双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

陰のコレクター (前編)

 中野綾香は、帰宅して部屋に入るなり、まっすぐデスクに向かった。一番下の引き出しからカラフルな缶を取り出す。もともとはクッキーが入っていた缶だ。
 蓋を開けると、そこには綾香の「宝物」が入っている。
 三日月の形をした十八金の片方だけの小さなイヤリング。紺色に赤い三本の線が入った片方だけの毛糸の手袋。鷲と思われる鳥の模様が描かれた十円玉大の金色のボタン。オレンジ色と白色に染め分けられた薄いシフォンのストール。
 一つずつ取り出して眺めているうちに、むしゃくしゃしていた気分がおさまってきた。職場や家の外で嫌なことがあると、それらの「宝物」を見ては気分を落ち着かせる。いまや、それらは、綾香にとって精神安定剤の役割を果たしているのだった。
 今日も職場で気分を害することがあった。市場調査の会社に派遣されて半年。仕事には慣れてきたが、職場でのよそ者扱いは変わらない。社員が集めてきたデータをひたすらパソコンに打ち込み、表作りをするのが綾香の仕事である。当然、社員だけが参加する会議には招集がかからない。しかし、仕事をする上で知っておかねばならない情報はある。それが綾香には伝わっていなかったことから小さなミスが生じた。社員にミスを指摘されて「知りませんでした」と抗弁したものの、「あっ、そうだっけ?」と謝罪もなく、あっさりと受け流されてしまったことが腹立たしかった。
 綾香は、四つの「宝物」からゴールドのイヤリングをてのひらに残した。
 ――あのときは、最悪な気分の日だった。
 イヤリングを見つめていると、これを拾ったときの記憶がよみがえる。
 一年前。五年間も交際を続けてきた恋人の進藤から別れを告げられた日だった。
 大学で同じゼミにいた進藤は、学生時代は単なる男友達の一人にすぎなかった。社会人になってから、偶然都内で再会したのがきっかけで、交際が始まったのだ。進藤に対して燃え上がるような恋心を抱いていたわけではない。だが、すべてにおいて対等な関係の「同級生夫婦」が理想と考えていた綾香は、交際して三年たったころに、<そろそろ結婚してもいいのでは>と思った。このままだらだらと関係を続けていっても、年を重ねるばかりである。しかし、対等な関係の同級生夫婦を望むとはいえ、プロポーズは男のほうからしてほしいという古風な考えまでは捨てきれず、じりじりしながらも相手が切り出してくれるのを待っていた。
 四年目に進藤が大阪に転勤になったとき、ついに「そろそろかな」という言葉が彼の口から出た。「だけど、少なくともこっちに三年はいることになりそうなんだ。ずっと遠距離のままで、ってわけにもいかないよな」
 それをプロボーズの言葉と受け取った綾香は、「しばらく考えさせて」と、その場は思わせぶりに返した。正社員として勤務していた建設会社への愛着はあったものの、一生しがみつくまでの強い執着は抱いていなかった。入社時に配属されたのが総務部で、毎年希望を出しても、ずっと総務部のままで配置換えをしてもらえない不満もたまっていた。
 綾香は、進藤に内緒で転職情報会社に登録し、大阪でできる派遣の仕事を探した。いつでも大阪に行けるよう、急ピッチで準備を進めたつもりだった。
 そして、思いきって会社を辞めた。すべて根回ししてから進藤に報告して、彼を驚かせたかったのだ。
 ところが、「プロポーズ」から三か月がたったころ。自分の決心を伝える前に、進藤から「ごめん」と短いLINEのメッセージが届いた。それに続いたメッセージは唐突なもので、「こっちで結婚することになった」だった・・・・・・。
 ――新しい職場で好きな女が現れたんだ。あいつは心変わりしたんだ。
 恨みつらみをぶつけたり、泣いてすがったりするのは、プライドが許さなかった。「了解。さようなら」と、こちらも短い返事を送って、二人の関係は終わった。
 どうにも気持ちがおさまらなくて、休日だったが、外に飲みに出た。大衆的なワインバーに入り、安いワインを何杯か飲んだ。女性の一人客も多い店だった。隣のテーブルで同世代と思われる髪の長い女性がスマホをいじりながら、一人飲みしていた。先に来店していたその女性は、しばらくしてレジに向かい、会計を済ませた。綾香は、女性が座っていた席にふと目をやって、小さな光るものに気づいた。つまみあげると、金色の三日月の形をしたクリップ型のイヤリングだった。さっきまでここにいた女性の忘れ物に違いない。髪をかきあげたとき、彼女の耳たぶに光るものが見えた気がする。
 まさにその女性が店を出たところだったから、追いかければ渡すことができたかもしれない。だが、綾香はそうしなかった。
 ――どうして、こんなみじめなわたしが、人に親切にしてあげなければいけないの?
