双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

絶縁 (後編)

(承前)
 結婚十年目に、お義父さんが心筋梗塞を起こして亡くなりました。会社を定年退職して年金生活に入っており、趣味の釣りや畑仕事などをして穏やかに過ごしていましたが、まだ七十一歳、早すぎる死でした。お義母さんの存在感が強すぎて、どこか置物のように感じられていた人でした。
 お義母さんが一人暮らしになったのを機に、裕二さんの家族は実家をリフォームして同居することになりました。
 あの一件以来、わたしは浩美さんと距離を置くようになっていました。お義父さんの葬儀のときも事務的な会話を交わしただけで、あちらが目を合わせないようにしているのがわかりました。もちろん、幸三さんの実家でもあるからときには顔を出しましたが、夫婦二人でと決めていました。瑞江さんの実家に「マスオさん」状態でいた伸一さんは、母親のことは次男に任せたから安心と思ったのか、実家とは疎遠になりつつありました。
 お義父さんが亡くなった直後、「大事な話がある」と幸三さんに切り出されて以来、わたしたちは将来設計を真剣に考えたのです。
「和ちゃんをお母さんにしてあげられなくてごめん」
 と、幸三さんは、「大事な話」の内容を語り始めて、「もし本気で子供がほしいのなら、もう時間はあまりない。離婚してもいいよ。和ちゃんはほかの健康な男性と再婚すればいい」と、驚きの提案をしたのです。
「子供がいなくても幸三さんと一緒なら、わたしは幸せ。ずっと二人でいたい」
 幸三さんとの縁を切ることなど考えられません。わたしが強い意志を伝えると、幸三さんはわたしを抱き締めて、「ずっと家族でいようね」と、耳元でささやいてくれたのです。
 わたしは職場ではベテランの部類に入っていたし、幸三さんも責任の重いポストに就いていました。これからは、それぞれの仕事を生きがいにしながら、二人で過ごす時間も大切に生きていこうと誓い合いました。
 ところが、幸せな日々は長くは続きませんでした。その五年後に、幸三さんはあっけなくあの世に旅立ってしまいました。出張先のホテルで突然死したのです。心臓発作を起こしての死だったので、やはり心臓の不調で亡くなった父親と体質が似ていたのかもしれません。
 大きな喪失感とともに深い悲しみが襲ってきたのは、葬儀を終えて家で一人になってからでした。いかに幸三さんの存在が大きかったか、思い知らされました。けれども、悲しみに浸ってばかりはいられなくなったのです。
 息子を失ったお義母さんの悲しみもわたしと同様に深かったのですが、異質なものでした。
 幸三さんとわたしには子供がいなかったので、幸三さんの遺産は配偶者のわたしとお義母さんが相続することになります。アパートから賃貸のマンションに住み替えており、住宅ローンなどはありません。持ち家にこだわらなかったのは、「ぼくたちには子供がいないから、残す財産などはない。定年後には二人の好きな地に住んで、好きなところに旅行しよう」という彼の自由な考え方に賛同したからです。持ち家はなかったけれど、「二人だけなのだから、ぼくに何かあったときのために」と、幸三さんは妻を受け取りにした生命保険に入ってくれていました。死亡時六千万円の高額なものです。
 お義母さんは、「母親のわたしには息子の財産をもらう権利がある。法律どおり幸三の財産の三分の一きっかりちょうだい」と要求してきました。もともとそのつもりだったので、「今後もお義母さんのお世話をお願いします」という意味もあり、裕二さんと浩美さんの立ち会いのもと遺産分割協議書を作成し、幸三さんの預貯金のほぼ全額をお義母さんに譲渡しました。
 しかし、お義母さんはそれでは満足できなかったみたいでした。夫を亡くしてから次男の家族と暮らしていたお義母さんにもそれ相応のストレスがかかっていたのでしょうか、抑えていた感情がわたしに向かって噴出され始めました。
