双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

余命 (前編)

「最近、何か、人生を揺るがすような大きなできごとがありませんでしたか?」
 若い女性に手を握られただけでも心臓の鼓動が激しくなるというのに、長い睫毛まつげに覆われた目で見つめられながら聞かれたので、太田弘明は、握られていないほうの手を胸にあてて動悸を抑えながら、「ええ」と答えた。
 人生を揺るがすような大きなできごとがあったから、生まれてはじめて、占い師のもとにやってきたのだ。
 エンジェル由希という名前の占い師は、深くうなずいて、弘明のてのひらをまた注視した。
「山あり谷ありの人生を歩んでこられたのですね。あなたは何度も人生の岐路で迷い、大きな決断をする場面に直面したはずです」
 エンジェル由希の視線がてのひらから顔に戻されたとき、弘明はいままでの人生を振り返った。進学、就職、結婚、転居、娘の誕生、伴侶との死別、娘の結婚、定年退職、孫たちの誕生・・・・・・と、占い師の言うとおり、進むべき道に迷いながらもその都度、決断を下してきた。
「それで、あなたが一番占ってほしいのは何ですか?」
 エンジェル由希の切れ長の目が鋭く光った。
 占えるのは一人につき一つの項目だけ、というコンセプトと料金の安さに惹かれて、西新宿の雑居ビルの一室にある占いの館に足を運んだのだ。手相占いを選んだのは、それが弘明世代には王道で、カードを使ったり、水晶玉を使ったりする占いにどこかいかがわしさを感じていたからだった。一つに集中して占ってもらえば、的中率も高まる気がした。
「余命です」
 と、弘明は答えた。
「余命?」
「ええ。自分があと何年生きられるか、知りたいのです」
「あなたは、いま・・・・・・」
「七十二歳です」
 その年齢の男があと何年生きられるか知りたいなんて、おかしいのだろうか。
「わかりました」
 だが、エンジェル由希は動じずに、ルーペを使ってしげしげとてのひらのしわまでチェックすると、冷静に言葉を重ねた。「お年がお年ですから、残念ながら生命線はそう長くはありません。生命線には余命を示す部分も含まれているんです。で、あなたの余命は・・・・・・八年ですね」
「八年・・・・・・本当ですか?」
「はい、ここに八年と出ています」
 これから八年生きて八十歳。それが自分の寿命だ。弘明は、その数字を心に刻みつけた。
「ありがとうございました」
 感極まった弘明は、女性占い師の手に一万円札を握らせると、両手で包み込むようにした。
「あの、おつりがありますけど・・・・・・」
「いいえ、おつりはいりません」
 弘明は、弾むような足取りで占いの館が入ったビルを出た。
 生垣の角を曲がると、実家の前に白い車が停車しているのが見えて、宮島信子は足をとめた。
「どうもありがとうございました」
 助手席のドアが開いて、信子の母の繁子が背を屈めてゆっくり降りてくる。
 運転席から繁子と同世代に見える男性が降りて、繁子よりはしっかりした足取りで門扉もんぴに先に駆けつけた。門扉を開いて、「じゃあ、また」と、男性が繁子にかなり親しげな口調で言う。
「お気をつけて」
 繁子の声に送られて、男性が乗り込んだ車は走り去った。
 繁子の姿が家の中に消えてから、信子はおもむろに門扉に向かった。少し時間を潰して、玄関のドアに手をかける。
 思ったとおり、玄関の鍵はかけられていない。
「お母さん」
 怒気を含んだ呼びかけになったが、仕方がない。前回、帰省したとき、「危ないから、玄関の鍵をかけ忘れないようにしてね」と、母に注意を促したばかりだった。「わかった、わかった」と二度繰り返したのに、その約束が守られていない。
「あら、信子。来てくれたのね」
「玄関の鍵、開いてたよ」
「あらあら、そう?」
「物騒だから、家にいるときでも鍵はかけておいて。そう言ったでしょう?」
