双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

引き際 (後編)

3 (承前)
「どうしたって・・・・・・ただ背の高いだけのおじさんに見えて、お父さんってすごい人だったんだな、って見直しただけ」
 せっかく自慢する機会を与えてあげたのに話に乗ってこない父親に軽く憤慨したのか、「わたし、友達と映画に行くから」と、テーブルの上のクッキーを一枚つまむなり、父親譲りの長身の娘は廊下に出て行った。
「一之瀬謙がついに引退を決意したのね」
 二人きりになるのを待って、律子はその話題を切り出した。イッケンの愛称で親しまれていたJリーガーの一之瀬謙が引退を表明したのである。もう家庭内でのサッカーの話題を解禁してもいいだろう。
「わたしたちと同じ四十八歳でしょう?」
「ああ」
「そのインタビュー記事って読んだ?」
「いや」
「読んでみたら?」
「いや、いい」
「興味ないの?」
 いいかげん、わだかまりを捨ててもいいではないか。少し腹が立って、律子は席を立とうとした。気分がむしゃくしゃしたときは、キッチンで水仕事をすると決まっている。
「会社にテレビ局から取材の申し込みがあったんだ」
 唐突に、良介が違う話題を切り出してきて、律子は動きをとめた。夫は、スポーツ用品メーカーに勤務している。
「何の取材?」と、椅子に座り直す。
「スポーツ特番でね、現役で活躍しているスポーツ選手たちが、過去を振り返って、人生の分岐点を語る。そんな企画らしい。それで、一之瀬謙の引退に合わせて、彼にも過去の思い出話を語ってもらおう、となったみたいだね」
「その打ち合わせの中で、彼の口からあなたの名前が出たのね」
「らしいね」
 新聞から目を離さずに、良介は気のない返事をする。
「どんなふうに番組を作りたいのかしら」
 制作サイドの意図を良介に推察させることによって、彼の現在の心境を探りたかった。
「まず高校時代の二人の活躍にスポットライトをあてるつもりなんだろう。一年生のとき、互いに全国高校サッカー選手権のベスト4に入って、同じ高一のミッドフィルダーとして注目された。二年のときは準決勝でぶつかり、前半でそれぞれシュートを決めた。後半、彼が追加点を決めた直後、俺もフリーキックをダイレクトに決めて・・・・・・。まるで二人の闘いのようだったね。PKをとってもう一点追加して、結局その試合はうちの高校が勝った。が、決勝に進出したものの惜しくも敗れた。一之瀬とは直接言葉を交わし合ったことはなかったけれど、心の中では三年での対決を約束していたと思う。ところが、その後、俺の身にアクシデントが起きた」
 アクシデント、と発したところで、良介はちゃかしたように両手を広げた。「知ってのとおり、不注意にも自転車で転倒、利き足の左足を骨折してしまった。事故そのものは自損で、人さまに迷惑をかけたわけじゃなかったのが幸いだったが、怪我の度合いは大きかった。半年間ほとんど練習ができず、三年ではベンチからもはずされて・・・・・・。一気に士気が下がったよ。一方、彼も三年の選手権には出なかった」
「ヨーロッパにサッカー留学したのよね」
 一之瀬謙――イッケンの経歴に関しては、サッカーに疎い律子もその程度の知識はある。
「ああ、西ドイツにね」
 国名を挙げてから、良介はそのあとを引き取るように流暢な説明を重ねた。「その後の彼の快進撃は周知のとおりだよ。二度のワールドカップ出場、Jリーグ年間最優秀選手賞受賞、得点王二回、ベストイレブンを三回受賞、通算J1最多得点、アジア年間最優秀選手賞受賞。四十代でJ1からJ2に移籍後も得点している。輝かしい業績だね。その一方、俺はサッカーからは足を洗って・・・・・・いや、その表現は適切じゃないな。サッカーからは遠ざかって、一浪して猛勉強の末に大学に入った。学生時代は頭からサッカーを締め出すために、あえてアメフト部を選んだ。部のコネもあって、大手スポーツ用品メーカーにめでたく就職が決まった。現在は商品企画部に所属して、ウエアやシューズなどサッカー関連の商品を手がけている。テレビ局としては、実戦的なサッカーからは離れたとはいえ、高校時代に争ったライバルがサッカー商品の企画開発をしているんだから、引退した一之瀬謙と並ばせたら、さぞかしおもしろい絵になるだろうと考える」
