双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ダイエットの神様(南 綾子)

イラスト:Maki Emura

第6回

 それから約二十分後、小百合が満里奈を伴って現れた。
 俺のオフィスは狭いので、叔母の部屋の隣にある応接室に通した。満里奈は食料品が大量に詰め込まれたスーパーの袋を二つ提げていた。それをとりあえず床に置かせると、片方の袋から、半分ぐらいまでかじったバターがボロっと落ちてきてギョッとした。
「夫がまた浮気してるんです……」しばらくめそめそ泣いていた満里奈が、やっと口を開いた。「前にもあったんですけど。辛くて辛くて、気づくとドカ食いしちゃうんです」
「あの……バターを塊のまま食べるんですか?」俺は思わず聞いた。「バターですよね? そのまま? 冷たいまま? パンとかもなしで? うまいんですか?」
 満里奈は答えず、うつむいた。長い沈黙ののち、蚊の鳴くような声で「はい、そのまま、冷たいまま、かじります。おいしいかどうかは、もうよくわかりません。どうしても食べたくなるときがあるんです」そしてまた沈黙。「……でも、めったにやらないようにしてます。本当に、ストレスがたまったときだけ」
「ファミレスでのドカ食いもよくやるんですか?」
「一人で外食はできません。普段、ドカ食いがしたくなったときには、安い食パンを三斤分ぐらい買ってきて、安いマーガリンをたっぷりつけて食べます。それでも満たされないと、バターを……」
「ドカ食い、昔からなの?」小百合が聞いた。
「……昔はしませんでした。多分、結婚してから……」
 それから満里奈は、ぽつぽつと身の上を語りはじめた。
 彼女が十一歳年上の夫と結婚したのは、十年前の十九歳のとき。夫は当時アルバイトしていたレストランの二代目オーナーで、ほかにもいくつか店舗を運営し、とても裕福だった。その頃の満里奈はスリムで見た目もそこそこ可愛かったそうで、出会ってすぐ夫に見初められ、交際三カ月で結婚に至ったという。
 満里奈はそれまでは母と兄の三人暮らしだったが、兄の家庭内暴力が日常化しているような家庭だった。それから逃れたい一心の結婚だったようだ。
 ありがちなことだが、夫は交際時、とてもやさしかった。しかしこれもありがちなことだが、結婚後、あっけなく豹変した。何より厳しく言いつけられたのが、料理や食べ物のことだった。
「姑が関西出身で、子供のときからきちんと出汁をとった薄味の料理に慣れ親しんできたので、味の濃いものとか脂っこいものをことさら嫌うんです。とくに、女がそういうものを好むのは意地汚いことらしく……。夫が言うには、食べ物には適した味付けがあって、過剰に味が濃いものや脂っこいものを好むのは、意地汚く下品なことだそうです」
「うちのオヤジと全く同じっすよ」俺はびっくりして思わず言った。「俺も下品下品ってよく言われたなあ」
 満里奈が不慣れながらも頑張って作った料理にも当然、味が濃い、脂っこいと文句をつけられ、結局結婚して一カ月もする頃には、京都出身の姑が同居するようになったという。
 その頃から、夫や姑からの圧力によるストレスが限界値に達すると、夜中や誰もいない昼間にドカ食いを繰り返すようになった。肥満体型になっていくのは、当然のことだった。
 しかし、その姑も五年前に亡くなった。すると、夫はなぜか肉体改造に走り出した。それとともに、女の影がちらつくようになった。前にうちの教室に入会したのも、痩せて夫の気持ちを取り戻すためだったのだ。
 そして真面目な性格が幸いして、入会後、順調に体重は落ちた。が、夫に男でもできたのかと疑われる羽目になり、結局、短期間で退会せざるをえなかったようだ。
