双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

余命 (後編)

 太田弘明は、隣席の女性の息遣いを感じながら、今日の日記にどんなふうに書こう、と考えていた。視線は正面の大型スクリーンに向けられているが、映画の内容はほとんど頭に入ってこない。
 ――七十六歳の自分が女性とデートするなんて。
 まるで夢を見ているようだ、と弘明は思った。
 市内のコミュニティセンターで開かれている生涯学習の講座で知り合った七十一歳の女性。それが、いま隣にいる宮島繁子だった。
 彼女も弘明と同様、伴侶を亡くしている。独身同士。堂々とデートしてもおかしくないわけだが、あちらには二人、自分には一人娘がいる。娘が三人寄れば、文字通り、かしましい。熟年男女が普通に交際しているだけで、娘たちにはおかしな勘ぐりをされてしまう。それぞれの親が結婚するとなれば、近い将来相続の問題が生じる可能性もあるので、なかなか大っぴらに交際を応援するわけにはいかないのだ。
 弘明は、講座のある日に繁子の自宅まで自家用車で迎えに行き、講座が終わったらまた自宅まで送り届けるだけの、節度を守った交際で満足しようと努めていた。教室では離れた席に座るものの、行き帰りの車中では助手席の繁子とおしゃべりができる。それだけでも楽しい。繁子は草花の名前をよく知っていて、車窓から見える街路樹や公園の花壇を指差しては、あれは何、これは何、と弘明に教えてくれる。長年高校で日本史を教えていた弘明は、歴史にまつわる雑学を披露しては、大仰に驚く繁子を見て悦に入っていた。
 講座が続くかぎり、二人の短いデートは続く。それ以上を望んではいけない、と自分の胸に言い聞かせていた弘明だったが、送迎が五回になったとき、「今日は家の手前で降ろしてください」と繁子に言われて、戸惑った。どうやら、あちらの娘に何か忠告されたらしい。人目につくようなことはするな、とでも言われたのだろうか。
 それ以降、家のかなり手前で降ろすことが恒例になっていたが、あるとき、車から降りる直前に「今度、映画を一緒に観ませんか?」と、繁子のほうから誘ってきた。
 デートに誘われたのだ、と弘明は舞い上がった。
 踏切で動けなくなった高齢の女性を救助して、警察署から感謝状をもらったことが新聞に載ったあとだったので、あの活躍が功を奏したのだろう、と弘明は解釈した。あれがきっかけで、彼女は自分に特別な感情を抱き始めたに違いない・・・・・・いや、そうあってほしい。
 そして、今日がその初デートの日だったのだ。繁子が選んだのは、猫たちの楽園と称される島に都会から移住してきた老夫婦と住民たちの触れ合いを描いたドキュメンタリータッチの映画で、人間以上におびただしい数のかわいい猫たちが登場した。
「おもしろかったですね。猫ちゃんたちの表情が人間より豊かでしたよね」
 観終わって、繁子は率直な感想を述べた。
「まったくそのとおり」
 映画より彼女に気をとられていたのに勘づかれまいとして、弘明はそう返したが、そっけない反応だったな、と反省した。女性とのデートが久しぶりすぎて、どう受け答えをしたらいいのかわからない。
 妻を病気で亡くしたのが十九年前。定年退職まであと数年というときだった。大学卒業後に出版社に就職した一人娘の貴代子から「結婚前提につき合っている人がいるの」と報告を受けて、「あの子もいい人と巡り合えたからもう安心ね」「定年後は、二人でいろんな場所へ旅行しよう」と、夫婦で話をしたほんの一週間後、体調を崩しぎみだった妻が受けていたがん検診の結果が出て、末期の肺がんと判明した。医師から余命三か月と言われ、ちょうど三か月後に妻は旅立った。あまりにも急すぎる別れだった。
 妻の死後、娘の貴代子は母親の遺影を抱いて結婚式に臨んだ。そして、弘明の定年退職後に男の子と女の子を年子で出産した。
 都内に居を構えた貴代子は、一人暮らしになった弘明のもとへときどき孫たちの顔を見せにやってきてくれたが、その孫たちも中学生になってからは部活動や塾通いで忙しくなったのか、足が遠のいた。
