ええ、そうです。事件のずっと前から、部屋の鏡は全て割られていたんです。そこに映る自分の姿に耐えられなくなった優香さん自身によって」
 佃さんたちは言葉を失うなか、私はこの事件の核心に迫っていく。
「もがき続けた優香さんの胸には、ある人物に対する怒りが湧き上がってきました。醜形恐怖症を再発する原因となった人物、久米さんです。時間が経つにつれ、その怒りは濃縮され、熟成されていき、そして彼女は決意したんです。彼に復讐し、そして苦しみから解放されようと」
「自殺をして、久米君に濡れ衣をきせようと……」
 かすれ声でつぶやく被告人に、私は「そうです」と頷く。
「久米さんに殺されたように見せかけるため、優香さんは入念に準備をしました。彼にストーキングされていると周囲にふれ回り、さらに研究室から酸を作るための薬品を盗み出した。久米さんと同じ研究室に所属している彼女なら、簡単です。そしてとうとう彼女は計画を実行に移した。電話で久米さんを呼び出し、数時間引き留めて追い出したあと、あたかも襲われたかのように部屋を徹底的に荒らした。その後、浴室に向かった優香さんは、自らの首を刺して命を絶ったんです」
 一息に説明した私は、呼吸を整えながら佃さんたちの反応をうかがう。
 この悲劇の真相、それを佃さんが受け入れてくれれば、久米さんを弁護したことは『正しいこと』となる。佃さんのマブイは救われ、そしてこの夢幻の世界は崩れ去るだろう。
「異議あり!」
 検察官が詰め寄ってきた。
戯言ざれごとで煙に巻こうとしてもそうはいかない! 犯行現場の様子を忘れたのか。遺体は酸に溶かされ、凶器は見つかっていない。自殺のわけがない。久米が佐竹優香を殺害し、証拠隠滅に遺体を酸に沈めたうえ、凶器をどこかに隠したんだ!」
「いえ、違います」
「では、凶器はどこにある? 自殺なら、自分の首を刺した凶器が浴室にある筈だろうが!」
「ええ、ありますよ」
「はぁ?」
「ですから、凶器はずっと現場、酸で満たされた浴槽の中にありました」
「ふざけるな! 鑑識によって現場は徹底的に調べられた。もちろん浴槽の中もだ。けれど、刃物など発見されなかったぞ!」
「もしかして」裁判官が口を挟む。「凶器は酸で溶けたというのかな? 凶器を消滅させ、他殺を装うために酸を作る必要があったと?」
「いえ、違います。凶器は溶けてなんかいません。ただ、そこにあるのがあまりにも自然で、誰もそれを凶器だと思わなかっただけです」
「だからそれは一体なんだと、訊いているんだ?」
 検察官は私の鼻先に指を突きつけてきた。
「鏡ですよ」
「……か、鏡?」
 検察官の口があんぐりと開く。
「はい。大きな鏡の破片、優香さんはそれで自分の首を刺したのです。割れた鏡は鋭利な刃物と同じぐらい危険なものです。そして、浴室の鏡が割られていたので、浴槽内から破片が見つかっても、割れた衝撃で浴槽内まで飛んだものとしか思われないでしょう。しかも、酸により骨についた傷も消えかけていたので、司法解剖でもそれが鏡の破片によりつけられたものだとは気づかれなかったんです」
「鏡って、なんでそんなもので……?」
「優香さんは長年、鏡に映る自分の姿に怯え、苦しんできました。自宅にあるすべての鏡を叩き割るほど、彼女にとって鏡は忌まわしいものだったはずです。しかしその一方で、美容形成により圧倒的な美を手に入れ、醜形恐怖の症状が落ち着いていたときは、鏡に映る自分の姿に幸せを感じていたはずです。鏡は優香さんの人生において、重要なアイテムでした。計画を思いついたとき、彼女が鏡に対してどのような感情を抱いていたのかは分かりません。けれど、彼女は決めたんです。鏡こそ、自らの人生にピリオドを打つ凶器にふさわしいと」
 言葉を切ると、足元から「香苗……」とククルの硬い声が聞こえてきた。
「いいところで悪いけどさ、そろそろ本当にヤバそうだ。早く決着をつけちゃいなよ」
 ククルは耳で、裁判席の後ろを差す。そちらを見た瞬間、背筋に冷たい震えが走った。のっぺらぼうたちが閉じ込められている牢。揺さぶられ続けたその格子に、細かいひびが入っていた。
「もうすぐ牢が壊れて、数えきれないくらいののっぺらぼうたちが襲ってくる。もちろん、僕が守るつもりだけど、あんな数だとどうなるか分からない。だから、早くマブイグミを」