 親切にする心の余裕なんてないのに。そう思ったら、善意にかわって、心の底から黒々とした感情がわき上がってきた。このままにしておけば、あとで店員が忘れ物に気づいて、店内で保管しておくだろう。さっきの女性は、その日自分が立ち寄った場所にはしから連絡して、イヤリングの行方を捜すかもしれない。そうすれば、いずれ女性のもとに戻る可能性は高い。
 ――だけど、このままわたしがこれを持ち去ったら・・・・・・。
 二度とあの女性の手には戻らないのだ。そんなふうに想像したら、綾香の全身を快感が貫いた。
 イヤリングは、対になってはじめてイヤリングとしての機能を発揮する。片方をなくした彼女は、もう片方だけを耳につけて出歩いたりはしないはずだ。クリップの裏に小さく刻まれた文字が見えるから、おそらく十八金だろう。彼女にとって、どんなに大切なイヤリングだっただろう。恋人に贈られたものか。肉親の形見か。自分の貯金で買ったものか。
 いずれにせよ、もう二度と彼女の両耳たぶを飾ることはない。
 ――わたしがここで、このイヤリングの生命を終わらせたのだから。
 大げさな表現だと笑われるかもしれないが、仕事も恋愛も自分の思いどおりにならない綾香にとっては、それほど重要な意味を持つ事柄だったのだ。
 進藤との結婚をあてにして建設会社を辞めてしまった綾香は、その後、何社か中途採用試験を受けてもうまくいかず、人材派遣会社に登録して仕事を得ていたが、派遣先の業種も自由に選べず、ストレスがたまっていた。そのストレスが拾った小さなイヤリングによって、ひとときでも解消されたのである。自分の非力さを忘れさせてくれて、何か大きな力が宿ったような錯覚を与えてくれる貴重なコレクションだった。
 それ以来、綾香は、人が落としたもの、忘れたものを見つけるのに躍起になった。けれども、そう簡単に人はものを落としたり、忘れたりしてはくれない。それでも、今日までに、イヤリングのほかに三つの「宝物」が彼女のコレクションに加わった。
 しかし・・・・・・。
 綾香は、このゲームに飽き始めているのを感じていた。もっと自分の力を示したい。もっとおもしろいゲームがあるはずだ。
 知らない人の家の郵便受けに投げ込むことも考えた。電車で隣り合わせた人のジャケットやコートのポケットや、バッグや鞄に滑り込ませることも考えた。しかし、ごく小さなイヤリングである。郵便受けの片隅では見つけてもらえないおそれもあるし、コートのポケットやバッグに入れるのは思った以上にむずかしい。
 綾香は、この一年間で集めた四つの「宝物」をつねに持ち歩いていた。
 ――拾ったこれらを世の中に「返却」する。
 それが目的だったが、単純に返すのではおもしろくない。やはり、悪意を含んだ返し方をしなくては、と考えたのである。
 ――世間をかき回してやりたい。
 彼女の心は、そんな意地悪な思いで満ちていた。イヤリング一つ、手袋一つ、ボタン一個、ストール一枚で世の中に大きな影響を与えてやるのだ。
 休日、綾香はバッグに「宝物」を入れて、「返却場所」を探すために、最寄り駅から電車に乗り、八つ先の駅で降りた。そこにニュータウンと呼ばれる住宅街が広がっているのは知っていた。似たような形の庭つき戸建て住宅がいくつも並んでいる。きちんと区画整理された住宅街を歩いていると、緑色に塗られた外壁の家の生垣の前にグレーの国産車がとまっている。高級車のようだが、バンパーがへこんでいるし、ところどころにぶつけた痕がある。