「幸三は生命保険にも入っていたんじゃないの?」と眉をひそめて言われ、「死亡時の受け取りは妻のわたしでした」と答えても、「その三分の一もよこしなさい」とさらに要求しました。知り合いの税理士さんから法律的な説明をしてもらって、ようやく納得したようでしたが、わたしに向けられる感情は敵意に近いものでした。
「あなたと結婚したのが、幸三の不幸だった」
「幸三は子供も産んでもらえなかった」
「あげくの果てに、幸三の財産までも奪っていった」
 などとひどい言葉を浴びせられ、わたしは気がおかしくなりかけました。
 天職とも思える仕事があったのが救いでした。看護師の仕事に打ち込んでいるあいだは、いやなことは忘れていられます。
 ところが、それからほんのひと月後。夜勤を終えて早朝に戻ると、マンションのエントランス前にお義母さんが荷物を持って立っているではありませんか。寒くなり始めた季節でした。
「お義母さん、どうなさったんですか?」
「家出してきたのよ。伸一のところはあちらのご両親がいるから行くわけにはいかないし、ここしかなくてね。ひどいのよ、浩美さんって。わたし、いままで我慢してきたんだけど、もう限界。孫の世話を押しつけて、自分は友達に会うとかサークルだとか出歩いてばかりいて、好き勝手にやって。それを裕二も黙認していて。あそこはわたしの家なのに、子供たちが成長したからって、日当たりのいい部屋を譲れだなんて……」
 お義母さんが堰を切ったように嫁の愚痴をこぼし始めたので、「とにかく入ってください」と部屋にあげました。
 落ち着かせてから、お義母さんの家に電話をしましたが、電話口に出た裕二さんは、「おふくろもうちのもいまは熱くなっているから、ほとぼりが冷めるまでしばらく預かってよ」と、のんきなことを言います。
 一週間が限度でした。次の休みに車でお義母さんを家まで送り届けると、「これ、お義母さんのお小遣いに」と、五十万円入った封筒を裕二さんに渡しました。浩美さんは家の奥に引っ込んだまま、出てきませんでした。
「おふくろのこと、今後どうするか、兄貴のところも加わって、今度みんなで話し合いを持とうと思うんだ。また連絡するから」
 帰りがけに裕二さんにそう言われたけれど、わたしの中では「今度」は存在しても、「今後」はもう存在しなかったのです。さっき渡したのは手切れ金のつもりでした。
 それからのわたしの行動は、まるで夜逃げ同然でした。不動産屋に飛び込むと、目星をつけておいた中古マンションの購入手続きをしました。即入居可という物件です。幸三さんが遺してくれた生命保険金があったし、わたし名義で住宅ローンも組めます。一日休みをもらっただけで、業者に頼んで断捨離を兼ねた片づけをしながら、あわただしく引っ越しを済ませました。
 驚いたのは、伸一さんと裕二さんです。
「電話が通じなかったから、前のマンションに行ったら、引っ越したあとでびっくりしたよ。何で連絡くれなかったの? 水くさいじゃないか」
 自分の実家からは足が遠のいているくせに、こういうときは長男風を吹かせる伸一さんです。そのころには携帯電話も持っていましたが、番号は教えていませんでした。居場所を突き止められても不都合はありません。転居届は出していたので、新しい住所はわかってしまいます。
「事情は後日、お話しします。裕二さんも『今度みんなで話し合いを持とう』と言ってましたから」
 新しいマンションに現れた伸一さんにそう告げて、その話し合いの日を待ちました。
 そして、当日。一通の書類をバッグにしのばせて、わたしは裕二さんの家に行きました。伸一さんと瑞江さんも、子供たちを瑞江さんの両親に預けて集まっていました。浩美さんとお義母さんも加えて、六人が顔を揃えたわけです。
「うちは彼女の両親がいるから無理として、裕二のところと和子さんのところ、二軒で半年ずつおふくろを預かるというのはどうかな」
 自分たちに都合のいい非現実的な提案を最初にしてきたのは、伸一さんでした。
「和子さんのマンションは中古といっても3LDKでしょう? お義母さんの部屋もあるんじゃない? ほら、うちはリフォームしたとはいえ、もとが古いから部屋数が少なくて。子供部屋もひと部屋ずつほしいし、お義母さんに窮屈な思いをさせるのも悪いし」
 と、伸一さんの提案は受け入れられないというふうにかぶりを振りながら、浩美さんも提案してきました。
