双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ムゲンのi(知念実希人)

イラスト:げみ

第6章

「さて、正式に君の代理人になったので、今日からは時間をかけて詳しい話を聞いていこう」
 初めて久米に会った翌週、弁護人交代に伴う諸々の手続きを終えた三郎は再び東京拘置所で久米と面会していた。
「よろしくお願いします」
 アクリル板越しに頭を下げる久米は、最初に会ったときよりも顔色がよく見えた。
「ではまず、被害者である佐竹優香さんと君の関係について聞いていこうか。事件の一年以上前から、君たちが交際していたのは事実なんだね? 君が彼女に熱烈にアプローチをして口説き落としたと聞いているが」
「はい、一応は……」久米の顔に暗い影が差した。
「一応と言うと?」
 膝の上に置いた資料を見ていた三郎が上目遣いに訊ねると、久米は言い淀むようなそぶりを見せた。
「ここでの会話は絶対に外に漏れることはない。だから、私には知っていることを全て教えてくれ。信頼関係がないと裁判では戦えない。特に、今回のように不利な裁判では」
 久米は小さくうなずいてから話しはじめる。
「……僕は佐竹さんを口説いてなんかいません。彼女はとても美人で聡明だったんで、もちろん好意はもっていました。けれど、僕みたいな地味な男を相手にしてくれるはずないって思っていたんです。彼女を狙っている男はいっぱいいましたから」
「それじゃあ、どんな経緯で交際を?」
「なんというか……、彼女の方から近づいてきたんです。実験のアドバイスを求めてきたり、レポートを手伝ってくれって言ってきたり。そういうことが続いて、少しずつ距離が縮まっていきました」
「なるほど……」
 三郎は腕を組んだ。もしかしたら優香は、自分から近づいたことが恥ずかしくて、久米からアプローチされたことにしたかったのではないか。そう考えれば辻褄{つじ つま}は合う。
「では、優香さんがなぜ君に近づいてきたか、心当たりはあるかな」
「最初は、境遇が似ているからだと思っていました」
「境遇が似ている?」
 三郎は首をひねる。
「はい、僕は祖母を亡くして身寄りがなくなりました。佐竹さんも高校時代に母親を亡くしてから身寄りがなく、ほとんど親戚づきあいはないということでした」
 三郎は資料にあった佐竹優香の情報を思い出す。久米の言うとおり、福岡県で生まれた彼女は幼い頃に両親が離婚し、母子家庭で育った。そして、高校時代にその母親も癌で病死している。母親の実家が裕福でその資産を受け継いだため、生活に困るようなことはなかったが、親しい親戚と呼べるような人はいなかったらしい。
「つまり、似た者同士シンパシーをおぼえて距離が縮まっていったと。その後、どのような形で交際するにいたったのかな?」
「それは……去年、研究室の飲み会があった日のことでした」
 久米は躊躇ためらいがちに語りはじめる。
「解散になって自宅に向かっていると、佐竹さんから電話が来ました。酔って動けなくなっているから来て欲しい。急いで指定された小さな公園に行くと、ベンチで佐竹さんが酔いつぶれて倒れていました。仕方がないので、タクシーで彼女の自宅まで送ることにしました」
「それは事件現場になったマンションだね?」
 久米の表情が硬くなる。
「そうです。部屋の中に連れて行って、ベッドに寝かせて帰ろうとすると、彼女がいきなり抱き着いてきました。そして……」
「男女の関係になった」
 三郎がセリフを引き継ぐと、久米はゆっくりと頷いた。
「それで、恋人同士となった君たちの関係はどんなものだったのかな?」
 三郎が質問を重ねると、久米は力なく首を左右に振った。
「あの関係は恋人なんてものじゃないです。完全な……主従関係でした」
「主従関係?」
「はい、そうです。その日を境に、彼女の態度は一変しました。僕を完全に支配しようとしはじめたんです。……奴隷みたいに」
 奴隷という強い言葉に、三郎の片眉が上がった。
「具体的にはどんなことを要求してきたのかな?」
「一緒にいないときは、数十分ごとに電話がかかってきて、どこでなにをしているか報告させられました。スマートフォンに登録されていた女性の連絡先は全て消され、彼女がいないところで女性と話すことも禁止されました。深夜でも呼び出しがあれば、彼女のところにすぐに駆けつけないといけませんでした。もし少しでも彼女の命令に背けば容赦なく罵倒され、ときには殴られることすらありました」
 滔々とうとうと語られる内容を聞くにつれ、眉間にしわが寄っていく。
「それは、……なかなか強烈だね。君はそんな彼女に従っていたのか?」
「抵抗できませんでした。途中からは彼女に捨てられたら自分になんの価値もなくなるような気がして、どんな理不尽な命令にも必死に従うようになっていったんです。いまになって思えば、自分の思い通りに支配できるからこそ、僕に近づいて来たんだと思っています」
 三郎は「そうか」と、剃り残しのヒゲが生えたあごを撫でる。刑事事件の専門の弁護士として、そのようないびつな男女関係は何度も見てきた。久米が言うように、支配者としての素質を持つものは、自分が思い通りにできる人物を目ざとく見つけることができるものだ。
 ただ、これまで見てきた事件では、支配者が加害者になるケースが極めて多かった。しかし、今回は支配者であった佐竹優香が殺害され、酸の海で溶かされている。
 もし、いまの話を裁判で述べたとしても、有利にはならないだろうな。三郎は頭の中でそろばんをはじく。優香の支配に耐えきれなくなった久米が反撃して彼女を殺したうえ、遺体を溶かして恨みを晴らそうとした。そのような印象を与えるだけだろう。
「しかし、事件の半年ほど前に君は優香さんと破局している。どうやって君は、彼女の支配から逃れることができたんだい」