 そこの助手席の窓が少し開いているのを見て、綾香はハッと思いついた。周囲の様子をうかがい、誰もいないのを確かめてから、手に持っていたイヤリングをすばやく助手席の窓から投げ入れた。
 心臓がひどく脈打っていた。急いでその場を離れ、駅に戻った。
 ――拾った他人のものを、また誰とも知れぬ他人の持ち物に紛れ込ませる。
 そうすることで、どんな化学変化が起こるのか、想像すると心が震えるほどの喜びを覚えた。化学変化は、大きければ大きいほどいい。
 たとえば、と綾香は想像を膨らませる。――車の助手席に自分のものでないイヤリングが片方だけ落ちているのに、この家の主婦が気づく。彼女は自分の夫の浮気を疑い、「このイヤリングは誰のもの? 誰か女を乗せたの?」と問い詰める。見たことのないイヤリングだが、やましい事情を多少は抱えた夫は、妻に問い詰められておろおろしてしまう。夫の態度に不信感を抱いた妻はさらに夫を責めて、夫婦関係は悪化し、家庭不和が起きる・・・・・・。
 そこまで想像して、綾香は思わず頬を緩ませた。自分が拾ったごく小さなイヤリングが一つの家庭に波紋を広げる。何て愉快なのだろう。
 イヤリングの返却場所を見つけたあとは、気分も落ち着いて、スムーズに進んだ。片方だけの手袋は、次の駅で降りて、目についた公園の芝生の上に捨てた。男物と思われる大きさの手編み風のその手袋は、会社の帰りに駅構内の階段で拾ったものだった。
 十円玉大の金ボタンの返却場所は、都内に戻って、気の向くままに入ったコーヒーショップのカウンターの下の荷物かごに決めた。拾ったのも同じチェーンの別の店だったから、もとの持ち主の手に戻る可能性はあるだろうと思われた。もっとも、戻らなくても全然かまわない。
 ――片方だけの手袋と十円玉大の金ボタンは、今後、どんな運命をたどるのか。
 それらの行方を想像すること自体が、非常に楽しいゲームなのだった。また誰かに拾われるのか。それとも、価値のないものとしてゴミ箱に投げ捨てられるのか。あるいは、誰かの足に踏まれたり蹴られたり、猫の爪に引っかかれたりした末に、公園の落ち葉の塊に紛れ込んで、やがては朽ち果てるのか。
 荷物かごの底に小さなボタンがあるのに気づいた店員が、それを回収するのか。あるいは、見つけた客が落し物として店員に届けるのか。それとも、誰にも気づかれずにそのまま放置されるのか。
 いろんなケースに思いを巡らせてみることが、愉快な遊びにつながった。
 けれども、最後のシフォンのストールだけは、簡単に返却場所を考え出すことができなかった。
 落とし主の女性の顔はうっすらと覚えている。あれは、晩秋だったか。冬のコートを出すには早いが、薄いコートが必要となった季節だった。会社からの帰り道、乗り換えの駅の構内で、改札口をこちらに向かってきた女性がいた。目鼻立ちの整った洗練された化粧の女性。彼女がはおったトレンチコートのポケットから白っぽい布がのぞいていた。朝は肌寒かったものの、日中は気温が上昇し、夕方になってもまだ暖かさが残っていた日。その女性は、朝の通勤時に首に巻いていたスカーフらしき布をはずしてポケットにしまったに違いない、と綾香は推測した。
 綾香が改札口を通る前に、女性は改札口を抜けてこちら側にきた。そのとき、通行人が女性にぶつかった。その拍子に通行人が持った鞄の金具に引っかかるようにして、女性のコートのポケットから布が滑り出て床に落ちた。帰宅ラッシュ時で混雑していたのか、誰も床の布に目をとめようとしない。迅速に拾い上げた綾香は、他人の視線を気にして、いちおうは落とし主の彼女を追いかけるふりをした。だが、しばらくあとを追って、周囲が自分に無関心なのを確認すると、拾った布を丸めて急いでバッグにしまった。こんな貴重な「宝物」を見逃すわけにはいかない。