「縁は切れました」
 深く息を吸い込んでから一気に吐き出すと、わたしは言いました。そして、五人それぞれの目に複雑な色が宿るのを見てとって、言葉を重ねました。「わたしは、幸三さんを通して篠原家のみなさんとつながっていました。その幸三さんが亡くなり、わたしと幸三さんとの夫婦関係は形の上では終わりました。でも、心はつながっています。一生つながったまま、縁は切れないと思います。だけど、みなさんとの縁はわたしの意志で切ることができます。ここに姻族関係終了届の用紙があります。必要事項に記入して役所に提出すれば、わたしはみなさんと縁を切ることができるのです。当然、死んだ幸三さんの母親を扶養する義務もなくなります」
「そんなの……」
 浩美さんが、わけがわからないというふうに眉根を寄せて言いよどみ、
「篠原家のお墓は守ってくれないの?」
 と、お義母さんがとんちんかんな話題に言及したので、
「幸三さんは、わたしたち夫婦で買ったお墓に入っているじゃないですか」
 まずは、お義母さんに向かって答えました。都心にあるビルの中の納骨堂をわたしたちは購入していました。姻族関係が終了すれば、篠原家代々のお墓をお参りする必要もなくなります。幸三さんの死だけ悼んで、墓参すればいいのです。
「離婚によって配偶者の親戚との関係は切れるけど、死別によっても切れる場合があるのよ。配偶者がそう望めばね。誰にも止める権利はないの」
 それから、浩美さんへと向いて説明すると、あっけにとられている篠原家の五人を前に、わたしは席を立ちました。
 浩美さんがその場で、いじめに加担したわたしの恥ずかしい過去を暴露するかと心配したけれど、彼女は何も言わないままでした。やさしくて正義感が強いという彼女の息子の話も、わたしは信じてはいなかったのです。浩美さんの作り話であった可能性が高いと思っていました。なぜなら、あの優等生的なエピソードを聞いた直後、彼女の息子にひどいいたずらをされたからです。お義母さんの家を訪問したあと、玄関のわたしの靴に画鋲がびようがいくつか入っていて、はいた瞬間、「痛っ」と顔をしかめたわたしを、階段の上から「やったあ」と小学生の悪ガキがあざ笑ったのです。いじめっ子は、浩美さんの息子のほうだったのかもしれません。
 それで、わたしと浩美さんの親戚関係も終了したのでした。
 それから三年間、篠原家とは音信不通になっていました。「関係の修復を求めたり、接触してきたりしたら、警察に届けます。もう他人なのですから」と、脅しに近い言葉で釘を刺しておいたからかもしれません。
 旧姓に戻すこと、つまり復氏ふくうじ届を出すことも考えましたが、幸三さんと同じ姓のままで一生を終えたい気持ちが強かったので、それはやめました。
 浩美さんとの親戚関係も切れたとなったら、気分がさっぱりして、中学校の同窓生からの誘いにも出て行く気になりました。同級生が四人顔を合わせた席では、わたし以外の誰も浩美さんの近況を知っている者はいなかったのでホッとしました。
 かわりに話題に上ったのは、久本美恵子さんのことでした。現在は、結婚して友野姓になっているといいます。
「美恵子さん、すごいのよ。子供が四人もいて、小中学校とPTA活動を一生懸命やってね。ほら、あの人、弁舌さわやかだから。仕切り役や司会役がうまかったじゃない。それで、PTA会長を何期かやって、いまは市の社会教育委員を務めているんですって」
「いじめっ子だったのに、すごいよね。少しもそんな素振りを見せなくて」
「いじめといえば、美恵子さんの母親と浩美さんの母親の職場トラブル、あれって美恵子さんのお母さんの誤解だったみたいよ。細かいことに気がついて仕事のできる浩美さんのお母さんを美恵子さんのお母さんがやっかんで、仕事上のミスを指摘されたことを悪口言われたって広めたらしくて」
「今度、美恵子さん、PTAの合同成人教育委員会で講演するんですってよ。共通のテーマは『学校でのいじめについて』。皮肉な話よね」
 そんな会話から、はからずも美恵子さんの近況を把握することができたのでした。