 喉を鳴らして唾を呑んだ私が「分かった」と答えると、検察官が声を上げた。
「割れた鏡が凶器だとしても、酸はどうなる? 普通に考えて、もし自殺だとしたら、自分の体を酸に溶かすわけがないじゃないか!」
「ええ、たしかにそうです。けれど、……優香さんは『普通』の状態じゃなかった」
 検察官の喉から、物を詰まらしたような音が漏れた。
「精神的な疾患に苦しめられていた彼女には、『普通』の判断が出来なくなっていたんです。だからこそ、あんな悲惨で恐ろしい現場が出来上がったんです」
「なら説明してみろ! なんで佐竹優香は自分の体を酸で溶かそうとなんてしたんだ!」
「……体じゃありません」
 私は静かに言う。
「顔です」
「か……お……?」
 はじめて聞く単語のように、検察官はたどたどしくつぶやいた。
「そうです。久米さんと別れ、重度の醜形恐怖症に陥っていた優香さんにとって、自分の顔はなによりも醜い、おぞましいものでした。だから、死後にそれを残しておきたくなかったんです。めちゃくちゃに破壊して、そして消し去りたかったんです」
「まさか、顔面に骨折の跡があったのは……」
 裁判官が驚きの声をあげる。
「そうです。自殺する直前、優香さんが自分でやったんです。おそらく、洗面台や浴槽などに、何度も顔をぶつけて。それほどに追い詰められ、恐慌状態に陥っていたんです」
「そのあと彼女は……」
 被告人がかすれ声を漏らす。
「顔面を破壊したあと、衝撃で朦朧もうろうとなった彼女は大きな鏡の破片を右手に持ち、酸で満たされた浴槽の中に立ちました。もはや、破片が掌を切ったり、酸が足を焼く痛みも感じていなかったでしょう。そして、空いている左手でチェーンを掴み、手首に巻きつけました。最後に破片を思い切り自らの首に突き立て、頸動脈を切り裂くと同時に、左手で思い切りチェーンを引いたんです」
「チェーン? なぜそんなことを?」裁判官が額に手を当てた。
「うつ伏せに倒れるためです」
 私は押し殺した声で答える。佃さんたちの顔に、恐怖に似た色が走った。
「優香さんにとって、自らの顔を溶かすことは絶対に必要なことだった。けれど、ただ首を刺しただけでは、仰向けに倒れてしまうかもしれない。そうなると、体の後面だけが溶けて顔が残ってしまうかもしれない。それを避けるため、絶命する寸前に彼女は最後の力を振り絞ってチェーンを引いたんです。その力で体は顔から酸の海に突っ込み、そして彼女は力尽きた。……それが事件の真相です」
 すべての説明を終えた私は、佃さんたちの反応を待つ。三人の佃さんは、誰一人口を開かなかった。
 いまの説明で納得させることができただろうか? マブイグミは成功したのだろうか?
 息を殺していると、裁判官が無言のまま立ち上がり、席を降りて近づいてくる。被告人、検察官、裁判官の佃さんが、私を取り囲む形になる。裁判官席が溶けるように姿を消していく。見ると、検察官席、弁護人席、そして被告人席もいつの間にかなくなっていた。
「……いまの説を証明する、確実な証拠はあるのか?」
 検察官が訊ねる。その声からは攻撃的な響きが消えていた。
「いえ、ありません。けれど、いまの説なら不可解だった事件のすべてに説明がつきます。それが真実だった可能性は極めて高いはずです」
「しかし、……久米は電話で私に言ったんだ。自分が優香を殺したと」
「なんで、久米さんがそんなことを言ったかは分かりません。ただ、さっき説明したように、その自白に証拠能力はないはずです。そうですよね?」
 検察官は一瞬の躊躇のあと、「そうだ」と頷いた。
「優香さんが自殺だった可能性が出てきたいま、久米さんが犯人だということには『合理的な疑い』があるはずです。たしか裁判では『推定無罪』という原則があるんでしたよね。合理的な疑いがある状況では、久米さんが優香さんの殺害犯だと有罪にはできないはずです」
 私は焦りながらまくし立てる。牢の格子に走っているひびが、次第に増えていっていた。
「……香苗、来るよ」
 ククルが足元で言った瞬間、とうとう一つの牢の格子が鈍い音を立てて砕けた。牢から這い出してきたのっぺらぼうが、きりを持った手を掲げて走ってくる。しかし、私たちに襲い掛かるはるか前に、長い槍と化したククルの片耳がのっぺらぼうの胸を撃ち抜いた。