 弘明の孤独感を紛らわせてくれたのが、自宅の庭に気まぐれに姿を現す野良猫だった。亡くなった妻の名前の美代子からとって「ミー」と呼んでかわいがっていたのだが、偶然、コミュニティセンターの講座で顔を合わせていた女性もそう呼んでいたのがわかった。それが繁子で、弘明は、彼女との出会いに運命的なものを感じた。
 ――自分の余命はあと四年。それまで彼女との交際を続けたい。
 彼女との濃密な四年間を過ごすためにはどうすればいいか。せっかく初デートのきっかけを向こうが作ってくれたのだ。今度は、こちらが彼女を楽しませるためのプランを立てなくては。そう考えた弘明は、映画のあとのデートコースをいちおう組み立ててはいた。
 映画館やショッピングセンターが入った大型複合施設である。
「どこかで軽く食事をして帰りましょうか。お時間は大丈夫ですか?」
 表に出ると、予定していたのを悟られないように、弘明は繁子に聞いた。郊外のレストランの下調べはしっかりしてあった。
「ええ」
 即答が返ってきて、弘明は気をよくした。
 繁子は、一歩下がって弘明のあとをついてくる。そんな控えめなところも感じがいい。亡くなった妻は弘明と同じ教職に就いていて、気が強い性格の女だった。
 広大な駐車場ではあるが、自分の車をとめた場所は覚えている。気が急いていたのだろうか。歩調が速まって、後ろに続く繁子との距離が開いていたようだ。
 駐車場の一角には駐輪場が設けられている。弘明の傍らをかなりのスピードで自転車が通り過ぎた直後の「あっ」という声に気づいて振り返ると、繁子がよろけていた。あわてて彼女の腕をつかんで支え、体勢を立て直させた。
「大丈夫ですか?」
「え・・・・・・ええ、大丈夫です」
 繁子は青ざめた顔をしていたが、怪我をした様子はない。が、持っていたはずのバッグが見あたらない。よろけたときに手から離してしまったのだろう。
「わたし、去年自転車で転んで怪我をしてから、自転車が怖くなって。ぶつかってはいないから、大丈夫です。すぐ脇を通ったので驚いただけで」
「さっきのはスピードを出しすぎですよ」
 弘明は、駐輪場の方向を睨むようにしてから、離れたところに落ちている繁子のバッグを拾いに行った。
 そのとき、今度は反対側からゆっくりと別の自転車が走ってきた。耳からコードを垂らし、左手に携帯電話を持った若い男性が片手運転をしている。視線も当然、携帯電話に注がれている。その自転車が路上の繁子の白いバッグをいた。
 軽い衝撃があったはずなのに、男は無視して弘明の脇を通り過ぎようとした。
「待ちなさい」
 弘明は、強い口調で呼び止めて、男の背に手を伸ばした。
 音楽を聴いていた男がジーンズを穿いた足を突っ張らせて自転車を停車させ、振り返ると、薄い眉をひそめて弘明を見上げた。
「いいんです。ちょっと汚れただけですから」
 バッグを拾い上げた繁子が、ほこりを払いながら弘明に遠慮がちに言う。
「だめですよ。ちゃんと自覚させないと」
 繁子に言い置いて、自転車の男に顔を戻すと、「あなたはよそ見運転をして、こちらのご婦人のバッグを轢き逃げしようとしたんですよ。ちゃんとあやまりなさい」と、弘明は毅然として続けた。
「何だよ。オーバーだな」
 自転車の男は、うなるような声で応じた。
「もういいです。行きましょう」
 その声から不穏な空気を察知したように、繁子が弘明の上着を引っ張ると、小声でささやいた。「太田さんの身に何かあったら、わたし・・・・・・」
「大丈夫ですよ。わたしはそう簡単にはくたばりませんから。いや、死にませんから」
 ――占い師のお墨付きをもらっているんだからね。
 余命はあと四年。八十歳までは絶対に死なない。弘明は、胸を張ってそう言い返すと、自転車の男に「あやまりなさい」と、もう一度語調を強めて謝罪を要求した。
 しかし、次の瞬間、弘明が受けたのは、謝罪の言葉ではなく、みぞおちへの強烈な一撃だった。