「その後も浮気はたびたびあって、発覚するたび、ドカ食いの繰り返し。でも、毎回ただの遊びで、本気じゃないはずだって思ってたんです。一番は妻の私だって……。だけど昨日、夫から、今の相手は本気だから離婚したいって言われてしまいました。相手は女子大生で、もうすでに妊娠していて、卒業と同時に結婚するつもりでいるそうです」
「え! それなら、さっさと別れたほうがよくないですか?」俺は思わず言った。「慰謝料もらうチャンスだし」
「でも……」
「いやだって、どう考えても別れたほうがいいですよね? あなたへの態度、あまりにもひどすぎませんか? DVですよ、DV。今どきは殴るだけがDVじゃないらしいですよ。そういうの、ツイッターとかでよく語られてるから、見たほうがいいですよ?」
 満里奈は、ちょっと言っていることがよくわからないです、という顔で俺を見る。「……でも、夫は夫でいいところもあって……」
「いやいや」
「この間ここへきたときみたいに、わたしのことを思って怒ってくれることもあるし。バイト代は一応、自由に使わせてくれるし」
「それがいいところ、ですか?」
「それに、学歴もなくて、デブで、食べ物に意地汚くて、何をするにもどんくさくて、デブなわたしと、今でも夫婦でいてくれるし。わたしみたいな、なんの価値もない人間と一緒に暮らしてくれる男なんて、この世で夫の他にはいないと思うんです。夫にもそう言われるし、実の母親にも言われました。本当にその通りだと思います」
 なんも言えねえ、と俺は思った。いや、何を言っても、俺の言葉なんかこの人の心に伝わらない。
「明日の晩、夫がいつもよりはやく帰ってくるって言うんです。離婚の話し合いのためです。友人の弁護士を連れてくるそうです。ついさっき、電話で一方的に告げられました。もう何が何だが¥かわからない気持ちになって、それで気づくとスーパーの前でバターを……バターを……」
「よし、わかった!」と小百合がいきなり大声を出した。「あたし、いいことを思いついた。とにかく、明日、またここに集合して。満里奈さんも、あんたもよ。時間はそうね。午後三時ぐらいかしらね。あんた、もしこなかったら毎晩、向日葵に……」
「あー! わかりました! とりあえず、俺はもう、帰ります!」
 小百合にオフィスの施錠を頼んで、俺はさっさと応接室を出た。横浜駅に着くころには、満里奈の涙も明日のこともすっかり忘れて、もう家に帰ってシコることしか考えていなかった。

 向日葵似のAV女優の動画を毎晩見ていることを、いっそ知られてしまったほうがいいかもしれない、それでスパッと向日葵を諦められるなら。
 そんなことを考えながら、出かけるギリギリの時間まで、俺はロフトに敷いた布団の中でぐだぐだと過ごしていた。が、結局気の小さい俺は、十分の遅刻で済む程度のタイミングには家を出て、オフィスに着いた。
 誰もいなかった。
 全員死ね、と思った。
 小百合が一切悪びれる様子もなく姿を現したのは、一時間も過ぎてからだった。なぜかパンパンに膨らんだ登山用リュックを背負い、肩にも大きなエコバッグを提げている。
「満里奈は自宅で待機させてるから、さっさといくよ。それにしても、これ、重いわ。あんたが背負って」
 強引に押し付けられたリュックは、墓石でも入ってるのかというぐらい重たかった。この女、そろそろ一回死んで食用カタツムリにでも生まれ変わってサイゼリヤに売られればいいのに、と俺は思った。
 みなとみらいのタワーマンション群まで、俺たちは徒歩で移動した。冬の日曜の日暮れ時、あちこちにしつらえられたクリスマスの飾りが寒々しい。なぜ俺は、この幸福感でいっぱいの景色の中を、こんなクソババアと並んで歩いているのか。しかも墓石(推定)が入った登山用リュックなどを背負って。前世で何かとんでもなく悪いことでもしたのだろうか。もしかして、警官に成りすまして三億円奪って逃走したのは俺か? そうなのか?
