双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ダイエットの神様(南 綾子)

イラスト:Maki Emura

第5回

 ノックもなく、ドアが開いた。もはや俺は驚きもしない。
 百回死んでもノックができない女・小百合は、ドシドシと音を立ててオフィスに入ってくると、白い紙袋をどさっと俺のデスクに置いた。
「これ、土産。あんころ餅」
「どこいってたんすか」
「金沢。社長の講演があったから同行してたの。死ぬほどカニ食ってきた」
 この頃この女は叔母をすっかり懐柔し、いまや個人秘書気取りで四六時中そばにいる。とにかくクソババア同士、クソみたいにウマがあうようだ。しかし、それも今のうちだと俺は思っている。クソババアとクソババアがいつまでも仲良くいられるわけはないのだ。どうせそのうち、クソみたいにくだらない理由で仲間割れする。
「ねえ、気づけばもう十一月も終わりだよ。今月、一人も勧誘できてないよ、うちら」
 俺はため息をついた。「それどころじゃないっすよ。俺が最近、社長の自叙伝の原稿書かされてるの知ってるでしょ。来年、本を二冊出すって言ってるんですよ、あの人。それ、俺が全部書くんですから」
 そうなのだ。叔母はどこからか俺が学生時代に同人誌制作にハマッていたことを聞きつけ、一方的にゴーストライター業を押しつけてきた。もちろん事務仕事もこれまで通り行わなければならず、不覚にもほぼ毎晩残業している有様だった。小百合は小百合で叔母の秘書兼マネージャー業務が忙しく、こうして顔を合わせるのも随分と久しぶりだった。
「とにかくさ、今月は最低でも一人ぐらい再入会させないとまずいよ。そもそも社長は、あんたが月に二十人は勧誘してくれると思ってたらしいよ」
「そんな無茶な」
「とにかく、あたしはこれから社長とランチだから。よろしく頼むわ」
 小百合が去ったあと、俺は久しぶりに退会者名簿を取り出した。まあ、たまには電話営業でもしてみるか、と思う。この間、ついうっかり大学時代の同級生からの徹マンの誘いにのってしまい、案の定大負けして、財布の中が随分さみしくなっている。小遣いがほしい。よし、名簿を適当に開いて、出てきた人に電話してみるか。目を閉じ、「二十代の清楚な美人にあたりますように」と心の中で神様にお願いしてから、俺は名簿のちょうど真ん中あたりに指を入れた。

