双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ダイエットの神様(南 綾子)

イラスト:Maki Emura

第15回

 それは俺が大学二年の、秋のことだ。
 当時俺は、コスプレ兼麻雀同好会の仲間の山本という奴と一緒に、インカレのスポーツサークルにも入っていた。月に二、三回程度集まって、バスケやバレーボールなどに興じた後に飲み会を開くようなやつだ。いわゆるリア充的なものを目指したい奴らが集まっていたわけだが、もちろん俺たちのような者がなじめるわけもなく、山本は一カ月でやめた。が、俺は一年以上、ほぼ毎回律儀に通っていた。理由はもち&ろんで、彼女がほしかったからだ。
 しかしそんな俺も、二年の秋になってやっと、もうやめようと決意した。遅すぎる決断である。サークルの会長にその旨をメールしたら、「まだいたの?」と返事が返ってきた。
 それから数日して、わざわざ俺の学部まで会いにきてくれたのが、一学年下の森下美咲だった。
 俺がサークルに全くなじんでいなかったことを、いつも心配してくれていたらしかった。彼女自身もあのノリ重視の雰囲気に違和感を抱いていたが、高校からの付き合いの友達がいて、やめるにやめられないのだという。
 美咲は見た目も性格もおとなしめだが、実は酔うと簡単にやらせてくれるタイプだと、サークルの男たちが話しているのを聞いたことがあった。クラブで男とキスしているのを目撃した、と言っていた奴もいた。真偽のほどはわからない。
 その後、大学の食堂で、彼女の愚痴話を二時間近く聞いた。サークルのことや、勉強について。とくにこれといったアドバイスはできなかったけれど、別れ際、美咲はほっとしたような笑顔になって「先輩に会いに来てよかった」と言った。
 さらにこう、付け加えた。
「また、話を聞いてもらっていいですか?」
「暇なときなら、いいけど」
 精いっぱいかっこつけて、俺は答えた。
 その場でメールを交換した後、俺は麻雀同好会のたまり場となっていた橋本先輩のアパートへ向かった。
「それはお前、やれるやつだろ。クリスマスまでにやれるやつだろ」
 橋本先輩は常にセフレを三人は切らさないと広言する、俺にとっては神様みたいな人だった。まったくのでまかせで、セフレどころか彼女がいたことさえなかったと発覚したのは、卒業した後のことである。
「いいか。女とのデートは三回までが勝負だ。一回目のデートで手をつなぐ。二回目でキスをする。そこまでいけたら、三回目はホテルに誘ってセックスできるぞ」
 橋本先輩はそう言った。しけった座布団の上でランチパックのピーナッツをむしゃむしゃ食いながら。
「肝心なのはオドオドせず、このぐらい当たり前だろ? という態度で押し進めるってことだ。そうすれば女も考えることをやめて、やがて素直に体を開く」
 そして俺は橋本先輩に指示されるまま、映画のチケットが二枚余っているという手垢まみれの手段で美咲を誘った。彼女はOKしてくれた。 
 土曜日の昼、新宿駅で待ち合わせて、ホラー映画を見た。そのあとマクドナルドでまた二時間、彼女の愚痴を聞き、手をつなぐどころか肩先に触れることさえできずに、別れた。
 一週間後、俺はまた橋本先輩の指示のもと、映画を見ようとメールを送った。映画以外の手段が俺も先輩も思いつかなかった。すると彼女から「映画は無理だけど、ちょっと話をするだけなら」と返事がきた。
 彼女の学部があるキャンパス近くのマクドナルドで会い、前回とほぼ同じ内容の愚痴話を聞いた。二時間ほど経って、彼女は唐突に「バイトあるからもう帰る」と言った。もうだいぶ秋も深い頃で、気づくと日が暮れかけていた。今日のうちに、最低でも手をつながなければと俺は焦っていた。もしいけたら、キスも。でないと三回目にホテルに誘えない。
「ちょっとその辺、散歩してから帰らない?」マクドナルドを出てすぐ、チワワのように声を震わせながら俺は言った。
「……次のバイトの時間までなら」と彼女はどこかうつろな目をして答えた。