 自転車の男は、「邪魔だ」というふうに片手で思いきり老人を突き飛ばすと、そのまま自転車を走らせて逃げ去ったのだった。
 太田弘明の娘の貴代子から「お話ししたいことがあります」と信子に連絡があったのは、弘明の葬儀からひと月後のことだった。
 自転車の男に突き飛ばされた弘明は、転倒して路上のレンガブロックで頭を強打し、意識を失った。病院に救急搬送されたものの、意識が戻らないままに二日後に脳挫傷のうざしようで息を引き取った。事情が事情なので、家族は密葬にするという。それで、葬儀には参列できなかったのだった。もっとも、弘明が突き飛ばされた現場に一緒にいた繁子は、とても参列できるような状態ではなかった。警察の事情聴取を受ける際も、信子が付き添わないと倒れてしまいそうなほど憔悴しようすいしていた。
 加害者の男は、現場付近の防犯カメラの分析からすぐに判明した。十八歳の無職の少年で、「因縁をつけられたと思った。殺すつもりはなかった」と供述したというが、未成年者ゆえに信子はいまだに加害者の名前を知らない。
「お呼び立てしてすみません」
 会社帰りに、待ち合わせ場所に指定された赤坂見附駅近くのホテルのティーラウンジに行くと、先に貴代子がきていた。病院で顔を合わせたときに名刺交換をしていたから、信子の職場も彼女と同様赤坂にあるとわかったのだろう。
「お父さまのこと、改めてお悔やみ申しあげます。母がご迷惑をおかけしました」
 何となく母親のことを謝罪しなくてはいけない気分になる。あの場に繁子がいなかったら、弘明がいいところを見せようとして、騎士ナイトぶりを発揮することもなかっただろうから。
「いいえ、信子さんがあやまる必要はありません」
 と、貴代子は大きくかぶりを振る。病院で顔を合わせたときは事件直後だったから表情が険しかったのは仕方なかったかもしれないが、それを差し引いてもかなり彼女の表情が柔和になった気がして、信子は少し救われたように思った。
「お母さんはその後、いかがですか? だいぶショックを受けられたのでは?」
「いまはまだ受講する気力は出ないみたいですけど、母のことを大切に思ってくださった太田さんのためにも立ち直らなくては、と考えているはずです」
 実際は、一日中どこへも出かけずに家にこもりきりの状態だ。信子は、毎週末食料品を買いこんで実家に通っている。
「本当に、母がお声をかけなかったら、あんなことにはならなかったのに。年甲斐もなくデートにお誘いしたりして、申しわけありません」
 娘としては、やはり謝罪の言葉が出てしまう。あの日あったことはすべて、時間をかけて母から聞き出した。
「いいえ、違います」
 と、貴代子は、きっぱりと否定した。「父は嬉しかったはずです。いえ、嬉しかったんです。『映画に誘われて、天にも昇る心地だ』と、日記に書いてありましたから」
「日記に?」
「ええ、父は日記をつけていたんです。遺品の整理を始めて、何冊もノートを見つけました」
「そうですか」
「父の病気のことは、お母さまはご存じなかったと思います。日記に『話すつもりはない』と」
「お父さまはご病気だったんですか?」
 日記のことも病気のことも初耳だった。
「はい。四年前に胃にがんが見つかって、最初ステージ4と診断されたんですが、手術後に執刀医から『ステージ2でした。余命は八年くらいでしょう』と言われたんです。その場にはわたしもいました」
「余命八年、ですか。八年というと・・・・・・」
「七十二歳のときに余命八年と言われましたから、八十歳ですね」
 その数字を聞いて、何かが想起された。母の言葉だ。バッグを自転車の車輪で踏みつけたことで、弘明が運転していた男に謝罪を求めたとき、危険を察知した繁子は、弘明を制止した。それに対して彼は、自分は大丈夫だ、そう簡単には死なないから、というような意味の言葉を返したという。その言葉は、事情聴取を受けた繁子から警察へ、警察から弘明の親族へ伝わっているのだろう。