 名簿を開いて出てきたのは、ギリギリセーフの二十九歳、黒髪ロングヘアで、清楚というよりは地味な雰囲気の女性だった。ブスではないが、美人というほどではない。クラスの最底辺グループの中で一番マシな女子、といったところか。入会は一年半前。身長百五十五センチ、体重七十五キロ。記録によれば、十週間で十八キロも落としているが、その後まもなく退会している。退会の一週間前に撮った写真を見ると、確かにスリムになってはいるが、胸と尻は貧相なのに腹回りがブヨブヨとしたあまり美しくない体型はそのままで、そそる要素が皆無。しかし、俺はなんとなく、この人に好感を持った。地味だが、優しそうだし、家庭的に見える。もしかすると、男と付き合ったこともほとんどないかもしれない。いや、そうだ。向こうが付き合いたいと言ってきたら、付き合ってもいい。俺みたいな男には、このぐらいがちょうどいいのだろう。
 こんなふうに思ってしまうのは、向日葵のせいだとわかっている。一昨日、勇気を出して久しぶりにLINEをしてみた。既読にもならない。
 この人なら、LINEの返事は遅くとも三時間以内にくれそうだし、ユーチューバーと付き合ったりしないはずだ。
 そんなことを考えながら、俺は今、最底辺グループ内でのみ一位の女・浅川満里奈を待って、川崎市のファミレスにいる。時刻は午前十時半。
 この時間、この場所でないとどうしても無理なのだと彼女が言った。この近くのオフィスビルで、朝の清掃バイトをしているらしい。
「すみません、真知子式ダイエットスクールの土肥さんですか」
 待ち合わせの時間から十分ほど過ぎた頃、彼女は現れた。その瞬間、頭の中でガーンと音が鳴り響いた。思っていた姿と全く違う。地味というより薄汚い感じ。顔は全体的に黒っぽくくすみ、目の周りに巨大なシミがいくつもあって、しかも頭頂部のあたりは若干ハゲかけていないか? おまけに、大分リバウンドしているじゃないか。
「あの……何か食べてもいいですか」満里奈はどこか遠くを見ているような、うすぼんやりした表情でそう言った。
「ええ、あ、あ、どうぞ」
「……ここの会計、そちらでもってもらえるんですよね?」
「え……はい」
 彼女はうつろな顔のまま、呼び出しベルを押した。店員がやってくると、立て続けに料理を六、七品注文した。いや、十品はいってたかも。はやすぎて、俺の脳の処理が追い付かなかった。
 少しして、生ビールが運ばれてきた。彼女はむんずとグラスの持ち手を握ると、ぐびぐびと喉を鳴らしてうまそうに飲んだ。それから俺の顔をまっすぐに見て、「リバウンドしたな、って思ってますよね」と言った。
「いや……」
「五キロは確実に太りましたからね」なぜかその口調は、ちょっと自慢げだった。「原因、なんだと思います?」
「さ……さあ」
「旦那ですよ。うちの旦那、浮気してるんです。そのストレスで、やけ食いがとまらないんです」
 そう言ったきり、彼女は黙った。やがて、フライドポテトやらハンバーグやらピザやらオムライスやらが次々にテーブルに運ばれてきて、彼女はそれらをビールとともにものすごい勢いで処理していった。まるで何かにとりつかれているかのような、異様な食欲だ。
 そして一時間近く散々飲み食いしたあと、満里奈は突然、入会届がほしいと言った。一枚渡すと、四つに折ってバッグにしまった。
「え、あの……再入会するってことですか」
「ええ、リバウンドしちゃったし、戻したいから」その口元に、ケチャップがベットリとついていた。「じゃあ、帰ります。入会届は、後日郵送でもいいですか?」
「は、はあ……あ、もうすぐクリスマスのキャンペーンがはじまるので、それに合わせていただくと、入会金が三十パーセントオフになります」
 満里奈は小さくコクリと頷き、去っていった。ケチャップをつけたままで。
 気づけば、店内はランチタイム真っ最中で随分と混みあっていた。テーブルにはまだ空になった皿が隙間なく並んでいる。
 レシートを見ると、会計は一万五千円を超えていた。ファミレスで一万五千円飲み食いする女。絶対結婚したくねえ。