 満里奈の自宅は、海と遊園地を眼下に見下ろすタワーマンションの二十二階にあった。隅々まで片付けられたリビングダイニングは生活感が薄く、夫婦二人の空間というより、金持ちのサラリーマンが女を抱くために作ったかのようなしゃれた雰囲気だった。まあ、俺がこの家に住んだところで、女を抱けるのかどうかといったら……うん、考えるのはやめよう。
「あ、いいじゃんいいじゃん。これよ、これ。これを求めてたの」
 いかにもヨーロッパ製でございといった雰囲気の立派なダイニングテーブルの前で、小百合が満足げに言った。黒光りしている天板の上に、真新しい卓上コンロ、ホットプレート、そしてオーブントースターが用意されている。
「見て、このオーブントースター。パンがすっごくおいしく焼けるんだって。アマゾンで二万ぐらいした」
「誰が買ったんですか」
 小百合は満里奈をあごでしゃくった。満里奈は小さな声で「旦那からクレジットカード、渡されているんで……無駄遣いがバレたら、叱られるんですけど」と答える。
「大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃん?」小百合がまるっきり他人事のノリで言う。「それより、旦那はいつ帰ってくるって?」
「さっき電話があって、六時半に帰るって。時間に超正確なので、ほとんどぴったりに帰ってくると思います」
「そっか。急がなきゃ。よっしゃ仕込みだ」
 小百合は俺が床に降ろした登山用リュックを開けた。最初に出てきたのは、両面焼きができるフライパンだった。
 さらに、巨大な角型の食パンが三本。肩に下げていたエコバッグからも、山型の食パンが同じく三本。それ以外の食材も、まだ中に大量に入っているようだった。
「この食パン、二斤分が一本で八百円。銀座の超有名店に朝から並んで買ってきた」
「はあ……あの、その金はどこから?」
「この人のカード、借りた」
 愚問だった。
 そして小百合の指示の下、俺たちは大急ぎで食事の支度をした。ほぼすべての作業が完了したのは、六時十五分頃だった。
 俺たち三人は、料理を盛った皿がずらずらと隙間なく並べられたテーブルの前に立ち、揃って「はあ」とため息をついた。
「なんだか壮観ね」小百合が言った。
「まさに」俺は答えた。
「このテーブルが、こんなにもおいしそうな状態になってるのを見るのは、購入して以来、はじめてです」満里奈もあっけにとられたようにつぶやく。
 小百合が銀座のデパ地下で仕入れてきたドイツ産ウインナー、サーロイン特選和牛肉、パルマ産生ハム、モッツァラレラやチェダーのチーズ盛り合わせ。さらに満里奈が仕込んだ大量のプレーンマッシュポテト、明太ポテトサラダ、ツナサラダ、卵サラダ、照り焼きチキン、トッピング用の海苔やネギ類。そして俺が小百合に「薄すぎだよへたくそ」「脳ナシ」「パンもまともに切れないクソ童貞」などと罵られつつも黙々とカットした厚切り食パンの山、その横には100グラムのバターブロック三つ。テーブルの中央にはホットプレートとコンロ、その上に両面焼きフライパン。角にはオーブントースターが鎮座している。
 小百合と満里奈はキッチン側に並んで座り、俺は満里奈の向かいに座った。俺たちは目くばせすると、「いただきます」と声をそろえた。
「……みんな、好きなものを好きなように食べようね。好きな味付けで、好きな分量で」 
 小百合はそう言って、食パンを四枚つかみ取り、目にも留まらぬはやさでバターを両面にたっぷり塗りこんだ。片方にモッツアレラチーズと生ハム、片方にあらかじめ焼いておいたサーロインとマッシュポテトをこれでもかと挟むと、両面フライパンに並べてコンロの火を着けた。
 その隙に、満里奈は黙々とトーストを二枚仕込んでいた。焼き上がり、オーブンのふたを開けると、芳醇な小麦の香りが一気にダイニングに広がった。
 片方のパンには、焼く前にバターがのせてあった。分厚いトーストの真ん中で、バターは黄色く、なまめかしく溶けだしていた。満里奈はうやうやしくそれをオーブンから取り出すと、さらに追加でバターを塗りこんだ。俺は何も塗ってないほうのトーストを取り出し、半分に割って、サクッと一口食べてみる。
「……うまい! 外はから揚げの衣みたいにサックサクなのに、中はモチみたいにモチモチです」
「あんたね、何それ。食べ物を食べ物で例えるとか、表現力の貧困ぶりがひどい。性生活の貧困さが影響しているのでは?」