「のっぺらぼうたちは僕に任せて、香苗はできるだけ早くマブイグミを完遂するんだ。一気に襲い掛かられたら、いつまでもつか分からない!」
 ククルが焦燥の滲む声で言いながら前に出る。私は小さくあごを引くと、検察官の佃さんに向き直った。
「佃さん、あなたが自分を訴えているのは、殺人犯を無罪にして釈放させてしまったからでしたよね。けれど、私の説明を聞いて分かったはずです。久米さんが優香さん殺害の犯人だったかどうかは分からないと」
 牢が次々に破壊される。刃物を手に襲い掛かってくるのっぺらぼうたちを、ククルが次々にぎ払っていく。
「しかし、奴を釈放しなければ、その後の殺人が起きなかったかもしれない……」
 力なくつぶやく検察官に、私は一歩詰め寄った。
「釈放後のことなんて関係ありません! いまは、あの裁判で久米さんを無罪にしたことが『正しいこと』だったかどうかを論議しているんです。『合理的な疑い』があり、優香さんが自殺だった可能性が高いにもかかわらず、あなたは久米さんは殺人罪で有罪になるべきだったと言うんですか?」
 検察官は俯くと、ぼそぼそとなにごとかつぶやく。
「聞こえません! はっきりと言ってください!」
 私は両手で挟むようにして、検察官の顔を強引に上げさせた。牢から溢れ出してこちらに向かってくるのっぺらぼうは、もはや数えきれないほどになっていた。ククルが必死に両耳を振るっているが、それでも刃物を掲げたのっぺらぼうの人壁との距離が、じわじわと縮まってきている。
「答えてください!」
 私は鼻先が触れそうなほどに顔を近づけて、検察官の目を覗き込む。彼はゆっくりと口を開いた。
「……君の言うとおりだ。合理的な疑いがあるなら、推定無罪の法則が適用される」
「では、久米さんを無罪にしたのは『正しいこと』だったんですね? 佃さんは、あなたは『正しいこと』をしたんですね?」
 私は大声で確認する。のっぺらぼうの人壁は、もはや数メートルの距離まで迫っていた。両耳を振るっているククルが、痛みに耐えるような表情になっている。
 のっぺらぼうの一人が、手にしていたサバイバルナイフをこちらに向かって放ってきた。まっすぐに飛んでくるナイフの切っ先を、私はただ呆然と眺めることしかできなかった。
 目の前に小さな影が現れる。
 私の顔の前まで飛び上がったククルは、しなやかなネコパンチを繰り出してサバイバルナイフを叩き落とした。肉球で衝撃を殺して着地したククルは、再び超高速で両耳を振るってのっぺらぼうたちをほふっていく。
 黄金色をしたククルの前脚の毛が、紅く染まる。
「ククル!? 怪我を……」
「ナイフで少し切ったみたいだね。でも、大丈夫だよ」
「大丈夫って……」
「このくらいの怪我、なんでもないよ。心配しないで、もしものときには、とっておきの方法があるからさ。香苗は安全だよ」
 ククルは焦燥の滲む顔に笑みを浮かべた。
「とっておきの……方法?」
 嫌な予感が声を震わせる。
「そんなことより、マブイグミを早く!」
私が唇を噛んで頷いたとき、「そうだ」というか細い声が鼓膜を揺らした。見ると、検察官が力なく微笑んでいた。
「君の言うとおりだよ。佃三郎は、……私は正しかった。久米君は優香さんへの殺人で有罪判決を受けるべきじゃない」
「じゃあ……」
 私は首を回して、裁判官を見る。のっぺらぼうの人壁は、ククルの目の前まで迫っていた。
「判決を言い渡す」
 裁判官は手にしていた木槌を頭上高く掲げると、証言席へと勢いよく振り下ろした。木と木がぶつかる大きく、どこか心地よい音が空間に広がった。
「被告人は無罪!」
 裁判官が高らかに宣言したと同時に、三人の佃さんの姿が消える。そして、一人の男性が現れた。
 くたびれたスーツを着た、人の良さそうな壮年の男性、弁護士の佃三郎さんが。
 佃さんは私に片手を差し出してきた。
「ありがとう、弁護してくれて」
「いえ、そんな……」
 私は反射的に、骨ばった小さな手を握りしめた。
「これでマブイグミは成功じゃないのかい!? こののっぺらぼうたちはまだ消えないの?」