 満里奈から入会届はすぐ届いた。その翌日には、入会金と二カ月分の会費が振り込まれた。ここまでくれば、俺の役目はもう終わり。叔母から五万の小遣いをもらうだけ。
 やがて十二月になり、クリスマスのキャンペーンがはじまった。新規の入会希望者が倍増し、その事務処理などに追われているうちに、俺は満里奈のことも、再入会勧誘業務のこともすっかり忘れてしまっていた。
 十二月の半ばのある日、俺はいつものように、自分のデスクで叔母の自叙伝の原稿を書いていた。この頃、小百合は妙に出社がはやくなり、その日も朝からオフィスに顔を出し、叔母が最近趣味で集めているというマトリョーシカを、なぜか俺の目の前でずっと布巾で磨いていた。
「そろそろ昼休憩の時間じゃない? ケンタッキーでも買って来いよ童貞」などと小百合がたわごとを抜かしたときだった。ドアの向こうから、誰かが怒鳴るような声がした。次の瞬間、バーンと音を立ててドアが開き、屈強な体をピチピチのスーツに包んだ色黒の男が姿を現した。
「やだ! 何? どこのAV男優?」と小百合が叫んだ。男はそれを完全無視して、俺のほうにズカズカ歩いてくると、くしゃくしゃに丸められたうちの入会届らしきものをデスクにバンッとたたきつけた。
「うちの妻を強引に勧誘したのは、あなたですか!?」
 男は言った。野太い声だった。髙田延彦かと思った。俺はもちろん、恐ろしくて何も言えなかった。ただ、男の背後に満里奈がいることには気づいていた。何かに耐えるように、うつむいて歯を食いしばっている。
「あなたが土肥さんですか? あなた、男三人がかりでうちの妻を囲んで脅したそうじゃないですか!? 再入会しなければ、前回中途退会した分の違約金三百万を請求するなんて言って。これは犯罪ですよ! わかってるんですか!?」
「え!? いや、そんなことは……」
「なあ、お前、そうだよな?」と男は俺の顔をじっと睨みつけたまま、背後の妻に聞いた。満里奈は聞こえるか聞こえないかの声で「はい」と答えた。
「おまけにファミレスでビールや飯を無理やり飲み食いさせられて、サインしないならメシ代払えって脅されたとか……なあ、そうだよな?」
「……はい」
「いや、俺はそんなこと、言ってな……」
「おい! 俺の妻が嘘ついてるっていうのか!」
 ものすごい剣幕で男は怒鳴った。続けて「出てこいや!」と言うのかなと思ったが言わなかった。当たり前だ。とにかく俺は小便ちびりそうだった。
「だまして支払わせた金は返してもらえるんだろうな! おい!」
「え……はあ」
「来週までにこの口座に全額返金しろ!」男は口座番号らしきものが書かれたメモ用紙をこちらに投げつけた。「来週までに入金されなかったら、迷惑料も請求するからな! それから、もう二度と、うちの妻にはかかわるな!」
 男はくるっと背を向けると、現れたときと同じようなズカズカぶりで去っていった。満里奈は気まずそうに顔を伏せ、そそくさと夫の後をついて出ていった。
「……ねえ、あのさ、今の男さ、絶対AV男優だよね?」小百合はそんなたわ言を抜かしながら、男の置いていった入会届を広げている。「あたしがいつも見てる女性向けのアダルト動画によく出てくる気がするんだけどさ」
「やめてくださいよ……」
 俺は脱力して椅子に座った。同時に、股間のあたりにほのかな湿り気を感じた。やはり少し漏らしてしまったようだ……。
「何よ、なっさけない男。あんな筋肉ダルマにちょっと強気に出られたぐらいでビビっちゃって。あんなもん、たいしたことないわよ。ああいう見た目だけのマッチョ男に限って、コンプレックスまみれの卑屈野郎だったりするんだから」
「そうなんですか?」
「そうよ。まあ、同じコンプレックスまみれの卑屈野郎でも、おしゃれもせず体も鍛えず、童貞丸出しの見た目のまま堂々としてるあんたのほうが幾分マシよね、確かに」
「……」
「あ、この人たち、うちの割と近所に住んでるんだね」
「え? 彼ら、みなとみらいでしょ? あなたの住んでいるところは西川口では?」
「あたし、みなとみらいの近くのマンションに引っ越したの。ここに通いやすくするために」
「……そんな金、ないでしょ。どうしたんですか」
「社長が貸してくれた。無利子で。部屋も社長の知り合いがいいところ安く仲介してくれたの」
 この世は間違ってる……何もかも……何もかもが……。 
「このあたりの高級スーパーってさ、いかにもな感じの子連れ主婦たちが、ベビーカー押しながら隊列作って歩いてるんだよね。見かけるたびに全員死ねばいいのにって思ってるんだけど」
「あっちはお前こそ生きているだけで迷惑だと思ってますよ」
 小百合が真顔でじっとこちらを見る。俺は十秒耐えたが十一秒目で観念して「すみません」と謝罪した。
「そんなことはどうでもいいから」小百合は言った。「はやくケンタッキー買って来いよ童貞野郎」
 
