双葉社web文芸マガジン[カラフル]

ジ・エンド(新津きよみ)

イラスト:浦上和久

死ぬまでにしてほしい五つのこと (後編)

 ――お母さんの味であるぬか漬けを、また食べてみたい。
 それが、尚子の三つ目の「お願い」だった。
 その願いを聞いたとき、隆子の胸に苦い後悔の念がこみあげた。台所の床下にぬか漬けの大きなかめがあり、死んだ母が大事に管理していたのは知っていたが、母が亡くなった直後は教務主任として研究発表で忙しい時期でもあり、ぬかの手入れを怠っていたのだった。
 気がついてかめを開けてみたときは時すでに遅しで、得体の知れないカビがびっしり生えていた。それで、<わたし一人きりだし、手入れするのも面倒だし、もう食べないから>と、かめごと処分してしまった。
 結婚後の尚子は、熊谷に帰省するたびに、「お母さん、ぬか漬け食べたい」と、母に漬けたきゅうりやなすをせがんでは、おいしそうにぽりぽり食べていた。「じゃあ、ぬかを分けてあげるから少し持っていけば?」と母が勧めても、「それはいい。英史ひでふみさん、ぬか漬けの匂いが苦手だから」と、夫の漬け物嫌いを理由に断わっていた。
「あのとき、わたしが分けてもらっていればよかったかも」
 母のぬか床がもうこの世にないことを尚子が残念がり、「市販のぬか床を買って、お母さんの味に近づけるしかないかしら」と、隆子が代案を考え始めたときだった。
「どこかにないかな」と、尚子がつぶやいたのを耳にして、
 ――そうだ、床分けした家があったはず。
 不意に思い出した。
 隆子と尚子の母は、上田市に近い長野市の出身だったが、八十歳になるまでは同窓会に出席するため、長野市まで出かけていた。年に一度、温泉旅館に泊まっての一泊二日の同窓会を楽しみにしていた。あれは、いつの年の同窓会だったか、帰宅した母が「お母さんの持っていったぬか漬けがとても喜ばれてね。『床分けしてほしい』って友達まで現れたのよ」と、得意げに話していたものだ。
 床分けするためのぬかを厳重に梱包して送る手配をしたのは隆子だったから、送り先の「新開」という名前は覚えている。母の遺品の中から住所録を抜き出して、「新開照子」の住所を控えた隆子は、でも、と躊躇した。母と同い年だとすれば、現在、九十歳近い年になっているはずだ。存命でない可能性もある。
 ――そのときはそのとき、また別の案を考えよう。
 そう思って、とにかく近くまで行ってみることにした。新幹線で長野駅まで行き、駅から新開照子宅に電話をかけると、電話口で応じたのは男性の声だった。
「母は去年亡くなりました。ぼくは息子の昭人です」
 隆子が用件を伝えたら、ぬか床はまだ現役だそうで、「駅まで車で迎えに行きますよ。うちにいらしてください」と言う。「それでは申し訳ないです。住所がわかりますから、タクシーでまいります」と急いで告げて、答える間も与えずに電話を切った。
 新開昭人の家は、善光寺の裏手の小高い場所にあった。隆子は、追い風を受けたような意外な急展開に自分でも驚いていた。
 何と新開昭人は、門の前で待っていて、まるで隆子が彼自身の小中学校の同級生であるかのごとくに親しげに迎え入れてくれたのだった。
 畳の部屋にソファが置かれた居間に通されて、持参した熊谷銘菓の「五家宝ごかぼう」を渡すと、新開昭人は慣れた手つきでお茶の用意をしてくれた。
「お母さんのことは、死んだ母からうかがっていました。女学校時代は仲がよかったのに、その後ずっと連絡を取り合わないでいたとか。それが、何十年もたって再会してから、また親しく話すようになったんでしたよね」
 新開昭人は、そう言って微笑んだ。笑うと糸のように目が細くなる。そこに、人のよさが表れているように隆子は感じた。