 PTAの合同成人教育委員会の講演会というのは、郷里の隣の市で開催される予定で、一般の人の応募も受けつけていました。わたしは、興味本位で申し込んでみました。旧姓ではなく篠原姓ですし、あれからずいぶん歳月を経ているから、美恵子さんが見てもわたしとはわからないはずです。それでも、気づかれては大変、と薄い色のサングラスをかけて会場に入り、後方の席に座りました。
 会場は女性ばかりです。各学校のPTA委員会から動員されたママさんたちなのでしょう。プログラムを見ると、友野美恵子さんは五人講演者がいるうちの三番目で、演題は『いじめによる不登校を防ぐために』となっています。
 最初の講演者は、どこかの元校長という男性で、演台に立った彼の横に少し離れてもう一人女性が並びました。この種のPTAの講演会では、耳の不自由な人のために手話通訳者がつくと聞いたことがありますが、彼女がその役目の女性のようです。
 黒子のような存在ゆえに、講演が始まってしばらくは彼女の正体に気がつきませんでした。気づいたときは、息を呑みました。手や指先の動きがよく見えるようにと黒っぽい地味な服を着て、黒縁の眼鏡をかけて、大きく口を開けて手先を動かしている女性は、浩美さんでした。
 浩美さんが手話サークルに入ったと聞いたのは、もう十年以上前でしょうか。長年手話を習ってきて、だいぶ上達しているはずだから、こういう公の場で活躍するまでになっていても不思議ではありません。だけど、よりによって今日のこの日に……。
 そう思って、わたしはハッと胸をつかれました。偶然などであるはずがありません。浩美さんはこういう機会が巡ってくるのを待ち望んでいたのではないか、と思い至ったのです。
 二番目の講演者が降壇し、美恵子さんの番になりました。四十代半ばになった美恵子さんは、目立つ黄色のブラウスに紺色の上着を合わせて、にこやかに登壇し、演台の前に立ちました。遠くからでもわかるような濃い化粧が、彼女を華やかに若々しく見せています。
「いじめられる子に罪はありません。罪はつねにいじめる側にあります」
 そんな印象的なフレーズから始まったスピーチには人を惹きつける力がありました。深くうなずきながら聞き入っている聴講者も多く見られました。
 ところが、そんな雰囲気がある箇所で一変したのです。中ほどの席でざわめきが生じ、悲鳴に近い声まで上がりました。その直後、そのあたりの席にいた数人がバタバタと会場から出て行きました。
 美恵子さんは騒ぎの起きた席あたりに視線をやり、顔をしかめると、一瞬話すのをやめましたが、しばらくして演説を再開しました。
 その後は何ごともなく進み、十五分ほどで美恵子さんのスピーチは終わったのですが、退席した人たちが気になったわたしはホールに出てみました。
 ホールのソファでうずくまっている女性と、慰めるようにその肩を抱いている女性がいて、まわりを数人が取り囲んでいます。
「何かあったんですか? わたしは看護師ですが」
 気分が悪くなった仲間を介抱している姿に見えたので、そのうちの一人の女性に聞くと、「彼女は聴覚障害者なんです」
 と女性が言い、「手話通訳を通して講演を聞いていたら、『いじめられる子にもいじめられるだけの理由がある。一方的にいじめる子が悪いと決めつけるのはおかしい』と言ったそうで……。そんなことは言ってませんでしたから、たぶん、手話の間違いだと思うんですけど。彼女は、耳が聞こえないことでいじめられた経験があって、それで動揺してしまったみたいで」
「そうなんですか」
 話を聞いて、間違いなんかではない、とわたしは確信しました。浩美さんが美恵子さんのスピーチの内容の一部を、悪意を持って改変して伝えたに違いありません。
 その場ですぐに騒ぎが広がることはなくとも、時間がたてば、聴覚障害者や付き添いの人たちから講演者の美恵子さんに非難の声が寄せられる可能性は高い。浩美さんはそれを期待したのでしょう。
 でも、いずれは、誤って手話通訳したことがわかってしまいます。となれば、今度は手話通訳者としての浩美さんの力量が問われ、もう二度と声がかからなくなってしまうかもしれません。
 ――そこまでして、浩美さんは美恵子さんに復讐したかったんだわ。