 その絵を想像している妻の様子をうかがうように言葉を切ってから、良介はさらに言い募る。「一之瀬謙はサッカー選手としては小柄で百七十二センチ。対してこっちは百八十八センチ。表舞台で成功して脚光を浴びたのは小柄な彼で、表舞台から去って裏方の仕事に回ったのが長身の俺。明暗を分けた青春時代。人生における分かれ道。アップとダウン。上り坂と下り坂。まさにおいしい企画じゃないのかな」
「そう」
 律子は、良介に悟られないように小さく吐息を漏らして、つぶやくように言った。「それだけ客観的に企画意図を分析できるんだったら、出ないほうがいいわね」
「いや・・・・・・出るよ」
 律子は、声を失った。夫のぶっきらぼうな受け答えや皮肉を含んだ口ぶりから、当然、テレビ局の取材は受けないものと思っていたのに。
「聞こえなかった? 出るよ。会社のPRにもなるしね」
「本心なのね?」
「どうしてうそをつく必要がある?」
 そう切り返して、良介は笑った。「とっくに吹っ切れているよ。おまえが気を遣っているのがわかっていたから、言い出しにくくてね。とにかく、いまの仕事は楽しい。あいつは引退したけど、俺はまだまだ現役で続けられる。というより、続けないと困るだろう?」
「あ・・・・・・ああ、うん、続けてもらわないと困るわ。子供たちの学費もあるし」
 胸に温かいものが渦巻くのを感じながら、律子は言葉を継いだ。「後悔していないのね?あのままサッカーが続けられていたら・・・・・・とは思わないの?」
「それは、あのとき怪我をしなかったら、と想像することはあるよ。だけど、自分の選んだ道は後悔していない。結局、俺にはサッカーに対する情熱が、一之瀬ほどにはなかったということだと思う」
 と、良介はきっぱりと認めて、「おまえのほうこそ」と、律子に矛先を返してきた。「後悔しているんじゃないか? あのとき、医者との見合いを断らなければよかったって」
「そんなふうに思うはずないわ」
 律子は、激しくかぶりを振った。
「だけど、もしおまえが医者と結婚していたら、お義父さんが亡くなったあとも、南雲医院は続いていたかもしれないんだぞ」
「たらればの話は、もうやめましょう。わたしも自分の選んだ人生に満足しているんだから」
 もう一度首を振って、律子もきっぱりと言い切った。罪悪感が百パーセントなくなることはないが、後悔はしないと決めている。
 遠い過去が脳裏によみがえった。高校時代、一度は医学の道をめざそうとしたこともあった。だが、医学部受験はハードルが高すぎたし、音大に進みたい気持ちも抑えられず、音大を受験した。卒業後に音響会社に就職して四年目、見合いの話が持ち込まれた。正一郎の母校の同窓会の紹介で、相手は同い年の研修医だった。
「医者の家系じゃないし、男兄弟三人の末っ子だし、将来、南雲医院に入ってくれそうな人なの。まじめな人柄らしいわ。どうかしら」
 と、母から見合い用の写真を見せられたが、すでに良介との交際が始まっていた律子は、写真をまともに見る気にもならなかった。良介との出会いは、それぞれの会社が協賛したスポーツ関係のイベントを通じてだった。
「会ってみるだけでも」と、しつこく急かされたので、「実はつき合っている人がいるの」と、実家に良介を連れて行った。それが、そのまま結婚の挨拶となったのだ。
 もちろん、正一郎は認めなかった。それから律子は勘当に近い扱いとなり、正一郎の気持ちがほぐれ始めたのは、孫娘が二人になったあたりからだったろうか。それでも、頑として娘の夫には会おうとしなかった。
「あのとき違う道を進む決断をしたからこそ、おまえとも出会えたし、子供たちにも恵まれた」
 妻が過去を回想しているのを察したのだろう。良介がしみじみとした口調で言った。「そして、お義父さんは、生涯現役でいたかったんだろうね。文字どおり倒れるまで仕事を続けた。立派だったと思うよ」
「そうね。わたしもお父さんのことは尊敬している。倒れるまで現役で居続けたい。プライドの高いお父さんらしいわ」
 律子も同意した。正一郎は、午前中に七人の患者を診察したあと、昼休みに脳出血で倒れ、意識不明に陥ったのだった。律子が駆けつけたときは、すでに息を引き取っていた。
 それぞれの思い出に浸っているのか、沈黙が続いた。
