双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ダイエットの神様(南 綾子)

イラスト:Maki Emura

第2回

 その日の夜、俺は一人で前の会社の近くにいた。
 向日葵が電話で、帰り道に何者かにつけ回されているので助けてほしいと言ったからだ。
 いつもは仲のいい男性社員を頼っているそうだが、その日はその男に用事があって、一緒に帰ってもらえなくなってしまったらしい。
 俺は念のため、向日葵の仕事が終わる午後八時より三時間早い午後五時には現地に到着し、それからずっとただ立って待っていた。
 しかし、八時三十分を過ぎても、彼女は現れなかった。
 残業しているのかもしれなかった。コールセンターの仕事で残業はあまりないことだが。九時になっても音沙汰なく、社内にいたら出られないとわかっていたが、電話してみた。   
 彼女はすぐに出た。
「あ、ごめん。今日会社休んだ」
 俺に電話した直後、気が変わって欠勤することにしたそうだ。
 九月終わりの夜。まるで真冬のように風が冷たかった。俺はその場から動けず、立ち止まったままでいた。これでいいんだ、と自分に言い聞かせた。今回がきっかけで、彼女とLINE交換ができた。何より、さっき電話で「今度、何かお詫びするね」と言ってくれた。今度ご飯おごるね、という意味だ。そのほかには解釈しようがない。近々、彼女と二人で食事にいけるのだ。そうだ、今すぐLINEしよう。俺はLINEのトーク画面を開き、十分ほど熟考した後、「今日のことは気にしなくていいから、ゆっくり体を休めてね。本当に、今日のことは気にしないで。お詫びとかいいから。普通にご飯でもいこうよ」と打ち込んだ。うわ、と思った。完璧じゃないか、この文章。器がデカい男なのが丸わかり。彼女、これ読んだら感動して泣くかもしれない。マジで、いやマジで。
「うわ、なにその文章。クソキモイ」
 驚いて思わず飛びあがった。小百合が背後から覗き込んでいた。
「な、何してるんですか?」
「あんたこそ、何? なんでここにいるの? やっぱりあたしのストーカーなの?」
 しまった。ここは向日葵の職場であるとともに、この女の職場でもあったのだ。向日葵のことで必死すぎて、すっかり油断していた。
「いや……ちが……それより、痩せましたね」
 ダブついていた顔のラインが、見違えるようにすっきりしていた。もともと頬骨の張った顔つきのおかげか皮膚のたるみもなく、引き締まって四、五歳は若返って見える。まあ、五歳若返ったところでまだ四十歳なのだが。だらしなく突き出た腹回りは相変わらずだった。
「当たり前でしょ。あたしがどれだけ努力してるかわかってるの? もうじゃがいもばっかり食べてるから、頭がおかしくなりそうよ。それなのにあんたは電話もろくに出ないで、一体なんなの? 何のために存在してるの? 死ねば?」
 今日はいろいろありすぎて、この女の身勝手な言動に構っている精神的余裕はもうなかった。俺は何も答えず、背を向けて歩き出した。しかし次の瞬間、ゴリラかと思うほどの力でTシャツの襟元を後ろからつかまれた。首が締まり、俺はグエーッと謎の怪鳥のごとくうめいた。
「待ちなさい。ちょうどいいから付き合ってよ。これからデートなの。彼、明日が誕生日でね、彼のほうからお祝いしてほしいっていってきたの」
 小百合はニヤニヤしながら、手に持った黒い紙袋をこちらに差し出す。中から、リボンが結ばれた四角い箱を取り出した。
「これ、彼へのプレゼント。ディオールの財布なんだけど」
「金ないんだから、そんな見栄はらなくても。ハンカチとかでよかったんじゃないですか」
「だって彼、あたしのこと金持ちだと思ってるもん。こんなところでケチれないよ」
 思い出した。この女、小学生かと思うような創作丸出しの自慢話をよくしていたのだ。海外旅行に百回いったことあるだの、五百万の腕時計が家に二個あるだの。そんなレベルの話をハットリ君にもしているとして、もし彼が信じているとしたら……彼はアホなのか?