 ククルが切羽詰まった声で言う。はっとして見ると、のっぺらぼうたちがすぐそばまで迫っていた。ククルは必死にのっぺらぼうを切り裂いているが、あまりにも相手が多すぎる。じりじりとこちらへと後退していた。
「……こりゃ、覚悟を決めないといけないかな?」
 ククルがなにやら不吉なことをつぶやいたとき、背後で硝子ガラスが割れるような音が響いた。振り返った私は息を呑む。淡く輝いていた半透明の檻が砕け散り、中に閉じ込められていた少女が、佃さんのククルが立っていた。
 細い手足にめられていた枷が外れ、顔や四肢に走っていた傷がみるみると消えていく。蒼白だった肌には血の気が差していき、力なく弛緩していた顔には力強い笑みが浮かんだ。
 唐突に、少女の背後から強い後光が差した。のっぺらぼうたちが甲高い悲鳴をあげ、目も鼻も口もない顔面を手で覆った。
 まぶしさに目を細めた私は、光の中に浮かぶ人影の手足が伸びていくことに気づく。
 光が収まる。布切れを纏っていた華奢きやしやな少女は消え去り、そこには白銀に輝くよろいをまとった女性騎士が、凜と立っていた。
 騎士が手にしていたサーベルを優雅に振るう。剣先が描いた半円の煌めきが、広がりながら私たちに向かって飛んできた。
 思わず身をすくめる。しかし、その光跡は私の体をなんの痛みも衝撃もなく通過し、人壁へと到達した。次の瞬間、苦悶の声を上げていたのっぺらぼうたちが消えていく。しゃぼん玉が割れるように、光の残渣ざんさを残してはじけていく。
 立ち尽くす私の前で、無数にいたのっぺらぼうたちは全て消え去った。あとには紅く細かい光が舞い上がり、暗い空間を柔らかく照らしだす。
 光の粉雪が降るなか、安堵で足の力が抜けた私は、へたり込んでしまう。
「お疲れさま、香苗。これでマブイグミは成功だね」
 ククルが肩に乗って、頬を舐めてくれる。猫の舌のざらざらした感触がくすぐったかった。
「ありがとう、ククルがのっぺらぼうたちから守ってくれたおかげだよ。それより、怪我は大丈夫?」
「怪我? ああ、これのことかい」
 ククルは血が滲む前脚を舐めて毛づくろいをはじめる。血で赤く汚れていた毛が、一舐めされるたびに元の黄金色へと戻っていく。
「ね?」
 ククルが得意げに前脚を見せつけていると、佃さんのククル、白銀の鎧をまとった女騎士がゆっくりと近づいてくる。慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、彼女は佃さんの前で足を止めた。
「お疲れ様、三郎さん」
 優しくねぎらいの言葉をかけられた佃さんは、幸せそうに目を細めた。その光景を眺めながら、私は軽く頭を振る。
 幸せそうに見つめ合う二人の姿が、なぜかぼやけて見える。いや、ぼやけてというのは正しくない。正確には重なって見えている。
 佃さんと女騎士の姿に重なるように、小さな人影が現れはじめている。
 まばたきをくり返していくうちに、女騎士とスーツ姿の老年男性の姿はかすれて消えていき、代わって二つの小さな人影がはっきりとしてくる。
 いつの間にか、そこには坊主頭の少年と、色鮮やかな浴衣を着た少女が立っていた。二人には見覚えがあった。少年時代の佃さんと、のちに彼の妻になる少女、南方聡子さん。
「行きましょうか、三郎さん」
 聡子さんが差し出した手を、佃さんは「ああ」と力強く握る。そのとき、どこか遠くから祭囃子ばやしが聞こえてきた。顔を上げると、赤提灯が宙に浮いて二列に並び辺りを紅く照らしていた。足元に石畳が敷き詰められ、遥か遠くに盆踊りのやぐらが建っている。
 佃さんと聡子さんは手を取り合い、石畳の敷かれた参道を奥へと進んでいく。その姿を見送りながら、私は肩の上にいるククルに話しかける。
「ねえ、あれってどういうこと? ククルって自分の本質を映す鏡なんだよね。なら、それが聡子さんになるって、おかしくない」
「えっと……、まあ長年夫婦をやっていると似てくるって言うじゃない。そういうことなんじゃないかな。まあ、色々とあるんだよ」
「色々とって……」
 適当な物言いに顔をしかめていると、ククルの耳が額を撫でた。
「ほら、額にしわなんか寄せてないで。せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
「誤魔化さないで、ちゃんと説明してよ」