 俺たちは微妙な距離感を保ったまま、そこから十分ほど歩いたところにある公園へ向かった。着くころには真っ暗だった。チャンスだと思った。いける気しかしなかった。彼女は若干いつもより大人しい、というか暗い表情を浮かべていたが、何かを予感して身構えているだけだと思われた。こういうとき、女の子はちょっと嫌なふりをして体面を保つものだということを、俺は知っていた。
 街灯から一番遠くにあるベンチに、俺は座った。美咲は少し離れたところに立ったままでいた。「どうしたの?」と尋ねると、しばらく間をおいて「もういかなきゃ」と小さな声が返ってきた。
「どうして? バイトはじまるの、まだだよね?」
「ちょっとほかにやることがあって」
「あとどのくらいなら大丈夫なの?」
「五分ぐらい……」
「五分だけでもいいから、座ろうよ」 
 美咲はしばし迷った後、ベンチの端にちょこんと腰かけた。
 二人の間には、ダルマ二個分ぐらいの距離があった。俺は膝と膝が触れるぐらいのところまで移動し、なぜか名探偵コナンの話を少しした後、「ねえ、ちょっと、十秒だけ目を閉じてくれない?」と言った。
 我ながら、なんて自然なキスの誘い方だろうと思っていた。しかし返事はなかった。彼女はうつむいていた。強引にされた、という言い訳を求めている。そうとしか思えなかった。
「ねえ、お願い、五秒でいいから」
 すると、彼女はわずかに顔をあげた。そしてゆっくりと、観念したように目を閉じた。恐る恐る顔を近づけ、ついに俺は、人生初のキスをした。
 彼女の唇は、なんというか、思っていたより固かった。
 その日以降、メールを送っても返事をくれなくなった。
 クリスマスデートも初もうでデートも誘ってみたが無視された。春休みに入って、やっと返事が返ってきた。話をするだけなら会ってもいい、というような内容だった。
 前回と同じマクドナルドで会った。彼女はいつもと同じ話をしていたと思うが、俺はうわの空で正直ほとんど記憶がない。なぜなら、ホテルに誘うつもりだったからだ。三回目のデートなのだから当然だ。一時間ほどした頃だろうか、俺は体中の勇気を振り絞り、ずっと考えていたセリフを口にした。
「たまにはさ、カラオケとかいかない? いいところ知ってるんだ。そこ、ゲームやれるしお風呂もあるんだよ。だから汗かいたらシャワー浴びたりもできるし。便利でしょ? いかない?」
「……キモッ」
「え?」
「超キモい」
 お前は古舘伊知郎か何かか、というぐらい、はっきりと滑舌よくその言葉は発音された。
 彼女は去った。永久に、俺の前から。
 数日後、ある噂を耳にした。彼女がサークルの会長と肉体関係にあるというのだ。飲み会の途中、二人だけで去っていくのを複数人が目撃したらしい。
「で? あんた、何が言いたいわけ?」
 俺の話がよほど気に入らないらしく、和美はワインを飲みながら、渋谷のチーマーのように俺にメンチを切り続けていた。
「あの、だからね。あのときの俺にとっては、一世一代のアプローチだったんだよ。もちろん、やり方が大間違いだったのはわかってる。でも、面と向かって『キモい』なんて言われて、もう俺の中で何もかもが怖くなったというか。自分から積極的にいって、またキモがられたらどうしようって考えると、どうしても……」
 和美は小百合を見て、「聞いた?」と口の動きだけで言う。しかし、小百合はさっきから全くの無関心なのだった。明太子をつまみにワインをがぶ飲みしている。
「恵太、あんたって全く、自分のことしか考えてないの? その美咲って子に自分が何をしたか自覚してる? 嫌がっている相手に強引にキスしたんだよ? 痴漢よ、それ。逮捕案件よ」
「いや、そこまで……」
「そこまでのことをしたんだよ!」和美はバンッとテーブルをたたいた。「女なんて強引にやっちゃえばどうにかなるって思ってたんでしょ? しかも相手が遊んでる子だから、なおさらやりやすいだろうって。最低ね。さらにあんたが最低なのは、今に至っても、その美咲って子がサークルの会長にはあっさりセックスさせたことに納得いってないってこと。そうだろう!」
 俺は何も言えなかった。和美の目がどんどんつり上がっていく。
「会長やほかの男にもやらせたんだから、俺とだってしてくれてもよかったのにって、思い続けてるんでしょ? 心のどこかで」
「そんなことはみじんも思っていません」という自分の声が髭剃りぐらい振動していた。