「彼が喜ぶデザインかどうか、見てくれない?」
 そう言うと、やおら包みを剝がしはじめた。
「ちょっと! なんで、なんでそんなことするんですか。せっかくきれいに包装してあるのに」
「彼がよろこんでくれるデザインかどうか、確認してほしいのよ。大丈夫。きれいに剥がせばわかんないって」
「いやいや、コレ、絶対失敗してぐちゃぐちゃになる流れじゃないっすか。やめといたほうがいいっすよ。後悔しますよ」
「いいじゃん、お願い。不安なのよ、見てよ」
 小百合はなぜか半泣き状態になっている。俺はなんとか彼女をなだめ、プレゼントを紙袋にしまわせた。小百合はただでさえ醜い厚化粧の顔をさらに醜くゆがませながら、「あ! もうこんな時間! 彼、先に店に向かってるの。遅れちゃまずいから、タクシーでいったほうがいいかな? いいよね?」と俺にすがるように言った。
「そんな金あるんすか」
「このプレゼント買うためにサラ金で借りた金がまだ余ってるし、平気。ね、あんたさ、ついてきてよ。近くの席で見守ってて。それで、あたしが変なこと言ったりしたら合図して」
「え! いや、俺、そんな……」
「お願いよ」
 俺の腕をつかむその力といったらなかった。この女は本当にゴリラ……いやプレデターかもしれないと二秒ぐらい思った。
「こんなチャンス、もう二度とないの。今まで必死になって男を追いかけてきたけど、ただの一度も実らなかった。それが今、あたしを誘ってくれる人が現れたの。このあたしをよ? これがどんなに奇跡的なことかわかる? わかるでしょ? 失敗したくないの。なんとかものにしたいの。あたしにはもう後がないの。お願い、助けてよ」
 俺は驚いていた。自分に、自分の心に。今、ほんの数秒だが、彼女をかわいいと思った。女性として魅力的だとは思わない、断じて。でもこういう生き方しかできない、その不器用さがいじらしく、俺は彼女をどうにかして助けたいと今、心から思った。それでつい、言ってしまった。「俺がタクシー代出しますよ」と。
「本当? ありがとう、感謝する」
 俺たちは通りに出た。タクシーはすぐ見つかった。 
 乗り込むとき、小百合はこちらを見もせずに言った。
「そういえば、さっき打ってたLINE、あれ、相手は田川向日葵でしょ? あんたさ、あんなクソキモい文章、よく考えつくよね。わざとやろうとしてもあそこまでキモくできないよ。逆に尊敬するわ」
 さっきまでの同情を撤回できるなら、神様、俺の楽天ポイントに合わせてTポイントもすべて差し上げます、そう俺は強く思った。
 
 小百合がタクシーの車内で「おしゃれなフレンチを予約した」というので、どんな高級店かとドキドキしていたが、どこにでもある庶民的な洋食屋だった。入口に芸能人のサインが十枚ぐらい貼ってあった。ランチはオムライスが八百円らしい。
 小百合が先に入った。そのあとすぐに俺も入り、小百合が座った奥のテーブル席近くのカウンターが空いていたので、そこに通してもらった。店内は狭く、三つあるテーブル席はすべて埋まっていた。
 ハットリ君は、それから十分ぐらい後、ちょうど俺が注文した和風ハンバーグが運ばれてきた頃にやってきた。
 彼女たちに背を向けた状態のため、チラッと横目で見ることしかできなかったが、思っていたより地味で冴えない感じの青年だった。なんというか、全体的に覇気がなく、何を考えているのか読むのが難しい顔をしている。