「余命宣告を受けた父は、不安でならなかったと思います。それで、医師の言葉が本当かどうか、占い師の力を借りて確かめたくなったんです。四年前の日記に、西新宿の占いの館を訪れた記述があります。若い女性占い師に手相を診てもらったら、そこでも『余命八年』と言われたそうです。占い師の言葉の重みは、医師のそれとはまた違います。占いという超常的な力にすがった父は、いつしか自分の寿命は八十歳であり、八十歳までは確実に生きられる、と思い込むようになったんです」
「それまでは何があっても死なない。つまり、自分は不死身だと?」
「バカバカしい考えと思われるかもしれませんが、長短にかかわらず、余命を言い渡された人間は多かれ少なかれ、誰でも怖くなるものではないでしょうか。その恐怖から逃れるために、父の頭にそういう思考回路が組み込まれたとしても、不思議ではないと思います」
「あんな事件がなかったら、お父さまは八十歳まで生きられて、天寿を全うされたとお考えですか?」
 と、信子は質問した。そうだとしたら、やはり、繁子との出会いによって運命が狂わされたことになる。
「それは、わかりません。誰にもわからないことです。医師は自分の治療の経験上、八年という余命の数字を出しましたが、それも絶対ではありません。それより長い人もいれば、短い人もいるでしょう。けれども、余命を知っておく利点はあります。それまでに心の整理、身のまわりの整理ができますし、余命を踏まえた上で身体のケアをすることができます」
「占い師もまったく同じように、八年という余命をお父さまに告げたのですよね? それは、偶然なんでしょうか。占いにはやはり、何かしらの超自然的な力があるんでしょうか」
 雑誌に占いが載っているとつい読んでしまう信子は、自分と同世代と思われる貴代子がどうとらえているか、知りたくてたまらなくなった。
「占い師も経験が豊富な人、経験が浅い人、といろいろです。手相は統計学的なものが中心かもしれませんが、わたしが外科手術を受けた直後の七十二歳の男性に『余命は?』と聞かれても、やっぱり、『あと八年ですね』と答えるでしょう」
「どうしてですか?」
「それが、日本人男性の平均的な寿命だからです。手術をしたあとそこまで生きられたら御の字、と本人が思うかもしれないからです」
 すらすらと答えを返してきた貴代子に気圧けおされていると、
「わたしは女性誌の編集をしていて、どの号にも必ず占いのページを載せます。読者がそれを求めるからです。星占い、干支占い、血液型占い、タロット占い、それらを組み合わせた占い、と多種多様ですが、占いを請け負う事務所が存在します。複数のスタッフを抱えたところも、一人で何種類もの占いをしているところもあります。中には、ちょっと手相占いをかじっただけの人がいる事務所も。だけど、どんな占いであれ、最後は読者にゆだねられるのです。信じるか、信じないか、それがすべてですから」
 と、貴代子はなおもよどみなく、自分の仕事に絡めて、自分なりの占い論を展開させると、最後にこうつけ加えた。
「お母さまの送迎が父の生きがいになっていたこと、お母さまに映画に誘われて舞い上がったこと、青年のように心を躍らせてその日を待ち望んでいたこと、それらが父の日記に綴られていたことを、どうかお母さまにお伝えください」
 玄関ドアに手をかけると、鍵はかかっている。
 ――よかった。お母さんは、ちゃんと約束を守っている。
 不思議なことに、あの事件以来、繁子は鍵をかけ忘れることはない。怖い体験をしたことで、警戒心が強くなり、それに伴って防犯意識も高まったのではないか、と信子はとらえている。いずれにせよ、母には群馬のこの家で一人暮らしを続けてもらわないとならない。自分で自分を守る意識が高まるのは喜ばしいことだ。
「お母さん」
 実家の鍵はつねに携帯している。鍵を開けて入り、居間に行ったが、繁子の姿はない。
 勝手口のドアが開いているのに気づいて、信子は猫の額ほどの裏庭に出た。
 花壇の前に繁子がしゃがみこんでいる。事件前よりひとまわり縮んで丸まった背中を見て、信子の胸は痛んだ。
「お母さん、ミーちゃんは今日も来ない?」