「あのね、恵太。よく聞きなさい。いい? 女にだってセックスの相手を選ぶ権利があるの。会長とはしてみたかったけど、恵太とはしたくなかったって、ただそれだけのことなの。でもあんたみたいな男は、女には権利も意思もなくて、ただ男に押し倒されるのを待ってると思ってる。だからそういうキモい行動をとる羽目になるんだよ! クソ野郎!」
「いや、あの、さすがにクソ野郎はやめてよ、和美ちゃん」
「あんたはクソ! 決定! 大決定!」
 和美は俺を両手で指さし、「チャッチャラーン」とファンファーレの口マネをした。
「まあ、説教はこのぐらいにしておくとして。要するに、その件がきっかけで自分から女性に積極的にアプローチできなくなったと。だからいまだに童貞なんですと。そういうことにしたいわけね? 恵太としては」
「したいというか、事実そうだというか……」
「いやいや違うでしょ。その美咲って子とのエピソードを童貞の言い訳にしてるだけで、関係ないのよ。あんたは元からそういう男なの。勇気がなくて自分から向かっていけない。嫌われるのが怖い病。あわよくば相手からきてほしいなんて、都合のいいことまで考えてる。生まれつきの童貞なのよ」
「う、生まれつき……? あ、あの、言ってる意味がちょっと」
「ワイン飲んだら酔っぱらってきた」
「あのさ、向日葵とその美咲って子、同じタイプなんじゃない?」
 明太子を一腹丸ごと口に入れ、そこにワインをぐいっとあおりながら小百合が口をはさんできた。なんだその飲み方は。昭和の関取か。
「清楚で家庭的に見えて、男に対しては意外と大胆」 
「誰なの? 向日葵って」
「前の会社の同僚で、こいつがずっと一方的に片思いしてる女。脈なんてありゃしないのに。あんた、この間も『おいしいケーキ屋見つけたから、一緒にいかない?』ってキモいLINE送って、既読スルーぶちかまされてたでしょ」
 なぜ知っているのか、という問いはあまりに愚問である。
「ははーん、なるほど」と和美は腕を組んで訳知り顔になる。「その手の女が自分のことを好きになってくれたら、昔の屈辱がチャラになるような気がしてるのね。ははーん、なるほど」
 俺は森下美咲に対する仕返しをしようとしているのか? そう言われれば、そんな気もしてきた……って俺、単純すぎないか?
「まあ、大学時代の話はともかくさ、恵太が清算しなきゃいけない過去は、その向日葵って子のことかもね。いつまでもその子の幻想にとらわれているうちは、先に進めないんじゃない?」
「それって、彼女にまた連絡をとってみろってこと?」
「案外、そろそろ向こうからくるんじゃない?」心底どうでもよさそうに言って、和美は大あくびをかました。「過去ってある日突然、自分を追い越して、目の前に現れるものよ。フフフフ……」
 そのとき、どこかでブーンとバイブ音が聞こえた。三人それぞれ、自分のスマホを探しに席を立った。
 鳴っていたのは、俺のスマホだった。「あ、ブー子さんからだ」
「あたしのところにもきてる」小百合が言う。「何々……えっ!?」
 俺と小百合は顔を見合わせ、同時に和美を振り返った。
 小百合が言った。「和美ちゃん、もしかしてノストラダムス?」

 ブー子からのメッセージは、結婚パーティへの招待だった。彼女が少し前から見合いを繰り返している、という話は小百合から聞いていたが、急展開でうまくいったのだろうか。パーティの幹事は向日葵で、参加できる人は向日葵に連絡するように、とメッセージに書かれていた。いくべきかどうか迷う間もなく、小百合にスマホを奪われ、勝手に向日葵にLINEを送られてしまった。
 翌日、思えば約二年ぶりに、向日葵から返事が返ってきた。パーティの案内のみの明らかなコピペメッセージだったが、全く何とも思わなかったというと噓になる。大噓だ。犬のように喜んでしまった自分が情けなく憎い。
 パーティの日時は、十一月はじめの日曜日夜。会場は池袋にある創作料理屋。小百合にブー子へのお祝いはどうするのかと聞いたら、お前頭にボウフラでも湧いてんのか、とでも言いたげな顔で見られたので、何も用意しないことにした。