注文した生ビールが運ばれてくると二人で声をそろえて乾杯した。
「お誕生日おめでとう、リョウ君。今日、コース料理頼んであるからね」
「あ、嬉しい。名前で呼んでくれて。俺も小百合さんって呼んでいいっすか」
「えー、やだ照れるー……うん、いいよ」
「小百合さん、今日も素敵で高そうな服ですね。いくらぐらいの服なんですか」
「どうだろう。ヴィンテージだし、忘れちゃったな」
 ただの古着だろうに。このバカバカしい会話は一体なんなんだ。ハンバーグは旨かったが、これじゃ味も台無しだ。
 やがて、コース料理の最初のサラダが運ばれてきた。小百合が「おいしそー」とはしゃぎながら手をたたく。ハットリ君が「かわいい、小百合さん」とまたクサいお世辞を言う。まるでホストと太い客じゃないか。二人はそんなふうにして、どことなく芝居じみたイチャつきぶりを披露し続けた。
 メインのステーキを食べ終わったあと、醜悪としかいいようのないサプライズ・バースデーソングタイムを経て、二人は今、ケーキとコーヒーを楽しんでいる。家に帰りたい、俺はもう、そのことしか考えられなかった。
「プレゼント、本当にありがとう」ハットリ君が低く、ささやくように言う。「こんな高価なものをもらったのはじめてだよ。すごくうれしい。小百合さんに出会ってから、いいことばかり。小百合さんは俺の女神だよ」
「そんな、大げさだよ」目を向けなくても、今、彼女がどんな顔をしているか想像できた。「気に入ってもらえるか、不安だったんだけど、どうかな」
「気に入ってるよ、もちろん。ただ……」
「ただ……何?」
「俺、本当に金ないからさ。こんないい財布もらっても何も入れられない。……今月の家賃も払えそうにないんすよ」
「だったら、あたしと一緒に暮らす? 会社近いし、楽だよ」
 アッハッハーとハットリ君は乾いた笑い声をあげた。「それもいいっすねー。小百合さんと暮らせたら楽しいだろうなあ。でも俺、実家なんすよ」
「そ、そっか、ハハハ」
 家賃を払えないんじゃないのかよ。全く、この男は最悪じゃないか。
「でも、例えばこんなふうに、週に一回ぐらい食事とかできたら、お互いにウィンウィンのいい関係が築けるんじゃないかと思うんです」
「ウィンウィンって……」
「だから、俺と週に一回デートする契約っていうんですかね。そういうの結びませんか? パパ活って流行ってるじゃないですか。あれの男女逆バージョン。俺の役者仲間が五十代の女性とやってるんですよ。一回会うごとに、食事代とは別にお小遣い五万もらってるらしいです。とりあえず三万でどうっすか? 俺、一緒にいる間は、精一杯楽しませるんで。あ、オプションサービスは、要相談ってことで」
「オプションって例えばどんなサービス?」
「そうっすね、昼からのデートだったら追加で一万とか」
「なんかいろいろ高くない?」
「いやいや、小百合さん、金持ちじゃないっすか。そのぐらい余裕ですよね? 年に一回、ハワイのコンドミニアム泊まってるけど、いい加減一人はさみしくなってきたって言ってたじゃないですか。旅費出してくれるなら、俺、一緒にいってもいいですよ。あ、身体的接触はナシの方向で」
 小百合は黙り込んだ。ハワイのコンドミニアムの話は俺も聞いたことがあった。もちろん、全く信じていなかったが、この男は鵜呑みにしているようだ。やっぱりアホなのか? それともバカなのか?