「女同士のつき合いって、往々にしてそういうことがありますよね」
 隆子はそう受けると、先日の長谷部真美の話を思い返した。尚子と仲のよかった時期もあれば、疎遠になっていた時期もあった。
「それにしても、よくお母さまのぬか漬けの手入れをきちんとされていましたね。手入れをされたのは……」
 彼の妻なのか、と訝って、遠慮がちに部屋を見回したが、誰と住んでいるのかはうかがい知れない。
「ああ、実は、母が亡くなってから半年間、すっかり忘れていたんですよ。床下にかめを放置していました」
「えっ?」
「いやあ、お恥ずかしい。中身を見るのが怖くてね。自分で開けて見る勇気がなかったものですから、中学の同級生に頼んで開けてもらったんですよ。家庭科が得意だった元同級生女子にね」
「中身は無事だったんですか?」
 無事という表現はおかしかったかしら、と隆子は思った。
「ええ。同級生は友達を連れてやってきたんですが、二人がかめを開けてみたら、奇跡的にぬかはカビもなくてきれいでね、中には野菜がいっぱい入っていました。母が倒れる前に漬けておいた野菜です」
「お母さまは、ご病気で?」
「脳梗塞で倒れて、一週間後に亡くなりました」
「そうですか」
 隆子の母親と同じだ。
「ずっと独身で来たから、それまで家事は母に頼りきりでした。料理などはしたことがなかったのに、いきなりぬか漬けから始めようなんて、無謀もいいところですよね。だけど、どうしても母のぬか床を受け継ぎたくて、女性陣に教えてもらって、何とかおいしく漬けられるようになったんですよ」
「毎日、ぬかをこねているんですか?」
「ええ、すっかり、ぬかみそくさい男になっています」
 目を細めて笑ってから、「そうだ、召し上がりますか?」と聞くなり、新開昭人は腰を上げた。「きゅうりと大根が、ちょうどおいしく漬かっているころですよ」
「へーえ、『ぬか床の君』ってわけね」
 話を聞き終えると、尚子はそう言ってちゃかした。
「何よ、それ」
「だって、新開さんって、お姉ちゃんと同じで独身なんでしょう? いい雰囲気じゃないの」
「一度会ったきりよ」
 しかし、一度会っただけでも伝わってくるものはある。なぜぬか床を分けてほしいのか、事情を伝えた隆子に、闘病中だという妹について根掘り葉掘り質問してこなかった点にも好感が持てた。
「でも、初対面でぬか漬けを食べさせてもらうなんて、あんまりないと思うよ。それだけ、お姉ちゃんに心を許したんじゃない?」
「ぬか床をもらう目的で行ったんだもの、味見するのは当然でしょう? わたしのことはどうでもいいの。それより、どう? お母さんの味がするでしょう?」
 隆子は、漬け物が載った皿を指さした。新開昭人から分けてもらったぬか床を使って二日間漬けたきゅうりとなすを、密閉容器に入れて持ってきたのだった。
「うん、お母さんの味そのもの。すっごくおいしい。お姉ちゃん、ありがとう」
 目を見開き、両手を広げて、尚子は感謝の気持ちを表したが、きゅうりをふた切れとなすをひと切れしか食べていない。昔は、きゅうりのぬか漬けなら丸ごと一本食べたのに。
「もっと食べたら?」
「ああ、うん。最近、食べ物がなかなか下に降りていかなくてね」
 腹部を手で押さえながら肩をすくめた尚子を見て、隆子は胸が締めつけられた。やはり、食欲が徐々に落ちてきているのだろう。前回訪問したときより少しやせたように見えるのも、気のせいではないのかもしれない。
「それで、次のお願いは?」
 妹に残された時間が短いなどとは想像したくなかった。だが、つい気が急いて、隆子は四つ目のそれが何かを聞いた。
「ある人の近況というか、いまどうしているか、見てきてほしいの」
 尚子は、窓の外に目をやって言った。庭にあるハナミズキの白い花が、その生命力を誇示するかのように咲きこぼれている。