「今度、一緒にサッカー観戦しようか」
 沈黙を破ったのは、良介の誘いの言葉だった。
 上野から乗った電車は平日の昼間のせいかすいていて、有紀子は秀司と並んで座ることができた。
「何か参考になった?」
 膝の上でクリムト展の図録を開いている秀司に、有紀子は話しかけた。
 店の定休日は、夫婦で美術館巡りをするのが日課になっている。「絵画や彫刻を鑑賞するのも、アーケード街を歩いてショーウインドウをのぞくのも、道行く人たちが何に興味を持っているか知るのも、全部お菓子作りの参考になるからね」と秀司は言う。勉強熱心なその姿勢が有紀子は好きで、極力夫につき合うようにしている。
「君は?」
 と、秀司が先に有紀子の感想を求めてきた。
「とにかくきらびやかで女性的な絵だったよね。艶めかしい雰囲気の絵や無気味な感じの絵もあったけど、色のきれいさに目が奪われて、まったく気にならなかったわ」
「そうだね。金箔を使っていて、確かにきらびやかだった。遠近法を排除した平面的な画法で、日本の屏風にも通じている点がすごく参考になったよ」
 ウィーンの画家クリムトが尾形光琳の屏風絵に影響を受けたことは、図録にも記されていたが、秀司がそこにもっとも感銘を受けたと知って、有紀子は、なるほど、と思った。どこにいても、何をしていても、秀司の頭の中には幸作が先代から受け継いだ「和菓子」があるのだ。
 ――和菓子も洋菓子も、同じお菓子。お互いに歩み寄ればいいのに。
 やっぱり、婿養子の秀司のほうから「お義父さん、お願いします。和菓子作りを教えてください」と、頭を下げるべきなのかもしれない。そういう結論に達して、有紀子が切り出そうとしたとき、
「まだ時間があるから、もう一つ美術館に寄らないか?」
 と、秀司が誘ってきた。浦和の美術館にユニークな造形の椅子が展示されているという。反対する理由はない。木工作品にまで興味のある夫を誇りに思うだけだ。
 最寄り駅で下車し、階段を下りかけたときだった。駅のロータリーの前に人だかりができている。誰かが倒れて、それを通行人が取り囲んでいるようだった。
 途端に、秀司の足が動いた。階段を駆け下り、倒れていた中年の男性に駆け寄り、しゃがみこんだ。
「急に心臓を押さえて倒れたみたい」
「救急車、呼びました」
 まわりの人たちの声が有紀子の耳に入った。だが、倒れている男性にじかに手を触れたのは、秀司だけだった。
 迅速な動きで脈を診て、「大丈夫ですか?」と呼びかける。顎を上げさせて気道を確認し、数秒後には、男性の身体にまたがり、全体重をかけるようにして胸部を強く両手で押し始めていた。
 有紀子もわれに返って、AEDを探すためにその場を離れたが、「AEDが見つかったみたいよ」という声を耳にして現場に戻った。数人がその扱いに戸惑いながら、AED装置の袋に手をかけている。
 しかし、秀司は黙々と心臓マッサージを続けている。
「呼吸は戻りました」
 救急隊員が到着すると、秀司は手を動かしながら、隊員の一人を見上げて報告した。
「あなたは・・・・・・」
 隊員が怪訝そうな顔を向けてきたが、「一刻も早くお願いします」と、秀司は彼にバトンタッチすると、「行こう」と有紀子の腕を取り、その場から立ち去った。
 有紀子の喉はカラカラに渇いていた。秀司も汗だくになっている。
 美術館近くの喫茶店に涼みに入った。
「さっきの男性は、心臓発作を起こしたんだろう。身体に顕著な怪我は見あたらなかった。胸骨圧迫、いわゆる心臓マッサージによる呼吸の回復が必要で、一刻を争う。脳に三分間血流がいかないだけで、人間は危険な状態に陥ってしまう。少しでも早く心臓から血液を送り出してあげないといけないんだ。場合によっては、AEDより心臓マッサージが優先される。さっきがそうだよ」
 冷静に見えてやはり興奮していたようで、秀司はよどみなく説明すると、運ばれてきたグラスの水を一気に飲んだ。よほど喉が渇いていたのだろう。
「呼吸が戻ってよかったわね」
 有紀子も同じように一気に水を飲んだ。
「気がついたら、足が動いていたんだ」
 落ち着きを取り戻すと、秀司は照れくさそうな表情になった。
「当然よ。そういう血が秀司さんには流れているんだから」
 直截な表現を避けて、有紀子はそう言った。