「このオーブンがいい仕事してますよ。ほら、見てください。外は均一にムラなく焼けていて、内側は水分が飛ばずに閉じ込められてる。だからこんなにサクサクでモチモチなんだ。でも、やっぱりこのパン自体も旨いなあ。甘いんですよ。……あの、二人とも、このパンはそのまま食べたほうがいいと思いますよ。なんだったら焼かなくてもいいかもしれない」
「はあ? あんたって本当に……。ここのクソ旦那みたいなことを言ってんじゃないよ。人が何をどう食べようと勝手でしょ。食い方に正しいも間違ってるもないんだよ」
 満里奈をチラッと見ると、俺たちの会話など全く耳に入っていない様子だった。塗りたくったバターで大分重量を増したトーストを両手で持ち、ハムッと、大きく一口かじった。
 そして目を閉じ、うっとりした顔でゆっくり咀嚼していく。
「……ああ、幸せ」
 そのとき、玄関から物音が聞こえた。
 ハッと満里奈が固まった。すかさず小百合が、彼女の耳もとでささやく。
「いいの。大丈夫。あなたは何を言われても、ずっと食べ続けて。ずっとずっと延々と、満足するまで、自分の好きなように」
「で、でも……」
「シッ。これから、何かしゃべるときはあたしに耳打ちして。あたしがなんでも代わりに言うから」
 やがて、バーンと勢いよくリビングダイニングのドアが開き、満里奈の夫ことチョコさん(小百合が命名した)とチョコさんにそっくりのムキムキ色黒マッチョ男が姿を現した。二人はジムで知り合ったのだろうか。まるで双子のように似ている。
 二人は唖然とした表情で俺たちを見ていた。言葉もないようだ。当たり前だ。
「ご主人」と小百合が言った。「ご主人はそこのお誕生日席。そちらは弁護士先生かしら? 先生はわたしの向かいに座ってちょうだい」
 小百合があまりにも自信満々に言ったせいか、二人は戸惑いつつも素直に指示に従った。  
「これは一体……」とチョコさんが口を開いた。その瞬間、小百合が右手に持ったフライ返しをシュッと掲げて制止した。
「あたしたち、食事中なんで、終わるまでお待ちくださる?」
「いや……ちょっと、おい、お前」
「やめてください、ご主人。あたしは満里奈さんの代理人です。直接彼女に話しかけないで。すべての会話はあたしを介してください」
「いや、あのね。あなたは一体……」
「ホットサンド、出来上がり~。さ、食べましょ食べましょ」
 小百合が俺の皿にマッシュポテトとサーロインのホットサンドを置いてくれた。熱々を思いっきりかぶりつくと、ジューシーな肉のうまみと、ポテトの甘さ、バターのコク、そしてサックリモチモチのパンが口の中で渾然一体となった。なんて罪深く、そして狂おしいほどうまいのか。おいババア、やるじゃねえかもっとやれ、と俺は心の中だけで小百合をほめたたえた。
 俺と小百合は次々に出来上がっていくホットサンドを無心で食べた。ウインナーとチーズとケチャップ。明太ポテトと海苔。照り焼きチキンと卵サラダ。ありとあらゆる組み合わせ。どれも甲乙つけがたいが、個人的にはツナとチーズに醤油をちょっと垂らし、ネギを大量にトッピングしたものがよかった。とてもよかった。いいぞクソババア、と思った。
 満里奈ははじめこそオドオドと夫の顔を見ていたが、やがて俺たちにつられたのか少しずつ食べはじめた。小百合のホットサンドは一口かじっただけで、あとはひたすらバタートーストをガツガツ食らっていた。二枚のパンにバターの塊をのせてオーブンに突っ込み、焼けるまで手を膝に置いてじっと待つ。焼き上がったらさらにバターを塗りこんで、一枚当たり五口、合計十口で食べきる。それからまた次の二枚を焼く。これを淡々と繰り返していく。
 俺はホットサンドに食らいつきつつ、次第に満里奈から目が離せなくなった。彼女の目に、顔つきに、力がみなぎっていくのがはっきりわかったからだ。夫が苦々しい顔で自分を見つめている様子を確かめて、嬉しそうにニヤついているときもあった。
「あのさ、あんた、そんな気色悪そうな顔で自分の妻を見なくてもよくない?」小百合が言った。こんなにおいしそうに食べているのにさ」
 チョコさんは憮然として腕を組んでいる。「おいしそう!? こんなもの食べ物じゃないでしょ!」
「ちょっと、怒鳴らないでくださる? 全く、本当に男って……やだやだ。怒鳴れば女が言うこと聞くと思ってる。いくら怒鳴ろうとも、あたしはビビらない、決して。普通に話せないんだったら出ていってください」
 チョコさんはバツが悪そうに口をとがらせる。「あなたたちはおかしい。頭がおかしい」