 そのとき、店に新しい客が入ってきた。若い男女四人組だ。その中のボールペンで一筆書きしたみたいな眉毛の男が、店中に響く声で「あ!」と声をあげた。「リョウじゃん、何してるの」
 四人ははしゃぎながら二人のテーブルまでやってくる。俺はすかさず女二人の顔をチェックした。アリかナシかでいったら、ナシ。
「ちょ、お前、今日は新しい女とメシって言ったけど……」ボールペン眉毛が言った。「おま、相手……え? え? ちょ、何事?」
「いやいやいやー」ハットリ君はごまかすように大きな声を出した。「まあ、いいじゃん、話は今度……」
「いやいやじゃなくてさ、紹介しろよ。彼女さん? お前、いつの間に年上好きになったの?」
「えっと、あれだよ、バイトの……」
「もう役者で食っていけるから、バイトやめたんじゃねえの」
「だから前のバイトの……」
「あのラブホの受付の?」
「そう、そのラブホの……えっと、清掃のおばさん。だからほら、デートじゃねえよ」
「ふざけるな!」
 小百合が突然怒鳴り、ハットリ君が「ウッ」とうめいた。一瞬、何が起こったのかわからなかった。小百合はもう一度「おい、ふざけるなよ!」と怒鳴った。同時にその出っ張った腹でテーブルを押し、ハットリさんを壁とテーブルで挟み撃ちにしていた。
「どういうことだよ! 説明しろよ!」
 小百合は立ち上がり、相撲取りのように中腰で腕を組んでいる。腹の一番出っ張った部分がちょうどテーブルの天板のラインにあり、いつでもテーブルを押し出して相手を攻撃できる体勢をとっていた。
「なんすか、なんすか……う、動けないっ!」
「だから、デートじゃないってどういうことだよ」
「え、え、なんすか? なんなんすか?」
「ラブホの清掃のおばさんだからデートじゃないってどういうことだよ。ラブホの清掃のおばさんはデートの相手として成立しないってことかよ」
 え? 怒るところそこ? と俺は戸惑った。もちろんハットリ君も「え? え?」と困惑しきりだ。
「あんた、あたしみたいなデブのおばさんには何をしたっていいと思ってるんでしょ。え? 答えろよ、おい」
 小百合はじりじりとまたテーブルを押していく。挟まれたハットリ君はなんとか手で押し返そうとしているが、おそらく相手の力がゴリラ並なので全く歯が立っていない。
「友達の前ですら堂々とできずに、何が一回のデートで三万だよ!」
 皮下脂肪をたくわえたあの腹が、こんな形で役に立つときがくるなんて、腹自身も驚いていることだろう。とにかく、なんとも恐ろしい光景だ。ボールペン眉毛たちも恐れおののくばかりで、何もできず見ているだけだった。
「そんなもんであたしの寂しさが癒えるかよ、おい! 四十女の孤独をなめるなよ!」 
「す、すみません」
「金をとるなら見栄も外聞も捨てろよ。こっちだってそれを捨てるからこそ金を出せるんだ。もう出すのやめたけど。あと、もう一回いっとくけど、ラブホの清掃のおばさんをなめるなよ。何歳になったって、何キロ太ったって、どんな仕事してたって、デートはしたいし恋はするんだ! おちょくるんじゃねえ!」
 小百合は最後に大きく叫ぶと、ふう、と腹の力を抜き、テーブルを元に戻した。ハットリ君がその場にヘナヘナとしゃがみこむ。小百合は自分のバッグから財布を出すと、札を何枚か抜き、数えはじめた。二度、三度と数える。そのうち「あれ? あれ?」などと言い出す。「ちゃんとコースの金額調べて、きっちり持ってきたんだけどなあ。えっと、千、二千……」
「あの、すみません、お会計」俺は店員を呼んだ。そしてクレジットカードを渡した。「ここと、あと後ろのテーブルも一緒に」
 会計の処理が終わるまで、ハットリ君も小百合も、微動だにせずにその場に無言でいた。なぜか例の四人までが直立不動で待っていた。俺はもう一度、二人の女の顔を確かめた。四十三点と三十八点、と思った。

 なぜかその後、小百合の部屋で飲むことになった。
 以前の俺だったら死んだって嫌と思っただろう。しかし今夜の俺は、まあそれもアリ、という気分でいた。
