双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

永久とわ(後編)

(承前)
「どうしたって・・・・・・」
 磯村は、眉根を寄せて首を横に振ると、「もう無理じゃないかな」と言葉を継いだ。
「大丈夫よ。奥さんに堕ろしてもらえば」
「そんなことできるはずないよ」
「できなければ、産んでもらえばいいじゃない」
「・・・・・・」
「産んでもらって彼女に育ててもらって、あなたは養育費を払えばいい」
「・・・・・・」
「わたしたちは結ばれる運命にあったのよ。出会うのがちょっと遅かっただけ。奥さんだって、いずれそれに気づくわ。奥さんにとってあなたは運命の人じゃなかったのよ。奥さんの相手はほかにいるの。だから、探してもらえばいい。そして、あなたは父親として責任を取りさえすればいいの」
「そんな・・・・・・」
 磯村は口をぽかんと開けていたが、美希にはなぜ彼がそんな表情をするのかわからなかった。
 ――わたしたちの愛を終わらせてはならない。わたしたちの愛は永遠だから。
 子供のころに読み聞かせてもらった昔話には「おしまい」があったけれど、二人の物語に「おしまい」はない。死が二人を分かつまではずっと一緒だ。
 しかし、磯村のほうは決心がつかないのか、いつものように美希のアパートで交じわり合ったあとも、眉間にしわを寄せて視線を宙に泳がせていることが増えた。
「奥さんのことが気になるの? 大丈夫よ。一時的に傷ついても、やがて立ち直るわ」
「あ・・・・・・ああ」
 うわの空でいる磯村を見て、これは強硬手段に出るべきだ、と美希は考えた。本気度を形で示さなければ。あと戻りできない状況に彼を追い込まないことには。
 いまは何でもインターネットで情報が入手できる時代だ。早速、目的のサイトを探した。
 予約を入れたその日、自宅で身体を清めてから、美希はその場所へ向かった。
 ――こんなはずではなかった。
 足元に横たわる動かない美希を見下ろしながら、磯村は後悔のため息をついた。どこがどう間違って、こんなことになってしまったのだろう。
 最初は、ほんの遊びのつもりだった。一人でショットバーに通う女であれば、男慣れしているだろうと考えたのだ。見た目がおとなしい女ほどひと皮むけば大胆ということもありうる。
 美希と出会ったあの日は、気分がむしゃくしゃしていた。妻の妊娠がわかったのがひと月半前で、それから夜の営みを拒絶され続けていた。
 妻はずっと子供をほしがっていた。磯村は、できなければできないでいい、くらいに思っていたが、時間がたつにつれ子供に対する妻の執着は強くなっていった。
「よくそんな気分になれるわね。赤ちゃんがここにいるのよ。そんな汚らわしいことはできない。子供の教育上よくないわ」
 妊娠が判明するなり俄然母性に目覚めた妻は、セックスはもとより、手を使っての愛撫さえもおかしな理屈をつけて拒んだ。
 欲求不満がたまりにたまってどうかなりそうな夜だったのだ。うさ晴らしにはじめてのショットバーに入り、美希と出会った。彼女の豊満な胸を見た途端、磯村は性欲を制御できなくなってしまった。その日に関係が生じた。それからは、週末に美希のアパートで密会するようになった。
 既婚者であることは、最初に関係を持ったときに打ち明けたのだ。美希もそれを承知の上でつき合っているものと思い込んでいた。友達のいない口の堅い女は、秘密裏につき合うには都合がよかった。しかし、妻の妊娠のことも続けて打ち明けたときに、彼女の反応に磯村は愕然とした。それがどうしたの? という平然とした態度に開いた口が塞がらなかった。
 ――思い込みの激しいサイコ女だ。
 彼女が「運命の人」とか「赤い糸」などと口にするたびに、磯村は戦慄を覚えるようになった。妻の妊娠中の一時的な性欲のはけ口のつもりでつき合い出したのに、相手に本気になられて計算が狂った。
 ――このままでは妻にも会社にも知られてしまう。どう関係を絶てばいいのか。
 思案した末に、「妻をこれ以上裏切れない。別れてほしい」と、頭を下げてお願いするしかないという結論に行き着き、これが最後と決めて美希のアパートへ行った夜だった。
「ねえ、見て」
 と、ガウン姿で出迎えた美希は、磯村の前ではらりとガウンを脱ぎ捨てた。
 全裸だった。磯村は息を呑んだ。
「いいでしょう?」
 最初に右肩を、次に左肩を突き出して、美希が陶然とした表情で言った。「わたしのあなたへの愛は永遠。その愛情の証しを刻印したのよ」
 右上腕部にはローマ字で「K」と、左上腕部には漢字で「圭」と、磯村の名前が色彩鮮やかに彫り込まれていた。
「自分の身体を傷つけるなんて、どうかしてるよ。どうしてそんなことを・・・・・・」
「だから、言ったでしょう? 永遠の愛を肌に刻み込むためよ」