 信子が子供のころは、このあたりのどの家も昼間は鍵などかけていなかった。だが、のどかだった当時とは時代が違う。
「はいはい。これからは気をつけますよ」
 繁子は、同じ言葉を二度繰り返す癖がある。生返事のように聞こえて、大丈夫だろうか、と信子は心配になる。
「どこか出かけていたの?」
 居間の椅子に置かれたトートバッグに視線をやって、母が何と答えるか試してみた。
「ああ、うん。いつものコミセンにね」
 繁子は、行った先しか答えない。コミセンとは、コミュニティセンター、いわゆる公民館のことで、そこでは主にシニア世代向けの生涯学習の講座が開かれている。今年七十一歳になる繁子は、郷土史講座や英会話講座などいくつか講座を受講しているのだ。
「今日は何だったの?」
 運転していた男性の横顔を思い浮かべて、信子は聞いた。
「今日は特別講座でね、児童書を出している作家の先生が講義してくれたの。大人になってから児童書のおもしろさに改めて触れましょう、って。ほら、孫のいる人たちも多いから。わたしも孝太や紗枝ちゃんにいい本を薦めてあげたいしね」
 孝太も紗枝も信子の姉、麻里子の子供である。二人とも小学生だ。信子は独身で、だからこそ、姉より頻繁ひんぱんに都内から群馬の実家まで通ってこられる。三年前に夫を亡くし、一人暮らしになった母の身を案じての帰省だった。
「受講生は女性が多いの?」
「男性もいるけど、大半が女性ね」
 質問を核心に近づけていったが、繁子の口は堅い。
「コミセンからは循環バスで?」
 それで、別の切り口から質問してみた。去年自転車に乗っていて転倒し、右足首を捻挫ねんざした繁子は、治ってからも怖がって自転車に乗るのをやめている。市内各所を結ぶ循環バスが運行されてはいるが、本数は少ない。夫の死後、運転免許証を持たない繁子は、外出するのに不便を感じているはずだ。
「ああ、そうそう、今日は行きも帰りも循環バスでね」
 そわそわしたそぶりで答えて、繁子は台所へ行った。
「お母さん、さっきの人、誰なの?」
 母親にうそをつかれて頭に血が上り、信子の口調はきつくなった。
「えっ?」
 お茶の用意をしていた繁子が、胸をつかれたように振り返った。
「わたし、見てたのよ。さっきお母さん、男の人の車で家まで送ってもらったでしょう?」
「何だ、見てたのならそう言えばいいじゃない。嫌な子ねえ」
 と、繁子は苦笑して顔をしかめた。
「娘に秘密にしておかないといけないような仲なの?」
「違うわよ。あの人は、同じ講座仲間の太田さん」
「じゃあ、最初からそう言えばいいじゃない。車で送ってもらった、って」
「そう言ったら言ったで、あなたはあれこれ詮索してうるさいから」
「そりゃ、娘としては、相手の素性くらい聞きたくなるわよ」
 信子は、そこに座って、とダイニングテーブルを挟んで向かい合った席を顎の先で示した。
 繁子は、お茶の用意を中断して、やれやれという表情で娘の前に座る。
「あなたが心配しているような仲じゃないわよ。太田さんはだいぶ前に奥さんを亡くしていて、お母さんと同じ一人暮らしの七十六歳。二丁目に住んでいる方よ」
「独り身同士だったら、違う意味で心配になるじゃない。ご近所の目もあるし」
「まあまあ、この子ったら」
 呆れたというふうにかぶりを振り、「邪推しているんじゃないでしょうね」と、繁子は目を丸くした。
「そういうわけじゃないけど。だけど、そもそもどうして車で送ってもらうような仲になったの?」
「猫よ、猫。ほら、うちにときどき来るミーちゃん、あの子を携帯で撮った写真を友達に見せていたら、ふとのぞきこんで、『ああ、その猫、うちの庭にもときどき現れますよ』って話しかけてきたのが太田さんだったの。講座が終わってバスを待っていたら、『まだ当分来ないでしょう。わたしが送っていきますよ』って言ってくれて」
「じゃあ、もう何度も送ってもらっているの?」