 小百合の家は、思っていたより広かったが、散らかっていた。玄関入ってすぐの台所の周辺に、じゃがいもがゴロゴロと大量に転がっていた。
「これで何か作ってよ。酒はあるから。つまみになるのはじゃがいもしかない」
「あー、じゃあ炒め物でも作りましょうか。オリーブオイルありますよね」
「ダメダメ。そんなもん、もう捨てるから。二度と使わない。笑わせんじゃないよ。あんたが考え付く限り、一番体に悪くて一番カロリー高くて、でもすごくおいしいじゃがいも料理作って」
 冷蔵庫の中をのぞいてみる。調味料の他には傷みかけの野菜の切れ端と、あとは大量の缶ビールがあるだけだった。冷凍庫をあけると、ミルク味のアイスクリームもいくつか入っていた。見たことのないパッケージで、どうやら北海道のメーカーらしい。
「あいつに告白して成功したら、ご褒美に食べようと思って実家から送ってもらったの。それ、おいしいよ」
「とにかく、まずはじゃがいもの皮をむきましょうか。あ、その前に少し台所を片付けましょう」
 流しに残っていた皿を洗い、生ごみなどを始末したあと、俺たちは並んでじゃがいもの皮をむきはじめた。小百合の手つきは鮮やかだった。まるで手品のようにスルスルむいた。途中から皮むきは彼女に任せ、俺はじゃがいもを今度はひたすら細切りにした。切ったものは小麦粉や片栗粉、調味料を入れたビニール袋に放り込んで、袋ごと振って粉をまぶす。じゃがいもに粉がいきわたったら、大量の油で一気に揚げ、最後に塩を振りかける。フライドポテトの出来上がり。
 あげたてを一本つまんだ小百合は、子供みたいに目を丸くした。
「すごい! コレ、アレじゃん! あの味!」
 俺はにやりとした。「アレでしょ? あの味でしょ?」
「うん! マックのポテトの味だよ、これは。もっとあげてよ。あたしこれ、バケツ一杯食べられる。いや、風呂桶一杯いけるね」
「待ってください」俺は大きな皿にフライドポテトを盛り、さらにその上に、さっき冷凍庫から出して少し溶かしておいたアイスクリームをのせた。 
「なにこれなにこれなにこれ!」小百合は興奮して鼻息をブーブー吹きだしている。「ちょっと待って。ポテトにアイスをディップすればいいわけね? ……やばい、鬼よりうまい」
 鬼はうまいのか。そもそも食べ物なのか。心の中で思うだけで、もちろんいちいち聞いたりはしなかった。
「じゃがいものほっくり感とさ、ほのかな塩気とさ、アイスクリームのミルク感が混ざって、なんかすっごい体に悪い味がするね。つまり超おいしいってことね。なんでこんなおいしい食べ方しってるの?」
「俺、親がやたら食事に厳しくて、体にいいものしか食べさせてもらえなかったんすよ。マクドナルドも食べたことがなくて、でも友達から、ポテトをバニラシェイクにつけて食べるとおいしいよって聞かされて、食べたくて食べたくて、いつも妄想してたんです。一人暮らししてはじめて作ったのがコレなんですよ」
 俺たちはその後もじゃがいもを揚げて揚げて揚げまくった。あげたそばから、アイスクリームにつけて次々に口に放り込む。二人、台所に並んで立ったまま、ほとんど無言で。ビールも飲まずに。揚げ油のバチバチという音だけが部屋に響いている。妙な夜だった。
 ふっと横を見ると、小百合が口の中いっぱいにポテトを突っ込んで、苦しそうに目を見開いていた。ものすごい顔だ。のどに詰まらせたようだ。俺は慌てて冷蔵庫から缶ビールを出し、プルトップをあけ、彼女に差し出した。小百合は涙目のままこちらに手を向けて、俺を制した。ゆっくりと咀嚼し、口の中のものを飲み込むと、ふーっと息を吐いた。
「あー、おいしかった。最高だね、これ」
「いや、死にかけてましたけど……」
「なんかさ、口の中に食べものを限界まで詰め込んでモグモグ咀嚼してると、あ~生きてる~って思えて気持ちいいの。やってごらんよ」
「いや、いいです」
「えー、気持ちいいのにー。カップ焼きそばとか、冷凍チャーハンとか、喉が詰まるギリギリまで詰め込むと超気持ちいいよ。つらいとき、よくやるの」
「つらいんですか」言ってしまってすぐ、愚問だと気づいた。