 ――そのある人は、男性だろう。
 妹の寂しげな横顔を見て、隆子は直感した。彼女が夫の態度に不信感を抱いていることには、かなり前から勘づいていた。過去に何度か浮気をされ、それを追及しても、そのたびにうまくはぐらかされてしまう、と尚子は嘆いていたものだ。
「ねえ、尚子」
 それで、気になっていたことを切り出そうとしたのだが、
「何?」
 と、顔を振り向けたときの妹の口元に、無理やり貼りつけたような笑みがあるのに気づいて、「ううん、何でもない」と話すのをやめたのだった。
 ――白川光章しらかわみつあきさんの現在の姿を見てきてほしい。
 それが、尚子の四つ目の「お願い」だった。
 短大時代、尚子に交際を申し込んできた男性だったという。いまの夫である英史しか眼中になかった尚子は、容姿が自分のタイプではなかったこともあり、まだ英史との交際が始まっていなかったにもかかわらず、「ごめんなさい」と即刻断わった。
 けれども、<もし、あのとき、彼の申し出を受け入れていたら>とか、<もし、交際が結婚にまで発展していたら>と考えることがある、と尚子は語った。
「英史さんとは大学で同期だったけど、おとなしくて目立たなくて、輪の中心から離れて、いつも遠くからこちらを見ているような人だったの。それだけに、わたしに交際を申し込んだのも、たぶん、清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気を振り絞ってのことだったと思う。ふとした瞬間に、ああ、あの人、いまどうしているだろう、とその後の彼の人生に思いを馳せるのよ。人生にはいろんな分岐点があって、あのとき右の道を選んでいたらとか、左の道を選んでいたらとか考えるようにね」
 ――もし、英史ではなく、白川光章と結婚していたら……。
 体力が低下して自由に外を歩き回れない尚子は、もう一つの道を選んだ自分を想像しているのだろう。それで、迫りくる死の恐怖から逃れることができるのであれば、手を貸してあげたい。隆子は、そう考えた。
 白川光章は英史と大学が同じで同期だったというから、尚子が夫の本棚にある卒業名簿を見れば現住所がわかる。
 尚子の夫に知られずに白川光章の近況を知るには、探偵のまねごとをしなければならないのか、とちょっと気が重くなりかけたのを顔色で察したのだろう、「まわりくどいことをしなくても大丈夫」と言って、尚子はコピーした紙を隆子に渡した。
 セミナーの案内で、「ライフプランセミナー 定年後の過ごし方」とあり、講師の名前が「白川光章」になっている。肩書きは「スパイスアドバイザー」だ。
「ネットで検索していて、たまたま見つけたの。略歴にあった年齢や大学名を見て、本人だとわかったわ。受講資格は六十歳以上だって。お姉ちゃん、わたしのかわりにそのセミナーに出てみて」
 高齢化社会でもあるし、定年後の生き方に興味を持っている人は多いのだろう。その種のセミナーは全国各地で開かれているらしく、早速申し込んだが、白川光章が講師を務めるセミナーもまだ定員には達していなかった。
 セミナー当日、隆子は、スパイスに関して何の予備知識も持たずに立川へ行った。JR立川駅の近くの雑居ビル内が会場になっていた。八割がたが女性で、中には七十代後半から八十代と思われる女性もいる。
 時間どおりに現れた講師の白川光章は、小柄で貧弱とも思える身体つきだったが、「みなさん、私を見てそうは思えないかもしれませんが、毎日の食生活にスパイスを取り入れているおかげで、この十年かぜ一つひかない健康体です」という挨拶で始めて、場を和ませると同時に、スパイスの利点を上手にアピールして、受講生たちの心をつかんだ。