 送り慣れた様子から、はじめてでないのはわかっていた。たまたま平日に有休をとって帰省したから、出くわした光景だったのだ。
「今日で四度目かしら」
「女友達に送ってもらえばいいじゃない。前はそうしてもらっていたんでしょう?」
「運転のできる友達が引っ越しちゃったのよ。ご主人に送迎してもらっている仲間もいるけど、うちまで送ってもらうと遠くなっちゃって頼みにくくて。それに、そのご主人、無口で何だか気詰まりでね」
「太田さんとは話しやすいわけ?」
「信子は何を気にしているの? わかった、わかった。もう送ってもらわないから。これからはバスにするわ。それでいいでしょう?」
 ハエを追い払うように手を振りながら席を立つと、繁子は勝手口へ向かった。
「ミーちゃん、そろそろ来るころかしら。ほらほら、ミーちゃん、おいで、おいで」
 勝手口から裏庭に出て、文字どおり猫なで声を出して定期的に通ってくる「ミー」と名づけた野良猫を呼んでいる。
 そんなに都合よく現れるわけないでしょう、とあなどっていたら、突然、ミャアオ、と猫の鳴く声が上がって、信子はたじろいだ。
 ――今日も一日、生きながらえることができたな。
 占ってもらった日から四年が過ぎ、太田弘明は七十六歳になった。
 ――昨日と似ている今日はあっても、昨日と同じ今日はない。
 弘明は、日々、そのことを痛感している。時は確実に過ぎていき、肉体は確実に衰えていき、死は確実に近づいている。
 一人きりのつつましやかな夕食のあと、弘明はテーブルにノートを広げた。ほぼ同じ時間に日記をつけるのが日課になっている。
 七十二歳のときに告げられた余命は八年。したがって、寿命は八十歳。それがわかったときから、一日一日を大切に、しっかりと生きようと心に決めた。それを実践するためにも、自分の行動や思いを記録に残しておくことは必要だった。
 とくに今日は、特筆すべきできごとがあった。人命救助に貢献したとして、警察署から感謝状を贈られたのである。記事にするということで、地方紙の記者も同席していて、感謝状の入った額を手にした写真も何枚か撮られた。
 ――後期高齢者となった身で、まだ人の役に立てるなんて・・・・・・。
 これも、やはり、余命を告げられたおかげではないのか。余命を知ったからこそ、ふだんは考えられないような勇気を振り絞ることができたのではないのか。
 この特別な体験をどう書きとめておこう。弘明は、しばらく頭の中で書き出しを考えていた。
 姉の家を訪れたのは、二年半ぶりだった。大阪出張の帰りに名古屋で降りて、姉の家に顔を出してみる気になったのは、母親のことが頭に引っかかっていたからだった。
「はい、これ、孝太君と紗枝ちゃんへのおみやげ」
 信子は、新大阪駅で買った菓子折りを麻里子に渡すなり、「帰りの新幹線まであんまり時間がないから、お茶もいらない」と、居間のソファに座った。少しでも長く姉と話がしたかった。
「何なの?」
 妹の真摯さを感じ取ったのか、麻里子も眉根を寄せた表情で向かい側に座る。
「お母さんのことなんだけど、どうもつき合っている人がいるみたいなの」
「何だ、そういうこと」
 姉の薄い反応に、信子は、拍子抜けすると同時に苛立ちを覚えた。
「気にならないの?」
「気にならないことはないけど。どういう人なの?」
 信子は、自分が把握している太田弘明の情報を伝えた。
「へーえ、独身なら別に問題ないじゃない。奥さんがいたら問題だけど」
「それじゃ、お姉ちゃんは、お母さんが再婚してもいいと思ってるの?」
「話が飛躍しすぎよ」
 噴き出した麻里子は、笑顔で言葉を重ねた。「そんなに気にすることある? ただの異性の茶飲み友達かもしれないじゃない。そのコミセンとかには女性の受講生もたくさんいるんでしょう?」
「でも、太田さんが車で送迎をしているのは、お母さんだけだと思う」
「じゃあ、太田さんがお母さんをとくに気に入っている。それだけのことじゃないの?」