 ――俺を一生縛りつける気か。
 歪んでいる、狂っている、と磯村は思った。費用は出すからそんなタトゥーはすぐさま消してほしい、と懇願した。だが、美希は、「いやよ。せっかく入れたのに」と、笑ってかぶりを振るばかりで取り合わない。
 彼女の両腕に刻まれた自分の名前を、その忌まわしい刻印を消したい一心だった。
 
 気がついたら、美希の身体は磯村の足元で動かなくなっていた。揉み合いになって、口論になって、彼女の口元に浮かんだ嘲笑のような笑みを消そうと、細い首に手を伸ばしたのまでは覚えている。あとは無我夢中で・・・・・・。
 ――どうすればいいんだ。
 このままでは、自分の犯行だと知られてしまう。彼女の両腕には磯村の名前が刻まれているのだから。
 磯村は、解体するために死体を風呂場に運んだ。
「何か違うのよね」
 苛立ちとともにそう声に出すと、立木たちき涼子はキーボードを打つ手をとめた。どうも筆が乗らない。もう一つ事件にのめりこめず、書いたものに納得がいかない。
 フリーライターの涼子は、芸能週刊誌に連載を持っている。実際に起きた事件をもとにノンフィクション風の短い小説にまとめるのが彼女の仕事だった。小説の最後には「最近の事件をヒントにした創作です」という一文が入れられるが、それが逃げとなって、実際の事件に大胆な推理を加えたり、脚色を施したりすることが可能になっている。もちろん、登場人物はすべて仮名で、事件が起きた場所や事件の関係者が勤務していた会社の業種なども変えている。
 今回も涼子は、雑誌編集部から送られてきた事件の資料や、自分の足を使って関係者を訪ね歩き、取材して得た情報などを参考にして小説の形に置き換えた。
 ところが、どこかしっくりこない。今回の事件がいままでのそれと違うのは、加害者の男性――浅野道雄も、被害者の女性――松下理恵子も、どちらも死んでいるということだった。つまり、当事者の供述が得られないということである。
 ――なぜ、浅野道雄は松下理恵子を殺害し、遺体をバラバラにして山中に遺棄せねばならなかったのか。
 松下理恵子が住んでいたアパートの部屋と近隣を警察が捜査した結果、防犯カメラの映像や部屋から検出された指紋などから、浅野道雄の犯行であることは疑いようのない事実とされた。二箇所から発見された遺体を検死した結果からも、彼の犯行であるのは明白になっている。しかも、浅野道雄は後日、山中で自殺している。遺書はなかったが、その状況から見て、人をあやめてしまい、自責の念に駆られてか、警察の捜査に追い詰められての自殺であるのはこれまた明白だ。
 犯行の動機も経緯も闇の中というはじめてのケースに、涼子は頭を悩ませながらも、体内から活力があふれ出てくるのを感じていた。なぜなら、それだけ自分の推理力が発揮できるからだった。
 ――松下さん、今年は温泉には入らなかったですね。
 ――毎年春にある健康診断も今年は受けなかったから・・・・・・。
 涼子は、松下理恵子の同僚の話から、「彼女は身体に刺青をしていたのではないか」と推察した。タトゥーを見られたくなくて温泉にも入らず、健康診断も受けなかったのではないか。
 刺青が入っていた箇所は、おそらく両腕だろう、と涼子は思った。だから、両腕だけまだ発見できていないのだ。浅野道雄は、遺体のほかの部分とは別の発見が困難な場所に両腕を遺棄したに違いない。腐敗が進み、刺青が判別できなくなる状態まで時間を稼ぐために。
 ――わたしの推理に間違いはない。
 そういう自信はあるのだが、作品の物足りなさは否めない。被害者の子供時代のエピソードをもっと生かす書き方があると思えてならないし、「メイン読者のサラリーマン層にうけるような官能描写を増やしてほしい」と、デスクに強く要求されるのも必至だ。
「うーん、どうしよう」
 うなりながら原稿を読み返していると、夫が会社から帰ってきた。
「どう? うまく進んでる?」
 リビングの片隅で原稿を書いている涼子の手元をのぞきこむ。
「ああ、これは応募原稿じゃないの」
 画面を消して、涼子は言った。
「次の小説推理新人賞、受賞できるといいね」
 そう声をかけて、夫が洗面所へ向かった。
 涼子は、夫を呼び止めようとしてやめた。言いたいことはいくつかあった。たとえば、先週末、残り少なくなっていたトイレットペーパーを新しいのと取り替えてなかったこと。たとえば、けさ、もうほとんど使いきった感のある練り歯磨きを「まだ出る」と言わんばかりに、ラミネートチューブをぎゅっと絞って底を折りたたんだ形で洗面所に置いていたこと。それは涼子が使いきったと見なして、ゴミ箱に捨てたものだった。ゴミ箱から拾い上げてふたたび使うとは・・・・・・。
 ――でも、細かいことには目をつぶろう。円満な夫婦生活のためにも。