「……毎日のように佐竹さんに翻弄されて、自分でも分かるほど消耗していました。自分の研究もあるのに、彼女の大学院のレポートなどもすべて引き受けていましたし、いつ呼び出しがあるか分からないので、緊張して夜もほとんど眠れなくなっていました。そんなとき、久しぶりに会った友人が僕の異変に気付いて、相談に乗ってくれたんです」
「それは、女性かな……」
「……はい」
 一瞬の躊躇ちゆうちよのあと、久米は頷く。必死に久米の弁護を頼み込んできた加納環の姿が頭をかすめる。
「女性と話すのは禁止されていたんでは?」
「そうだったんですが、その人は僕を強引に居酒屋に連れて行って話を聞いてくれました。そこで話して、なんというか……、視界が一気に晴れたような気がしたんです。くすんでいた世界が一気に輝いたような」
「くすんでいた世界が……」
 三郎の脳裏に、あの夏祭りの日、聡子に助けられたときの光景が鮮やかに蘇る。
「先生、どうかしましたか……?」
 美しい記憶を反芻はんすうしていた三郎は我に返る。
「いや、なんでもないよ。その人に相談に乗ってもらって、佐竹優香さんと別れる決心がついたんだね」
「はい。時間を置いたら怖くなると思って、すぐに佐竹さんのマンションにいきました。そして、関係を解消したいと伝えました」
「彼女の反応は?」
「拍子抜けするぐらい、あっさりと同意してくれました。……彼女にとって、命令に従わなくなった僕なんて、壊れたおもちゃみたいなものだったんだと思います」
 久米のセリフには、痛々しいまでの自虐がこもっていた。
「破局後に彼女が、自分から君を捨てたが、しつこく復縁を求められて困っていると、周りにふれ回っていたことは知っているかな?」
「はい、知っています。僕から別れを切り出したと知られることは、佐竹さんのプライドが許さなかったんだと思います。彼女から逃げられたんですから、そのくらいの悪評はあまんじて受けるつもりでした」
「そうか……。ただ、君と別れたあと、優香さんは明らかに憔悴しようすいしはじめたということだね」
「……ええ。別れたあとはできるだけ彼女と接触しないようにしていたんですが、それでも同じ研究室ですから顔を合わせます。たしかに彼女はなにか悩んでいるようで、日に日にせて、顔色も悪くなっていきました」
「君と別れたことが原因では?」
「違うと思います」久米は即答する。「彼女にとって僕はそれほど重要な人物ではなかったんです。それに……」
「それに、どうした?」
 言い淀んだ久米に、三郎は鋭く言った。
「あの日、聞いたんです。なんで彼女が悩んでいるのか」
「……あの日というのは、佐竹優香さんが殺害された日か?」
 低い声で訊ねる。久米は口を固く結んで頷いた。
「それではいよいよ、当日なにがあったか教えてもらえるかな。別れてから優香さんとの接触を避けていた君が、なぜ彼女のマンションに行ったのか」
「……あの日、突然彼女からメッセージがあったんです。話したいことがあると」
 久米は重い口調で話しはじめる。たしかに、あの夜、佐竹優香がメッセージアプリを使って久米を呼び出したのは警察も確認している。検察側のシナリオでは、優香はストーカー行為を続けていた久米と決着をつけるために呼び出し、激高した久米は彼女を殺害してしまったというものだった。
「なぜ、君は彼女の家に行ったんだ? せっかく、彼女の支配から逃れられたのに」
「……メッセージを受け取ったあとすぐに、彼女から電話がありました。一分以上迷ったあとに出ると、佐竹さんは泣いていました」
「泣いて……」
「はい、何度もしゃくりあげながら、お願いだから助けて欲しい。マンションに来て話を聞いて欲しいと懇願してきました」
「それで、ほだされた君は彼女のマンションに行ってしまったと」
 久米は唇を噛んで頷いた。
「そこで、優香さんは君になんの話をしたんだ?」
「……相談をされました。ストーカーについて」
「ストーカー?」
 三郎は首を傾ける。
「聞き込みによると、彼女は君がストーキングをしていると周囲の人々に話していたらしいが」
「僕はそんなことしていません。ようやく彼女から逃げられたのに、なんで追いかけなくちゃいけないんですか。ストーカーは違う男です。なんで佐竹さんが僕をストーカーだって言っていたかは分かりませんけど……」
 弱々しくかぶりを振る久米を、三郎は凝視する。その態度、そして表情からは、本当の怒りと悔しさがにじんでいた。目の前の男が本当のことを言っていると確信した三郎は、こめかみを掻くきながら頭を整理していく。
「優香さんがストーキングされて、まいっていたというのは、おそらく事実なんだろう。警察の聞き込みでも、最近彼女は消耗している様子だったという証言が得られている。しかし、彼女はなぜか君にストーキングされていると嘘をついていた。そういうことだね」
「たぶん、僕ならそういう扱いを受けても文句を言わないと思っていたんじゃないでしょうか。やっぱり彼女にとって、僕はどこまでも都合のいい男だったんですよ」
「だとすると、なぜ本当のストーカーが誰なのかを言わなかったのかが問題になるな」
「佐竹さん自身も誰だか分かっていなかったんじゃないですか?」
「それなら、『誰だか分からない』と言えば済むはずだ。それなのにわざわざ君の名前を出したということは……」
 三郎の頭に、一つの可能性が浮かぶ。
「もしかしたら、名前が出せない人だったんじゃないか?」
「名前が出せない?」
 久米はいぶかしげに聞き返す。
「そうだ。告発すれば大きな問題となるような人物がストーカーだった。だから、彼女はそのことを周りに告げることができず、しかたがなく君の名を出して誤魔化していたんじゃないか」
「大きな問題になるって……、誰が彼女のストーカーだったっていうんですか?」
「私の経験上、多いのは被害者の上司、または教員などかな」
 呆然とした表情で、久米は「教員……」とつぶやく。