「お姉ちゃんは平気なの?」
「人間、いくつになっても異性に惹かれる気持ちはあるでしょう? 分別ある大人なんだから、お母さんだってその太田さんだって、大人のおつき合いをしているだけじゃないかな」
「わたしも最初はそう思っていたけど、このあいだのお母さんの様子を見て、不安になったのよ。人間の感情ってエスカレートするものだから」
 信子は、新聞記事のコピーを鞄から取り出して麻里子に渡した。
 ――T市の太田さん、踏切内で動けなくなった八十八歳女性を救助
 見出しに目をとめた麻里子は、ふっと視線を上げた。「この太田さんというのが、お母さんの送迎をしてくれている人?」
「そうよ」
 地方紙の地域版だけに載った記事だったが、写真入りの囲み記事で大きな扱いになっていた。
「踏切内でうずくまっている女性を発見した太田さんは、鳴り始めた警報に一瞬ひるんだものの、踏切の中に入って女性を抱きかかえ、踏切の外まで連れ出した・・・・・・って、すごいわね。それで、警察署から感謝状を贈られたのね。七十六歳の男性がひとまわり上の女性を救助って、長寿国日本を象徴しているような美談だわ。それに、太田さんってけっこういい男じゃないの。年のわりに背は高いし、彫りの深い顔立ちで」
「だから、余計、心配なのよ。お母さんの話では、太田さんって人は若いころ剣道で鍛えていたらしくて、足腰はしっかりしているみたい。お母さんが『ねえ、見て見て』って、わたしにこの新聞を差し出してきたときの上気した頬、潤んだ目、うわずった声、あれはまさしく恋している女の表情だったもの」
「いいじゃない。ほほえましくて。きっと、その太田さんの騎士ナイトぶりに惚れたのよ」
「お姉ちゃん、それ、本気で言ってるの?」
「いまは年齢に八掛けして考える時代だから、お母さんはまだ五十代後半と思えばいいの。それに、いくつになろうと、恋する気持ちが芽生めばえるのは人間として自然じゃない?」
 新聞記事のコピーをテーブルに置くと、麻里子は明瞭な声で言葉を紡いだ。「大体、信子、あなたはお母さんに厳しすぎない? もっと大らかに柔軟に考えてもいいと思う。お父さんが亡くなって一年くらいして、お母さんが『子猫を飼いたい』って言い出したときもそうだった。お母さん、一人暮らしで寂しかったのよ。わたしは、お母さんの好きにすれば、って勧めたけど、あなたは反対したよね」
「あれは、猫の寿命とお母さんの寿命を比べて・・・・・・」
「うん、そうね。猫の平均寿命は十六年。生まれたばかりの子猫をもらったとして、八十五歳になったときに、責任持って飼い猫の面倒を見られるのか。信子は、そんなふうにお母さんに迫ったのよね。それで、自信をなくしたお母さんは子猫をもらうのを断念した」
 信子の弁明を遮って、麻里子は話を続けた。昔から、低くてかすれぎみの自分の声に比べて高く澄み、声量も豊かな姉に、信子はコンプレックスを抱いていたものだった。
「あれは、お母さんの負担をおもんぱかって助言しただけよ。お母さんもお姉ちゃんも目先のことばかりにとらわれて、将来のことに全然目が向いていなかったから」
 信子は、精いっぱい声を張って反論した。「若いといっても、あと四年で後期高齢者よ。もしお母さんの体調が悪くなって、病院通いが始まったり、介護が必要になったりして、飼い猫の世話ができなくなったら、その猫はどうするの? 誰がかわりに面倒を見るわけ?」
「そのときはそのとき。そんな先の心配までしていたら、人生を楽しむことなんてできないじゃない」
「わたしは、別に飼い猫じゃなくたっていいと思ったのよ。現にいま、お母さんにはミーちゃんがいる。野良猫だけど、ほとんど地域猫みたいな存在で、お母さんのもとにも通ってきている。ミーちゃんがお母さんを充分癒してあげてるわ」
「そのミーちゃんが、お母さんと太田さんを結びつけたんでしょう? ミーちゃんが恋のキューピッドってわけね」