 隆子もその一人で、気がついたら、最初の目的も忘れて、一般の受講生のようにスパイスについて講義する白川講師の説明を熱心にノートにとっていた。カレーに入れるターメリックやタイ料理に使うナンプラーなどのスパイスは知っていたが、月桂樹のスパイスが古代ギリシャでは神経痛に効くとされていたことや、マジョラムというハーブの一種に血圧降下作用があって、不眠にも効くという知識にははじめて触れた。白川講師は、受講生たちにマジョラムの葉を回覧させて、その香りもかがせてくれた。
「みなさんの中には、スパイス香辛料ソムリエ資格認定試験を受けられる方もいるかと思います。定年後を楽しく有意義に過ごすために、認定試験の合格をめざすような明確な目標を立ててみるのもいいでしょう」
 そんな言葉で締めくくられた講習会が終了し、受講生たちが帰り始めたのを見て、隆子は白川光章のもとへ行った。
「何か質問ですか?」
 机の上の資料をまとめていた白川光章は、手を止めて隆子を見た。
「あの……」
 講義の内容についてではなかったが、聞きたいことがあった。「白川先生は、ぬか漬けはお好きですか?」
「ぬか漬け……ですか?」
 白川光章は、一瞬、怪訝げに眉を寄せたが、すぐに笑顔になって、「好きですよ」と答えた。
「そうですか」
「でも、どうして……」
「いえ、スパイスとハーブのスープが腸内の乳酸菌を育てる、というお話をうかがっているうちに、ふっとわが家のぬか漬けが浮かんできて。スパイス好きな人は、発酵食品のぬか漬けも好きなんじゃないかな、と思ったんです」
「ああ、そうかもしれません。うちでも家内が漬けていますから」
「奥さまが? そうですか。先生は何がお好きで?」
「なすも好きですけど、よく漬かったかぶが一番好きかな」
 そんな会話を交わしたのちに、「お時間とらせてすみません。ありがとうございました」と帰ろうとした隆子に、「よかったらどうぞ」と、マジョラムの葉を数枚載せたてのひらを差し出してきた。
「シソの葉のような香りがする」
 マジョラムの葉をしばらくかいでいた尚子は、そう言って鼻から葉を遠ざけると、「それにしても、不思議ね」と言葉を継いだ。「白川さんは、英史さんと同じ経済学部の出身だったのに、入った会社によってその後の人生に大きな違いが生じるんだもの」
「そうね」
 と、隆子も言った。大学を卒業して大手食品会社に就職した白川光章は、世界各国の香辛料の商品開発に一途に携わってきたという。仕事に必要だからといち早くスパイス香辛料ソムリエ資格を取得し、六十歳で定年退職してからは、再任用制度に応じずに、在社中にヨーロッパや東南アジアの国々を渡り歩いた経歴を生かして、各地でスパイスや香辛料に関する講演会や講習会を開いている。「一人でも多くの人に、スパイスや香辛料が食生活をいかに豊かにするか知ってほしいし、そのおいしさを広めたいから」と、講習会の中で語っていた。
 対して、英史は、六十歳で世間も羨むほどの退職金をもらって本社を定年退職後、条件のいい子会社の顧問職に就き、「週に何回か顔だけ出していればいいんだ」という効率的でのんびりした働き方を選んで、ほぼ毎週末どこかの接待に呼ばれるのを楽しんでいる。
「お姉ちゃんも大胆だね」
 尚子は、思い出したように笑って言う。「白川さんにぬか漬けが好きかどうか聞くなんて」
「個人的に話してみたくなったのよ」
 尚子のために、とはつけ加えられなかった。
「わたし、何となくわかっていたよ。白川さんがぬか漬けを好きだって」
「昔、聞いたことがあったの?」
「まさか。直感でわかっていたの。英史さんは、漬け物の匂いがダメで、癖のある香辛料も苦手な人でしょう? パクチーなんて存在からして許せないと言うし。白川さんは、英史さんとは正反対の人のような気がしていたの。だから、もし……」