 洋菓子職人になる前は、医師だった秀司である。洋菓子好きの友人が引き合わせてくれたのが秀司で、「彼女、老舗の和菓子店の一人娘なの」と、友人は有紀子のことを秀司に紹介した。
 最初のデートで、大学病院の勤務医から洋菓子職人に転身した経歴を知ったときは、ひどく驚いた。
「どうしてまったく違う道に?」と問うた有紀子に、「みんなそう聞きます」と、秀司は笑って答えた。「でも、一度きりの人生、心から好きなことを一生の仕事にしたかったんです」
 それから、秀司は堰を切ったように自分の生い立ちや心情を語ってくれた。秀司の生まれ育った家庭はごく普通の家庭で、父親は建設会社に勤めるサラリーマン、母親はパート勤めの主婦だった。男ばかり三人兄弟の末っ子の彼は、子供のころから一人だけ突出して成績がよかった。祖父母や両親だけでなく、学校の先生も彼に多大なる期待をかけた。
 根がまじめで素直な彼は、大人の期待に応えようと勉学に励んだ。勉強の合間の唯一の息抜きは、料理の上手な祖母の手伝いをすることだったという。祖母はお菓子作りが得意で、ドーナッツを揚げてくれたり、よもぎを摘んで草餅を作ってくれたりと、おやつはいつも手作りのものだった。
 高校、大学と、進路は両親と学校の先生に決められた。高校時代にまわりにライバルがいたこともあり、ただ彼らに負けたくない一心で、周囲に勧められるままに医学部受験を決めた。国立大の医学部に入って、医師になり、手先の器用さを生かして外科医の道を選んだ。
 大学病院での勤務は、過酷で多忙を極めた。そのストレス解消のために選んだのも、やはりお菓子作りだった。休みの日に自宅でクッキーを焼いたり、ケーキを作ったりして、病院に持っていき、看護師たちに喜ばれたこともあったという。ところが、お菓子作りにのめりこみすぎて、余技のつもりが本気になってしまった。
 ――自分には、医師より菓子職人のほうが向いている。
 ――本当に進みたかったのは、こちらの道だ。
 自分の心の声に耳を傾けた結果、秀司は三十歳で転職を決意したという。
 そして、病院を辞めて、製菓の専門学校に通い、銀座の洋菓子店に就職した。
「秀司さん、医者を辞めたことを後悔していない?」
 有紀子は、クリムトの図録の表紙に視線を落としている秀司に聞いた。彼が過去を振り返っているのが、その細めた目の表情からわかったからだ。
「後悔なんかしてないよ」
 秀司は即答し、「全然」と、首を左右に振った。「もちろん、君の家に入ったこともね」
 医師の職を捨てた時点で、秀司もまた家族から勘当同然の扱いを受けていた。それで、かえって老舗和菓子店の一人娘との縁談がスムーズに進んだのだった。
「だけど、医者の娘とのお見合いの話、受けようとしたことがあったんでしょう?」
 そのエピソードは、交際を始めて少したったときに秀司が打ち明けてくれた。
「ああ。でも、見合いをする前の段階で断られたと話したよね。たぶん、見合い写真が彼女のお眼鏡にかなわなかったんだろう」
「お眼鏡にかなわなくてよかったわ」
 有紀子は、おどけて眼鏡をかけるまねをして言い、微笑んだ。
 足早に美術館の展示物を鑑賞して、家に帰ると、母から連絡があった。母には娘のお迎えを頼んである。「定休日だけど、二人揃って店に出てきて」と言う。息子の下校時間はまだ先だ。
 クリムトの図録を手にした秀司と一緒に店に出向くと、定休日なのに幸作が仕事着である白衣を身につけていた。
「お父さんが話があるそうよ」
 母が言って、孫娘の相手をするために奥に引っ込んだ。
「そろそろ潮時だな」
 と、幸作が秀司に顔を向けて言った。
 有紀子は、秀司と顔を見合わせた。
 ――潮時とは、ものごとを始めたり終わらせたりするのにちょうどいい時機。
 その言葉の意味を理解して、有紀子は思った。キャリアを積んだベテラン和菓子職人の父である。自分の舌の衰えを自覚できないはずがなかったのだ。
「お義父さん、よろしくお願いします」
 秀司の顔が緊張を帯びて引き締まった。
(第三話 終わり)

新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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