「とは言われても、もう時間がないしね」
 私が「時間がない?」と聞き返すと、ククルは首を反らした。
「ほら、この夢幻の世界はもう消え去るよ。香苗がマブイグミに成功したからね」
 見ると、並んでいる提灯の光がみるみると強くなっていた。視界が保てないほどに。参道を進んでいる佃さんと聡子さんの姿も、光に呑み込まれて見えなくなる。
「ちょっと待ってよ。まだ色々と聞きたいことが……」
 私が早口で言うと、ククルは両耳で私の頭部を抱きしめてくれる。
「大丈夫。そのときが来たら全部教えてあげるよ。だから、心配しないでしっかり休みな。マブイグミで消耗しているだろうからね」
「そのときっていつなの?」
 夢幻の世界が消える感覚をおぼえた私は慌てて聞く。しかし、ククルはどこか哀しそうに微笑むだけで答えなかった。
 視界が淡い紅色に塗りつぶされていく。温かい液体に浮かんでいるような心地。
「それじゃあ香苗、次の夢幻の世界で」
 ククルの声が遠くから聞こえてきた。



 体を震わせた私は目を開く。殺風景な病室が網膜に映しだされた。右掌にかさついた感触が走る。私はベッドに横たわる佃さんの顔から、そっと手を引いた。
 ああ、現実に戻って来たのか。
 四肢を動かして体の感覚を確かめつつ、壁時計に視線を向ける。時刻は、私がマブイグミをはじめた時間から五分ほどしか進んでいなかった。 
 またマブイグミに成功した。佃さんのマブイを救うことができた。しかし、飛鳥さんのマブイグミに成功したときほどの満足感はなかった。
 分からないことだらけだ。私はこめかみに指を当てる。
 優香さんが自ら命を絶ったことはおそらく間違いないだろう。しかし、なぜ久米さんが彼女を殺害したと佃さんに連絡してきたのか。それに、久米さんが告白したという中年男性の殺害。それは本当に久米さんがやったことなのだろうか。
 優香さんがなぜあんなことをしたのか分からない。久米さんと別れたことにより醜形恐怖症が悪化したとしても、あそこまで恐ろしいことを思いつき、そして実行に移すものだろうか。そもそも彼女は、症状が悪化して苦しんだとき、誰かに相談したりはしなかったのだろうか。専門的な治療さえ受けていれば、あんな悲劇が起こることもなかったはずなのに。
 他にも佃さんのククルが、最後に奥さんの姿になったこと。それについて訊ねるとククルが言葉を濁したことなど気になることは多い。しかし、最も重要なこと、それは環さんのことだ。
 久米さんの理解者であり、支援者であり、そしておそらくは恋人であった環さん。彼女こそ、私が担当する三人目の特発性嗜眠病患者だ。
 久米さんの弁護士だった佃さんと、恋人だった環さん。やはり、特発性嗜眠病の患者たちには繋がりがある。
 四人の特発性嗜眠病患者、なにが彼らを結び付けているのだろう。そして、なぜ彼らはマブイを吸われなくてはならなかったのだろうか。
 考えることが多すぎて頭痛をおぼえていると、佃さんが「ううっ」と唸り声をあげた。
 私は疑問をいったん棚上げし、佃さんを見つめる。
 何週間も閉じられたままだったそのまぶたが上がっていくのを見て、ようやく胸に温かな満足感が湧きあがってきた。
(第14回につづく)

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知念 実希人Mikito Chinen

1978年生まれ。東京慈恵会医科大学卒業、内科医。2011年、福山ミステリー文学新人賞を受賞し、『誰がための刃 レゾンデートル』(同作は19年『レゾンデートル』と改題し文庫化)でデビュー。主に医療ミステリーを手がけ、『天久鷹央の推理カルテシリーズ』が評判を呼ぶ。15年、『仮面病棟』で啓文堂書店文庫大賞第1位を獲得し、50万部超のベストセラーに。18年には『崩れる脳を抱きしめて』で、19年には『ひとつむぎの手』で連続して本屋大賞ベストテン入りを果たす。また19年、『神酒クリニックで乾杯を』がドラマ化されるなど各著書が注目を集めている。近著に『神のダイスを見上げて』『レフトハンド・ブラザーフッド』がある。

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