 当日、三十分ほど遅れて会場に着いた。わざとではない。俺は親父とは違う。どうしても片付けておきたい仕事があった。噓じゃない。本当だ。
 店はビルの地下一階にあった。階段脇の立て看板に「本日貸し切り」の札がかけられている。
 この向こうに、向日葵がいる。ドキドキしすぎて乳首取れそう。
 よし、いくぞ。口の中で小さくつぶやいて階段を降り、ドアを開けた。
 次の瞬間、上半身はブラジャーのみで腹丸出し状態のブー子が、左右に激しく腰を振りながら、バットマンのジョーカーみたいな顔でこちらに突進してきた。俺は、これは夢だ、そうでなければ間もなく俺は死ぬ、と思った。

「え? 結婚!? どこに結婚って書いてあるのよ。よくメッセージを読んでよ」
 俺はスマホを出し、ブー子とのトーク画面を開いた。
「……思いっきり、結婚パーティって書いてありますけど。冒頭に。これ以上ないほど、はっきりと」
 ブー子は横から身を乗り出し、画面をのぞきこむ。ブラジャーみたいな衣装から胸がこぼれ落ちそうで、思わず目をそらした。
「あ、本当だ! ハハハ! わかった。友達の結婚パーティのメールをコピペしてアレンジしたつもりだったんだけど、土肥ちゃんと小百合のだけ、やりかけの文章を送っちゃったんだ。ごめんごめん」
 今日、俺が呼ばれたのは、ブー子の結婚パーティではなく、ブー子と向日葵が通っているベリーダンス教室の発表会だった。さっきはパーティのオープニングを飾る、ブー子渾身のソロダンスだったのである。
 客は全部で三十人ほどだろうか。老若男女、さまざまな人がいる。向日葵目当てと思われる前の会社の男たちも、俺以外に何人かいた。今はダンスの合間の食事タイムで、みんな思い思いに、ビュッフェスタイルの創作料理を楽しんでいる。ベリーダンスに合わせて、中東風の料理もいくつかあった。俺もケバブや野菜料理を食べてみたが、なかなか旨かった。
「小百合、結局こなかったね」
 ブー子が言った。俺がボッチなのを気にして、さっきから隣にいてくれるのはありがたいのだが、胸元と丸出しの腹を隠してほしい。しかしダンスのおかげか、下っ腹は前と比べると随分へっこんでいて、努力のあとが見受けられた。
「まあ、前の会社の人たちに会いたくないか。いろいろあったしね」
「それより、なんでベリーダンスなんかはじめたんですか?」
「うーん。何か、男以外に熱中できるものを見つけようと思って」ブー子はさみしげな笑みを浮かべる。「相変わらずいろいろとうまくいかないことばかりでさー。男のことで毎日ウジウジしてるのも、もったいないなって思えて。ベリーダンスは前から興味あったの。向日葵からずっと誘われててさ。はじめてみたらすっかりハマっちゃった」
「あ、あの……彼女は今、どこに?」
「ねえ、それより、最近の小百合、すごく変わったと思わない? とくに土肥ちゃんと一緒に仕事するようになってから」
「……そうっすかね。俺には今も昔も、ただの恐ろしい人食い怪獣にしか見えないですけど」
「なーんていうのかな。前はさ、こう『あたしはあたし』って態度をとりつつも、それは強がって無理してそういうふうでいないと、辛すぎて生きていけない、みたいなところがあったと思うの。だからときどき他人を激しくねたんでは攻撃して、あの会社でもトラブルメーカーだったじゃない?」
 トラブルメーカーなんて可愛いものではなかった。トラブルトルネードだった。
「最近、本当に強がりじゃなく『あたしはあたし!』って思ってるんだなってわかるの。辛いことがあっても、環境や周りの人のせいにせず、自分を変えようって努めてる」
「はあ。あの人に辛いことってあるんですか」
「あるよ。みんな、目を向けないだけ」
「はあ」
「仕事が楽しいっていうのが大きいと思う。合ってたんだろうね、ダイエット教室って職場が。意外と、人の苦しみや痛みに敏感な質なのよ」
「それはちょっと、よく言い過ぎでは……」
 そのときだった。
 視界の端に、彼女の姿が映った。 
 彼女はすでに俺に気づいている。従業員用のドアのあたりから、小走りでこちらに向かってくる。白いワンピース姿。頭にも、白いリボンをつけている。
「土肥さん!」目の前までくると、向日葵は息を弾ませて俺の名を呼んだ。俺のために、俺のために走ってきたのか? そうなのか?