 ――白川さんと結婚していたら、食べ物の好みが一緒で、価値観も同じだと思うから、きっと、いまより楽しい生活を送ることができていたかもしれない。
 尚子が言いかけてやめた言葉の先を、隆子は心の中で引き取った。
 英史と結婚したことを、尚子が後悔しているとしたら、いまがあのことを言うべきときではないか、と隆子は思った。
 ――尚子、あのね、いままで黙っていたけど、わたし、英史さんが女の人と一緒に歩いているのを見ちゃったの。肩を抱いてホテルに入っていくのも……。
 しかし、やっぱり、死が迫っているかもしれない尚子に言うことはできない。何も知らないままに人生の幕を閉じたほうが幸せかもしれない。
 隆子は、喉元まで出かかったそれらの言葉を呑み込んだ。
 新幹線で長野駅に着き、待ち合わせの店に駆けつけると、カウンター席にいた新開が笑顔になって手を挙げた。
「お疲れさま。さあ、一杯」
 走ってきて汗をかいた隆子を見て、店の主人が黙ってカウンターに置いたグラスにビールを注ぐ。
 乾杯し合って、二人はビールを飲んだ。
「串焼きもどうぞ」
 新開が注文しておいた串焼きが盛られた皿を、隆子のほうに押し出す。
 串焼きは好きだが、今日は食欲がない。昨夜、あんな手紙を読んだせいだろうか。
「で、妹さんのご主人は、どんな反応だったの?」
 新開は、声を落として隆子に聞く。
「かなり進行が早いみたいでね。わたしのこともわからなくなって、『尚子』なんて呼んで妹と間違えることがあったんだけど、その尚子が死んで一年たったことさえもうわからなくなっていて」
 隆子は、今日、英史が入っている都内の施設に行き、尚子の一周忌法要を終えた報告をしてきたのだった。
「君も大変だね」
 新開はため息をつくと、労うようにまた減った分のビールを隆子のグラスに注いだ。
「智也も早苗もまだ子供が小さくて手がかかるから、わたしがかわりに通ってあげているだけよ」
「それにしても……」
 言いかけたが、自分が口を出す問題ではないと思ったのか、新開は口をつぐんだ。喪が明けて正式に籍を入れるまでは、と遠慮して家族の問題に深入りしようとしなかった彼の姿勢も、隆子は好ましく思っていた。
 それから、二人は黙ってビールを飲んでいた。
 隆子は、尚子の四つ目の「お願い」を聞いてあげてから昨日までの日々を振り返った。
 隆子が白川光章と会った三週間後に、尚子は天に召されていった。
 尚子が言ったとおり、前日まで普通に会話をしていて元気な様子だったのに、その日突然体調が急降下して、眠るように息を引き取ったのだった。
 尚子の葬儀を終えてからひと月後に、英史が自動車事故を起こした。居眠り運転の末、ハンドル操作をあやまって電柱に衝突するという自損事故だったが、その事故で英史は頭を強打、腕と足を骨折して入院した。思いのほか長期の入院となり、筋力が落ちて、その怪我がきっかけとなったのか、退院後、まだ六十代半ばだというのに認知症の症状が現れ始めた。離れて暮らしていた二人の子供は、妻を失って一人になった父親の様子を見に、定期的に通ってきていたが、認知症が進んだのを見て、どちらの家からも通いやすい場所にある施設に父親を入所させた。
 ――わたしが死んで一年が過ぎたら読んでね。
 それが、尚子の五つ目――最後の「お願い」だった。
 白川光章が講師を務めるセミナーに出席した数日後。「最後のお願いだから」と言って、尚子から渡されたのが手紙だったのだ。
 渡しはしたものの、尚子は「すぐには読まないでね」と言い、「一年が過ぎたら」という条件をつけた。
 なぜそんな条件をつけたのか、皆目真意がわからなかったが、隆子は妹の言うとおりにしようと決めた。
 ――みんな、元気にしていますか?