「は?」
「体に悪いものばかりじゃないですか。野菜がひとかけらもない上に、味が濃いものばかり。こんなもの食事とはいえませんよ。脂質も糖質も取りすぎだし、それに……」
「ファー!」小百合は奇声を発した。「そういうクソつまんないことおっしゃるのやめてくださる? 味が濃いだの野菜だの、脂質だの糖質だの言う奴って、他人の評価を気にしてばかりのひ弱野郎なのよ。体はムキムキでも心はピヨピヨのヒヨコちゃん。おーよちよち、世間が怖いのね?」
「なんだと!」
「ささ、自分の妻の幸せを喜べないようなヤツの言葉なんか気にせず、食べましょ」
 しかし当の満里奈は言われずとも食べ続けている。皿に出してあったバターはあっという間になくなった。しかし、冷蔵庫の中からストックが五つ出てきた。
「……さて。そろそろ話を聞いてやってもいいわよ」食パンがあと六枚ほどになったところで、小百合が言った。「なんだっけ? あんた、浮気しといて離婚したいとか言ってんだっけ? まあいいわ、そっちの条件聞いてあげる」
 チョコさんはウエッホンと咳ばらいをし、ピチピチのジャケットの内側から折りたたまれた離婚届を出した。そして言った。「三百万」
「何それ、慰謝料?」
「もちろんだ」
 その瞬間、ガチャーンと音が響いた。満里奈が皿を落としたのだ。幸い割れずに済んだが、彼女の肩が震えていた。
「も、もう本当にやり直す気が……ないってことなのね?」
 そう小声でつぶやく満里奈を、小百合が「シッ」と制した。「あたしに耳打ちして」
 満里奈は言われたとおり、小百合に耳打ちした。すると小百合は全員に聞こえる声で「バカね。まだそんなこと言ってるの? あんた、この筋肉ダルマにいまだに未練あるの?」
「ダ、ダルマ!? あなたね、さっきから……」
「三百万って数字、どう思うの、満里奈」
 満里奈は少し考えて、また耳打ちした。
「安いか高いかわからないですって!?」
 外にまで聞こえそうな大声だ。耳打ちされた内容を復唱しているのか? だとしたらこのやりとりには何の意味があるんだ? ふざけてるのか?
「安いもくそも、ただ相場よ。不倫した場合の慰謝料の相場。なーんも考えず、相場の値段を言ってきたの、この黒光り筋肉マンは」
 満里奈は眉間にしわを寄せ、考え込んでいる。
「あなたとの長い結婚生活なんて、どうでもいいのよ、この人」小百合は言った。「あなたがどれだけ苦しんで、悩んで、泣いてきたか。そんなことはこれっぽちも考えず、頭の中にあるのは女子大生とのセックスだけ。超テキトーなノリで『三百万でいっか』で決めたの。いいの? それで?」
 しばらくして、満里奈は再び、小百合に耳打ちした。
「ふーん。あっそ」と小百合。「四百五十万ですってご主人」
 チョコさんは満里奈をチラッと見て、フッと笑みを漏らした。「いいでしょう。一括で払いますよ」
「だって、よかったね、一括払いだって。これでスパッと離婚できるね。あんたが今、自分で決めたんだよ。自分の価値は四百五十万って」
 しんと部屋が静まり返っている。満里奈はうつむいて、また考え込んでいる。
「相場だの、平均だの、学歴だの、体重だの、関係ないと思うけどね。自分の価値は自分で決めてもいいんじゃない? ほら見て? 食べ物だって、自分の好みの食べ方で食べるのが一番おいしいじゃん? 相場なんてどうでもいいじゃん? 正しい味付けなんて他人に押し付けられても、ちっともおいしくないじゃん? トーストにはバター五グラムが相場ですって言われても、は? って感じじゃん?」
 次の瞬間、満里奈は意を決したように顔を上げた。そして小百合に耳打ちした。
「ほう」と小百合は息をつく。「……一千万だって」
 チョコさんは若干動揺したような表情を見せた。が、すぐに気を取り直すと、余裕の態度で「いいでしょう」と言った。「それで離婚できるなら。俺は、何がなんでも離婚したいんだ。こんなだらしがなく品もなく、その上、十年もの結婚生活でちっとも妊娠しない妻と一緒にいるのは、もう時間の無駄ですからね」
 俺はとっさに満里奈を見た。まるで食パンのように真っ白で無表情だった。
「妊娠できないのは、明らかに偏った食生活のせいですよ。昔から、俺に隠れてジャンクフードやら味の濃いものをコソコソと食べているのは知ってました。俺の言うことをよく聞いて、健康でまっとうな食生活を心掛けていれば、今頃五人は子供がいましたよ」