「久しぶり! 元気だった? ごめんね、ずっと連絡しなくって。実は母が重い病気にかかってしまって、その看病で忙しかったの」
 そう言うと、向日葵は俺たちのいるテーブルの向かいに座った。
「でも、今日は土肥君に会えるから、すごく楽しみだったんだよ。来てくれて、本当によかった」
 マジかよ。マジなのかよ。俺、明日死ぬのかよ。
「あ、あの、田川さんもこれから踊るの?」
「わたし? わたしは今日は踊らない。少し前に肩を脱臼しちゃったの。だから今日は裏方。ブー子さんは初心者なのにすごく上手なんだよ。もううちの教室のエース候補!」
「そ、そうなんだ」と言いながら横を見たら、いつの間にはブー子は席を立ってどこかにいなくなっていた。
「ねー、土肥君って、今は彼女いるの?」
「え?」
 なぜだ? なぜそんなことを聞くんだ? もしや。まさか。 
「い、いないよ」
「じゃあさ、前にLINEで、今度一緒に食事にいこうって誘ってくれたでしょ? あれ、まだいきてる?」
 いつの話をしているのだろう。既読&未読スルーされすぎて、もはやわからない。というか、この間のケーキ屋の件はやっぱりスルーなのか? おい?
「もし、まだ大丈夫なら、今度おいしいもの食べにいかない?」甘い声で言って、向日葵は小首を傾げる。「よかったら、二人で」
「でででも、そんなことしたら、かかかか彼氏に、怒られない、かな?」
 向日葵は目を伏せ、困ったように口元をすぼめる。「うーん、彼氏、彼氏ね」
「まだつきあってるの? あのユーチューバーの彼と」
「つきあってるって言ったら、食事にいってくれない?」
「えっ」
「って、うそだよー」向日葵は小さな手で口をおさえてキャハハハと笑った。「わたし、そんなあざといこと言う女じゃないよ。別れてるよ、もうとっくに」
「そ、そっか、へへへ」
「うん。ということは、わたしたち今、お互いにフリーだね」
 なんだか。
 なんだか、今、俺たち、ものすごく。
 いい感じじゃないか?
「いついこうか? 向日葵ちゃんは、何食べたい? もしよかったら、俺がうちで手料理を……なんつって。へへっ」
「ねえ恵太君って、あの有名な真知子式ダイエットスクールで働いてるって本当? さっき、ブー子さんから聞いたんだけど」
「え、まあ、うん」
「代表取締役副社長に就任したんでしょ? すごい! 大出世じゃん!」
 あのブタ女! なぜそんな意味不明な噓をつくんだよ!
「ねえ、やっぱり住むところとか車とか変わった? 車は何乗ってるの?」
「えっと、アウディ」
 噓ではない。うちの社用車にアウディが一台あり、俺はそれに二回乗ったことがある。
「すごい! ねえ、今度乗せてほしい。ドライブいきたい」
 向日葵は目をキラキラさせてデートプランを語りはじめた。向日葵の実家の前で待ち合わせ、ご両親に挨拶した後、鎌倉の海を見にいき、その後また向日葵の実家に戻って、俺が彼女の家族に手料理を振る舞うという内容だった。
「あ、向日葵、いたいたー」
 そのとき、明るい茶色の髪をアップにまとめ、ピンク色のギンガムチェックのワンピースを着たふくよかな女が、俺たちのテーブルにやってきた。チキン南蛮が山盛りになった大皿を抱えている。
「ちーちゃん、バイキングなんだからお皿ごと持ってきちゃだめだよ」
「店長さんが、わたしのために作ってくれたの。全部食べていいですよ、だって。ご飯持ってくる!」
 女はそう言うと、大皿を俺たちのテーブルに置いてまたトコトコとビュッフェコーナーへ向かった。
「今の誰かわかる?」向日葵が言う。「日村千絵だよ。わたしたちと同期の」
「え!」
 俺は振り返って彼女の姿を確かめた。女はニコニコと幸せそうな顔で、どんぶりに白飯を盛りつけている。しばらくして、片手にタルタルソースがたっぷり入った器、もう片方に白飯のどんぶりを持って戻ってきた。
「向日葵も食べるでしょ?」と取り皿にチキン南蛮を分けながら、パッと俺の顔を見る。「そちらの方も召し上がりますか……って、あ! 土肥君!」
 俺は彼女の顔を正面から見据えた。確か向日葵より一歳上だったから今、二十八か九ぐらいか。記憶の中の日村千絵とは、やはりまるで違う。太っているという点以外、何もかも。それでも、よくよく見ていると、どことなく面影があるような気もしてきた。