「優香さんや君が所属していた研究室で、そのような条件に当てはまる人物はいるかな」
 身を乗り出して三郎が訊ねると、久米は震える唇をゆっくりと開いた。
「准教授、もしくは……教授です」
「准教授と教授ね……」
 弁護を引き受けてから、何回か大学に情報収集に行っているので、その二人とも面識があった。三郎は二人の顔を思い浮かべる。
 准教授は四十代半ばで、教授は還暦前だった。二人とも左手の薬指に指輪をはめていたはずだ。
「事件のあった日、優香さんから、ストーカーについて具体的なことを聞かなかったかい? 誰がストーカーなのか、ヒントになるようなことを」
「いえ、たいしたことは聞けませんでした。佐竹さんは泣きながらくり返し、『全部あんたのせいでこんなになった』とか、『責任取りなさいよ』って責めてくるだけで。ストーカーが誰かとか、どんな被害を受けているかについては、ほとんど喋ってくれませんでした」
「君のせい? どうして君が悪いんだ?」
「理由なんてないんですよ」
 久米は苦笑を浮かべる。
「彼女は機嫌が悪くなると、いつも僕が悪いって言ってなじるんです。僕に責任がなくても。そんなとき反論すると、さらに感情的になるんで、いつも黙って耐えていました」
「じゃあ、事件のあった日も、君は数時間も元恋人になじられ続けていたということか?」
 驚いて訊ねると、久米は大きなため息をついた。
「普通ならあり得ないですよね。警察や検察の人も、まったく耳を貸してくれませんでした。けれど、本当なんです。それが、僕と佐竹さんの関係だったんです」
 やはり久米が嘘をついているようには見えなかった。
「それじゃあ、数時間に及ぶ君と彼女の話し合いは、どのようにして終わったんだ?」
「追い出されました」
 久米は小さく肩をすくめた。
「ずっと罵詈雑言に黙って耐えていたんですが、最後には『あんたなんかに話しても意味ない。さっさと消えてよ!』って平手で何度も殴られて、追い出されたんです」
「自分で呼び出しておいて、君を殴ったのか?」
「そういう女性なんですよ。だから、僕は大人しく彼女の部屋を出て自宅に帰りました。……まさか、そのあとあんなことになるとは思わず」
 久米が語り終えると、面会室に重い沈黙が降りた。
 三郎は小さくため息をつく。久米と優香の関係に胸やけがしたのもあるが、それ以上に二人の関係を裁判官に納得させなくてはいけないことが憂鬱だった。
「彼女の部屋に行ったとき、他になにか気になることはなかったかな」
 疲労を覚えつつ訊ねると、久米は視線を上方に向けて考え込む。数十秒後、彼は「あ!」と声を上げた。
「一つだけ、おかしなことがありました。不審に思ったんで佐竹さんにちょっと話を振ってみたんですけど、そうしたら彼女の表情が露骨にこわばったんです。だから、ストーカーがやったんだと思って、それ以上は話題にしませんでした」
「異常なこと? 一体何だ?」
「部屋の隅にあった姿見が割れていたんです。鏡として使えないぐらい、ひびが縦横無尽に走っていました。……なにか硬いもので何度も殴りつけられたように」



「鏡……か」
 つぶやきが、事務所の空気に溶けていく。三郎はデスクに高々と積まれた資料から、一枚のファイルを取り出して開いた。そこには遺体発見直後の、佐竹優香のマンションの写真が挟み込まれていた。
 久米が言った通り、部屋に置かれていた姿見は一面がひびに覆われていた。それだけではない。洗面所やバスルームの鏡も無残に割られている。
「鏡になにか意味があるのか……?」
 低い声でひとりごつ。佐竹優香が襲われたとき、他の家具が荒らされたのと同時に鏡も割れていたと思っていた。しかし、久米の言葉が本当なら、犯行前に姿見だけは割れていたことになる。
 もしかしたら、洗面所やバスルームの鏡も前もって犯人に割られていたのではないだろうか。ストーカーは事件の前にも優香の部屋に侵入し、そこで鏡を割っていったのではないだろうか? 
 だとするなら、ストーカーが優香の知り合い、特に立場が上の人物であったという可能性が高くなる。そのような人物だからこそ、優香はストーカーが部屋に上がるのを防げず、さらに告発することができなかった。
 しかし、犯人はなぜ前もって鏡だけを壊していったのだろう? なぜそこまで鏡にこだわっていたのだろう?
 頭蓋骨のなかで疑問が渦を巻き、頭痛がしてくる。三郎は立ち上がって洗面所に向かった。
 水栓を捻り、蛇口から噴き出してきた水で顔を洗う。水道水の冷たさが、思考の濁りをいくらか消し去ってくれた。
 使い古してざらつくタオルで拭いた顔を上げる。壮年の男と目が合った。
「お前も老けたもんだな」
 声をかけると、鏡の中の自分が自虐的に唇の端を上げた。
 頭髪はかなり薄くなり、地肌が覗くようになっている。年輪のようにしわが刻まれた顔にはシミが目立ち、なにやら地図が描かれているかのようだ。
 そういえば、同年代の友人たちは口をそろえて、鏡を見るのが嫌だと言っている。自らの老いをまざまざと見せつけられるからと。しかし、三郎にはその気持ちがまったく分からなかった。
 そっと鏡に手を伸ばし、そこに映る男の頬のシミをなぞる。鏡の表面の冷たく滑らかな感触が、指先に伝わってきた。
 この皺、このシミは、過ごしてきた時間の証だ。愛する女性とともに、『正しいこと』を追い求めてきた証。だからこそ、自分にとって老いは誇りだ。
 犯人は自分の姿を見るのに耐えられず、鏡を破壊したのではないだろうか。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
 地位もあり、家族もいるにもかかわらず、若い女性につきまとってしまう。そんな情けない自らの姿に怒りをおぼえた。
 それが正解だとしたら、大学の准教授、または教授は十分犯人像と合致する。
 二人を徹底的に調べて、彼らのどちらかが佐竹優香をストーキングしていたという証拠を探そうか。