 涼子は、心の中でため息をつくだけにとどめたのだった。トイレットペーパーを取り替えたのも、新しい練り歯磨きを出しておいたのも、ついでにハンドソープを容器に補充しておいたのも涼子である。
 二年前まで、涼子は夫と同じ会社に勤めていた。ゲーム制作会社で、終電で帰るのがあたりまえのような職場だった。
 夫のほうから「結婚したい」と言ってきた。アラフォーの二人である。子供もほしい。結婚するにあたって、涼子は彼に条件を出した。
「仕事を辞めていい? わたしには推理作家になるという夢があるの。家事はするから、経済面で支えてね」
 その要求が受け入れられて結婚し、主婦として家事をしながら、空いた時間に応募原稿をせっせと書いている。去年応募した作品が某ミステリ新人賞の候補になったのがきっかけで、出版社に入った学生時代のミステリ研究会の先輩から「週刊誌の仕事をしないか」と声がかかった。夫の給料は上がらない。家計を助けるためにも、フリーライターの肩書きでお金がもらえるのはありがたい。今年に入って妊娠がわかり、もうじき子供も生まれる。ぎりぎりまで仕事をしたいが、腹部がせり出してきたからもう取材は無理かもしれない。昨日の産婦人科の検診で、お腹の子の性別が女の子と判明した。だが、まだ夫には告げていない。
 風呂から上がる夫に合わせて、涼子は夕飯の用意をした。早い時間に肉じゃがと味噌汁は作ってある。それを温めて、冷蔵庫から野菜サラダと酢の物を出せばいい。
「歯磨き粉、新しいのが出してあったね」
 パジャマに着替えた夫がダイニングに入ってきた。「俺さ、ラストになるのがだめなんだよな」
「えっ、どういう意味?」
「俺でおしまい、俺で終わり、ってなるのがいやでね。それで、歯磨き粉もゴミ箱から拾って使った。無理すればまだ絞り出せるよ。涼子が次に使ってから捨ててよ」
「それならそうするけど、どうしてラストになるのがいやなの?」
「小学生のときにさ、地域の野球チームに入ってて、けっこう強かったんだ。力が拮抗していたライバルチームと対戦して、七対三で九回の裏、俺たちのチームにチャンスが巡ってきた。ソロホームランとヒットで一点差まで追い上げて、ツーアウトでバッターボックスは俺。意気込んだ。ツーストライクスリーボールでラスト一球。満塁だったから、フォアボールで押し出しの可能性もあったのに、完全なボール球を振ってしまって、空振り。そのとき、『ああ、おまえで終わった』と言われ、それから『終わった』を縮めて『オワタ』があだ名になった。中学校に行っても、同じ小学校の野球組にはそう呼ばれてね。『おお、オワタ、元気か』ってね」
「へーえ、そうなの。それがトラウマになってるのね。はじめて聞いたわ」
「はじめてしゃべったからね」
 夫は自虐的に笑った。二人は結婚式を挙げなかったから、夫の小中学校時代の友達に会う機会もなかった。
「その話、おもしろいね。わたしの小説に使ってもいい?」
「いいよ。君の作品がいいものになるなら」
 夫は快く承諾した。
 ――本当に、夫という存在は、創作のいろんなヒントをくれるわ。
 食卓に向かい合いながら、涼子は心の中でつぶやいた。
 「磯村」こと浅野道雄の男性心理を描く場面でも、夫の日ごろの言動からヒントをもらった。腹部の膨らみが目立ち始めたころから、涼子はセックスを控えることに決めた。医師からそう指導されたからでもあった。食は細いが性欲は旺盛な夫である。頼まれれば、自分の手で彼の性的な高まりを鎮めてあげることも多々ある。
 そして、そのころから夫の言動に不審な点が見られるようになった。休日出勤が増えた感があるし、寝言で二度「ミキ」と、妻ではない女性の名前を呼んだりしたのだ。
「昨日の検診で、この子の性別がわかったのよ」
 と、いまこの場で夫に言うことにした。「どっちか知りたい?」
「生まれてからのお楽しみ、のほうがいいかな」
「そう」
 知りたくないのなら黙っていよう。が、「でも」と、涼子は言葉を継いだ。「もし、女の子だったら、『ミキ』って名前をつけようかと思うんだけど、どう?」
「えっ?」
 夫の顔色が明らかに変わった。箸を持つ手も震えている。
「わたしにとっての『最後の男』になるのがいやなわけじゃないよね?」
 夫は声を失っている。
 ――これで大丈夫。
 涼子は、内心でほくそ笑んだ。釘を刺しておいたから、女遊びはもうやめるだろう。目をつぶれないことだってある。明日は、今日よりもっといい原稿が書けそうだ。
(第一話 終わり)

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新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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