 俺の記憶の中にいる日村千絵は、全体的に灰色のイメージだ。いつもモノトーンの服を着て、真っ黒な髪で顔を覆い隠しながら、猫背で座っている。同期の中で最も影が薄く、とくに男の同期は彼女の存在すら認知していないやつも多かった。俺がなぜ彼女のことを記憶しているのかといえば、いつも昼休みの食堂で定食を三人前食べていたからだ。
 隅っこのテーブルに一人で座り、A定食、B定食、ヘルシー定食のすべてのおかずを並べ、大盛りご飯を片手に黙々と食っていた。俺も同じことをやってみたくてたまらなかった。心底うらやましかった。が、男の俺でも羞恥心が勝ってしまった。
 そうだ。あの頃、俺は食堂でほぼ毎日、彼女の姿を羨望のまなざしで見つめていた。
「やだ、向日葵と楽しそうに話してるから、新しい彼氏かと思った。土肥君、久しぶり!」
 日村千絵は鼻にしわを寄せて、くしゃくしゃの笑顔を作った。俺の戸惑いに気付いたのか、彼女はいたずらっぽく含み笑いをした。
「わたし、変わったでしょ。どこが変わった? 当ててみて」
「えっ、どこがって……。いろいろありすぎて、一つに絞り切れないんだけど」
「一つだけ、大きく変わったところがあります!」まん丸の顔の横で、ムチムチの人差し指を突き立てる。「正解者には豪華賞品プレゼント!」
「えーっと、髪の色?」
「ぶっぶー。正解は、瞼でーす。一重からぱっちり二重になりました!」
「……」
「ちょっと、ちゃんと見て! 前は貯金箱の小銭入れるところみたいだったのに、今は北川景子と全く同じでしょ」
 言われてみれば確かにそうだ。いや、北川景子と全く同じかはしらないが。メイクが派手になりすぎていて、違いがよくわからなかった。
「あの、整形したってこと?」
「うん!」と千絵は臆面もなく頷いた。「頑張ってお金貯めて、顔のコンプレックスを全部直したの。実は鼻もちょっと高くして、歯並びも変えたんだよ。でも、目がパッチリになったのが、自分の中では一番大きな変化なの。どんよりした目つきが、本当に本当にコンプレックスだったから」
「整形して、中身まで別人になったよね」向日葵が言った。「おしゃれもして、お化粧もして、自信に満ち溢れてるもん。わたしも整形しようかな」
「うん、したいなら、すればいいと思う! 個人の自由だよ」
 向日葵が一瞬、不満げな表情を浮かべたのを俺は見逃さなかった。「整形なんてする必要ないじゃん」的なことを、言ってほしかったのかもしれない。
 そしてもしかして俺が今、それを言えば、俺たちはもっといい感じになれるのかもしれない。
 しかし、俺はそれを言わなかった。
 なぜなら、目の前で、千絵がもう十分にタルタルソースがかかっているチキン南蛮の上に、さらに倍量のタルタルソースをぶっかけはじめたからだ。
 大きくカットされたチキンに甘酢とタルタルソースを絡め、口を大きく開けて頰張る。そこにすかさず白飯で追いかける。飯は炊き立てで湯気が立っていた。
「うーん、サイコー。うんま!」
 口の周りにタルタルソースをつけたまま、千絵はうっとりと目を閉じる。チキンを口に入れてかみしめる度に「う~ん」と小さく息をこぼすのが、なんだか妙にセ、セクシー。俺は、不思議と体の末端まで熱くなっていくのを感じた。なんて、なんて素晴らしい食べっぷりだろう。この姿、いつまでも見ていられる。
 いや、いつまでも見たい。毎日見たい。
「あいかわらず、よく食べるね」向日葵があきれたような半笑い顔で言った。「本当、すごいわ」
「だってすごくおいしんだもん。チキン南蛮を考えた人って天才じゃない? から揚げを甘酢につけてさらにタルタルソースぶっかけるって常人の発想じゃなくない? 歴史の教科書に名前載せるべきだと思う。ていうかはやく食べなよ。冷めちゃうよ」
 向日葵は取り分けられた三切れのチキン南蛮をじっと見下ろしている。やがて割り箸の先でタルタルソースをけずりとりはじめた。その後、少し迷った末に衣もはがしていった。
「あ、向日葵! なにしてるの!」
 そう言いながら、千絵は白飯にタルタルソースだけをのっけてむしゃむしゃかっ込んでいる。いいぞ、俺もそれ、好きだぞ。