「……いや、だめだ」
 三郎は首を振る。その二人のどちらかがストーカーだったというのは、あくまで仮説でしかない。もしその仮説が間違っていたら、残り少ない時間を無駄に消費してしまう。
 基本に戻るんだ。佐竹優香の殺害犯を見つける必要はない。久米が犯人ではないかもしれないという、合理的な疑いを示すだけでいい。今回の事件では、決定的な物的証拠があるわけではない。いくつもの状況証拠から総合的に判断して、久米が犯人であると認定されたに過ぎない。
 検察が丹念に積み上げていった状況証拠による立証。その土台となる部分に亀裂を入れることができれば、支えを失った論理は倒壊し、無罪を勝ち取れる。
 両手で自らの頬を張って気合を入れなおした三郎は、デスクへと戻っていく。
 佐竹優香が住んでいたマンションは、比較的セキュリティが甘く、防犯カメラはエントランスにしか設置されていなかった。つまり、久米が事件現場の部屋から去った後、何者かが裏の塀を乗り越え、非常階段を使って優香の部屋を訪れることは可能だった。
 そのような状況にもかかわらず、久米の犯行で間違いないと思われている原因、それは自白だ。
 警察の取り調べで久米が語った内容は、事件現場の状況と完全に一致するものだった。
 犯行内容を詳細に記した調書を突きつけられ、それにサインするように執拗に脅された。最初は拒否していたが、何日も罵声を浴びせられているうちに消耗し、尋問から逃れたい一心でサインしてしまった。久米はそう語っていた。
 しかし、久米の説明だと一つだけおかしな点があった。
 調書では、久米が『遺体を溶かすために必要な薬剤は、研究室から持ち出した』と告白したとされている。後日、それをもとに研究室が捜索され、証言どおりに危険な化学薬品が無断で持ち出されていたことが判明した。
 つまり取り調べ時点では、薬剤が研究室から持ち出されていることを知っているのは、犯人だけだったはずなのだ。
 その矛盾について久米に訊ねたが、彼は「分かりません。偶然じゃないでしょうか?」と力なく言うだけだった。しかし、調書では薬剤が保管されていた場所が詳細に記してあり、とても偶然とは思えなかった。
 薬品についての証言は、久米による『犯人しか知りえない事実の告白』、専門用語でいう『秘密の暴露』としてとらえられ、自白の信憑性を極めて高くしていた。このままでは自白を強制されたと主張しても、一蹴されてしまうだろう。 
 残された時間は少ないにもかかわらず、この絶望的な状況をひっくり返すための糸口すら見つかっていない。
 なにかないのか? なにか、彼を無罪に導くための突破口が。
 勝機がない裁判ではないはずだ。この事件ではまだ明らかになっていないことも多い。
 まずは凶器だ。三郎は資料に添付してある事件現場の写真、大量の血液がまき散らされたバスルームを写したものに視線を落とす。刃物で頸動脈を切り裂かれて大量に出血した優香は、ほんの一瞬で意識を失い、そしてすぐに絶命したと考えられている。当然、凶器にも大量の血液が付着していたはずだが、それを洗ったり拭ったりした痕跡は見つからなかった。
 また、玄関の外、非常階段、裏庭などマンション敷地内のありとあらゆる場所が徹底的に調べられたが、優香の血痕は検出されなかった。
 それゆえ、凶器はなにかに包むなどして犯人が持ち帰ったものと考えられている。しかし、久米の自宅をはじめ、凶器が捨てられそうな様々な場所が捜索されたにもかかわらず、未だに発見にはいたっていない。
 いったい、なにが優香の首をぎ、それはいまどこにあるのだろうか?
 さらに、他にも不可思議な点がある。資料を捲った三郎は、そこに貼られてある写真を見て吐き気をおぼえる。それは、遺体が溶かされた浴槽をアップで撮影した写真だった。大量の体組織が溶けだした酸の海に白骨が浮かんでいる光景はあまりにグロテスクで、軽くえずいてしまう。
 赤黒い水面から飛び出るやけに白い半球は、佐竹優香の後頭部の骨だった。
 乱れた呼吸を整えながら、三郎は写真を凝視して頭蓋骨の近くの水中に垂れているチェーンを凝視する。浴槽の栓が取り付けられているそのチェーン、それが問題だった。
 資料によると、酸で半ば溶けかけたそのチェーンは、遺体の左手首の骨に複雑に巻き付いていたらしい。ゴム製の栓が溶けて、酸が下水に流れ込まないようにか、排水口は強酸でも溶けない特殊な物質で栓がされていた。
 鑑識が調べたところ、浴槽とチェーンが固定されている部分が壊れかけていて、強い力でチェーンが引かれたことが示唆されていた。
 警察は浴室に逃げ込み、そこから連れ出されそうになった優香が、必死にチェーンを掴んで抵抗したと考えている。しかし、三郎はその仮説に違和感をおぼえた。
 遺体を溶かすための酸、さらにはその酸を浴槽に貯めておくための栓まで用意しているような犯人が、被害者を浴室から連れ出そうとするだろうか。生活空間で遺体を処理する場合、水で洗い流すことができる浴室が使用されることが最も多い。浴室に逃げ込んだターゲットを、わざわざ連れ出そうとするメリットがないはずだ。現に、最終的には優香も浴室内で殺害されている。
 三郎はさらにページを捲って、検視の結果を細かく目で追っていく。遺体の劣化がはげしいため、そこに書かれている内容はごく限られていたが、一つ気になることがあった。遺体の顔面の骨に、数か所骨折が見られたのだ。おそらく、殺害前、犯人から酷い暴行を受けたのだろう。特に下顎骨や頬骨がひどく損傷しており、その辺りを中心に執拗に殴られたと推測されている。
 佐竹優香はとても美しい女性だった。犯人の行動からは、その美に対する強い憎悪が漂ってくる。
 やはりこの事件にはなにか裏がある。痴情のもつれで久米が元恋人を殺害したなどという、単純なものではないはずだ。しかし、それを証明するためにどうすればいい?