 一人暮らしの自宅に持ち帰って広げると、それは、シフォンと呼ばれる薄い生地で、細長い形状からストールと呼ばれるものだとわかった。布の半分がオレンジ色に染められている。
 ――高価なストールなのかしら。
 布の端に縫いつけられたタグには、絹100%という表示と、手洗いは不可という洗濯表示がされている。アルファベットと数字の組み合わせのほかに製造元などの表記はない。
「宝物」の中でもっとも大きなものであったことから、その返却場所にも慎重にならざるをえなかった。
 数日後、綾香は、電車に乗って降りたことのない駅で下車すると、周辺を歩き回った。駅前にファストフード店やコンビニや歯科クリニックや薬局などがあり、道路を渡って少し行くと住宅街になる。よくある郊外の街並みだ。
 それらの家々の中から一軒をターゲットに選んだ。アルミ製の門扉の柵が蔦模様だから、というそれだけの理由で。ここでも周囲の様子をうかがって、人目がないのを確認してから、細い一本の柵にストールを絡ませて、手際よく結びつけた。
 ――このストールはどんな運命をたどるのだろう。
 思いを巡らせた瞬間、胸が高らかに波打ち、陶然となった。
 しかし、駅に戻ったころには、綾香の関心は、すでに次の新たなゲームを考え出すことに向けられていた。
「お父さん、やっぱり、もう運転はやめたほうがいいよ」
 敏子は、居間のソファに父親と向き合って座ると、兄と顔を見合わせてから切り出した。
「大丈夫だよ」
 と、父は、子供たちと視線を合わせないままに顎を上げて言った。
「大丈夫じゃないわ」
 強くかぶりを振って、敏子は言い返した。「だって、さっき、危なかったじゃない」
「あれは、おまえが急かしたからだ」
「違うよ。お父さんが目測をあやまって・・・・・・」
 言いかけて、敏子は口をつぐんだ。兄に横から肘で突かれたのだ。親父を傷つけないように言葉に気をつけろ、という意味らしい。
 敏子は、小さくため息をついた。どう説明すれば、八十七歳の父親にわかってもらえるのだろう。
 運転歴は約七十年で、去年免許を更新し、高齢者講習も合格した父だったが、さすがに加齢によって運動能力や反射神経が急速に衰えてきたのだろう、車庫入れのときに何度も切り返して、車をあちこちにぶつけるようになった。
「このままだと、外でいつ大きな事故につながるかわからない。それに、最近、もの忘れも進んで、注意力が散漫になってきたんだ」
 と、父と一緒に住んでいる兄から「だから、おまえからも免許証返納を勧めてほしい。父さんの運転にピリオドを打ってほしい」と、頼まれたのだった。離れて暮らしている妹のほうが客観的な判断ができるだろう、と考えたようだ。
 兄の妻は「わたしは部外者ですから」と言わんばかりに、休日の今日は外出している。二年前に亡くなった母を、義姉は自宅で看取っている。介護で負担をかけたことで、兄は義姉に頭が上がらない。子供たちは家を出て独立しており、現在は兄夫婦と父と三人暮らしの敏子の実家である。
 兄に頼まれて様子を見にきた敏子は、まず父の運転がどんなふうなのか確かめるために、「買い物したいから、お父さん、コンビニまで車を出してくれない?」と、助手席に座らせてもらったのだった。
 父の運転は、やはり、危なっかしかった。コンビニの駐車場にバックでとめるときに、隣の車に接触しそうになり、敏子があわてて大声を上げて停車させたくらいだ。