 いじめられた傷は三十年たっても癒えていなかったことを、わたしは悟りました。
 五十歳を区切りにわたしは病院勤務を辞め、訪問看護師として地域医療に貢献する道を選びました。毎朝九時に訪問看護ステーションに出勤し、スタッフと情報共有を行い、一日の予定を組みます。
 その日は午前中に二軒、自宅療養の患者の家を訪問する予定が入っていました。
 一軒目の患者は、合併症により糖尿病を患っている八十五歳の男性で、インシュリン注射をしてから、家族も交えて患者への食事指導を行いました。通い慣れたお宅で、家族とも懇意にしています。
 二軒目は、はじめて訪問するお宅です。表札を見て、少しだけ胸がうずきましたが、それを払拭するように首を振ってから、門扉の呼び鈴を押しました。
「こんにちは。訪問看護ステーションからまいりました篠原です」
 はい、とインターホンで応答した女性の声にそう応じると、少し間があってから、「お待ちしていました」と女性は答えました。
 玄関に出迎えた女性は、わたしの顔を見ると、驚いたように目を見開きました。名字を聞いて、あれ、とは思っていたかもしれません。
「篠原登美子さんの看護にまいりました」
 と、わたしは事務的に告げました。口にしたのは、かつてわたしの姑だった人の名前です。
「よろしくお願いします」
 と、この家のお嫁さん――浩美さんもわたしにならって事務的に返しました。
 介護用のベッドが置かれた部屋に通されると、ベッドには八十歳の老女が横になっていました。わたしは鞄からファイルを取り出して、既往症を確認するために医師のカルテやケアマネージャーの記録に目を通しました。この患者さんには膠原病の持病があり、服薬を続けていたけれど、半年前に脳梗塞を起こして入院し、退院後は半身に麻痺の残る身体でリハビリを続けながら自宅療養をしている、とあります。
「こんにちは、篠原登美子さん」
 わたしが呼びかけると、患者さんは不思議そうな目を向けてきました。頭はすっかり白髪で、身体は枯れ木のように痩せ細っています。
「少し前から認知症の症状が現れて、自分の名前を忘れることがあるんですよ。ときどきわたしのこともわからなくなるみたいで」
 と、隣で浩美さんが患者の日ごろの様子を報告しました。「『あなた、わたしの本当の娘でしょう?』なんて言ったりするんです」
「そういうときは、どう答えるんですか?」
 わたしは、ふと聞いてみました。
「『ええ、そうよ』って答えます」
 浩美さんは、薄く笑いました。
 いま手話のボランティア活動を行っているかどうか、彼女に尋ねてみたかったけれど、その質問は控えました。美恵子さんのスピーチの「誤訳手話」騒動のその後のことは、中学校の同級生から情報を仕入れて知っていました。あのあと、誤訳された件で浩美さんが所属していた手話サークルに美恵子さんから抗議の電話があったけれど、浩美さんが「控え室で話していた内容と混同して、本番でうっかり『本音』のほうを手話で通訳してしまいました」と説明したら、それ以上追及してはこなかったそうです。
 美恵子さんは、その電話ではじめて手話通訳者の名前を聞いて、その正体に気づいたのかもしれません。それで、沈黙することに決めたのでしょう。
「では、嚥下えんげ指導から始めましょうか。登美子さんは、食べ物を飲み込む力が弱まってきているようですから」
 かつて「お義母さん」と呼んでいた女性に、わたしは語りかけました。家族や親戚縁者より、赤の他人のほうがやさしくできる場合もあります。いまのわたしがそうです。
「わたしにも教えてください。看護師さんと同じくらいに、お義母さんの世話ができるようになりたいので」
 そう言って身を乗り出した浩美さんの横顔を、わたしは見つめました。同級生でなくなり、親戚でもなくなった彼女と、次はどんな関係を築けるかしら、と思いながら。
(第二話 終わり)

新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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