 思考の袋小路に迷い込んだ三郎が髪を掻くき乱していると、事務所の出入り口に備え付けられている郵便受けの蓋が開閉する音が響いた。
 重い足取りで出入り口まで移動した三郎は、郵便受けを開く。中には茶封筒が入っていた。裏返してみるが、送り主の名は記されていない。
 なんだ? デスクに戻った三郎は、ペーパーナイフで封筒を開いて覗き込む。数十枚の紙が収められていた。
 資料でも届く予定があったか? 三郎は無造作に紙の束を取り出して目を通す。ぎっしりと細かい文字が記されたそれは、三郎には見慣れた書式だった。
 文字を追っていた三郎の目が、次第に大きく見開かれていく。
 封筒を放り捨てた三郎は、両手で紙の束を掴むと、顔を近づけた。
 息を乱しながら、次々に用紙を捲っていった三郎は十数分後、呆然と天井を仰いだ。開いた口から、無意識に言葉が漏れる。
「突破口だ……」
 無罪判決を勝ち取るための、『正しいこと』を行うための手がかりがいま手の中にあった。
 誰がなんの目的で、こんなものを送ってきたのかは分からない。しかし、いまはそんなことを考えている場合ではなかった。
 来週に控えた次回の公判、それまでに情報を集めなくてはならない。この絶望的な状況をひっくり返すための、重要な情報を。そのためには一刻の猶予もなかった。
 三郎は椅子の背にかけたコートを勢いよく手に取る。心臓が力強く鼓動し、熱い血液を全身に送りはじめた。
 
小宮山こみやまさん。あなたは逮捕後、被告人の取り調べを担当したんですね」
 高級感のあるスーツに身を包んだ検察官が質問すると、証言台に立つ男は「はい」と低い声で答えた。弁護人席に腰掛けた三郎は、あごを引いてその固太りした中年の男を凝視する。
 スーツにはのりが効いているが、肩や腕回りの筋肉が発達しているせいか窮屈そうだった。太い眉と、鋭い目付きには意思の強さが見て取れる。この小宮山こうという男こそ、久米から自白を引き出した警視庁捜査一課の刑事だった。
 検事が決まりきった質問をしているのを聞きながら、三郎はすぐ前の被告人席に座っている久米を見る。その背中は老人のように曲がり、肩は細かく震えていた。
 厳しい尋問のトラウマが蘇ったのか、それとも理不尽な扱いを受けたことに対する怒りのせいだろうか。
 この青年を救えるかどうかは、今日の公判にかかっている。緊張を息に溶かして吐き出しながら、三郎は横目で傍聴席に視線を向けた。
 美しい女性が殺害され、遺体が酸で溶かされたという凄惨な事件だけあって、世間の注目度は大きく、傍聴席は満員だった。傍聴人の中には、三郎に弁護を依頼してきた加納環の姿も見える。彼女は目を閉じて、祈りを捧げるように両手を組んでいた。
 検察官の型通りの質問が終わる。裁判長が「弁護人は反対尋問を」と声をかけてきた。
 さて、『正しいこと』をしにいこう。立ち上がった三郎は、証人席に近づいていく。
「小宮山さん、なぜあなたが被告人の尋問を担当したんですか?」
 三郎が訊ねると、小宮山は刃物のように鋭い視線を向けてきた。敵意に満ちた視線。これから厳しい質問にさらされることを理解しているのだろう。
「上司に指名されたからです」
「それでは、なぜ上司の方はあなたを指名したのでしょう?」
「上司がなにを考えているかまでは、私には分かりません」
 小宮山は淀みなく答える。これだけ注目されている裁判であるにもかかわらず、その態度に気負いは見られなかった。
 前もって調べておいた小宮山の情報を、三郎は頭の中で思い起こす。
 小宮山浩太、四十六歳、巡査部長。高卒で警視庁に入庁後、交番勤務を経て新宿署生活安全課の刑事として勤務。そこで多くの事件を解決した功績を買われて、三十五歳で警視庁捜査一課殺人班に配属となった。尋問技術には定評があり、多くの事件で犯人から自白を引き出している。
 何度も大きな裁判で証言台に立ち、経験を積んできたのだろう。相手にとって不足はない。胸の中でめらめらと闘争心が燃え上がっていくのを感じながら、三郎は口を開いた。
「あなたはこれまでも様々な大きな事件で尋問を担当し、犯人から自白を引き出している。その実績があるので、上司の方も信頼していたのではないですか?」
「はぁ、そうかもしれません」
 突然持ち上げられた小宮山の顔に、戸惑いが浮かんだ。
「異議あり。弁護人の質問は本件とかかわりのないことです」
 検察官が素早く抗議をする。普通なら、これくらいのことでわざわざ異議を申し立てたりはしない。検察官も今回の公判が大きな山場だと勘づき、警戒を強めているのだろう。
「弁護人は質問の意図を明確にしてください」
 裁判長が指示をしてくる。
「失礼しました。それでは質問を変えましょう。被告人の自白として提出された調書ですが、本当に被告人が語った内容なのでしょうか?」
「……どういう意味ですか?」
 小宮山の声色に、強い警戒が滲む。
「自白はすべて出鱈目だと、被告人は主張しています。あなたが都合のいいように調書を書き、それにサインをするように求めてきたと」
 顔を紅潮させた小宮山が反論をしようと口を開く。しかし、その前に三郎は言葉を続けて遮った。
「被告人が拒否すると、あなたは机や壁を強く叩いたり、被告が座っている椅子の足を蹴りながら暴言を吐いた。『お前がやったのは分かっているんだよ!』、『俺たちの目を誤魔化せると思っているのか!』、『さっさと認めろ、この人殺しが!』、『このままじゃ、てめえは死刑になるんだぞ!』」
 三郎は舞台役者のように大仰な身振り手振りを交えながら、声を張り上げた。
「異議あり!」検察官が勢いよく立ち上がる。「弁護人の主張は何ら根拠のない誹謗中傷です」
「認めます。弁護人は挑発的な言動を慎むように」
 裁判長が渋い表情でたしなめてくる。「失礼しました」と謝罪しつつ、三郎は内心でほくそ笑んだ。
 これで、この公判の主導権を握ることができた。
 裁判官がいまのような芝居じみた行為を好まないのは知っている。しかし今日に限っては、過剰な演出をする必要があった。ドラマティックな裁判劇は傍聴席に座る人々、特にマスコミ関係者たちの大好物だから。
 彼らがメディアを通して流した情報は、日本中へと拡散され、そしてそれは世論という波へと変化していく。一般社会の常識との乖離かいりを指摘されることを嫌う裁判所に対して、世論は大きな武器となる。
 さて、大芝居の幕開けだ。三郎は唇を舐めた。
「それでは質問を変えます。小宮山さん、あなたは被告に自白を強制したことはありませんか?」
「……ありません」
 顔を紅潮させながらも、小宮山は淡々と答えた。