 皮肉っぽい切り返しでまぜっかえされて、信子の体内にたまっていた何かが爆発した。
「お姉ちゃんはいいわよ。家庭を持って実家から遠く離れた名古屋に住んで、何もせずに文句言うだけでいいんだもの。わたしがお母さんに厳しすぎるって? 当然じゃないの。だって、最後は全部、独身のわたしの肩に重くのしかかってくるんだもの。猫だって、あの家だって。そんな先の心配までしないで、かわいい子猫を飼えばいい? もし、その猫より先にお母さんが死んじゃったら、猫はどうするの? お姉ちゃんは、わたしが引き取ればいいと思っているんでしょう? そっちでは飼えないから。孝太君が猫アレルギーを持っているんだっけ? それとも、紗枝ちゃんのほう?」
 いままで抑えていたいろんな感情がこみあげ、言葉になってほとばしり出た。
「猫アレルギーなのは、守さんよ」
 と、気の抜けたような口調で夫の名前を言い、麻里子は口をつぐんだ。興奮状態の妹にいまは何を言っても無駄だ、と静観することに決めたのかもしれない。
「近い将来、実家の片づけだって、全部わたしに押しつけられると覚悟しているから、通うたびに、お母さんにはものを増やさないように口すっぱく言ってるわ。粗大ゴミを処分するのだって、生垣の手入れをするのだって、冷蔵庫の賞味期限の切れた食品を捨てるのだって、水まわりの傷みをチェックするのだって、全部わたしの役目よ。お姉ちゃんなんか何にもしないくせに。まったく、文句だけ言われて感謝もされず、損な役回りだと思うわ」
 気分が高ぶってさらに声がかすれ、最後はほとんど涙声になっていた。
 信子の脳裏に姉と同じ屋根の下で過ごした日々が、優秀な姉をお手本にして追いつこうと努力した日々がよみがえった。
「お父さんもお母さんももう諦めている」
「あなたたち、一生好き勝手にしなさい」
 と、両親は、三十間近になっても結婚する気配のない仕事中心の二人の娘のことを、冗談交じりに嘆いたものだった。
 麻里子は、大学卒業後に一流証券会社に就職した。その二年後に大学を出た信子も、大手の通信会社に就職した。姉に負けまいと学生時代に一生懸命勉学に励んだ成果が、就職活動に現れた形だった。三十歳を過ぎて、麻里子は主任のポストに就き、信子も重要な仕事を任されるまでになった。
「わたしたち、結婚なんか眼中にないものね」
「仕事さえあればいいよね」
「お互い、キャリアを積んで出世しよう」
「いずれは一緒に暮らそうね」
 そんな会話を楽しげに交わしていた、自他ともに認める仲よし姉妹だった。
 それなのに、麻里子は、ある日突然、そのキャリアを惜しげもなく捨てた。職場に転勤してきた有能な男との結婚を決め、その男の海外赴任に同行して、信子の前から姿を消してしまったのだ。
 結婚式の前に、麻里子がぽつりと漏らした言葉は、「だって、好きになっちゃったんだもの」だった。そして、「いつか、信子もわかる日がくるよ」と言い添えた。
 だが、その日から現在に至るまで、信子に「わかる日」は訪れていない。交際するような男性が現れないままに今日まできているのである。信子はいま、複数のシステムエンジニアをまとめるチームリーダーとして、休日出勤も出張も精力的にこなしている。
 同志と信じていた姉に裏切られたという思いは、いつになっても信子の内部から消えないのだった。
「わたしのほうは、まだしばらくは子供たちに手がかかりそうだけど、できるだけ時間を見つけて群馬に行くようにするから。お母さんのことを全部信子に押しつけてラクをしようなんて、これっぽっちも思ってないから」
 別れ際、玄関まで妹を見送った麻里子も、目を潤ませて言った。
(後編へつづく)

新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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