「つらいよ」と小百合はあっけらかんと言う。「毎日つらい。ずっとつらい。こんな人生で、つらくないわけなくない?」
 何も言えなかった。俺は黙ってポテトを大量に口に突っ込んでみた。すぐに苦しくなって胸がつかえた。さっき自分であけたビールで無理やり流し込む。全然気持ちよくなんかなかった。
「なんであたしって、あたしなんだろう。他の誰でもいいから、あたし以外の誰かになりたいって、今まで何回も思ったよ。でもさ、やっぱりあたしはあたしだし。太ったことも、今、一人で生きてることも、自分で選んだことだって、最近は思うようにしてる。誰かのせいにしたくない。どんなにつらくても、自分の足で立っていたいって、最近よく思うの。一人の夜に。ま、いつも一人なんだけど」
「なるほど……」
「でもさー」小百合は思い出したようにクスッと笑う。「今日はやばかった。週に一回デートして、寂しさをいやしてもらえるなら、三万出してもいいかもってマジで思ったから。そんな金ないんだけど。ギリギリで思いとどまれた。でもやばかったなー」
「あんときの福田さん、かかかか、かっこよかったっす。俺なんて……」俺なんて、向日葵にあんな扱いされても、まだ彼女と付き合えるなら付き合いたいと思ってます、という言葉を飲み込んだ。「……とにかく、なんか、平成の大横綱って感じでした」何を言っているんだ俺は。
「えー、あんたそれほめてんの? けなしてんの?」
「す、すみません」
「ていうか、あたしはかっこいいより、かわいいって言われたい。あーなんで人間には外見の違いがあるんだろう。猫とか犬みたいに、みんな同じような感じだったらよかったのに。そしたらあたしの人生、絶対違った」
 ふいに、洋食屋で会った女の子たちのことを思い出した。心の中で点数をつけたことを。口に出さなかった分マシとはいえ、いったい俺は何様のつもりだったんだ。もう二度と、ああいうことは思わないようにしよう。
「あんたってさ、料理上手だよね。田川向日葵に作ってたやつよりもっと豪華な弁当、毎日自分で作って食べてたでしょ」
「昔は本当に、ほとんど味のついていない煮物とかしか食べさせてもらえなかったんです。その反動で、一人暮らしはじめたら、味が濃くてガッツリしたものが好きになって。外食より自作したほうが旨いし、作ってるうちに上達しました」
「へえ」と小百合は不満げな顔になる。「それにしては細いね。食べても太らないってやつね」
「まあ、そうです」だから正直、ダイエットしたい女の気持ちはわからない、と心の中だけで続けた。
「あー明日から会社に行きにくいなー」小百合は冷凍庫から追加のアイスクリームを出しながら言う。「彼に会うのが恥ずかしいよ。ま、あたしの人生、こんなことの繰り返しなんだけどさ。でも、もう他の仕事につくことも厳しいし、どんなに恥をかいても、今の会社にしがみつくしかないんだよね」
「やりたいこととか、ないんですか?」 
「ないなあ……あ、あんたがやってる仕事、あたしにも手伝わせてよ。ダイエット教室に再入会させたら金もらえるってやつ。太ってる女の気持ちは、しょせん太ってる女にしか理解できないよ。うちから横浜まで遠いけど、電車一本でいけるし」
 このとき、俺はこの女の発言を、100パーセント冗談だと受け取っていた。本気だとは、つゆほども思っていなかった。
(第3回につづく)

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南 綾子Ayako Minami

愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第四回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞しデビュー。著書に『ベイビィ、ワンモアタイム』『婚活1000本ノック』『ぬるま湯女子会、38度(ときどきちょっと熱い)』『知られざるわたしの日記』など

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