「これまで、尋問で被疑者に暴言を吐いたり、暴行を加えたりしたことはありませんか?」
「ありません」
「自分たちにとって都合の良いストーリーを調書に書いておいて、それにサインするように被疑者に強制したことはありませんか?」
「ありません」
「被告人の調書の中で、前もって研究室から薬品を盗み、それを使って被害者宅の浴槽で酸を作ったとありますね。それをもとにあなた方は研究室を捜索し、証言どおりに薬品が減っているのを見つけた。それは間違いないですね?」
「……間違いありません」
 小宮山の頬の筋肉がかすかに痙攣けいれんしたのを、三郎は見逃さなかった。
「もう一度だけ確認します。被告の口から聞くまで、あなたは酸を作った薬品がどこから持ち出されたものか、知らなかったんですね?」
 質問をくり返すと、検察官がみたび「異議あり!」と声を上げた。
「質問が重複しています」
「認めます」裁判長が言う。「弁護人は質問の意図を明確にしてください」
「承知いたしました。それでは裁判長、これから提示させて頂く証拠をモニターに映す許可を頂けますでしょうか?」
 慇懃いんぎんに頭を下げると、裁判長の顔に戸惑いが浮かんだ。
「それは必要なことなのでしょうか?」
「はい、その映像をご覧になっていただければ、先ほどの質問の意図もはっきりすると思います」
「……分かりました。モニターの使用を許可します」
 三郎は「ありがとうございます」と頭をさげたあと、モニターの操作を担当する職員に目配せをした。職員の手が動き、モニターの電源が入る。
 傍聴席からかすかにざわめきが上がった。彼らの胸の中で、これから始まるショーへの期待が膨らんでいるのだろう。場が温まってきているのを感じて、三郎は手ごたえをおぼえる。自分がシナリオを描いた芝居に、この空間にいる誰もが引き込まれつつあった。
 モニターに男の顔が映し出される。汚れた白衣を纏い、自信なさげに視線を泳がせている若い男。
『お名前と所属をどうぞ』
 スピーカーから三郎の声が響いた。
『啓明大学理工学部で大学院生をしている山田光次です』
 男は伏し目がちに、ぼそぼそと名乗る。
 これは一昨日、三郎が古いビデオカメラを使って撮影した映像だった。
 映像情報は文字や言葉よりも遥かに強く感情を揺さぶることができる。今回のような劇場型の裁判では強力な武器なる。
『あなたは、数ヶ月前に起きた殺人事件で起訴されている久米さんや、被害者である佐竹さんと同じ研究室に所属していますね?』
 映像の中で、山田が小さく頷く。
『あなたが所属する研究室では、主にどのような研究を行っているんですか?』
『うちは無機化学が専門です。特に僕が研究しているのは、ケイ素を使った新しい物質を構成することで。それが成功すれば、工業用に……』
 それまでの緩慢な口調とはうってかわって、まくしたてるように喋り出した山田を、三郎の『よく分かりました』という声が遮った。
『そのような研究では、色々な薬品を使うんでしょうね。その中には、危険なものもあるんじゃないですか?』
『ええ、もちろんあります。強い酸性物質、アルカリ性物質は体に触れたら危険ですし、シアン化合物みたいに強い毒性をもつ物質も扱います』
『それらは、簡単に盗み出したりできるんですか?』
『そんなことはできません』山田は声を上ずらせる。『ちゃんと鍵のかかった棚に入れて管理しています』
『その鍵は誰が持っていたんですか?』
『……研究室に所属する全員が持っていました』
 山田は首をすくめる。
『つまり、研究室に所属する人ならだれでも、棚を開けて薬品を持ち出せたということですね』
『そうです。けれど、危険な薬品については使用するたびに記録を付けていて、定期的に使用量と残量が合っているかどうか確認していました』
『佐竹さんの事件があった前後、その確認は誰がしていましたか?』
 三郎が質問する声が響くと、モニターの中で山田が顔を伏せた。
『……僕です』
 傍聴席のざわめきがさらに大きくなる。
『そうですか。さて、話は変わりますが、公式な記録では、警察が研究室を捜索してはじめて、記録と薬品の残量が合わないことが判明したとされています。それは間違いないですか? 警察に指摘されるまで、あなたは記録よりも薬品が減っていることに気づいていなかったんですか?』
 スピーカーから三郎の声が響いてくる。山田はうつむいたまま答えなかった。
『どうなんですか? あなたは警察が研究室を捜索する前には、薬品が持ち出されていることに気づいていなかったんですか?』
『……気づいていました』
 蚊の鳴くような声で山田が言う。傍聴席のざわめきが一気に膨らんだ。裁判長が「静粛に」と声を張り上げる。
『あなたはいつ、薬品が足りないことに気づいたんですか?』
 三郎の声が淡々と質問を続ける。
『……佐竹さんが殺されたことを知る、一週間くらい前です。週に一回の確認をしていたところ、いくつかの薬品が少し足りなくなっている気がしました』
『そのことについて、報告はしなかったんですか?』
『どうせ、自分の計算ミスか、誰かが薬品を使ったのに記録を書き忘れただけだと思ったんです。だから、後で確認すればいいと思っていました』
『けれど、あなたは確認しなかった』
 三郎の声が被せるように言うと、山田は力なく頷いた。
『そのころ、論文提出の期限が迫っていて、手いっぱいだったんです。だから、いつの間にか頭から抜けていて。そのうちに佐竹さんが殺されたことが分かって、研究室がパニックになったから……』
『その後、久米さんが逮捕され、彼の自白を元に研究室が捜索されて、薬品が減っているのが明るみにでました。さて、重要な質問をしますのでよく聞いてください。警察の捜索前に、あなた以外に薬品が減っていることを知っていた人物はいませんか?』
 山田は落ち着かない様子で視線を泳がせるだけだった。三郎の声が『いないんですか?』と答えを促す。
『……います』
 山田が躊躇いがちに答えた瞬間、再び傍聴席から大きなざわめきが上がった。裁判官が「静粛に!」と、彼らを黙らせる。
『それは誰ですか?』
 山田は数回深呼吸をしたあと、意を決したように話しはじめた。
『刑事さんです。事件のすぐ後に話を聞きにきた刑事さんに、『何でもいいから、事件前になにか変わったことがなかったか』って訊かれたんで、薬品のことを答えました』
『そのときの刑事の反応は』
『聞き流された感じでした。そのとき僕はまだ、佐竹さんの遺体が……酸で溶かされていたなんて知らなかったんで、薬品が減っていることが事件と関係があるなんて思いませんでした。まさか、うちの薬品で佐竹さんが……』
 吐き気を催したかのように、山田は口を押さえた。