「だってー、これ食べたら太りそう。そうだ、土肥君のところのダイエット教室入ろうかな。ちーちゃん、一緒にやらない?」
「ダイエット? あー無理無理。わたしね、体型はもう捨てたから。体型を捨てるために、顔を直したようなもんだもん」
「捨てるって、どういうこと?」俺は聞いた。
「あのね。前は自分の全身が大嫌いで大嫌いで仕方がなかったの。一重瞼で歯並びがちゃがちゃのブスでデブ。もちろんいじめられっ子だし、親からもデブデブ言われ続けて、もう世の中すべてを恨みながら生きてた。生きる貞子って感じ。まあ貞子は瘦せてるけど」
 ガハハハハと豪快に笑う。
「そんなふうだから、食べることだけが楽しみだったの。でも、高校生ぐらいからかな。まわりの可愛い女の子と自分を比べて、ますます卑屈な性格になっていっちゃって。ブスなうえにデブで、なんのために生まれてきたんだろうって。食べることに罪悪感っていうの? そういうのを感じるようになっていって。食べたいのに、食べたあとは苦しいの。でも食べたい。だったらせめて顔が普通になれば、少しは自分を好きになれて、食べることもまた楽しめるようになるかなって、そう思ったわけ」
 そう話している間にも、白飯とチキン南蛮はもりもり口に放り込まれていく。話を集中して聞きたいのに、その食べっぷりに意識を奪われそうになる。
「整形が終わったあと、鏡を見た瞬間から、何もかも変わった。あ、待って、土肥君の言いたいことはわかる。人生変わるほど可愛くなってなくね? 普通じゃね? って言いたいでしょ? 大丈夫、自覚してるから。ブスが普通になっただけ。でも、とにかくこの顔なら、おいしいものを心からおいしく食べられると思ったの。それがわたしの生きがいだから」
 ついに、チキンが最後の一切れになった。その一切れに甘酢とタルタルソースを親の仇のごとく絡めると、一口で頰張って、名残惜しそうにゆっくり咀嚼していく。
「でも、最近のちーちゃん、さすがに食べすぎだよ。もうすぐ百キロなんでしょ?」
 確かに、服装や化粧、表情の変化で気づかなかったが、体型も以前より一回り以上大きくなっている。
「それ、それよ。さすがに百キロはまずいよね。迫りくる死を感じるよね。この間の健康診断で医者にバチギレされたからね。明日死んでもおかしくないって」
「あ、あの、だったら」俺は口を挟んだ。「うちの教室で新しくはじめた食事指導、受けてみない? 少しずつ食事量を減らすプログラムで、無理なく……」
「やらない!」
「厳しくないし、あの……」
「ダイエットorダイ!」
「いや、それは意味不明だけど。あの、運動とかしなくてもいいし、食べ過ぎちゃう人が、少しでも制限できるようになるためのプログラムで、内容も個人個人に合わせられるし、よかったら一度、教室に見学だけでも……」
「だから、いかない! そんなところにいく時間あったら、ケンタッキーいく」
「……」
「何よ? これがわたしの生き方なの。誰にも文句……」
「じゃじゃじゃじゃあ、一緒にケンタッキー食べにいきませんか?」
「うーん、みんなで?」
「ふ、二人で!」
「えっ」
「あっ」
 そのとき、あたりが突然暗くなった。と同時に、何やら妙な音楽が鳴りはじた。そして店の奥にスポットライトが当たると、金色の衣装を着たブー子がどこからともなく現れ、世にも卑猥なダンスを踊りはじめた。
(第16回につづく)

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南 綾子Ayako Minami

愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第四回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞しデビュー。著書に『ベイビィ、ワンモアタイム』『婚活1000本ノック』『ぬるま湯女子会、38度(ときどきちょっと熱い)』『知られざるわたしの日記』など

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