「やっぱ二千万」今度は耳打ちではなく、声に出してはっきりと満里奈は言った。
「おい! お前、変な仲間がそばにいるからって、調子に乗るんじゃねえぞ! 俺に離婚されたら、お前みたいな何の価値もない女なんて……」
「ごめん、やっぱ嘘」
「おい、ふざけて……」
「一兆円」
 ブッと最初に吹き出したのは、今日ここへきて以来、完全なる置物と化しているチョコさんの連れの弁護士だった。つられて小百合もブッと吹いた。「一兆円て、小学生じゃないんだから」
「ふざけてなんかいません。一兆円。それがわたしの価値。今決めた。もう決めた。自分で決めた。もう、あなたの言葉に惑わされて、傷ついて、自分を嫌いになって、それを癒すためにするドカ食いはやめます」
 そして満里奈はふっ切れたような顔で、食パンをオーブンに入れた。全員、なぜか無言でいた。やがてオーブンから、チーンと音が鳴った。
 俺と小百合とチョコさんとチョコさんの弁護士は、満里奈が焼き上がったトーストにバターをこれでもかと塗り重ね、そしてこれ以上ないほど嬉しそうに一口目を頬張るのを、黙って見届けた。
 サクサクサクという音。なんと幸せな音だろう。
「……うまそうだな」
 弁護士がついうっかりというようにつぶやいた。チョコさんが恨めしそうににらみつける。満里奈は全く意に介することなく、大好物を味わっている。

「ダメだね、あれは」
 トレーニング室のクリスマスツリーの飾りつけを外しながら、小百合が言った。「何回電話しても、再入会はしないっていう一点張り」
 俺は思わずため息をついた。「じゃあ何のために、俺らは土日出勤してまで人んちでサンドイッチなんて食ったんですか。旨かったけど。余り物もたくさんもらって食費浮いて助かりましたけど」
「あたしの作戦ではさ。いい条件で離婚させて、高額慰謝料の使い道として再入会するように仕向けるつもりだったの。それなのに結局、二千万に併せてあのマンションまでもらえることになったのに、全額パン屋の開店資金にするって……」
 あの日の後も交渉は続き、満里奈は一兆円から三千万円への大幅値下げをしたものの、あとは一歩も譲らず、ついにチョコさん側が折れた形になった。マンションはチョコさん自ら譲ると申し出てきたらしい。
「結局、決め手になったのは、チョコさんの『子供五人産めた』発言だったわけですか?」俺は聞いた。
「そうみたいねー。あの旦那、十年間で子作り完遂できたの、たったの三回らしいわよ。いっつも途中でダメになっちゃうんだって。それなのにあんな発言したもんだから、さすがに満里奈もブチ切れて、気づいたら『一兆円』って言ってたらしい」
「女子大生のお腹の子、本当にあの人の子かしら」と、あの日の最後、満里奈は少し意地悪な顔で言っていた。
「そういえば、あんた。最近スマホのパスワード、マメにかえてるでしょ」
「は? 急になんすか」
「そんなことしたって、あんたがどんなAVを毎晩見ているか調べるなんて、わたしには朝飯前よ」
「……マジでやめてくださいよ」
「それよりさ、ブー子って覚えてる? あのコールセンターにいた女」
 その名を聞いて、すぐに顔が思い浮かんだ。まん丸の大きな顔面。そのど真ん中に鎮座する、上を向いた鼻。巨大な二つの穴。豚の鼻。はじめて話をしたとき、彼女はおどけた口調で自らその名を名乗った。「みんなにブー子って呼ばれてるの。よかったら土肥君もそう呼んで」と。
「ブー子がこの間、見学会に来てた。でも入会せず帰っていったよ」
「え!」
「ちょっと、連絡してみてよ、あんた。ブー子、あんたのこと気に入ってたはずだから」
 ハアと俺はため息をつき、窓を振り返った。曇り空。年が暮れていく。来年もろくなことが起こりそうにない。
(第7回につづく)

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南 綾子Ayako Minami

愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第四回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞しデビュー。著書に『ベイビィ、ワンモアタイム』『婚活1000本ノック』『ぬるま湯女子会、38度(ときどきちょっと熱い)』『知られざるわたしの日記』など

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