「あ・・・・・・ああ、信子。来てくれたの」
 そろりと物憂げに振り返る。身体の動きが以前より鈍くなったことに、信子は気づいていた。やはり、太田弘明という大切な存在を失って、心の張りを失ったのだろう。動作が緩慢になり、話す速度も遅くなっている。
「ミーちゃんは、どうして来なくなったんだろうねえ」
「さあ、どうしてかしら」
 信子にも理由はわからない。あの事件のあと、日に何度か勝手口の外にエサをもらいにやってきていた野良猫の「ミーちゃん」が、ぱったりと姿を現さなくなったのだ。
 野良猫なりに散歩ルートがあったとしたら、その一つに弘明の家も含まれていたのだろう。弘明が死んで空き家になり、そこを訪れるのをやめた「ミーちゃん」が、まったく別の散歩ルートを作ってしまったのではないか。信子には、そんなふうに推察することしかできない。
「ねえ、信子。野良猫の寿命って知ってる?」
 しゃがみこんだまま、唐突に繁子が問うた。
「野良猫の寿命? さあ、わからない」
「大体四年なんだって」
 繁子自身は答えを知っていた。
「四年って短いよね」
 心底そう思って、信子は言った。飼い猫の平均寿命の十六年に対して、野良猫のそれが四年とは。何だか哀れになる。
「ミーちゃんは、最初にここに来たときいくつだったのかしら」
「さあ。でも、大人の猫だったから・・・・・・」
「あんまり余命がなかったのかもね」
 と、言葉をとぎらせた娘のあとを引き取って、繁子が「余命」という言葉を使ったので、信子はハッと胸をつかれた。
「明日は来るかしら」
 首をかしげてつぶやくように言って、「ああ、お腹がすいたわ」と、繁子はのっそりと立ち上がった。
 まだ夕飯には早い時間帯だ。
 ――お母さん、子猫を飼おうか。
 喉元まで出かかった言葉を、信子は呑み込んだ。いまさら子猫を飼い始めても遅すぎる。
「買い物に行ってくるね」
 かわりにそう声をかけて、信子は台所に戻った。冷蔵庫に何があるか点検しなければ。加齢とともに繁子の食は細くなり、賞味期限切れの食品も多くなる傾向にある。無駄を省くためにも賢い買い物をしないとならない。
 冷蔵庫を開けた瞬間、信子はぎょっとした。
 目の高さに食品でないものが入っている。目覚まし時計だ。信子が子供のころに使っていたキャラクターが描かれた四角い時計で、麻里子と一緒の子供部屋に置かれていたものだった。
「お母さん、目覚まし時計なんか冷蔵庫に入れて・・・・・・。どうしたの?」
 台所に戻った繁子におそるおそる聞くと、
「冷たくしたほうが、時間がおいしく進むから」
 繁子は、きょとんとした表情で答えた。
 信子の背筋に悪寒が走った。意味不明で、理解不能だ。
「お母さん、時計は・・・・・・時間は食べるものじゃないよ。全然おいしくないし」
 自分が返した言葉も意味不明で、信子は泣きたくなった。
 ――環境が変わると、認知症を発症することがあり、急激に症状が進むこともある。
 信子は、週刊誌で読んだ恐ろしげな見出しの記事を思い出した。大切な異性を衝撃的な形で失ったことは、劇的な環境の変化に相当するだろう。その上、かわいがっていた野良猫まで姿を消してしまったのだ。
 夫に転勤の辞令が出て、家族で海外に行くかもしれない、という連絡が名古屋の麻里子からあったばかりだった。姉には頼れない。仕事面では、新しいプロジェクトがスタートし、チームの各自に仕事を割り振りする作業に追われている。リーダーとして、これ以上有休をとることはできない。しかし、母親の世話は、自分一人に課せられている。
 ――どうすればいいのだ。
 信子は、途方に暮れた。
 ――お母さんは、あとどれくらい生きるのだろう。
 できれば、あと・・・・・・。母親の短い余命を望んでいる自分に気づいて、信子はぞっとした。
(第四話 終わり)

新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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