 ――駐車場で、アクセルとブレーキを踏み間違えたりしたら大変だ。
 あるいは、信号を見落としたり、高速道路を逆走したりしたら・・・・・・。敏子は、青くなった。それで、買い物したあとの帰り道は、強引に自分が運転席に座ったのである。助手席の父は、窓を下ろしてブスッとした表情で横を向いていた。
 怒った様子で家に入っていったので、敏子は生垣の前に車をとめたまま、父のあとを追った。そして、いま、こうして免許証返納を促すための話し合いをしているというわけだった。
「父さん、車が必要になったときは、俺が出してあげるからさ」
 と、兄が遠慮がちな口調で言った。敏子の兄は、性格的に少し気弱なところがある。
「おまえがいないときはどうするんだ」
 そう切り返されて、兄は黙ってしまう。平日は会社勤めの兄である。義姉もパートで留守にする日がある。
「バスやタクシーを利用すれば?」
「バス停なんてはるか遠くだし、タクシーなんてぜいたくだ」
 娘が提案しても、父は聞く耳を持たない。
「大体、車ほど便利なものはないんだ。このあたり、車がなくちゃどこにも行けん」
「父さん・・・・・・」
 兄は、困惑した顔を敏子に振り向けた。
 そのとき、表からクラクションが聞こえた気がして、「車庫に入れてくるわ」と、敏子は席を立った。外に出て、生垣に沿ってとめてあった車をガレージに入れた。
 助手席の窓を閉めようとしたとき、シートの上の光るものに気づいた。手に取ってみると、三日月の形をした金色のイヤリングである。まわりを探してみたが、もう片方は見あたらない。
 ――こんなものがどうしてここに?
 わけがわからなかったが、とりあえず、手にして家に戻った。
「ねえ、これに心あたりある?」
 まずは、兄に見せた。
「いや・・・・・・あいつのじゃないな」
 と、兄は首をかしげる。義姉のイヤリングではないらしい。
「見せてみろ」
 父が伸ばしてきたてのひらに、敏子はそれを載せた。敏子には、亡くなった母が三日月の形をしたイヤリングをつけていたという記憶はない。
 食い入るようにそれを見ていた父は、やがて、口を開いた。
「母さんのだ」
「えっ?」と、敏子と兄は同時に声を上げた。
「本当に・・・・・・母さんの?」と、兄が父に問う。
「そうだ」
 と、父が静かに言い、うなずいた。「死んだ母さんは、お月さまが好きだった。それに、母さんは、しょっちゅう『イヤリングを片方なくした』と嘆いていた。『高価なイヤリングほどなくすのよ』ってな」
 その言葉を聞いて、敏子はハッと胸をつかれた。
「そうよ。お母さんがなくしたイヤリングが、不意に車の中に現れたのよ」
 と、敏子は言った。勘違いでもいい。不可解な現象であろうと、怪奇現象であろうと、何でもいい。死んだ母のものと父が思い込んでいるのなら、その思い込みを利用しようと考えたのだ。
「だから、お父さん。これは、死んだお母さんからのメッセージじゃないかしら。そろそろ運転をやめてちょうだいね、っていう。お母さんも天国で、お父さんのことをすごく心配しているのよ」
 父は、てのひらに載せたそれを見つめたまま黙っている。目が潤んでいるようにも見える。
「わかった。もう運転はやめることにするよ」
 イヤリングから目を上げると、父は子供たちに向かって言った。
 安堵した敏子の目にも涙があふれた。
(後編へつづく)

新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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