『これが最後の質問です。薬品が減っていることを話した刑事の名前を覚えていますか』
 山田は口元から手を離すと、押し殺した声で言った。
『はい、覚えています。……小宮山さんという名前でした』
 モニターが暗転する。傍聴席がハチの巣をつついたような騒ぎになる。裁判長が「静粛に! 静粛にしてください!」とくり返し声を張り上げた。
 数十秒してようやく傍聴席が静まり返ったところで、三郎は血の気の引いた顔で立ち尽くしている小宮山に話しかける。
「おかしいですね、小宮山さん。さっきあなたは、被告人が自白してはじめて、研究室から薬品が持ち出されたことを知ったと証言しました。しかし、実際は捜査がはじまってすぐ、被告人が逮捕される前にあなたは薬品が減っていることを聞いていた」
 小宮山がなにか反論しようと口を開きかけるが、その前に検察官が慌てて声を上げた。
「異議あり。先ほどの映像はどのような状況で撮影されたものか詳細が不明です。証拠としての価値はありません」
「どのような状況であろうとも、彼の主張は明確です。また、映像に登場した山田さんは、必要であれば次回以降の公判で証言してくれることを約束してくれました。彼が語ったことに対して、証人に質問することは妥当だと思われます」
 鋭く反論すると、検察官は鼻の付け根にしわを寄せて黙り込んだ。
「異議を却下します。弁護人は質問を続けてください」
 裁判長からの許可を得た三郎は、すっと目を細めて小宮山を見る。小宮山の表情がこわばっていった。
「小宮山さん、答えてください。あなたはなぜ、かなり早い段階で研究室から薬品が減っていること、その薬品が被害者の遺体を溶かすのに使われた可能性に気づきながら、黙っていたんですか」
「……映像に映っていた彼から、話を聞いたことを忘れていました」
 喉の奥から絞り出すような声で、小宮山が答える。
「忘れていた!」
 三郎は芝居じみた仕草で、両手を大きく広げた。
「忘れていたということは、彼から薬品が減っているという話を聞いたということは事実ということですね」
 自らの失言に気づき、小宮山のいかつい顔に動揺が走る。
「たしかに……、聞いたような気がします。ただ、記憶が曖昧なので、はっきりとしたことは……」
「小宮山さん、あなたは刑事ですよね。しかも、天下の警視庁捜査一課の刑事だ。そのあなたが、そんな凡ミスをしますか? 経験を積んだ刑事なら、どんな小さな情報から事件解決の糸口が見つかるか分からないことを知っているはずです。だからこそ、聞き込みの内容は全てメモを取っている。そうじゃないですか?」
「それは、それぞれのやり方がありますから……」 
 歯切れ悪く言う小宮山に向かって、三郎は顔を突き出した。小宮山は軽く身を反らす。
「そんな苦しい釈明より、事態はもっと単純なんじゃないですか。山田さんから薬品についての話を聞いたあなたは、あとで使えるかもしれないと捜査本部には報告しなかった。その後、逮捕された被告人の取り調べを担当したあなたは、『研究室から薬品を盗んで、それを使って遺体を溶かした』という調書を作成し、それにサインするように被告人に迫った。そうすれば、『秘密の暴露』を創りあげられるから。違いますか?」
 挑発的に訊ねると、検察官がまた「異議あり!」と声を張り上げた。
「弁護人の主張は無責任な推測に基づくもので、なんら根拠がありません。また証人の尊厳をいたずらにおとしめるものです」
「認めます。弁護人は憶測に基づいた主張はしないように」
 裁判長にたしなめられた三郎は、余裕の笑みを浮かべながら頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。つい興がのってしまい。さて、小宮山さん。あなたが覚えていたか否かについては断言できませんが、少なくともあなたが被告の取り調べをする前に、大学院生から薬品が減っていることを聞いたことは事実らしい。こうなると、薬品の件については『秘密の暴露』ではなかったことになる。つまり、自白の信憑性についてどうしても疑いが生まれてしまうんです。分かりますか?」
 小宮山は唇を固く結んだまま、動かなかった。
「答えられませんか。それじゃあ質問を変えましょう。あなたは被告を脅して、都合よく作った調書にサインさせませんでしたか? 自白の内容は全て、被告を有罪にするため、あなたがでっち上げたものではないんですか? あなたはいつもそうやって、被疑者に自白を強いてきたのではないですか?」
「違う! そんなことはしていない!」
 噛みつくように言う小宮山に、三郎はぐいっと顔を近づける。
「そんなことはしていない? それは、これまで被疑者を脅して自白を強要したことはないということですか? これまで、一度たりとも?」
「もちろんです。自白を強要したことなんて一度もありません!」
 小宮山がそう叫んだ瞬間、三郎はにっと口角を上げた。小宮山、そして離れた位置にいる検察官の顔がこわばる。
「裁判長、次の証拠をさきほどと同じようにモニターに映す許可を頂けますでしょうか」
 三郎の要請に、裁判長は「許可します」と即答した。会釈をした三郎は、係員に再び合図を送った。モニターにはソファーに腰掛けた中年の男が映し出される。小宮山の喉から、うなるような声が漏れた。
『お名前と年齢をお願いします』
 スピーカーから三郎の声が聞こえてきた。男はおずおずと正面に視線を向けると、聞き取りにくい声で喋りはじめる。
山本純太やまもとじゆんた……、四十二歳です……』
『早速ですが、小宮山刑事のことを覚えていますか?』
 三郎の質問が響くと、山本と名乗った男の体が大きく震えた。
『……はい、覚えています。十二年前に俺の取り調べをした刑事さんです』
『あなたはなんの容疑で取り調べを受けたんですか?』
『傷害罪です。コンビニで男の人を殴ってしまい……。それで、逮捕されました』
 山本は寒さに耐えるように、自分の肩を抱く。
『なんでその人を殴ったんですか?』
『その人が俺の悪口を言っている気がしたんです。だから、『やめてくれ』ってお願いしたのに、それなのにやめてくれなくて。ずっと、悪口が聞こえてきて……。それでパニックになって、気づいたらその人を……殴っていました』
『逮捕されて、その頃、新宿署の刑事だった小宮山さんに取り調べを受けたんですね?』
 山本は小さく頷いた。
『取り調べで小宮山刑事はどんな様子でしたか?』
『俺の言うことを全然聞いてくれませんでした。全部嘘だって決めつけて、『むしゃくしゃしていたから殴った。誰でもよかった』っていう調書を作ってきて、それにサインしろって、何度も怒鳴られました。嫌だって言うと、机を叩いたり、椅子の脚を蹴ったり、頬を平手で殴られたこともありました』