 婚約者の新開も参列した尚子の一周忌法要を済ませた昨日、隆子は尚子の手紙を開封した。その質問には、<残念だけど、英史さんは元気じゃないわ。でもね、嬉しいこともあったの。あのあと、早苗のところにも子供が生まれたのよ>と心の中で答えた。
 ――お姉ちゃんは、まだ一人ですか?
 次の質問には、<あなたにだいぶ遅れをとったけど、もうじき結婚する予定よ>と、やはり心の中で答えた。
 隆子と同い年の新開は、長野市内の精密機器の会社を定年退職したあと、再雇用制度を利用して勤務し続けている。本人は、六十五歳まで勤めると言っている。
 隆子は、結婚したら、長野市の彼の実家に住むつもりでいる。そして、英語塾でも開いて子供たちに教えようと思っている。いずれ、熊谷の家は処分することになるだろう。
 ビールを飲む新開の横顔を見つめながら、隆子は、尚子から託された手紙の二枚目以降の文面を思い出していた。
 お姉ちゃんに怒られるかもしれませんが、わたしのしたことをここに書きます。
 英史さんが毎朝、車で出勤する前に、ビタミン剤を二錠飲む習慣をお姉ちゃんも知っていますよね? 瓶に約三か月分の錠剤を入れているのです。残りが半分くらいに減っているのを確かめて、そこに二錠だけ睡眠導入剤を混ぜました。わたしが医師から処方された錠剤です。
 そのとき、わたしは自分の死期を悟っていました。死期が迫った猫が家から姿を消してしまうことがあるといいますよね。人間も同じで、死期がわかるのです。ビタミン剤の瓶を見ながら、もう先が長くはないと思い、計画を実行することにしたのです。英史さんは、瓶に異質な錠剤が混じっているのに気がついて、排除するかもしれないし、気づかずに飲んでしまうかもしれません。
 お姉ちゃんもうすうす気がついているかもしれませんが、英史さんには親しい関係の女がいます。ふたまわりも年下の女です。あの人は、いつも女にモテていないと気がすまない性格の男なのです。病気になったわたしには、もう愛するパワーがないと見なして、表面上はやさしい顔をしていますが、内心では見捨てているのです。冷酷な人です。
 お姉ちゃんがこの手紙を読んでいるいま、英史さんはどうしていますか?
 経済力もあり、年齢を重ねて渋みも出てきたとはいえ、男としての機能が衰えて、世話を焼かなくてはいけなくなったら、計算高い女は簡単に去っていくでしょう。万が一、わたしの死後に彼の身に何かが起きても、わたしはもう死んでいるのだから、疑われることはありませんよね。そう、アリバイ成立です。
 とはいえ、現実は、推理小説のようにそんなにうまくはいきませんよね。
 お姉ちゃん、いままでありがとう。
 この手紙を読んでいるいま、お姉ちゃんが新開さんと結婚していればいいな、と思っています。死んだお母さんから新開昭人さんのことは聞いていたのです。ぬか床を旧友の新開照子さんに分けたことも。「うちの息子、いまだに独り者なの」と、あちらのお母さんがうちのお母さんに嘆いていたとか。
 新開昭人さんのことを語るときのお姉ちゃん、嬉しそうだったから、きっと結婚までこぎつけているでしょうね。
 お姉ちゃん、わたしの分まで幸せになってね。そして、わたしの分まで長生きしてね。
(了)

新津 きよみKiyomi Niitsu

長野県生まれ。青山学院大学卒業後、旅行代理店勤務などを経て、88年に作家デビュー。心理描写の巧みなサスペンス、日常に潜むホラーに定評があり、『二重証言』『女友達』『トライアングル』『ふたたびの加奈子』など映像化作品も多い。近著に『夫以外』『シェアメイト』『二年半待て』『誰かのぬくもり』などがある。

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