 結局、満里奈から振り込まれた入会金と二カ月分の会費は、翌日すみやかに返金された。そして、ことの顛末を知った叔母から、俺はこってり絞られた挙句、罰として年内に五人以上再入会させられなかったら、時給を百円下げられることになった。絶望しかない世界で、俺はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。
 仕方なく、その週の土曜。朝から出社し、電話勧誘にいそしんだ。週末のほうが電話もつながりやすく捗るんじゃないかと思ったが、全くそんなことはなかった。面談のアポすら一つもとれない。
 午後二時。窓から空を見上げると、雲一つない晴天だ。横浜駅前はクリスマスムード一色で、カップルやファミリーがほくほく顔で街を練り歩いていた。……向日葵。ああ向日葵。向日葵は今頃、何をしているのかな。しばらく会っていないのに、不思議と顔が鮮明に思い出せる。いや、脳内に浮かんでいるこの顔は、向日葵なのか、それとも毎晩見ている向日葵似のAV女優なのか……わからない。もはや。
 向日葵は今頃、彼氏とデートかな。彼氏っていってもどの彼氏かな。ユーチューバーの彼氏とはまだ続いているのかな。それとも、別の新しい彼氏ができたかな。その彼氏はチンコとかでかいのかな。クリスマスイブはやっぱりセックスするのかな。するとしたら何回ぐらいするのかな。最低でも三回かな。ゴムなしで中出しとか……するのかなあ。
 泣けるなあ。
 もう帰ろう。
 そのとき、LINEの着信音がした。小百合からだった。

 ちょっと! すごいもの目撃中!

 というメッセージと、つづけて写真が一枚送られてきた。どこかのスーパーの出入り口を撮影した写真だった。土曜日の午後だからだろう、多くの客でにぎわっている。

 ねえ! ちょっと! 写真よく見て! 左端の、電柱のあたり。

 クッソどうでもいい気持ちだったが、仕方なく写真を見返した。電柱のそばに、見覚えのある女が佇んでいることに気付いた。写真を拡大してみる。これは……満里奈じゃないか? そうだ。かなり遠目から撮影しているのではっきりとはわからないが、満里奈だ。路上で立ったまま、何か食べているように見えるぞ。というか、何か食べながら泣いているようにも見える。
 俺は「この人、うちに怒鳴り込みにきた人ですよね? 何か食べてます? ていうか、食べながら泣いてます?」とメッセージを返した。返事はすぐにきた。

 バター! バターだよ! バターを塊のまま丸かじりしてる! しながら泣いてる! 号泣だよ! やばいよ! 変質者だよ! ちょっと、声かけてくるから。

 いや、声かけてくるからって……やめとけよ、と思ったが、クッッッッソどうでもいいことにかわりないので放っておくことにした。 
 帰ろう。帰って酒飲んでメシ食ってシコって夕方にはもう寝よう。しかし後片付けをはじめてすぐ、小百合から電話がかかってきた。
「ちょっと!」と出るなりいきなり爆音で怒鳴られた。「今ね! あの女とっ捕まえたから! 今からそっち連れて帰るから! オフィスいるんでしょ? 待ってなさいよ! もしいなかったら、あんたが毎晩向日葵そっくりのAV女優の動画見ながらシコってること、あの子に言いつけてやるから!」
 俺は絶望のあまり、スマホを滑り落とした。
 なぜ、知っているのか。
(第6回につづく)

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南 綾子Ayako Minami

愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第四回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞しデビュー。著書に『ベイビィ、ワンモアタイム』『婚活1000本ノック』『ぬるま湯女子会、38度(ときどきちょっと熱い)』『知られざるわたしの日記』など

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