『それに耐えられず、あなたは調書にサインをした。そうですね?』
『はい、そうです。あの刑事はひどい人です。……本当にひどい人です』
『ご協力、ありがとうございました』
 三郎の声がスピーカーから響くと同時に、映像が途切れた。潮が引いたかのように静寂が法廷を満たし、すぐに騒音の大波が打ち寄せてきた。
 裁判長が何度もくり返し「静粛に!」と叫ぶが、騒ぎがおさまるまで数十秒を要した。
「小宮山さん、いま映像に映った山本さんをおぼえていますか? 彼はあなたに自白を強制されたと言っていますが、これはどういうことですか?」
 暗転したモニターを呆然と眺めていた小宮山は、関節が錆びついたかのようなぎこちない動きで首を回して三郎を見る。
「違う……、違うんだ……」
「違う? なにが違うって言うんですか?」
「山本は、あの男は頭が狂っていたんだ! それで、不起訴になったような奴なんだよ。だから、いまのも全部、出鱈目で……」
「頭が狂っている!? それはまさか、山本さんが精神疾患を患っていることをさしているんですか? あなたは病気で苦しむ人に対して、そんな差別的な表現を使うんですか?」
 本気の怒りをおぼえた三郎が糾弾すると、小宮山は「いや、そういうわけじゃ……」と言葉を濁す。
「異議あり。弁護人の質問は、本件となんら関係ないものです」
 声を上げた検察官に、三郎は鋭い眼差しを投げかける。
「この質問は証人の人間性を確かめるためのものだ。自白が強要されたものである可能性が出てきた以上、取り調べを担当した人物の人間性を確かめるのは当然のことだ」
「異議を却下します。弁護人は質問を続けてください」
 裁判長が覇気のこもった声で言う。検察官は唇を噛んで椅子に腰を落とした。
「あの……、別に精神疾患の方を馬鹿にするつもりはなかったんです……」
 熊のような体を小さくしながら、ぼそぼそと聞き取りにくい声で小宮山が話す。
「ただ、あの男……、山本さんは精神的に不安定で、なにか勘違いしているんじゃないかと……」
「彼は投薬により精神症状は安定し、現在は仕事もしています。そういう状態の方の言葉も、過去に精神疾患を患っていたら証拠能力がないと?」
「そういうわけじゃありません。ただ、いま安定していても、私が取り調べをしたときは錯乱状態で……」
 小宮山は媚びるような作り笑いを浮かべた。
「なるほど」三郎は肩をすくめる。「山本さんの証言は妄想だとおっしゃるんですね。彼一人の証言では不十分だと」
 小宮山が曖昧に頷くのを見て、三郎は鼻を鳴らした。
長崎大樹ながさきひろき家永亮いえながりよう関順太郎せきじゆんたろう……」
 三郎が名を挙げていくにつれ、小宮山の笑みが引きつっていく。
「覚えていますか、その三人を?」
 小宮山は震える唇を開くが、その隙間から漏れたのは絶望の呻き声だけだった。三郎は勢いよく身を翻すと、傍聴席を見回す。
「いま挙げた三人の男性は、さきほど映像に映った山本さんと同様、小宮山刑事に取り調べを受けた方々です。映像の撮影には同意していただけませんでしたが、三人全員から調書は頂いております。小宮山刑事から脅迫的な取り調べを受けて、意にそわない自白を強要されたという内容の調書をね」
 さて、仕上げといこう。三郎は気合を入れなおすと、小宮山に向き直った。
「四人、いや被告人も合わせれば五人です。五人もの人々が、同じ内容の証言をしているんです。あなたに自白を強要されたとね。これでも勘違いだと主張するんですか?」
 体の横で固く握られた小宮山の両拳が、ぶるぶると震えはじめる。
 あと一押しだ。そう確信した三郎は、証言台を平手で叩いた。小宮山の体が大きく痙攣した。
「認めなさい! もしあなたが認めないなら、山本さんをはじめとする四人は、出廷して証言してもいいと言っている。もう終わりなんですよ。自分がやって来た卑怯な行為を謝罪しなさい!」
 つばを飛ばしながら怒鳴ると、小宮山が俯いていた顔を上げた。般若のごとき形相を浮かべた小宮山が、血走った目でにらみつけてくる。三郎は歯を食いしばって、目の前の大男の圧に耐えた。
「卑怯……?」
 地の底から響くような声で小宮山がつぶやく。
「俺が卑怯だって言うのか?」
「その通りだ。あなたは自分の手柄のため、市民を守る警官にあるまじき行為を繰り返してきた卑怯者だ」
 視界の隅で、検察官が慌てて立ち上がるのが見えたが、すでに遅かった。
「ふざけるな! あいつらは全員犯罪者だ。あいつらが犯人なのは間違いないのに、刑務所にぶち込めないかもしれない。だから俺が泥をかぶって自白させてるんだよ! 俺は身を挺して市民を守ってやっているんだ!」
 鼓膜に痛みをおぼえるほどの怒声が全身に叩きつけられた瞬間、三郎は満面の笑みを作って小さく拳を握りしめた。小宮山がはっとした表情になる。紅潮していた顔から、一気に血の気が引いていった。
「いや、違うんです……。いまのは口が滑って……」
 小宮山は助けを求めるかのように検察官を見る。しかし、検察官は片手で顔を覆うだけだった。
「質問は以上です!」
 高らかに宣言した、三郎は弁護席に戻っていく。途中、あんぐりと口を開いている久米と目が合った。
 三郎が唇の片端を上げると、久米は慌ててつむじが見えるほど深く頭を下げた。
 温かな満足感をおぼえつつ弁護席に座った三郎は、スーツの懐から定期入れを取り出す。
「なんとか、『正しいこと』が出来たよ」
 妻との写真を見ながら、三郎は小声でつぶやく。
――お疲れ様
 そう言って、写真の中の妻が微笑んでくれた気がした。
(第12回につづく)

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知念 実希人Mikito Chinen

1978年、沖縄県生まれ。東京慈恵会医科大学卒、日本内科学会認定医。2011年、第4回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、12年、受賞作を改題した『誰がための刃 レゾンデートル』で作家デビュー。15年には『仮面病棟』が啓文堂書店文庫大賞を受賞しベストセラーとなり、18年に『崩れる脳を抱きしめて』が本屋大賞にノミネートされる。

近著に『祈りのカルテ』『ひとつむぎの手』『火焔の凶器 天久鷹央の事件カルテ』がある。

  • 双葉社
  • 小説推理
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